前記天満焼
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著者名:国枝史郎 



 ここは大阪天満通(てんまとおり)の大塩中斎(おおしおちゅうさい)の塾である。
 今講義が始まっている。
「王陽明の学説は、陸象山から発している。その象山の学説は、朱子の学から発している。周濂溪(しゅうれんけい)、張横渠(ちょうおうきょ)、程明道(ていめいどう)、程伊川(ていいせん)、これらの学説を集成したものが、すなわち朱子の学である。……朱子の学説を要約すれば、洒掃応待の礼よりはじめ、恭敬いやしくも事をなさず、かつ心を静止して、読書して事物を究め、聖賢の域に入れよとある。……がこれでは廻り遠い。人間そうそう永生きはできぬ、百般の事物を究理せぬうちに、一生の幕を下ろすことになろう。容易に聖賢になることはできぬ。……ここに至ってか陸象山、直覚的究理の説を立てた。陸象山云って曰く、――我心は天の与(あた)うるもの、万物の理は心内に在り、心内思考一番すれば、一切の理を認識すべしと――ところが陽明先生であるが、その象山の学説よりおこり、心即理、知行合一、致良知説を立てられた。……」
 凜々として説いて行く。中斎この時四十三歳、膏(あぶら)ののった男盛りである。
 数十人の門弟は襟を正し、粛然として聞いている。咳(しわぶき)一つするものがない。
 説き去り説き進む中斎の講義……
「虚霊不昧、理具万事出、心外無理、心外無事」
 ちょうどこの辺りまで来た時であった、夕陽が消えて宵となった。
「今日の講義はまずこの辺りで……」
 云い捨て中斎が立ち上ったので、門弟一同も学堂を出た。
 …………
 居間に寛(くつろ)いだ大塩中斎は、小間使の持って来た茶を喫し、何か黙然と考えている。怒気と憂色とが顔にあり、思い詰めたような格好である。
 すると、その時襖の陰から、
「宇津木矩之丞(うつぎのりのじょう)にございます。ちょっとお話し致したく」
「ああ宇津木か、入っておいで」
 現われたのは若侍で、つつましく膝を進めたが、すぐに小声で話し出した。
「いよいよ平野屋では例の物を、江戸へ送るそうでございます」
「ふうんそうか、いよいよ送るか」
「どう致したものでございましょう?」
「そうさな」と中斎は考え込んだ。怒気とそうして憂色とが、いよいよ色濃くなってきた。
「やっぱりこっちへ取り上げることにしよう」
「はい」と云ったが矩之丞の顔には、不安と危惧(おそれ)とが漂っている。
「後世史家が何と申すやら、この点懸念にござります」
「うむ」と云ったが大塩中斎も、苦渋の表情をチラツカせた。
「拙者もそれを危惧ている。と云って目前の餓鬼道を見遁しにしては置けないな」
「先生の御気象と致しましては、御理(ごもっとも)千万に存ぜられます」
「俺は蔵書を売り払って、二万両の金を手に入れたが、日に日に増える窮民を、救ってやることは不可能だ」
「限りない人数でございますので」
「それで、断行しようと思う」
「はい」と云ったが宇津木矩之丞はやっぱり顔を曇らせている。
「本来けしからぬは徳川幕府じゃ。……その幕府の存在じゃ」と、中斎は日頃の持論の方へ、話の筋を向けだした。
「日本は神国、帝は現人神、天皇様御親政が我国の常道、中頃武家が政権を取ったは、覇道にして変則であるが、帝より政治をお預かりし、代って行なうと解釈すれば、認められないこともない。……しかしそれとて条件があって、国内(うち)は四民に不満なく、国外(そと)は外国(いこく)の侵逼(しんひつ)なく、五穀実り、天候静穏、礼楽ことごとく調うような、理想的政治を行なうなれば、預けまかせておいてもよかろう。……しかるに現今の徳川幕府の、政治の執り方はどうであるか? 北からはロシアが北海道をうかがい、西からはイギリスが支那を犯し、香港(ホンコン)島を占領し、その余威を籍(か)りて神国日本へ、開港を逼ろうとして虎視眈々じゃ。……さらにイギリスの双生児ともいうべき、アメリカ国に至っては、その成り上り者の根性をもって、傍若無人に日本に対し、同じく開港を強いようとしている。……それに対して徳川幕府は、特別に兵備をととのえようともせず、海岸防備を試みようともせず、外侮を受けようとしているのじゃ。……しかして国内の有様はどうか? 上は将軍家をはじめとし、台閣(だいかく)諸侯、奉行輩、奢侈に耽り無為に日を暮らし、近世珍らしい大飢饉が、帝の赤子を餓死させつつあるのに、ろくろく救済の策さえ講ぜず、安閑として眺めている。……これでは幕府の存在は、有害であって無益ではないか! すべからく天下に罪を謝し、政治(まつりごと)を京師(けいし)へ奉還し、天皇様御親政の日本本来の、自然の政体に返すべきじゃ!」
「先生々々、もうその御議論は……」
 矩之丞は四辺(あたり)り[#「四辺(あたり)り」はママ]を憚って、押止めるように手を振った。
「うむ、よしよし」と中斎は頷き、しばらく沈黙していたが、
「矩之丞」と秘めた声で、
「こういう内外の悪情勢に際し、何が最も恐ろしいか、何を最も戒心すべきか、知っておるかな? 心得ておるか?」
「…………」
「外国渡来の悪思想、及び悪い宗教じゃ」
「これはごもっともに存じます」
「外国渡来の悪趣味の娯楽、これも注意して打倒しなければいけない」
「ごもっともに存じます」
「外国渡来の悪宗教といえば、過ぐる年わしは吉利支丹信者の、貢(みつぎ)という巫女を京都(きょうと)で捕らえ、一味の者共々刑に処したが……」
「これは与力でおわしました頃の、先生のお手柄の随一として……」
「いやいや自慢をするのではない。心にかかることがあるからじゃ」
「…………」
「貢の門下にお久美というしたたか者の女がいたが、それをあの際取り逃がしてのう」
「久美なら私も存じておりまする」
「どこへ行ったものか行衛(ゆくえ)が知れない。……これが心にかかっておる。……引っ捕らえて刑に処せねばと……」
 急に矩之丞は別のことを云った。
「二三ヶ月前に入門いたしました、飛田(ひだ)庄介、前川満兵衛、それから山村紋左衛門、ちと私には怪しいように……」
「どういう意味かな、怪しいとは?」
 不思議だというように中斎は訊いた。
「隠密などではありますまいかと」
「これこれ」と中斎はにわかに笑い、
「お前は俺(わし)の前身を、もう忘れてしまったと見える」
「は、何事でございますか」
「俺は以前は与力だったよ。だからこの俺の塾内に、そのような隠密など入り込んで居れば、観破しないでは置かないはずだよ」
「これはごもっともに存じます」
 矩之丞は苦笑した。
 部屋内しばらく静かである。
 と、中斎は静かに訊いた。
「例の物を平野屋が江戸へ送る、ハッキリした日取りは解(わか)って居るかな?」
「それはまだ不明にございます」
「是非とも探って確かめるよう」
「かしこまりましてございます」
 自分の屋敷へ帰ろうと、宇津木矩之丞が只一人で、中斎の屋敷を立ち出たのは、その夜もずっと更けてからであった。
 思案に暮れて歩いていたためか、道を取り違えて淀川縁へ出た。




「去年からかけて天候不順、五穀実らず飢民続出、それなのに官では冷淡を極め、救恤(すくい)の策を施そうともしない。富豪も蔵をひらこうともしない。これでは先生が憤慨されるはずだ。とは云え他人の大切なものを、横取りをして金に換えたら、盗賊とより云うことは出来ない。それを先生にはやろうといわれる。俺には正当に思われない。そればかりならともかくも、兵を発し乱を起こし、城代はじめ両奉行をも、やっつけてしまおうとの思し召し、成功の程も覚束ないが、よしや成功したところで、乱臣の名は免れまい。……あれほど明智だった中斎先生も、近来は少しく取り違えて居られる。……狂ったのかな、あの明智も……」
 考え考え考えあぐみ、木立のある所まで来た時であった。卑怯にも左右から声も掛けず、何者か二人切り込んで来た。
「おっ」と叫んだがそこは手練、宇津木矩之丞(のりのじょう)剣道では、一刀流の皆伝である、前へパッと飛び越した。
 と、もう引き抜いていたのである。
「無礼! 誰だ! 宣(なの)らっしゃい! 拙者宇津木矩之丞、怨みを受ける覚えはない」
 ピッタリ青眼に太刀を構え、先ずもって声をこう掛けた。
 二人ながら返事をしなかった。星空の下に突っ立っている。そうしてヂリヂリと逼って来る。
「はてな?」と矩之丞が呟いたのは、敵に見覚えがあったからである。そこで、怒声を浴びせかけた。
「やあ汝(おのれ)は同門の、飛田庄介に前川満兵衛! 何と思って切ってかかったぞ?」
 だがここまで云って来て、急に矩之丞は口を噤(つぐ)んだ。
「いよいよこいつら隠密だわえ。それと観破したこの俺を、邪魔にして殺そうとするのらしい。いやかえって面白い。知れた手並だ、叩っ切り、中斎先生の身辺から、危険分子を払ってやろう」
 ――矩之丞はそこでヌッと出た。
 だが、何と危険なんだ、又も一つの人影が、木立の陰から現われたが、矩之丞の背後へシタシタと寄った。
 途端に飛び込んで来た前面の敵、すなわち飛田と前川が、鋭く声を掛け合ったのは、牽制しようとしたのだろう。果然、同時に、背後の敵、こいつは無言で抜き持った太刀で、矩之丞の背骨から胸板まで、グーッと一気に両手突いた。
 と、「アッ」という悲鳴が起こり、連れてドッタリ一人斃れ、つづいて「オッ」という声がした。見れば飛田と前川の二人が、抜身を下げたまま走っている。
 見れば一つの死骸の側(そば)に、一人の武士が立っている。
「あぶなかったよ」と呟いた。他ならぬ宇津木矩之丞であった。血刀をダラリと下げたまま、しばらく呼吸(いき)を静めるのらしい。佇んだまま動かない。
 と、ソロソロと首を下げ、足下の死骸を覗き込んだ。
「うむ、やっぱりそうだったか。……うむ、山村紋左衛門だったか」
 それからホ――ッと溜息をした。
「これで三人が三人ながら、隠密だったということが、証拠立てられたというものさ。狂いはなかったよ、俺のニラミに」
 だが、またもや溜息をした。
「と云うことは半面において、中斎先生の眼力が、狂ったという証拠になる。……和歌山、岸和田に関わる裁判(さばき)、京師(けいし)妖巫(ようふ)の逮捕などに、明察を揮われた先生の眼も、今はすっかり眩んでいるらしい。獅子身中の虫をさえ、観破することさえお出来なさらない。では……」
 と呟くと悄然とした。
「一切の今回のお企てなども、その狂った眼から、性急に計画されたものと、こう解しても、誤りはあるまい」
 フラフラと矩之丞は歩き出した。
「失敗なさろう! 失敗なさろう!」
 譫言(うわごと)のように呟いた。
「とはいえ騒動の失敗は、まだまだ我慢することが出来る。しかし盗賊の汚名だけはどんなことをしてもお着せしてはならない」
 矩之丞はフラフラと歩いて行く。
「うむ」と云うと足を止めた。
「犠牲になろう、この俺が! 辞す所でない、裏切者の汚名!」
 尚フラフラと歩いて行く。
「人を殺したこの俺だ、浪人をしてゴロン棒となり、汚名悪名受けてやろう! 手段はない、この他には。……」
 どことも知れず行ってしまった。
 後にはザワザワと晩春の風が夜の木立を揺すっている。
 天保七年四月中旬の、ある一夜の出来事である。




 さてその日から幾日か経った。
 その時天王寺の勝山通りで、又物騒なことが行なわれた。
 まずこのような段取りであった……
 一人の若い侍へ、覆面武士達が斬りかかったのを、若い侍が無雑作に、力を抜いて叩き倒し、最後に一人をたたき倒した時、懐紙で刀身をぬぐったのである。
 それから懐紙をサラリと捨て、刀をかざすとスーッと見た。
「切ったんじゃアない、峰打ちだ。刃こぼれがあってたまるものか」
 そこで、ソロリと鞘へ納めた。すると鍔鳴りの音がして、つづいて幽かではあったけれど、リ――ンと美しい余韻がした。
 鍔のどこかに高価の金具が、象眼されていたのだろう。
 それへ徹(こた)えてリ――ンと余韻が幽かながらもしたのだろう。
 宏大な屋敷が立っていて、厳重に土塀で鎧われていて、塀越しに新樹の葉が見える。
 空気に藤の花の匂いがあるのは、邸内に藤棚があるのだろう。屋敷は大阪の富豪として名高い平野屋の寮の一つであった。
 土塀に添い、十六夜月に照らされ、若い侍は立っている。
 身長は高いが痩せぎすであり、着流し姿がよく似合う。瀟洒として粋であり、どうやら容貌(きりょう)も美しいらしい。月を仰いだ顔の色が、白く蒼味を帯びていて、鼻が形よく高いのだろう、その陰影がキッパリとしている。
「平野屋の寮から例の物を持って、誰か江戸へ発足(た)ちはしまいかと、その警戒にやってきたのだが、変な侍三人に、闇討ちされようとは思わなかったよ。どうも今夜は気に入らない晩だ。……だがそれにしても不思議だなあ。素性も明かさず理由も云わず、フラフラッと切ってかかったんだからなあ。……女で怨みを買ったことも、金で怨みを受けたことも、これ迄の俺にはなかったはずだ。……覆面姿から推察(おしはか)ると、こいつら辻切りの悪侍(わる)共かな? しかしそれにしては弱いわるだ。……引っこ抜いてポーンと肩を撲ると、一人がゴロッと転がってしまい、もう一度ポーンと頭を撲るともう一人がゴロッと転がってしまい、もう一度ビーンと横面を張ると、三人目のお客さんがひっくり返ってしまった。……ああも弱いと安心だが、また何だか気の毒にもなる。それにさ、第一道化て見える」
 ちょっと俯向き、何にもなかったというように、土に雪駄(せった)を吸い付かせ、若侍は歩き出した。
 取り入れるのを忘れたのであろう、かなり間遠ではあるけれど、五月幟(さつきのぼり)がハタハタと、風に靡く音がした。
 深夜だけにかえって物寂しい。
「そうだ今夜は宵節句だった」
 これは声に出して云ったのである。
 六七間も歩いたかしら、
「率爾ながら……」と呼ぶ声がした。
「しばらくお待ち下さるまいか」
 四辺(あたり)を憚った恥(しの)び音だ。
 グルッと振り返った若侍は、
「拙者のことで?」と隙かして見た。
 黒頭巾で顔を包んでい、黒の衣装を纏っている。いわゆる黒鴨出立(いでた)ちであった。体のこなし、声の調子、どうでも年は三十七八、そういう武士が立っていた。
 大小をピンと胸高に差し、率爾ながらと呼びかけた癖に、何と無礼! 懐手(ふところで)をしている。ひどく横柄なところがあり、見下だしたような所がある。
 胸を悪くした若侍は、
「今夜はよくよく変な晩だ、いろいろの芸人が登場するよ」
 こう思ったのでぶっきら棒に、
「御用かの! この拙者に?」
 すると向こうの武士が云った。
「感嘆してござるよ、立派な腕前」
「大変な黒鴨が出やアがった。俺を褒めるとは度胸がいいや。褒めるからには褒めっ放しでもあるまい。いずれ可(い)い物でもくれるのだろう」
 可笑(おか)しくなったので若侍は、
「お弱(よお)うござんしたからな、先方が」
「なかなかもって」と黒鴨の武士は、
「彼等も相当の手利きでござる」
「ははあ」と云ったが感付いた。
「さては貴殿のお仲間だの」
「さよう」とわるくおちついている。




「そうか」と云ったが若侍は、今度は少し腹を立てた。
「では早速お訊き致す、何故拙者を襲われた?」
 まごまごした返事でもしようものなら、叩っ切ってやるぞと云うように、ヌッと一足進み出た。
 しかし、相手の黒鴨も、何かに自信があると見え、その横柄さを持ち続け、
「士官[#「士官」はママ]なさる気はござらぬかな?」
 こんなことを云い出した。
「え、士官? 貴殿にかな?」
 これには若侍は参ってしまった。
(どうもいけないや、俺より上手だ)
 そこで茫然(ぼんやり)して絶句した。
 すると、黒鴨の武士が云った。
「長くとは申さぬ、一カ月余」
 それからスルスルと進み寄ったが、囁くように云いつづけた。
「悪いことは申さぬ士官おしなされ。もっとも主取りの御身分なら、無理にもお進め出来ないが。いやいや先刻(さっき)からの御様子でみれば、かけかまいのない御身上らしい。それで敢てお進めいたす。士官おしなされ士官おしなされ。実は」と云うといよいよ益々、声を細めて囁くようにしたが、
「ここ数夜、この界隈で、拙者試していたのでござる。勝れた武辺者はあるまいかとな。今は天保、浮世は飢饉、そのためでもござろう、腕の出来るご仁に、不幸、一人もぶつかりませんでしたよ。ところが今夜ゆくりなく、ぶつかりましたなア御貴殿に。……そこで、すっかり喜んだという次第。そこで、士官をお薦めするという次第。……そうは云っても藪から棒に、無闇と士官をお薦めしても、貴殿にはおそらく烏乱に覚(おぼ)され、御承引を手控えなされようもしれぬ。これは御理(ごもっとも)、当然でもござる。それでまず何より拙者の身分を、お打ち明け致すのが順当でござるが、まあまあそれははぶくとして、ただし、姓名だけ申しましょうかな。鮫島大学(さめじまだいがく)と申します。それより何より禄の方をな、定めることに致しましょう。一日五両はどうでござる」
 ここまで云って来て黒鴨の武士は、ヒョイと二三歩下ったが、首を傾げると覗くようにした。
「ただし……」と云うと黒鴨の武士は、今度は二三歩前へ出た。
 と、例によって囁くような声で、
「ただし、仕事はちと困難、と云っても貴殿の腕前なら、勿論何でもなく仕遂げられますて。ところで仕事の性質は? と、貴殿には訊かれるかも知れない。さあこれとて考えようで。善悪両様に取られますなあ。そこで、こいつは預かるか、ないしは善事だと決めてしまうか、ホッ、ホッ、ホッ、どっちでもよろしい」
 三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、
「さてここまで云って来れば、後は何も彼もスッパリと、ぶちまけた方がよろしいようで。そこでお打ち明け致しましょう」
 ところがそれ前に若侍は、蹴飛ばすような声で云った。
「解(わか)っておるよ!」とまずノッケだ。
「受負でござろう、殺人(ひとごろし)のな!」
「ほほう成程、そう解されたか」
「でなかったらぶったくりさ」
「成程な、なるほどな」
 黒鴨の武士は退いたが、
「ひょっとかすると、両方かも知れない」
「殺人の上にぶったくりか、アッハッハッ、それにしては」
 若侍は横を向いた。
「安すぎますて、五両の日当」
「割増ししましょう、七両ではいかが?」
「まだ安い。駄目だ駄目だ!」
「あッ、なるほど、では八両」
「刻むな刻むな」と若侍は、グット胸を反らせたが、
「厭だと云ったらどうなさる」
「さればさ」と云うと黒鴨の武士は、スラスラとスラスラ左手へ寄った。間(あわい)一間、そこで止まると、ピンと右手の肘を上げた。と自然に掌が、柄の頭へあてられた。薄っペラな態度や声にも似ず、腰が据わって足の踏まえ、ピッタリ定(き)まって立派な姿勢。上げた右肘で敵を圧し、全身を斜めに平めかせ、首を幾何(いくばく)か前方へ曲げ、額い越しに睨んで狙いすました。籠めた気合で抜き打ったら、厭でも太刀は若侍の、左胴へ入るに相違ない。根岸兎角(とかく)を流祖とした、微塵(みじん)流での真の位、即ち「捩螺(れいら)」の構えである。
「ううむこいつは素晴らしい」
 それと見て取った若侍は、こう思わず呟いたが、
「しかも不気味な腥(なまぐさ)い、殺気が鬱々と逼って来る。剣呑だな、油断は出来ない」
 しかしよくよく若侍には、腕に自信があると見え、刀の柄へ手もかけず、ブラッとしたままで立っていた。
 と、黒鴨の武士であるが、別に切り込んで行こうとはせず、あべこべにヒョイと後退(あとじさ)ると、ダラリと両手を両脇へ下げ、それからまたも懐手をしたが、薄っペラの調子で喋舌(しゃべ)り出した。
「ざっとこんな恰好で。つまり貴殿不承知なら、秘密の小口を明かせた手前、生かしては置かぬ! 叩っ切る! と云うことになりますので。……と云うとおっかない話になるが、何のこんなにも旨い話、貴殿諾かずにおられましょうか。承知と云われるは知れたことで。……だが日当不足となら、清水の舞台から飛んだつもりで、一日十両まで糶(せ)り上げましょう。これでは御不満ありますまいな。手を拍ちましょう、シャンシャンシャン! いかがなもので? シャンシャンシャン!」
 呑んでかかった態度である。




 こいつを聞くと若侍は、にわかに愉快になったらしい。
「一風変わった悪党だわえ。よしよし面白い面白い、ひとつこいつの手に従(つ)いて、殺人(ひとごろし)請負業を開店(ひら)いてやろう。天変地妖相続き、人心恟々天下騒然、食える野郎と食えぬ野郎と、変にひらきがあり過ぎる。こんな浮世ってあるものか。殺人だって必要さ」
 そこで若侍はズバリと云った。
「きっと十両出されるかな?」
「出します出します。……御承知かな」
「まず即金、一日分が所」
 若侍は手を出した。
「これはお早い、早速のことで」
 黒鴨もこれには驚いたらしい。
「が、結構、では十両」
 グッと懐中(ふところ)へ手を入れると、チャリン、チャリンと音をさせた。
 小判を数えたに相違ない。
 手を引き出すと掌(てのひら)の上に、黄金十枚が載っていた。
「遠慮は御無用、さあさあお取り」
「開店祝で、何の遠慮、では確かに」
「あ、しばらく、それにしても、せめて姓名なと! ……」
「拙者姓名は……」と云いかけたが、
(本名宇津木矩之丞(のりのじょう)と、ほんとに宣(なの)っては面白くない)
 そこで、
「宇和島鉄之進(うわじまてつのしん)」と宣った。
「ではこの金を……」
「頂戴いたす。どれ」と小判を掴もうとした途端に、
「こちらへ御士官なされませ!」と、老人の声が聞こえてきた。
「日当二十両出しましょう!」
 傍らに立っている平野屋の寮の、その表門の背後(うしろ)から、声は聞こえてきたのである。
「やッ!」と云ったは若侍で、
「しまった!」と叫んだは黒鴨の武士で……
 すぐに、ギーと潜戸(くぐりど)が開き、またもや老人の声がした。
「お入りなさりませ、御浪人様!」
「オイ」と云ったは黒鴨である。
「どうだどうだ、どっちへ仕える?」
「考えるにも及ぶめえ」
「十両取るか」
「どう致しまして」
「それじゃアあっちへ行くつもりか?」
「云うにゃ及ぶだ、倍も食えらあ」
「きっとか」と黒鴨は眉を縮(ちぢ)めた。
「何時(いつ)如何(いか)なる時代でも、もっと食える方へ行くものさ」
「ホッ、ホッ、ホッ」
 嘲笑である。黒鴨が嘲笑をしたのである。
 が何とその嘲笑、残忍性を帯びていることか。
「そうか、だがな、オイ若侍、そうなった日の暁には、拙者の矢面へ立つのだぞ!」
「よかろう、大将、戦おうぜ!」
「まずこうだあァ――ッ」と凄い気合を、かけると同時に抜いた太刀で、のめらんばかりの掬(すく)い切り、若侍の股の交叉(つがい)を、ワングリ一刀にぶっ放した[#「ぶっ放した」は底本では「ぶつ放した」]。――と云う手筈になるところを、飛び違った若侍は、
「こっちもこうだあァ――ッ」と浴びせかけ、飛び違う間に抜いた太刀を、ヌ――ッとのすと振り冠った。
 で、無言だ。静かである。ハタハタハタ……ハタハタハタと、夜風に靡く五月幟(さつきのぼり)の、音ばかりが聞こえてくる。
 位取った二人は動かない。藤の花の匂い、ほのかであり、十六夜(いざよい)の光、清らかである。こんな奇麗な佳(い)い晩に、二人は斬り合おうとするのであった。
 二人は動いて、太刀音がした! 即ち鏘然、合したのである。と、ピッタリ寄り添った。鍔逼り合いだ! 次は勝負! どっちか一人斃れるだろう。しかし群像は動かない。群像の頭上を抽(ぬきんで)てキラキラ閃めくものがある。月光を刎(は)ねたり纏ったり、ビリ付いている太刀である。と、忽然、次の瞬間、「ウン」と云う呻き! 二人同時だ! 群像は前後へ別れたが、不思議とどっちも仆れなかった。しかも一つの人影が、糸に引かれるそれのように、非常に素早く後退り、潜戸の側まで近寄って、そうして潜戸が一杯に開いて、その人影を吸い込んで、そうしてギ――ッと閉ざされた時、闘争は終りを告げたのである。
 屋敷へ入り込んだは若侍であり、後へ残ったのは黒鴨の武士で。……
 後はひっそりと静かであった。




 事件はここで江戸へ移る。
 ここは深川の霊岸島。そこに一軒の屋敷があった。特色は表門の一所に、桐の木の立っていることであった。その奥まった一室である。
 一人の着流しの武士が、頬杖をついて寝そべっている。年の頃は三十七八、色蒼黒く気味が悪い。ドロンと濁ってはいるけれど、油断も隙もならないような、妙な底光を漂わした眼、しかも左の一眼には、星さえ一つ入っている。顎の真中(まんなか)に溝があって、剣難の相を現わしている。小鼻の小さい高い鼻、――いやという程高いので、益々人相を険悪に見せる。いつも皮肉な揶揄的の微笑が、唇の辺りにチラツイている。だが一種の好男子とは云える。
 この家の主人鮫島大学で、無禄の浪人でありながら、非常に豪奢な生活(くらし)をしている。――と云う噂のある人物である。
 その鮫島大学の前に、膝を崩して坐っているのは、ちょっと言葉に云い表わせないような、濃艶さを持った女であった。薄紫の単衣(ひとえもの)、鞘形寺屋緞子(さやがたてらやどんす)の帯、ベッタリ食っ付けガックリ落とした髷の結振りから推察(おしはか)ると、この女どうやら女役者らしい。よい肉附き、高い身長(せい)。力のある立派な顔、女役者としても立て物らしい。大きなハッキリした二重瞼眼、それには情熱があふれている。全体が非常に明るくて、いつも愉快な冗談ばかりを、云いたそうな様子を見せている。人生の俗悪そのもののような、興行界に居りながら、それに負けずに打ち勝って行く――と云ったような女である。
 小屋掛けではあるが大変な人気の、両国広小路にこの頃出来た、吉沢一座の女歌舞伎、その座頭の扇女(せんじょ)なのであった。年は二十二三らしい。
 明るく燈火(ともしび)が燈(と)もってい、食べ散らし飲み散らした盃盤が、その燈火(ひ)に照らされて乱雑に見え、二人ながらいい加減酔っているらしい。
「どうだどうだ、え、扇女、ソロソロおっこちてもいいだろう」
 扇女の胸の辺りへ視線を送り、大学はこんなことを云い出した。
「御贔屓様は御贔屓様、旦那様は旦那様、可愛いお方は可愛いお方、ちゃあんと分けて居りますのでね」
 扇女は早速蹴飛ばしてしまった。ビクともしない態度である。
「久しいものさ、その白(せりふ)も」
 大学はニヤニヤ笑っている。決して急かない態度である。
 二人ながらちょっとここで黙った。
 やがて、大学は云い出した。
「ところで有るのかい、可愛い人が?」
「こんな商売、情夫(いろ)がなくては、立ち行くものじゃアありませんよ」
「一体どいつだ、果報者は」
 勿論大学怒ったのではない。語気を強めて云ったまでである。
 怒るような大学ならいいのであって、いつも冷静、いつも策略、そうでなければ世は渡れぬ――と考えている彼なのであった。
「あやかりたいの、果報者に」
「なかなかむずかしゅうございますよ、果報者にあやかるということわね」
「ひどく勿体をつけるじゃアないか」
 ツト手を延ばすと盃を取り上げ、
「まず注いだり。……冷めたかな」
 銚子を取り上げた吉沢扇女は、盛り溢れるほど酒を注いだ。
「注ぎっぷりだけはいい気前だ」
「他人(ひと)のお酒でございますもの」
「御意、まさしく。拙者の酒で……」
 するとその時どこからともなく――と云って勿論屋敷内からではあったが、罵り合う声が聞こえてきた。
 ガラガラと物を投げる音もした。




「おや」と扇女は聞きとがめた。
「何をしたのでございましょう?」
 だが大学は黙っていた。とはいえ顔の表情の中には、困ったことをしやアがる、こんな肝心な大事な場合に――と云ったような気振りが見える。
 物を投げる音に引きつづき、罵り合う声が聞こえてきた。それも二人や三人ではなく、たくさんの人達が大声で、罵り合っているようである。
「静かなお屋敷だと思っていましたのに、どうやら大勢の人達が、おいでなさるようでございますね」
 こう云った扇女の言葉には皮肉の調子がこもっていた。
「女中三人に下僕が二人、閑静な生活(くらし)をしているよ、だから遊びに来るがよい。――などと仰有(おっしゃ)ったお言葉も、あてにならないようでございますね」
 大学は顔を顰めている。神経質らしいところさえ見せ、不機嫌に盃を嘗めている。
 物を投げる音は直ぐ止んだが、罵り声はまだ止まない。
「気味の悪いお屋敷でございますこと。……どれ妾(わたし)は帰りましょう。気味のよくないお屋敷などで、気味の悪い旦那様を相手にし、いつ迄お酒盛りをしたところで、面白くも可笑(おか)しくもございません」
「待てよ」とはじめて鮫島大学は、チラリと凄味を現わしたが、
「帰しはしないよ、遊んで行け。屋敷が不気味であろうとも、この俺が不気味であろうとも、それに怖気を揮うような、初心(うぶ)なお前ではないはずだ」
 ここでニタリと笑ったが、干した盃を突き出した。
「まず一杯、飲むがいい」
「はい」と云うと穏しく、扇女(せんじょ)は盃を手で受けたが、
「酔わせてグタグタにして置いて……などというような厭らしい、野暮なお方でもありますまい」
「またお前にしてからが、男の前で酔っ払い、不様に姿を崩すような、あたじけない女でもないはずだ」
 この時、バタバタと足音がして、隣部屋へ人が来たらしく、
「お頭!」と呼ぶ声が聞こえてきた。
「馬鹿!」と一喝した鮫島大学は、
「これこれ何だ、言葉を謹め! 客の居るのを知らないのか!」
「あッ、なるほど、これは粗相……」
 恐縮したらしい声音(こわね)である。
「あの、旦那様に申し上げます」
「何か用か? 用なら云え」
「少し間違いが起こりまして……」
「何を馬鹿な! 間違いとは何だ!」
「へい加賀屋の野良(のら)息子が、贋物(いかさま)のネタを割ったんで……」
「行け!」と怒鳴(どな)ったもののギョッとしたらしく、扇女の顔色を窺った。
「へい!」と云ったが、バタバタバタと、隣部屋の人間は立ち去ったらしい。
 すると、鮫島大学であるが、もうどうにも仕方がない――こう云ったような酸味ある笑いを、チラリと顔へ浮かべたが、弁解するように云い出した。
「何の、実はこういう訳だ。屋敷は広く俺は浪人、そこでわる共が集まって来て、手慰みをやっているというものさ。これも交際(つきあい)仕方もない。とはいえ俺は手を出さない。屋敷を貸しているばかりさ。だからよ、何も、この俺をだ、悪漢(わるもの)あつかいにしないがいい。だが」と云うとヒョイと立った。
「どうやら間違いが起こったらしい。黙ってうっちゃっても置かれまい。ちょっくら行ってあつかって来よう。何さ何さ帰るには及ばぬ。ゆっくり遊んで行くがいい。すぐさま帰って来るからな」
 刀を下げて部屋を出た。
「態ア見やがれ、尻尾を出したよ」
 一人残ったは扇女である。
「繁々(しげしげ)お茶屋へは呼んでくれる、パッパッと御祝儀は切ってくれる。派手にお金を使うので贔屓筋としては大事な人、こうは思っていたものの、万事の様子が腑に落ちず、迂散者らしく思われたが、やっぱりニラミは狂わなかったよ。不頼漢(ならずもの)の頭、賭博宿の主人、どうやらそんな塩梅(あんばい)らしい。……何だか気味が悪いねえ、どれソロソロ帰るとしよう」
 ひょいと立ち上ったが考えた。
「何も好奇(ものずき)、屋敷の様子を、こっそり探ってみてやろう。うまく賭博場でも目つかったら、とんだ面白いことになる」
 それで、ソロリと襖を開けた。




 一つの部屋で、一人の若者が、匕首(あいくち)などを振り廻し、大声で喚きちらしていた。
「なんだなんだ飛んでもねえ奴等だ! うまうま俺を瞞(だま)しゃアがった。これで解(わか)った、これで解った! 幾度勝負を争っても、一度も勝ったためしがねえ、おかしいおかしいと思ったが、こんな仕掛けのある以上、負けつづけるのは当然(あたりめえ)だ! ……飛んでもねえ奴等だ、承知出来ねえ! ……さあ叩っ斬るぞ叩っ斬るぞ!」
 年の頃は二十一二、非常に上品な若者である。否々(いやいや)むしろ坊ちゃんなのである。色が白く血色がよい。栄養の行き渡っている証拠である。丸味を帯びた細い眉、切長で涼しくて軟らか味のある眼、少し間延びをしているほど、長くて細くて高い鼻、ただし鬘(まげ)だけは刷毛先(はけさき)を散らし、豪勢侠(いなせ)に作ってはいるが、それがちっとも似合わない。着ている物も立派であって、腰につけている煙草入の、根締の珊瑚は古渡りらしく、これ一つだけで数十金はしよう。秘蔵がられている豪商の息子が、悪友のために惑わされ、いい気になって不頼漢を気取り、悪所通いをしているという、一見そういう風態であった。
 で、匕首(あいくち)は振り上げたが、敵を切る前に自分の手を、切りそうで切りそうで見ていられない。――と云ったようなあぶなさがある。
 加賀家百万石の御用商人、加賀屋と云って大金持、その主人を源右衛門と云ったが、その息子の源三郎なのであった。
「キ、切るゾ――ッ! キ、切るゾ――ッ!」
 源三郎は匕首を振り廻すのであったが、しかし誰一人相手にしない。ニヤニヤみんな笑っている。
 源三郎を取り巻いて、十五六人の男がいたが、この連中が大変物で、浪人風の者、ゴロン棒風の者、商人風の者、鳶風の者、そうかと思うと僧形の者、そうかと思うと大名方の、お留守居風の人物もいるのであった。
 しかしいずれも変装らしく、どうやらみんな仲間らしい。
 それらの人数を抱いている、部屋のこしらえというものが、また大変なものであった。だがそれとて一口に云えば、上海(シャンハイ)風ということが出来る。壁の一方に扉がある。双龍(そうりゅう)珠(たま)を争うところの図案を描いた扉である。一方の壁に窓がある。龕燈形の窓である。そのくせ窓には真鍮の棒が、無数に厳重に穿めてある。そうして窓のあるその壁にも、双龍珠を争う図が、黄色い色彩(いろ)で描かれてある。いやいや双龍珠を争う、そういう図面は二ヶ所ばかりでなく、青く塗られた天井にも、板敷になっている床の上にも、他の二方の壁の面にも、ベタベタ描かれてあるのであった。それにしても双龍の争っている、珠の形の大きいことは! 直径二尺はあるだろう。そうして一体どうしたのだろう、時々その珠が忽然と、鏡のように光るのは? いやいや鏡のように光るのではなく、事実鏡に変わるのであった。誰がどうして変えるのだろう? もし誰か龕燈形の窓へ行きそこから外を覗いたなら、そこに真暗な部屋があり、そこに一人の人間がいて、絶えずこの部屋を覗きながら、その真暗な部屋の壁に、突起している幾個(いくつ)かのボタンを、時々押すのを見ることが出来よう。その男の押すボタンに連れて、珠が鏡に変わるのである。部屋の広さ三十畳敷ぐらいそこに幾個か円卓があり、円卓の周囲(まわり)に榻(とう)がある。そこで勝負をするのだろう、この時代には珍らしい、トランプが幾組か置いてある。
 だがもう一つこの部屋に続き、異様(かわ)った部屋のあることを、ここへ来るほどの人間は、決して決して見落とすまい。寝椅子、垂幕、酒を載せた棚、そうして支那風の化粧をし、又支那風に扮装(みづくろ)った幾人かの若い娘達、そういうもので飾られている、いわゆる酒場――安息所が、そこに作られているのだから。
 だがそれにしてもその部屋へは、どうしてどこから入って行くのだろう? 双龍の描いてある一つの扉、そこから入って行くのだろうか? いやいやそうではなさそうである。扉の外は廊下なのだから。……ではどこから行くのだろう? どこかに隠された扉でもあって、それを開けると行けるのらしい。
 勝負に勝った連中が、その部屋へ行って飲むのである。
 これも充分支那風の、南京玉で鏤(ちりば)めた、切子型の燈籠が、天井から一基下っていて、菫(すみれ)色の光を落としているので、この部屋は朦朧と、何となく他界的に煙っている。
 それにしてもこんな天保時代に、こんな支那風の不思議な部屋が、中央ではないにしても江戸の中に、出来ているとは何ということだろう? いずれこれの経営者は、鮫島大学に相違あるまいが、ではその鮫島大学なる武士は、どんな素性の者なのだろう? 支那と関係のある人間だろうか?




 また源三郎は怒鳴り出した。
「鏡仕掛けとは何事だ! 鏡に持札を写されてみろ、相手に持札がみんな知れ、どんな旨(うま)い手を使ったところで、裏ばかり掻かれて勝負にならねえ! おおおお、おおおお手前達、グルだなグルだな、みんなグルだな! みんなグルになって俺一人にかかり、大金を捲き上げようとしたんだろう!」
 又、匕首を揮うのであるが、腰をかけたり佇んだり鼻歌をうたったり囁いたり、笑ったりしている悪漢(わる)どもは、
「何を坊ちゃんが云いおるやら、うっちゃって置け、うっちゃって置け」
 こう云ったように冷淡に、取り合おうとさえしないのであった。
 こういう空気は当然に、人をして一層怒らせるもので、源三郎は手近の一人を切った。
「ワッ」という悲鳴を立てて切られた鳶(とび)はぶっ仆れた。
 つづいて起こった混乱で、
「小僧、生意気!」
「飛んでもねえ奴だ!」
「うっそり者の狂人(きちがい)め!」
「めんどッくせえや、眠らせろ!」
 声の渦巻きが渦巻いて、つづいて人間の渦が巻いた。大勢一度にムラムラと、源三郎へかかったのである。ガラガラと物を投げる音! 二三人の者が源三郎を目掛け、榻や器物を投げたのである。
 と、三四人悲鳴を上げ、人間の渦から飛び出した。逆上していよいよ狂暴になり、勇気を加えた源三郎が、夢中で揮った匕首で、傷つけられた連中である。
「あぶねえあぶねえ気を付けろ!」
「弱い野郎が物に憑かれ、にわかに強くなりゃアがった。だから一層物騒だ!」
 あつかい兼ねたというやつである。ダラダラと一同は後へ退いた。
 背後(うしろ)の壁へ背中をあて、全身をガクガク顫わせながら、匕首を頭上に振り冠り、その匕首から血をしたたらせ、突っ立ったのは源三郎で、髻(もとどり)がバラバラに千切れてい、頬から生血が流れてい、腰に下げていた煙草入など、どこへ行ったものか見当らない。従って高価な古渡り珊瑚の、根締の玉も見当らない。ドサクサまぎれに何者か、ふんだくってしまったに相違ない。
 この時一人のゴロン棒風の男が、手捕りにしようと思ったのだろう。
「ヤイ!」と喚くと飛びかかった。
「うぬ!」と呻くと源三郎は、ピューッと匕首を横へ揮った。
「あぶのうございます」と飛び退いた。
「今度は俺だ」と浪人風の男が、刀を鞘ぐるみ引っこ抜き、鐺(こじり)をグッと突き出した。
「見やがれ!」と叫ぶと源三郎は、一躍パッと飛び込んだ。
 と、カチリという音がした。匕首で鞘を払ったのである。
「あッ不可(いけ)ない、一両の損だ! 鞘を直しにやらなけりゃアならない」
 浪人は後へ退いた。
 獲物を揮って討ち取るのなら、何の手間暇もいらないのであって、すぐに柔弱の源三郎ぐらい、討って取ることは出来るのであるが、しかし源三郎は名家の息子、殺しては世間が承知しまい。大騒ぎをするに相違ない。世間が大騒ぎをすることによって、この屋敷のカクラリが、暴露されないものでもない。それが彼等には恐かった。それで手捕りにしてふん縛り、うんと虐(いじ)め懲(こら)しめて、今後二度と来させまいとするのが、彼等悪漢(わる)共の思惑なのであった。
 ところが一方源三郎は、怒りと屈辱とで正気を失い、今や狂暴になっていた。そこで、無闇とあばれ廻り、無二無三に匕首を揮い、遠慮会釈なく人を切る。捕らえることも抑えることも出来ない。


10

 しかし扉が開いてこの屋敷の主人(あるじ)の、鮫島大学(さめじまだいがく)が現われて、無雑作に源三郎の前に進み、源三郎の手をムズと掴み、グッとばかりに引っ立てた瞬間、この場の治まりは付いてしまった。
「汝(うぬ)は誰だ!」と源三郎は怒鳴った。
「拙者かな、拙者かな、さあ何者でござろうやら」
「痛え痛え、手を放せ!」
「ホッ、ホッ、ホッ、お痛いかな」
 三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと、女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、
「これ」とにわかにいかつくなった。
「二度と来るなよ、こんな場所へ! 人に云うなよ、この場の光景を」
 更に一層凄くなり、
「上海(シャンハイ)仕立ての遊戯室、世間へ明かしたら賽の目だ、無いぞないぞ、汝(うぬ)の命は! 痛えどころか殺すぞよ!」
 グッと睨んだが考えた。
「待てよと……オ、茨木! 茨木!」
「は」と云いながら進み出たのは、いましがた鞘ぐるみ刀を出し、源三郎をからかった、浪人風の男であった。
「たしかこいつは。……この若造は……加賀屋源右衛門の倅(せがれ)だったの?」
「は、さようでございます」
「よし」と云うと有意味に笑った。
「飛び込んで来た、よい囮が! 今まで迂濶(うっか)りしていたよ。……何よりの玉だ、こいつを利用し……」
 呟くと一緒に突き飛ばした。
 突かれて蹣跚(よろめ)いた源三郎は、ドンと壁へぶつかったが、充分の恐怖(おそれ)、充分の怒り、しかし依然として心は夢中で……
「汝は、汝は!」と匕首(あいくち)を揮った。
「ホッ、ホッ」という例の笑いと共に、入身となった鮫島大学は、グッと拳を突き出した。
「ムーッ」とこれは源三郎で、泳ぐような手付きをしたかと思うと、グニャグニャになってぶっ仆れた。
「悪い格好で寝ているよ。大金持の若旦那も、からきしこうなっちゃア見られないなあ」
 懐手(ふところで)をした鮫島大学は、見下ろしてこう呟いたが、
「おい茨木、考えがある。この態(ざま)の悪いお客さんを、じめつく地下の物置で、大して大事にしなくともいいが、とにかく介抱してやってくれ。……ええとそれから」と鮫島大学は、手下の悪漢(わる)どもを見廻したが、
「あぶれた立ン棒じゃアあるまいし、並んで茫然(ぼんやり)立っているなよ。……ちょっと待て待て、オイ茨木! 今夜、宇和島という侍が、例の品物を懐中して、海路大阪から江戸へ着くはず、その宇和島への両様の手宛、もうすっかり出来ているだろうな」
「へい、すっかり出来ています。……最初は正面から斬ってかかり……」
「云うな云うな、出来ておればよい。……松本々々依頼(たのみ)がある」
「へい」と云って顔を出したのは、御留守居風をした男である。
「今考えついた細工だが、お前町方役人となって、加賀屋へ行って主人(あるじ)と逢い……これこれちょっと耳を貸しな」
 囁くのを聞き取った御留守居風の男は、
「こりゃァ名案でございますなあ。……それにしても東三(とうさぶ)め、うまくやればよろしゅうござるが」
「久しい間入り込んでいるあいつ、ヘマなことはしないだろうよ」
 ここで又大学は茨木という男へ、苦笑いしながら話しかけた。
「大阪では宇和島というあの侍に、ひどい目に逢ったのう」
「ミッシリ峰打ちに叩かれて、ぶざまに気絶をいたしました」
「本来はあいつを味方に引き入れ、平野屋から加賀屋へ送る品物――凄く高価な品だというから、いずれは腕利きの人物に持たせ、送り届けるに相違ない。その送人を途中に擁し、宇和島に殺させ奪い取ろうと、そう目論(もくろ)んでの仕事だったのに、あいつの腕が利き過ぎていたので、平野屋の主人に逆に雇われ……」
「あいつが高価の品物を保護して、江戸入りすることになったとは、面白くない運命で」
「面白くない運命といえば、源三郎の運命も……金太々々ちょっと来い」
「へい」と近寄って来た乾兒(こぶん)の一人へ、又大学は囁いた。
「へえ、それでは加賀屋の倅を、加賀屋の金蔵へ送り込むんで」
「うん。……さあさあみんな行け」
 一同の悪漢(わる)どもが立ち去って、一人になると大学は榻の一つへ腰かけた。
「この考えは素晴らしいぞ」
 独り言を云いながら考え出した。
 すると、その時扉をあけて、スッと入って来た女があった。
「大変な芝居をなさいましたねえ」
 女役者の扇女(せんじょ)である。
「ほほうお前か、見ていたか。舞台の芝居より凄かろう」
「血糊と異って流されたは、本当の血でございましたからね」
「どうだ扇女、物は相談、凄味に惚れちゃアくれまいかな」
「そうですねえ、考えましょうよ、一つじっくりと考えましょうよ」
「そのじっくりだが、気に入らないな。それにさ恋というものは、考えてやらかすものではない。と、こんなように思うがの。大概考えている中に、恋というものは逃げてしまう」
「逃げてしまうような恋でしたら、やらない方が可(よ)いでしょう」
「これが秘決だ! 無分別! どうだこいつでやらかそう!」
「ところが妾(わたし)は天邪鬼(あまのじゃく)で、無分別が恋の秘決なら、思慮熟慮で行きましょう」
「理詰めで行こうとこういうのか?」
「そうですねえ、そうでしょうよ」
「オイ」と大学猛くなった。
「その理詰めだが嵩ずるとな……」
「どうなろうと仰有(おっしゃ)るので?」
「こうなるのだ! こうなるのだ!」
 ノッと立ち上った鮫島大学は、巨大な鳥が小雀を、翼の下へ抱え込むように、扇女を両腕へかい込もうとした。
 だがその途端に一方の壁の、真中(まんなか)の辺りへ穴が開き、一人の女が現われた。
 隣部屋へ通う隠し戸を開け、手に阿片の吹管を持ち、支那の乙女の扮装(すがた)をした、若い女が現われたのである。
「阿片をお吸いなさいまし。結構な飲物でございます」
 そう云いながらその女は、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出た。
「奇麗な夢が見られます。見ることの出来ない美しい、世界を見ることも出来ましょう。聞くことの出来ない美しい、音楽を聞くことも出来ましょう。石榴(ざくろ)石から花が咲いて、その花の芯は茴香(ういきょう)色で、そうして花弁は瑪瑙(めのう)色で、でもその茎は蛋白石の、寂しい色をして居ります。そういう花も見られましょう。……そこは異国でございました。そこは上海(シャンハイ)でございました。その裏町でございました。一人の女が誘拐(かどわか)され、密房の中へ閉じ籠められ、眠らされたのでございます。黒檀の寝台には狼の毛皮。でその毛皮の荒い毛が、体の肉を刺しました。菱形の窓から熟んだ月が、ショボショボ覗いて居りました。猫目石のような月の眼が、女の胸を探りました。とどうでしょうお月様の眼が、潰れてしまったではございませんか。胸の辺りに刳られた穴が、龕のように出来ていたからです。それを見たからでございます。それで吃驚(びっくり)してお月様の眼が、潰れてしまったのでございます。……誰が刳ったのでございましょう? 青々と光るものがある! 鉛で作った大形の、偃月刀(えんげつとう)でございます。柄に鏤(ちりば)めたは月長石と、雲母石とでございました。それで刳ったのでございます。可哀そうな可哀そうな女の胸を! でもその間その女は、歌をうたって居りました。大変いい声でございました。だが本当に美しいことは、その歌声が熱のために、凍ってしまったことでございます。で虹色の一本の、棒になったのでございます。……阿片をお喫みなさいまし、凍った歌声の虹の棒を、手に取ることが出来ましょう。だが御用心なさりませ、今度は手の熱に冷やされて、棒が融けるでございましょう。それはまだまだよろしいので。ではその時歌声が、こう響いたらどうなさいます。『誰も彼も生きている死骸だよ』……よこせ! よこせ! よこせ! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 呉れない! 寄って集(たか)ってたくさんの人が、虐むからでございます。そこで、生きながら誰も彼も、死骸になるのでございます。……死骸はいやらしゅうございます。見ない方がよろしゅうございます。死骸を見まいと思ったら、阿片をお喫いなさいまし。……お前は誰だい!」
 とその女は、よろめく足を踏み締めると、扇女の前へ突立った。
 支那風に髪を分けており、髪に包まれて顔があり、その顔は仮面と云った方が、似合うように思われた。と云うのは支那製の白粉(おしろい)で、部厚く一面に、塗りくろめ、書き眉をし、口紅をつけ、頬紅を注しているからである。特色的なのは眼であろう。眼窩が深く落ち窪み、暗い深い穴のように見える。
 楔(くさび)形に削ったのだろうか? こう思われる程ゲッソリと、頬が頤へかけて落ちている。
 上着の模様は唐草で、襟と袖とに銀の糸で、細く刺繍(ぬいとり)を施してある。紫色の袴の裾を洩れ、天鵞絨(ビロード)に銀糸で鳥獣を繍った、小さな沓(くつ)も見えている。
「奇麗な御婦人、別嬪さん!」
 云いながら睨むように扇女を見た。それから大学へ眼をやった。
「そうかそうか、恋仲か! 恋をしようとしているのか! だがねえ」とまたもや扇女を見た。
「用心が大事でございますよ。迂闊に恋などなさいますな。凄いお方でございます。この大学という方は! もし迂闊にこの人と恋仲などになりましたら、妾(わたし)のようにされましょう。廃人にね! 廃人にね! ……」
 ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと歩き出した。針金細工の人形かしら? あまりにも痩せているではないか! そうしてヒョロヒョロと歩く毎に、どうしてあんなにも顫えるのだろう?
 燈籠(とうろう)の火に照らされて、阿片の吹管が反射する。それを握っている手の指が、あたかも鈎のように曲がっている。
 と、だるそうに振り返り、ノロノロと片手を上げ、それで大学を指さしたが、
「ね、妾(わたし)の恋男さ! そうさ妾の大学さんさ! 取っちゃア不可(いけ)ないよ、この人をね!」
 それから自分を指さした。
「教えてあげよう、妾の名をね! 『阿片食い』のお妻だよ!」
 またヒョロヒョロと歩き出し、部屋をグルグル廻り出した。

 同じこの夜のことである。
「一体どうしたのでございましょう、こんな夜が更けたのに、兄さんがお帰りにならないとは」
 こういう娘の声がした。清浄であどけないその中に、憂いを含んだ声である。
 すぐ老人の声がした。
「源三郎にも困ったものだ。悪い友だちが出来たらしい。碌でもない所へ行くらしい」
 ここは浅草の蔵前通りの、富豪加賀屋の奥座敷である。
 源三郎の父の源右衛門と、源三郎の妹のお品とが、源三郎の身の上を案じ、寝もせず噂をしているのであった。
 するとその時足音がして、襖の陰で止まったが、
「大旦那様、大旦那様」
 こう呼ぶ不安そうな声がした。
「長吉どんかい、何か用かい」
「心配のことが出来ました」
「入っておいでな、どんな事だい?」
 襖を開けて顔を出したのは、長吉という手代であった。
「町役人の方がおいでになり、お目にかかりたいと申しております」

 ところが同じこの夜のこと、旅装凜々しい一人の武士が、端艇(はしけ)で海上を親船から、霊岸島まで駛(はし)らせて来た。
「御苦労」と水夫(かこ)へ挨拶をして岸へ上るとその侍は、あたかも人目を忍ぶように、佐賀町河岸までやって来た。
 すると家陰から数人の人影が、タラタラと一勢に現われたが、旅侍を取り巻くや、四方からドッと切り込んだ。
「うむ、出たか! 待っていたようなものだ」
 嘯(うそぶ)くように云ったかと思うと、抜打ちに一人を切り斃し、
「すなわち人殺(ひとごろし)受負業(うけおいぎょう)! アッハッハッハッ、一人切ったぞ」
 その時、
「引け」という声がした。……途端に刺客の人影は、八方に別れて散ってしまった。
「おかしいなあ」と佇んだまま、旅侍は呟いたが、
「はてな?」ともう一度呟いた。
 というのは行手、眼の先へ、加賀屋と記された提燈が、幾個(いくつ)か現われたからである。
「宇和島様でございましょうな。加賀屋からのお迎えでございます」
 手代風の一人が進み寄ったが、こう旅侍へ声をかけ、さも丁寧に腰をかがめた。

 ところがこれも同じ晩に、もう一つ奇怪な出来事が起こった。
 一人の立派な老人が、それは加賀屋源右衛門であるが、手燭をかかげて土蔵の中を、神経質に見廻していた。土蔵の中に積まれてあるのは、金鋲を打った千両箱で、それも十や二十ではない。渦高いまでに積まれてある。その一つの前へ来た時である。
「あッ」と老人は声を上げた。
 と、その声が呼んだかのように、土蔵の口へ現われたのは、顔に醜い薄痘痕(あばた)のある、蔵番らしい男であったが、手に匕首(あいくち)を握っている。じっと狙ったは老人の首で、ジリジリジリジリと擦り寄って行った。


11

「親分おいででござんすかえ」
「はいはいおいででございます」
「これは親分お早うございます」
「はいはいお早うございます」
「たんへんな事件(こと)が起こりましたので」
「ははあ左様で、承(うけたま)わりましょう」
「加賀屋の主人が消えましたんで」
「これは事件(こと)でございますな」
「昨夜(ゆうべ)のことでございますよ」
「ははあ左様で、昨夜のことで」
「いまだに行方が知れませんので」
「なるほどこれは大変なことで」
「家内中大騒ぎでございますよ」
「これは騒ぐのが当然で」
「ところがああいう大家のことなので、表立って世間へは知らせられないそうで」
「もっとももっとも……もっとももっとも」
「それ信用にも関しますので」
「左様どころではございません」
「一通り訊いては参りました」
「これはお手柄、承わりましょう」
「ええと昨夜も更けた頃に、町方のお役人がこっそりと、加賀屋へ参ったそうでございますよ」
「ああ町方のお役人様がね」
「で主人と逢いましたそうで」
「ああ左様で、源右衛門さんとね」
「ええそれからヒソヒソ話……」
「ははあお役人と源右衛門さんがね」
「と、どうしたのか源右衛門さんには、にわかに血相を変えまして、奥へ入ったということで」
「なるほどね、なるほどね」
「つまりそれっきり消えましたそうで」
「なるほどね、なるほどね」
「ところがもう一つ不思議なことには……」
「はいはい、不思議が、もう一つね」
「その夜若旦那も帰りませんそうで」
「へーい、なるほど、源三郎さんもね」
「親子行方が知れませんそうで」
「それは、まあまあ大変なことで」
 聞いているのは岡引の松吉で、その綽名(あだな)を「丁寧松」といい、告げに来たのは松吉の乾兒(こぶん)の、捨三(すてさぶ)という小男であった。
 所は神田連雀(れんじゃく)町の丁寧松の住居(すまい)であり、障子に朝日がにぶく射し、小鳥の影がぼんやりとうつる、そういう早朝のことであった。
 捨三が旨を受けて行ってしまうと、丁寧松は考え込んだ。
 その時お勝手から声がした。
「何だいお前、お菰(こも)の癖に、親分さんに逢いたいなんて」
 ちょっと小首を傾げたが、ツイと立ち上った丁寧松は、きさくにお勝手へ出て行った。
「お梅さんお梅さんどうしたものだ、お菰さんだろうと何だろうと、お出でなすったからにはお客さんだよ。不可(いけ)ない不可ない、粗末にしては不可ない」
 下女のお梅をたしなめたが、ヒョイと丁寧松は眼をやった。乞食が勝手口に立っている。
「これはいらっしゃい。何か御用で?」
「へい」と云ったが入って来た。
「お貰いに参ったんじゃアございません、お為になろうかと存じましてね。ちょっとお聞かせにあがりましたんで」
「ああ左様で、それはそれは。……お梅さんお梅さん向うへ行っておいで。……さあさあ貴郎(あなた)遠慮はいらない。おかけなすって、おかけなすって」
「ここで結構でございますよ、実はね親分」と話し出した。
「人殺しがあったんでございますよ」
「へーい、人殺し? それはそれは」
「そいつをあっしは見ていたんで」
「なるほどね、なるほどね」
「あっし達の住居は軒下なんで。どこへでも寝ることが出来ますので」
「自由でよろしゅうございますなあ」
「昨夜(ゆうべ)寝たのが佐賀町河岸で」
「あああの辺りは景色がいい」
「と、侍が来かかりました」
「ナール、侍がね。……どうしました?」
「と、ムラムラと変な奴が出て、斬ってかかったんでございますよ」
「うむ、うむ、うむ、侍がね」
「と、スポーンと斬ったんで。侍の方が斬ったんで」
「冴えた腕だと見えますねえ」
「引け! というので引いてしまいました。その現われた連中の方が」
「衆寡敵せずの反対で」
「するとどうでしょう、提燈の火だ」
「ほほう提燈? 通行人のね?」

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