五月雨
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著者名:吉江喬松 

 五月雨(さみだれ)が音を立てゝ降りそゝいでゐた。
 屋根から伝つて雨樋に落ち、雨樋から庭へ下る流れの喧しい音、庭の花壇も水に浸つてしまひ、門の下から牀(ゆか)下まで一つらに流れとなつて、地皮を洗つて何処へか運んで行く。
 夜の闇の中で、雨も真黒い糸となつて落ちて来るやうに思はれる。泥がはね上り、濁水が渦巻いて流れ、空も暗く、何処を見ても果てがつかない。家の中に籠つて電灯の下で、ぢつとその音を聞いてゐても不安が襲つて来る。牀(とこ)を敷いて蒲団の中へもぐり込んでも安眠が出来ない。
 うと/\として宵から臥てゐたが、私は妙に不安な気がして眠れなかつた。大地の上を流れてゐる水が、何処か一ヶ所隙を求めて地中へ流れ込んで行つたらば、其処から地上の有りたけの水が滝のやうになつて注ぎ込んで行つたらば、人間の知らずにゐる間に、地球の中が膿んで崩れて不意に落ち込みはしないかといふやうな気がせられた。
 と思ふと、また何者かその地中から頭を上げて、地上の動乱の時機に際して、地上を覆つてゐる人間の家屋を、片端から突き倒しでもしはしないか。何ものかの巨きな手が、今私の臥てゐる家の牀下へ伸ばされて、家を揺り動かしてゐるのではあるまいか。
 夢のやうに現のやうに、私ははつと眼が醒めると、たしかに家のゆさ/\揺すぶられたのを感じた。耳を立てると、ごう/\いふ水の音が地中へ流れ込んでゐるやうに思はれた。地中の悶えと、地上の動乱とが、少しも私に安易を与へなかつた。
 さういふ不安が幾晩もつゞいた。
 五六日経つと五月雨が止んだ。重い雲が一重づゝ剥げた。雲切れの間から雨に洗はれた青空が見えて来た。日の光が地上に落ちた。地の肌からは湯気が立ち上る。ぐつたり垂れてゐた草の葉が勢好く頭を上げる。樹々の芽が伸びだした。
 戸障子を開け放つて、雨気の籠つた黴臭い家の中へ日の光を導き入れると、畳の面に、人の足痕のべと/\ついてゐるのも目にはひつた。不図気がついて見ると、畳と畳との間から何か出かゝつてゐるのが目にはひつた。何とも初の間ははつきりしなかつた。傍へよつてよく見ると竹の芽のやうだ。私はぞつとして急いで畳を上げて見た。牀板の破れ目から竹の芽が三四寸伸びて出てゐた。或ものは畳に圧せられて、芽の先を平らにひしやげられたやうにして、それでも猶ほ何処かへ出口を求めよう/\と悶えてゐるやうな様をしてゐた。或ものは丁度畳の敷合せを求めてずん/\伸び上らうとしてゐた。
 私は畳を三四枚上げて、牀板(ゆかいた)を剥がして見た。庭から流れ込んだ水が、まだ其処此処にじくじく溜つてゐる中から、ひよろひよろした竹の芽が、彼方にも此方にも一面に伸び出て、牀板に頭をつかえて、恨めしさうに曲つてゐた。水溜の中を蛇のうねつてゐるやうに、太い竹の根が地中を爬(は)つてゐた。日の光が何処からか洩れて、其処まで射し込んで、不思議な色に光つてゐた。
 私は怖ろしくなつた。竹の芽を摘み取るのさへ不気味に思つて、そのまゝ牀板を打ち付けて畳を敷いた。けれど畳の間に出てゐる芽が気になつて、其処へ臥る気にもなれなかつた。牀下の有様を思ふと、その上へ平気で臥てゐる気にもなれなかつた。
 縁さきへその芽は五六寸伸びて、幾本も頭を出した。その頭は家の中を覗き込むやうにした。玄関の土間からはむく/\地を破つて、頭を上げて来た。上げ板などは下から幾度となくこつ/\突つかれた。家全体が今にも顛覆させられさうに思はれた。
 私は冬からかけて二三ヶ月ゐたその家を早速移ることにした。其後も私は二三回その家の前を通つたが、何人も住んでゐる人がなかつた。
 私は、その家の中に、竹の芽が思ふまゝに伸びて、戸障子や襖(ふすま)のゆがんでゐる有様を思ひ浮べて、こそ/\その家の前を通り過ぎた。




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