銀三十枚
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著者名:国枝史郎 



「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。まんざらの男振りでもない意(つもり)だ。いう事を聞きな、いう事を聞きな」
 ユダはこう云って抱き介(かか)えようとした。
 猶太(ユダヤ)第一美貌の娼婦、マグダラのマリアは鼻で笑った。
「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」
「え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか」
「胸をご覧、妾(あたし)の胸を」
 マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダはくらくらと目が廻った。
「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」
「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく解(わか)った」
 ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革商人(あきゅうど)のヤコブであった。
「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」
 革財布をチャラチャラ揺すぶった。
「どれお見せ!」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、
「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」
 寝室の戸をギーと開けた。
 充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。
 マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。
 銀三十枚が股の上にあった。
「畜生!」と突然彼女は叫んだ。
「一杯食った! ヤコブ面に!」
 三十枚の銀をぶちまけた。
「マリア!」とその時呼ぶ声がした。
「誰(だアれ)!」と彼女は娼婦声で云った。
「解らないのかい。驚いたなあ」
「あら解ってよ。お入んなさい」
 彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。
「これはこれは」と彼は云った。
「銀(しろがね)の洪水と見えますわい」
「よかったらお前さん持っておいでな」
「気前がいいな。そいつアほんとか?」
 カヤパは勿怪(もっけ)な顔をした。



 イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、棕樹(そうじゅ)、橄欖(かんらん)、無花果(いちじく)の木々を、銀鼠色に燻らせていた。
 肉柱(にくけい)の香、沈丁(ちんちょう)の香、空気は匂いに充たされていた。
 十三人は歩いて行った。
 小鳥が塒(ねぐら)で騒ぎ出した。その跫音(あしおと)に驚いたのであろう。
 と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの渓流(ながれ)、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。
 月光は黎明を想わせた。
 十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。
 イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。
 ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。
 彼にはイエスが疑わしく見えた。
 イエスに疑念を挟(さしはさ)んだのは、かなり以前(まえ)からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。
 女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。
「瞽(めし)いた者は見ることが出来、跛(あしな)えた者は歩くことが出来、癩病(やめ)る者は潔まることが出来、聾(し)いた者は聞くことが出来、死んだ者は復活(よみが)えることが出来、貧者は福音を聞かされる。俺(わし)に来たる者は幸福(さいわい)である」と。
 その時ユダはこう思った。
「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」
 しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。
 浅薄(あさはか)な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。
「神とは一体何だろう?」
 ユダはここから発足した。
「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物! 猶太教(ユダヤきょう)ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか?」



 ユダはその説とは反対であった。
「宇宙は[#「「宇宙は」は底本では「 宇宙は」]決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻っている。勝手に生れ死んでいる。神! そんな物は存在しない」
 イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。
 そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に手頼(たよ)り「神の国」を建てようとする愛国狂が、ユダの眼には滑稽に見えた。
 ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。
 そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。
「お前達が俺(わし)を尋ねるのは、パンを貰ったためだろう? だがお前達よそれは可(よ)くない。朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働くがいい。……神は今やお前達へ、真のパンをお与えなされた。この俺こそそのパンだ。俺に来る者は飢えないだろう、俺を信ずる者は渇かないだろう」
「莫迦な話だ」とユダは思った。
「預言者どころの騒ぎではない。彼奴(あいつ)はひどい利己主義者だ。途方もない妄想狂だ。『朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働け』という。これこそ妄想狂の白昼夢だ。永生とは一体何だろう? 生命(いのち)ある物はきっと死ぬ。永存する物は無生物だけだ。『俺に来る者は飢えないだろう。俺を信ずる者は渇かないだろう』ではお前へ行かない者は飢えるということになるのだな。ではお前を信じない者は、渇くということになるのだな。彼奴は要するに大山師だ!」
 ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。

 十三人は歩いて行った。
 次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。木乃伊(ミイラ)のように痩せて見えた。
 ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。
 ――イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような平和(おだやか)さがなく、木の根や岩に躓(つまず)いた。そうして幾度も休息した。それでもそのつど説教した。
 楊(やなぎ)の茂みを潜りぬけ、ケロデンの渓流(ながれ)を徒歩(かち)渡りし、やがてゲッセマネの廃園へ来た。
 イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。
「さあお前達は監視(みまも)っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」
 こう云ってイエスは奥へ進んだ。
「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」
 ついに三人をさえ追い払った。
 イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。
 と、林が立っていた。楊、橄欖(かんらん)の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。
 突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。
「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」
 白痴(ばか)か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。



 ユダは後を尾行(つけ)て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。
 彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾(やまし)くなかった事を知ることが出来た。
「彼奴(あいつ)はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者(キリスト)なものか! 預言者(よげんしゃ)なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。
「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」
 彼は心に痛みを感じた。
「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」
 梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。
 やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。
 不安と疲労(つかれ)とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々(こんこん)として眠っていた。
 イエスは一人々々呼び起こした。
「眠っては不可(いけ)ない。お祈りをしよう」
 ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。
 しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。[#「眠り出した。」は底本では「眠り出した、」]麻痺的に病的に眠いらしい。
「また眠るのか、何ということだ! 惑(まど)いに[#「惑(まど)いに」は底本では「惑(まどい)いに」]入らぬよう祈るがいい」
 イエスは如何(いか)にも寂しそうに云った。
 と、にわかに叫び声を上げた。
「時は近づいた! 遣って来た!」
 麓の方を指さした。
 山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。
 打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。
「うん、来たな」とユダは云った。
 それからその方へ小走って行った。
 ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。
「マルコ」とユダは近寄って行った。
「接吻が合図だ。間違うなよ」
「大丈夫だ。大丈夫だ」
 そこで一隊は歩き出した。傍路(わきみち)からユダは先へ廻った。
「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」
 ユダは走りながらワクワクした。
 マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。
 使徒達はイエスを囲繞(とりま)いた。
 イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついていた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。
 その時無花果(いちじく)の茂みを分け、つとユダが進み出た。
「ラビ、安きか!」とユダは云った。
 そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。
 イエスの顔はひん曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。
 が、その次の瞬間には、以前(まえ)の態度に返っていた。
 兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。
「お前達は誰を訊(たず)ねるのだ?」
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「ナザレのイエスを? では俺だ」
 マルコと兵士とは後退りした。
「お前達は誰を訊ねるのだ?」
 またイエスはこう訊いた。
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を発見(みつけだ)した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」
 こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ跪(ひざまず)いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。
 ユダだけは一人立っていた。



 それは劇的の光景であった。
 だが何物にも変化はなかった。
 沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
 ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側(そば)で、曳かれて来るキリストを待っていた。
 それは劇的の光景であった。
 使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から贈(くだ)された盃だ」
 彼は両手を差し出した。
 彼は、従容(しょうよう)と縄を受けた。

 誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山(かんらんざん)は静かになった。
 ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望(のぞ)んでいた人の様に、従容と縛に就(つ)こうとは? 一体彼奴(あいつ)は何者だろう?」
 ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。
 楊(やなぎ)の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。
 どうにも不安でならなかった。

 イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。
 祭司長カヤパはこう訊いた。
「お前は本当に神の子か?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「人の子大権(たいけん)の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」
 カヤパの司どる猶太教(ユダヤきょう)からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は将(まさ)に死に当たった。
 人を死罪に行なうには、羅馬(ローマ)政府の方伯(ほうはく)たるピラトに聞かなければならなかった。
 サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。
 やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて行った。
 それは金曜日にあたっていた。おりから逾越(すぎこし)の祝日(いわいび)で、往来には群集が漲っていた。家内では男女がはしゃいでいた。
 ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。
 イエス一人を庁内へ呼び、
「お前は猶太の王なのか?」
 彼は先ずこう訊いた。
「我国はこの世の国ではない」
 これがイエスの返辞であった。
「とにかくお前は王なのか?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」
 イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。
 玄関へ出て彼は云った。
「この男には罪はない」
 しかし群集は喜ばなかった。イエスを戸外(そと)へ引き出した。棘(いばら)の冕(かんむり)を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に[#「一整に」はママ]声を上げた。
「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」
 エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。
 草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。
 イエスは十字架へ附けられた。
 彼の苦しみは三時間つづいた。
「事は終った」と彼は云った。
 彼の生命(いのち)が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。



 この頃ユダは橄欖山(かんらんざん)を、狂人(きちがい)のように歩いていた。
「彼は恐れず悲しまず、従容(しょうよう)として死んで行った。とにもかくにも凡人ではない。……では彼奴(あいつ)は預言者か?」
 ユダにはそうは思われなかった。
「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」
 ユダはある歌を想い出した。それはイエスが幼(ちいさい)時から、愛誦したという歌であった。
至誠(まこと)をもて彼道を示さん
彼は衰(おとろ)えず落胆(きおち)せざるべし
道を地に立て終るまでは
彼は侮どられて人に捨られ
悲哀(かなしみ)の人にして悩みを知れり
「なるほど」とユダは呟いた。
「彼奴の如何(いか)にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴にあてはまるからな」
「侮どられて人に捨られぬ」
「ほんとに侮どられて捨られた」
「彼は衰えず落胆せざるべし」
「これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか?」
 ユダはにわかに行き詰まった。
「よし預言者でないにしても、妄信者以上の何者か、偉大な人間ではなかったろうか?」
 彼の胸は痛くなった。
「いけないいけないこういう考えは! 世の中に偉人なんかありはしない。あると思うのは偏見だ。生きている物と死んでいる物、要するにただそれだけだ。そうして生物の世界では、雄と雌とがあるばかりだ。雌だ! 女だ! あっ、マリア!」
 ユダは周章(あわて)て懐中(ふところ)を探った。銀三十枚が入っていた。

 マグダラのマリアは唄っていた。
キリスト様が死んだとさ
「ふん、いい気味だ、思い知ったか。……妾(わたし)は最初(はじめ)あの人が好きで、香油(においあぶら)で足を洗い、精々ご機嫌を取ったのに、見返ろうとさえしなかったんだからね。そこでカヤパを情夫(いろ)にして、進めてあの人を殺させたのさ」
「マリア!」とユダが飛び込んで来た。
「銀三十枚! さあどうだ!」
 ユダはマリアを抱き縮(すく)めた。
「まあお待ちよ、どれお見せ」
 革財布をひったくり、一眼中を覗いたが、
「お気の毒さま、贋金だよ! 一度は妾も瞞(だま)されたが、へん、二度とは喰うものか! お前、カヤパに貰ったね。妾がカヤパに遣ったのさ」

 ここ迄話して来た佐伯(さえき)氏は、椅子からヒョイと立ち上ると、ひどく異国的の革財布を、蒐集棚から取り出した。
「まあご覧なさい、これですよ、いまの伝説(はなし)の銀貨はね」
 ドサリと投げるように卓(テーブル)の上へ置いた。
「私がエルサレムへ行った時、ある古道具屋で買ったもので勿論本物ではありません。あっちにもこっちにもあるやつでね。漫遊者相手のイカ物ですよ。……だが面白いじゃアありませんか、今も猶太(ユダヤ)の人間は、私がお話ししたように、キリストとユダとマリアとをそう解釈しているのですよ。そうして銀貨まで拵えて、理(もっとも)らしく売り付けるのです。猶太人に逢っちゃ敵(かな)わない。一番馬鹿なのがキリストで、その次に馬鹿なのがイスカリオテのユダ、そうしてその次がマリア嬢で、一番利口なのが革商人ということになるのですからね」
 私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな貨幣(もの)で、持ち重りするほど重かった。そうして昨日(きのう)鋳たかのように、ひどくいい色に輝いていた。
「恐ろしく重いじゃアありませんか」
 私は吃驚(びっくり)して佐伯氏に云った。
「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?」
「さあ、そいつは解(わか)りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか」
 いかにも面白い紋章であった。
「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」
「ええなりますとも大なりです」
 こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、定(き)まって一つの話をして、そうして書けというからであった。もう鼻に付いていた。
 とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。



「是非お書きなさい、お進めします」
 旅行家でもあり蒐集家でもある、佐伯準一郎氏はこう云った。
「ついては貨幣をお貸ししましょう。その紋章を調べるだけでも、趣味があるじゃアありませんか。一枚と云わず三十枚、みんな持っておいでなさい。実は私は明日か明後日、またちょっと旅行に出かけますので、当分それは不用なのです。紛失(なく)されてはいささか困りますが、紛失なるような物ではなし、お貸しするとは云うものの、その実保管が願いたいので、ナーニご遠慮にゃア及びません。……それはそうと随分重い、とても持っては帰れますまい。ひとつ貸自動車(タクシ)を呼びましょう」
 事実私はその貨幣にも、貨幣の紋章にも興味があった。そうして物語に綴るとしても、何かそういう貨幣のような、物的参考があるということは、確実性を現わす上に、非常に便利に思われた。
 私は遠慮なく借りることにした。
 その中タクシがやって来た。
 佐伯氏は貨幣を革財布へ入れ、そうしてタクシへ運び込んでくれた。
「いずれ旅行から帰りましたら、お手紙を上げることにいたしましょう。いや私がお訪ねしましょう。文士の家庭を見るということも、ちょっと私には興味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」
 佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。
「左様なら」と私は帽子を取った。
「左様なら」と佐伯氏は微笑した。
 だが私にはその微笑[#「微笑」は底本では「微少」]が、ひどく気味悪く思われた。
 名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは駛(はし)って行った。



 私のタクシは駛って行った。
 公園は冬霧に埋もれていた。
 公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。
 名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の住居(すまい)であった。
 そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。
 妻の粂子(くめこ)は起きていた。
「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き介(かか)えた。それから頬をおっ付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。
 二階の書斎へ入って行った。
「おい好い物を見せてあげよう。これはね、猶太(ユダヤ)の銀貨なのさ」
 財布から銀貨を取り出した。
「まあやけに大きいのね」
 彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部義歯(いれば)であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それがひどく彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。
 その眼で愉快そうに笑った。
 私はそこで説明した。
「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」
 紋章はみんな異(ちが)っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っていた。貨幣の縁を囲繞(とりまい)ているのは、浮彫にされたローレルの葉で、その中に肖像が打ち出されてあった。肖像が異っているのであった。私は一つを取り上げて見た。長髪を肩までダラリと下げた、悲しそうではあるが高朗とした、間違いない基督(キリスト)の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。頭の禿げた眼の落ち込んだ、薄い唇を噛みしめた、意志の権化とでも云いたげな、老人の姿が打ち出されてあった。使徒ペテロに相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。火のように髪を渦巻かせ、瞑想的の眼を空へ向け、感覚的の唇を幽かに開けた、詩人のような人物が、ローレルの葉に囲繞かれていた。黙示録の著者に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。丸顔で無髯で眼の細い、平和的の使徒の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。最初にサマリヤへ布教した、ピリポの肖像に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。無気力ではないかと思われる程、痩せた皺だらけの貧相な顔が、その貨幣には打ち出されてあった。ヘロデ王の兇刃によって、無慚に殺された使徒ヤコブ、その肖像に相違なかった。
 もう一つの貨幣を取り上げて見た。それにも肖像が打ち出されてあった。
「うん、こいつはイスカリオテのユダだ」
 私は直(す)ぐに知ることが出来た。そんなにもそれは特色的であった。一見醜悪の容貌であった。だが仔細に見る時は、恐ろしく勝れた容貌であった。先づ顱頂部が禿げていた。しかし左右の両耳から、項へかけて髪があった。つまり頭の後半を、髪が輪取っているのであった。これが一見不愉快に見えた。しかしこれは一方から云えば、学者などに見る叡智の相で、決して笑うことの出来ないものであった。額が不自然に狭かった。これも一見不愉快であった。先天的犯罪人の相でもあった。が、これとて一方から云えばソクラテスの額に似ていると云った、一種病的な天才等に、往々見受けられる額であった。両眼がひどく飛び出していた。枝の端などで突かれなければよいが、こんな事を思わせる程飛び出していた。だがやっぱりこの眼付きも、ソクラテスの眼付きに似ているのであった。非常に智的な眼付きなのであった。鼻は所謂(いわゆ)る獅子鼻であった。唇がムックリ膨れ上っていた。二つながら強い意志の力の、表現だと云ってもよさそうであった。反逆性のあることを、さながらに示した高い頬骨、精神的苦悶の著しさを、そっくり現わした満面の皺、断じて俺は妥協しない! こう言いたげな根張った顎、そうして頸は戦闘的に、牡牛のように太かった。
 顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。
「いかなる物をも信じないよ」
 こう云っているような顔であった。



「なるほど」と私は心の中で云った。
「従来の美学から云う時は、これは将(まさ)しく非審美的の顔だ。女や子供には喜ばれまい。だがしかしこの顔こそ、本当の人間の顔ではないか」
 基督(キリスト)の肖像と並べて見た。洵(まこと)に面白い対照であった。信仰、柔和、愛、忍従、これが基督の肖像に、充ち溢れている特徴であった。全体が細身で美しく、古典的に調っていた。力が非常に弱かった。虚無、憤怒、憎悪、反抗、これがユダの肖像に、行き渡っている特色であった。全体が野太く荒削りで、近代的に畸形であった。力が恐ろしく強かった。
「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。[#「掴むがいい。」は底本では「掴むがいい、」]だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を動(そそ)られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」
 基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。
 一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、耶蘇(エス)基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。
 モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。
「猶太(ユダヤ)の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはずだ。ところが英語で署名してある。これ一つでもこの銀貨の、贋物ということが証明できる」
 私は思わず呟いた。
「いいえ」とその時妻が云った。
「え?」と私は顔を上げた。
 紋章の研究に心を奪われ、彼女の事を忘れていた。
「お前何とか云ったかい」
 彼女は返事をしなかった。彼女の表情には変なものがあった。眼が銀貨に食い付いていた。燃えるような熱のある眼であった。頬が病的に充血していた。ふっと彼女は私を見た。疑惑に充ちた眼であった。
「貴郎(あなた)」と彼女は叱るように云った。
「何人(どなた)からお借りしていらしったの? こんな妙な気味の悪いものを」
「気味が悪いって? どうしてだい?」
 いわゆる唖然とした心持で、聞き返さざるを得なかった。
「贋金なんだよ、古代猶太のね」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「何人からお借りしていらしったの? 聞かせて下さいよ。さあ直ぐに」
 厳粛(げんしゅく)と云いたいような声であった。彼女にそぐわない声であった。
「佐伯って人だ。佐伯準一郎」
 何だか私は不安になった。
「立派な紳士だよ、蒐集家なんだ」
「佐伯準一郎? 聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの?」
 私は急に厭になった。
「また何かを嗅ぎ付けやがったな、ほんとに仕方のない目っ早小僧だ! だが今度はお生憎様さ、ちょっとも引け目なんかないんだからな」
 こんなように考えた。
 で、私はやっつけるように云った。
「これから俺の人名簿へ、新しく記(つ)けようっていう友人なのさ」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「どうしてどこでお友達になって?」
「公園でだよ。鶴舞公園でね」
「いつ?」と彼女は追っかけて訊いた。叱るような声であった。
 危うく反感を持とうとした。しかし私は差し控えた。不安どころか悲しみをさえ、彼女の顔に見たからであった。
「今日の昼さ。病院の帰りにね。……何だかひどく心配そうだなあ。その可愛い凸ちゃんを、心配させちゃア可哀そうだ。よし来た詳しく話してやろう」
 ――私はバセドー氏病の患者であった。毎週一回病院へ通って、かなり強いレントゲンの、放射を受けなければならなかった。その往復に公園を通った。鶴舞公園はいい公園で、日比谷以上に調っていた。一つのロハ台へ腰を掛け、好きなラ・ラビアを喫(ふ)かすのが、夏以来の習慣であった。
 冬も冬、一月中旬、冷たい風が吹き迷っていたのに、この習慣は止められず、その日も私はロハ台に倚(よ)って、ラ・ラビアを喫かしていた。

10

 その時毛皮の外套を着た、四十五六の立派な紳士が、私の横へ腰を掛け、ゆるやかに葉巻を喫かし出した。
「あの大変失礼ですが、貴郎(あなた)は美術家ではいらっしゃいませんか?」
 紳士が卒然話しかけた。
「いえ」と私は素っ気なく云った。
 私は私の趣味として、商売のことを訊かれるのと、年齢のことを訊かれるのとを、好まないばかりか嫌っていた。そうして私はそんなように、見知らない人から話しかけられるのを、これまた趣味として好まなかった。
 紳士は外套の内衣兜(かくし)から、ゆっくり名刺入れを取り出した。一揖すると名刺を出した。
「私、佐伯と申します。最近欧羅巴(ヨーロッパ)から帰りましたもので」
 これは益々私にとっては、好ましくない態度であった。洋行帰りがどうしたんだ! あぶなく心で毒吐こうとした。しかしそいつをしなかったのは、その佐伯という紳士の態度が、よい意味における慇懃で、こしらえた所がなかったからであった。
 私も名刺を手渡した。
「おやそれでは一條さんで。よくお名前は存じて居ります。たしかお作も見たはずです。いや私は最初から、芸術家でいらっしゃると思っていました。それでお言葉を掛けましたので。全く芸術家の方々には、一つの型がございますのでね」
 この言葉は中(あた)っていた。芸術家には型があった。たいして愉快な型ではないが。
「はなはだ突然で不作法ですが、ご迷惑でなかったら拙宅へ、これからおいで下さるまいか。お見せしたい物がありますので、恐らくお気にも入りましょう。実は私は好事家でしてな、その方面ではかなり広く、海外へも参って居りますので。相当珍品も集まって居ります。宅は公園の直ぐ裏で。ええそうです××町です。ナーニご遠慮にゃア及びません。私の方から見て頂きたいので。訳の解らない骨董屋などより、芸術家のお方に見て頂いた方が、どんなに有難いか知れません。物を集めるということは、自分の趣味性を充たすと同時に、やはり具眼者に見て頂いて、その批評を承わるのが、目的の一つでございますからね」
 佐伯準一郎氏はこんなことを云った。
 慇懃で如才なくて魅力的で、断わりかねるような云い方であった。そこで私は行くことにした。こうして私の見せられたのは、伝説の銀三十枚であった。

11

 私の話を聞いてしまうと、妻は一層不安そうにした。
「それでお借りしていらっしゃったのね。まあ本当に仕方のない方!」
 バタバタと階下(した)へ下りて行った。
 箪笥(たんす)を引き出す音がした。
 彼女は書斎へ帰って来た。
「さあ比べてご覧なさい」
 彼女は指環を投げ出した。
「ね、白金(プラチナ)じゃアありませんか」
 指環は白金に相違なかった。それが白金であるがために、彼女はそれを虎の子のように、奥深く秘蔵していたものである。私は二つを比べてみた。銀三十枚と指環とを。
 私は変に寒気立った。二つは全く同じであった。
「おい、こいつア同(おんな)じだ」
「贋金でなくて白金よ」
「この大きさでこの重さ……」
「数にして三十枚よ。さあお金(あし)に意(つも)もったら[#「意(つも)もったら」はママ]? ああ妾にゃア見当がつかない」
「おい、自動車を呼んで来い!」

 一人で行くのは怖かった。と云うよりも妻の方で、うっそり者のこの私を、一人でやるのが不安だったらしい。
 で、自動車へは二人で乗った。
 私の両手と彼女の両手とが、革財布を抑えていた。
 考え込まざるを得なかった。
「これは何かの間違いなのだ。でなかったら陰謀だ。どうぞ陰謀でないように。俺は問題にならないとしても、聡明らしい佐伯氏が、贋金と白金とを見分けぬはずはない。知っていて俺に借したのだ。しかしあんな猪牙がかりに、借せるような物じゃアないはずだが。金銭(かね)に直して幾万円? 箆棒めえ借せられるものか! だが借したのは事実なのだ。……曰くがなけりゃアならないぞ……」
 私達のタクシは駛(はし)っていた。彼女は物を云わなかった。夜は十二時を過ごしていた。何という町の冬霧だ。とうとうタクシは公園へ来た。その公園を突っ切った。××町まで遣って来た。こんな飛んでもない贋金は、早く早く返さなければならない!
「停(と)めろ!」と私は呶鳴るように云った。
 徐行し、そうして停車した。
「どのお家! 佐伯さんのお家は?」
 妻が私に呟いた。私は窓から覗いて見た。
「ご覧」と私は唾を飲んだ。
「赤い警察の提燈(ちょうちん)が、チラツイているあの屋敷だ」
 妻も唾を飲んだらしい。運転手が扉(ドア)を開けようとした。
「待て」と私は嗄声(かれごえ)で制した。窓のカーテンを掻い遣った。妻の鬢の毛が頬に触れた。
 佐伯家の厳めしい表門が、一杯に左右に押し開けられていた。赤筋の入った提燈が、二つ三つ走り廻っていた。遠巻きにした見物が、静まり返って眺めていた。門の家根(やね)から空の方へ、松の木がニョッキリ突き出していた。遥かの町の四つ角を、終電車が通って行った。
 刺すような静寂が漲っていた。
「おい、運転手君、引っ返しておくれ」
 ――で、タクシは引っ返した。
 彼女は何とも云わなかった。彼女の肩が腕の辺りで、生暖かく震えていた。
 何か捨白(すてぜりふ)が言いたくなった。
「捕り物の静けさっていうやつさね。旅行しますと云ったっけ。ははあ刑務所のことだったのか。佐伯君、警句だぞ」
 勿論腹の中で云ったのであった。

12

 その翌日の新聞は、刺戟的の記事で充たされていた。大標題(おおみだし)だけを上げることにしよう。
国際的大詐欺師
佐伯準一郎捕縛さる
 勿論特号活字であった。
 欧米、南洋、支那、近東、こういう方面を舞台とし、十数年間組織的詐欺を、働いていたということや、日本知名の富豪紳士にも、被害者があるということや、数ヶ月前名古屋に入り込み、ために司法部の活動となり、捜索をしていたということや、昨夜何者か密告者があって、始めて所在を知ったということや、家宅捜索をした所、贋物の骨董があったばかりで金目の物のなかったということや、書生や女中は新米で、様子を知らなかったということや、××町の屋敷へは、ほんの最近に移って来たので、まだ近所への交際(つきあい)さえ、はじめていなかったということや、最後に至って別標題を附け、国際的陰謀の秘密結社に、関係あるらしいということなどが、三段に渡って記されてあった。
 私と妻とは眼を見合わせた。どうしていいか解(わか)らなかった。白金(プラチナ)に違いないと思われる、銀三十枚を携えて、警察へ訴え出ることが、とるべき至当の手段ではあったが、そのため同類と疑われ、種々(いろいろ)うるさい取り調べを受け、新聞などへ書かれることが、どうにも不愉快でならなかった。と云って保存して置いたなら、いわゆる贓物隠匿として、露見した場合には必然的に、刑事問題を惹き起こすだろう。
「おい、どうしたものだろう?」
「さあ、ねえ」と彼女は考え込んだ。
「訴えて出るのが至当でしょうね」
「うん」と私は考え込んだ。
「変にえこじに調べられると、カッと逆上する性質(たち)だからなあ」
「それに貴郎(あなた)はお忙しいんでしょう」
「うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう」
「それが一番困りますわね」
 彼女は熱心に考え込んだ。
 大方の芸術家がそうであるように、一面私は神経質で、他面私は放胆であった。又一面洒落(しゃれ)者で他面著しく物臭であった。宿命的病気に取っ付かれて以来、その程度が烈しくなった。この病気の特徴として、いつも精神が興奮した。
 だが私は私の病気を、祝福したいような時もあった。「空想」が奔馳して来るからであった。本来私という人間は、空想的の人間であった。空想には不自由しなかった。それが病気になって以来、その量が一層増したらしい。空で行なわれているエーテルの建築! それを破壊する電子の群れ! そんなものが私には、「見える」のであった。だがまだ私は霊媒(ミジャム)ではなかった。しかし早晩なるだろう。他界の消息、黄泉の通信、幽霊達の訴言(うったえごと)、そういうものだって知ることが出来よう。
 物を書きながら苦しむことがあった。後から後からと空想が、駈け足で追っかけて来るからであった。文字にして原稿紙へ書き取る暇さえ、ゆっくり与えてはくれないからであった。そんな時私はゴロリと寝た。動悸の烈しい心臓を抑え、空想の駈け抜けるのを待つのであった。
 町を歩きながら立ち止まり、電信柱へ倚りかかり、湧き上って来る空想を、鼻紙の上へ書いたりした。
 ある夜空想が湧き上って来た。折悪しく鼻紙を持っていなかった。一軒の商店の板壁へ、万年筆で書き付けた。そうして翌朝出かけて行き、写し取って来たような事さえあった。
 今に私は往来の人の、背中へ紙をおっ付けて、そこで書くようになるかもしれない。
 創作力に充満(みちみち)ていた。それをこんなつまらないことで、破壊されるのは厭だった。
 急に妻は変に笑った。ゾッとするような笑い方であった。それから私をからかい出した。
「無理はないわね、貴郎としては。そうら出入りの呉服屋さん、ちょっと相場で儲けたと云って、白金(プラチナ)の腕時計を巻いて来たらニッケルにしちゃアいい艶だって、こんな事を云ったじゃアありませんか、そうかと思うと妾の時計、そりゃあニッケルとしては類なしで、金時計より高価(たかい)んですけれど、こいつア素晴らしい白金だって、大騒ぎをしたじゃアありませんか。白金だか銀だか解(わか)らないのは[#「解(わか)らないのは」は底本では「解(わか)からないのは」]、ちっとも不思議じゃアありませんわね」

13

「何だ莫迦め!」と呶鳴り付けた。
「そんな事を云い出して何になるんだ」
 だが彼女はますます笑い、ますます私をからかった。
「貴郎(あなた)、ペテンに掛かったのよ。ええそうとしか思われないわ。でもどうしてこんなペテンに? いいえさ佐伯とかいう大詐欺師が、どうしてこんな変なペテンに、引っかけなければならなかったんでしょう? 儲かることでもないのにね。かえって大変な損をするのに。これには奥底があるんだわ。そうとしきゃア思われないわ。恐いわねえ、どうしましょう。返していらっしゃいよ、さあ直ぐに」
「莫迦め!」と私はまた呶鳴った。
「牢屋へ持ってって返せってのか」
「では貴郎には手が着かないのね?」
 にわかに彼女は冷静になった。
「妾(わたし)にお委せなさいまし」
「で、お前はどうするつもりだい?」
「貴郎それをお聞きになりたいの? では自分でなさるがいいわ」
 彼女は再び揶揄的になった。
「だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら」
「だが俺には手が出ないよ」
「お書きなさいまし、原稿をね」
 それは歌うような調子であった。
「そうして何にも思わないがいいわ。食い付きなさいまし、お仕事にね。貴郎は可愛いお馬鹿ちゃんよ。組織立ったことをさせるのは、それは無理と云うものよ。お信じなさいまし、妾をね」
 私は彼女へ委せてしまった。何にも考えないことにした。さあ仕事だ! さあ創作だ! 空想よ駈り立ててくれ!

 年が改たまって新年(はる)となった。
 妻の様子が変わって来た。
 彼女と私とは恋愛によって、一緒になった夫婦であった。彼女は私を愛していた。ところがこの頃愛さなくなった。
「ねえ、お馬鹿ちゃん」
「ねえ、凸坊」
 これが私への愛称であった。この頃ではそれを封じてしまった。彼女はひどく剽軽であった。途方もない警句を頻発しては、私を素晴らしく喜ばせてくれた。
「ね、ご覧なさいよ、ベッキイちゃんを、てまつくしているじゃアありませんか」
 よく彼女はこんなことを云った。ベッキイというのは飼い犬であった。活動俳優の天才少女、ベビー・ベッキイの名を取って、彼女が命名(なづ)けた犬の名であった。てまつくというのは手枕のことで、その飼い犬が寝ている様子を、そう形容して云ったのであった。
 これは何でもない云い方かもしれない。しかし彼女が云う時は、光景が躍如とするのであった。犬ではなくて人間の、可愛い可愛いベッキイという少女が、さも愛くるしく手枕をして、眠っているように思われるのであった。
 しかし彼女はこの頃では、もうそんなことも云わなくなった。私が散歩でもしようとすると、彼女はきっと呼び止めた。立ったまま私を抱き介(かか)え、少しおデコの彼女の額を、私の額へピッタリと食っ付け、梟のように眼を見張り、嚇かすように頬を膨らせ、
「いい事よ、行っていらっしゃい」
 こう云ってようやく放してくれた。が、それも遣らなくなった。
 泣くことの好きな女であった。ある朝私は顔を洗い、冷たい手をして居間へ行った。と、彼女が化粧をしていた。胸が蒼白くて綺麗だった。冷たい手先をおっ附けてやった。それが悲しいといって泣き出した。大変美しい泣き方であった。勿論拵えた媚態であった。それが彼女には似つかわしかった。が、それもやらなくなった。
 笑うことの上手な女であった。「無智の笑い方」が上手であった。利口な彼女が笑い出すと、無智な無邪気な女に見えた。それこそ実際男にとっては、有難い笑いと云わなければならない。瞬間に苦労が癒えるからであった。が、それもやらなくなった。
 彼女は不思議な女であった。千里眼的の所があった。ウイスキイの二三杯もひっかけて――私は元は非常な豪酒で、一升の酒は苦しまずに飲んだ――門(かど)の格子を静かにあけると、きっと彼女は云ったものである。
「ご機嫌ね、柄にないわ」
 ……時々交際(つきあい)で旗亭(ちゃや)へ行き、さり気なく家へ帰って来ると、三間も離れて居りながら、
「厭な凸坊、キスしたのね。若い綺麗な芸子さんと。襟に白粉が着いてるわ」
 ……だが彼女はこの頃では、もうそんな事も云わなくなった。
 私が戸外(そと)で何をしようと、気に掛けようとはしなかった。
 これは一体どうしたのだろう? 何が彼女を変えたのだろう?
 彼女は丸髷が好きであった。いつかそれを王女(クイン)髷に変えた。
 家に居たがる女であった。ところがこの頃では用もないのに、戸外へばかり出たがった。
 驚くべきことが発見された。彼女は実に僅かな間に、奇蹟的に美しくなり、奇蹟的に気高くなった。
「美粧倶楽部へでも行くのだな。恋人でも出来たのではあるまいか? 恋人が出来ると女という者は、急に美しくなるものだ」
 私の心は痛くなった。憂鬱にならざるを得なかった。

14

 仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻煙草(たばこ)を喫(ふ)かしていた。煙草を支えた左手の指に、大きなダイヤが輝いていた。
「その指環は?」と私は云った。
 私の知らない指環であった。
 彼女は無言で指を延ばした。そうしてじっとダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り! 微妙な調和! 何と貴族的の趣味ではないか! 彫刻のような彼女の顔! 今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い? そうではない! 娼婦マリヤ・マグダレナの笑い!
 私は瞬間に退治られた。

 数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯! 金具! 高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。
 そこで私は懇願した。
「話しておくれ、どうしたのだ?」
 ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。
「おい!」と私は威猛高になった。
「処分したな、贓物を!」
「貴郎(あなた)」と彼女は水のように云った。
「贓物ですって? 下等な言葉ね」
「売ったのだろう! 白金(プラチナ)を!」
「貴郎」と彼女は繰り返した。
「約束でしたわね、訊かないと云う」
 彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。

 大詰の前の一齣が来た。
 円頓寺街路(えんとんじどおり)を歩いていた。霧の深い夜であった。背後(うしろ)から自動車が駛(はし)って来た。
「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。
 危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から義歯(いれば)を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。
 私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を曲(こご)め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして撲(う)たれた犬のように、ヨロヨロと横へ蹣跚(よろめ)いた、私は何かへ縋り付こうとした。
 冷たい物が手に触れた。それは入口の扉(ドア)であった。私は内へ吸い込まれた。
 真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。
 珈琲店(カフェ)であった。鏡であった。私は写っていたのであった。

 イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。みんな別々の意味において。そうして今や私が呪う。憎むべき銀三十枚を!

 人は信仰を奪われた時、一朝にして無神論者となる。
 人は愛情を裏切られた時、一朝にして虚無思想家となる。
 ユダの運命がそれであった。
 私は私の思想として、ユダの無神論と虚無思想とを、自分の心に所有(も)っていた。
 今や私は感情として、それを持たなければならなかった。
 今、私はユダであった。
「助けて下さい! 助けて下さい!」
 私は救いを求めるようになった。
 しかし救いはどこにもなかった。
 一つある!
 基督(キリスト)だ!

 キリストを売ったイスカリオテのユダは、売った後でキリストを求めただろう!

15

 これがいよいよ大詰かもしれない。
 その夜私は公園にいた。彷徨(さまよ)ってそこ迄行ったのであった。詐欺師と邂逅(あ)ったロハ台へ、私は一人で腰をかけていた。生暖かい夜風、咽るような花の香、春蘭の咲く季節であった。噴水はすでに眠っていた。音楽堂には燈(ひ)がなかった。日曜の晩でないからであった。公園には誰もいなかった。ひっそりとして寂しかった。夜は随分深かった。月が空にひっ懸かっていた。靄が木間に立ち迷っていた。物の陰が淡く見えた。
 私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく進んでいた。心臓の動悸、指頭(ゆびさき)の顫え、私は全然(まるで)中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。
 誰も介抱してくれなかった。
 お母様! お母様!
 実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。
「もう一呼吸(いき)だ。指先でいい。ちょっと背後(うしろ)から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」
 私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。
「もう一呼吸だ。指先でいい」
 その時自動車の音がした。
 私は反射的に飛び上った。
 病院の方角から自動車が、こっちへ向かって駛(はし)って来た。私の眼前(めのまえ)を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。車内は桃色に明るかった。柔かいクッション、馨(かんば)しい香水、二人はきっと幸福なんだろう。顔を突き合わせて話していた。一瞬の間に過ぎ去った。月光が車葢(おおい)に滴っていた。タラタラと露が垂れそうだった。都会の空は赤かった。その方から警笛が聞こえてきた。
「もういい」と私は自分へ云った。
 最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。
「ユダも縊(くび)れて死んだはずだ」
 木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。
「脆そうな木だ。折れるかもしれない」
 もう一本の木へ手を触れた。
 その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。
 私は静かに振り返った。
 一人の男が立っていた。
 鳥打を頭に載っけていた。足に雪駄(せった)をつっかけていた。
 私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。
 この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。
「どうしたね?」とその男が云った。
「…………」
「黙っていては解(わか)らない」
 刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。
「不心得をしてはいけないよ」
 むしろ訓すような声であった。
「無教育の人間とも見えないが」
 刑事は私の足許を見た。
「君、どこに住んでるね」
「市内西区児玉町」
「何だね、一体、商売は?」
 私は返事をしなかった。
「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」
 刑事は背中を向けようとした。
「僕に家なんかあるものか」
「何イ!」と刑事は振り返った。
「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」
「家はあるよ。……だがないんだ」
 刑事はしばらく睨んでいた。
「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」
「妻君」と私は肩を上げた。
「妻君は自動車に乗ってったよ」

16

 刑事はちょっと考えた。
「ふふん、こいつ狂人(きちがい)だな。……死にたければ勝手に死ぬがいい。だがここは俺の管轄だ。……他へ行ってぶら下るがいい」
「妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな」
「これは可笑(おか)しい」と刑事は云った。
「それじゃアあの女を知ってるのか。俺の狙(つ)けてる淫売だが」
「あれが僕の妻君さ」
 私は何かに駈り立てられた。畜生! こいつを吃驚(びっくり)させてやれ!
「君、あいつは詐欺師なんだ。あいつは白金(プラチナ)を詐欺したんだ。……勿論君も知ってるだろう、大詐欺師の佐伯準一郎ね、ありゃアあいつの片割れなんだ」
 刑事はじっと聞き澄ましていた。
「捕縛したまえ。手柄になるぜ」
 刑事は急に緊張した。だがすぐに揶揄的になった。
「君のような狂人の妻君に、あんな別嬪がなるものか。まあまあいいから帰りたまえ」
 たくましい手をグイと延ばし、私の腕をひっ掴んだ。
「お前、金は持ってるのか?」
「うん」と私は頷いて見せた。
「いくらあるね、云って見給え」
「袂(たもと)にあるんだ、蟇口がな。いくらあるか知るものか」
 刑事は腕から手を放した。
「調べてやろう、出したまえ」
 私は袂から蟇口を出した。
「それ五円だ。それ赤銭だ。それ十銭だ。それ五円だ。まだあるぜ、それ十円だ」
「よしよし」と刑事は頷いた。
「それだけありゃア結構じゃアないか。歩いた歩いた送ってやろう。どうも手数のかかる奴だ」
 また腕をひっ掴んだ。町の方へ引っ張って行った。私は変に愉快になった。で、のべつにまくし立てた。
「莫迦だなあ刑事君、あの女は詐欺師なんだ。白金三十枚を隠しているんだ、一枚や二枚は使ったろう。とても大きな白金なんだ。五十匁(もんめ)ぐらいはあるだろう。たった一枚で三千円だ。それがみんなで三十枚あるんだ。佐伯の物だ、大詐欺師のな。最初に俺が借りたんだ。そいつをあいつが取っちゃったんだ。あっ痛え! そう引っ張るな! 嘘じゃアねえ、本当のことだ。大馬鹿野郎め、ふん掴まえてしまえ! 引っかかったんだよ、ペテンにな。捕縛されるのが解(わか)ってたんだ。俺は文士だ、小説書きだ。そこをきゃつが狙ったんだ。でたらめの話をしやがって、俺の好奇心をそそりゃアがって、そいつを俺に預けやがったんだ。古いペテンだ、古いとも。牢から出ると取りに来るやつよ。いい隠し所を目つけたって訳さ。本当の事だ、信用しろ。家捜ししなよ、俺の家を、きっとどこかにあるだろう。……そこは女のあさましさだ。眼がクラクラと眩んだんだ。うん、白金を手に入れるとな。すっかり変わってしまやアがった。……」
 刑事はニヤニヤ笑っていた。公園を出ると町であった。右角に貸自動車(タクシ)の待合があった。
「おい、自動車(タクシ)」と刑事は呼んだ。
「へい」と運転手が走って来た。
「この男を載っけてくれ」
 すぐ自動車が引き出された。私はその中へ押し込まれた。
「金は持ってる、大丈夫だ。中村へでも送り込んでやれ。遊廓で一晩遊ばせてやれ」
 こう云うと刑事は愉快そうに笑った。ひどく人のいい笑い方であった。
 ゴーッと自動車は動き出した。

 彼女は彼女の生活をした。私は私の生活をした。家庭生活は破壊された。だが一緒には住んでいた。彼女はますます美しくなった。近付きがたいまでに美しくなった。そうして素晴らしく高貴になった。
「貴女様は一体何人(どなた)様で?」
 こう云いたいような女になった。
 行くべき所へ行き着いてしまった。私は放蕩に耽るようになった。酒だ! 女だ! 寝泊りだ!
 ある時ある所で三日泊まった。四日目の夕方帰って来た。
 と、貸家札が張られてあった。
「鳥は逃げた!」と私は云った。
「オフェリヤ殿、オフェリヤ殿、尼寺へでもお行きやれ」
 シェイクスピアの白(せりふ)が浮かんできた。

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