大鵬のゆくえ
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著者名:国枝史郎 

    吉備彦来訪

 読者諸君よ、しばらくの間、過去の事件について語らしめよ。……などと気障(きざ)な前置きをするのも実は必要があるからである。
 一人の貧弱(みすぼらし)い老人が信輔(のぶすけ)の邸を訪ずれた。
 平安朝時代のことである。
 当時藤原信輔といえば土佐の名手として世に名高く殊には堂々たるお公卿様。容易なことでは逢うことさえ出来ない。
「そんな貧弱(みすぼらし)い風態でお目にかかりたいとは何んの痴事(たわごと)! 莫迦を云わずと帰れ帰れ」
 取り次ぎの者は剣もホロロだ。
「はいはいごもっともではござりますが、まあまあさようおっしゃらずにお取り次ぎお願い申します。……宇治の牛丸が参ったとこうおっしゃってくださいますよう」
 爺(おやじ)はなかなか帰りそうにもしない。
 で、取り次ぎは内へはいった。
 おりから信輔は画室に籠もって源平絵巻に筆をつけていたが、
「何、宇治の牛丸とな? それはそれは珍しい。叮嚀に奥へお通し申せ」
「へへえ、さようでございますかな。……あのお逢い遊ばすので?」取り次ぎの者は不審そうに訊く。
「おお、お目にかかるとも」
「そこでお伺い申しますが、宇治の牛丸と申す爺(おやじ)、本性は何者でござりましょうや?」
「妖怪変化ではあるまいし、本性などとは無礼であろうぞ。宇治の牛丸と申すのは馬飼吉備彦(うまかいきびひこ)の変名じゃわい」
「うへえ!」
 と取り次ぎの山吹丸はそれを聞くと大仰に眼を丸くしたが、
「馬飼吉備彦と申しますれば本邦第一の物持ち長者と、かよう聞き及んでおりましたが……」
「その長者の吉備彦じゃわい」
「それに致してはその風態(みなり)があまりに粗末にござります」
「ほほう、どのような風態かな?」
「木綿のゴツゴツの布子を着……」
「恐らくそれは結城紬(ゆうきつむぎ)であろう」
 まさか藤原氏の全盛時代には結城紬などはなかった筈。
 それはとにかく吉備彦は館の奥へ通された。それお菓子、それお茶よ。それも掻い撫での茶菓ではない。鶴屋八幡の煎餅に藤村の羊羹というのだからプロの口などへははいりそうもない。
 ややあって信輔があらわれた。
「よう見えられたの吉備彦殿」
「これはこれはご前様。ご多忙中にもかかわらず、お目通りお許しくだされまして、有難い仕合わせに存じます」
 ――とにかくこういう意味のことを吉備彦はいったに相違ない。昔の会話はむずかしい。それを今に写そうとしても滅多に出来るものではない。武士は武士、公卿は公卿、ちゃアんと差別(けじめ)があった筈だ。それをいちいち使い分けて原稿紙の上へ現わそうとするには、一年や二年の研究では出来ぬ。よしまたそれが出来るにしても、そうそう永く研究していたでは飯の食い上げになろうというもの。
「ところでわざわざ遠い宇治から麿(まろ)を訪ねて参られた。火急の用のあってかな」
 信輔は不思議そうに訊いたものである。
「火急と申すではござりませぬが、是非ともご前の彩管を煩わしたき事ござりまして参上致しましてござります」
 ……吉備彦は恭(うやうや)しく云うのであった。


    不思議な願い

「ははあそれでは絵のご用か」
「仰せの通りにござります」
「よろしゅうござる。何んでも描きましょう」
 信輔すぐに承引(しょういん)した。氏長者(うじのちょうじゃ)の依頼(たのみ)であろうとポンポン断る信輔が、こう早速に引き受けたのはハテ面妖というべきであるが、そこには蓋もあれば底もあり、実は信輔この吉備彦に借金をしているのであった。あえて信輔ばかりでなくこの時代の公卿という公卿は、おおかた吉備彦に借りがあった。それで頭が上がらなかった。恐るべきは金と女! もう間もなくその女も物語の中へ現われよう。
「ところでどういう図柄かな?」
「はい」
 といって吉備彦は懐中から紙を取り出した。「どうぞご覧くださいますよう」
「どれ」
 と信輔は受け取った。
「おおこれは……」
 というところを、吉備彦は急いで手で抑えた。
「壁にも耳がござります。……何事も内密に内密に」
「別に変わった図柄でもないが?」
「他に註文がござります」
「うむ、さようか。云って見るがいい」
「お耳を」と云いながら膝行(いざ)り寄った。
 何か吉備彦は囁(ささや)いた。
 この吉備彦の囁きたるや前代未聞の奇怪事で、これがすなわちこの物語のいわゆる大切のタネなのである。
「これは変わった註文じゃの」
 信輔も酷(ひど)く驚いたらしい。
「それに致してもどういうところからそういう心になったのじゃな?」
「別に訳とてはござりませぬがただ私めはそう致した方が子孫のためかと存じまして」
「子孫のためだと? これはおかしい。そっくり財宝(たから)を譲った方がどんなにか子供達は喜ぶかしれぬ」
「仰せの通りにござります。恐らく子供達は喜びましょう。それがいけないのでござります」
「はてな? 麿(まろ)には解らぬが」
「家財を受け継いだ子供達は、その家財を無駄に使い、世を害するに相違ござりませぬ。必ず他人(ひと)にも怨まれましょう。破滅の基でござります。それに第一私一代でこの商法は止めに致したく考えおります次第でもあり」
「それではいよいよそうするか」
「是非お願い致します」
「しかしどうもそれにしても変な絵巻を頼まれたものじゃ。まるでこれでは判じ絵だからの。……よしよし他ならぬお前の依頼(たのみ)じゃ。大いに腕を揮(ふる)うとしようぞ」
「そこでいつ頃出来ましょうか?」
「一人を仕上げるに一月はかかろう?」
「では六ヵ月後に参ります」
「六人描くのだから六ヵ月後だな」
「何分お願い申し上げます。その間に私めも家財の方を処分致す意(つもり)にござります」
 馬飼吉備彦は帰って行った。
(かくて月日に関守(せきもり)なく五月あまり一月の日はあわただしくも過ぎにけらし)と昔の文章なら書くところである……吉備彦は宇治から京へ出た。
「おお吉備彦か、よく参った。約束通り描いておいたぞ」
 信輔卿は一巻の絵巻を吉備彦の前へ押し拡げた。
 それは六歌仙の絵であった。……在原業平(ありわらのなりひら)、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、喜撰法師(きせんほうし)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、大友黒主(おおとものくろぬし)、小野小町(おののこまち)……六人の姿が描かれてある。


    この謎語なんと解こう

 馬飼吉備彦の財産がどのくらいあったかというようなことは僕といえども明瞭には知らぬ。とまれ素晴らしい額であり紀文、奈良茂、三井、三菱、ないし藤田、鈴木などよりもっともっと輪をかけた富豪であったということである。しかし当時の記録にも古文書などにも吉備彦の事はなんら一行も書いてない。で意地の悪い読者の中にはこの事実を楯に取って吉備彦などと云う人間は存在しなかったとおっしゃるかもしれない。よろしい、僕はそういう人にはこういうことを云ってやろうと思う。
 藤原時代の歴史たるや悉く貴族の歴史であって民衆の歴史ではなかったからだと。
 吉備彦は富豪ではあったけれど貴族ではなくて賤民であった。綽名(あだな)を牛丸というだけあって彼の職業は牛飼いであった。姓を馬飼(うまかい)と云いながら牛を飼うとはコレいかに? と、皮肉な読者は突っ込むかも知れないが、事実彼の商売は卑しい卑しい牛飼いであった。無論傍ら金貸しもした。
 そういう卑しい賤民のことが貴族歴史へ載る筈があろうか。
 さて、吉備彦は家へ帰ると六人の子供を呼び集めた。県(あがた)、赤魚(あかえ)、月丸(つきまる)、鯖(さば)、小次郎(こじろう)、お小夜(さよ)の六人である。お小夜だけが女である。
「ここに六歌仙の絵巻がある。お前達六人にこれをくれる。大事にかけて持っているがいい。……俺は今無財産だ? 俺は家財を棄ててしまった。いやある所へ隠したのだ。俺からお前達へ譲るものといえばこの絵巻一巻だけだ。大事にかけて持っているがいい。……ところで俺は旅へ出るから家を出た日を命日と思って時々線香でもあげてくれ」
 これが吉備彦の遺訓であった。
 吉備彦は翌日家を出た。
 鈴鹿峠までやって来ると山賊どもに襲われた。山賊に斬られて呼吸(いき)を引き取る時こういったということである。
「道標(みちしるべ)、畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
 まことに変な言葉ではある。
 山賊の頭は世に轟いた明神太郎という豪の者であったが、ひどくこの言葉を面白がって、時々真似をして喜んだそうだ。で、手下どももいつの間にかお頭(かしら)の口真似をするようになり、それがだんだん拡がって日本全国の盗賊達までその口真似をするようになった。
「道標(みちしるべ)。畑の中。お日様は西だ。影がうつる? 影がうつる? 影がうつる?」
 この暗示的な謎のような言葉は爾来代々の盗賊によっていい伝えられ語り継がれて来て、源平時代、北条時代、足利時代、戦国時代、豊臣時代を経過してとうとう徳川も幕末に近い文政時代まで伝わって来た。
 そうして文政の某年に至って一つの事件を産むことになったが、その事件を語る前に例の六歌仙の絵巻について少しくお喋舌(しゃべ)りをすることにしよう。
 絵巻を貰った六人の子は、ひどく憤慨したものである。
「いったい何んでえこの態(ざま)は!」まず長男の県丸(あがたまる)が口穢く罵った。「六歌仙がどうしたというのだろう! 小町が物を云いもしめえ。とかく浮世は色と金だ。その金を隠したとは呆れたものだ」
「いいや俺は呆れもしねえ」次男の赤魚(あかえ)がベソを掻きながら、「明日から俺(おい)らはどうするんだ。一文なしじゃ食うことも出来ねえ」
「待ったり待ったり」
 と云ったのは小利口の三男月丸であった。
「これには訳がありそうだ。……ううむ秘密はここにあるのだ。この絵巻の六歌仙にな」
「私達は六人、絵巻も六人、ちょうど一枚ずつ分けられる。六歌仙を分けようじゃありませんか」
 四男の鯖丸(さばまる)が意見を云う。
「よかろう」
 と云ったのは五男の小次郎で、
「妾(わたし)は女のことですから小野小町が欲しゅうござんす」
 お小夜(さよ)が最後にこう云ったが、これはもっともの希望(のぞみ)というので小町はお小夜が取ることになった。


    藪紋太郎

 ちりぢりに別れた六歌仙は再び一つにはなれなかった。
「吉備彦の素敵もない財宝は六歌仙の絵巻に隠されている。絵巻の謎を解いた者こそ巨富を得ることが出来るだろう」――こういう伝説がいつからともなく津々浦々に拡まった頃には、当の絵巻はどこへ行ったものか誰も在所(ありか)を知らなかった。六人の兄弟はどうしたか? これさえ記録に残っていない。
 こうして幾時代か経過した。
 そのうちいつともなくこの伝説は人々の頭から忘れられてしまった。しかしもちろん多くの画家やまた好事家(こうずか)の間では、慾の深い伝説は別として信輔筆の六歌仙は名作として評判され、手を尽くして探されもしたがついに所在は解らなかった。
 こうして文政となったのである。
 もうこの頃では画家好事家さえ、信輔筆の六歌仙について噂する者は皆無であった。

「大変でございますよ、旦那様!」
 襖の外で呼ぶ声がする。
「おお三右衛か」
 と紋太郎はとうにさっきから眼覚めていたので、こう云いながら起き上がると布団の上へ胡坐(あぐら)を掻いた。それからカチカチと燧石(いし)を打ってぼっと行燈(あんどん)へ火を移した。
「まあこっちへはいって来い」
「はい」と云うと襖が開き白髪の老人がはいって来た。用人の岩本三右衛門である。キチンと坐ると主人の顔をまぶしそうに見守ったが、
「賊がはいったようでございます」
「うん。どうやらそうらしいな。大分騒いでいるようだ」
「すぐお出掛けになりますか?」
「専斎殿は金持ちだ。時には賊に振る舞ってもよかろう。……もう夜明けに間もあるまい。見舞いには早朝参るとしよう」
 三百石の知行取り、本所割下水に邸(やしき)を持った、旗本の藪紋太郎は酷(ひど)く生活(くらし)が不如意であった。
 普通旗本で三百石といえば恥ずかしくない歴々であるが、紋太郎の父の紋十郎が、その時代の風流男で放蕩遊芸に凝ったあげく家名を落としたばかりでなく、山のような借金を拵えてしまい、ハッと気が付いて真面目になったところでコロリ流行病(はやりやまい)で命を取られたので、家督と一緒に借金証文まで紋太郎の所へ転げ込んだ始末。余り嬉しくない証文ではあるが、総領の一人子であって見れば放抛(うっちゃ)っておくことも出来なかった。
 親に似ぬ子は鬼っ子だとある心理学者がいったそうであるが藪紋太郎は実のところ少しも親に似ていなかった。とはいえ決して鬼っ子ではなく鳶(とび)の産んだ鷹(たか)の方で遊芸は好まず放蕩は嫌い、好きなものは武道と学問。わけても陽明学を好み、傍ら大槻玄沢(おおつきげんたく)の弟子杉田忠恕(ちゅうじょ)の邸へ通って蘭学を修めようというのだから鷹にしても上の部だ。
 二十八歳の男盛り。縹緻(おとこぶり)もまんざら捨てたものではない。丈(せい)は高く肉付きもよく馬上槍でも取らせたら八万騎の中でも目立つに違いない。
 貧しい生活(くらし)をしているにも似ず性質はきわめて快活で鬱勃(うつぼつ)たる覇気も持っていたが、そこは学問をしただけに露骨にそんなものを表面(おもて)へは出さない。
「ご免」
 と紋太郎は声を掛けた。奥でガヤガヤ話し声はするが誰も玄関へ出て来ない。「頼む」ともう一度声を掛けた。――と、今度は足音がして書生がひょっくり顔を出したが、
「これはご隣家の藪様で」
「昨夜盗難に遭われたとの事、ご家内に別状はござらぬかな?」
「はい有難う存じます。怪我人とてはございませぬが……」
「おおそれなれば何より重畳(ちょうじょう)。そうして賊は捕らえましたかな?」
「いえ」
 と云った時、奥の方から専斎の声が聞こえて来た。「どなたかおいでなされたかな?」
 ヌッと現われた五十恰好の坊主。これが主人の専斎で、奥医師で五百俵、役高を加えて七百俵、若年寄直轄で法印の官を持っている。
「おおこれは藪殿で。ひどい目に遭いましてな。が、まずまずお上がりくだされ」
「さようでござるかな。ではちょっと」こういうと紋太郎はつと上がった。隣家ではあり碁友達でもあり日頃から二人は親しいのであった。
「早速のお見舞い有難いことで」
 座が定まると改めてこう専斎は礼を述べた。が続いて物語った盗難の話は紋太郎の好奇心を少からず唆(そそ)った。
 ――勝(すぐ)れて美しい若い女を小間使いとして雇い入れたところ、思いがけなくもその女が二の腕かけて背中一杯朱入りの刺青(ほりもの)をしていたそうで、計らず見付けた女中の一人が驚いて専斎へ耳打ちしたので、専斎も大いに仰天し、暇をくれたのが昨夜のこと。その夜更けて起こったのが盗難騒ぎだというのである。


    土佐の名画喜撰法師

「その美しい小間使いというはお菊のことではござらぬかな」一通り話を聞いてしまうと紋太郎はこう尋ねた。紋太郎はお菊を知っていた。いつものようにそれは今から十日ほど前、囲碁に招かれ遠慮なく座敷へ通った時、茶を運んで来た小間使いが余り妖艶であったので、それとなく彼が名を訊くと「菊」と答えて引き退ったのを今に覚えているからである。
「さよう菊でございますよ」
 専斎はこう云って渋面を作った。「少しく美しすぎましたよ」
「で、奪われた品物は?」
「それがさ」と専斎は渋面を深め、「六歌仙の幅を盗まれてござる」
「ほほう」とこれには紋太郎も吃驚(びっくり)したように目を見張った。
「では小町と黒主をな?」
「いや、黒主は助かりました。他へ預けて置きましたでな」
 専斎は今日は言葉少い。ひどく落胆(きおち)しているらしい。

 自宅(うち)へ帰って来た紋太郎はニヤニヤ笑いを洩らしている。皮肉の笑いとも受け取られ笑止の表情とも見受けられる。
 ひょいと床脇の地袋を開け桐の箱を取り出すと、一本の軸を抜き出した。手捌きも鮮やかにサラサラと軸を解き延ばすと土佐の名手が描いたらしい喜撰法師の画像が出た。じっと見詰めているうちに紋太郎の口から溜息に似た感嘆の声がふと洩れた。
「名画というものは恐ろしいものだ。見れば見るほど見栄えがする」
 云いながら静かに立ち上がり床の間へ掛けて改めて見る。
「旦那様」
 と襖越しに三右衛門が呼ぶ声が聞こえて来た。「開けましてもよろしゅうございますかな」
「うん」と云ったまま紋太郎は尚喜撰に見入っている。
「おや、喜撰様でございますか」
 はいって来た三右衛門も感心し膝をついてじっとなった。しばらく室は静かである。
「三右衛」と紋太郎はやがて云った。「何んと立派なものではないかな」
 云われて三右衛門は頭を下げたが、
「立派なものでございます。……ところが喜撰と申しますお方は、どういうお方でございましょうか」
「世捨て人だよ。宇治山のな」
「ははあ、さようでございますかな」
「嵯峨天皇弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。橘(たちばな)奈良丸の子とも云われ紀ノ名虎の子とも云われ素性ははっきり解らない」
「さては無頼者(やくざもの)でござりますな」
「莫迦を申せ。有名な歌人だ」
 紋太郎は哄笑する。三右衛門はテレて鬢を掻く。で部屋の中は静かになった。梅花を散らす早春の風が裏庭の花木へ当たると見えてサラサラサラサラサラサラという枝擦れの音が聞こえて来る。植え込みの中で啼いていると見えて鶯の声が聞こえて来る。若鶯(じゃくおう)と見え声が若い。
 と、三右衛門は溜息をした。それからこんなことをいい出した。
「高価なものでございましょうな。その喜撰のお掛け物は」
「お父上からゆずられたものだ。無論高価に相違ない」――飽かず画面に眼を注ぎながら紋太郎は上の空でいった。
「何程(いかほど)のお値打ちがございましょうな?」
「専斎殿の鑑定(めきき)によれは、捨て売りにしても五十両。好事家(こうずか)などに譲るとすれば百両の値打ちはあるそうだ」
「百両……」と呟いて三右衛門はホッと吐息をしたものである。


    尾行の主は?

「これはな」と紋太郎は云いつづけた。「もと六枚あったものだ。いつの時代にかそれが割れて――つまり持ち主が売ったのでもあろうよ。チリヂリバラバラになってしまった。それをどうして手に入れられたものかお父上が一枚手に入れられた。それがこの喜撰法師だ。ところが隣家の専斎殿はそれを二枚も持っておられる。もっとも昨夜の盗難でその一枚を失われたが、失われぬ前のご自慢と来てはそれはそれは大したものであったよ」
 しかしそんな説明は三右衛門は聞いてはいなかった。考えに沈んでいたのであった。
 と、卒然と三右衛門は云った。「百両のお金がございましたらせめて当座の借金だけでも皆済(かいさい)することが出来ますのになあ」
「なに?」と初めて紋太郎は用人の方へ顔を向けた。「この喜撰を売れとでも云うのか?」
「米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと……」
「なるほど」
 といったが、この瞬間芸術的の恍惚境は跡形もなく消えてしまい、苦々しい現実の生活難が紋太郎の眼前へ顔を出した。で紋太郎は腕を組んだ。

 その翌日のことであったが、旅装束の若侍が木曽街道を歩いていた。他でもない藪紋太郎である。
 板橋、わらび、浦和、大宮と、彼はずんずん歩いて行った。彼は知行所の熊谷まで、たとえどんなに遅くなっても是非今日じゅうに着きたいものと、朝の三時に屋敷を出てここまで歩いて来たのであった。
 彼は渋面を作っている。足が疲労(つか)れているからであろう。……と思うのは間違いで、実は彼は不思議な老人に後を尾行(つけ)られているのであった。
 彼がそれに気が付いたのは、下板橋とわらびとの間の松並木の街道をスタスタ歩いている時で、何気なく見ると自分と並んで穢(きたな)らしい爺さんが歩いている。
 穢さ加減が酷(ひど)いので彼は思わず眼をそばだてた。それに風態がまことに異様だ。そうして彼にはその風態に見覚えがあるような気持ちがした。
 ただ爺さんというだけで、まさに年齢は不詳であった。八十にも見えれば六十にも見える。そうかと思うとずぶ若い男が何かゆえあって変装しわざと老人に見せてるのだと、こう思えば思えないこともない。
 頭はおおかた禿げているが諸所(ところどころ)に白髪(しらが)がある。河原に残った枯れ芒(すすき)と形容したいような白髪である。黄色い色の萎(しな)びた顔。蛇のように蜒(うね)っている無数の皺。その体の痩せていることは水気の尽きた枯れ木とでもいおうか。コチコチと骨張って痛そうである。さて着物はどうかというに、鼠の布子に腰衣。その腰衣は墨染めである。僧かと見れば僧でもなく俗かと見れば僧のようでもある。季節は早春の正月(むつき)だというのに手に渋団扇(しぶうちわ)を持っている。脛から下は露出(むきだし)で足に穿(は)いたのは冷飯草履(ひやめしぞうり)。……この風態で尾行(つけ)られたのでは紋太郎渋面をつくる筈だ。破れた三度笠を背中に背負い胸に叩き鉦(がね)を掛けているのは何んの呪禁(まじない)だか知らないけれど益□仁態を凄く見せる。それで時々ニタリと笑う。いかさまこれでは魘(うな)されようもしれぬ。
「こいつどうぞしてマキたいものだ」
 紋太郎は心中思案しながら知らない振りをして歩いて行く。
 大正の今日東京市中で、社会主義者どもが刑事をマクにもなかなか手腕が入るそうである。
 ここは街道の一本道。薄雪の積もった正月夕暮れ。ほとんど人通りは絶えている。なかなかマクには骨が折れる。
「おおそうだ、やり過ごしてやろう」
 思案を決めると紋太郎は道側(みちばた)の石へ腰をおろした。それから懐中(ふところ)から煙管(きせる)を取り出し静かに煙草をふかし出した。


    貧乏神

 行き過ぎるかと思いきや、その奇怪な老人はズッと側へ寄って来た。紋太郎と並んで切り株へノッソリとばかり腰かけたのである。
 それからゴソゴソ懐中を探ると鉈豆煙管(なたまめぎせる)を取り出した。それをズッと鼻先へ出し、
「お武家様え、火をひとつ」
 案に相違して紋太郎は少からず閉口したものの貸さないということも出来ないので無言で煙管を差し出した。老人はスバスバ吸い付ける。
「へい、お有難う存じます」
 声までが無気味の調子である。
 二人は黙って腰かけている。
「どうもこいつは驚いたな。除(よ)けても除けても着きまとって来る。まるで俺の運命のようだ」
 紋太郎は不快に思いながら咎めることも出来ないのでやはり黙って腰かけていた。
 と、老人が話しかけた。
「熊谷(くまがや)へおいででございますかな。それはそれはご苦労のことで。それに致しても三時立ちとは随分お早うございましたなあ」
「何?」
 といったが紋太郎これにはいささか驚いた。
「いかにも俺は三時に立ったがどうしてそれを知っているな?」
「へへへへへ、まだまだ沢山存じております。例えば今朝ご出立の時、アノ用人の三右衛門様が、何にあわてたのか大変あわてて鴨居で額をお打ちなされたので、『三右衛門はしたない、気を付けるがよいぞ』と、こう旦那様がおっしゃいました筈で」
「いかにもそういうこともあった」
「ええと、昨夜はご隣家へ泥棒がはいって大事な物を――見事な幅を確か一幅盗んで行った筈でございますよ」
「おおおお、いかにもその通りじゃ」
「盗まれた絵は小野小町土佐の名筆でございましょうがな?」
「どうも不思議だ。まさにその通り」紋太郎は思わず腕を組んだ。
「同じ作者の同じ名画、喜撰法師の一幅は現在旦那様が持っておられる筈じゃ。何も驚かれることはない。布呂敷包みの細長い荷物。膝の上のその荷物。それが喜撰様でございましょうがな。……そうして旦那様は知行所で、そのご家宝の喜撰様を金に代える気でござりましょうがな」
「むう」と紋太郎は思わず唸ったが、
「ははあさようか、いや解ったぞ。察するところそのほうは邸(やしき)近くの町人であろう。それで事情を知っているのであろう」
「はいさようでございますよ。旦那様のすぐお側(そば)に住んでいる者でございますよ」
「ついぞ見掛けぬ仁態じゃが、どこら辺りに住んでいるな?」
「ほんのお側でございます旦那様のお邸内で」
「莫迦を申せ」
 と紋太郎は苦々しく一つ笑ったが、
「邸の内には用人とお常という飯煮(めした)き婆。拙者を加えて三人だけじゃ」
「へへへ」
 と老人はそこでまた気味悪く笑ったが、
「どう致しましてこの老人(わたくし)は、ご尊父様の時代からずっとずっとお邸内に住居しているものでございますよ」
 ははあこいつ狂人(きちがい)だな。……紋太郎は気が付いた。そこでガラリ調子を変え、
「ところでお前は何者だな? そうしていったい何という名だ?」
「貧乏神と申します」
 いったかと思うと老人は煙りのように揺れながらス――とばかりに立ち上がった。
「私はな」と老人はいいつづける。「永らくの間お前の所で、厄介になっていた貧乏神じゃ。随分居心地よい邸であったよ。で、立ち去るのは厭なのじゃが、そういう勝手も出来ないのでな、今日を限りに立ち退(の)こうと思う。……お前の所へもこれからはだんだん好運が向いて来ようよ。もっとも」
 といって貧乏神は例によって気味悪くニタリとしたが、
「時々お目にはかかろうも知れぬ。私はご隣家へ移転(ひっこ)すからの」
 こういい捨てると貧乏神はクルリと紋太郎へ背を向けた。それからスタスタ歩き出した。
「ははあなるほど貧乏神か。いかさまそういえばあの風態に見覚えがあると思ったよ。絵にある貧乏神そっくりじゃ。父の代から住んでいたと? アッハハハこれももっともだ。父の代から俺の家はだんだん貧乏になったのだからな。何これから運が向くって? ほんとにどうぞそうありたいものだ。……おや!」
 とにわかに紋太郎は吃驚(びっくり)したように眼を見張った。


    刺青の女賊

 それというのは他でもない。貧乏神が消えてなくなり、代わりに美人が現われたからである。
 もっと詳しく説明すれば、紋太郎と別れた貧乏神は、街道筋をズンズンと上尾の方へ歩いて行った。ものの半町も行ったであろうか、その時並木の松蔭から一人の女が現われたが、貧乏神と擦れ違ったとたん、貧乏神の姿が消え、一人と見えた女の背後(うしろ)から小粋な男が従いて来た。だんだんこっちへ近寄って来る。「貧乏神などと馬鹿にしてもさすがは神と名が付くだけに飛天隠形(ひてんおんぎょう)自在と見える」
 学問はあっても昔の人だけに、紋太郎には迷信があった。で忽然姿を消した貧乏神の放れ業が不思議にも神秘にも思われるのであった。
 若い二人の旅の男女は、紋太郎にちょっと会釈しながら静かにその前を通り過ぎようとした。
 ふと女を見た紋太郎は、
「おや」といってまた眼を見張った。
 その時プ――ッと寒い風が真っ向から二人へ吹き付けて来た。女の髪がパラパラと乱れる。手を上げて掻き除(の)けたその拍子にツルリと袖が腕を辷り、露出した白い二の腕一杯桜の刺青(ほりもの)がほってある。
「やっぱりそうだ。小間使いのお菊!」
 呻くがように紋太郎は云う。と、女は眼を辷らせ紋太郎の顔を流瞥(りゅうべつ)したが、別に何んともいわなかった。とはいえどうやら微笑したらしい。しかしそれも一瞬の間で二人はズンズン行き過ぎた。そうして今は雀色に暮れた夕霧の中へ消え込んでしまった。
「重ね重ね不思議のことじゃ。貧乏神に小間使いのお菊! 腕に桜の刺青があった。専斎殿の言葉通りじゃ。しかし美しいあのお菊がよもや六歌仙など盗みはすまい」
 やがて紋太郎は立ち上がった。
「熊谷まではまだ遠い。上尾、桶川、鴻ノ巣と。三つ宿場を越さなければならない。どれ、そろそろ出かけようか」
 腰を延ばしてハッとした。喜撰法師の軸がない! 桐の箱へ納め布呂敷で包み膝の上へ確かに置いた筈の、その喜撰がないのであった。
「ううむ、やられた! おのれお菊!」

「おお旦那様、もうお帰りで。これはお早うござりました」
 用人の三右衛門はいそいそとして若い主人を迎えるのであった。
「今帰ったぞ」と紋太郎は機嫌よく邸の玄関を上がった。手に吹矢筒(ふきやづつ)を持っている。部屋へ通るとその後から三右衛門が嬉しそうに従(つ)いて来た。
「首尾はいかがでござりましたかな?」三右衛門は真っ先に訊く。
「首尾か、首尾は上々吉よ」旅装を解きながら元気よく云う。
「それはまあ何より有難いことで。で何程(いかほど)に売れましたかな?」
「何も俺は売りはせぬ」
「何をマアマアおっしゃいますことやら。知行所の総括(たばね)嘉右衛門へ値をよく売るのだとおっしゃって、ご秘蔵の喜撰様を箱ながらお持ちになったではござりませぬか」三右衛門は顔を顰(しか)めながらさも不安そうに云うのであった。
「ああなるほど喜撰のことか。喜撰の軸なら紛失したよ」
「え、ご紛失なされましたとな?」
「いや道中で盗まれたのじゃ。眼にも止まらぬ早業(はやわざ)でな。あれには俺も感心したよ」
 紋太郎は一向平気である。
 余りのことに三右衛門はあッともすッとも云えなかった。ただ怨めしそうな眼付きをして主人の顔を見るばかりである。そのうち充血した眼の中から涙がじくじくにじみ出る。
「何んだ三右衛その顔は!」
 紋太郎は快活に笑い出した。
「そういう顔をしているから貧乏神が巣食うのだ。めでたい場合に涙は禁物、せっかく来かかった福の神様が素通りしたら何んとする。アッハッハッハッ涙を拭け」


    二尺八寸の吹矢筒

「何がめでとうござりましょうぞ」
 三右衛門は涙の眼を抑え、
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解(いいわけ)したものか。ああああこれは困ったことになった。それだのにマアマア旦那様は首尾はよいの上々吉だのと。これが何んのめでたかろう」
「まあ見ろ三右衛この筒を」
 こういいながら紋太郎はさもさも嬉しいというように手に持っていた吹矢筒をひょいと眼の前へ持ち上げたが、
「お前も知っている鳥差しの丑(うし)、俺が吹矢を好きだと知ってか、わざわざ持って来てくれて行った。知行所の百姓は感心じゃ。俺を皆(みんな)可愛がってくれる。……これは素晴らしい吹矢筒だ。第一大分古い物だ。木肌に脂(あぶら)が沁み込んで鼈甲(べっこう)のように光っている。俺は来る道々験(ため)して見たが、百発百中はずれた事がない。嘘だと思うなら見るがよい」
 側に置いてある小箱をあけると手製の吹矢を摘み出した。ポンと筒の中へ辷り込ませる。それからそっと障子をあけた。
 庭の老松(おいまつ)に一羽の烏が伴鳥(ともどり)もなく止まっていたが、真っ黒の姿を陽に輝かせキョロキョロ四辺を見廻している。
 紋太郎はろくに狙いもせず筒口へ唇を宛(あて)たかと思うと、ヒュ――ッと風を切る音がして一筋の白光空を貫きそれと同時に樹上の鳥はコロリと地面へ転げ落ちた。
 いつもながらの精妙の手練に、三右衛門は感に耐えながらも、今は褒めている場合でない。重い溜息を吐くばかりであった。
「二尺八寸の短筒ながらこの素晴らしい威力はどうだ! 携帯に便、外見(みば)は上品、有難い獲物を手に入れたぞ」
「米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解(いいわけ)したものであろう」
「三右衛、何が不足なのじゃ?」
「何も不足はござりませぬが。……金のないのが心配でござります」
「金か、金ならここにある」
 紋太郎は懐中へ手を入れるとスルリと胴巻を抜き出した。
「小判で二百両、これでも不足かな」
 三右衛門の前へドンと投げる。
「あまりお前が金々というから実はちょっとからかったまでさ」
「へえ、それにしてもこんな大金を……」
 三右衛門は容易に手を出さない。
 紋太郎は哄然と笑ったが、
「貧乏神のいったこともまんざら嘘ではなかったわい。……何の、三右衛、こういう訳だ。実は喜撰を掠(す)られたので俺もひどく悄気(しょげ)たものさ。といってノメノメ帰られもしないで、知行所へ行って見るとどうした風の吹き廻しか、いつもは渋る嘉右衛門が二つ返辞で承知をしてくれ、いい出した倍の二百両というもの融通をしてくれたではないか。その上でのいい草がいい。――今年はご出世なさいますよとな。……で、俺が何故と訊いて見ると、何故だかそれは解りませぬと、こういって澄ましているではないか。……三右衛安心をするがいいぞ。どうやら貧乏の俺の家もこれから運に向かうらしい。貧乏神めもそういったからの」

 こうして春去り夏が来た。その夏も逝(い)って秋となった。
 小鳥狩りの季節となったのである。
 ちょっと来かかった福の神も何かで機嫌を害したと見え、あの時以来紋太郎の家へはこれという好運も向いて来なかったので、依然たる貧乏世帯。しかしあの時の二百両で諸方の借金を払ったのでどこからもガミガミ催促には来ない。それで昨今の生活(くらし)振りは案外暢気(のんき)というものであった。
「おい三右衛困ったな。ちっとも好運がやって来ないじゃないか」
 時々紋太郎がこんなことを云うと却って用人三右衛門の方が昔と反対(あべこべ)に慰めるのであった。
「なあに旦那様大丈夫ですよ。米屋も薪屋も醤油屋も近頃はこちらを信用して少しも催促致しませんので。一向平気でございますよ」
「どうやら米屋醤油屋が一番お前には恐いらしいな」
「へい、そりゃ申すまでもございませんな。生命(いのち)の糧(かて)でございますもの」
「腹が減っては戦は出来ぬ。ちゃんと昔からいっておるのう」


    大御所家斉公

 ある日、紋太郎は吹筒を携(たずさ)え多摩川の方へ出かけて行った。
 多摩川に曝(さら)す手作りさらさらに何ぞこの女(こ)の許多(ここだ)恋(かな)しき。こう万葉に詠まれたところのその景色のよい多摩川で彼は終日狩り暮した。
「さてそろそろ帰ろうかな」
 こう口へ出して呟いた頃には、暮れるに早い秋の陽がすっかり西に傾いて、諸所に立っている森や林へ夕霧が蒼くかかっていた。そうして彼の獲物袋には、鶸(ひわ)、鶫(つぐみ)、□(かり)などがはち切れるほどに詰まっていた。
 林から野良へ出ようとした時彼は大勢の足音を聞いた。見れば鷹狩りの群れが来る。
 その一群れは足並揃えて粛々(しゅくしゅく)とこっちへ近寄って来る。同勢すべて五十人余り、いずれも華美(きらびやか)の服装(よそおい)である。中でひときわ目立つのは狩装束に身を固めた肥満長身の老人で、恐ろしいほどの威厳がある。定紋散らしの陣帽で顔を隠しているので定かに容貌(かお)は解らないものの高貴のお方に相違ない。五人のお鷹匠、五人の犬曳き、後はいずれもお供と見えてぶっ裂き羽織に小紋の立付(たっつけ)、揃いの笠で半面を蔽い、寛(くつろ)いだ中にも礼儀正しく老人を囲んで歩を運ぶ。
「さては諸侯のお鷹狩りと見える。肥後か薩摩かどなたであろう。いずれご大身には相違ないが」
 紋太郎は心中審(いぶか)りながら、逢っては面倒と思ったので林の中に身を隠し木の間から様子を窺った。
 鷹狩りの群れは近寄って来る。
 近づくままよく見れば、老人の冠られた陣帽に、思いも寄らない三葉葵が黄金(きん)蒔絵(まきえ)されているではないか。疑がいもなく将軍ご連枝。お年の恰好ご様子から見れば、十一代将軍家斉公。西丸へご隠居して大御所様。そのお方に相違ない!
 紋太郎はハッと呼吸(いき)を呑んだ。持っていた吹筒を地へ伏せる上自分もそのままピタリと坐り両手をついて平伏した。見る人のないことは承知であるが、そこは昔の武士気質、まして紋太郎は礼儀正しい。蔭ながら土下座をしたのであった。
 鷹狩りの一行は林の前を林に添って行き過ぎようとした。
 と、忽然西の空から、グーン、グーンという物の音が虚空を渡って聞こえて来た。
 家斉公は足を止めた。で、お供も立ち止まる。
「何んであろうな、あの音は?」
 こういいながら笠を傾け、日没余光燦然と輝く西の空を眺めやった。
「不思議の音にござります」
 こう合槌を打ったのは寵臣水野美濃守であった。さて不思議とは云ったものの何んの音とも解らない。しかしその音は次第次第にこの一行へ近づいて来た。やはり音は空から来る。
「おお、鳥じゃ! 大鳥じゃ!」
 家斉公は手を上げて空の一方を指差した。
 キラキラ輝く夕陽をまとい、そのまとった夕陽のためにかえって姿は眩まされてはいるが、確かに一羽の巨大な鳥が空の一点に漂っている。
 何んとその鳥の大きいことよ! それは荘子の物語にある垂天(すいてん)の大鵬(たいほう)と云ったところで大して誇張ではなさそうである。大鷲に比べて二十倍はあろうか。とにかくかつて見たことのない奇怪な巨大な鳥であった。
 グーン、グーン、グーン、グーン、かつて一度も聞いたことのない形容を絶した気味の悪い声! そういう啼き声を立てながら悠然と舞っているのであった。
 家斉公はまじろぎもせず大鵬の姿を見詰めていたが、
「聞きも及ばぬ化鳥のありさま。このまま見過ごし置くことならぬ! 誰かある射って取れ!」
「はっ」と返辞(いら)えて進み出たのは近習頭白須賀源兵衛であった。
「おおそちなら大丈夫じゃ。矢頃を計り射落とすがよいぞ」
「かしこまりましてござります」
 近習の捧げる重籐(しげどう)の弓をむずと握って矢をつがえたが、二間余りつと進むと、キリキリキリと引き絞った。西丸詰めの侍のうち、弓術にかけてはまず源兵衛と人も許し自分も許すその手練の引き絞った弓、千に一つの失敗もあるまいと、供の一同声を殺し、矢先に百の眼を集めたとたん、弦音高く切ってはなした。その矢はまさに誤たず大鵬の横腹に当ったが、こはそもいかに肉には通らず、戞然(かつぜん)たる音を響かせて、二つに折れた矢は地に落ちて来た。
「残念!」とばかり二の矢をつがえ再びひょうふっと切って放したが、結果は一の矢と同じであった。二つに折れて地に落ちた。
 心掛けある源兵衛は三度射ようとはしなかった。弓を伏せて跪座(かしこ)まる。


    大鵬空に舞う

「源兵衛どうした。手に合わぬか?」家斉公は声をかけた。
「千年を経ました化鳥と見え、二度ながら矢返し致しましてござる」
「おおそうか、残念至極。そちの弓勢にさえ合わぬ怪物。弓では駄目じゃ鷹をかけい! 五羽ながら一度に切って放せ!」
「は、はっ」
 と五人の鷹匠ども、タラタラと一列に並んだが、拳に据えた五羽の鷹を屹(きっ)と構えて空へ向ける。さすがは大御所秘蔵の名鳥、プッと胸を膨張(ふくら)ませ、肩を低く背後(うしろ)へ引く。気息充分籠もると見て一度に颯(さっ)と切って放す。と、あたかも投げられた飛礫(つぶて)か、甲乙なしに一団となり空を斜めに翔(か)け上った。
 家斉公は云うまでもなく五十人のお供の面々は、固唾(かたず)を呑んで眺めている。その眼前で五羽の鷹、大鵬を乗り越し上空へ上るや一時にバラバラと飛び散ったがこれぞ彼らの慣用手段で、一羽は頭、一羽は尻、一羽は腹、二羽は胴、化鳥の急所を狙うと見る間に一度に颯と飛び掛かった。
 ワッと揚がる鬨の声。お供の連中が叫んだのである。
「もう大丈夫! もう大丈夫!」
 家斉公も我を忘れ躍り上がり躍り上がり叫んだものである。しかしそれは糠喜(ぬかよろこ)びで、五羽の鷹は五羽ながら、投げられたように弾き飛ばされ、空をキリキリ舞いながら枯れ草の上へ落ちて来た。
 五羽ながら鷹は頭を砕かれ血にまみれて死んでいる。しかも大鵬(おおとり)は悠然と同じ所に漂っている。
 物に動ぜぬ家斉公も眼前に愛鳥を殺されたので顔色を変えて激怒した。
「憎き化鳥! 用捨はならぬ! 誰かある誰かある退治る者はないか! 褒美は望みに取らせるぞ! 誰かある誰かある!」
 と呼ばわった。しかし誰一人それに応じて進み出ようとする者はない。声も立てず咳(しわぶき)もせず固くなってかたまっている。これが陸上の働きならば旨(むね)を奉じて出る者もあろう。ところが相手は空飛ぶ鳥だ。飛行の術でも心得ていない限りどうにもならない料物(しろもの)である。ましてや弓も鷹も駄目と折り紙の付いた怪物である。誰が何んのために出て来るものか。
 忽然この時林の中から一人の若者が走り出た。すなわち藪紋太郎である。
 紋太郎は遙か彼方(あなた)から此方(こなた)に向かって一礼したが、その眼を返すと空を睨んだ。二尺八寸短い吹筒、つと唇へ当てたかと思うと大きく呼吸(いき)をしたらしい。ぴかりと光った白い物。それが空を縫ったらしい。その瞬間に恐ろしい悲鳴が空の上から落ちて来た。と、その刹那空の化鳥が一つ大きく左右に揺れたが、そのままユラユラと落ちて来た。しかしそこは劫(ごう)を経た化鳥、地へ落ちて死骸を曝らそうとはしない。さも苦しそうに喘ぎ喘ぎ地上十間の低い宙を河原の方へ翔けて行く。そうしてそれでも辛うじて広い河原を向こうへ越すと暮れ逼(せま)って来た薄闇の中へ負傷(いたで)の姿を掻き消した。

 どんなに大御所が喜んだか? どんなに紋太郎が褒められたか? くだくだしく書くにも及ぶまい。
「紋太郎とやら、見事見事! 遠慮はいらぬ褒美を望め!」破格をもって家斉公は直々言葉を掛けたものである。
「私、無役にござりまする。軽い役目に仰せ付けられ、上様おため粉骨砕身、お役を勤むる事出来ましたなら有難き儀に存じまする」これが紋太郎の希望(のぞみ)であった。
「神妙の願い、追って沙汰する」
 これが家斉の言葉である。
 はたして翌日若年寄から紋太郎へ宛てて差紙(さしがみ)が来た。恐る恐る出頭すると特に百石のご加増があり尚その上に役付けられた。西丸詰め御書院番、役高三百俵というのである。
 邸へ帰ると紋太郎は急いで神棚へ燈明を上げた。貧乏神への礼心である。


    奇怪な迎駕籠

 ある夜、奥医師専斎の邸へ駕籠が二挺横着けされた。一つの駕籠は空であったが、もう一つの駕籠から現われたのは儒者風の立派な人物であった。
「大学頭(だいがくのかみ)林家より、参りましたものにござりまするが、なにとぞ先生のご来診を得たく、折り入ってお願い申し上げまする」
 これが使者の口上であった。もうこの時は深夜であり、専斎は床にはいっていたが、断わることは出来なかった。同じ若年寄管轄でも、林家は三千五百石、比較にならない大身である。
 で、専斎は衣服を整え薬籠を持って玄関へ出た。
「深夜ご苦労にござります」儒者風の使者(つかい)はこういって気の毒そうに会釈したが、「駕籠を釣らせて参りましてござる。いざお乗りくだされますよう」
「さようでござるかな、これはご叮嚀」
 専斎はポンと駕籠へ乗った。と、粛々と動き出す。眠いところを起こされた上、快よく駕籠が揺れるので専斎はすっかりいい気持ちになりうつらうつらと眠り出した。すると、急に駕籠が止まった。
「おや」といって眼を覚ます。「もう林家へ着いたのかな。それにしてはちと早いが」
 その時、バサッと音が駕籠の上から来た。
「何んの音かな? これは変じゃ」
 すると今度は、サラサラという、物の擦れ合う音がした。
「何んの音かな? これはおかしい」
 こう口の中で呟いた時、ひそひそ話す声がした。
「どうやら眠っておられるようじゃ。ちょうど幸い静かにやれ」――儒者風をした使者の声だ。
「へいよろしゅうございます」――こういったのは駕籠舁きである。駕籠はゆらゆらと動き出した。
「こいつどうやら変梃だぞ。どうも少し気味が悪くなった」そこで「エヘン」と咳をした。
「おお、お眼覚めでござるかな。ハッハッハッハッ」と笑う声がする。儒者風の男の声である。馬鹿にしたような笑い方である。
「まだ先方へは着きませぬかな?」専斎は不安そうに声を掛けた。
「なかなかもって。まだまだでござる。ハッハッハッ」とまた笑う。
 専斎は引き戸へ手を掛けた。戸を開けようとしたのである。
「専斎殿、戸は開きませぬ。外から錠が下ろしてござるに。ハッハッハッ」とまたも笑う。
 専斎はゾッと寒気がした。
「こいつはたまらぬ。誘拐(かどわか)しだ」
 彼はじたばたもがき出した。
 そんなことにはお構いなく駕籠はズンズン進んで行く。そうして一つグルリと廻った。
「おや辻を曲がったな」
 専斎は駕籠の中で呟いた。とまた駕籠はグルリと廻った。どうやら右へ曲がったらしい。
「さっきも右、今度も右、右へ右へと曲がって行くな」専斎はそこで考えた。「いったいどこへ連れて行く気かな? こんな爺(じじい)を誘拐したところでたいしていい値(ね)にも売れまいにな。……精々(せいぜい)のところで別荘番。……おや今度は左へ廻った。……じたばたしたって仕方がない。生命(いのち)まで取るとはいわないだろう。……まあまあ穏(おとな)しくしていることだ。……そうして、そうだ、どっちへ行くかおおかたの見当を付けてやろう」
 臍(ほぞ)を固めた専斎はじたばたするのを止めにした。じっと静かに安坐したまま駕籠舁きの足音に気を配った。
 駕籠はズンズン進んで行く。右へ曲がったり左へ折れたり、そうかと思うと後返りをしたり、ある時は同じ一所を渦のようにグルグル廻ったりした。俄然駕籠は走り出した。どうやら坂道でも駈け上るらしい。と、不意に立ち止まった。
「やれやれどうやら着いたらしいな」こう専斎の思ったのは糠喜びという奴でまた駕籠は動き出した。
「どうもいけねえ」と渋面を作る。
 それから駕籠は尚長い間冬の夜道を進むらしかった。儒者風をした人物は依然駕籠側(かごわき)にいるらしかったが、一言も無駄言を云わないので、いよいよ専斎には気味悪かった。


    桃色の肉に黄金色の毛

 こうしておよそ今の時間にして四時間余りも経った頃、駕籠の歩みが緩(のろ)くなった。そうして足音の響き工合でどうやらこの辺が郊外らしく専斎の心に感じられた。と、にわかに駕籠が止まった。ギーと大門の開く音。と、また駕籠がゆっくりと動いた。がしかしすぐ止まる。
「ご苦労でござった」「遅くなりまして」「しからば乗り物をずっと奥まで」「よろしゅうござる」
 というような、ひそひそ話が聞こえて来た。
 突然駕籠が宙に浮いた。ゆらゆらと人の手で運ばれるらしい。畳ざわりの幽(かす)かな音。ス――と開けたりピシリと閉じる襖や障子の音もする。宏大な屋敷の模様である。トンと駕籠が下へ置かれた。紐や桐油を除(の)ける音。それからピ――ンと錠の音がした。
「よろしゅうござるかな?」「逃げもしまい」「もし逃げたら?」「叩っ切るがよろしい!」
 などと凄い話し声がする。と、ス――と扉(と)があいた。
「いざ専斎殿お出くだされ」
「はっ」
 と専斎は這い出した。朦朧(もうろう)と四辺(あたり)は薄暗い。見霞むばかりの広い部屋で、真ん中に金屏風が立ててある。
 その金屏風の裾の辺に一人の武士が坐っていたが、
「ここへ」と云って膝を叩いた。語音の様子では老人であったがスッポリ頭巾を冠っているので顔を見ることは出来なかった。鉄無地の衣裳に利休茶の十徳、小刀(ちいさがたな)を前半に帯び端然と膝に手を置いている。肉体枯れて骨立っていたがそれがかえって脱俗して見え、云うに云われぬ威厳があった。部屋には老人一人しかいない。
「ここへ」と老人はまた云った。で専斎は膝で進む。
「外科の道具、ご持参かな?」その老人は静かに訊いた。
「はい一通りは持って参ってござる」
「それは好都合」と云ったかと思うと老人は金屏風をスーとあけたが渦高(うずたか)く夜具(よるのもの)が敷いてある。そうして誰か寝ているらしい。しかし白布で蔽われているので姿を見ることは出来なかった。
「金創でござる。お手当てを」覆面の老人は囁いた。さも嗄(しわが)れた声音(こわね)である。
「へ――い」と思わず釣り込まれ専斎も嗄れた声を出したが、いわれるままに膝行し寝ている人の側へ寄った。ポンと白布を刎ねようとする。と、その手首を掴まれた。で、ギョッとして顔を上げたとたん頭巾の奥から老人の眼が冷たく鋭くキラリと光った。専斎はぞっと身顫いをする。その時老人は手を放しその手を腰へ持って行ったがスッと小刀を抜いたものである。
「あっ」と専斎は呼吸(いき)を呑んだが老人は見返りもしなかった。白い掛け布を一所(ひとところ)スーと小刀で切ったものである。
「お手当てを」と引き声でいった。で、専斎は覗いて見た。裂かれた布の間から桃色の肉が見えていたが肉はピクピク動いている。神経の通っている証拠である。産毛(うぶげ)が一面に生えていたが色はあざやかな黄金色(こがねいろ)であった。人間の肌には相違ない。が、しかし、その人間が……肉の一所が脹れ上がり見るも恐ろしい紫色に変色してるばかりでなくその真ん中と思われる辺に一つの小さい突き傷があり突き傷は随分深そうであった。細い鋭利な金属性の物で深く刺されたものらしい。
 この時までの専斎は見るも気の毒な臆病者であったが、怪我人の傷を一眼見るや俄然態度が緊張(ひきし)まった。つまり医師としての自尊心が勃然湧き起こったからであろう。彼は片手をズイと差し込みそろそろと肌にさわって見た。
「……第一肋(あばら)。……第二肋。……うむ別に異状なし。……肺の臓? ええと待てよ…… ふむ、なるほど。ちとあぶなかったな。……しかし、まずまず危険には遠い。……あっ、しまった! 肺尖(はいせん)が! ……」
 心の中で呟きながら専斎はズンズン診て行った。
「……一分、いやいや五厘の相違で、幸福にも生命を取り止めたわい。……」
「専斎殿、お診断(みたて)は?」
 覆面の老人が囁くように訊いた。
「大事はござらぬ。幸いにな……」
「さようでござるかな。それで安心。……」老人はホ――ッと溜息をしたが、その様子でその老人がどんなに心配をしていたかが十分想像出来そうである。


    ここにもある六歌仙

 専斎は懐中から紙入れを出した。キラキラ光る銀色のナイフ、同じく鋸(のこぎり)、同じく槌、それから幾本かのピンセット。――外科の道具を抜き出したが、まず一本のナイフを握ると一膝膝をいざり出た。……患部へ宛ててスッと引く。タラタラと流れ出る真っ赤の血を用意の布(きれ)で拭(ぬぐ)い眼にも止まらぬ早業で手術の手筈を付けて行く。
 もうこの時には彼の心には、陰森と寂しい部屋の態(さま)も、痩せた覆面の老人の姿も、確かに人間ではあるけれど人間ならぬ不思議な肌の小気味の悪い患者のことも、ほとんど存在していなかった。彼の心にあるものは、危険性を持った奇怪な傷をどうしたらうまく癒せるかという医師的責任感ばかりであった。
 こうして間もなく消毒も終え、クルクルと繃帯を巻き了(お)えると、
「これでよろしい」と静かにいった。「熟(う)みさえせねば大丈夫でござる」
「熟(う)みさえせねば?」と不安そうに、「いかがでござろう熟みましょうかな?」声は不安に充ちている。
「いや、九分九厘……大丈夫でござる」
「それはそれは有難いことで」
 いうと一緒に手を延ばしスーと金屏風を引き廻した。
「しばらく……」というと立ち上がり広い座敷を横切って行く。部屋の外れの襖を開けるとふっとその中へ消え込んだ。
 一人になると専斎はまたゾクゾク恐ろしくなったが、度胸を定めて四辺(あたり)の様子を盗み眼(まなこ)で見廻した。部屋の広さは百畳敷もあろうか古色蒼然といいたいが事実はそれと反対で、ほんの最近に造ったものらしく木の香のするほど真新しい。横手にこじんまりとした床の間があった。二幅の軸が掛かっている。
「はてな?」と呟いて専斎はその軸へじっと眼を注いだ。「や、これは六歌仙だ!」
 それはいかにも六歌仙のうち、僧正遍昭と文屋とであった。
「同じ絵師の筆だわえ」
 また専斎は呟いた。
 それもいかにもその通り、そこに掛けてある二歌仙は、かつて専斎が持っていて小間使いのお菊に奪われた小野小町の一幅と、もう一つ現在持っている大友黒主の一幅と全く同じ作者によって描かれたものだということは一見すれば解るのであった。
「どれ寄って拝見しよう」
 腰を上げようとした時である。正面の障子が音もなく開いた。「人が来たな」とひょいと見たが、障子の向こうに、縁側があり縁側の外れに雨戸がありその雨戸が細目に開いて庭園の一部が見えているばかり人らしいものの影もない。また専斎はゾッとした。冷たい汗が背を流れる。
「わっ! たまらねえ! 化物屋敷だア」
 叫ぼうとした時、障子の隙へ奇妙な顔が現われた。
「だ、誰だア!」
 と声を掛ける。とたんに破れた渋団扇が障子の間からフワリと出た。それから素足がニョッキリと出てやがて全身を現わしたのを見ると、専斎はキョトンと眼を円くした。もちろん恐怖もあったけれどむしろそれよりはおかしかった。まずその男の風彩は僧でもあり俗でもあった。鼠の衣裳に墨染めの衣、胸に叩き鐘を掛けている。腰に下げたは頭陀袋(ずだぶくろ)で手首に珠数を掛けている。頭は悉皆(しっかい)禿げていたがそれでも秋の芒のようにチョンビリと白髪(しらが)が残っている。そうして酷(ひど)く年寄である。それが渋団扇を持っているのだ。
「誰だ?」と専斎はもう一度いった。
「貧乏神さ。ごらんの通りね」
「貧乏神だ? どこから来た!」
「フフフフお前さんの家からさ」
 いいすてるとスルスルと床の間の方へ貧乏神は歩いて行った。
「どこへ行く!」といいながら専斎はヌッと立ち上がった。


    正金で五十両

「やかましいやい! へぼ医者め!」
 振り返って睨んだ眼の凄さに専斎はペッタリ尻餅をついた。
「態(ざま)ア見やがれ!」
 と貧乏神は床の間へ上ると手を延ばし六歌仙の軸をひっ握んだ。
 その時襖がサラリと開いて以前の覆面の老人が部屋の中へはいって来たが、「曲者(くせもの)!」
 と掛けた鋭い声は、武道で鍛えた人でなければ容易のことでは出せそうもない。
「ええ畜生、いめえましい!」身を飜(ひるがえ)すと貧乏神は庭へ向かって走り出した。
 ヒューッと小束が飛んで来る。パッと渋団扇で叩き落す。次の瞬間には貧乏神の姿は部屋の中には見られなかった。
「方々出合え! 賊でござるぞ!」
 忽ち入り乱れる足音が邸の四方から聞こえて来たが、庭の方へ崩(なだ)れて行く。
 障子を締め切った覆面の老人。
「驚かれたでござろうな」……打って代わって愛相よく、「寸志でござる。お納めくだされ」
 紙包みを前へ差し置いた。
「もはや用事はござりませぬ。……駕籠でお送り致しましょう。……さて最後に申し上げたいは、今夜のことご他言ご無用。もし口外なされる時は御身(おんみ)のためよくござらぬ」
 謝礼といって贈られたすっくり重い金包みを膝の上へ置きながら専斎はうとうと睡りかけた。
 同じ駕籠に打ち乗せられ同じ人に附き添われ同じ夜道を同じ夜に自宅へ帰って行くところであった。
「今夜のことご他言無用。もし口外なされる時は御身のためよくござらぬ」と、いざお暇(いとま)という時に例の覆面の老人によって堅く口止めされたことを心から恐ろしく思いながらも、襲って来る睡魔はどうすることも出来ず、彼はうとうと睡ったらしい。
 こうして彼が目覚めた時には日が高く上っていた。自分の家の自分の寝間に弟子や家人に囲まれながら楽々と睡っていたものである。
「金包みはあるかな? 金包みは?」
 これが最初の言葉であった。
「はいはい金包みはございますよ」
「いくらあるかな? あけて見るがいい」
「はい、小判で五十両」
「木葉(こっぱ)であろう? 木葉(こっぱ)であろう?」狐に魅(つまま)れたと思っているのだ。
「なんのあなた、正(しょう)の金ですよ」
「どうも俺にはわからない」
「今朝方お帰りでございましたが、やはり昨夜は狩野様で?」
「いやいや違う。そうではない。狩野の邸なら知っている。昨夜の邸とはまるで違う」
「まあ不思議ではございませんか。どこへおいででございましたな?」
「それがさ、俺にも解らぬのだよ」
 ……で専斎は気味悪そうに渋面を作らざるを得なかった。
 こういうことのあったのは、この物語の主人公旗本の藪紋太郎が化鳥に吹矢を吹きかけた功で西丸書院番に召し出されたちょうどその日のことであったが、翌日紋太郎は扮装(みなり)を整え専斎のやしきへ挨拶に来た。
「専斎殿お喜びくだされ、意外のことから思いもよらず西丸詰めに召し出されましてな、ようやくお役米にありつきましてござるよ」
 こういってから多摩川における化鳥事件を物語った。
「で、今日では日本全国、その化鳥を発見(みつ)けたもの、ないしは死骸を探し出した者には、莫大なご褒美を授けるというお伝達(たっし)が出ているのでございますよ。……何んと世の中には不思議極まる大鳥があるものではござらぬかな」

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