近時政論考
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著者名:陸羯南 

    序

 モンテスキューいわく、「予の校を去るや数巻の法書を手にせり、しかしてただその精神を尋繹(じんえき)せり」と。ボルドー議会の会長たるとき、いわく、「予は議場において身に適するの地位なきを知る、議題は予これを詳悉するを難(かた)んぜず、しかも議事規則に至りては毫(ごう)も会得するところあらず、予は会長としてこれに注意せざるにあらざれども、いわゆる伎倆なるもののきわめて陋愚なるを悟り、しかしてなお揚々として座を占むるに堪えざるなり」と。すなわち職を辞してもっぱら政理の究察に従事せり。ああ、これ先生の一世の知識を開拓して余りありし所以(ゆえん)なるか。ヴォルテル称揚して言えらく、「人類の偉業を失うや久し、モ君出でてこれを回復しこれを恢張せり」と。陸羯南の人となり、真に先生に彷彿(ほうふつ)たるものあり。峭深(しょうしん)の文をもって事情を穿(うが)ち是非を明らかにするは韓非に似て、しかしてしかく惨※(さんかく)[#「激」の「さんずい」に代えて「石」、73-上-16]ならず。もし不幸にして萎爾(いじ)するなくば、必ず東洋の巨人たらん。かつて『近時政論考』の著あり、余の意想を啓発すること鮮少ならざりき。多謝。
三宅雄二郎識  明治二十四年五月
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    例言

一、本篇は昨明治二十三年八月九月の交において著者病中に起稿し、わが『日本』に漸次掲載せしところのものを一括せしに過ぎず。著者講究の粗漏よりして、あるいは諸論派の本旨を誤認せしものなきにあらざるべし。識者誨教を惜しむなかれば幸甚のみ。一、本篇もとより日刊新聞の社説欄を埋むるために起草せしものなれば、したがって草し、したがって掲げ再閲の暇あるべきなし。別に一冊となして大方に示さんとの望みは著者はじめよりこれを有せず。しかれども読者諸彦のしばしば書を寄せて過当の奨励をなすもの往々これあるにより厚顔にもここにふたたび印刷職工を煩わせり。一、著者かつて維新以来の政憲沿革を考え、「近世憲法論」と題して旧『東京電報』の紙上に掲げたるものあり。またその後「日本憲法論」と題し一昨年発布の新憲法に鄙見を加え、わが『日本』に掲げたるものあり。本篇は実にこれらの不足を補わんがために起草せしものなれば、付録となして巻末に添えたり。また昨年一月に「自由主義」と題して五、六日間掲載せしものも読者中あるいはこれを出版せよと恵告せし人あり。これまた『政論考』の補遺として巻中に挾入せり。一、著者今日に至るまでその著述を出版せしことはなはだ少なし。往時かつて『主権原論』と言える反訳書を公(おおやけ)にし、一昨年に至りて『日本外交私議』を刊行し、昨年末に『予算論』と言える小冊子を出したるのみ。しかれどもこれみな反訳にあらざれば雑説のみ、較々著述の体を具えたるものは本篇をもってはじめてとなす。ただ新聞記者の業に在る者潜心校閲の暇なく、新聞紙を切り抜きたるままこれを植字に付したるは醜を掩うあたわざるゆえんなり。著者誌  明治二十四年五月
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    緒論

 冷は氷よりも冷なるはなく、熱は火よりも熱なるはなし、しかれども、氷にあらずして冷やかなるものあり、火にあらずして熱きものあり、いやしくも冷やかなるものみな氷なり、いやしくも熱きものみな火なりというはその誤れるや明白なり。湯にしてやや冷を帯ぶるものを見、これを指(さ)して水なりといい、水にして少しく熱を含むものを見、これを指して湯なりという、ここにおいて庸俗の徒ははなはだ惑う。湯の微熱なるものと水の微冷なるものとはほとんど相近し、しかれども水はすなわち水たり、湯はすなわち湯たり、これを混同するはそのはじめを極(きわ)めざるがゆえのみ。政治上の論派を区別するもまたこれに似たるものあり、民権を主張するもの豈(あ)にことごとく調和論派ならんや、王権を弁護するもの豈にことごとく専制論派ならんや、ただその論拠の如何(いかん)を顧みるのみ。仏国大革命の後に当たり、政論の分派雑然として生ず、当時かのシャトーブリヤン氏とロワイエ・コロラル氏とはほとんどその論派を同じくし、世評は往々これを誤れり、しかれども甲は保守派中の進歩論者にして乙は進歩派中の保守論者たり、何となればその論拠において異なるところあればなり。このゆえに政論の種類を知りその異同を弁ぜんと欲せば、まず政論の沿革変遷を通覧せざるべからず、いたずらにその名称を見てその実相を察せざるときは、錯乱雑駁なる今日の政界において誤謬に陥らざることほとんど希(まれ)なり。
 名実の相合せざるや久し、風節の衰うるまた一日にあらず、儒名にして墨行、僧名にして俗行、自由主義を唱道してしかして密(ひそ)かに権略を事とする者あり、進歩主義を仮装してしかして陰に功利を貪る者あり、理よろしく永久平和を唱うべき者また国防論を草するあり、理よろしく一切放任を望むべき者あえて官金を受くるあり、名目の恃(たの)むに足らざるやかくのごとし。この時に当たりて良民それいずくにか適従すべき、思うにその岐路に迷う者すこぶる多からん。店に羊頭を掛けてその肉を売らんというものあり、客入りてこれを需(もと)むればこれに狗肉(くにく)を与う、知らざる者は見て羊肉となし、しかして恠(あや)しまず、世間政論を業とする者これに類すること多し。
 帝国議会の選挙すでに終りを告ぐ、立憲政体は一、二月を出でずして実施せられん、世人の言うがごとく今日は実に明治時代の第二革新に属す、いかにしてこの第二革新は吾人に到着せしか、必ずそのよりて来たるところあるや疑いなし。天皇の叡聖にしてつとに智識を世界に求め盛んに経綸を行なわせたまうによるというといえども、維新以来朝野の間に生じたる政論の運動はあずかりて力なしというべからず。日本の文化はつねに上よりこれを誘導す、政論の運動、すなわち政治思想の発達は明治政府実にこれを誘起したり、しかれども維新以後の人民たる吾人は内外交通開発の恵みを受けて自ら近世の政道を発見し得たること少なしとせず、しかして今やよく立憲政体と相支吾(しご)することを免る、これ吾人のいささか世界に対して栄とするに足るものなり。
 吾人はすでに若干の思想を有す、しかれども今日まではただこれを言論に発するを得るのみ、これを実行し得ることは今日以後にあり、今日以後はこれを実行し得るの途を有す、しかれどもはたしてこれを仕遂ぐるや否やは逆(あらかじ)め覩(み)るべからず、かつただこれを言論の上に発せんか、利弊いまだ知るべからず、しかれどもこれを実行の途に置くときはいかなる効果を生ずべきか、一念ここに至らば吾人は生平抱(いだ)くところの思想に再考を費やすべきものあらん。上智の人はしばらく措き、中人以下に至りては必ず先入を主となすの思想を有す、しかれどももし自他の思想を比較し今昔の変遷を考量するときは、あるいはもってようやく己れの誤謬を知るを得べく、あるいはもっていよいよ己れの真正を確かむるを得べし、しからば吾輩のここに『近時政論考』を草する豈に無用の業ならんや。
 世に政党と称するものあり、今回当選の幸を得て帝国議会の議員となる人々は往々この党籍に在り、かかる人々はみな政事上に定見ありてもって党籍に入るものならん、しかしてその定見が必ず党議と相合するものなるべし、帝国議会の一員となれる人は豈に羊頭を見て狗肉を買うものあらんや。しかりといえども水の微冷なるものを見て湯と誤り湯の微熱なるものを見て水と謬ることはすなわちあるいはこれなしと言うべからず。いわんや、世に頑愚固陋の徒あり、衆民多数の康福を主張するを指して叛逆不臣の説となす、世に狡獪姦佞(かんねい)の輩あり、国家権威の鞏固(きょうこ)を唱道するを誣(し)いて専権圧制の論となす、大識見を備うる者にあらざるよりは、それよく惑わすところとならざらんや。吾輩はあえて議員諸氏に向かいてこの編を草するにあらず、世の良民にして選挙権を有し読書講究の暇なき者のためいささか参考の資に供せんと欲するのみ。その選出議員が実地の問題に遭いて生平の持説に背くことなきか、選挙人たる者、沿革変遷の上より今日世に存する政論の種類を考え、もって選出議員の言動と比較せよ。
 吾輩は昨年のはじめ旧『東京電報』紙上において「日本近世の憲法」を草し、もっていささか維新以来政府の立法的変遷を略叙せり、今や議会まさに開け民間人士の実地に運動せんとするに際し、この編を草してもって民間の政論的変遷を略叙す、また時機に応じて前説の不足を補わんと欲するの意なり。
 天下もとより同名にして異質なるものあり、その原因を殊にしてしかしてその結果を同じくするものまた少なしと言うべからず。昔討幕攘夷の論盛んに起こるや、全国の志士群起してこれに応ず、これに反対して皇武合体を唱え開港貿易を説く者、少数といえどもなお諸方に割拠してもって一の論派たることを得たり。当時この二論派は実に日本の政界を支配したるものにして、百世の下、史乗にその跡を留む。しかれども今日より仔細にその事実を観察するときは、甲種の論派に入るもの豈に必ずしも勤王愛国の士のみならんや、あるいはふたたび元亀天正の機会を造り、大は覇業を企て小は封侯を思うものなきにあらず。乙論派を代表する者といえどもまた然り、世界の大勢に通じ、日本の前途を考え、もって世論の激流に逆らうものは傑人たるを疑うべからず、しかれども、皇武合体を唱うる者あるいは改革に反対する守旧の思想に出でたるあらん、開港貿易を説く者あるいは戦争を厭忌する偸安(とうあん)の思想に出でたるあらん。吾輩はこの点において古今政界の常態を知る、その心情を察せずしていたずらにその言論を取り、もって政界の論派を別つはすこぶる迂に似たり、しかりといえども当時に若干の同意者を得て、世道人心に感化を及ぼしたる説は、その原因のいかんを問わず、吾輩はこれを一の論派として算列せざるを得ず、けだしまた人をもって言を廃せざるの志なり。
 政治思想を言論に現わしてもって人心を感化するものは政論派の事なり、政治思想を行為に現わしてもって世道を経綸するは政党派の事なり。日本は今日まで政論派ありといえどもいまだ真の政党派はあらず、その名づけて政党と称するはみな仮称なり。吾輩はこの標準によりて本編を起草せり、ゆえに当時に在りて自ら政論家をもって居らざる人といえども、その説の多少政論に影響を及ぼしたる者は、あえて収めてもって一政論派の代表者となす。家塾を開きて業を授くる者あるいは必ずしも政論を教ゆるにあらず。しかれどもその門人にして政論に従事するあれば、これを採りて一の政論派となす、著書を出版して世に公売する者あるいは必ずしも政論を弘むるにあらず、しかれどもこの著書にして政治思想に感化を及ぼしたるあれば、これを採りて一の政論派となす、講談会を開き新聞紙を発する者必ずしも政論をもっぱらとするにあらず、しかれども世の政論に影響を及ぼしたるの跡あるものはこれを採りて一の政論派となす。しかしてかの自ら政党と称し政社と号するもののごときはもとより一の政論派たらざるべからず、思うにその目的は政論を弘めて人心を感化するよりも、むしろ一個の勢力を構造して諸種の欲望を達するにあるべし、しかれども吾輩はその裏面を見ることをあえてせず、ただ生平その機関たる新聞雑誌に言うところの政議を採りてこれを一の論派と見做(みな)し去らんと欲するのみ。
 西人の説を聞き、西人の書を読み、ここより一の片句を竊(ぬす)み、かしこより一の断編を剽(けず)り、もってその政論を組成せんと試む、ここにおいて首尾の貫通を失い左右の支吾をきたし、とうてい一の論派たる価値あらず、かくのごときもの往々その例を見る。しかりといえどもこれ近時の政界に免るべからず、吾輩はほぼその事情を知れり、維新以来わずかに二十有三年、文化の進行は大長歩をもってしたりというといえども、深奥の学理は豈に容易に人心に入るべけんや、かつ当初十年はまさに破壊の時代にあり、旧学理すでに廃して新学理いまだ興らず、この間において文学社会も世潮渦流の中に彷徨す。幕府の時代にありて早くすでに蘭学を修め、一転して英に入り仏に入る者は、実に新思想の播布にあずかりたるや多し、しかれども充分に政理を講明して吾人のために燈光を立てたる者は寥々たり、けだし中興以来の政府は碩学鴻儒(せきがくこうじゅ)を羅し去りてこれを官海に収め、かれらの新政理を民間に弘むることを忌む。これまた一の原因たらずんばあらず。しからば政論派の不完全なるものあるまた怪しむに足らず、不完全の論派といえども人心を感化するものは吾輩これを一の論派として算(かぞ)えざるを得ず、時としては主権在民論者も勤王説を加味し、時としてはキリスト崇拝論者も国権説を主張す、しかして世人これを怪しまず往々その勢力を感受す、これわが国において一の論派たるに足るものなり。

    第一期の政論

     第一 国権論および富国論

 大革新大破壊の前後には国中の士論ただ積極と消極の二派に分裂するに過ぎず。いわく攘夷論、いわく開港論、二つのものは外政上における常時の論派なり。いわく王政復古、いわく皇武合体、二つのものは内政上における常時の論派なり。封建時代の当時にありて、国内諸方関険相隔(へだ)ち、交通の便否もとより今日と日を同じくして語るべからず、したがって天下の人心はおのおのその地方に固着し、国内いまだ統一するに至らず、しかして士論の帰するところただ両派に過ぎざるは何ぞや。思想単純の時代というといえども、一は安危の繋がるところ小異を顧みるに遑(いとま)あらざるがゆえにあらずや。すでにして攘夷論は理論上においてのみならず実行上においてもまた大いに排斥せられ、世はついに開港貿易説の支配するところとなれり。かくのごとく積極論派は外政上において失敗したりといえども、内政上には大捷(たいしょう)を博し、王政再興論はついに全国の輿論(よろん)となるに至れり。別言すれば外政上に大捷を得たる消極論派も内政についてはまた大敗を取りたりというべし。維新の際に至り、わが国の政論は政体とともに一変し、ほとんどまた旧時の面目にあらず、あたかも維新前の二大論派がおのおのその一半を譲りて相調和したるの姿あり。この調和の後、暫時にして隠然また二政論を現出す。これを維新後政論派の第一期となすべし。
 外人は讐敵なり、よろしく親交すべからず。この思想は当時すでに社会の表面より駆逐せられたり。皇室は虚位なるべし、これに実権を付すべからず、この思想もまたすでに輿論の排除するところとなれり。ここにおいて開港論派と王権論派とは互いに手を握りて笑談す。これ旧時とまったく面目を異にせる大変改なりき。これよりその後、有識者の思想は開港貿易もって広く万国と交際し、王政復興もってことごとく海内を統一すというに帰す。政事上の思想この大体に一致したりといえども、将来の希望に至りてまた二派に分裂するは自然の状勢とや言うべき。当時日本人民は新たに鎖国時代より出でて眼前に世界万国といえるものを見、そのはなはだ富強なるに驚きてほとんどその措くところを失いたり。識者間の考量もまたもっぱら国交上にありて、いかにして彼らと富強を均(ひと)しくすべきかの問題は、士君子をして解釈に苦しましめたるや疑いあらず。やや欧米の事情に通ずる人々はおのおのその知るところを取り、あるいは近時露土戦争の例を引き公法上彼のその国権を重んずるゆえんを説き、あるいは鉄道、電信等の事を挙げ経済上彼のその国富を増す理由を説き、もって当務者および有志者に報告したり。
 ここにおいて一方には国権論派ともいうべきもの起こり、中央集権の必要を説き、陸海兵制の改正を説き、行政諸部の整理を説き、主として法制上の進歩を唱道せり。他の一方には国富論派ともいうべきものありて、正反対とまでにはあらざれども、士族の世禄を排斥し、工農の権利を主張し、君臣の関係を駁(ばく)し四民の平等を唱え、主として経済上の進歩を急務としたるがごとし。当時この二論派を代表したるははたして何人(なんぴと)なりしか。吾輩は今日より回想するに福沢諭吉氏は一方の巨擘(きょはく)にして国富論派を代表したるや疑うべからず。同氏はもと政治論者にあらず、おもに社交上に向かって改革を主張したり。しかれども社交的改革の必要よりして自然政治上に論及するは免るべからず。有名なるその著書『西洋事情』のごときは間接に新政論を惹起したるや明らかなり。吾輩はこの学者の政論を吟味するに際し、まずその社交上の論旨をここに想起し、氏が当時わが国において新論派中もっとも急激なる論者たることを示さん。
 反動的論派はたいていその正を得ること難し、福沢氏の説実に旧時の思想に反動して起こりたるもの多きに似たり、ゆえに公私の際を論ずれば私利はすなわち公益の本なりと言い、もって利己主義を唱道す。上下官民の際については双方の約束に過ぎず君のために死を致すがごときを排斥し、もって自由主義を唱道す。ことに男尊女卑の弊害を論じて故森有礼氏とともに男女同権論を唱えたるは当時の社会をしてすこぶる驚愕せしめたり、これらの点については福沢氏一派の論者実にもっとも急激なる革新論者たり。しかれども政治上においてはかの国権論派に比すればかえって保守主義に傾きたるもまた奇ならずや。この論派の政治主義は英国の進歩党と米国の共和党と調合をしたるもののごとし。彼社交上において階級儀式の類を排斥すれども、旧時の遺物たる封建制にははなはだしき反対をなさざりき、むしろ中央集権の説に隠然反対して早くも地方自治の利を信認せり。世人に向かいて利己主義を教えたるもなお当時の諸藩主に国家の公益を忠告し、世人に向かいて自由主義を教えたるもなお貴族の特権を是認したり。この論派はもっぱら国富の増加を主眼としたるがゆえに、いやしくも経済上に妨害あらずと信ずるときは、あえて権義道理の消長を問わざりき、この点においては浅近なる実利的論派にして毫(ごう)も抽象的原則または高尚の理想を有するあらず、要するにこの論派は社交上の急進家にして政治上の保守家というべきのみ。
「空理を後にして実用を先にす」とは国富論派の神髄なり。この論派は英国・米国の学風より生出したりといえども、あえて学者の理論を標準として政治の事を説くものにあらず、彼実に日本の現状に応じて説を立て、政法上道理に合うと否とを問わず、事情の許す限りはこれを利用して実益を生ぜしむることをその標準となしたるがごとし。ゆえに自由主義を取るとはいえ、必ずしも政府の干渉を攻撃せず、必ずしも藩閥の専制を排斥せず、道理よりはむしろ利益を重んずることこの論派の特色なりき。かの「実力は道理を造る」と言うビスマルク主義はむしろこの論派の是認するところに係る。近くこれを評すれば政論社会の通人ともいうべき論派なり。当時世の才子達人をもって居るものはみな競いてこの宗派の信徒となりしがごとし。
 国権論派とも称すべき他の一派は欧州大陸の学風を承(う)けて発生したり。この論派はあえて国富の必要を知らざるにあらざれども、その淵源はおもに近世の法理学にあるがゆえに、自ら権義の理を重んずるの傾きあり。吾輩は加藤弘之氏、箕作麟祥(みつくりりんしょう)氏、津田真道氏をもって国権論法の巨擘となすに躊躇せず。この論派はその細目において一致を欠きたるや疑いなしといえども、近世の政治思想、すなわち国家といえるものの理想を抱き、主権単一の原則を奉じ、もって封建制の弊を認めたる点には異同なけん。彼らはもとより自由平等の思想には乏しからず、しかれども国民として外邦に対交せんにはまず国権の組織を整理するの必要を説き、つぎに人民と政府との権義を講じて法政の改良を促したり。加藤氏の『国体新論』箕作氏の『万国政体論』のごとき、津田氏『拷問論』のごとき、当時の日本人をして法政上の新思想を起こさしめたるや少なからず、かの『国法汎論』『仏蘭西法律書』の類は『西洋事情』のごとく俗間に行なわれざるも識者の間には一時大いに繙読(はんどく)せられたり。
 この派の論者は説すこぶる高尚に傾き、かつ当時いずれも政府の顧問となり、著述講談に従事すること少なきがゆえに、その論派の強勢なる割合には民間の人心を感化したることかえって少なし、しかれども政府の当局者をして賛成せしめ、政治上および立法上に影響を及ぼしたることは国富論派の比にあらず。この論派は社交上において説を立てたることはなはだ少なしといえども、加藤氏はかの男女同権論に向かいては明らかに反対を表したり。政事上におけるこの論派の大意を見るにもとより改革論派たるに相違なきも、またあえて急激の改革説にはあらず、この論派は一方の論派のごとき反動的に出でずしてもっぱらその信ずるところを主張するものなりき、ゆえにその論旨はつねに温和着実の点に止まれるもののごとし。今、加藤氏が福沢氏に答えたる論文に付きその一部を左に挙げん。
 先生の論はリベラールなり、リベラールはけっして不可なるにはあらず、欧州各国近世道の上進を裨補(ひほ)するもっともリベラールの功に在り、されどもリベラールの論はなはだしきに過ぐる時は国権はついに衰弱せざるを得ざるに至るべく、国権ついに衰弱すれば国家またけっして立つべからず、フランツといえる人の国家理論に「リベラール党とコムニスト党との論はまったく相表裏すれどもともに謬(あやま)れり、そのゆえはリベラール党は務めて国権を減縮し務めて民権を拡張せんと欲す、ゆえに教育の事、電信の事、郵便の事、その他すべて公衆に係れる事をも悉皆(しっかい)人民に委托してけっして政府をしてこれらの事に関せしめざるを良善となす、しかるにコムニスト党は務めて国権を拡張し務めて民権を減縮して農工商の諸業をも悉皆国家の自ら掌(つかさど)るを良好となす、けだし二党おのおの国権と民権の相分かるるゆえんを知らざればなり云々」と言えり、内養〔政府の仕事〕を軽しとして外刺〔民間の仕事〕を重しとなすのはなはだしきに至るときはついにこのリベラール党の論に帰する恐れなきあたわず。
 国権論派の穏和進歩主義たることは以上の一説をもって概見するに足る。しかれどもこの論派は現在の事弊につきて無感覚なるにあらず、国富論派が日本人民の旧思想ただ虚礼虚儀に拘泥し卑屈服従偏倚して、個人的生存の気象なきを憂とし、もっぱらこの旧弊を破除せんと欲したるがごとく、国権論派は政権の分裂して人心散乱の弊を見、法制の粗濫にして官吏放恣の害を察し、泰西流の政理をもってこれを匡済(きょうさい)することを目的としたるがごとし。およそ政論派の起こるは偶然に起こるものにあらず、必ず時弊に応じて起こるを常とす、当時なお封建の余勢を承け三百年太平の後に当たり、人心散乱公同の思想なく、民風卑屈自立の気象なし、全国はただ依頼心と畏縮心とをもって充満せられたり。国富派はおもにこの依頼心を排斥せんと欲し、猶予なく利己主義を奨励す、国権派はおもにこの畏縮心を打破せんと欲し、あえて愛国心の必要を説きたり、愛国心公共心を説きたるは当時人心のいまだ一致せざるを匡済するに出でたるならんか、かつこの論派は主として政治法制の改良を唱え、いまだ立憲政を主張するに至らざるも、秘密政治・放恣政治の害を論じたるは明白なりき。今この二政論派を汎評するときは政法上において国権派は急進家にして国富派はむしろ漸進家たるに似たり、両派ともに進歩主義なりといえどもいまだ立憲政体の主張者たるには至らざりき。

     第二 民選議院論

 戊辰(ぼしん)の大改革はある点においては新思想と旧思想の調和に起これり。ある点においては主戦論と主和論との譲歩に成れり。されば維新以後の功臣政府にこの二分子の存在すること自然の結果なりというべし。学者間において政論の二派に分かるる以上は、その反照として政事家間にもまた隠然両派の党を生ずるに至らん、何となれば当時の政事家はとくに知識の供給を学者輩に仰ぎたればなり。明治七年に至りて一派の急進論者は突然政事家の社会より出で来たれり。これより先、時の廟議はすでに国権派と内治派との二大分裂を孕(はら)み、しばしば政事家間に衝突を起こしたりという。明治四年廃藩置県の業成りて後、内治派の巨擘たる岩倉公は欧米回覧の企てをなし、木戸、大久保、伊藤の諸官を率いて本国を去れり、ここにおいて廟堂は西郷大将をはじめ副島、江藤、後藤、板垣の諸参議を残し、ほとんど国権派の世となれり。勝、大木、大隈の諸政事家はこの間もっぱらその主任の政に鞅掌(おうしょう)し、廟堂の大議は多くかの人々をもって決定せしにあらざるか。ついに征韓論は諸公の間に勢力を占め、六年の中頃に至りてますますその歩を進めたるもののごとし、同九月に至りて岩倉大使の一行は欧米より帰り、みなこの議を聞きて固くその不可を論じ、終(つい)にいわゆる内閣分離を見るに至る、この分離は翌年に及んでかの有名なる民選議院論に変じ、立憲政体催促の嚆矢(こうし)となれり。
 一種特別の事情より突出したるこの急進論派はかの二政論派といかなる関係あるか、吾輩は、前に述べ置きたるごとく、今その裏面を穿鑿(せんさく)することをあえてせず、表面上よりこれを見れば当時の学者間に現われたる国権論派と相照応するに似たり。当時にあり法制上の改革を主張したるものは実にこの論派なり。政体上の新説を立てたる者はこの論派なり。とくに政府部内にありて時の政事家に新思想を注入したるものはみなこの論派なり。されば民選議院論はかの国権論派より産出したりというも豈に不可ならんや。それ真理を説きて人に示すは学者の事なり。その説を聞きてこれを行なうはすなわち政事家なり。学者なるものは必ずしもその説の実行を促さず、ただ政事家は機に応じてこれが行否を決するのみ。吾輩は当時の民選議院論をもって学者の論派となすにあらず、しかれども権力を失いたる政事家がその持説として唱道し、大いに世道人心を動かすに至りてはすなわち一の論派と見做すにおいて妨げあらじ。この急進論派は他年の民権説に端啓を与えたるや疑うべからず。しかして当時にありては第一にその師友たりし国権論派の反対を受けただ一時の空論と見做されて止みぬ。これ豈に気運のいまだ熟せざるがゆえにあらずや。しかれども爾後一年を経ずして士論はこの急進論を奉じ、いわゆる民権論は政府に反対して勃興するに至る。
 民選議院論派は第一期の政論派の後殿(こうでん)として興り、第二期の政論派たる過激論派の先駆をなせり、吾輩はこの両期の続目においてかの政論史上記臆すべき一の出来事を略叙せざるべからず。当時新たに帰朝したる岩倉大使の一行は一の政策を抱き来たりしや疑いなきがごとし。思うにかの国権論派は民権論を主張するには至らざるもすこぶる自由主義を是認し、専制政治に向かって遠慮なく非難を加えたるに似たり、国富論派といえどもこの点においてはほとんど同一の論旨ありき。加藤氏が「軽国政府」と言える題にて述べたる短文にも「人民をしてあえて国事を聴く能わざらしめもって恣(ほしいまま)に人民を制圧せんと欲するところの政府は余これを目して国家を軽んずるの政府と言う云々」と明言したり。神田孝平氏の財政論にも「人民は給料と費用を出して政府を雇い政をなさしむるものなり」などの語ありてすこぶる自由的論旨を猶予なく発揮したり。しかして政府は毫もこれらの論述に嫌忌を挾まず、当時は実に言論自由の世にてありき。
 国権派の政治家、すなわち後の民選議院建白者は政策において粗豪の嫌いなきにあらざれども、その気質は□儻(てきとう)正大を旨とし、学者の講談、志士の横議には毫も危懼を抱かず、むしろ喜んで聴くの風ありき。とくに旧幕吏の圧制に懲(こ)りまた欧米各国が言論の自由を貴ぶことを聞き深くこの点について自ら戒めたるがごとし。征韓の議は端なくこの政事家らをしてその位を去らしめ、廟堂に残りたる他の一派はここに至りてはじめて民間に強大の反対党を有したり。しかれどもこの分離がむしろ岩倉右府一派の希望に合したることは爾後の政策を見て推知するに足る。彼らは欧米回覧において各国の政府みな同主義の政事家をもって組織することを実見し、および政府の威力を保つために幾分か言論の自由を抑制することを発見したるや疑いなし。この分離以後は政府に奉仕する学者また旧時のごとく政論を公にすることなく、これら学者の機関たる『明六雑誌』の類も暫時にして廃刊し、言論の自由はこれよりようやく退縮の期に臨めり。

    第二期の政論

     第一 民権論派

 道理を証明して人心を教化するところの学者はすでに政論壇上を退きたり。政論の事ついに慷慨志士の社会に移りたるはこれを第二期政論派の特色なりと言うべきなり。当時世に有志の徒なるものありて、実に維新前慷慨志士〔すなわち当時の当路者〕の気風を続(つ)ぐ。この徒あるいは洋学の初歩に通じたるあり、あるいは単に和漢の教育を受けたるあり、もとより一家の学者たるものなしといえども、またことごとく無謀の人のみにはあらず。彼らは慷慨憂国の士をもって自ら任じ国事について相当の意見を抱きたるはもちろん、往々その意見を政府に建白して志士たるの責を尽くさんと試みたる一にして足らず、しかれども言論出版をもって意見を公にするを得たるは実に当時印刷事業進歩の賜(たまもの)なり。彼らはしばしば国是確定、紀綱緊張の説を主張し、または朝鮮征討、国権拡充を唱道したり。しかれども権義上の新説をもって政府に反対するは実に当時民選議院論建白の出でたるに始まる。
 吾輩はこの期の政論派を汎称して民権論派と言う、何となればその論旨の異同如何にかかわらず、みな民権自由の説をもって時の政府を攻撃するものなればなり。しかれどもこの論派にありて当時すでに二種の分子を孕み、いまだ相軋轢(あつれき)するに至らざるも、隠然その傾向を異にしたるは争うべからざるがごとし。民権論派はもと民選議院論に促されて起こりたるの姿あれども、これただその民権説に促されたるのみ、いわゆる寡人政府の専横というに同意したるのみ、民選議院設立を急務とするの点に至りてはこの論派あえて熱心にこれを唱道せざるがごとし。当時の論旨を察するに、この論派は民権拡張を主張すというよりは、むしろ現政府を攻撃すというにあり。この過激なる論派を代表せし人々は今日これを詳悉(しょうしつ)することはなはだ難し。ただ吾輩の記臆するところを挙ぐれば、一方には小松原英太郎、関新吾、加藤九郎などの諸氏あり。他方には末広重恭、杉田定一、栗原亮一らの諸氏ありて政論のために禍を速(まね)きたること一、二回に止まらず。これより先政府は民間政論の漸く喧(かまびす)しきを見、明治八年半ばごろ厳重なる法律を制定し、もって志士の横議を抑制したり。しかれどもこの法律は反(かえ)りてますます政論派を激昂せしめ、天下の人をしていよいよ政府の圧制を感知せしめたるの状なきにあらず。これよりその後、民権論なるものは青年志士の唱えて栄とするところとなるに至れり。
 当時日刊新聞紙の業ようやく進歩し、いわゆる新聞記者なるものはかの激論的雑誌記者とともに政論を唱道したり。『横浜毎日新聞』、『東京日日新聞』、『郵便報知新聞』、『朝野新聞』、『読売新聞』の類はもっともいちじるしきものなりき。しかれども新聞紙はいまだ政論の機関となるに至らずして、おもに事実の報道に止まり、したがってその政論もまたやや穏和婉曲にてありき。民権論派の主義の大体を考うるに今日の民権説と少しくその趣を異にし、その立言はすべて駁撃(ばくげき)的よりはむしろ弾劾的に近く、道理を講述すというよりはむしろ事実を指摘するにあり。しかれどもその天下の人心を動かしたるにおいては吾輩しばらくこれを一の論派として算えん。彼らの言論に以為(おもえ)らく、「政府なるものは人民を保護するにあり、もし保護せずして反りてこれを虐遇するはこれを圧制政府という。圧制政府はいつにおいてもどこにおいても人民の顛覆するところとならざるべからず。欧米各国において共和政治の起こりたるはみな圧制政府を嫌うがためなり、すなわち圧制政府の倒るるは自然の数というべし」、しかして彼らはまた大呼して「民権は血をもってこれを買うべし」といえり。
 これに因りてこれを見れば、彼らは政治の理論を説くにあらずして政変の事実を説くものなりき。事実の上よりしてその説を立てもって時の政治を排斥したるに過ぎず、すなわち彼らはほとんど理論上の根拠を付せざるに似たり。千五百年代英国において民権説の勃興するや、時の学者らはおもに宗教の上よりその論拠を取り来たり、暴虐の君主は神の意に背く、ゆえに神に代わりてこれを顛覆せざるべからずといえり。学理のいまだ進歩せざる当時にありても、ややその根拠を確かめたるもののごとし。当時わが国の民権論派はほとんど共和政治を主張するまでに至りたれども、ただ事実の上に起点を置き、いまだ一定の原則を明らかにしたることあらず、日本の近世史上にはその跡を止むるの価値あるも、政治の理論としてははなはだ微弱なるものと言わざるべからず。しかるにこれに続きてやや充備したる民権論派の萌芽は生じたり。この論派は最新洋学者の代表するところにして慶応義塾等において英米の政治書を読みたる者は多くこの論派に帰す。ここにおいて民権論派は隠然三種に分かるるの姿を現わせり、しかして当時有名の新聞記者福地源一郎氏は隠然政府弁護者となりて暗に民権論の反対に立ち、自ら漸新主義の政論者をもって居りたるもののごとし。
 功臣分離の時よりもって西南戦争の年に至るまで、この間の政論をば吾輩仮りに民権論派と名づけたり。この論派中にはおおよそ四種の分子ありといえども、その三種は時の政府に反対して民権を主張したるはすなわち同一轍なりしというべし。他の一種といえどもあえて明らかに政府の弁護者と称せられたるにあらず、ただ民権説を主張するにおいてやや国情を□酌(しんしゃく)したるに過ぎず、当時にありてはこの論派中各種の間においていまだいちじるしき論争を開きたることあらず。このゆえに吾輩はこれを一般に民権論派と称してその各種の異同を吟味せん、何をか民権論派の四種と言う。
 第一種と第二種とは吾輩の前段において過激論派と称したるもの、すなわち民選議院建白を聞きてただちに起こりたるところのものなり。この第一種は幽欝民権論ともいうべきものにして、多くは在野征韓論者の変形にしてその論素は実に和漢歴史の智識より生ず、ゆえにその民権を唱えたるの危激なりしにかかわらず、民権拡張の道理にははなはだしき熱心を抱かず、目的はただ政府の二、三大臣のみにて政事を執り、在野の賢良とともにせざることを不満としてこれを痛く非難するに過ぎざるがごとし。されば西南戦争の鎮定とともに彼らはその旗幟(きし)を撤して、また前日のごとく危言激論を作(な)さざるに至れり。第二種はこれに反して快活民権論ともいうべく、浅薄ながらも西洋の学説を聞き、日本将来の政体は現時のごとく君主または二、三権臣の専制に任すべからず、文明国の風に倣い人民の権利を重んじ、人民の公議輿論をもって政をなさざるべからずと信じたるもののごとし。これ実に日本における自由主義の萌芽にして政論史上記臆すべき価あり。第三種の民権論者はこの期に在りて最新の政論者なり、吾輩これを翻訳民権論と名づくべし、彼らはみな昨日まで窓下に読書せし壮年もしくは新たに西洋より帰りたる人々なり。第二種の論者よりは幾分か多くの洋籍を繙(ひもと)き、英米学者の代議政体論、議院政治論、憲法論、立法論などは彼らよりも一層精しく講究せり。吾輩はこの論派の代表者を挙ぐるあたわざれども、二、三年の後、改進党なるものを組織したる人はたいていこの派に属せしがごとし、彼らは戦争よりも貿易の重んずべきを論じ、いずれの国も欧米文明の風潮に抗すべからざるを論じ、国政は君民共治の至当なるを論じ、立法・司法・行政の三権を鼎立せしむべきを論じ、要するにもっぱら英国の政体をただちに日本に模造するの説を抱きたるがごとし。この翻訳的論派はかの過激的民権論よりも一層穏当なるがごとく見え、隠然多くの賛成者を朝野の間に博したり、何となればその全体は尊王主義と民権主義との抱合たる姿を有すればなり。当時廟堂在位の諸公はいかなる意見を政論上に抱きたるや。思うにまた民権説を蔑視し厭忌し危懼したるにはあらざるべし。しかれども過激なる民権論をもって国を禍するものと見做したるや明白なり、吾輩は当時の『東京日日新聞』主筆たる福地氏をもってこの代表者とす、これを第四種すなわち折衷民権論となす、同氏の草したる民権論にいわく、
 民権は人民のためにも全国のためにも最上無比の結構なる権理なれども、その権理の中には幾分か叛逆の精神を含みたるものなるにつき、もしその実践を誤れば名状しあたわざるところの争乱を醸すやあたかも阿片モルヒネに利用害用あるがごとし。
と。しかして当時民権を唱うる人々の内心を分析してその私党心あるを説き、またこの人々の身分を評論して無産の士族なることを説き、ついに民権論の国乱を醸すに至るべきを揚言せり。しかれどもこの第四種の論派はあえて民権の道理に反対したるにあらず。ただ日本の国状を顧慮して民権を漸次に拡充すべきところを論じ、地方官会議の設置をもって民権拡充の一端となし、しきりに漸進の可なるを主張せり。吾輩はこの論者をもって当時政府の弁護者となすに躊躇せざるなり。しかれども当時の政府自身が民権の反対者にあらずして、むしろその味方たる実なきにあらず、ただその急漸の差あるに過ぎざるのみ。これが代表たる折衷民権論派はその前より他の論派とともに民権論を唱えたることはすこぶる多く、したがって世人をして民権なるものの本性を知らしめたることはかつて他の論派に譲らざりき。これ吾輩のここに民権論派の一種として算え来たれるゆえんなりとす。
 氷にあらずしてなお冷やかなるものあり、火にあらずしてなお熱なるものあり、今火ならざるをもって熱にあらず、氷にあらざるをもって冷にあらずと言う、これ粗浅の見たるを免れず、吾輩は最初においてこの事を一言せしはこれがためなり。血をもって民権を買うべしとの論派と、民権の中に幾分か叛逆の精神ありとの論派と、その間の距離幾許(いくばく)ぞや。しかれども立憲政体を立てて民権を拡充すとの点においてはいずれも同一なり。民権を唱道するにおいては同一なれども、かの普通選挙一局議院を主張したる論派と、英国風の制限選挙二局議院を主張したる論派とははなはだ径庭あり。吾輩が当時の論派を一括して民権論派となし、むしろこの時代を称して民権論の時代となすはこれがためのみ、しかしてこの時代は西南戦争によりてとみに一変したるを見る。

    第三期の政論

     第一 国会期成同盟

 兵馬の争いは言論の争いを停止するの力あり、鹿児島私学校党の一揆は、ただに当時の政府を驚駭せしめたるのみならず、世の言論をもって政府に反対する諸人をも驚かし、一時文墨の業を中止して投筆の志を興さしめたり。吾輩はこの期節をもって近時政論史の一大段落となす。しかして第三期の政論を紀するに先だち、ここに当時以後の政論に関し一言し置くべきことあり。何ぞや他にあらず、政事に係る新思想はこの変乱によりてほとんど全国に延蔓せしことこれなり。当時に至るまで政論を唱えたるものは主として東京にあり、かつ民間にありて政論に従事せしものはおもに旧幕臣または維新以来江戸に居留せし人々に係る、地方土着の士人に至りてはなお脾肉(ひにく)の疲(や)せたるを慨嘆し、父祖伝来の戎器(じゅうき)を貯蔵して時機を俟(ま)ちたる、これ当時一般の状態にあらずや。試みに全国を大別してこれを観察せんに、新しき政事思想を抱きて国事を吟味するものは文明の中心たる東京をもって本となし、これに次ぎたるは第二の都府とも称すべき大阪を然りとす。大阪は商業の地なり、何故に政事思想はこの地に発達せしか、いわく土着の人民然るにあらず、土佐人の出張所あるをもってなり。
 さきに民選議院論を唱えたる政事家の一人板垣退助氏は時の政府に不平を抱きてその郷里土佐にあり、薩摩の西郷とともに民間の勢力をもちたるがごとし。当地その同論者たる江藤氏は佐賀の乱に殪(たお)れ、後藤氏は政界を去りて実業に当たり、副島氏は東京にありて高談雅話に閑日月を送る。ここにおいて政府の反対者たる政事家はただ九州と四国とに蟠踞(ばんきょ)していわゆる西南の天には殺気の横たわるを見るに至れり。吾輩は第二期の政論派すなわち民権論派を区別して四種となせり、その中に悒欝(ゆううつ)的論派とも言うべき慷慨民権派は実に薩摩なる西郷氏を欽慕するものに係る、しかして快活的論派とも言うべきはすなわち土佐の板垣氏に連絡ありてその根拠を大阪の立志社連に有せり。十年の乱は実に政界を一変せり。かの一派の民権論者は西郷の敗亡とともにほとんどその跡を絶ち、あるいは官途に入り、あるいは実業に従い、またあるいは零落して社会の下層に沈没し去れり。快活的の一派はこれに反してますますその勢力を博し、当時西郷の敗亡を袖手(しゅうしゅ)傍観したる板垣氏はひとり民権派の首領たる名誉を擅(ほしいまま)にして、政界の将来に大望を有するに至る、これを十年十一年の交における政論の一局状となす。
 兵馬の力をもって政権を取らんと欲するものはこの時をもってほとんど屏息(へいそく)せり。これと同時に政論はほとんど全国に延蔓するに至る。関西地方は土佐の立志社、大阪の愛国社、すなわちかの快活的論派をもって誘導せられ、関東地方は多くかの翻訳的論派に動かされたり。しかしてかの折衷的論派は関の東西を問わずおよそ老実の思想を有する者みなこれを標準とせしものに似たり。十年以後一、二年間政論の全局は以上に述べたるがごとし。この間において政論は幾分か高尚の点に向かって進み、自由民権の説はかの王権および政府権威の理とともに世人のようやく講究するところとなれり。これ実に第三期の政論の萌芽と言うべし。かつ当時の一政変は政論をしてますます改革的方針に向かわしめたるものあり、十一年の中ごろ、時の政府に強大の権力を占め内閣の機軸たるところの一政事家は賊の兇手に罹りて生命を殞(おと)したり。岩倉右府の力量をもってすといえども抑制すべからざりし二、三藩閥の関係はこれがために幾分か調和を失い、政府部内の権力はふたたび一致を欠き、ついに種々の政弊を世人に認めしむるに至る。
 西南の役に当たり兵馬倥偬(こうそう)の際に、矯激の建白書を捧げ、平和の手段をもって暗に薩州の叛軍に応じたるかの土州民権論者は、大久保参議の薨去(こうきょ)を見てふたたびその気焔を吐き、処々の有志者を促して国会開設の請願をなさしめたり、ついに国会期成同盟会なるものは成立せり。この同盟会なるものはすなわち第二期政論より第三期に遷(うつ)るの連鎖にして、なお第一期の後における民選議院建白とほとんど同一の効力ありき。次に第三期の政論に前駆をなしたるがごときものは大隈参議の退職なり。この政事家はさきに征韓論に不同意なりし人なり、多分かの民選議院建白にも不同意なりし人なり、大久保参議の時代には現政府の順良なる同意者なりき、しかして当時に至りにわかに政府に反対して民間の国会論者に同意を表したり。この政事家は国権論派にあらずして国富論派なりき、政事上に向かっては板垣氏その他の人々に比してむしろ保守主義の人なるや疑いなし。しかして十三年の当時にあり速やかに国会を開設すべきことを発論し、他の内閣員に合わずして職を退きたり。この一政変は第三期の政論にすこぶる大なる誘起力を与え、期成同盟会に入らざりしかの翻訳的論派は一変して一の強大なる政論派を成すに至れり。しかして隠然保守主義を取りたる折衷的論派はまったく政府の弁護者となりて他の二政論派に反対をなしたり、これを第三期政論の啓端となす。

     第二 新自由主義

 国会期成同盟会なるものは往時の民選議院建白を宗として起こりしもののごとし。しかれどもその六、七年間において政論状態は一変し、民権論派なるもの四種に分かれて并立したることは実に第二期の政論派なりき。この四種のうち第一種の慷慨派は十年の役とともにほとんどその形を失いたるも、残余の分子は他の三種に合して当時ふたたび国会請願の連中に入れり。期成同盟会は種々の分子をもって成立したるものなれば、あたかも昨年春の大同団結に類するものあり。すなわち各種の心事をもって同一の事業に向かうゆえに同盟会なるものは一の論派としてここに加うるの価格はあらず、吾輩はただ二期の連鎖としてこれを挙げんのみ。第三期の政論派は当時まさにその萌芽を吐きたり。しかしてここに新自由主義というべき一派はにわかにその間に発生し、従来の快活的民権派に新しき武器を供給したるがごとし。吾輩は仮りにこれを名づけて新自由論派と言わん。今のベルリン駐□(ちゅうさつ)公使なる西園寺侯は新たに仏国より帰りて、二、三の同志を糾合し、たとえ暫時なりとも『東洋自由新聞』を発行せしこと、および今の兆民居士、中江篤介氏が帷を下して徒を集め、故田中耕造氏らとともに仏国の自由主義を講述しもって『政理叢談』を刊行せしことは、これ実に自由論派の嚆矢(こうし)というべきか。
 新自由論派は第二期の政論派よりもその民権を説くにおいては一層深遠なりき。何となれば彼らは、事実の上に論拠を置くことをなさず、西洋十八世紀末の法理論を祖述し多く哲学理想を含蓄したればなり。中江氏らのおもに崇奉せしはルーソーの民約論なるがごとく、『政理叢談』はほとんどルーソー主義と革命主義とをもってその骨髄となしたるがごとし。その説の大要に以為(おもえ)らく、「自由平等は人間社会の大原則なり、世に階級あるの理なく、人爵あるの理なく、礼法慣習を守るべきの理なく、世襲権利あるの理なく、したがって世襲君主あるの理なし、俗は質朴簡易を貴ぶ、政は君主共和を尚ぶ」と。要するに新自由論派はかのルーソーとともに古代のローマ共和政を慕うこと、なお漢儒が唐虞三代の道を慕うがごとくなりき。その説は深遠にしてかつ快活なるがごとく、一時は壮年血気の士をして『政理叢談』を尊信せしむるに至れり。この論派の特色は理論を主として実施を次にし、いわゆる論派(スクール)たるの本領を具えたることこれなり。その一時世に尊信せられたるは実にこの点にあり、しかしてその広く世に採用せられざりしもまたこの点に在り。ついにこの論派はかの快活民権論派に合してこれに理論の供給をなすに至れり。

     第三 自由改進帝政の三派

 すでにして快活民権派の泰斗(たいと)、今の板垣伯は自由党なるものを組織し、次に翻訳民権派は今の大隈伯を戴きて改進党を組織せり、しかして二派ともに時の政府に向かいてその論鋒を揃えたり。ここにおいてかの折衷民権派たりし福地氏は明らかに政府の弁護者となり、他の守旧論派と連合してもって帝政党を作り、自由・改進二派と正反対の位地に立ちて論戦を開くに至れり。この三派は実にわが国政党の嚆矢なりといえども、吾輩はやはり論派としてこれを吟味せん。第三期の政論派は当時政界の現状に対し明らかに保守と進歩との二極を代表したり。その進歩派と称すべきはすなわち自由論派にして保守派と見做すべきはかの帝政論派なり、しかしてこの両極の間に立ちたるものは改進論派と名づくべき温和的進歩党なりき。吾輩はこの三派各個の論旨を吟味するの前に、まずこの諸論派がいかなる関係をもって立ちしやを一言すべし。立憲政体設立の期を定めたる大詔の下りし年すなわち明治十四年より、条約改正論の騒がしかりし明治二十年に至るまで、この六年間は実に政論史上の第三期に属す。この期の政論が前期に比して大いに進歩せしことは言を俟たずといえども、もしその裏面よりこれを考察せばまたすこぶる厭うべきものあらん、吾輩かつもっぱら表面よりこれを見ん。
 自由、改進、帝政、この三論派は互いにいかなる点をもって相分かるるや。吾輩はまた前期の沿革に連繋してこれを論定せんのみ、何となれば何事も断然滅するものなくまた突然生ずるものなければなり。自由論派と帝政論派とはその淵源を第一期の国権論派に有し、しかしてひとり改進論はかの国富論派より来たるや疑いなし、もし第二期に向かってその系統を求むれば、自由論派は急激民権派より生じ、帝政論派は折衷民権派より来たり、しかして改進論派は翻訳民権派の形たるに過ぎず。このゆえに既往の沿革に対しては自由・帝政の二派は兄弟にして改進の一派とは路人の関係なり。現時の政事に対しては改進・自由の二派ほとんど朋友にして帝政の一派とは仇敵の関係を有す。しかりといえども沿革の関係は争うべからざるものあり、自由派と帝政派とは国権論においてはなはだ相近かりき。自由派の代表者たる板垣氏の著『無上政法論』に言う、
 民権は国権と関係を相なすものにして、民権は国権ありてしかる後安く、国権鞏固ならざればすなわち民権もまた安きことあたわざるなり云々
と。しかして帝政派の宣言にいわく、「内は万世不易の国体を保守し公衆の康福権利を鞏固ならしめ、外は国権を拡張し各国に対して光栄を保たんことを冀(こいねが)い云々」と。さればその二派は国権と民権とを併せ重んじ、二者を別にしてその先後を立てざることほとんど同一なるを見るべし。しかるに改進派これに反しその宣言においては一語の国権に及ぶなく、その綱領においては、
 内治の改良を主とし国権の拡張に及ぼすこと。外国に対しては勉めて政略上の交渉を薄くし通商の関係を厚くすること、
と明言せり。自由・帝政の二派は国権民権を併せ重んじ、とくに自由派はむしろ国権を先にし無上政法を立つるためには政略上の交渉を深くするの傾きあり、しかして改進派はまったくこれに反対の意見を有せり。三派の大主義における異同は実にかくのごとし、ただ帝政派は当時政府の弁護者となりかつ旧勤王論者と相合したるため、主義上と言うよりはむしろ情実上において他の二派に敵視せらたるが[#「敵視せらたるが」はママ]ごとし、しかして現政府の反対たる自由・改進の二派が時としては互いに反目激争のことありしは思うに他に理由あるべしといえども、一は国権論の上にはなはだしき異同を有するがためにあらざるか。

     第四 自由論派

 気質慣習の成るは一朝一夕のゆえにあらざるなり、本朝古代のありさまはこれを知ること詳ならず。漢土儒道の入り来たりし以来、わが国人はその感化を受けたること多からん、支那仏教の渡りし後もまた大いに風習を変更せられたるや知るべきなり。しかりといえどもこれみな東洋の文物のみ、東洋人種のやや似寄りたる国々にありてはその風俗習慣の根柢また相似たるものあり。儒道仏教の容易に移流したるは何ぞ恠(あや)しむに足らん。おおよそ東洋諸国の風習たるや主として服従忍辱を尚ぶ、その社会の構成は上下層々互いにその上を敬しその下を制しいわゆる上制下服に基づく、ゆえに父は父たらずといえども子は子たらざるべからず、夫は夫たらずといえども婦は婦たらざるべからず、兄は兄たらずといえども弟は弟たらざるべからず、これを家庭倫理の大本となす。この原則は社交の上にも移り、長幼の間、主僕の際、みな上制下服の則をもって律せられ、ついに政事の上にも移りて君臣の関係、官民の交渉また上制下服をもって通則となす。ここにおいてか社会の団結はただ圧制と服従とをもってその成立を保つというに至る。泰西にありてはすなわち然らず、およそ父子夫婦兄弟の際はつとに平等の気風を存し、社会の構成は上制下服に基づかずして左抗右抵に基づけり。この気風は社交に移りて長幼の序なく主僕の順なし、政事上にありては君臣の関係、官民の交渉、東洋のごときにあらず。
 西洋奴隷制のごときもと彝倫(いりん)の思想より起こるにあらず。むしろ人間社会における強弱優劣の関係より来る、西洋に奴隷制の存せしはなお東洋に乞丐制(きっかいせい)の存せしごときのみ、その彝倫の道にありては上下尊卑を主とせずして、つねに左右平等を主とす。しかして社交には智愚貧富の差を免れず、政事には君臣上下の別自ら必要たらざるを得ず、ここにおいて貴族の制を生じ僧族の制を生じ、族制なるものはついに無限の権力をもって公衆に臨む、その社交原則たる左右平等は日に衰縮して上下尊卑の事弊はまた抑うべからず、世運ここに至りていわゆる自由主義なるもの起これり。これによりてこれを見れば泰西において自由主義の起これるはそのはじめ一の反動なり、時弊を匡正するがためにやむを得ずして起これるものなり。しかして自由主義のはたして人間進歩の大本たるを認めたるは実に近世のことのみ。
 それ東洋の人民は上制下服をもって社交の常則となし左抗右抵をもって変乱の階となす。これに反して西洋人は左抗右抵をもって人間の通法となし上制下服をもって衰替の源となす。西人かつて左抵右抗のもって社会平和を保つに足らざるを知り、貧富強弱の差よりもって貴賤尊卑の別自然に起こるべきを知り、ホッブスのごとき専制論者出でたり、また個々平等の事実に存するなくついに下等人類の牛馬と同じきものの実際に存するを知り、アリストートのごとき奴隷論者さえ出でたり。しかりといえども人心に浸潤する気質慣習は容易に回すべからず、専制論者の説はもと最上の権力を固くしてもって貧弱を救い富強を抑うるにありといえども、たまたまもって虐主暴人のために恰好の口実となり、専横の弊は乱離の弊に代わりて起こりますます社会の悪を長ずるに至れり、これよりその後政論はいよいよ事実の激動して発達し、あるいは宗教の理に基づき、あるいは道義の道に基づき、またあるいは法律経済の原則に基づき、かの無限王権および貴族特権を攻撃してしかして自由平等の説を唱うるもの屈指するに遑(いとま)あらず。その後もっともいちじるしく個人自由を主張して極度に達し、この自由を国家主権の上に置かんと欲してその説を得ず、ついに「社会は人民各自の相互契約に出ず」と説きたるはかのいわゆるルーソーの『民約論』これなり。
『民約論』の主義は実に個人自由主義の極度に達したるものなり、しかして仏国の人民はかつてこれが実行を試みその功をなさざりき。しかりといえどもこの人民が八十九年に宣言したる自由平等博愛の旨義と主権在民の原則とは欧州大陸を振動し、その余波として数十年の後、千余里の外ついに東洋のわが国にまで及ぶに至る。今の板垣伯および星、大井、中江の諸氏が唱道せし自由論派はすなわちこれなり。第三期において自由論派の起これるは実に第二期の過激民権派と相連繋してなお新自由主義に潤飾せられたるものなり、吾輩はこの論派のわが人民の政治思想に大功績ありしを知る、ただその説の時弊に切にして痛快なるに因り、あるいは青年子弟の速了するところとなり種々の誤謬を世間に播布せられ、その言の旧慣に反して新奇なるにより、老実なる父老あるいはこれを驚聞して国体に傷害ある邪説と目するに至る。けだし俗言は耳に入りやすく高談は世に容れられがたし、利害を棄て毀誉を排しもって真理を明らかにせんと欲するものは豈に尋常の熱心ならんや、吾輩は当時の自由論派の世に待遇せられたるを回想して深く感ずるところあり。
 およそ士君子の正理を説きて世道人心を感化せんとするや、その説の時に薄遇せらるるを憂えず、しかしてその理の世に誤解せらるるを憂う、当時は政府の方針すでに立憲政体を建つるに決し、明らかに聖詔をもってこれを人民に知らしめ、人民たるものすでにようやく民権の何物たるを略知したるの時代なり。この時に当たりて自由論派は何故に共和主義または破壊主義と目せられしや。思うにまた世の誤解多きに坐するのみ。この誤解たるや、あるいはその末流の徒、真にいまだ先覚者の説を翫味(がんみ)せずしてこれを誤解敷衍(ふえん)するあり、あるいはその反対の人あえて主唱者の意を□酌(しんしゃく)せずしてこれを誤解弁駁するあり、またあるいは小人姦夫がことさらにこれを誣(し)いて邪説なりと伝うあり。この誤解たるやまったくこの三者に出ずるものというべし。吾輩のさきに国民主義を唱うるや、人あるいはこれを評して鎖国主義なり攘夷主義なり頑固主義なりと罵れり、これなお該論派の自由主義を評して共和主義なり無君主義なり破壊主義なりと言いしがごときのみ、俗人の迷夢を警醒して正理を唱うものは古今となく東西となくみなかくのごときの困難あり、草して自由論派に至り吾輩は深くここに感ずるなきあたわず。
 君は君たらずといえども臣はもって臣たらざるべからず。君主の権威は無限なり、ゆえにその命令を奉ずる政府の権威も下民に対してはほとんど無限なり、下民のその上に対する服従もまたしたがって無限なり、この際ただ君相の道徳もってわずかに万民の権利安寧を保するに足る、もし暴君暗相ありて虐政を行なうときは万民のこれに対する手段はただ弑逆(しいぎゃく)放伐あるに過ぎず。以上は西人のわが東洋政事を評する大略なり、東洋人はもとより上制下服の風習を完美とする者にあらず、しかれども虐政の起こるは実にこの風習の弊害にしてその常態にはあらずと信じたるがごとし。ただ世運日に進み事物のようやく複雑に赴くや、明君賢相のつねに出ずるを恃(たの)むべからずして、なるべく虐政を防ぐの法を設けざるべからざるに至る、日本において立憲政体の要用は実にこれより起これり。しかれども風習気質は容易に変ずべきにあらず、当時世人の立憲政体なるものを視るや、なお天皇の仁慈に出でたる一の良制を視るがごとく、衆みなこれを賛称するにかかわらず、真にその理を解する者はいまだ多からず、政事思想の幼稚なること誠にかくのごときものあり、その自由主義の世に誤解せられたる何ぞ怪しむに足らんや。泰西において自由平等の説ははじめ教理より起こる、一転して法理のために潤飾せられついに動かすべからざるの原則となれり、当時わが国にありては法理いまだ民心に容らず、いずくんぞよく自由平等の原義を解せん、そのこれを見て君相を軽んじ国体を破るの邪説となすはもとよりそのところなり、自由論派の薄遇、一は気質風習のいまだ化せざるによる者あり。
 自由論派は猶予なく自由を唱えて政府の干渉を排斥し、猶予なく平等を唱えて衆民の思想を喚起せり。彼その説に以為(おもえ)らく、
 人は本来自由なり、人によりて治めらるるを甘んぜずして自ら治むるを勉むべし、自ら治むるの方法は代議政体に如(し)くはなし、人は本来平等なり、貧富智愚によりて権利に差違あるべからず、何人も国の政事には参与するの天権あり、これを実行するは代議政体に如くなし、
と。この説やもって旧時の思想を攪破するに足る、しかれども旧時の思想を誘掖(ゆうえき)するにはいまだ充分なりというべからず。何となればこの論派はほとんど史蹟および現実を離れて単に理想上にその根拠を有すればなり。彼ただちに自由を主張す、しかして日本人は史蹟において古来専制の政に慣れいまだ自治の事を聞見せしことなく、かつまた事実においてその能力を自信するあらず、彼ただちに平等を主張す、しかして日本人は史蹟において永く貴賤階級の風習に染みかつ事実においても賢不肖の差はなはだしきを知る。
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