学生と教養
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著者名:倉田百三 

     一 倫理的な問いの先行

 何が真であるかいつわりであるかの意識、何が美しいか、醜いかの感覚の鈍感な者があったら誰しも低級な人間と評するだろう。何が善いか、悪いか、正不正の感覚と興味との稀薄なことが人間として低卑であることはそれにもまして恥じねばならぬことである。人の道、天の理、心の自律――近くは人間学的倫理学の強調するような「世の中の道」にまでひろがるところの一般の倫理的なるものへの関心と心得とはカルチュアの中心題目といわねばならぬ。人生の事象をよろず善悪のひろがりから眺める態度、これこそ人格という語をかたちづくる中核的意味でなければならぬ。私はいかなる卓越した才能あり、功業をとげたる人物であっても、彼がもしこの態度において情熱を持っていないならば決して尊敬の念を持ち得ないものである。その人生における職分が政治、科学、実業、芸術のいずれの方面に向かおうとも、彼の伝記が書かれるときには、あのワシントンのそれのように、小学校の教科書には「彼は偉大にして、善き人間なりき」と書かれるようにありたいものである。自分如きも、青春期、いのちの目ざめのときの発足は「善い人間」になりたいということであった。「最も善い人間が最も幸福でなければならぬ」と自分は思った。自分はまだそのときカントの第二批判を知らなかったが、自分のたましいの欲するところはとりもなおさずカントの至完善(フォルコンメンデスゲート)の要請であったのである。人間の倫理的養成がいかにわれらの禀性に本具しているかはこれでも思いあたるのである。その青春時代学芸と教養とに発足する時期において、倫理的要求が旺盛であるか否かということはその人の一生の人格の質と品等とを決定する重大な契機である。倫理的なるものに反抗し、否定するアンチモラールはまだいい。それはなお倫理的関心の領域にいるからだ。最も許しがたいのは倫理的なものに関心を持たぬアモラールである。それは人間としての素質の低卑の徴候であって、青年として最も忌むべき不健康性である。健康なる青年にあってはその性慾の目ざめと同時に、その倫理的感覚が呼びさまされ、恋愛と正義とがひとつに融かされて要請されるものである。
 さてかような倫理的要請は必ず倫理学(エティク)という学に向かうとは限らない。一般に科学というものを知らなかった上古の人間も学としての形態の充分ととのっていない支那や日本の諸子百家の教えも、また文字なき田夫野人の世渡りの法にも倫理的関心と探究と実践とはある。しかし現代に生を享けて、しかも学徒としての境遇におかれたインテリゲンチャの青年にあっては、その倫理的要請は倫理学というひとつの合理的なる学に向かうということはきわめて自然なことである。自分の如きもその過程をとった一人であった。
 上述の如く倫理学の研究にはまず人生の事象についての、倫理的関心と情熱とが先行しなければならぬ。そしてその具体的研究の第一着手は倫理的な問いから発足しなければならぬ。問いはすべての初めである。しかもまた問いはその解決でさえもあるのだ。ハイデッガーが「問いは何ものかへの問いとして『問われているもの』を持っている」といってるように、問いの中にすでにその事柄の本質が横たわっているのである。問いなくして倫理学の研究に着手することは無意味である。また問いこそその討究を真剣ならしめる推進機である。いかに問うかということ、その問い方の大いさ、深さ、強さ、細かさがやがてその解答のそれらを決定する条件である。故に倫理学の書をまだ一ページもひるがえさぬ先きに、倫理的な問いが研究者の胸裡にわだかまっていなければならぬ。そして実はその倫理的な問いたるや、すでに青年の胸を悩まし、圧しつけ、迷わしめているところの、活ける人生の実践的疑団でなくてはならないのだ。
 かくてこそ倫理学の書をひもどくや、自分の悩んでいる諸問題がそこに取り扱われ、解決を見出さんとして種々の視角と立場とより俎上にあげられているのを見て、人事ならぬ思いを抱くであろう。たといそれは充分には解決されず、諸説まちまちであり、また結論するところ自分を完くは満足させてくれなくとも、ともかくも自分の関心せずにおられぬ活きた人生の実践的問題がとりあげられ、巷間の常識ではそのままうち捨てられているのに、ここでは鋭い問いを発し熱心に討究されているのを見出しては、わが身に近く感じずにはいられない。この身に親しいインティメイトな感じが倫理学への愛と同情と研究の恒心(コンスタンイン)とを保証するものなのである。

     二 倫理学の入門

 倫理学の祖といわれるソクラテス以来最近のシェーラーやハルトマンらの現象学派の倫理学にいたるまで、人間の内面生活ならびに社会生活の一切の道徳的に重要な諸問題が、それを一貫する原理の探究を目ざしてとりあげられていないものはない。しかし初学者が倫理学研究の入門として、上述の倫理的問いをもって発足するには、やはりテオドル・リップスの『倫理学の根本問題』などが最もいいであろう。もっともこれはコーヘンとともに新カント派のいわゆる形式主義の倫理学であって、流行の「実質的価値の倫理学」とは相違した立場であるが、それにもかかわらず、深い内面性と健やかな合理的意志と、ならびに活きた人生の生命的交感とをもって、よく倫理学の本質的に重要な諸根本問題をとりあげその解決、少なくとも解決の示唆を与えているからである。この本は生の臭覚の欠けたいわゆる腐儒的道学者の感がなく、それかといって芸術的交感と社会的趨勢とに気をひかれすぎて、内面的自律の厳粛性の弱くなったきらいがなく(現象学派には多少この傾きがなくもない)意志の自律性を強靭に固守する点で形式的主観的でありながら、人間行為の客観的妥当性を強調して、主観的制約を脱せしめようと努め、また学的には充分な生の芸術的感覚の背景が行間に揺曳して、油気のない道学者の感がないからである。
 初学者はこの書によって入門し、倫理学の根本課題の所在と、その解決の諸方途との手引きを得ることを自分は薦めたい。
 私のこの稿は専門の倫理学者になる青年のためではなく、一般に人間教養としての倫理学研究のためであるが、人間の倫理的疑問及びその解決法は人と所と時とによって多様であるように見えても、自ら、きまった、共通なものである。まずその概観を得るがいい。それとともに倫理学史を読むべきだ。これは古今を縦に貫いて人間の倫理的思想が如何に発展し、推移して来たかを見るためである。後なるものは前なるものの欠陥を補い、また人間の社会生活の変革や、一般科学の進歩等の影響に刺激され、また資料を提供されて豊富となって来ている。しかし後期のものがすべての点において前期のものにまさっているとはいえない。ある時代には人性のある点は却って閑却され、それがさらに後にいたって、復活してくることは珍しくない。そしてその復活は元のままのくりかえしではなく必ず新しく止揚されて、現段階に再登場しているのだ。その二千五百年間の人間の倫理思想の発展と推移とを痕づけることは興味津々たるものである。
 倫理学史にはフリードリッヒ・ヨードルの『倫理学史』、ヘンリイ・シヂウィックの『倫理学史の輪郭』、ニコライ・ハルトマンの『独逸観念論史』等がある。邦文には吉田博士の『倫理学史』、三浦藤作の『輓近倫理学説研究』等があるが、現代の倫理学、特に現象学派の倫理学の評述にくわしいものとしては高橋敬視の『西洋倫理学史』などがいいであろう。しかしある人の倫理学はその人の一般哲学根拠の上に築かれないものはないから、倫理学の研究は哲学及び哲学史の研究に伴わねばならぬのはいうまでもない。しかしここではそれには触れない。
 倫理学の根本問題と倫理学史とを学ぶときわれわれは人間存在というものの精神的、理性的構造に神秘の感を抱くとともに、その社会的共同態の生活事実の人間と起源を同じくする制約性を承認せずにはいられない。それとともに人間生活の本能的刺激、生活資料としての感性的なるものの抜くべからざる要請の強さに打たれるであろう。この三つのものの正当なる権利の要求を、如何に全人として調和統合するかが結局倫理学の課題である。

     三 文芸と倫理学

 人生の悩みを持つ青年は多くその解決を求めて文芸に行く。解決は望まれぬまでも何か活きた悩みに触れてもらいたいために小説や、戯曲に行く。それはもとより当然である。文芸はこの生の具象的な事実をその肉づけと香気のままに表現するものだからだ。少なくともそこにはかわいた、煩鎖な概念的理窟や、腐儒的御用的講話や、すべて生の緑野から遊離した死骸のようなものはない。しかし文芸はその約束として個々の体験と事象との具象的描写を事とせねばならぬ故、人生全体としての指導原理の探究を目ざすことはできぬ。それ故一定の目的をもって文芸に向かうものにとっては、それは活きてはいるが低徊的である。それは行為の法則を与えようとしない。行為そのものを描く。ときとしては末梢的些末事と取り組んで飽くことを知らない。人生を全体として把握し、生活の原理と法則とを求めるものは倫理学に行くべきだ。これは文芸に求めるのが筋ちがいだからだ。もとより倫理学は学としての約束上概念を媒介としなければならぬ。文芸の如く具象的であることはできない。しかしすぐれた倫理学を熟読するならば、いかに著者の人間が誠実に、熱烈に、条理をつくして、その全容を表現しているかを見出して、敬慕の念を抱かずにはいられないであろう。それは文芸の傑作に触れた感動にも劣るものではない。そしてその感染性とわれわれの人格教養の血肉となり、滋養となり、霊感とさえもなる力もまた文芸の作品に劣るものではない。ただ文芸には文芸の約束があり、倫理学にはその特殊の約束があるのみである。カントの道徳哲学を読んで人間理性の自律の崇高感に打たれないものはないであろう。
 倫理学は人間行為の指導原理と法則とを与えようとするのみならず、また学者の個性をも表現する。コーヘンの『純粋意志の倫理学』と、ギヨーの『義務と制裁のない倫理学』とを比較するならば、その個性の対比は文芸作品の個性の差異の如くいちじるしい。所詮倫理学は死せる概念の積木細工ではなくして、活きた人間存在の骨組みある表現なのである。この骨組みの鉄筋コンクリート構造に耐え得ずして、直ちに化粧煉瓦を求め、サロンのデコレーションを追うて、文芸の門はくぐるが、倫理学の門は素通りするという青年学生が如何に多いことであろう。しかしすぐれた文学者には倫理学的教養はあるものである。人間の教養として文学の趣味はあっても倫理学の素養のないということは不具であって、それはその人の美の感覚に比し、善の感覚が鈍いことの証左となり、その人の人間としての素質のある低さと、頽廃への傾向を示すものである。美の感覚強くして善の関心鈍きとき、その美は感覚的の美とならざるを得ない。したがってかかる人の文芸の趣味はまた高い種類のものとは想像出来ないのである。リップスの『美学』を読むものはいかに彼の美の感覚が善の感覚と融合しているかを見て思い半ばにすぎるであろう。しかし生を全体として把握しようとするわれわれの目から見るとき、かくの如きは当然のことである。『モダンペーンター』の著者ラスキンはまた熱心な善の使徒であった。美のセンスと善のセンスとがともに強く、深く、濃まやかであることが第一流の人間としての欠くべからざる教養である。
 自分如きも文芸家となったけれども、学窓にあったときには最も深い倫理学者になることを理想とし、当時倫理学が知識青年からかえり見られなかった頃に、それを公言し、ほこりともしていた。
 文芸を愛好する故に倫理学を軽視するという知識青年の風潮は確かに青年層の人格的衰弱の徴候といわねばならぬ。

     四 社会運動と倫理学

 青年層にはまた倫理学を迂遠でありとし、象牙の塔に閉じこもって、現実の世相を知らないものの机上の空論であるとしてかえり見ない向きもある。しかし街頭の実践運動家といえども倫理学的な指導原理を持ち、それによって社会革新の情熱を刺衝されないものは少ない。それどころか自分の社会革新の思想の正しい所以を合理的に根拠づけんとするやみがたい要求から自ら倫理学を発表さえもしている。アナーキストとして有名なクロポトキンには著書『倫理学』があり、マルクス主義運動家時代のカウツキーにさえ『倫理学と唯物史観』の著があるくらいである。ドイツ無産政党の組織者であったラサールには倫理学的エッセイ多く、エンゲルスや、シュモルラーには社会主義的倫理思想の論述の少なくないことは周知の如くである。そればかりでなくミルや、シヂウィックや、英国経験学派の系統を引く功利主義の倫理学はほとんどことごとく「最大多数の最大幸福」を社会理想として実現せんとする、多かれ少なかれ、社会改良運動の実践と結びついたものであり、現実のイギリス社会に影響する所大であったものである。
 街頭の実践運動の背後には常に偉大なる思想がある。そして人間を実践的社会運動に駆る思想は倫理的思想である。共産主義の運動への情熱が日本の青年層を風靡(ふうび)し、犠牲的な行動にまで刺衝したのは、同主義の唯物的必然論にもかかわらず、依然として包蔵している人道主義的思想のためであったのだ。正義をもって社会悪を克服するという倫理的な根拠なくして、単なる物的必然力によって、人間は犠牲的奉仕にまで感奮することは出来るものではない。
 倫理思想は内側から社会を動かす原動力である。そして倫理学はその実践への機を含んでしかも、直接に発動せず、静かに、謙遜に、しかも勇猛に徹底して、その思想の統一をとげ、不落の根拠を築きあげようと企図するものであり、そこには抑制せられたる実行意志が黙せる雷の如くに被覆されているのである。
 倫理学を迂遠であり、机上の空論であるとして軽視するのはただ目先きだけの短見にすぎない。真に社会に善事を成さんとする志有る者は軽忽に実行運動に加わる前に、しばらく意志を抑制して、倫理学を研究する必要があるのである。何が社会的に善事であるかを知らずして実行することは出来ず、行為の主体が自己である以上は自己と社会との関係を究めないわけにはいかないからである。それ故に倫理学の研究は単に必要であるというだけでなく、真摯な人間である以上、境遇が許す限りは研究せずにはいられないはずの学問なのである。

     五 根本問題の所在

 この小さな紙幅に倫理学の根本問題を羅列することは不可能である。しかし具体的に問題の所在を示すために二、三の例証を引くことは絶対に必要である。
 先ず道徳思想(モラール)と道徳(ジットリヒカイト)との弁別の問題がある。リップスによれば、モラールは時と処と人とによって異なる道徳的見解、要求の類であり、如何なる民族も、階級も、個人もそれぞれこれを持っている。かかるモラールには真に道にかなう因子が含まれているに相違ないが、人間が人間である限り、道にかなわぬものが混じているのを免れない。ヒルデブラントの道徳的価値盲の説のように、人間の傲慢、懶惰、偏執、欲情、麻痺、自敬の欠乏等によって真の道徳的真理を見る目が覆われているからだ。倫理学はこの道徳盲を克服して、あらゆる人と時と処とにおいて不易なる道徳的真理そのもの、ジットリヒカイトを見出すことを任務とする。
 かかる普遍的に妥当なる道徳的真理が存在するか否かがすでに根本的な問題である。たとえば唯物史観的な倫理学は一定の生産関係、ある階級に妥当なる道徳(モラール)のほかは認めないであろう。また種々に道徳を比較し、分析し、記述することを任務とするという倫理学もある。確かにわれわれが倫理的な問いを持つにいたった痛切な原因にはこの時と処と人とによってモラールが異なるところに発する不安と当惑とがあるのである。
 これに対してリップスはいう。一つの比論(アナロギー)をとれば、物理的真理において、真理そのものを万物の真相は如何という意味にとれば現在の科学は終局的な解答を与えることはできぬ。しかし真理そのものの本質は何か一般に真理の標識は何か。真理を発見せんとするときわれらは如何なる条件を満たさねばならぬか。真理の認識はいかなる法則に依従するか――。かくの如き意味に真理を解するならその解答は可能である。ジットリヒカイトの場合にも厳密にこれと等しい。ある特別の場合に正しく行為せんためにはわれらは何を行ない何を禁止すべきか。かかる問いに対しては完全な答えは不可能である。何故ならこれに答えるためには、その場合の事情の十全な認識、行為のあらゆる結果の十全なる予測が必要であるが、かかる知見は神ならぬ人間には存しないからだ。かかる意味で、道徳上絶対に妥当な意志決定はありあたわぬ。しかしおよそ道徳とは何か、道徳的なるものの一般的標識は如何。それは如何なる条件にしたがい、如何なる法則に依拠するか、かかる問いには終局的答えを与え得る。これが明らかとなって初めて、ある特定の意志決定がどの程度まで道徳にかなっているかを判断することができるのである。倫理学はかかる問いに答えることを任務とする。それは行為とそのあり得べき結果との多様な、人間の精神に依従しない関係の認識を要しない。人間のもろもろの行為が人間の運命と世界過程とにいかに影響するかの複雑な方式を洞察する必要もない。ただ人間の精神に関する知識が必要なるのみである。それは心理上の事実の問題であって、世界認識の問題ではない。自己認識の問題に終始する。
 かくの如きはカントの主観主義、形式主義を継承するリップスの倫理学の定義であるが、かかる倫理学が答え得ることは人間の意志そのものの形式に終始せざるを得ず「いかに」のみに答えて、「何を」に答えることができない。「何々せよ」「何々するなかれ」と命ずることができずに、「いかようにせよ」「いかようにす」など命じ得るのみである。たとえばキリストの山上の垂訓にあるように、「隣人を愛せよ」とか「姦淫するなかれ」とか発言することができずに、「汝の意欲の準則が普遍的法則たり得るように行為せよ」とか、「汝の現在の態度について、汝自身に忠実であり得るように態度をとれ」とかいい得るのみである。すなわち人間のあらゆる積極的な意欲はことごとく、道徳の実質であって道徳律はその意欲そのものを褒貶(ほうへん)するのでなく、その意欲間の普遍妥当なる関係をきめるのである。しかしながらこの意欲そのもの、すなわち生の実質にかかわりなく純粋に形式的に行為を決定するということは、実は非常に意味のあることであって、私見によれば、われわれはかくするときにのみ道徳的懐疑を免れ得るのである。行為の決定にあたって、ひとたびわれわれが生の実質的価値の高下の判断を混うるや否や、それは必ず懐疑に陥らざるを得ない。殺すは悪、恵むは善というような意欲の実質的価値判断を混うるならば、祖国のための戦いに加わるは悪か、怠け者の虚言者に恵むは善かというような問いを限りなく生ずるであろう。東洋の禅や、一般に大乗的な宗教の行為の決定に形式の善をとって、実質の善をとらないのもそのためなのである。行為の決定の徹底的な正しさを追究するときには、カントのように純に意志そのものの形式によらざるを得なくなるのは当然であって、この意味で私は新カント派のリップスや、コーヘンの「純粋意志の倫理学」が、現象学派のハルトマンや、シェーラーの「実質的価値の倫理学」よりも共鳴されるのを禁じ得ない。
 しかしそれはわれわれが行為決定の際の倫理的懐疑――それは頭のしんの割れるような、そのためにクロポトキンの兄が自殺したほどの名状すべからざる苦悩であるが――から倫理学によって救済されんことを求めるからであって、そのほかの観点からすれば、形式主義の倫理学は生の現実について貧困であることはいうまでもない。意欲そのものの善悪、いかに意欲するかでなく何を意欲するかの実質内容につき道徳的判断を下したいのはまたわれわれの今ひとつのやみ難き要請である。この要求からカントの倫理学を修正しようとするものが最近いわゆる実質的価値の倫理学(マテリィアーレウェルトエティク)である。『倫理学における形式主義の実質的価値倫理学』の著者であるマックス・シェーラーは初めオイケンに師事したが、フッサールの影響を受けて、現象学派の立場に移った。
 彼はいう。価値は主観から独立な真の対象であって、価値現象として主観の感情状態や、欲求とは相違する。さまざまな果実の美味は果実の種類によって性質的に異なり、同一の美味が主観の感覚によってさまざまに感じられるのではない。美味そのものの相違である。その如く「純潔な」「臆病な」「気高い」「罪深い」等の倫理的価値もそのものとして先験的に存在するのである。財から抽象されたものでなく、実質的存在を持っている。
 次にある価値を実現せしめることが、それ自らには善でも悪でもないというカントの考えは、価値が平等であるときには正しいが、実質的価値には等級がある。したがって意欲の対象たる価値そのものに即した善悪が存在する。より高い価値を実現する行為はより善である。カントが道徳律を全然形式的のものとして、実質的のものを斥けたのは実質はすべてアポステリオリでアプリオリのものは形式のみと考えたためであるが、実質的価値はアプリオリである。先験的倫理学は実質的にも可能である。選択愛憎等の情緒的な心情もアプリオリの内容を持ち、「心情の秩序」が存在する。道徳価値の把握は知的作用によらず、情緒的な直覚によって価値感知(ウェルトフェーレン)されるのである。これがシェーラーのいわゆる情緒的直覚主義の立場である。シェーラーはさらに価値の等級を直観するアプリオリの等級感があるといい、ある意欲対象である価値が、他の意欲のそれといずれが善であるかはこの等級感によってアプリオリに直覚されると主張する。シェーラーを継承してさらに発展せしめたニコライ・ハルトマンも実質的価値が等級において存在し等級感によってアプリオリに直覚されるという点ではシェーラーと同じである。しかしかような情緒的直覚主義が果して行為決定の際のわれわれの懐疑を救ってくれるであろうか。どの価値がどの価値よりも高いかが個人差があることは現にハルトマンがあげている価値等級の典型的表解を見てさえも、われわれとは等級感が相異するのを見てもわかる。まして価値に高さと強さとの二次元を認める以上、高くても弱い価値と、低くても強い価値といずれを選ぶべきかは必ず懐疑に陥れる。大衆を啓蒙すべきか、二、三の法種を鉗鎚すべきか、支那の飢饉に義捐すべきか、愛児の靴を買うべきかはアプリオリに選択できることではない。個々の価値、個々の善を見ずして、あらゆる場合に正しき選択をなし得るような一般的心術そのものをきめようとする倫理上の形式主義には抜くべからざる根拠があるのである。その方向は大乗の宗教に通ずる。しかし意欲そのものに実質的に道徳的価値を付して、より高き意欲に権利を与えんとする要請にもやみがたいものがある。人情にはむしろこの方が適し、小乗の宗教に通じる。性欲を満したいという意欲と、国君に殉死したいという意欲とに、そのものとしての価値等級を付さないことは人情には無理である。大乗の宗教はしかしそこまで徹しなければならないのであるが、倫理学が宗教ならぬ道徳の学であり、人間らしい行為の追求を旨としなくてはならぬ以上、実質的価値の倫理学は人倫の要求により適わしいといわねばならぬ。いずれにせよ、この形式主義か実質主義かの問題は倫理学上の根本問題である。
 つぎに人性の千古の悩みである利己か、利他かの問題がある。利己主義(エゴイスムス)には深い根拠があり合理的に、正直に思索するときには誰しも一応は利己主義に帰著するくらいのものである。むしろここから反転して利他主義(アルトゥルイスムス)に飛躍するのが道筋ともいえる。リップスの感情移入(アインフュールング)の説はそのよき弾機であろう。他人の顔にある表情があらわれるのを見ると、同じ表情がわれ知らず自分にあらわれる本能的傾向が人間にはある。現在それが悲哀の表情であれば、自ら悲哀を感じる。これは他人の内生を共生(ミットレーベン)すること、すなわち同情である。利他主義はこの同情という心理的事実にもとづくものである。人はいやしくも他人の願望を知れば、その実現を妨ぐる事情なき限り、自分の願望と等しく、この他人の願望によって規定されずにいられない自然の衝動を持っている。他人との同情はわれわれを利他的行為に駆るのである。利他は利己の打算的手段として起こったもので、畢竟賢き利己であるという説はこれで破られる。しかし利他の動機は確かに利己から独立に存在しても、利己と利他とが矛盾するときいずれをさきに、いかなる条件にしたがって満足せしむべきかの問題は依然として残る。これが「ギリシャ主義とキリスト教主義との調和の道」を求めねばならぬ所以であり、他人の天命を完うするとともに、自己の天命を完うするという共存共栄の道が実践的には矛盾と撞著を生ずる故、その場合の行為選択の標準がなくてはならない。他人の家の火災と、自分の入学試験の受験とがぶつかったとき、いずれをさきにすべきか、何によって決定したらいいか。この形の選択がわれわれの実際生活のすべてにわたってせまっているのである。これは直観主義でも決められない。
 リップスによれば、この際主観的制約を去って、客観的事実の制約にしたがい、すなわち、受験は自分のであり、火災は他人のであるということを離れ、どちらも自分のことであるとして考えて決めよというのだ。それなら火事を消すことをさきにするであろう。
 しかしこの決め方にも人情にかなわない無理があることを免れない。目の前に自分の子どもの手が霜焼けている。新聞に支那の洪水の義捐の募集が出ている。手袋を買ってやる金を新聞社に送るべきか。リップスによればそうすべきだ。しかし一方はわが子で目の前に見、他方は他国でうわさに聞くのみ。情緒の上には活々とした愛と動機力は無論幼児の手袋を買ってやる方にはたらいている。客観的事実の軽重にしたがって、零細な金を義捐してもその役立つ反応はわからない。一方は子どものいたいけな指が守れるのが直ちに見える。この場合のような選択について、有名なシルレルとカントとの論争が起こるのだ。道徳的義務の意識からでなく、活々とした感情の動きにより、いわゆる「美しきたましい」によって行為すべきであるというシルレルの抗議が生じるのだ。
 しかしひとたびかような主観的情緒主義を許すと、実践上の道徳的厳粛性というものは保てなくなる。文芸家の実行力の薄弱、社会的善の奉仕の懈怠等は皆ここから生じるのだ。この利己と利他、厳粛主義と情緒主義との調和の問題も倫理学上の根本問題である。
 つぎに人格主義か、幸福主義かの問題が横たわる。
 物象的価値の感情と自我価値感情とは対立する。人間には自敬の感情がある。この敬の意識は物の価値、福利とは全く次元を異にする。倫理はこの人格価値感情を究竟の目的とすべきである。物の価値はただこの人格価値の手段としてのみ価値を持つのにすぎぬ。が人格価値はそれ自らの価値である。この人格価値を高めることが行為の目的である。快楽、幸福、福利は目的そのものとして追求せられるべきでない。これが人格主義の主張である。カントや、リップス、コーヘン等のカント学派も、フッサール、シェーラー、ハルトマン等の現象学派も人格主義の点では同じい。イギリスのトマス・グリーンの自我自現説もフィヒテをつぐ人格主義の系統である。彼によれば人間の目的は動物的有機体にもとづく快楽や、欲求を満足せしめることに存しない。人間の目的は神的意識の再現たる永久的自我を実現せしめることにある。社会を改善する目的も大衆に肉体的快楽、物的満足を与えるためではない。その各々の自我を実現せしめんがためである。
 かような人格価値主義に対して幸福主義――自己の快楽の追求から社会の福利の増進にいたるまでの広汎な功利主義の倫理学が立つ。そのクライマックスはシヂウィックの「最大多数の最大幸福」の説である。幸福主義は初めは個人の感覚的快、不快から発祥する。ハートゥレイによれば道徳的情操は、他の高尚な諸感情とともに、感覚に伴う快、不快の念から連想作用によって発生したものである。彼は同情も、仁愛も利己的な快、不快の感から導き出した。初めは快、不快な結果を好悪する心から徳、不徳を好悪したのだが、広く連想をくりかえすうちに、直接に徳、不徳を好悪するようになった。これが道徳的感情である。行為の価値は永続する、そして不快を結果せぬ快楽、すなわち幸福を生ずるところにあり、社会の幸福をもたらす行為が善である。ロックも、ヒュームも、ミルも幸福主義である。利己的であれ、利他的であれ、個人であれ、社会であれ、ともかくも道徳の目的を福利においている点は同じである。これはいかにも常識的なイギリスに栄えそうな倫理学である。しかし幸福説は道徳的意識の深みと先験性とをどうしても説明し得ない。それは量的に拡がり得るが質的のインテンシチイにおいてはなはだ足らず、心奥の神秘を探究するのにいかにも竿が短かい。幸福主義は必ず結果主義と結びつき、動機を重んずる人格主義と対立するが、道徳的価値の中核が動機になくてはならぬのは当然なことであって、結果の連想から生じたるものなら道徳の名に価しない。また幸福説は敬の感情を説明し得ない。心の深い人は到底幸福説で満足できるものではない。これはアングロ・サクソンの倫理学である。ニイチェの如きは「最大多数の最大幸福主義」を賤民の旗じるしとして軽蔑している。がそれにもかかわらず、社会的、政治的の実行上の目標は結局この旗じるしの下に動いて来ていることは争われない。種々の社会政策、社会慈善事業、公共施設、社会改革運動等は大むねこの目標の下に行なわれている。常識的ではあるが実際の社会に影響を及ぼし、主義を実現する勢力の強いことはアングロ・サクソンの政治の如くである。しかしわれわれはそれに眩惑されてはならぬ。幸福主義は決して道徳の究竟ではない。依然として第二義的の価値である。何が幸福かと問うとき、幸福の質を認めねばならず、かかる質的のものは幸福そのものの中からは導き出せない。「最大多数の最大幸福」は、ニコライ・ハルトマンのいわゆる「強き価値」であって、「高き価値」ではない。高き価値が実現せられるためには、先決の必要な地盤ではあるが、それは高き価値がその地盤の上に実現されんがためである。高き価値そのものは飽くまでも性質的なる人間の価値、人格の価値である。
 最近の人間学的な倫理学の方向が、この社会幸福主義を性質的に高め、浄化させんがために、一方では人格主義の、いわゆる人格の意味を、個人主義的な桎梏から解放して、これは社会的人間に鋳直すことにより、人格主義と社会幸福主義とを、本質的に止揚して調和せしめんとする傾向を帯び来たったことに注意すべきである。
 すなわち人格とは真の人間の意味であり、人間とは個人のいいでなく、共同生活態の連関の中にある、「我」と「汝」と全体との、相互に対立しつつ、しかもひとつに融け合っている姿における人である。かかる人間はアトム的な個人の人格と人格とが、後から相互の黙契によって結びつき、社会をつくるのでなく、当初から相互融入的であり、その住居、衣食、言語風習まで徹頭徹尾共同生活態に依属しているところの、アトム的ならぬ共同人間である人倫の事実は外に表現されて客観的社会となって厳存する。道徳は単に主観の事実として、個人の心の内面に在るのではなく、客観の事実として、外の共同態に表現されている。人格とはかかる意味の人間でなくてはならぬ。人の道とは同時に世の中の道である。人格を磨くとは世の中をよくすることである。
 人格という意味をかかる共同人間の意味に解するならば、人格主義はその独善性から公共に引き出され、社会活動がその内面性の堕落かの如き懸念から、解放されて社会的風貌を帯びて行くであろう。一方では「社会公共の幸福」なる意味も、第一にその社会公共の意味が、アトム的個人の協定でなく、「我」と「汝」と全体との相互回入の共同態でなくてはならず、その「幸福」の意味も個人的快楽から導かれたものでなく、質的な精神的高さを持ったものに浄化されなくてはならない。かくして真の人間の立場から全体主義の人間倫理学がつくられて行くことが来たるべき史的展望ではあるまいか。
 最後に倫理学の最も深き、困難な根本問題として「意志の自由」の問題がある。
「意志の自由」とは普通には、行為の選択の自由のいいである。一つの行為をなすまいと思えば為さずにすんだのに、為したという意味である。しかし反省すればこれは不思議なことである。意志決定の際、われわれはさまざまの動機の中から一つの動機を選択してこれを目標としたのだ。しかしこの際それらの動機がそれぞれの強さで存在せぬということをわれわれはその瞬間に企てることはできない。故に事実は一つの動機は選ばれないわけにはいかなかったのだ。それを選ばぬことは可能でなかったのだ。リップスによれば、これは疑いもなく決定論である。「自由」とは決定されていないという意味ならわれわれには自由は存在しない。その決定が自己以外の原因によらず、全く自己にもとづいているという意味が自由なのである。
 われわれが、「別の決定もなし得たのだ」と思うのは、他の決定を可能にするような別の動機が当時の心中に存在していたことを知っているからだ。しかもそうしなかったのはさらにより強い動機がわれわれの態度を決定させたからだ。
 この際より強い動機が決定させたということを強制ととるのは無意味である。何故なら強制には強制者と被強制者とが対立せねば無意味であるが、この場合にはより強い動機とは自分の意欲にほかならぬ、自己が自己を強制するとはナンセンスである。自由とは意欲が人格によって規定されるという意味である。したがってかくの如き人格が道徳的評価を受けるのである。
 しかしかかる評価とは、かく煙を吐く浅間山は雄大であるとか、すだく虫は可憐であるとかいう評価と同じく、自然的事実に対する評価であって、その責任を問う道徳的評価の名に価するであろうか。ある人格はかく意志決定するということはその人格の必然である。彼が盗むということは彼の人格がそうしないわけにはいかないのであり、リップスがいうように、そのような人格故に卑しむべしと評価することはもとより可能であり、その評価はたしかに人格価値の評価ではあるが、それは盗む鼠に対するのと同じ評価であり、彼にそれを禁じる動機が存しなかったからといって、彼は責められるわけはないはずである。このことは変質者や、精神病者の場合には一層明らかである。色情狂はたしかに卑しむべきだ。そしてその卑猥の行為は疑いもなく、彼の人格に規定されている。しかし彼は道徳的評価の責に耐えるであろうか。責に耐えるとはどうしても、そうせぬことが可能であった場合でなくてはならぬ。人格に規定される故に自由であるという自由と責任の観念とは両立し得ない。しかしそれかといって、外部からも、人格からも、規定されないで、意志を決定するという意味の自由は事実上存在しない。しからば自由の意識そのものは不可解のものになる。リップスもいうように、非決定論の自由は意欲が因果律に従うことをこばむものである。しかし因果律は先験的な精神の法則であって、これに従わずに思考することはわれわれにはできない。それなら非決定的の自由とは思考ではなく、その放棄であろうか。
 ニコライ・ハルトマンはこの点に触れて、カントの「積極的自由」の思想をあげて、その功績としている。カントは外の世界も、内の世界も徹頭徹尾因果律に支配されているとして、因果関連からの自由を否定した。自由とは第一原因が因果関連の中に入りこむこととした。自由とは自然法則に従って進行する一系列の現象を自ら始める絶対的に自発的な原因または能力と呼んだ。すなわち、「何々からの自由でなく、規定の一つ多い積極的自由である。規定が一つ減じることは因果律が許さないが、一つ増加することは差支えない。しからばかかる規定者はどこからくるか。カントは人間の英知的性格の中にその源を求めた。しかし自由を現象界から駆逐して英知的の事柄としたのでは、一般にカントの二元論となり終わり、われわれの意識を超越した英知的性格の行為にわれわれが責任を持つということが無意味になってしまう。
 ハルトマンはかかる積極的な規定者がわれわれの意識の中にある証拠として、一切の行為、情操に伴う自己規定の意識、責任の感、罪の意識をあげているが、これらを合理化するためにこそ自由を証明したいのである。
 ハルトマンはこれらのものから自由を証明できないが、不自由は一層証明し難い、というのみである。
 詮ずるところ、われわれは決定論によっても、非決定論によっても、自由の満足なる説明を今のところ見出し得ない。この倫理学上の根本問題は謎として残されている。われわれがこの上もなく明らかな自覚を持って疑わぬ自由の意識と責任の感を、合理的に説明できないということは実に人性の構造の神秘というほかはない。

     六 種々の視点への交感

 教養としての倫理学研究は必ずしも一つの立場からの解決を必要としない。人間の倫理観のさまざまなる考え方、感じ方、解決のつけ方等をそれぞれの立場に身をおいて、感味して見るのもいい。それは人間としての視野をひろくし、道徳的同情を豊かに、細緻にするからだ。
 近世倫理学史も、哲学史のように、カントに集まって、カントから出て行く。カントの形式的倫理学に反対したのは実質的倫理学だけではなく、ギヨーや、ディルタイの如き生命主義の倫理学や、フォイエルバッハから、エンゲルス、マルクス、カウツキーにいたる社会主義の倫理学がある。今これらを詳述する紙幅はないが、ギヨーは『義務と制裁のない道徳論』において、生命の維持特に自我の本性である個性の維持と発展とを主張した。彼によれば、それ自体最高の価値を持ったものは個性であり、個性は何ものの手段ともすべからざるものである。個性の発展は内生活の充実により、この過剰が義務であって、強制や、外的必然ではない。個性を発展せしめるためには狭隘な孤立的自己に閉じこもらず、社会連帯の生活の中に、できるだけ他と協働する生活をひろげなくてはならぬ。最高の徳は義侠である。カントは「汝はなさねばならぬ、それ故なし得る」といったが、これは顛倒されねばならぬ。「汝は能う、故になさねばならぬ」である。彼の義務は過剰であるというイデー、カントの命題の顛倒の思想はニイチェに影響した。ツァラツストラは知恵と力にふくれて山から下り、自己を与えんために民衆への没落を義務と感じ、「汝すべし」を「われは欲す」と顛倒することを宣した。
 ディルタイもまた生命と個性との価値を強調した。彼は「全人」の活動を説き、「生」そのものの事実性が、知識の確実性の根拠であるとした。カントのアプリオリの如き不毛の主知的観念に知識の妥当性があるのではない。具体的、直接なる体験は「生」の進展して止まぬ発動である。彼はいった。「ロックや、ヒュームやカントが作りあげた認識主観の脈管には現実赤い血潮が通っているのでなくて、単に思惟活動として、理性の稀薄な液汁が流れているのみである」この紅い血潮は意志し、感じ表象する「全人」の立場からのみくみとることができる。「生」は自らの空虚を充すために価値に向かい、これを実現することによって、自らを充実する。これがわれわれの意志行為である。ライプニッツが同一の木の葉は一枚もないといったように、個性的なものはそれぞれ独自なもので、他に類例を許さない。自然科学では法則を求めるのが目的だから個性的ということは問題でない。熱鉛を水中に滴下すれば、さまざまの奇形を生ずる。しかし一つ一つの形は自然科学には一顧の価もない。しかし精神科学では個性的なものが最も価あるものである。フリードリッヒ大王や、ゲーテの事蹟は斯学の対象として、いつまでも研究をつづけていかれる。
 社会主義の倫理観は一種の社会的幸福主義である。そして経済条件をその幸福の基礎とする点において、物的福利を重んずる。それが実質的、現実的、社会的であってカントの倫理学の形式主義、先験主義、自律主義に不満なのはもとよりそのところである。
 フォイエルバッハはヘーゲルからエンゲルスの橋渡しとして、ヘーゲルの弁証法を唯物弁証法に媒介した意味で科学的社会主義の先駆ともいえる。
 彼によれば「人間相互の共同(ゲマインシャフト)」が真理の普遍性の最初の原理である。認識において自己以外の他の物体の存在が他人の存在の確実によって媒介されるように、道徳も自己のみから引き出すことは出来ず、他人の存在に依従している。我と汝とが対立して初めてモラールがあり、ジッテがある。この生活共同態の思想は前にも述べた。道徳は如何なる事情の下にも幸福原理から離れ得ない。他人に幸・不幸をもたらしたとき初めて、行為者に善悪があり得るのだからだ。同情は他人の幸福衝動とともに損われ、ともに苦しむ自分の幸福衝動にほかならぬ。
 彼はヘーゲルが概念をもって真の実在としたのをひるがえして、われわれの感官に与えられた自然をもって実在とした。マルクスはさらに進んで意識を自然の反映であるとし、道徳は経済関係の上部構造としての二次的のものにすぎないとした。生産関係はそれに内存する必然法則により発展して最後に幸福な社会を産み出す力があるとする。ブルジョア社会の道徳はその階級にのみ妥当するもの故これを忌避し、階級闘争をなさねばならぬ。それ以外の社会改良、労資協調的温情はかえって、理想社会の到達を遅らすのみである。エンゲルスはマルクスと、半世を献身的友情をもって共産主義宣伝のために働いた。『弁証法と自然』において、唯物弁証法を発展させ、『英国における労働階級の境遇』において、自由競争下の労働者の悲惨な実状を論じた。ラサールはマルクスと異なり、理念に導かれた人間の道徳的意志が歴史の発展を導き得るとなした。彼は個人主義の法治国家のかわりに、社会連帯の利害の上に建設せらるべき文化国家の理想をおき換えることを要請した。文化国家は国家の統制力によって、個人が孤立しては到底得られないような教養と力と自由とを国民に享受せしめねばならぬ。かかる理想から労働者階級に対する国家としての道徳的義務がある。労働階級といえどもこの努力に協力するの義務がある。富裕階級が労働階級の解放に参加しないのは個人的利害によって、この国家的な道徳的協同に反対するものであると説いた。われわれには共鳴するところ最も多い論拠である。マルクスの如く歴史の発展を物力の必然として人間の道徳的努力の参与を拒むことは、たといその結果が理想社会に到達しようと、人間性を侮蔑するものである。改革の手段に暴力を用いる用いないの点よりも、この人間の特性の貶斥は最も許し難き冒涜である。人間の道徳意識そのものはマルクスによって泥を塗られただけで少しも高められず、退化するのみである。『キリスト教の本質』を書いたフォイエルバッハの人間の共同生活態という美しい、人類の輝かしい希望をつなぐ理念を物的の意味に引き下してしまって何の役に立つのであろう。資本主義制度はもとより悪い。道徳的意味においてこれは呪詛されねばならぬ。われわれは真の人間の共同態フォイエルバッハの Gemeinschaft des Menschen mit dem Menschen を建設せんことを熱願する。しかし物力の必然でなく、人間の道徳的努力の協同によってそれを成しとげたい。何故なら、つくり上げた共同態はまた道徳的協同によって維持発展されなければならないからである。人性の徳性の花の咲き盛らないような、物的福利の理想社会とは理想社会の名に価しないからである。
 以上自分は与えられたスペースで、青年の教養に資する視点から、倫理学研究の手引きのようなものを書いた。書くべき多くのものが残された。中世期の神秘主義の倫理観、古代のストアやエピクロス派の倫理観、スピノーザやショーペンハウエルの形而上学的倫理観等に触れる暇がなかった。さらに東洋の倫理観にも手が染められなかった。それは本稿の目的上、羅列を事とせずして、活きた倫理的問いを中軸として、一つのまとまりのある叙述をものしたく思ったからである。
 最後に一言付すべきことは、生の問いをもってする倫理学の研究は実は倫理学によって終局しないものである。それは善・悪の彼岸、すなわち宗教意識にまで分け入らねば解決できぬ。もとより倫理学としては、その学の中で解決を求めて追求するのが学の任務であるが、一般に学の約束として、それは絶えざる認識の拡充としての永久の追求であっていいのである。しかし生の問いは解決されることを要する。したがって学の中にとどまっていることはできぬ。善悪の二字総じて忘れる宗教のふところに入らねばならぬ。しかし善悪を忘じることは、善悪に執し切った後においてのみ可能なのである。知識青年にして少なくともある時代、倫理学に身をやつさないような人間は決して善悪の彼岸には出で得ぬであろう。
(一九三六・一〇・七)



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