『新訳源氏物語』初版の序
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著者名:上田敏 

 源氏物語の現代口語訳が、与謝野夫人の筆に成って出版されると聞いた時、予はまずこの業が、いかにもこれにふさわしい人を得たことを祝した。適当の時期に、適当の人が、この興味あってしかも容易(たやす)からぬ事業を大成したのは、文壇の一快事だと思う。それにつけても、むらむらと起るのは好奇心である。あのたおやかな古文の妙、たとえば真名盤(まなばん)の香(こう)を□(た)いたようなのが、現代のきびきびした物言(ものいい)に移されたとき、どんな珍しい匂が生じるだろう。□瑰(まいかい)の芳烈なる薫(かおり)か、ヘリオトロウプの艶に仇めいた移香(うつりが)かと想像してみると、昔読んだままのあの物語の記憶から、処々(しょしょ)の忘れ難い句が、念頭に浮ぶ。
「野分だちて、にはかにはだ寒き夕暮の程は、常よりも、おぼし出づること多くて」という桐壺の帝の愁(うれい)より始め、「つれづれと降り暮して、肅(しめ)やかなる宵の雨に」大殿油(おおとなぶら)近くの、面白い会話「臨時の祭の調楽に、夜更けて、いみじう霰(あられ)ふる夜」の風流、「入りかたの日影さやかにさしたるに、楽(がく)の声まさり、物の面白き」舞踏の庭、「秋の夜のあはれには、多くたち優る」有明月夜、「三昧堂近くて、鐘の声、松の風に響き」わたる磯山陰(いそやまかげ)の景色が思い出され、「隠れなき御匂ひぞ風に従ひて、主(ぬし)知らぬかと驚く寝覚(ねざめ)の家々ぞありける」と記された薫(かおる)大将の美(び)、「扇ならで、これにても月は招きつべかりけり」と戯れる大君の才までが、覚束(おぼつか)ないうろおぼえの上に、うっすりと現われて、一種の懐しさを感じる。殊に今もしみじみと哀(あわれ)を覚えるは、夕顔の巻、「八月十五夜、くまなき月影、隙(ひま)多かる板屋、残りなく洩り来て」のあたり、「暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賤(しづ)の男(を)の声々めざましく、あはれ、いと寒しや、ことしこそ、なりはひに頼む所少く、田舎のかよひも思ひがけねば、いと心細(ぼそ)けれ、北殿(きたどの)こそ聞き給へや」とあるには、半蔀几帳(はじとみきちょう)の屋内より出でて、忽ち築地(ついじ)、透垣(すいがい)の外を瞥見(べっけん)する心地する。華かな王朝という織物の裏が、ちらりと見えて面白い。また「鳥の声などは聞えで、御嶽精進(みたけさうじ)にやあらん、ただ翁びたる声にて、額(ぬか)づくぞ聞ゆる」は更に深く民衆の精神を窺(うかが)わしめる。「南無(なも)、当来の導師」と祈るを耳にして、「かれ聞き給へ、此世とのみは思はざりけり」と語る恋と法(ほう)との界目(さかいめ)は、実に主人公の風流に一段の沈痛なる趣を加え、「夕暮の静かなる空のけしき、いとあはれ」な薄明(うすあかり)の光線に包まれながら、「竹の中に家鳩といふ鳥の、ふつかに鳴くを聞き給ひて、かのありし院に、此鳥(このとり)の鳴きしを」思うその心、今の詩人の好んで歌う「やるせなさ」が、銀の器(うつわ)に吹きかける吐息の、曇ってかつ消えるように掠めて行く。つまりこういう作中の名句には、王朝の世の節奏(リトム)がおのずから現われていて、殊に作者の心から発しる一種の靭(しな)やかな身振(ジェスト)が、読者の胸を撫(な)でさするために、名状すべからざる快感が生じるのである。
 源氏物語の文章は、当時の宮廷語、殊に貴婦人語にすこぶる近いものだろう。故事(こじ)出典その他修辞上の装飾には随分、仏書漢籍の影響も見えるが、文脈に至っては、純然たる日本の女言葉である。たとえば冒頭の「いづれの御時(おほんとき)にか、女御(にようご)更衣(かうい)あまたさぶらひ給ひけるなかに」云々の語法は、今もなお上品な物言(ものいい)の婦人に用いられている。雨夜(あまよ)の品定(しなさだめ)に現われた女らしい論理が、いかにもそれに相応した言葉で、畦織(うねおり)のように示された所を見れば、これは殆ど言文一致の文章かと察しられる。源氏物語の文体は決して浮華虚飾のものでない。軽率に一見すると、修飾の多過ぎる文章かと誤解するが、それは当時の制度習慣、また宮廷生活の要求する言葉遣(づかい)のあることを斟酌(しんしゃく)しないからである。官位に付随する尊敬、煩瑣(はんさ)なる階級の差等(さとう)、「御(おん)」とか、「せさせ給ふ」とかいう尊称語を除いてみれば、後世の型に囚(とら)われた文章よりも、この方が、よほど、今日の口語(こうご)に近い語脈を伝えていて、抑揚頓挫(とんざ)などという規則には拘泥(こうでい)しない、自然のままの面白味が多いようだ。
 しかも時代の変遷はおのずから節奏(リトム)の変化を促し、旋律(メロデイ)は同じでも、拍子(テムポオ)が速くなる。それ故に古の文章に対(むか)う時は、同じ高低、同じ連続の調子が現われていても、何となく間が延びているため、とかく注意の集中が困難であり、多少は努力なくては、十分に古文の妙を味(あじわ)えない。
 古文の絶妙なる一部分を詞華集(アントロジイ)に収めて、研究翫味する時は、原文のほうが好かろう。しかし全体としてその豊満なる美を享楽せんとするには、一般の場合において、どうしても現代化を必要とする。与謝野夫人の新訳はここにその存在の理由を有していると思う。
 従ってこの新訳は、漫(みだり)に古語を近代化して、一般の読者に近づきやすくする通俗の書といわんよりも、むしろ現代の詩人が、古の調(ちょう)を今の節奏(リトム)に移し合せて、歌い出た新曲である。これはいわゆる童蒙のためにもなろうが、原文の妙を解し得る人々のためにも、一種の新刺戟となって、すこぶる興味あり、かつ稗益(ひえき)する所多い作品である。音楽の喩(たとえ)を設けていわば、あたかも現代の完備した大風琴を以って、古代聖楽を奏するにも比すべく、また言葉を易えていわば、昔名高かった麗人の俤(おもかげ)を、その美しい娘の顔に発見するような懐しさもある。美しい母の、さらに美しい娘 O matre pulchra filia pulchrior (Hor, Carm. i 16) とまではいわぬ。もとより古文の現代化には免れ難い多少の犠牲は忍ばねばならぬ。しかしただ古い物ばかりが尊いとする人々の言(げん)を容(い)れて、ひたすら品(ひん)をよくとのみ勉め、ついにこの物語に流れている情熱を棄てたなら、かえって原文の特色を失うにも至ろう。「吉祥天女を思ひがけんとすれば、怯気(おぢけ)づきて、くすしからんこそ佗しかりぬべけれ。」予はたおやかな原文の調(ちょう)が、いたずらに柔軟微温の文体に移されず、かえってきびきびした遒勁(しゅうけい)の口語脈に変じたことを喜ぶ。この新訳は成功である。
明治四十五年一月
上田敏



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