大捕物仙人壺
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著者名:国枝史郎 



 女軽業の大一座が、高島の城下へ小屋掛けをした。
 慶応末年の夏の初であった。
 別荘の門をフラリと出ると、伊太郎(いたろう)は其方(そっち)へ足を向けた。
「いらはいいらはい! 始まり始まり!」と、木戸番の爺(おやじ)が招いていた。
「面白そうだな。入って見よう」
 それで伊太郎は木戸を潜った。
 今、舞台では一人の娘が、派手やかな友禅の振袖姿で、一本の綱を渡っていた。手に日傘をかざしていた。
「浮雲(あぶな)い浮雲い」と冷々しながら、伊太郎は娘を見守った。
「綺麗な太夫(たゆう)じゃありませんか」
「それに莫迦に上品ですね」
「あれはね、座頭の娘なんですよ。ええと紫錦(しきん)とか云いましたっけ」
 これは見物の噂であった。
 小屋を出ると伊太郎は、自分の家へ帰って来た。いつも物憂そうな彼ではあったがこの日は別(わ)けても物憂そうであった。
 翌日復(また)も家を出ると、女軽業の小屋を潜った。そうして紫錦の綱渡りとなると彼は夢中で見守った。
 こういうことが五日続くと、楽屋の方でも目を付けた。
「オイ、紫錦さん、お芽出度(めでと)う」源太夫は皮肉に冷かした。「エヘ、お前魅(みい)られたぜ」
「ヘン、有難い仕合せさ」紫錦の方でも負けてはいない。「だがチョイと好男子(いいおとこ)だね」
「求型(もとめがた)という所さ」
「一体どこの人だろう?」
「お前そいつを知らねえのか。――伊丹屋(いたみや)の若旦那だよ」
「え、伊丹屋? じゃ日本橋の?」
「ああそうだよ、酒問屋(さかどんや)の」
「だって源ちゃん変じゃないか、ここはお前江戸じゃないよ」
「信州諏訪でございます」
「それだのにお前伊丹屋の……」
「ハイ、別荘がございます」
「おやおやお前さん、よく知ってるね」
「ちょっと心配になったから、実はそれとなく探ったやつさ」
「おや相変らずの甚助(じんすけ)かえ」紫錦ははすっぱに笑ったが「苦労性だね、お前さんは」
「何を云いやがるんでえ、箆棒(べらぼう)め、誰のための苦労だと思う」
「アラアラお前さん怒ったの」
 面白そうに笑い出した。
「おい紫錦、気を付けろよ、いつも道化じゃいねえからな」
「紋切型さね、珍らしくもない」
 紫錦はすっかり嘗めていた。
 ところでその晩のことであるが、桔梗屋(ききょうや)という土地の茶屋から、紫錦へお座敷がかかって来た。
「きっとあの人に相違(ちがい)ないよ」こう思いながら行って見ると、果して座敷に伊太郎がいた。
 さすがに大家の若旦那だけに、万事鷹様(おうよう)に出来ていた。
 酒を飲んで、世間話をして――いやらしいことなどは一言も云わず、初夜前に別れたのである。
 ホロ酔い機嫌で茶屋を出ると、ぱったり源太夫と邂逅(でっくわ)した。待ち伏せをしていたらしい。
「源ちゃんじゃないか、どうしたのさ」
「うん」と彼イライラしそうに「彼奴(あいつ)だったろう? え、客は?」
「言葉が悪いね、気をお付けよ。彼奴だろうは酷(ひど)かろう」紫錦は爪楊枝(つまようじ)を噛みしめた。
「いつお前お姫様になったえ」源太夫も皮肉に出た。
「たった今さ。悪いかえ」
「小屋者からお姫様か」
「そういきたいね、心掛けだけは」
 小屋の方へ二人は歩いて行った。
 源太夫というのは通名(とおりな)で、彼の実名は熊五郎であった。親方には実の甥で、紫錦とは従兄弟にあたっていた。
 その翌晩のことであるが、また同じ桔梗屋から紫錦にお座敷がかかって来た。
「行っちゃ不可(いけ)ねえ、断っちめえ」
 熊五郎は止めにかかった。
「いい加減におしよ、芸人じゃないか」
 紫錦は衣裳を着換えると、念入りにお化粧をし、熊五郎に構(かま)わず出かけて行った。
 気を悪くしたのは熊五郎であった。
「へん、どうするか見やアがれ」
 恐ろしい見幕(けんまく)で怒鳴(どな)り声をあげた。



 同じ一座の道化役、巾着(きんちゃく)頭のトン公(こう)は、夜中にフイと眼を覚ました。
 ヒューヒュー、ヒューヒュー、ヒューヒューと、口笛の音が聞こえてきた。
「はアてね、こいつアおかしいぞ」
 首を擡(もた)げて聞き澄ましたが、にわかにムックリ起き上った。周囲(まわり)を見ると女太夫共が、昼の劇(はげ)しい労働に疲労(つかれ)、姿態(なりふり)構わぬ有様で、大鼾(いびき)で睡っていた。
 それを跨(また)ぐとトン公は、楽屋梯子(ばしご)を下へ下りた。
 暗い舞台の隅の方から、黄色い灯(ひ)の光がボウと射し、そこから口笛が聞こえてきた。
 誰か片手に蝋燭を持ち、檻の前に立っていた。と、檻の戸が開いて、細長い黄色い生物が、颯(さっ)と外へ飛び出して来た。
「おお可(よ)し可し、おお可し可し、ネロちゃんかや、ネロちゃんかや、おお可(い)い子だ、おお可い子だ……」
 口笛が止むとあやなす声が、こう密々(ひそひそ)と聞こえてきた。フッと蝋燭の火が消えた。しばらく森然(しん)と静かであった。と、暗い舞台の上へ蒼白い月光が流れ込んで来た。誰か表戸をあけたらしい。果して、一人の若者が、月光の中へ現われた。肩に何か停(と)まっている。長い太い尾をピンと立てた、非常に気味の悪い獣(けもの)であった。
 月光が消え人影が消え、誰か戸外(そと)へ出て行った。

「思召(おぼしめ)しは有難う存じますが……妾(わたし)のような小屋者が……貴郎(あなた)のような御大家様の……」
「構いませんよ。構うもんですか……貴女(あなた)さえ厭でなかったら……」
「なんの貴郎、勿体ない……」
 紫錦(しきん)と伊太郎(いたろう)は歩いて行った。
 帰るというのを、送りましょうと云うので、連れ立って茶屋を出たのであった。左は湖水、右は榠櫨(かりん)畑、その上に月が懸かっていた。諏訪因幡守三万石の城は、石垣高く湖水へ突き出し、その南手に聳えていた。城下(まち)の燈火(ともしび)は見えていたが、そのどよめきは聞えなかった。
 穂麦(ほむぎ)の芳(かんば)しい匂がした。蒼白い光を明滅させて、螢が行手を横切って飛んだが、月があんまり明るいので、その螢火は映(は)えなかった。
「美しい晩、私は幸福(しあわせ)だ」
「妾も楽しうござんすわ」
 畦道(あぜみち)は随分狭かった。肩と肩とを食(く)っ付けなければ並んで歩くことが出来なかった。
 いつともなしに寄り添っていた。
 やがて湖水の入江へ出た。
「あら、舟がありますのね」
「私の所の舟なんですよ」
「ね、乗りましょうよ。妾漕げてよ」紫錦はせがむように云うのであった。「貴郎のお宅までお送りするわ」
 それで二人は舟へ乗った。
 湖上には微風が渡っていた。櫂(かい)で砕(くだ)かれた波の穂が、鉛色に閃(ひら)めいた。水禽(みずどり)が眼ざめて騒ぎ出した。
 二人は嬉しく幸福であった。
「さあ来てよ、貴郎のお家(うち)へ」
 そこで、二人は舟を出て、石の階段を登って行った。
 木戸を開けると裏庭で、柘榴(ざくろ)の花が咲いていた。
「寄っておいで、構やしないよ」
「いいえ不可(いけ)ませんわ、そんなこと」
 二人は優しく争った。
 やっぱり女は帰ることにした。一人で櫓櫂(ろかい)を繰(あやつ)って紫錦は湖水を引き返した。

 どこか、裏庭の辺りから、口笛の音の聞こえてきたのは、それから間もないことであった。
「今時分誰だろう?」
 楽しい空想に耽りながら、いつもの寝間の離座敷で、伊太郎は一人臥(ふせ)っていた。
 ヒューヒュー、ヒューヒューとなお聞こえる。
 と、コトンと音がした。庭に向いた窓らしい。「はてな?」と思って眼を遣ると、障子へ一筋縞が出来た。細目に開けられた戸の隙から月光が蒼く射したのであろう。
「あ、不可(いけ)ない、泥棒かな」
 すると光の縞の中へ、変な形があらわれた。
 長い胴体、押し立てた尻尾、短い脚が動いている。と思った隙(ひま)もなくポックリと障子へ穴があいた。
 颯(さっ)と部屋の中へ飛び込んで来た。
「鼬(いたち)だ」
 と伊太郎は刎起(はねお)きた。「誰か来てくれ、鼬だ鼬だ!」
 ぼんやり点(とも)っている行燈(あんどん)の光で、背を波のように蜒(うね)らせながら伊太郎目掛けて飛び掛かって行く巨大な鼬の姿が見えた。
 母屋の方から人声がして、母を真先に女中や下男が、この離(はなれ)へやって来た時も、なお鼬は駆け廻っていた。
 母のお琴(こと)はそれと見ると、棒のように立ち縮んだ。
「鼬!」と顫え声で先ず云った。「口笛の音? ああ幽霊!」
 それからバッタリ仆(たお)れてしまった。
 お琴は気絶したのである。
 鼬の姿はいつか消え、遠くで吹くらしい口笛の音が、なお幽(かすか)に聞こえていた。



「私(わっち)は現在見たんでさあ。嘘も偽わりもあるものですかい。ええええ尾行(つけ)て行きましたとも。するとどうでしょうあの騒動でさ」
 楽屋へは朝陽が射し込んでいた。人々はみんな出払っていて、四辺(あたり)はひっそりと静かであった。女太夫の楽屋のことで、開荷(あけに)、衣桁(いこう)、刺繍した衣裳など、紅紫繚乱(こうしりょうらん)美しく、色々の物が取り散らされてあった。
「でも本当とは思われないよ。そんな事をする人かしら?」
「恋は人間を狂人(きちがい)にしまさあ」
「だって妾(わたし)あの人に対して何もこれまで一度だって……それに妾達は従兄妹同志じゃないか」
「従兄妹であろうとハトコであろうと、これには差別はござんせんからね。……私(わっち)はこの眼で見たんでさあ」
「だってそれが本当なら、あの人それこそ人殺しじゃないか」
「だからご注意するんでさあね」
「ただの鼬(いたち)じゃないんだからね」
「喰い付かれたらそれっきりでさあ」
「恐ろしい毒を持っているんだからね」
「私(わっち)は現在見たんでさあ。裸蝋燭を片手に持って、ヒューッ、ヒューッと口笛を吹いて、檻からえて物を呼び出すのをね。そいつを肩へひょいと載っけて、月夜の往来へ出て行ったものです。こいつおかしいと思ったので、直ぐに後をつけやした。それ私は四尺足らず、三尺八寸という小柄でげしょう。もっとも頭は巾着(きんちゃく)で、平(ひらった)く云やア福助(ふくすけ)でさあ。だから日中(ひのうち)歩こうものなら、町の餓鬼(がき)どもが集(たか)って来て、ワイワイ囃して五月蠅(うるそ)うござんすがね。折柄夜中で人気はなし、家の陰から陰を縫って、尾行て行くには持って来いでさあ。小さいだけに見付かりっこはねえ。で行ったものでございますよ。別荘作りの立派な家、そこまで行くと立ち止まり、ジロリ四辺を見まわしたね、それから木戸を窃(そっ)と開けて、入り込んだものでございますよ。で、しばらく待っていると、そこへお前さんとあの人とが、湖水(うみ)から上って来たものです。そこで鼬を放したというものだ」
「でもマア大騒ぎをしただけで、怪我はなかったということだから、妾は安心をしているのさ」
「ところが、あの人の母者人なるものが、気を失ったということですぜ」
「まあ、よっぽど驚いたんだね」
「おどろき、梨の木、山椒の木だ。が、ままともかくもこの事件は、これで納まったというものだ。そこでこれからどうしなさる?」
「どうするってどうなのだよ?」
「一度こっきりじゃ済みませんぜ」
「じゃまたあるとでも云うのかい? 源ちゃん、そんなに執念深いかしら?」
「お前さんの遣り方一つでさあ」
「だって妾、これまでだって、随分お座敷へは呼ばれたじゃないか」
「それとこれとは異(ちが)いまさあ。それはそれで金取り主義、ご祝儀頂戴の呼吸(いき)だったが、今度はどうやらお前さんの方でも、あの青二才に惚れているようだ」
「何を云うんだよ、トン公め!」

 今から数えて十六年前、酒商(さけしょう)[#ルビの「さけしょう」は底本では「さけしやう」]伊丹屋伊右衛門(いたみやいえもん)は、この城下に住んでいた。
 旧家ではあり資産家(かねもち)ではあり、立派な生活を営んでいた。お染(そめ)という一人娘があった。その時数え年漸(ようや)く二歳(ふたつ)で、まだ誕生にもならなかったが、ひどく可愛い児柄(こがら)であった。夫婦の寵愛というものは眼へ入っても痛くない程で、あまり二人が子煩悩なので、近所の人が笑うほどであった。
 ところがここにもう一人、藤九郎(とうくろう)という中年者が、ひどくお染を可愛がった。甲州生れの遊人で――本職は大工ではあったけれど、賭博は打つ酒は飲む、いわゆる金箔つきの悪であったが、妙にお染を可愛がった。
 もっともそれには理由(わけ)があるので、お染の産れたその同じ日に――詳細(くわし)く云えば弘化(こうか)元年八月十日のことであるが、藤九郎の女房のお半(はん)というのが、やはり女の児を産んだ。ところがそれが運悪く産れた次の日にコロリと死んだ。それを悲しんで女房のお半も、すぐ引き続いて死んでしまった。さすが悪の藤九郎も、これには酷(ひど)く落胆して、一時素行も修まった程であった。
 ところでこのころ藤九郎は、伊丹屋の借家に棲んでいたので、よく伊丹屋へは出入りした。自然お染と顔を合わせる。子を失った親の愛が、同じ日に産れた家主の子へ、注がれるというのは当然であろう。



 しかるにここに困ったことが出来た。
 月日が経つに従って、お染の顔が父親へは似ずに、藤九郎の顔に似るのであった。
「藤九郎め、好男子(いいおとこ)だからな」
「そういえば、伊丹屋のお神(かみ)さんは、莫迦に藤九郎めを贔屓にしたっけ」
「誰の種だか解(わか)りゃしねえ」
 世間の人達はこう云い合った。
 しかし真面目な伊丹屋の内儀が、博奕風情の藤九郎などを問題にするはずがない。それは伊右衛門(いえもん)も信じていた。で幸いこの事については何の事件も起こらなかった。
 しかし事件はその翌年、すわなちお染の二歳の時に、別の方面から起こってきた。
 それは実に嘉永(かえい)元年夏の初めのことであったが、母のお琴(こと)はお染を抱きながら、裏庭の縁で涼んでいた。すると最初口笛が聞こえ、次に鼬(いたち)が現われた。アッと驚く隙(ひま)もなく鼬はお染へ噛みついた。幸い手当が速かったので、腕へ歯形が印(つ)いただけで、生命(いのち)には何の別状もなかった。ところが何と奇怪なことには、その翌晩にも口笛が聞こえ、同じ鼬が現われたではないか。そうして鼬はお染を追って、庭の植込の方へ行ったかと思うと、お染の姿が消えてしまった。
 ちょうどこの頃城下外(はず)れに女軽業の大一座が小屋掛けをして景気(けいき)を呼んでいた。女太夫の美しいのも勿論評判ではあったけれど、四尺に余る大鼬が、口笛に連れて躍るというのがとりわけ人気を博していた。
 それで、自然疑いがその一座へかかって行った。官(かん)からも役人が出張し、厳重に小屋を吟味した。しかしお染はいなかった。誘拐したという証拠もない。どうすることも出来なかった。
 伊丹屋夫婦の悲嘆にも増して、藤九郎の悲嘆は大きかった。
「彼奴(あいつ)は有名な悪党なんですよ。ええ、あの一座の親方って奴はね。ちょっと私とも知己(しりあい)なんで。釜無(かまなし)の文(ぶん)というんでさ。……ああ本当に飛んだことをした。みんな私が悪かったんで、つい迂闊(うっか)り口を走(すべ)らしたんでね」
 彼はこう云って口惜(くや)しがった。
 その後伊丹屋では親類から、伊太郎という養子を迎え、間もなく江戸へ移り住んだが、お染のことは今日が日まで忘れたことはないのであった。
「……こういう事情があるのだもの、妾(わたし)が鼬を恐がったり、女軽業を憎むのは、ちっとも無理ではないじゃないかえ」
 母のお琴は辛そうに云った。
「だからさ、お前もその意(つもり)で、そんな小屋者の紫錦(しきん)なんて女を、近付けないようにしておくれよ。どうぞどうぞお願いですからね」
「だってお母さん不可(いけ)ませんよ」伊太郎はやっぱり反対した。「私は紫錦が好きなんですもの。それにその女は見た所、悪い女じゃありませんよ」
「きっと悪い女ですよ」
「第一その時の女軽業と、今度の軽業の一座とは、別物に相違ありませんよ」
「鼬を使うとお云いじゃないか」
「それだって別の鼬ですよ」
「いいえ同じ鼬です。妾(わたし)見たから知っています」
 お琴は飽く迄も云うのであった。

 紫錦はこれ迄は源太夫(げんだゆう)を別に嫌ってはいなかった。しかし今度の遣り口で、すっかり愛想を尽かしてしまった。
「甚助(じんすけ)め! 飛んでもねえ奴だ!」
 そこで、自然の反動として、伊太郎へ好意を持つようになった。
 その伊太郎は、本来は、小心で憂鬱の質(たち)であった。朋輩交際(つきあい)で芸者などは買ったが、深入りなどはしたことがない。それだのに今度の紫錦ばかりは、そういう事にいかなかった。つまりぞっこん惚れ込んだのであった。
 こういう男女の落ち行く先は、古来往来(ここんおうらい)同一(ひとつ)である。夫婦になれなければ心中である。
 驚いたのはお琴であった。
 彼女は窃(こっそ)り訴え出た。「娘を誘拐(かどわか)した同じ一座が、今度は息子を誑(たぶら)かそうとします。どうぞお取締まり下さいますように」と。
 勿論官では取り上げなかった。しかし全然別の理由から、立退きを命ずることにした。
 この一座が掛かって以来、にわかに盗難が多くなって、風紀上面白くない。だから追い払おうと云うのであった。
 鼬の芸当が人気を呼んでこの一座は評判が可(よ)かった。で生温い干渉では、引き払って行きそうには思われなかった。それに時代が幕末で、諸方には戦争が行なわれていた、官の威光も薄らいでいた。下手をすると逆捻(さかねじ)を喰らう。
 で疾風迅雷的に、やっつけようと云うことになった。

 その夜二人はいつものように、肩を並べて茶屋を出た。
 湖上は凄いほど静かであった。空を仰げばどんよりと曇り、今にも降ってきそうであった。
 伊太郎を家(うち)へ送り込むと、紫錦は舟を漕ぎ返した。と、その時雨と一緒に嵐が颯(さっ)と吹いてきた。周囲四里の小湖ではあったが、浪が立てば随分危険で、時々漁舟(いさりぶね)を覆えした。
「これは困った」と驚きながら、紫錦は懸命に櫓を漕いだ。
 次第に嵐は吹き募り、それに連れて浪が高まり、間もなく櫓櫂(ろかい)が役に立たなくなった。
「どうしよう」
 と紫錦は周章(あわ)てながらなおしばらくは櫓を漕いだ。
 しかし益々風雨は募り、全くシケの光景となり、漕いでも無駄と知った時、紫錦は舟底へ身を横仆(よこた)えた。
「どうともなれ。勝手にしやアがれ」
 そこは小屋者の猛烈性で、こんな事を思いながら、案外暢気(のんき)に寝そべっていた。
「ご大家様のお坊ちゃん、今こそ妾(わたし)に夢中になって、夫婦になろうの駆落しようのと、血道をあげているけれど、その中(うち)きっと厭になるよ。そうしたら捨てるに違いない。捨てられたら元々通り小屋者の身分へ帰らなけりゃならない。いつ迄も小屋者でいるくらいなら、死んだ方が増じゃないか」
 雨と泡沫(しぶき)で彼女の体は、漬けたように濡れてしまった。
「おや」
 と彼女は顔を上げた。空が俄かに赤くなったからで、見れば遙か町の一点が、焔を上げて燃えていた。
「おやおやこんな晩に火事を出したんだよ。何て間抜けな人足だろう。アラ、驚いた、小屋じゃないか!」

 正(まさ)しく火事を出したのは、女軽業の掛小屋であった。
 役人達が遣って来て、立退きを命ずると、急に彼等は周章(あわ)て出した。そうして役人に反抗し、突然小屋へ火を掛けた。これには役人達も驚いたが、しかし事情はすぐ解(わか)った。この時代の小屋者の常で、彼等は反面、賊でもあった。で盗み蓄めた品物が、小屋に隠されてあったのである。
 つまり贓物(ぞうぶつ)[#「贓物」は底本では「臓物」]を焼き払い、証拠を湮滅させようため、わざと小屋へ火を掛けたのであった。
 それと感付くと役人達は、がぜん態度を一変させ、彼等を捕縛(とら)えようと犇(ひし)めいた。
 彼等は男女取り雑(ま)ぜて三十人余りの人数であった。それに馬が二頭いた。それから白という猛犬がいた。それから例の鼬がいた。これらのものが一斉に、役人達に敵対した。彼等は武器を持っていた。商売用の刀や匕首(あいくち)や、竹槍などを持っていた。
 どんなに彼等が凶暴でも、三十人こっきりであったなら、捕縛えるに苦労はしなかったろう。しかるにここに困ったことには味方する者が現われた。
 当時諏訪藩は佐幕党として、勤王派に睨まれていた。で安政(あんせい)年間には有名な水戸の天狗党が、諏訪の地を蹂躪した。又文久年間には、高倉(たかくら)三位と宣(なの)る公卿が、贋勅使として入り込んで来た。勝海舟の門人たる相良惣蔵(さがらそうぞう)が浪士を率(ひき)い、下諏訪の地に陣取って乱暴したのもこの頃であった。
 それで、この事件の起こった時でも、勤王派の浪士達が、様々の者に姿を窶(やつ)し、城下の諸方に入り込んでいたが、これが小屋者の味方となって、役人方に斬り込んだ。
 それに城下の町人達の中にも、味方する者が出来てきて、石礫を投げ出した。
 事態重大と見て取って、城下からは兵が出た。
 内乱と云えばそうも云え、市街戦と云えばそうも云える。思いも由(よ)らない大事件が、計らず勃発したのであった。
 城兵かそれとも浪士達か、鉄砲を打ち出したものがあった。
 と、火事が飛火した。女の悲鳴、子供の泣声、避難する人々の喚(わめ)き声が、山に湖面に反響した。

 この時一人の若者が、逃げ惑う人々を押し退けて、小屋の方へ走って行った。
 他でもない伊太郎で、恋人の安否を気遣って、家を抜け出して来たのであった。
 小屋は大半焼け落ちていて、焔の柱、煙の渦巻……その中で戦いが行なわれていた。
 役人の一人を殺し、血だらけの竹槍を振りかざしながら、荒れ廻っていた小屋掛があったが、伊太郎の姿に眼を付けると、
「野郎!」
 と叫んで飛び掛かって行った。余人ならぬ源太夫であった。
「紫錦さんは□ 紫錦さんは□」
「何を吠(ほざ)く! 死(くたば)ってしまえ!」
 源太夫は伊太郎の襟上を掴むと、ズルズルと火の中へ引き込もうとした。
 と、焔に狂気しながら、馬が一頭走り出して来た。
「嬲殺しだ! 思い知れ!」
 伊太郎は馬の背へ括り付けられた。
「ヤッ」と叫ぶと源太夫は竹槍で馬の尻を突いた。
 馬は驀地(まっしぐら)に狂奔し、湖水の中へ飛び込んだ。
 ワッワッと云う鬨声(ときのこえ)。火事は四方へ飛火した。



 湖水は猛烈に荒れていた。火事は益々燃え拡がった。物凄くもあれば美しくもあった。
 紫錦は小舟に取り付いたまま浪の荒れるに委せていた。火事の光が水に映り四辺(あたり)が茫(ぼっ)と明るかった。
 その時何物か浪を分けて彼女の方へ来るものがあった。
「おや、馬だよ。馬が泳いで来る」
 いかにもそれは馬であった。
「おや。黒(あお)だよ、黒来い来い!」
 紫錦(しきん)は喜んで声を上げた。
 馬は馴染の黒であった。つまり彼女が芸当をする時、時々乗った馬であった。近付くままによく見ると誰やら馬の背にくくり付けられていた。それが恋人の伊太郎であると火事の光りで見て取った時の彼女の驚きと云うものはちょっと形容に苦しむ程であった。その伊太郎は気絶していた。そうして手足から血を流していた。
 彼女は軽業の太夫(たゆう)であって馬扱いには慣れていた。で小舟を乗り捨てて馬と一緒に泳ぐことにした。荒れ狂う浪を掻き分け掻き分け馬と人とは泳ぎに泳いだ。精も根も尽き果て、もう溺れるより仕方がないと、こう彼女が思った時、眼前に石垣が現われた。伊太郎の家の石垣であった。
 伊太郎の家ではもう先刻(さっき)から、伊太郎の姿が見えないと云うので、母をはじめ家内の者は狂人のようになっていた。とそこへ現われたのが伊太郎を抱き抱えた紫錦の姿であった。
「伊太郎さんが!」
「若旦那が!」
 と、にわかに人々は活気付いた。張り詰めていた精神がこの時一時に弛んだと見えて、紫錦は気絶してグダグダと倒れた。それと云うので人々は二人を家の中へ舁ぎ入れた。間もなく医者が駈け付けて来て応急手当を施した。
 この頃町では火事と戦いとがなお烈しく行なわれていた。それが全然(すっかり)静まったのは夜も明け方に近い頃で、その結果はどうかと云うに、むしろ諏訪藩の負けであった。小屋者にも浪士達にも、大半逃げられてしまったのであった。
 伊太郎と紫錦が蘇生したのはそれから間もなくのことであった。二人は顔を見合わせてかつ驚きかつ喜んだ。紫錦は伊太郎の命の親であった。伊丹屋としても粗末に出来ない。それに彼女が属していた例の軽業の一行は、今は行衛(ゆくえ)不明であった。いわば彼女は宿なしであった。で伊丹屋では娘分として彼女を養うことにした。
 信濃の春は遅かったが秋の立つのは早かった。湖水の水が澄みかえり八ヶ嶽の裾野に女郎花(おみなえし)が咲いた。虫の鳴音が降るように聞こえた。この頃伊丹屋では諏訪を引き上げ江戸の本宅へ帰ることになった。
 さて、ところで、紫錦にとっては、江戸の本宅の生活は、かなり窮屈なものであった。ジプシイ型の彼女から見れば、まるで不自由そのものであった。ちょっと外出(でる)にも女中が付き、箸の上げ下げにも作法があった。
「簡単」ということが卑しまれ「面倒臭い」ということが尊ばれた。膝を崩すことも出来なければ寝そべることも出来なかった。あらゆるものに敬語を付け、呼び捨てにするのを失礼とした。「お箸(はし)」「お香の物」「お櫛(ぐし)」「お召物」――
 彼女は繁雑に耐えられなくなった。
 それに一緒に住んで見れば、柔弱の伊太郎も鼻に付いた。
「万事万端拵(こしら)え物のようで、活気というものがありゃアしない」彼女はこんなように思うのであった。
「お金持とか上流とか、そういった人達の生活(くらし)方が、みんながみんなこうだとすれば、ちっともうらやましいものではない」
 とはいえ以前の生活へ帰って行きたいとは思わなかった。それは「泥棒の生活」であり又「動物の生活」だからであった。
「何か妾にぴったりと合った有意味の暮らし方はないものかしら」
 彼女はそれを目付けるようになった。
 伊丹屋の主人伊右衛門が或日女房にこう云った「お錦(きん)、近来(ちかごろ)変わってきたね。なんだかおちつかなくなったじゃないか」
「そう云えば本当にそうですね」女房のお琴(こと)も眉を顰(しか)め「いったいどうしたって云うんでしょう」
「それにお錦は左の腕を、いつも繃帯しているが、どうも私は気になってならない」
「ほんとにあれは変ですね」
「お前からそれとなく訊いて見るがいい」
 ――それで、或日それとなくお琴はお錦へ訊(たず)ねて見た。
「お前傷でもしたんじゃないの?」
「いいえ、そうじゃございません」お錦はそっと着物の上から左の二の腕を抑えたが、
「痣があるのでございますの」
「まあ、そうかえ、痣がねえ」
 お琴は意外な顔をした。



 紫錦(しきん)は伊丹屋へ来て以来、その名をお錦(きん)と呼び変えられていた。そのお錦の最近の希望(のぞみ)は、女中も連れず、ただ一人で浅草辺りを歩いて見たいことで、もしそれが旨く行こうものならどんなにのうのうするだろう――こう彼女は思うのであった。
 で或日外出した時、うまうま途中で女中をまいた。喜んだお錦はその足で浅草の方へ歩いて行った。浅草奥山の賑(にぎわい)は今も昔も変りがなく、見世物小屋からは景気のよい囃子の音が聞こえてきた。恐ろしいような人出であった。
 観音様へお賽銭を上げ、それからお堂の裏手の方へ宛もなく彼女は歩いて行った。
「オイ紫錦(しきん)さん、紫錦さんじゃないか!」
 誰やら背後(うしろ)から呼ぶ者があるので彼女は驚いて振り返った。
「おや、お前、トン公(こう)じゃないか?」
「ナーンだ、やっぱり紫錦さんか」
 昔のお仲間、道化のトン公、三尺足らずの福助頭――それが笑いながら立っていた。
「たしかにそうだとは思ったが、何しろ様子が変っているだろう。穏(おとな)し作りのお嬢さん、迂闊(うっか)り呼び掛けて人異(ちが)いだったら、こいつ面目(めんぼく)がねえからな。それでここまでつけて来たのさ」
「まあそうかえ、どこで目付けたの?」
「うん、玉乗の楽屋でね。俺(おい)らあそこに傭(やと)われているんだ」
 二人は歩きながら話すことにした。
「……で、そういった塩梅(あんばい)でね、諏訪以来一座は解散さ。チリチリバラバラになったのさ。……随分お前を探したよ。親方にとっては金箱だし源公(げんこう)から見れば恋女だ。そのお前がどこへ行ったものか、かいくれ行衛(ゆくえ)が知れねえんだからな。そりゃア随分探したものさ。ああ今だって探しているよ。執念深い奴らだからな」
「そりゃあもう探すのが当然さ」
 お錦は何となく憂鬱に云った。「それで、随分怒っているだろうね」
「ああ随分怒っているよ。恩知らずの不幸者だってね。……そう親方が云うんだよ」
「実の親でもない癖に」お錦はにわかに反抗的に「不幸者が聞いて呆れるよ」
「そうともそうとも本当にそうだ」トン公はすぐに同情した。「怨こそあれ恩はねえ道理だ。いずれお前を誘拐(かどわか)したものさ」
「そうよ、妾の小さい時にね」
「その上ふんだんに稼がせてよ。あぶく銭を儲けたんだからな」
「恩もなけりゃ義理もない訳さ」
「ところでどうだな、今の生活(くらし)は?」
「さあね」とお錦は気がなさそうに「大してうらやましい生活でもないよ」
「そうかなア、不思議だなア」トン公は仔細らしく考え込んで「でもお前(めえ)伊丹屋といえば江戸で指折の酒屋じゃねえか。そこの養女ときたひにゃア云う目が出るというものだ」
「そりゃあそうだよ。云う目は出るさ。でもね、本当の幸福ってものは、そんなものじゃないと思うよ」
「それにお前(めえ)伊太郎さんは、お前の好きな人じゃアねえか」
「嫌いでなかったという迄の人さ。それにどうも妾とはね、気心がピッタリと合わないのだよ」
「ふうん、そうかなア、変なものだなア。……だが、オイ、そりゃア我儘ってもんだぜ」
 しかしお錦は黙っていた。
「だがマアお前(めえ)と逢うことが出来て、俺(おい)らほんとに嬉しいよ」ややあってこうトン公が云った。
「お前はそうでもあるめえがな」
「いいえ妾だって嬉しいよ」本心からお錦は云うのであった。「何といったって昔馴染だからね」
「そう云われると嘘にしても俺らは素敵にいい気持だよ」
 なるたけ人のいない方へと二人は歩いて行くのであった。
「それじゃお前さんはここ当分玉乗の一座にいるんだね」
「他に行き場もないからな」
「それじゃいつでも逢えるのね」
「だが余(あんま)り逢わねえがいい、今じゃ身分が異(ちが)うんだからな」
「莫迦をお云いな。逢いに行くわよ」
「それに親方も源公もいずれ江戸の地にはいるんだからな、あんまり暢気(のんき)に出歩いていて目付けられると五月蠅(うるさい)ぜ。何しろ源公ときたひにゃア、未だにお前に夢中なんだからな」
「源公なんかにゃ驚かないよ」お錦はむしろ冷笑した。「それこそ一睨みで縮ませて見せるよ」
「そりゃあマアそうに異(ちげ)えねえが……」
 トン公はやはり心配そうであった。



 二三日経った或日のこと、浅草観音の堂の側(わき)に、目新しい芸人が現われた。莚を敷いたその上で大きな鼬を躍らせるのであったが、それがいかにも上手なので、参詣の人の注意をひいた。
 芸人の年輩は不明であったが、四十歳から六十歳迄の間で、左の耳の根元の辺りに瘤のあるのが特色であった、陽にやけた皮膚筋張った手足、一癖あり気の鋭い眼つき、気味の悪い男であった。
「さあさあ太夫(たゆう)さん踊ったり踊ったり」
 手に持っていた竹の鞭で、窃(そっ)と鼬に障わりながら、錆のある美音で唄い出した。
□甲州出るときア涙が出たが
今じゃ甲州の風も厭
 春陽が明々と地を照らしその地上では鳩の群が餌をあさりながら啼いていた。吉野桜が散ってきた。堂の横手芸人の背後(うしろ)に巨大な公孫樹(いちょうのき)が立っていたが、まだ新芽は出ていなかった。鼬の大きさは四尺もあろうか、それが後足で立ち上り、前足をブラブラ宙に泳がせ、その茶色の体の毛を春陽(はるひ)にキラキラ輝かせながら、唄声に連れて踊る態は、可愛くもあれば物凄くもあった。
 投銭放銭がひとしきり降り、やがて芸当が一段落となった。その時目立って美しい娘が供の女中を一人連れ仲見世の方からやって来たが、大道芸人の顔を見るとにわかに足を急がせた。その様子が変だったので、大道芸人は眼をそばめた。
「おや? 可笑(おか)しいぞ、彼奴(あいつ)そっくりだぞ?」
 こう口の中で呟いたかと思うと、彼の側(そば)に蹲居(しゃが)んでいた二十四五の若者へ、顎でしゃくって合図をした。
「オイ源公(げんこう)、今のを見たか?」
「うん」と云うと若者は、その殺気立った燃えるような眼で、人混の中へ消え去ろうとする娘の姿を見送ったが、「異(ちげ)いねえよ、あの阿魔(あま)だよ」
「だが様子が変わり過ぎるな」
「ナーニ彼奴だ、彼奴に相違ねえ」
「そうさ、俺もそう思う」
「畜生、顔を反けやがった」
「オイ源公、後をつけて見な」
「云うにゃ及ぶだ。見遁せるものか」
 で、源公は人波を分け、娘の後を追って行った。
「さあさあ太夫(たゆう)さん一踊り、ご苦労ながら一踊り……□男達(おとこだて)ならこの釜無(かまなし)の流れ来る水止めて見ろ……ヨイサッサ、ヨイサッサ」
 大道芸人が唄い出し、鼬が立っておどりだした。

「おおトン公(こう)か、よく来てくれた」
「爺(とっ)つあん」は嬉しそうにこう云うと、夜具の襟から顔を出した。「爺つあん」は酷く窶(やつ)れていた。ほとんど死にかかっているのであった。
 ここは金龍山瓦町(きんりうざんかわらまち)[#ルビの「きんりうざんかわらまち」はママ]の「爺つあん」の住居(すまい)の寝間であった。
「どうだね「爺つあん」? 少しはいいかね?」
 トン公は坐って覗き込んだ。
「有難えことには、可(よ)くねえよ」――「爺つあん」はこんな変なことを云った。
「おかしいじゃないか、え「爺つあん」? 可くもねえのに有難えなんて?」
 すると「爺つあん」は寂しく笑い、
「うんにゃ、そうでねえ、そうでねえよ。俺らのような悪党が、磔刑にもならず、獄門にもならず、畳の上で死ねるかと思うと、こんな有難えことはねえ」
「へえ、なるほど、そんなものかねえ」トン公はどうやら感心したらしい。「だがね、「爺つあん」俺らにはね、お前が悪党とは思われないんだよ」
「ナーニ俺は大悪党だよ」
「でも「爺つあん」は貧乏人だと見ると、よく恵んでやるじゃないか」
「ああ恵むとも、時々はな。つまりナンダ罪ほろぼしのためさ」
「でも一座の連中で、お前のことを悪く云う者は、それこそ一人だってありゃアしねえよ」
「それは俺らが座主だからだろう」
「ああそれもあるけれどね……」
「うっかり俺の悪口でも云って、そいつを俺に聞かれたが最後、首を切られると思うからさ」
「ああそいつもあるけれどね……」
「それより他に何があるものか」
「金を貸すからいい親方だと、こうみんな云っているよ」
「アッハハハ、そうだろう。その辺りがオチというものだ。ところでそういう人間のことだ、俺が金を貸さなくなったら、今度は悪口を云うだろうよ」
「ああそりゃあ云うだろうよ」トン公は直ぐに妥協した。それが「爺つあん」には可笑しかったか面白そうに笑ったが、
「トン公、お前は正直者だな。だから俺はお前が好きだ」
「ううん、何だか解(わか)るものか」それでもトン公は嬉しそうに笑った。
「うんにゃ、俺はお前が好きだ。その剽軽な巾着頭(きんちゃくあたま)、そいつを見ていると好い気持になる」
「何だ俺らを嬲るのけえ」トン公は厭な顔をした。
「怒っちゃいけねえいけねえ。本当のことだ、なんの嬲るものか。それはそうと、なあトン公、お前は随分苦労したらしいな」



「ああ随分苦労したよ」トン公はちょっと寂しそうにした。
「俺らの一座へ来る前には、お前(めえ)どこの座にいたな?」
「俺ら軽業の一座にいたよ」
「軽業の一座? ふうん、誰のな?」
「「釜無(かまなし)の文(ぶん)」の一座にだよ」
 これを聞くと「爺つあん」は急にその眼を輝かせたが、すぐ気が付いてさり気なく、
「ああそうか「釜無の文」か……ところで諏訪ではご難だったそうだな」
「お話にも何にもなりゃあしない」
「それはそうと文の一座に綺麗な娘がいたはずだが?」
「幾人もいたよ、綺麗な娘なら」
「それ、文の養女だとか云う?」
「ああそれじゃ紫錦(しきん)さんだ」
「うん、そうそうその紫錦よ、行衛(ゆくえ)が知れないって云うじゃないか」
 するとトン公は得意そうにニヤリとばかり一人笑いをしたが「ああ行衛が知れないよ。……だが俺らだけは知っている」
「え?」と、「爺つあん」は眼を丸くした。「お前知っているって? 紫錦の行衛を?」
 こう云う「爺つあん」の声の中には恐ろしい情熱が籠っていた。それがトン公を吃驚(びっくり)させた。
「おいトン公」と「爺つあん」は、夜具から体を抜け出させたが「ほんとにお前が知っているなら、どうぞ俺に話してくれ。お願いだ、話してくれ。え、紫錦はどこにいるんだ?」
「だが紫錦さんの在所(ありか)を聞いて「爺つあん」お前はどうする意(つもり)だな」
「どうしてもいい、教えてくれ! え、紫錦はどこにいるな?」
「お気の毒だが教えられねえ」にべもなくトン公は突っ刎ねた。
「教えられねえ? 何故教えられねえ?」
「お前の本心が解(わか)らねえからよ」
「俺の本心だって? え、本心だって?」
「今紫錦さんは幸福なんだよ。ああそうだよ大変にね。もっとも自分じゃ不幸だなんて我儘なことを云ってるけれど、ナーニやっぱり幸福(しあわせ)なのさ。だがね、紫錦さんの幸福はね、どうも酷(ひど)く破壊(こわれ)やすいんだよ。で、ちょっとでも邪魔をしたら、直ぐヘナに破壊っちまうのさ。ところでどうも運の悪いことには、その紫錦さんの幸福をぶち破壊そうと掛かっている、良くねえ奴がいるのだよ。だがここに幸(しあわせ)のことには、まだそいつらは紫錦さんの居場所を、ちょっと知っていねえのさ。……ね、これで解ったろう、俺らがどうして紫錦さんの居場所を、お前に明かさねえのかって云うことがな」
「だが」と「爺つあん」は遮った。「だが俺はお前の云う、よくねえ奴じゃねえんだからな。だから明かしたっていいじゃねえか」
「どうしてそれが解るものか」
「じゃお前はこの俺を悪党だと思っているのだな?」
「俺らはそうは思わねえけれど、お前が自分で云ったじゃねえか」
「だが、そいつは昔のことだ」
「ああそうか、昔のことか」
「今では俺はいい人間だ。いつも俺は懺悔しているのだ」
「そうだと思った。そうなくちゃならねえ。だが「爺つあん」それにしてもだ、紫錦さんの居場所を俺らから聞いて一体どうするつもりだな?」
 すると「爺つあん」は声を窃(ひそ)め、四辺(あたり)をしばらく見廻してから「人に云っちゃいけねえぜ。え、トン公承知だろうな。……実は俺はその紫錦に大事な物を譲りてえのだ」
「だがお前と紫錦さんとはどんな関係があるんだろう?」
「それは云えねえ。云う必要もねえ」いくらか「爺つあん」はムッとしたらしい。
「とにかく」と「爺つあん」は云いつづけた。「それを譲られると譲られた時から、紫錦は幸福になれるんだよ」
「……」トン公は黙って考え込んだ。どうやら疑っているらしい。しかしとうとうこう云った。
「俺ら、お前を信じることにしよう。紫錦さんの居場所を明かすことにしよう」
「おおそれでは明かしてくれるか。有難え有難えお礼を云う。で、紫錦はどこにいるな?」
「江戸にいるよ。この江戸にな」
「江戸はどこだ? え、江戸は?」
「日本橋だよ。酒屋にいるんだ」
「日本橋の酒屋だって?」
「伊丹屋という大金持の養女になっているんだよ」
「ふうん、伊丹屋の? ふうん、伊丹屋のな?……ああ、夢にも知らなかった」
 葉村(はむら)一座と呼ばれる所の浅草奥山の玉乗の元締、それをしている「爺つあん」は、どうしたものかこう云うと涙をポロポロ零したが、そのまま夜具へ顔を埋めた。
 驚いたのはトン公であった。ポカンと「爺つあん」を眺めやった。



 チョンチョンチョンと拍子木の音がどこからともなく聞こえてきた。
「おや、どうしたんだろう? あの拍子木の音は?」
 お錦は呟いて耳を澄ました。
「トン公の拍子木に相違ないよ」
 そこで彼女は部屋を抜け出し裏庭の方へ行って見た。木戸の向うに人影が見えた。下駄を突っかけると飛石伝いに窃(そっ)と其方(そっち)へ小走って行った。燈火(ともしび)の射さない暗い露路に小供が一人立っていたが、しかしそれは小供ではなく思った通りトン公であった。
「トン公じゃないか、どうしたのさ?」
 するとトン公は近寄って来、
「よく拍子木が解(わか)ったな」
「お前の打手を忘れるものかよ」
「実は急に逢いたくってな、それで呼び出しをしたやつさ」
「用でもあるの? お話しおしよ」
「ねえ紫錦(しきん)さん、俺らと一緒に、ちょっとそこ迄行ってくれないか」四辺(あたり)を憚ってトン公は云った。
「行ってもいいがね、どこへ行くの?」
「金龍山瓦町(きんりうざんかわらまち)[#ルビの「きんりうざんかわらまち」はママ]へよ」
「浅草じゃないか、随分遠いね、それにこんなに晩になって」お錦は怪訝そうに云うのであった。
「それがね、至急を要するんだ」
「へえ不思議だね、何の用さ」
「逢いてえって人があるんだよ。是非お前(めえ)に逢い度えって人がな。それが気の毒な病人なんだ」
「誰だろう? 知ってる人?」
「お前の方じゃ知らねえだろうよ。だが確かな人間だ。実は俺らの親方なのさ」
「お前の親方? 玉乗りのかい?」
「ああそうだよ。葉村(はむら)一座のな。俺らその人に頼まれて、お前を迎いに来たってやつよ」
 トン公はそこで気が付いたように、
「だがお前は出られめえな、なにせ大家のお嬢さんだし、もう夜も遅いんだからな」
「行くならこのまま行っちまうのさ」
「だが後でやかましいだろう?」
「そりゃあ何か云われるだろうさ」
「困ったな、では止めるか。止めにした方がよさそうだな」
「くずくず云ったら飛び出してやるから、そっちの方は平気だよ。それより妾(わたし)にゃその人の方が気味悪く思われるがね」
「うん、こっちは大丈夫だ。俺らが付いているんだからな」
「では行こうよ。思い切って行こう」
 そこで二人は露地を出て、浅草の方へ足を運んだ。
「トン公」とお錦は不意に云った。「今日彼奴(あいつ)らと邂逅(でっくわ)したよ。源公(げんこう)の奴と親方にね」
「え!」とトン公は怯えたように声を上げたが「ふうんそいつあ悪かったなあ。一体どこで邂逅したんだい?」
「観音様の横手でね」
「それじゃ今日の帰路(かえり)にだな」
「お前と別れてブラブラ来るとね、莚(むしろ)の上で親方がさ、えて物を踊らせていたじゃないか」
「ふうんそいつアしまったなあ」
「早速源公が後をつけて来たよ」
「え、そいつアなおいけねえや」
「ナーニ途中で巻いっちゃった[#「巻いっちゃった」はママ]よ」
「そいつアよかった。大出来だった」
 話しながら歩いて行った。
 こうして上野の山下へ来た。と五六人の人影が家の陰から現われ出た。
「おや」とトン公が云った時、堅い棒で脳天の辺りを厭という程ブン撲られた。「あっ、遣られた、こん畜生め!」こう叫んだがその声は咽喉から外へ出なかった。たちまちにグラグラと眼が廻り、何も彼も意識の外へ逃げた。
 お錦は人影に取り巻かれた。
「何をするんだよお前達は!」
 気丈な彼女は怒鳴(どな)り付けたが、何の役にも立たなかった。彼女は直ぐに捉えられた。
「構う事アねえ、担いで行け!」
 彼等の一人がこう云った。彼女にはその声に聞き覚えがあった。
「あ、畜生、源公だな!」
「やい、紫錦、態(ざま)あ見ろ! よくも仲間を裏切ったな、料(りょう)ってやるから観念しろ!」
 源太夫は嘲笑った。
「さあ遣ってくれ、邪魔のねえうちに」
 しかし少々遅かった。邪魔が早くも入ったのである。
「これ、待て待て、悪い奴等(やつら)だ!」
 こう云って走って来る人影があった。
「あっ、いけねえ、侍だ」
「またにしろ! 逃げたり逃げたり!」
 ――源太夫の群はお錦を投げ出しどことも知れず逃げてしまった。

10[#「10」は縦中横]

「娘御、お怪我はなかったかな」
「あぶないところをお助け下され、まことに有難う存じます。ハイ幸い、どこも怪我は……」
「おおさようか、それはよかった。……や、ここに仆(たお)れているのは?」
 こう云いながら若侍はトン公の方へ寄って行った。
「妾(わたし)の知己(しりあい)でございます。もしや死んだのではございますまいか?」
 お錦は不安に耐えないように、トン公の上へ身をかがめた。
 若侍は脈を見たが、「大丈夫でござる。活きております。どうやら気絶をしたらしい」
 間もなくトン公は正気になった。
「済まねえ済まねえ、眠っちゃった。ナーニもう大丈夫だ。だが畜生頭が痛え」
 負け惜しみの強いトン公は、気絶したとは云わなかった。
 二人を救った若侍は小堀義哉(こぼりよしや)というもので、五百石の旗本の次男、小さい時から芸事が好き、それで延寿(えんじゅ)の門に入り、五年経たぬ間に名取となり、今では立派な師匠株、従って父親とはソリが合わず、最近家を出て一家を構え、遊芸三昧に日を暮らしている結構な身分の者であったが今日も清元のおさらいに行き、遅くなっての帰路であった。
「またさっきの悪者どもが盛り返して来ないものでもない、瓦町(かわらまち)まで送りましょう」
 義哉は親切にこう云った。
 で三人は歩くことにした。
「爺つあん」の住居へ着いたのはそれから間もなくのことであったが、別れようとする若侍をお願いしてお錦は引き止めて置いて、家の内へ入って行った。
 ガランとした古びた家であった。
 そうして「爺つあん」の寝ている部屋は、その家の一番奥にあった。
「「爺つあん」、紫錦(しきん)さんを連れて来たよ」
 トン公はこう云って入って行った。
「トン公、どうも有難う」
 こう云いながら「爺つあん」は布団の上へ起き上った。そうしてつつましく膝をついたお錦の顔をじっと見た。
 と、みるみる「爺つあん」の眼から大粒の涙が零れ出た。非常に感動したらしい。
「おかしな爺さんだよ、どうしたんだろう?」
 お錦はひどく吃驚(びっくり)した。
 勿論彼女には見覚えはない。初めて会った老人である。
「どうして涙なんか零すんだろう? 妾(わたし)をどう思っているのだろう? 気味の悪い爺さんだよ」
 こう思わざるを得なかった。
「トン公」やがて「爺つあん」は云って「ちょっとこの場を外してくれ。ナーニ大丈夫だ、心配しなくてもいい。ただちょっと話すだけだ」
「「爺つあん」のことだ、ああいいとも」
 トン公は云いすてて出て行った。
 後を見送った「爺つあん」は、その眼を返すとお錦の顔を、またもじっと見守ったが、
「おお紫錦、大きくなったなあ」
 不意に優しくこう云った。いかにも親し気な調子であり、慈愛に充ちた調子であった。
 お錦にとっては意外であった。何の理由で、何の権利で、紫錦などと呼び捨てにするのだろう? で彼女は不快そうに顔をそむけて黙っていた。
「それに、ほんとに、立派になったなあ」
 また「爺つあん」はこう云った。感情に充ちた声である。
「いらざるお世話で、莫迦にしているよ」いよいよ慣れ慣れしい相手の様子に、彼女は一層腹を立て、心の中でこう怒鳴(どな)ったが、でもやっぱり黙っていた。
 しかし「爺つあん」は態度を変えず、同じ調子で云いつづけた。「聞けばお前は日本橋の伊丹屋さんにいるそうだが、この上もない結構なことだ。辛抱して可愛がられ、嫁になるように心掛けなければならねえ」ここでちょっと言葉を切ったが、「ところでお前は二の腕に、大きな痣があるだろうな?」
「ええ」と初めてお錦は云った。「大きな痣がありますわ。どうしてそんなこと知っているんでしょう?」
「私はな」と「爺つあん」は微笑しながら「そうだ、私はな、お前のことなら、どんなことでも知ってるよ」
 確信のあるらしい調子であった。
 で、お錦は怪しみながらも改めてつくづくと「爺つあん」を見た。しかしやはりその老人は、彼女にとっては見覚えがなかった。

11[#「11」は縦中横]

「紫錦(しきん)」と「爺(とっ)つあん」は云いつづけた。「俺の命は永かあねえ、胃の腑に腫物(できもの)が出来たんだからな。で俺はじきに死ぬ。また死んでも惜しかあねえ。俺のような悪党は、なるだけ早く死んだ方が、かえって人助けというものだ。それで死ぬのは惜しかあねえが、ここに一つ惜しいものがある。他でもねえこの箱だ」
 布団の下から取り出したのは、神代杉(じんだいすぎ)の手箱であった。
「これをお前に遣ることにする。大事にしまっておくがいい。そうして俺が死んだ後で、窃(こっそ)りひらいて見るがいい。お前を幸福(しあわせ)にしようからな」
 ここでちょっと憂鬱になったが、
「そうだ、そうしてこの箱をひらくと、お前の本当の素性もわかる。もっともそいつはかえってお前を不幸(ふしあわせ)にするかもしれねえがな。……だがそれも仕方がねえ」
「爺つあん」はしばらく黙り込んだ。
 それからソロソロと手を延ばすと、指先を畳目へ差し込んだ。それからじっと聞き耳を澄まし四辺(あたり)の様子をうかがってから、ヒョイと畳目から指を抜いた。
「これを」と「爺つあん」は囁くように云った。「早くお取りこの鍵を!」
 見ると「爺つあん」は指先に小さい鍵を摘まんでいた。
「箱も大事だが鍵も大事だ。鍵の方がいっそ大事だ。だから別々にしまって置くがいい。この鍵でなければこの箱は、どんなことをしても開かないんだからな、……ところで紫錦よ気をおつけ。敵があるからな、敵があるからな。……で、もうこれで用はおえた。気をつけてお帰り、気を付けてな」
 そこでお錦は二品を貰い、急いで部屋を抜け出した。
 送るというのをことわって、義哉(よしや)と一緒に帰ることにした。
 森然(しん)とふけた夜の町を、二人は並んで歩いて行った。
 義哉から見たお錦という女は、どうにも不思議な女であった。華美な身装、濃艶(のうえん)な縹緻、それから推(お)すと良家の娘で、令嬢と云ってもよい程であったが、その大胆な行動や、物に臆(お)じない振舞から見れば素人娘とは受け取れない。
「不思議だな、見当がつかない。……だが実に美しいものだ。しかしこの美には毒がある。触れた男を傷つける美だ」
 肩をならべて歩きながらも、警戒せざるを得なかった。
「ところで住居(すまい)はどの辺りかな?」
 こらえられずに訊いてみた。
「ハイ、日本橋でございます」
「日本橋はどの辺りかな?」
「あの伊丹屋という酒問屋で」
「はあ、伊丹屋、さようでござるか」
 義哉はちょっとびっくりした。伊丹屋といえば大家である。その名は彼にも聞えていた。
「失礼ながら、ご令嬢かな?」
「ハイ、娘でございます」
「さようでござるか、それはそれは」
 こうは云ったが愈々益々(いよいよますます)、疑わざるを得なかった。
「それほどの大家の令嬢が、こんな深夜に江戸の町を、あんな片輪者を一人だけ連れて、浅草あたりのあんな家を、どうして訪ねたものだろう? いやいやこれは食わせ物だ。色を売る女であろうもしれぬ」
 しかし間もなくその疑いが杞憂であったことが証拠立てられた。
「あの、ここが妾(わたくし)の家で」
 こう云いながら指差した家が、紛れもなく伊丹屋であったからである。
「あの……」とお錦は云い難そうにしばらくもじもじしていたが「いずれ明日改めて、お礼にお伺い致しますがどうぞその時までこの手箱をお預かり下さることなりますまいか」
 こう云いながら差し出したのは「爺つあん」から貰った手箱であった。
「ははあ」と義哉は胸の中で云った。「さては恋文でも入れてあるのだな。あの浅草の古びた家は媾曳(あいびき)の宿であったのかもしれない。大胆な娘の様子から云っても、これは確かにありそうなことだ。とんだ所へ飛び込んだものだ」
 苦笑せざるを得なかった。
 彼は身分は武士ではあったがその心持は芸人であった。でこういう頼み事を、断るような野暮はしない。
「よろしゅうござる、承知しました」
 こう云って手箱を受け取った。
「拙者の姓名は小堀義哉、住居は芝の三田でござる。いつでも受け取りにおいでなさるよう」
 こう云い捨てて歩き出し、少し行って振り返って見ると、伊丹屋の表の潜戸(くぐりど)があき、そこから内へ入って行く美しいお錦の姿が見えた。

12[#「12」は縦中横]

「爺つあん」はすっかり疲労(つかれ)てしまった。
 ひどく感動をした後の、何とも云われない疲労であった。
 で、布団を胸へかけ、静かに睡(ねむり)へ入ろうとした。すると襖がひっそりとあいて、雇婆(やといばあ)さんが顔を出した。
「もし、親方、お客様ですよ」
「誰だか知らねえが断っておくれ」
「どうしても逢いたいって仰有(おっしゃ)るので」
「ところが俺は逢いたくねえのだ」
「困りましたね、どうしましょう」
 婆さんはいかにも困ったらしかった。
「どんな人だね、逢いたいって人は?」
 それでもいくらか気になるか、こう「爺つあん」は訊いて見た。と婆さんが返事をしないうちに、
「「爺つあん」俺だよ」という声がした。
 開けられた襖のむこう側に、一人の男が立っていた。耳の付け根に瘤があった。
「おっ、お前は文じゃねえか!」
「爺つあん」は仰天してこう叫んだ。
「うん、そうだよ、「釜無(かまな)しの文(ぶん)」だよ」こう云いながらその男は、ヌッと部屋の中へ入って来たが「婆さん」と、ひどく威嚇的に「お前あっちへ行っていな、俺(おい)ら「爺つあん」に用があるんだからな」
 雇婆さんが行ってしまった後、二人はしばらく黙っていた。
「オイ」と文はやがて云った。「久しぶりだな、え「爺つあん」……いや全く久しぶりだ」
「うん」と「爺つあん」は物憂そうに「久しぶりだよ、全くな」
「おいら夢にも知らなかった。まさかお前が江戸も江戸、浅草奥山でも人気のある、葉村(はむら)一座の仕打(しうち)として、こんな所にいようとはな。……なるほど、世間はむずかしい、これじゃ探しても目付からなかった訳だ」
「目付けてくれずともよかったに」
「お前の方はそうだろうが、俺の方はそうはいかねえ」
「ところで、どうして目付けたな?」
「うん、それが、偶然からさ。今日お前のやっている葉村の玉乗を見に入ったものさ。俺だって生きている人間だ、たまには楽しみだって必要ってものさ。ところでそこでトン公を目付けた」
「ああ成程、トン公をな」
「彼奴(きゃつ)は元々俺の座で、道化役をしていた人間だ」
「そういうことだな、トン公から聞いた」
「ところが今じゃお前の座にいる」
「ははあ、それじゃ、それについて、文句をつけに来たんだな」
「うんにゃ、違う、そうじゃねえ。……俺(おい)ら信州の高島で、とんでもねえブマを打っちゃってな、一座チリチリバラバラよ。だからトン公がどこにいようと、苦情を云ってく筋はねえ。だからそいつあ問題外だ。……とにかくトン公を目付けたので、それからそれと手繰って行って、お前という者を探りあてたのよ」
「で、お前の本心はえ?」こう「爺つあん」は切り出した。
「よく訊いた、さて本心だが、どうだい「爺つあん」交換(かえっこ)しようじゃねえか」釜無しの文はヅッケリと云った。
「交換だって? え、何の?」
「永年お前が欲しがっていた、あの紫錦を返してやろう。その代り一件の手箱をくんな」
「成程」と云ったが、「爺つあん」は、変に皮肉に微笑した。「その交換なら止めようよ」
「え、厭だって? どうしてだい?」文は明かにびっくりした。
「もうあの娘には用がねえからさ」
「おかしいな、どうしてだい?」
「俺の心が変ったからさ」

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