苦力頭の表情
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著者名:里村欣三 

苦力頭の表情里村欣三 ふと、目と目がカチ合った。――はッと思う隙もなく、女は白い歯をみせて、にっこり笑った。俺はまったく面喰(めんくら)って臆病に眼を伏せたが、咄嗟(とっさ )に思い返して眼をあけた。すると女は、美しい歯並からころげ落ちる微笑を、白い指さきに軽くうけてさッと俺に投げつけた。指の金が往来を越えて、五月の陽にピカリと躍った。 俺は苦笑して地ベタに視線をさけた。――街路樹の影が、午(ひる)さがりの陽ざしにくろぐろと落ちていた。石ころを二つ三つよごれた靴で蹴とばしているうちにしみじみ、 ――いい女だなア―― と、浮気ぽい根性がうず痒(かゆ)く動いて来た。眼をあげると、女はペンキの剥(は)げたドアにもたれて、凝(じ)っと媚を含んだ眼をこちらに向けていた。緑色のリボンで、ちぢれた髪を額から鉢巻のように結んだ、目の大きい、脊のスラリとした頬の紅い女であった。俺が顔をあげたのを知ると、女は笑って手招きした。俺はかぶりを振って、澄ました顔をした。すると女は怒って、やさしい拳骨を鼻の頭に翳(かざ)して睨めつけた。 青草を枕に寝転んでいた露西亜(ロシア)人が、俺の肩を肱(ひじ)で小突いて指で円い形をこしらえて、中指を動かしてみせた。そしてへ、へえ、へえと笑った。 ――よし! ―― と、俺は快活に、小半日もへタバッていた倉庫の空地から尻を払って起きあがった。そして灰のような埃を蹴たてて往来を横切った。俺の背中に、露人が草原から何か叫んで高く笑った。 女は近づいてみると、思ったよりフケて、眉を刷(は)いた眼元に小皺がよっていた。白い指に、あくどい金指輪の色が長い流浪の淫売生活を物語っているような気がした。女は笑って俺を抱いた。ペンキの剥げた粗末な木造の家であった。 ドアを押すと、三角なヴァイオリンに似た楽器を弾いて踊っていた女達が、俺の闖入(ちんにゅう)に驚いて踊をやめた。そしてばたばたと隅ッこの固い木椅子に腰を投げて、まじまじと俺を凝視(みつ)めた。 ――朝鮮人(カウリー)か日本人(ヤポンスキー)か?―― 女達はリボンの女にこう訊ねたに違いないが、女は何も答えずに、俺をひき寄せてみんなの前でチュウと唇を吸った。 女達は口々に囃(はや)したてて笑った。俺は一足とびに寝室のベットを目蒐(めが)けて転んだ。…… 女は俺が厭がるのに無理やりに服をぬがせて………。黄色く貧弱な肌が、女のにくらべてひどく羞しい気がした。女は笑って、俺の汗臭い靴下を窓に捨てた。窓には、芽をふいた青い平原が白い雲を浮游させて、無限の圧迫を加えていた。 陽はまだ高かった。 俺は放浪の自由を感じて、女の胸に顔をうずめて、やわ肌の甘酸ぽい匂いを貪(むさぼ)った。 顔をあげると、女は何か言ってひどく笑いくずれた。俺はキョトンとして女の笑い崩れる歯ぐきに見とれた。女は二三度その言葉を繰返したが、俺が、キョトンとしているので、しまいにはジレて荒ぽく俺の顔をつかんで唇を押しつけた。 俺は何のことか解らなかった。女は暗い顔をして、俺をみつめた。 俺は女の眼をさけて、窓をみた。言葉の通じない悲哀が襲って来たのだ。―― と、涯(はて)しのない緑の平原と雲の色が、放浪の孤独とやるせなさにむせんで見えた。俺は吐息(と いき)をついて女をみた。 女はブラインドをひいて、窓の景色を鎖(と)ざした。ドアの外でまた女達が、楽器の音に賑かに踊り出した。 女は俺を抱きしめて頬に唇を寄せた。俺は黙って女の………………。だが心が滅入って性慾が起きなかった。 俺は女を突いてウォツカをコップにつがせた。酒の酔は俺から陰気な想念を追払った。酔いの眼に女の裸体が悩ましくなった。俺は女を揺(ゆす)ぶって………………。 ――女は柔かい肉体の全部を惜し気もなく俺の破レン恥な翻弄にゆだねて眼をつむった。………………に………………を………………すると女は微笑んで俺に唇を求めた。だが俺はその苦痛にゆがんだ無理な微笑に気がつくと、はッと手をひいた。酔がさめて、女の白い屍肉が、一箇の崇厳な人間の姿になった。 女は眼をひらくと、不審な眼付で俺をみつめていたが、やがてまた手を掴んで俺の獣慾を挑発しようとした。俺は人間をみずに、また忽ち淫売婦を感じた。俺は泣くに泣かれぬ気持で、後にノケ反(ぞ)って頭髪を掻きむしった。俺という醜劣きわまる野郎と、淫売婦というどこまで自己を虐げるのかケジメのたたない怪物を一緒に打ち殺したい憎悪で部屋が闇黒になった。 闇の中で女は俺をひき寄せた。俺は邪険にその手を払って、眼をつむった。―― 眼をひらくと、女はうつ伏して嗚咽(お えつ)していた。俺は何とも云えない可憐な気持に打たれた。女を抱き起して、唇を与えた。 女は涙の眼を微笑んで、………………。俺は淫売の稼業を思った。 内地である女郎屋へあがった時、俺の対手(あいて )に出た妓(おんな)は馬鹿に醜かった。俺はヤケを起してその女に床をつけなかった。と、ヤリテ婆が出て来て、 ――あんたはん、この妓(こ)に床をつけてやっておくんなはれ、でないと女郎屋の規則としてお金とる訳に行きませんよって―― と、泣かんばかりで妓を庇護したことがある。そのかたわらで、醜い顔の女が、寒むそうに肩をすぼめて泣いた。 俺はそれを思った。俺はかつてゴム靴の工場で働いたことがある。一日中、重い型を、ボイラーの中に抛り込んだりひきずり出したりして一分間の油も売らず正直に働いた。そしてその上に、馘(くび)になるまいと思ってどれだけ監督に媚びへつらったのだったか! 淫売婦と俺のシミタレ根性との間にどれだけ差違があろう。俺も喰わんがためには人一倍に働いて、しかもその上に媚を売っている。浅薄なる者よ――俺の心が叫んだ。 俺はよけようとした女の膝を、心よく受けた。俺は快楽に酔った。この快楽を放浪者に与える淫売婦もまた尊い犠牲者であると感じた。女は………………を、………………に隠した。 莨(たばこ)に火をつけた。女は俺の顔をみて、にやりと笑った。俺は女の無邪気な皮肉を眼の色に感じた。 ドアをノックする音がした。女は驚いてベットの敷布を体に巻きつけると、急いでドアの鍵をはずした。猶太(ユダヤ )の赤い顔のおかみが、女にカードを渡した。そして何か言った。女はそれを俺に示して、テーブルの上の銅貨を拾ってみせた。 俺は皺ばんだ紙幣をベットの上にひろげて、女にいいだけ取れと手真似した。 女は時計を描いて、時間表をつくって二時間を示すと、紙幣の中から二円とった。そしてその金をおかみのポケットにねじ込んだ。猿のような赧ら顔のおかみは、にこつき[#「にこつき」に傍点]もせずに、ドアを閉めて去った。女は敷布をはずして、水色の服に着更えると、乱れ髪を繕った。 俺はもう出て行かなければならないことを悟った。――だが俺には出て行くところがなかった。ここを無理に出てみたところで、不潔な見知らぬ街と、言葉の通じない薄汚ない支那人と亡命の露西亜人に出喰わすだけのことだ。言葉ができない俺には宿屋は勿論、ろくすっぽ一椀の飯にもありつけないことは解っている。俺は今朝、ここの停車場に吐き出されたばかりなのだ。的(あて)もないのに盲滅法に歩きとばして脚の疲れた儘に、とある倉庫の空地をみつけて、つい小半日もへタバッテいる間に偶然この女を見付けた訳だ。 ――無鉄砲な男よ―― ふとこんな気がした。言葉も解らない、そして何の的のある訳でもないのに、何故こういう土地に乱暴に飛び出して来たかと思った。が俺にも無論その理由が解らなかった。 ――ただ気の向くままに―― おおそうだ。気の向くままに放浪さえしていれば、俺には希望があった、光明があった。放浪をやめて、一つ土地に一つ仕事にものの半年も辛抱することが出来ないのが、俺の性分であった。人にコキ使われて、自己の魂を売ることが俺には南京虫のように厭だった。人の顔色をみ、人の気持を考えて、しかも心にもない媚を売って働かなければならないことは、俺にはどうしても辛抱のならないことだった。だが、しかし不幸なる事に人間は霞(かすみ)を喰って生きる術(すべ)がない。絶食したって三日と続かない。とどのつまりは、やはり人にコキ使って貰って生きなければならない勘定になる。他人をコキ使おうッて奴には虫の好く野郎は一匹だってない。そこでまた俺は放浪する。食うに困るとまた就職する。放浪する、就職する、放浪する、就職する………無限の連鎖だ! ――生きるためには食わなければならぬ。食うためには人に使われなければならぬ。それが労働者の運命だ。どこの国へ行こうとも、このことだけは間違いッこのないことだ。お前ももういい加減に放浪をやめて、一つ土地で一つ仕事に辛抱しろ。どこまで藻掻(もが)いても同じことだ―― と、友達の一人は忠告した、俺もそうだと思った。――だがしかし俺にはその我慢がない。悲しい不幸な病である。俺はいつかこの病気で放浪のはてに野倒(のた)れるに違いない。 ふと、気がついてみると、女は固い木椅子に腰かけていた。言葉で云っても解らないので、俺が出て行くのを静かに待っていたのであろう。俺は考えた。多くもありもしない金だ。どのみち今日一晩に費い果して明日から路頭に迷うのも、また二三日さきで路頭に迷うのも同じ結果だ。同じ運命に立つなら、寧(むし)ろ一日も早く捨身になって始末をつける方が好い――と。 そこで俺は紙片に、時計の画をかいて、手真似で一昼夜とまって行くという意味を女に通じた。その意味が解ったのか、女は高い歓声をあげて俺に抱きついた。 女は俺の財布から七円とった。後では大洋(タイヤン)で二円と少しばかりの小銭が残っているばかりであったが俺は鬱血を一時に切り開いた時のような晴々しさを覚えた。この北満の奥地で運命を試すことは如何にも痛快なことではないか――俺は窓のブラインドをはねあげた。と、緑の曠野は血のような落日を浴びていた。風の動く影もない、粛殺たる光景である。俺の魂は落日の曠野を目蒐(めが)けて飛躍した。どこかで豚の啼き声がした。 表には、ここの女たちが男を誘惑する淫(みだ)らな嬌声が聞えていた。その嬌声に混って、胡弓の音がした。俺は何故ともなしにその弾き手を盲目の支那人であろうと思った。女は茶をいれた。 熱い、甘い茶を唇で吹きながらスプーンで俺に含ますのである。ひとりで自由に呑もうとすると、女は俺の手を軽く遮えぎった。そのやさしい手つきに、俺はふと母親の慈愛を感じた。 俺は生みの母親を知らなかった。―― お牧婆は、三十過ぎても子供がなかった。人知れず彼女は子持地蔵に願をかけていた。その時分は、まだ若く今のように皺苦茶な梅干婆ではなかった。 彼女はある雪の晩に、貰い風呂から帰る途で、暗い地蔵堂の縁の下に子供の泣き声をきいて、これはテッキリ地蔵様の御利益(ごりやく)に違いないと思った。そこで提灯の明りと子供の声をたよりにのぞいてみると、すぐ足の下に蜘蛛(くも)の巣を被って、若い髪の乱れた女がねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]に子供を負(おぶ)って打伏していた。流石(さすが )におまき婆も顔色を変えて、 ――これ、お女中よ、これお女中よ―― と、我れにもなく声をはずませた。が、女はその声にふり起きもしなかった。背中の子供が人の気配に、火のように泣き出した。おまき婆は堪まりかねて、子供のくるまったねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]を擦ろうとして女の頸に触った。おまき婆はぞっと縮み上った! 女が氷のように冷たくなっていたからだ。 背中の子は俺だった。どうして俺が助かったものか? 母親が凍死したのであるとすれば、俺も一緒に死んでいなければならない筈だが………… 俺はお牧を母として育った。お牧の亭主は幸四郎という百姓だった。 俺が物心ついた頃、村の餓鬼が俺を「乞食の子」と呼んだ。俺は何よりもそれが悲しかった。泣いてその訳を母にせがんだ。母は隠しおえるものでないと知ってか、何時もとは違った正しい容子(ようす )で、 お前のおふくろは確かに地蔵堂の縁の下で死んだのじゃが、どうしてどうして乞食どころかえ、放疲れこそはあったが若けえ立派な嫁御(よめご )であったぞえ。着ているもんでも、こがいな田舎では見られない綺麗な衣裳をつけえとったがのう。どこかの旦那衆の嫁御に違えねえのだが、何処の誰れであるかどがいしても知れなんだ。さぞ親御や旦那は捜していられるであろうが、それにお前という立派な男の子もあったのじゃけに―― と涙ながらに打ち明けた。その時から母がおまき婆になった。父と思っていたのはアカの他人の百姓であった。 俺はひがんだひねくれ者になつた。俺は愛のない孤児だと悟ったからだ! おまき婆は育て甲斐がないと失望した。幸四郎は飯の喰い方が悪いとか、働かないとか云って、事ごとに殴りつけた。 俺は愛に渇した。十六で五つも年上の娘と恋に落ちた。そして村一統の指弾の的標(まと)になった。 ――血は争えないものだ。お前のおふくろもお前と同じに肩あげのとれない内から不義に落ちて、お前を負ってこの村へ流れて来て地蔵堂の縁の下に野倒死(のたれじ)にしたんじゃ! 男の尻を追って行く途中か、それとも不義のお前という餓鬼をヒッて家に居たたまらず逃げ出した果てが、この地蔵堂の野倒死にか、どっちかまあ解らんが、子が子なら親も親じゃろうって―― お牧婆は口を極めて俺を罵(ののし)った。俺は遂に十七の歳に村を捨てて遁げ出した。放浪がそれから始まった。だが俺はまだ母親のように野倒死にはしない。――世の中の人間は、誰れでも皆かならず二つの愛を所有している。父の愛と母の愛だ! 俺もついにそれなしには生きていられない寂しさを思う。 俺の母親は中国の僻村(へきそん)で地蔵堂の縁の下に死んだが、父親はまだ何処かに生きて居るべき筈だ。おまき婆が言うように不義な恋から生みつけられた俺にしろ、父は父であるべき筈だ。俺は常に父親を思う――だが父親は俺を子と知らずに、世の中の人達と同じく俺を虐げてはいまいか。そして俺が考えるように父親は俺から遠く離れたところに居るのではなく、案外に俺の間近かで交渉のある人であるかも知れない――こう考えると遂に俺は人を憎めなくなる。人を憎もうとすればその顔が父になり、また反対に愛そうとする顔は冷酷な他人の顔に早変りする。実に奇怪な錯覚である。俺がテロリストにもなれず、また人道主義者にもなれないのはこのためだ! 俺は常に、憎むべき者を憎み得ず、また愛すべきものを愛し得ない悩みに悶える。この悩みがまた常に錯覚を伴う――。 ――俺は女を抱いて、しみじみ母親の愛を感じていた。…… 言葉を知らない女は、ただ笑って、俺を行為で愛撫するより仕方がなかったのだろう。それが俺に更に、母親の慈愛を錯覚せしめた。俺は夢のように三日三夜を女の懐の中で暮らした。 三日目の朝、女は俺の財布を振って外を指した。財布の底はコトリとも音をたてなかった。俺は悲しい眼差(まなざし)で女をみた。が、女は笑おうともしなかった。俺は遂に、うまうまと欺かれた俺を知った。泣きも泣けもしない気持であった。 窓には、曠原のバラ色の朝焼が映っていた。女の寝不足な、白粉落ちのした顔は、俺にへドを催させた。年増女に不似合な緑色のリボン、水色の洋服、どうみたって淫売婦だ! 俺はこう云う女に三日三晩も抱きつかれていい気になって母親の夢をみていたことを悔いた。畜生! 俺はこう心に叫ぶと、女を尻眼にかけて淫売宿をオン出た。 眼がさめると夕暮であつた。五月というのに薄寒かった。 俺は支那街の、薄汚い豚の骨や硝子(ガラス )のカケラの転がった空地に寝込んでいたのだ。さんざ歩きとばしたことだけが思い出せた。みると俺の周囲に得体の知れない薄気味の悪い支那人が輪になって、何か声高く饒舌(しゃべ )っていた。 ――安心しろ、まだ野倒死はしないよ――俺はこう思って、笑った。支邦人の輪が遠のいた。腹の空いたことが解った。考えてみると淫売宿で三日三晩ろくすっぽ飯も喰っていなかった。――どうしよう――と、思ったが、扨(さ)てどうもすることが出来ない。言葉の解らない支那人を眺めて、つくづく悄気切(しょげき)ったものだ。腹の空いた真似をして、膝をたたいてみせたりすぼめてみせたりすると、支那人は手を叩いて笑った。 気がつくと、空地の向うに五六人の苦力(クーリー)がエンコして何か喰っていた。俺は立ちあがって、そこに行った。辮髪をトグロのように巻た不潔な野郎が、大きなマントウを頬張っているのだ。つい俺もその旨そうに喰っている様子に唾が出て、黙って黄色ぽいマントウに汚たない布片をもたげて手を出した。すると前にいた苦力が、獰猛(どうもう)な獣の吼(ほえ)るような叫び声を出して俺の手を払い退けた。 そうやられると、俺も無理に手を出しかねた。黙って佇んだ。苦力達は俺の顔を睨めつけて、何かペチャクチャと囁き合った。 やがて彼等は食器を片附けて、小屋のような房子(フワンズ)に引きあげた。俺もその後について行った。彼等と一緒に働こうと思ったのだ。俺が入ると、暗い土間のところでアバタ面の一際獰猛な苦力頭が、――何んだ! 何者だ――というように眼をむいて叫んだ。俺はびっくりして、一足二足あとへすさったが、また考え直してにやにや笑いかけて図太く土間に進んだ。俺はスコップで穴を掘る真似をして、働かして貰い度いものだという意味を通じた。が、苦力頭は俺の肩を掴かんで、外を指さした。出て行けというのだ。しかし俺は出て行くところはない。かぶりを振ってそこの隅にへタバリ付いた。 苦力頭は仕方がないとでも云うような顔で、自分の腰掛に腰を据えて薄暗いランプの灯で、ブリキの杯で酒を嘗(な)めはじめた。他の苦力達が、俺を不思議そうに寝床の中から凝視(みつ)めた。 あくる朝、鶏に棚の上から糞をヒッかけられて眼を覚ました。苦力頭が、棒切れで豚のように寝込んでいる苦力どもを突き起して廻った。あちらこちらで大きな欠伸(あくび )がして、どやどやと皆起き出た。 苦力頭の女房らしいビンツケで髪を固めているような、不格好な女がマントウやら葱(ねぎ)やら唐黍(とうきび)の粥(かゆ)のようなものを土器(かわらけ)のような容れものに盛って、五分板の上に膳立てをしていた。そして頻(しき)りに俺を睨みつけた。 苦力頭は、鼻もヒッカケない面付(つらつき)で俺を冷たく無視した。苦力達がさんざ朝飯を食い始めたが、誰も俺にマントウの一片(ひとかけ)らも突き出そうとしなかった。俺は喰えというまで手を出すまいと覚悟した。 皆がシャベルやツルをもって稼ぎに出だしたので、俺も一本担いで後に続いた。誰も何んとも言わなかった。 仕事は道路のネボリであった。俺はシャツ一枚になってスコを振った。腹が減って眠が眩みそうであったが、一日の我慢だと思ってヤケに精を出した。苦力達は俺の仕事に驚いた。まさか日本人に土方という稼業はあるまいと思ったに違いない。支那に来ている日本人は皆偉そうぶって、苦力を足で蹴飛ばしている訳だから。苦力頭が昼ごろ見廻りに来たが、その時も俺に見向きもしなかった。アバタ面を虎のようにひんむいて、苦力どもを罵っていた。 昼飯の時、苦力のひとりが俺にマントウと茶碗に一杯の塩辛い漬物を食えと云って突き出した。いくら腹が減っていても、バラバラした味気のないマントウは食えなかった。塩辛い漬物を腹一杯に食って、水ばかり呑んだ。 仕事を終った時は流石(さすが )に疲れた。転げそうな体をようやく小屋に運んだ。 苦力たちは、用意の出来ていた食物を、前の空地に運んで貪(むさぼ)りついた。一日十五六時間も働いて、日の長いのに三度の飯は腹が減るのは無理もなかった。俺は腹が減り切っていたが、マントウには手が出なかった、熱い湯を呑んで、大根の生まを噛(か)じった。そして房子に入った。土間の入口の古い机に倚(よ)って、酒を呑んでいた苦力頭が俺をみて、はじめてにっこりとアバタ面を崩して笑った。そしてブリキの盃を俺に突きつけた。俺は盃をとるかわりに腕を掴んで、 ――大将! 俺を働かしてくれるか有難い――と叫んだ。苦力頭は、俺の言葉にキョトンとしたが、感じ深い眼で俺を眺め、そして慰めるように肩を叩いて盃を揺ぶった。――やがて喰い物にも慣れる。辛抱して働けよ、なア労働者には国境はないのだ、お互に働きさえすれば支那人であろうが、日本人であろうが、ちっとも関ったことはねえさ。まあ一杯過ごして元気をつけろ兄弟! ――苦力頭のアバタにはこんな表情が浮かんでいた。俺は涙の出るような気持で、強烈な支那酒を呷(あお)った。(大正十五年六月「文芸戦線」)  
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