沙漠の古都
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著者名:国枝史郎 

    第一回 獣人


        一

「マドリッド日刊新聞」の記事……
怪獣再び市中を騒がす。
 去月十日午前二時燐光を発する巨大の怪獣何処(いずこ)よりともなく市中に現われ通行の人々を脅かし府庁官邸の宅地附近にて忽然消滅に及びたる記事は逸速(いちはや)く本社の報じたるところ読者の記憶にも新たなるべきがその後怪獣の姿を認めずあるいは怪獣の出現も通行の人々の幻覚に過ぎず事実上かかる怪獣は存在せざりしには非ざるやと多少の不安と危惧とをもって両度の出現を待ちいたるところ……。
「ホホオそれじゃまた怪獣が出現したというのだね?」
 民間探偵のレザールが全部新聞を読んでしまわないうちに、傍らで聞いていた友人の油絵画家のダンチョンが、驚いたようにこう云った。
「どうやら再び現われたらしい――ところが今度はこの前と違って、顔ばかりに……むしろ眼の縁(ふち)だけに燐光を帯びている獣(けだもの)だそうだ。まあ聞きたまえ読むからね」
 南欧桜の咽せ返るような濃厚な花の香が窓を通して室の中いっぱいに拡がっていた。その室でレザールとダンチョンとは肘掛椅子に腰かけたまま軽い朝飯をしたためた後、おりから配達された新聞をこうして読んでいるのであった。
「いいかい読むぜ。聞きたまえよ」
 そこでレザールは読みつづけた。その要点はこうである。
 ――昨夜、すなわち三月十日、時刻もちょうど午前二時頃、両眼の縁に燐光を纒った、犬のような形の動物が、忽然街路に現われたが、府庁官邸の宅地まで行くと、そのまま姿が見えなくなり、それと同時に一軒の家から、恐怖に充ちた男の声が、一瞬間鋭く響き渡ったが、それもそのまま静かになった。そして不思議にも怪獣の姿は、どこにも見えなかったと云うのである。
「燐光を放す動物なんて、実際そんなものがあるのだろうか?」
「さあ」とレザールは考え深く、「全然ないとも云われない。魚には確かにあるのだからね」
「そりゃ魚にはあるだろうけれど――例えば烏賊(いか)などはその通りだが、眼の縁だけに燐光を放すそんな獣ってあるものだろうか――それはそれとしてもう一つこの新聞記事で見るとどうやら奇怪な動物なるものは、二匹いるように思われるね」ダンチョンはレザールの顔を見て審(いぶ)かしそうに云ったものである。
 と、レザールは微笑を浮かべたが、
「つまり眼の縁だけ燐光を放す昨夜あらわれた怪獣と、去月十日にあらわれた全身に燐光を放す獣と、都合二匹というのだろうね……君もなかなか眼敏(めざと)くなった。僕も新聞を見た時からこいつをおかしく思ったんだ――燐光を放った獣なんか一匹いるさえ不思議だのに、二匹もいるということはどう考えてもちと腑に落ちないね……なあにやっぱり一匹だろう」
「記事からいくと二匹だがね」
「往来の人の錯覚でこの前は全身が光るように見え、昨夜は眼瞼(まぶた)だけ光るように見え、それで驚いたに違いないよ……で僕は一匹だと思う……だがあるいは、あるいはだね、一匹もいないのかもしれないよ」レザールは微妙に云ったものである。
「全部を錯覚にするのだね?」ダンチョンは首を横に振って、「一度ならず二度までも一人ならず数人の者が、そういう獣を見たのだから、錯覚とばかりは云えないね」
「君の云うのが本当かあるいは僕の説が正しいか、探って見なければ解らないが、ただ怪獣が出たというばかりで世間の害にならないのだから、探って見ようという興味もない……依頼者でもあればともかくだが」
「しかし」とダンチョンは遮(さえぎ)って、「無害ということも云われないね。現にその獣に脅されて悲鳴をあげた者があるといって、この新聞にも書いてあるんだからね」
「無理に難癖をつけるとして秩序紊乱という奴かな。怪獣の秩序紊乱かな……どうも獣じゃ仕方がない――それとももしやその獣の……オヤ誰か来たようだ。こんなに朝早く来るからには火急の事件に相違あるまい」
 コツコツと扉を打つ音がした。
「おはいり」とレザールは声をかけた。扉が開いて一人の貴婦人があわただしげにはいって来たが、レザールとダンチョンの二人を見ると当惑したように立ち停まった。
 レザールは恭□(うやうや)しく立ち上がったが、
「私がお尋ねのレザールで――これは友人でございます。きわめて気の置けない友人で……ええと、ところで市長の奥様、どういうご用件でございましょうな?」
 きわめてなれなれしく云ったものである。
「オヤまあ私をご存知で?」
 市長夫人は手を差し出しレザールにそれを握らせながら、
「いかにも私はおっしゃる通り市長の家内でございます」といくらか驚いた様子である。
「マドリッド市民は誰にしましても自分の町の首脳者の――つまり市長でございますね――内助者たるところの奥様を知りたいと思わないものはございません」
 恭□しくレザールは微笑した。
「でも」と夫人は首を振り、「体がひどく弱いものですから、こちらへずっと参りましてからも、毎日たれ込めておりまして、それこそ町へなどは一度も出ず、重大な社交にさえ顔を出しませんのに……」
「おっしゃる通り奥様はあの米国の大統領のハージング夫人とそっくりで、社交嫌いだとか申しますことで――けれどたった一度だけ招待会には出られました筈で」
「そうそうたった一度だけ――主人が印度(インド)から当地へ参り市長の職に着きました時、きわめて少数の知人でしたが、お招きしたことがございました。きっとあの時でございましょう?」
「さよう、あの時でございます。あの時私は舞踏室で、奥様をお見かけいたしました」
「それは少し変じゃございませんか――あの時およびした人達の中に、あなたのお名前はなかった筈で」
「レザールという名はございませんでした。しかしマドリッド日刊新聞の社長の名前はありました筈で」
 夫人はしばらく考えてから、
「ポンピアド様という名前の六十過ぎた立派な方?」
「獅子のような頬髯を生やした人で」
「たしかにお招き致しました」
「それが私でございます」
「まあ」
 と夫人は呆れ返り、
「でも、お見かけ申しましたところ、あなたはやっと三十ぐらい、それだのに一方ポンピアド様は……」
「ですから奥様尚一層化け易いのでございますよ。三十男のこの私がやっぱり他の三十男に化けるということは困難ですが、六十の老人に化けることはいと易いことでございます……もしもご不審におぼしめすなら、五分間ご猶予を頂いて、化け直してお目にかけましょうか」愛想よく軽快に云い放した。
 しかし夫人は手を振って、淋しく美しく笑いながら、「いいえそれには及びません。なるほどそうかも知れません。名誉の探偵でいらっしゃいますもの……それにしても本物のポンピアド様は、どうしていらっしゃらなかったのでございましょう?」
「たしか旅行中でございました」
「それではあなたはポンピアド様に断わらずにおやりなすったので?」軽く夫人は非難した。
「毎々のことでございますよ」レザールは愉快そうに微笑した。
「そんな権利がございまして?」と夫人の声はやや鋭い。
「さよう」とレザールは真面目になり、「私と、それにもう一人、私にとっては大先輩で、かつまた非常に仲のよい――奥様もあるいは名前ぐらいはご存知でいらっしゃるかもしれませんが――ラシイヌという探偵だけには、そういう権利がございますので。どうしてと申しますに我々二人は、政府の機密に参加したり、皇室のご依頼に応じたり、これまで数度その方面で働いたことがございますので、政府は我々二人の者へ特権を与えてくれました」
 すると夫人は頷いて、
「そうでございましょうね、よくわかりました。――ただ今お話しのラシイヌ様、知っているどころではございません。ただ今お逢いして参りましたので」
「ああそれじゃもうお逢いでしたか」
「そうしまするとラシイヌ大探偵が私にこのように申しました――レザールにもご依頼なさるようにって」
 レザールは苦笑を浮かべたが、ダンチョンの方を振り返り、
「ラシイヌが僕を験(ため)すらしいね」
 それから夫人の方へ頭を下げて、「それではどうぞお話しを――ラシイヌへおっしゃったと同じように、私にもお話しを願いたいもので」
 椅子に寄ったまましばらくじっと市長夫人は黙っていた。それから静かに話し出した。

        二

「……どこからお話し致しましょう? やっぱりずっと最初からお話しした方がよさそうです――先月十日の真夜中でした。午前二時頃ででもございましたでしょうか、突然良人(おっと)の居間の方から呻くような声が聞こえましたので、しばらく聞き澄ましておりましたところ、それっきり物音が致しません。きっと夢でも見たのだろうと、そのまま眠ろうと致しますと、庭の方へ向いた室の窓が不意に明るくなりましたので吃驚(びっくり)して起きようと致しました。さようでございますね、その光は銀のような光でございました――ところが窓のその光も次の瞬間には消えましたので、起きかかった床へまたはいり夜の明けるのを待ちました。朝のお茶の時に食堂で良人の顔を見ましたところ、大変蒼いじゃございませんか。どこかお体でもお悪くて? 私が訊きますと首を振って、いいやと一言云ったきり、黙ってお茶をのむのでした。そこへ新聞が来ましたので何気なく取り上げて見ましたところ、思いあたる記事がございました。燐光を放す巨大な獣が、昨夜市中にあらわれて、府庁官邸の宅地まで来ると消えてしまったという記事です。私はハッと思いました。それでは昨夜窓に映った銀色をしたあの光は、さては怪獣の光だったのかと……。
『あなたは昨夜変な光を窓からごらんになりませんでして?』私は良人に訊いてみました。すると良人はひどく顫(ふる)えて蒼白(まっさお)になったじゃありませんか! けれど変化したその表情は、すぐに良人の強い意志で抑えられてしまったのでございますね。良人は冷静にこう云ったものです。
『いいや、そんな光は見なかったよ』
 それで私は新聞の記事を良人の方へ向けまして、
『昨夜二時頃この町へ怪獣が出たそうでございますね』
『ふうむ、怪獣? どんな怪獣?』良人は益□冷静に、『町の人達の錯覚だろう。燐光を放す獣なんかこの世にある筈はないからな』
『でもねあなた、その光を、昨夜私も見たのですよ』
『お前が見たって、その光を? それじゃお前も錯覚党の仲間入りをしたって云うものさ』
 こう云って良人が笑いましたので、私もそのまま安心して黙ってしまったのでございます。
 けれどどうやらそれからというもの、良人の様子が沈んでしまって、考え込むようになりました。そんな時私が話しかけましても、ろくろく返辞さえ致しません。そうかと思うと何んでもない時に、お前今何んとか云わなかったかい、などと訊く事がございます。一体の様子が何かこう遠い昔の思い出事に耽ってでもいるように見えまして、気味が悪いのでございます――こんな塩梅(あんばい)でつい昨日まで日を送って来たのでございます……ところが昨夜、いえ今朝です、それも午前の二時頃です、私は再度室の窓が燐の光に反射して、銀色に輝くのを認めました。そこで私は飛び起きて窓の側まで走って行って、首を出して戸外(そと)を覗きましたところ……」
 夫人はここで声を呑んだ。
「恐ろしい恐ろしい何んて恐ろしいんでしょう! 私は今でも思い出すと夢ではないかと思いますの。どうでしょうほんとに眼の縁(ふち)だけ燐のような光に輝いている大きな犬のような動物が、良人(おっと)の居間の窓の枠へ前足を二本しっかりと掛けて、硝子(ガラス)戸越しに主人の居間を覗き込んでいるではございませんか。あやうく叫び声をあげようとしてやっと私は声を呑み、狂人(きちがい)のように手を揉みながら、じっと聞き耳を立てました。良人の室から嗄(しわが)れた良人の言葉が洩れましたからで……
 ―― ROV(ロブ)! 湖! ――埋もれた都会! ……帰ってくれ帰ってくれ恐ろしいコ……マ……イ……ヌ――。
 嗄れた良人の声の中から私に聞き取れた言葉と云えばただこれだけでございました。それとて私には何んのことだかちっとも意味が解りませんでしたけれど――主人が喋舌(しゃべ)っている間中、怪獣は身動き一つせず、じっと聞き澄ましているのでした。主人の声が途切れた時突然怪獣は飛び上がりました。そうして一本の前足を硝子戸の枠へ掛けたかと思うと、どうでしょうスルスルと硝子戸が、横へ開いたではございませんか。良人は叫び声をあげました。そうして床へ倒れたと見えて、ドシンという音が聞こえて来ました。その後の記憶はございません。私も気絶致しましたので」
 市長夫人は沈黙した。室がにわかに寂然(しん)となった。
「大体事情は解りました」レザールがその時静かに云った。「そこで奥様のご心配は――何よりも奥様のご心配は、市長閣下の健康が以前(まえ)からあまり勝れていず、現在あまり質(たち)のよくない心臓病にかかられている、その点にあるのでございましょうね? ところで閣下のご容態はどんな塩梅でございましょう?」
「おや!」
 と夫人はまた呆れて、
「どうしてそんな事ご存知でしょう? 良人の心臓のよくないことは、私以外どなたも知らない筈ですのに」
「しかし探偵というものはこれと思う人と逢った時、ただぼんやりとその人を見守っているものではございません――顔の特徴、体の様子、そしてまた握手などする場合には、その人の脈膊をさえ計ります……市長閣下にお目にかかった時、さすがは有名な探検家として阿弗利加(アフリカ)を初め印度(インド)、南洋、中央亜細亜(アジア)、新疆省(しんきょうしょう)と、蕃地ばかりを経巡(へめ)ぐられて太陽の直射を受けられたためか、お顔の色の見事さは驚くばかりでありましたが、さてかんじんの脈膊はというと、どうやら乱れ勝ちでございました。ハハア心臓がお悪いな。その時私は思いましたので」
「おっしゃる通りでございます」夫人は憂わし気に云ったものである。「印度から故郷へ帰りましたのも、その病気のためでございました」
「ところで目下のご容態は?」
「危険というほどではございませんけれど……医者が私に申しますには、もう一度こんなような驚愕(おどろき)を――神経と心臓とをひどく刺戟する病気に大毒な驚愕(おどろき)を最近に経験するとなると、生命(いのち)のほども受け合われないなどと――あるいは脅かしかも知れませんけれど……」
「ははあそのように申しましたかな?」
 レザールは黙って考え込んだ。わずかに開けられた窓の隙から春の迅風(はやて)に巻きあげられた桜の花弁(はなびら)が渦を巻いて、洋机(テイブル)の上へ散り乱れていたが、ふたたび吹き込んだ風に飛ばされどこへともなく舞って行った。
 隣室で時計が十一時を報じ、なま暖かい春陽(はる)の光が洪水のように室に充ち窓下の往来を楽隊が、笛や喇叭(ラッパ)を吹きながら通って行くのも陽気であった。
 夫人は深い吐息をして、
「そういう訳でございますので、燐光を放す怪獣が二度と窓の辺へ来ないように、致したいのでございますけれど、しかしこれを警視庁へ届け、警官の方に来て戴いて邸宅(やしき)を守ってなどいただいては、事があんまり大仰になり、世間一般に知れましたら良人が意気地なしに見えますし……」
「いかにもさようでございますね――世間一般に知れますより、敵党の連中に知られることが閣下にとっては不得策の筈で」
 レザールは片眼をつむりながら、少し皮肉に云ったものである。
「はいその通りでございます……良人(おっと)が市長になるに付いては大分反対者がございまして、選挙も苦戦でございました……ですから良人が今になって心臓の悪い病人だなどと敵党の人達に知られましたら、乗ぜられないものでもなし、それに犬のようなそんな獣に脅かされたなどと思われましたら、市長の威厳に関しますので」
「それで私達民間探偵にご依頼なさろうとなすったので? いやよく事情はわかりました。出来るだけお力になりましょう」
「どれほど費用はかかりましても、その点はご心配くださいませんように」
 夫人は云って口ごもった。レザールは頷いたばかりである。でまた二人は黙り込んだ。
「それで」とレザールは重々しく、「ご依頼の件は怪物が今後一切窓の側へ現われないように警戒する――ただそれだけでございましょうか?」
 夫人はちょっと躊躇(ちゅうちょ)したが、
「はい、ただそれだけでございます」
「怪物の正体は何であるか? 何故窓の側へあらわれたか? 閣下が怪物を見られた時、何故独り言を洩らしたか? そして何故卒倒なされたか? 調べる必要はございますまいか?」
 夫人はまたも躊躇したが、
「いいえ必要はございません」
 レザールはその眼をグルグルと廻し、彼独特の悪戯児(いたずらっこ)のような、無邪気だけれど意地の悪い、微妙な笑いを洩らしたものの、夫人の悄(しお)れた様子を見るとすぐその笑いを引っ込ませた。
 彼は母指(おやゆび)の爪を噛み――彼の一つの癖である――天井の方へ眼をやりながら、かなり長い間考えていた。それから夫人へ質問した。
「奥様、あなたはご良人(しゅじん)といつ頃結婚なさいましたな?」
「はい、今から一年前、印度に主人がおりました時に……私も印度におりましたので」
「それでは奥様はそれ以前の閣下の行動に関してはご存知ないわけでございますな?」
「良人が話してくれませんので」
「そこでもう一つ最近において――先月十日以前において、誰か様子の怪しいような訪問客はございませんでしたかな? 閣下に対する訪問客で……」
「いいえ、一人もございませんでした。素性の解った方達ばかり他にはどなたも参りませんでした」
「そこでもう一つ閣下におかれては、どなたと一番お親しいので?」
「私と違いまして良人は誰とでも快よく逢いますので来客も多うございますが、探検好きでございますから、やっぱりこれも探検好きのエチガライさんとは特別に親しいようでございます」
「ははあエチガライさんでございますか? 動物園長のエチガライさん?」
「はい、さようでございます」

        三

「これは重大のことですが」レザールはにわかに重々しく、「エチガライさんが来られた場合(とき)の閣下の態度はどんなようでしょう?」
「大変親しいのでございます。すぐと書斎へ引っ込んで内から扉へ錠を下ろし、一時間でも二時間でも話し合うのでございます。良人(おっと)がこれまで探検したいろいろの地方から発掘した動物の骨とか瓦とかそんなものを二人で研究したり、それについて二人で議論したり、そしてどうやら二人して著述にでもかかっておりますようで」
「いいことを聞かしてくださいました。大変参考になりそうで」
 レザールは親しそうにこう云ったが、
「ところで園長のエチガライさんは、たしか閣下のご周旋で今の位置につかれたということですが?」
「さようでございます。私達が印度を引き揚げて当地へ参り、ものの一月と経たない頃訪ねていらしったのでございまして……」
「どちらから来たのでございましょうな?」
「あの方は良人の友人で、私とは関係がございませんし良人も私にあの方については何とも話してくれませんので、どちらから参られたか存じません――けれど良人にとりましては、大事な人と見えまして、ただ今の地位も見つけてあげるし、金銭上の援助なども、時々するようでございます」
「もう一つお訊ね致しますが、印度から当地へ参られてから、盗難とかまたは紛失とか、そういう種類の災難におかかりなすったことはございますまいか?」
「さあ」と夫人は首を傾(かし)げ、しばらくじっと考えていたが、「いいえ、なかったようでございます……けれど、たった一度だけ――いいえ恐らくこんな事は参考になんかなりますまい」
「それはいったいどんなことで?」レザールはかえって熱心に訊いた。
「先月の初めでございましたが、新米の女中が誤まって良人の書斎を掃除しながら、捨ててはならない紙屑を掃きすててしまったとかいうことで、良人が大変な権幕で叱りつけたことがございました」
「すててはならない紙屑を女中が掃きすてたというのですな? ハハアこいつは問題だ! 閣下が憤慨なさる筈だ! そして女中はどうしました? もちろんお宅にはおりますまいが?」
「短気な女中でございまして、叱られたのが口惜しいと云って暇を取って帰ってしまいました」
「行衛(ゆくえ)は不明でございましょうな?」
「女中の行衛でございますか。いいえ判っておりますので」
「え、何んですって? わかっている? そうしてどこにおるのですかな?」
「エチガライ様のお宅ですの――エチガライ様がその女中を最初にお世話してくださいましたので」
 レザールは元気よく立ち上がった。そうして夫人へ頭を下げ、例の微妙な微笑をして、
「奥様、ご安心なさいまし――もう怪獣はこの市中へは、決して姿は出しますまい。出さないようにいたしましょう」
 夫人もスラリと立ち上がった。
「それで安心いたしました」こう云って右手(めて)を差し出して、レザールにその手を握らせてから、レザールに扉口まで送られて、夫人は室から出て行った。
 レザールは椅子まで帰って来たが、さっきから黙って聞いていたダンチョンへその眼をふと注いで、
「どうだなダンチョン、この事件は? 面白い事件とは思わないかな?」
「面白そうな事件だね、どうやら怪物の正体が君には解っているようだね」
「まあそういったところだろう」レザールは腕を組みながら、独り言のように云いつづけた。「市長は有名な探検家で……新疆省へも行った筈だ… ROV(ロブ) の沙漠……埋もれた都会……それからそうだ湖だった……エチガライという変な男……それ前に狛犬があったっけ……怪しい女中……紛失した紙片……燐光の怪獣に市長の気絶……そして市長は心臓病だ……巨万の富を有している――どうだなダンチョン、これだけの事実がこれだけ順序よく揃っていたら、君にだって真相は解るだろう?」
「ところが僕には解らない」
「よっぽど君は鈍感だよ。しかし素人だから仕方がない。……ところで夫人の話しの中で、怪しいと思った人間が君には一人もなかったかな?」
「エチガライという男が怪しいね」
「すなわち動物園長だ! 動物園長が怪しいと見たら君はどういう処置をとるね?」
「何より先に動物園へ行って、園長の様子をうかがうね」
「まずそれが順序だろう……ところで既にラシイヌさんが動物園へは行ってる筈だ……もうすぐ電話のかかる頃だ」
 そういう言葉の終えないうちに、卓上電話のベルが鳴った。
「そうら見たまえ! 云った通りだ」
 レザールはいそいで受話器を取った。
「モシモシ」と彼は呼びかけた。「ラシイヌさんでございますか? ……私はレザールでございます。あなたから電話のかかるのを待ちかねていたのでございますよ……え、何んですって? 市長夫人? 市長夫人でございますか? 市長夫人はさっき参って今帰ったばかりでございます。大分心配しておりました……それで、事件の真相は、解決なすったのでございましょうね? ……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんので。全く一目瞭然です……ところで、ところで……え、何んですって? 私を馬鹿だとおっしゃるので?」レザールはひどく驚いて耳へあてた受話器を下へ置いた。がまたあわてて耳へあてた。ラシイヌの声が聞こえて来る……。
「……今まで手がけた事件のうちでこんな楽な事件はございませんて? 箍(たが)が弛んだぞ、おい、レザール! 君はまるっきりこの事件の性質というものを知ってないな! 表面きりしか見ていないな! だから暢気(のんき)でいられるんだ! 君はほんとにおめでたいよ! 君はまるっきり赤ん坊だ! 事件の奥の奥の方をちょっとでも君が覗いたら君はおそらく恐ろしさにそれこそ気絶してしまうだろう! 君はこの事件の根本をいったい何んだと思っているんだ? 恋愛でもなければ金でもない! もっと執念深い、もっともっと破天荒な人種と人種との争いなんだぜ! そうして、いいかい、しかも今夜、僕達がうっかりしていようものなら、このマドリッドの市民達の数百人は殺されるのだ! そうして、いいかい、この市中は、猛獣毒蛇の巣になるのだ――で君に命令する! 今夜二時にどうあっても動物園まで来てくれたまえ。いいかいレザール、忘れるなよ。僕の命令と云うよりもマドリッド市民の命令なのだ! 命令というより懇願なのだ!」
 ラシイヌの電話はここで切れた。レザールは両腕を組んだまま、深い疑惑に陥入(おちい)った。

        四

 動物園は市の中央、H公園の中にあった。公園の周囲(まわり)は目抜きの街路(とおり)で、十二時を過ぎても尚人通りが賑やかにゾロゾロ続いていた。しかしさすがに二時となると、商店では窓々の扉を鎖ざし電車の軋りも間遠となり、時々疾走する自動車の音が、人々の眠りを醒ますばかりであった。
 公園は樹木に囲まれていた。百年また数百年、年を重ねた大木が、枝を交え葉を重ね、その下を深い闇にして夜空にすくすくと聳えていた。H公園は一周するとほとんど二里にも達しよう。森に林に丘に池、所々に建物が立っていて、到る所にベンチがあった。四辺は厳重な煉瓦の壁で、壁を蔽って内と外に鬱々と樹木が繁っていた。昼間のあいだに騒ぎつかれて夜は静かな鳥や獣の深い眠りを驚かすのは、近頃阿弗利加(アフリカ)から送られて来た二匹の牝牡(めすおす)の獅子であった。
 檻(おり)に馴れない沙漠の王は格子の間から空を眺め、初めは悲し気な呻り声、それから次第に高くなり、やがてその声を聞いただけでも気の弱い獣は血を吐いて死んでしまうと云われている雷のような吠え声をあげるのであった。
 その雷のような吠え声がだんだん嘆くような呻きとなり、そしてプッツリ絶えた時、夜は一層深くなり闇が一層濃くなったように思われる。……
 今その声が絶えたばかりで、あたりは死んだように静かであった。
 その時一つの人影が闇の中から産まれたようにどこからともなく現われて正面の横の潜戸(くぐり)の前で、戸に身を寄せて立ち止まった。内部(なか)を窺っているらしい。
 すると忽然潜戸の戸が内の方から開けられて、そこから一人の園丁が上半身を突き出した。
「レザール君かい?」と園丁は闇をすかして声をかけた。
「ラシイヌさんですか? レザールです」闇の中の人影は前へ出た。
「ちょうど時計が鳴ったとこだ。確かに今は午前二時だ……さあすぐ内へはいりたまえ」
 レザールは潜戸(くぐり)から忍び込んだ。忽ち潜戸の戸が閉まる。
 二人は暗い園内をそろそろと先へ歩いて行く。ラシイヌは一言も云わなかった。それが一層レザールには物凄いことに思われた。
 二人はなるたけ木下闇(このしたやみ)の人目にたたない闇の場所を、選(よ)りに選って歩いて行く。
「止まって」
 と突然ラシイヌは鋭い忍び音(ね)で注意した。で、レザールは立ち止まって前方の闇をすかして見た。窓々へ鎧戸(よろいど)を厳重に下ろして、屋内の燈火を遮断した、小柄の洋館(いえ)が立っている。園長の住んでいる官舎らしい。
 闇に馴れた眼をじっと据えてレザールは官舎を注視した。すると意外にも官舎の前の芝生の上に一団の、蠢(うご)めくものの形があった。よくよく見ると人間で、十人に近い人数である。円く芝生に胡坐(あぐら)をかき、額を土へ押しあてて何事か祈ってでもいるらしい。ブツブツといういとも小さい呟きの声が聞こえて来る。祈祷(きとう)の声ででもあるらしい。
 すると突然その中から一人の男が立ち上がった。やや明瞭(はっき)りと云うのを聞けば、それは回教(ふいふいきょう)の祈祷(いのり)であった。
「アラ、アラ、イル、アラ……唯一にして絶対なる吾らの神よ……吾らをして強くあらしめたまえ! 吾らをして敵を殺さしめたまえ! ……何物をも吾らより奪うなく、何物をも吾らに与えたまう神よ!」
 その男は両手を空へ上げ、手をあげたまま腰を曲げ、地面へその手の届くまで、上半身を傾むけた。それから再び腰を延ばし、両手で空を煽ぎ立てた。それからまたも腰を曲げ、地面へ両手を届かせた。そうしては延ばし、そうしては曲げ、幾十回となく繰り返した。
 その時かすめた太鼓の音が――鈴の音のする手太鼓の音が、円座を作った真ん中から、夢のように微妙に聞こえて来た。とそれへ銀笛の音が混った。幽(かす)かに幽かに鉦(かね)の音も――その不思議な調和というものは! 人をして深い眠りを誘い、夢中で人を歩かせるような、また、この欧州のどこへ行ったとて、到底聞く事の出来ないような、東洋式のその調和! 単調で物憂い太鼓の音。人間の霊魂を地の底から引き出して来るような笛の音。聞く人の心をせき立てて犯罪の庭へでも追いやるような、惨酷な調子の鉦の音……小声で唱える合唱の祈祷(いのり)。そうしていつまでもいつまでも同じ礼拝をつづける男! 時刻は深夜の二時である。
 レザールは物凄さに身顫いした。
 物凄さはそれだけではすまなかった。次の瞬間に起こった事件の物凄さと不思議さとはレザールにとって生涯忘れられないものであった。
 見よ、正面の石造りの、洋館の扉が徐々に開いて、そこから静々とあらわれた、燐光を纒った動物を! 動物の全身は白金が朝の太陽に照らされたようにカッと凄まじく輝いている。怪獣は石段を一飛びに飛んで、回教徒の円座へ近寄って来た。そうして四本足を折り、彼らの前へ蹲(うずく)まった。
 教徒の唱える讃美の声はその時ひときわ高くなり、深沈と寂しい音楽の音は次第に急速に鳴り渡った。空間に手を上げ手を下げて何物かを熱心に招いていた彼らの中の一人が、その時その手を怪獣の背へ、電光のように触れたかと思うと、燐光の怪獣は一躍しちょうど火焔の球のように、広大な園内を一文字に門のある方へ走り出した。とその門が大きく開いて怪獣はそのまま街の方へ矢よりも速く走って行き見る見るうちに見えなくなった。
 怪獣の姿が見えなくなるや音楽の音色は急に止み、十人の教徒は立ち上がった。そして動物の檻の方へ足を早めて歩き出した。手を上げて何物かを招いていたその男が先頭(さき)に立ちながら。
 ラシイヌは急にしっかりとレザールの手を握ったものである。
「見たまえ、先頭のあの男を! 女中に化けて市長の家へ住み込んだのが彼奴(きゃつ)だよ」
「それでは女ではないのですね?」
 レザールは驚いて訊き返した。
「なんの彼奴が女なものか。それに決して西班牙(スペイン)人でもない」
「ではいったい何者なので?」
「長く欧羅巴(ヨーロッパ)にはいたらしいが、たしかに彼奴は東洋人だよ。回鶻(ウイグル)人という奴さ」
「回鶻(ウイグル)人ですってあの男が? しかし現代の社会には回鶻(ウイグル)人という奴はいない筈じゃありませんか」
「歴史上では滅びているが、しかしあの通りいるのだよ」
「いったいどこから来たのでしょう?」
「新疆省の羅布(ロブ)の沙漠、羅布湖のある辺の流沙に埋められた昔の都会! そこから彼奴らはやって来たのだ!」
「で、どこへ行くのでしょう?」
「檻を開放しに行くのだよ。猛獣や毒蛇を檻から出して、マドリッドの市中へ追い放し、深夜の市中を騒がすためにね」
「いずれ理由(わけ)があるのでしょうな?」
 レザールは髪を掻きむしった。
「理由はつまり復讐だ!」
「マドリッドへ復讐するのですか?」
「マドリッドの住人のある一人が、彼らを憤怒させたからさ」
「どんな悪いことをしたのでしょう? そうしてそれは何者です?」レザールは益□いらいらした。
「マドリッド市長が彼らの宝の、経文の一部を取ったのだ――つまり発掘したんだね。そこで彼らはその経文を取り返すために出て来たのさ」
「ふうむ」とレザールは呻くように、「市長の書斎を掃きながら、贋物(にせもの)の女中が掃きすてたという、例の紙屑という奴が、その経文の一部ですな?」
「その紙屑を取り返すために、女中に化けて住み込んだり、燐光を放す狛犬を、人工で拵えておっ放し、市長を脅したってものさ」ラシイヌは悠々と説明した。
「私も贋物だと思いました」レザールはいくらか昂奮したが、「……つまり私はこの事件を、こんなように解釈しましたので……」
「話はゆっくり後で聞くが……君はいったい怪物を――燐光を放す怪獣を――何の贋物だと思ったかね?」
「恐らく犬か狼へ、燐光を放す薬品類を塗ったものだと思いました」
「犬か狼かいずれ直(じ)きに彼奴(きゃつ)の正体は解るだろう。……見たまえ見たまえ回鶻(ウイグル)人が、猛獣の檻を開いたから」
 見ると彼らは四方に分かれ五つの檻の前へ立ち、パッと一斉に戸を開けた。そして烈しく叱咤した。
「シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッ、シーッー」
 しかし猛獣は――獅子も虎も、容易に現われては来なかった。
 が、その次の瞬間には、五つの檻から猛獣が――猛獣のような真っ黒のものが、吼(ほ)えながら一時に現われて、回鶻人を取り囲み、彼らを捕えようとひしめいた。
 園内は回教徒と警官との格闘の庭と一変した。檻から出たのは警官であった。
「帰ろう」
 とラシイヌはゆっくりと門の方へ足を向けた。
「これでもう万事片づいた。後は警官に任せて置こう」
 レザールは何んとも云わなかった。ただ黙々と蹤(つ)いて歩く。
 警官の叱咤、回教徒の怒号、鳥獣の吠え声や啼き声で戦場のような動物園を、見返りもせず二人の者は正面の門から街へ出た。街には何んの異状もない。市民は眠っているらしい。
 その時、一台の自動車が、突然横手からあらわれた。警官が数人乗っている。
「とまれ!」とラシイヌは立ち止まって、片手を上げて合図をした。
「どこで怪獣は捕らえたな?」
 ラシイヌが笑いながらこう云うと、警官達も笑い出し、
「府庁へ行く道の中央(まんなか)で。……いや飛んでもない怪獣だ」
「レザール君、見るがいい。これが怪物の正体よ」
 ラシイヌはレザールを押しやった。
 自動車の中には東洋犬の毛皮を冠った人間が、昏々として眠っていた。
 レザールはその顔を見詰めたが、
「こりゃ園長のエチガライだ!」
「すなわち怪獣の正体さ――よろしい、諸君、では怪獣を病院へかまわず運んでくれたまえ」
 自動車は再び爆音をたて、街路を辷るように走り去った。
「行こう、レザール、じゃさようなら……明日君の家を訪問しよう。その時君の話しを聞こう。今夜は眠いから失敬する」
 ラシイヌはクルリと体を向け、横町へズンズンはいって行った。

        五

 その翌日のことである、ラシイヌとレザールと美術家とが、レザールの室で落ち合った。やっぱり麗(うらら)かな春の陽が、南欧桜の香と一緒に室の中へいっぱいに射していた。
「……夫人の話を聞いているうちに、動物園長のエチガライが、疑わしいと思いましたので……」
 レザールはいくらか恥ずかしそうな、思い違いを恥じるような、感激の伴なわないぼやけた声で、自分の解釈を一通り、ラシイヌに説明するのであった。
「さぐって見ようと思いましたけれど、ラシイヌさんのことですから、私より先に動物園へ行っていらっしゃるに違いないとこの友人のダンチョン君とも噂していたのでございます。するとはたしてあなたから電話がかかったというものです――しかし私はエチガライが、自分で犬の皮を着てマドリッド市中を駆け廻って市長の窓まで行ったとは夢にも想像しませんでした。私はこのように思いましたので――市長もエチガライも探検家だ。ところが市長は財産家で選ばれて市長の職にもついた。そこへエチガライが訪ねて来ると市長は熱心に周旋して園長の職につけてやった。時々金銭の援助もする。普通の友人の情誼(じょうぎ)としては少しく親切に過ぎるようだ。あるいは二人の間には他人に云われない利害関係が……つまり市長が探検先で不正財宝の発掘でもしてそれで財産家になったのを、あのエチガライが知っていて、世間へ発表しない代りに動物園の園長という立派な位置を得たのではないか? こう思っているとまた夫人が、市長の書斎の紙屑を、エチガライの世話した新米の女中が、掃き出してしまったと云ったのですから、ハハアそれではその紙屑は、不正財宝と関係のある、地図か証書かに相違ない。それを女中に盗ませたのはそれを種にしてきっと市長を脅迫して金でも取ろうとしたのだろう――そうして例の怪獣は、動物園の犬か狼へ人工で燐光を纒わせたもので、それを市長の眼前へ出して、驚かせたというのも、やっぱり脅迫の意味からで、すなわち燐光の怪獣と、不正財宝の間には何らかの脈絡があるのだろう。それを市長が見た以上厭でも応でも脅迫者の自由にならなければならないという、奇怪な弱点であるのかも知れない。そして市長が怪獣を見るや、ROV(ロブ)、湖、埋もれた都会と絶叫したということだから、不正財宝を発掘したのは、支那新疆の羅布(ロブ)の沙漠の、羅布湖のほとりに相違ない。そして市長は尚叫んで、恐ろしい狛犬といったというから、燐光を纒った怪獣はあるいは羅布湖の岸の辺に住民の尊敬する神殿でもあって、そこの社頭の狛犬と深い関係でもあるのかも知れない。とにかく事件の張本は園長エチガライに相違ないとこう睨んだのでございますが、しかしまさか園長自身が怪獣であるとは思いませんでした」
「夫人の話を聞いただけでそこまで看破したところに君の天才が窺われるね」
 ラシイヌは愉快そうに頷いたが、
「実はね、僕も、正直のところ、動物園で調べるまでは、やっぱり君と同じようにエチガライを疑っていたものさ。あいつが犯人に違いないとね。ところで僕は君の考えより、一つだけ余分に考えたってものさ。それは燐光の怪獣だが、これには必ず何らかの迷信がからまっているだろうと――そこで図書館へ飛んで行って、回鶻(ウイグル)辺に拡がっている土人の迷信を調べて見ると、あったあった大ありだ。あの辺にわずかに残っている、回鶻人の後裔達は――土耳古(トルコ)人との混血児(あいのこ)だが――燐光を纒った狛犬を彼らの神の本尊とし、狛犬を祭った神殿に対し、もしも無礼を加えたものは恐ろしい神罰を蒙(こう)むるだろうと、こう書いてあるその後へ、神罰の例が二つ三つ記してあったというものさ。神社の財宝を盗める者――狛犬の吠え声を耳に聞き、悪性の熱病にかかるべし。神殿の経文を盗めるもの――狛犬の姿を三度認め、三度目に命を失うべし云々……。
『それでは園長のエチガライは回鶻(ウイグル)人の後裔かな?』僕はその時疑ったものだ。とにかく僕は大急ぎで、動物園へ行ったものだ。真っ先に園長に逢って見ると、どうして立派な西班牙人だ。そして可哀そうに大病だ。しかも病気は神経病だ。脅迫観念に捉らわれている。それから女中に逢って見ると、一見土耳古(トルコ)の女だけれど支那人のようなところもある。しかしどのみち混血児(あいのこ)だ。僕は何気なく遠くから金貨を一つ投げてやった。すると女中は両足を開けて、腰を曲げながら受け取った。で男だとわかったのさ。投げられた物を受ける時女なら両足を閉じるからね。それから後は君が昨夜、親しく見た通りというものだ。回鶻(ウイグル)人という奴は――彼らだけではないけれど、一体に無智の人間ほど不思議な力を持っているもので、彼奴らはつまり妖術者なのだ。催眠術かも知れないが、とにかく一種の法力で、人間の心や体付きまで獣類に一変させるのだよ。……見込まれたのが園長だ。園長は決して悪人ではない。一個の学究に過ぎないのさ。学者という者は馬鹿のようなものだ。融通が利かないで正直だ。そこへ彼奴らはつけ込んだのさ。その上園長は市長の友で市長の家の案内を知り抜いているから好都合だった訳さ。そこで彼奴らは法術で――いわば一種の呪縛(じゅばく)だね。園長の意志を縛ってしまって、彼奴らの意志を代わりに注ぎ込み、かねて用意をして置いた細工を凝らした獣の皮をスッポリ園長へ着せてしまって、そこでおっ放したというものだ。こうして市長を脅かしたのさ。経文を盗んだくらいだから、もちろん市長はその狛犬の迷信も知っていたに違いない。燐光を放す狛犬を見てハッと思ったのは当然さ。それに市長は心臓病だ。一度ならず二度三度、そんな狛犬を見たとすると、心臓麻痺を起こすかも知れない。そうしてほんとに死んだかも知れない……ほんとにあぶないところだったよ。それで彼奴らは昨夜を最後に、引き上げようとしていたものさ。行きがけの駄賃に猛獣を放し、憎いマドリッドの市民達を――つまり彼らは東洋人で、あらゆる欧羅巴(ヨーロッパ)の人間を人種的に憎んでいるのだからね――食い殺させようと計ったものさ。幸い僕が気がついてすぐ警視庁へ電話をかけ、警官をひそかに呼び寄せておいて、園丁達に云いふくめ、あらかじめ猛獣を檻の中から出しておいたからよかったものの、そうでなかったら市民達の円(まど)かな眠りは醒まされたろう」
「しかしどういう方便で回鶻(ウイグル)人のあの男が園長と知るようになったのでしょう?」
「そんなことどうだっていいじゃないか。そこが学究の馬鹿な点さ。実はね、ここへ来る前に病院へちょっと寄ったものさ。エチガライ氏にいき逢ってその点について訊いて見ると、その説明が面白い――それはある時エチガライ氏が町を散歩していると、若い女の乞食(こじき)が来て手の中を乞うたというものだ。と見ると女の容貌が微妙な雑種を呈していて氏の好奇心をそそったので、そのまま家へ連れて来て女中に使っているうちに、友人の市長に懇望され譲ってやったということだった」
「聞いてみれば何んでもありませんなあ」
 レザールは思わず呟いた。
「どうです」とラシイヌは画家を見て、「あなたがもしも小説家ならよい小説が出来ますな」
「神秘でそして幽幻で大変面白い材料です。空想画として面白い。燐光を放って走って行く、獣のような人間を、一つ油(オイル)絵で描きましょうかな」
「獣人というような題にしてね」
 ラシイヌは笑って云ったものである。
 麗(うらら)かな春の午後である。

    第二回 沙漠の古都


        六

(以下は支那青年張教仁の備忘録の抜萃である) 夕暮れは室へも襲って来た。卓上のクロッカスの鉢植えの花は、睡むそうに首を垂れ初(そ)めた。本棚の上に置かれてあるバスコダガマの青銅像(ブロンズ)の額の辺へも陰影がついた。隣室を劃(くぎ)った垂帳(たれまく)のふっくりとした襞の凹所(くぼみ)は紫水晶のそれのような微妙な色彩(いろあい)をつけ出した。
 壁にかけられた油絵のけばけばしい金縁の光輝(ひかり)さえ、黄昏(たそがれ)時の室の中の、鼠紫の空気の中では毒々しく光ることは出来ないらしい。あちこちに置かれた玻璃(はり)の道具、錫の食器、青磁の瓶――燈火(ともしび)の点(つ)かない一刻を仮睡(うたたね)の夢でも結んでいるように皆ひそやかに静まっている。
 月はもう空に懸かってはいるがしかし太陽は没していない。昼でもなければ夜でもない。夜と昼との溶け合った真に美しい一刻である。
 薄暮時(たそがれどき)のこの一刻を、私はしばらく味わおうとして食堂の椅子へ腰かけていた。
 耳を澄ませば窓の外の芭蕉や蘇鉄の茂みから孔雀の啼き声が聞こえて来る。名残の太陽を一杯に浴びてまだまだ戸外は明るいと見える。孔雀の啼き声と競うように高い鋭い金属性の鸚鵡(おうむ)の啼き声も聞こえて来る。窓外の壁板に纒っている冬薔薇の花が零(こぼ)すのであろう、嗅ぐ人の心を誘って遠い思い出へ運んで行くような甘い物憂いまた優しい花の香が開け放された窓を通して馨って来る。その花の香に誘われて私の心は卒然と三年前に振りすてた故国の我が家へ帰って行く。……
 夕の鐘が鳴り出した。回教寺院(モスク)で鳴らす祈祷の鐘だ。冬といってもこの西班牙(スペイン)のマドリッドの暖さはどうだろう! 秋の初めと変りがない。雪は愚か雨さえもこの一ヵ月降ろうともしない。乾き切った十二月の空を通して鳴り渡る回教寺院(モスク)の鐘の音の音色の高いのは当然だ。しかし神々しい鐘の音ももう明日からは聞かれまい。明日はこの国ともおさらばだ。東洋と西洋とを一つに蒐(あつ)めて亜弗利加(アフリカ)の風土を取り入れたような、異国情調のきわめて深い世にも懐しい西班牙(スペイン)を立って明日は沙漠へ向かわねばならぬ。支那の西域羅布(ロブ)の沙漠! そこへ私は出かけるのだ。沙漠は私を呼んでいる。その呼び声を聞く時は西班牙(スペイン)を懐かしむ心などは跡方もなく消えてしまう! 私は今日までまあどんなにその呼び声を待ちかねたろう……冬薔薇の匂いがまた匂う。三年前に立ち去った故国の我が家の面影がまたもわが眼に映って来る。私の思い出はその家へ今なつかしく帰って行く。

 支那広東裳花街。そこに私の家がある。家といっても父も母も遠い昔に死に絶えてたった一人の妹だけが老婆の召使いと二人きりで寂しく暮らしているばかりだ。父母は革命の犠牲となって袁世凱(えんせいがい)の軍に殺された。そして家財は没収され家の大半は焼き払らわれてしまった。その時私は十五歳であった。そうして妹は十一であった。忠義な召使い夫婦の者に私達兄妹は救われた。焼け残った家へ立ち帰って父母の屍(なきがら)を葬ってからの私達兄妹の生活は昔の栄華に引き代えて世にも貧しいものであった。南支那切っての貿易商、南支那切っての名門の家――その家の形見の私達兄妹は世間の人達からは嘲笑され生き残った召使い達には逃げられて、私達兄妹を助けてくれた老召使い夫婦の者だけにかしずかれてわずかに生きていた。そのうち召使いの老人は弾傷が原因(もと)でこの世を去り私達二人の孤児(みなしご)は良人を失った老婆一人を手頼(たよ)りにしなければならなかった。私は実際その時まではただ可哀そうな名門の児――意気地のない貴公子に過ぎなかったがこの時慨然と震い立った。私は剣をとったのだ。革命党に参じたのだ。孫逸仙の旗下に従(つ)いたのである。
「黄蓮!」と私はある日のこと――慨然と立ったその日のこと妹に決心を打ち明けた。「私を自由にさせておくれ。私を戦(いくさ)に行かせておくれ。父母の仇敵は袁世凱だ。あいつを生かしては置かれない。あいつは民国の仇なのだ! あいつをこのまま放抛(うっちゃ)って置いたらきっと皇帝になるだろう。あんな匹夫を皇帝に戴いて私達は生きていられるかい。あいつは匹夫で姦賊なのだ! 曹操のような人間だ。なんの曹操にも当たらない。あいつはむしろ王※(おうもう)[#「くさかんむり/奔」、34-12]なのだ! 王※[#「くさかんむり/奔」、34-12]を皇帝に戴いた時の漢の天下はどうだったろう? 酷(ひど)い塗炭の苦しみに人民はどんなにもがいたかしれなかった。王※[#「くさかんむり/奔」、34-14]よりももっと袁世凱は匹夫なのだ。その上父母の仇敵だ。私はあいつを討つために革命軍に投じようと思う。どうぞ私を行かせておくれ。私が行ってしまったらお前はきっと寂しいだろう。お前の寂しさを思いやると私の決心は弛むけれど、国の大事には代えられない。たとえ戦に出て行っても時々家へ帰って来よう。そうしてお前を慰めてあげよう。私は決心したのだよ。私を自由にさせておくれ」
 すると妹は微笑して――眼には涙を溜めてはいたが――私の言葉に頷いた。
「私に心配はいりません」妹は優しく云ったものである。「私は老婆(ばあや)とお留守をしていつまでもここにおりましょう。そして兄さんのご決心がとげられるように神様へお祈りをしておりましょう」
 優しい妹のこの言葉で決心は一層堅くなった。そこで充分妹のことを老婆に頼んだその後で私は家を出たのであった。孫文元帥の陣中では私は最初旗手であった。しかし間もなく自分から望んで軍事探偵の任務を帯び窃(ひそ)かに北京へ忍び込み讐敵の動静を窺った。袁総統の権勢は飛んでいる鳥を落とすほどで容易に接近出来なかった。それでも私は根気よく彼の身辺を窺(うかが)った。こうして星移り物変り幾星霜が飛び去って行った。果然王※(おうもう)[#「くさかんむり/奔」、35-7]は頭巾を脱いでその野望をあらわした。袁皇帝と称えようとした。釜で煮られる湯のように中国はにわかに騒ぎ立ち袁討伐の呪いの声が津々浦々にまで鳴り渡った。国民の輿望を一身に負って袁討伐の征皷を四百余の州に響かせたのは孫文先生その人で、漢の代の王※[#「くさかんむり/奔」、35-10]を滅ぼした劉秀がこの世へ現われたかのように、先生の態度は勇ましく先生の人望は目覚ましかった。
 その頃私は名を変じ身分を変え、軽奴となって袁総統宮殿の門衛の一人に住み込んでいた。そうして機会を窺って国と父母の仇を刺そうとした。

 ある夜深更のことであった。おりから春の朧月が苑内の樹立(こだち)や湖を照らし紗の薄衣(うすもの)でも纒ったように大体の景色を□(ろう)たけて見せ、諸所に聳えている宮殿の窓から垂帳(たれまく)を通して零(こぼ)れる燈火(ひ)が花園の花木を朧ろに染め、苑内のありさまは文字通り全く幻しの園であった。私は詰め所からうかうか出て苑内深く逍遙(さまよ)って行った。あたりは森(しん)と静かである。誰も咎める者もない。
「寂々タル孤鶯ハ杏園ニ啼キ、寥々タル一犬ハ桃源ニ吠ユ――」
 自分はその時劉長卿の詩を何気なく中音に吟じながら奥へ奥へと歩いて行った。そういえばほんとに花園の中で鶯が寝とぼけて啼いている。犬も遠くの方で吠えている。
「顛狂スルノ柳絮ハ風ニ随ツテ舞ヒ、軽薄ノ桃花ハ水ヲ逐フテ流ル――」
 杜工部の詩を吟(うな)った時には湖水に掛けた浮き橋を島の方へいつか渡っていた。橋を渡って島へ上り花木の間に設けられてある亭(ちん)の方へ静かに歩いて行った。
 その時嗄がれた老人の声が亭(ちん)の中から聞こえて来た。
「そこへ来たのは何者じゃ? いや何者でも構わない。話し相手になってくれ――さあここへ来て腰をかけろ」
 私はちょっと驚いたが構わず中へはいって行った。でっぷり肥えた小作りの、粗末な衣裳を身に纒った老人が縁に腰かけている。大輪の木蘭の花の影が老人の顔の上に落ちているのでハッキリ輪廓は解らなかったが、老人はじっと眼を閉じて何か考えているらしく、身動き一つしなかった。私も縁へ腰かけた。こうして二人はしばらくの間ものも云わずに向かい合っていた。
 と、老人は眼を開き、その眼を私に注いだが、
「お前はこの景色をどう思うな? 林泉、宮殿、花園、孤島、春の月が朧ろに照らしている。横笛の音色が響いて来る……美しいとは思わぬかな? ――もっともお前は打ち見たところまだ大変若いようだ。自然の風景の美しさなどには無関心かも知れないが」
「美しい景色だと思います。雄大ではありませんが華麗です。自然というよりも人工的で技巧の極致を備えています」
「君はなかなか批評家だ。いかにも君の云う通り技巧に富んだ風景じゃ。君はこういう庭園を所有したいとは思わぬかな?」
「所有(も)ってみたいとも思いますし、所有(も)ってみたくないとも思います」
 私が云うと老人は嗄がれた声で笑ったが、
「君はなかなか皮肉屋だね。ところで君のその言葉の、意味の説明を聞きたいものじゃ」
「これという意味もありませんが、こういう庭園を持つ者は王侯以外にはございません。こういう庭園を持つという意味は王侯になることでございます。男子と生まれて王侯となるのは目覚ましいことでもございますし願わしい限りでもございますが、さて王侯になって見たら側目(わきめ)で見たほどには楽しくもなく嬉しくもないかも知れません。楽しくも嬉しくもないのならこんな庭園を所有するような王侯になっても仕方がない。こう思うからでございます」
 すると老人は忍び音に面白そうに笑ったが、
「君は老子の徒輩と見える、虚無恬淡(てんたん)の男と見える。二十(はたち)そこそこの若い身空でそう恬淡では困るじゃないか。どうやら君はここへ来る時詩を微吟していたらしいが、無慾の君のことだから、『贈レ僧(そうにおくる)』という杜荀鶴の詩でも、暗誦していたんじゃあるまいかな?」
「いいえ」と私は笑いながら、「杜荀鶴のその詩は存じません。私の吟じたのは杜工部です」
「知らぬというのなら教えてやろう――私(わし)には思い出の詩じゃからの」
 老人の言葉には威厳がある。底知れないような深みもあり聴いている人を押しつけるような圧力さえも持っていた。私は次第にこの老人に敬服するようになって来た。そして私は疑った。
「この老人は何者だろう? 官人かそれとも府の役人か? ただ者のようには思われない」しかし老人の顔の上には依然として木蘭の花の影が黒々と落ちているために確かめることは出来なかった。
 その時老人は感慨をこめて杜荀鶴の詩を微吟した。
「利門名路両ナガラ何ゾ憑ラン、百歳ハ風前短焔ノ燈、只恐ラクハ僧ト為テ心了セザルコトヲ、僧ト為テ心了セバ総テ僧ニ輸セン――どうじゃな、これが杜荀鶴の詩じゃ。上手の作とは思わぬが私にとっては思い出の詩じゃ。只恐ラクハ僧ト為テ心了セザルコトヲ、私(わし)は若い時この詩を読んで一生の目的を定めたのじゃ。実はこの私(わし)も若い時にはちょうどお前と同じように名利の念に薄かった。布衣(ほい)であろうと王侯であろうと人間の一生は同じことじゃ。王侯などになったならかえって苦労が多かろう。布衣の方がなかなか気楽らしいなどと思っていたものじゃ。しかるにこの詩を見た時に私はほんとにこう思った。浮世を捨てて僧に成ってさえ決して心了せないものを布衣でいたなら尚のこと心は満足しないだろう。どのような位置にいたところで人の心は安まらない。同じく心が安まらないものなら、人と産まれた果報には、思い切ってこの身を働かせて大事業をするのも面白かろう。それが男子の本懐じゃ! つまりこのように思ったのじゃ。そこで私(わし)は考えた。富貴に向かおうか王侯に成ろうかとな、私(わし)は両方を征服しよう! 慾深くこのように考えた。それから私は努力(つと)めたものだ。二十年三十年四十年、馬車馬のように突き進んだ。そして美しかった青年の私(わし)が、いつの間にかこんな老人となり死病にさえもとりつかれて余命少くなってしまった。なるほど私(わし)は人間として得べきだけの福禄は得たけれど、得れば得るほど尚得たいという望蜀の念に攻められて安穏の日とては一日もない。そして私(わし)には敵がある。兇刃、鴆(ちん)毒、拳銃の類が四方八方から取り巻いている。そして私には死んだ人々の怨霊が日夜憑ついていて安らかな眠りを妨げる。私は金持ちだが金持ちだけにもっと大金が欲しいのじゃ。小さな野心は大野心を孕(はら)み大きな野心は最大の野心を産む。あらゆる人間は野心のために自分の身心を切りきざむ。私はその例のよい標本じゃ。そこで私はこう思った。杜荀鶴の詩(うた)を読んだ時に何故こんな決心をしたのだろう。こんな決心をする代りにいっそ出家をしていたら多少の安心は出来たろうと。今になっては返らぬ愚痴じゃ。もうどうしようにも仕方がない境遇が私を引っ張って行く。今さら出家はもう出来ぬ。私は境遇の傀儡(かいらい)となって盲目(めくら)滅法に進むまでじゃ。こういう憐れな境遇にいる私(わし)のせめてもの慰めといえば、夜な夜なこのように姿を変えてあらゆる人間から遠ざかり、一人自然の懐中(ふところ)へはいって悠々と逍遙することじゃ。しかし唯一のその楽しみも長く味わう事は出来ないだろう。私は死病に憑かれていてじきに死ななければならないからの」
 老人はしばらく考えたが重々しい調子で云いつづけた。
「明日にも私(わし)は死ぬかもしれぬ。こう云っているうちにも死ぬかもしれぬ。そこでお前に頼みがある。いいや頼みというよりもむしろお前に慫慂(すすめ)るのだ。そうだ慫慂るのだ」
 こう云って老人は懐中から小さな手箱を取り出したが、それを私の前へ置き、
「これをお前に進呈する。家へ帰って開くがいい。お前の今後の運命はこれによってきっと定まるだろう。もし手に余ると思ったら謹んで土に埋めるがいい。これは天から授かったものじゃ。最初は私に授かった。私は天からの授かりものを自分のものにしようとした。しかし今ではもう遅い。私の命数は定まっていて、どうすることも出来ないのじゃ。それで私への福運を改めて私からお前へ譲る。天から授かったと同じことじゃ。しかしどのような幸福でもそれを得ようと思うにはまず艱難を冒(おか)さねばならぬ。手箱の中にある幸福を完全に握ろうとするからにはやはり艱難を冒さねばならぬ。その艱難が恐かったらその幸福を捨てるがいい、手箱を土中へ埋めるがいい……しかしお前はこの私が初めて逢った他人のお前へこんな大切な幸福の箱を何故易々と渡すのかと不思議に思うかもしれないが、それは決して不思議ではない。正直のところこの私は手箱を譲ってやりたいような味方を一人も持っていない。私(わし)の周囲(まわり)にいる者は一人残らず皆敵じゃ。衣を纒った狼じゃ。で私は素晴らしい幸運を他人のお前へ渡すのじゃ」
 不思議な老人はこう云うと縁からスラリと立ち上がった。そして私へは構わずに亭(ちん)を離れて歩き出した。私はしばらく呆気(あっけ)にとられ老人の姿を見送っていたが気がついて背後(うしろ)から声をかけた。
「ご老人!」と私は忍び音で、「お名前をおきかせくださいまし、いったいどなたでございます?」
 すると老人は振り返ったが、
「この国で一番不幸な男! それがすなわちこの私(わし)じゃ」
「この国で一番不幸な男? それがご老人だとおっしゃいますか?」
「世間の人達は反対にこの国で一番幸福者(しあわせもの)がこの私(わし)じゃなどと云っている」
「どうも私にはわかりません……」私は老人を見守った。
「ここにある宮殿や庭園はみんなこの私(わし)の所有物(もちもの)じゃ……四百余州の天も地も今では私の自由になる。私はそういう人間じゃ」

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