尹主事
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著者名:金史良 

 町の北、丘を越えたところにじめじめした荒蕪地がある。その眞中に崩れかかった一坪小屋がしょんぼり坐っていた。潜戸の傍にかけた大きな板には墨字で尹主事と書かれている。
 尹主事は朝起きると先ず自分の版圖を檢分した。彼はこの荒蕪地一帶を自分の所領と定めている。汗をはたはた流しながら棒切れで境線を引き廻る。
 そこで一先ず小屋に歸り、地下足袋をはきよれよれのゲートルを卷き付ける。擔具(チゲ)を背負うと、再び出て來て、例の名札を十分程もじっと見つめ、それから踵をかえしてすたこらとさも急がしげに町へ出掛けた。――だが未だかつて人は彼の働いているのを見たことがない。
「今日はどうしたね」と夕方つい出會いがしら問いかけでもしたら、彼はにたにたしながら胡麻鹽の蓬頭をくさくさ掻き立てる。「なあ、全く不景氣でしてな」いつかも尹主事は私の家にあたふたとやって來て書室の前に立ち現れた。そして何かを切り出しにくそうにもぞもぞして手を揉んでいた。どうしたのかと訊いてみると彼は莞爾として微笑んでから、日本に渡ったら羽二重(ハビタン)(彼はそう發音した)の見切品を買取って貰えぬだろうかと何度も腰を曲げて叩頭した。誰某が日本内地からそれを直接取り寄せて大儲けをしているからと得意然に。
「わっしも一つ儲けて城内に家を建てて移らんことにはなあ、ひっひひひ、ひっひひひ」と思うと、そのことはもう忘れ去ったように、今度は淫らなものを見た坊主のごとくひとりえへらえへらと笑い出した。そこで突然面長と駐在所の巡査とどちらが上だろうかと質ねよるのである。つい苦笑すると主事はいよいよ愉快になって、それみろ答えられんだろうと言うみたいに私を指差しひっくり返りそうにけらけら悦びながら歸って行った。
 ――それから野ずらに陽炎が緑にけぶる頃のことである。彼は小屋の壁に寄りかかり肌をさらけ出しで虱をとっていた。暖い陽光は彼の六十年來の垢肌をくすぐったくうずうずさせる。それに大きな奴が何匹も威勢のいい所を見せて炭のような指先に白く乘り出してきたので彼は全くいい氣嫌になっていた。
 その時嗄れ聲が近くに聞えてきたのである。
「そうでやす、旦那。ここらが一等の候補地でやすよ」するとそれをうけて阿彌陀聲がぼやく。
「うむ。今の所買占めて來月からでも起工するとしようかね」
 主事は地に片手を棹さし首を長くして二人を怪訝そうに見送った。
「まあ、このことはいずれ……」
 洋服と周衣(ツルマギ)氏は煙をはきステッキを振りながら向うの方へと立ち去っていった。
 その日から彼はちっとも町へは姿を現わさなくなった。いつにもまして版圖の檢分を嚴重にし、身仕度を終えると彼の小屋が眺められる丘の上へのぼる。そして寢轉んで青空を眺めながらその日その日を暮した。(わっしの領分はあんなにじめじめして狹いのに、空はどうしでこんなに青く廣いのだろう)彼はそれ以來天國に遊ぶようになった。(空は淋しいだろうな)
 或る夕暮私はこの丘の上に立ったことがある。入日の反照を受けた荒蕪の野の遙か遠くには、小川の流れが仰向けに黄色くなって倒れている。丘の下尹主事の版圖はいつの間にか紡績工場の基地として占領され、方々に赤い旗や白い旗が立ち並んで野風にひらめいていた。そこここに歸り支度をすましたらしい五六人宛の職人が焚火を圍んで騷いでいる。
 偶々カチ鴉が二羽慌ただしく飛んで來て近くのアカシアの梢で啼いた。そしてその後を追いかけるようにして、一人の男が大きな板をふり廻しつつ熊みたいに薄暗がりの中を驅け上ってきたのである。
「學生さん!」彼は遠くから私を見てとったとみえ喘ぎ喘ぎ叫んだ。私はそれが尹主事の聲であるのを知った。彼は私の鼻先まで近付いて息をはあはあ吐いた。
「やっぱり學生さんだべ」
 私は彼の顴骨が異樣に突き出し兩眼が深く落ち窪んで、この一月の間にみるめもなく衰えているのを見た。
 主事は息を嚥んで板をさし向けながら彼の版圖を示した。名札の板を擔いで歩いていたのだ。もうあたりは薄闇の中に陷落し始め、野原で燃えていた梵火もすっかり消えかかっている。
「工場が立ちますだよ」彼は私の袖を引いた。「そらこっちきなさるだ。そらこっち、あすこに旗が踊ってますだね。でっかい羽二重(ハビタン)の工場ですぞ――ひっひひひそうでがしょう! ひっひひひ」
 私は彼を默ったまましげしげと横から見つめていた。主事は矢張り地下足袋をはきゲートルを卷き付けている。併しつっ立った彼の姿はもう燒き盡された火事場の黒い柱のようにしか思えなかった。彼は私の眼に氣が付くと獨りでてれたように淋しく笑った。
 その時工事場で働いていた職人達ががやがや騷ぎ立てながらやって來た。主事は驚いて何かを氣遣うらしく私を傍の暗いアカシアの繁みの中へ急いで連れ込んだ。そして姿を隱し息を殺したまま、彼等が通り過ぎて遠くへ消え去るのおしまいまで見屆け終ると、主事はけつけつ嗤いながら喚くのである。
「あの衆奴、いつかわっしのところへ來て家をこわしながら、尹主事旦那やと頭を下げて云わっしゃるだ。わし等主事さんを大工頭に頂きてえだが承知出來ねえべえかねとな。わっしあそれで呶鳴ってやっただよ。氣ふれ婆の小便たらしみてえにずうずうぬかせば何もかも話しと思うかえ。こんげな齡になると少しは樂してえちうもんだ。するとあの衆奴皆逃げ出しやがっただよ」
 彼は又けつけつ嗤った。だが暗闇の中に彼の目は最後の火のほとぼりを吐いてるように見えて、思わず私はぞっと身慄いした。彼は尚お聲高くけっけっと嗤い續けた。




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