読書遍歴
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著者名:三木清 

      一

 今日の子供が学校へも上らない前からすでにたくさんの読み物を与えられていることを幸福と考えてよいのかどうか、私にはわかない[#「わかない」はママ]。私自身は、小学校にいる間、中学へ入ってからも初めの一、二年の間は、教科書よりほかの物はほとんど何も見ないで過ぎてきた。学校から帰ると、包を放り出して、近所の子供と遊ぶか、家の手伝いをするというのがつねであった。私の生まれた所は池一つ越すと竜野の町になるのであるが、私は村の小学校に通い、その頃の普通の農家の子供と同じように読み物は何も与えられないで暮らしてきた。父の代になってからは商売はやめてしまったが、今でも私の生家は村でも「米屋」と呼ばれているように、その時分はまだ祖父が在世していて、米の仲買をやり小売を兼ね、またいくらか田を作ってもいた。村の人々と同じに暮らして目立たないことが家の生活方針であり、私も近所の子供と変らないようにしつけられた。中学に通うことになってからも、私はつとめて村の青年と交わり、なるべく目立たないように心掛けた。私は商売よりも耕作の手伝いが好きであった。つまり私は百姓の子供として育ったのである。雑誌というものを初めて見たのは六年生の時であったと思う。中学の受験準備のための補習の時間に一緒になった村の医者の子供が博文館の『日本少年』を持ってきたので、それを見せてもらったわけである。私はそんな雑誌の存在さえも知らないといった全くの田舎の子供であった。町へ使いに行くことは多かったが、本屋は注意に入らないで過ぎてきた。今少年時代を回顧しても、私の眼に映ってくるのは、郷里の自然とさまざまの人間であって、書物というものは何ひとつない。ただあの時の『日本少年』だけが妙に深く印象に残っている。その頃広く読まれていた巌谷小波の童話のごときも、私は中学に入ってから初めて手にしたのであった。田舎の子供には作られた夢はいらない。土が彼の心のうちに夢を育ててくれる。
 かような私がそれでも文芸というものを比較的早く知ったのは、一人のやや無法な教師のおかげである。やはり小学六年のことであったと記憶する、受持の先生に竜野の町から教えに来ておられた多田という人があった。この先生はホトトギス派の俳人であったらしく、教室で私ども百姓の子供をとらえてよく俳句の講釈を始め、ついには作文の時間に生徒に俳句を作らせるほど熱心であった。ある時私の出した句が秀逸であるというので、黒板に書いて皆の者に示し、そして高浜虚子が私と同じ名の清だから、私も虚子をまねて「怯詩」と号するがよいといって、おだてられた。号というものを付けてもらったのはこれが初めでまた終りでもあるので、今も覚えている。この先生によって私は子規や蕪村や芭蕉の名を知り、その若干の句を教えられた。『ホトトギス』という雑誌は、中学の時、いわゆる写生文を学ぶつもりでしばらく見たことがある。

      二

 私がほんとに読書に興味をもつようになったのは、現在満洲国で教科書編纂の主任をしておられる寺田喜治郎先生の影響である。この先生に会ったことは私の一生の幸福であった。たしか中学三年の時であったと思う、先生は東京高師を出て初めて私どもの竜野中学に国語の教師として赴任して来られた。何でも以前文学を志して島崎藤村に師事されたことがあるという噂であった。当時すでに先生は国語教育についてずいぶん新しい意見を持っておられたようである。私どもは教科書のほかに副読本として徳富蘆花の『自然と人生』を与えられ、それを学校でも読み、家へ帰ってからも読んだ。先生は字句の解釈などはいっさい教えないで、ただ幾度も繰り返りして読むように命ぜられた。私は蘆花が好きになり、この本のいくつかの文章は暗誦することができた。そして自分でさらに『青山白雲』とか『青蘆集』とかを求めて、同じように熱心に読んだ。冬の夜、炬燵(こたつ)の中で、暗いランプの光で、母にいぶかられながら夜を徹して、『思い出の記』を読みふけったことがあるが、これが小説というものを読んだ初めである。かようにして私は蘆花から最初の大きな影響を受けることになったのである。
 私が蘆花から影響されたのは、それがその時までほとんど本らしいものを読んだことのなかった私の初めて接したものであること、そして当時一年ほどの間はほとんどただ蘆花だけを繰り返して読んでいたという事情によるところが多い。このような読書の仕方は、かつて先ず四書五経の素読から学問に入るという一般的な慣習が廃(すた)れて以後、今日では稀なことになってしまった。今日の子供の多くは容易に種々の本を見ることができる幸福をもっているのであるが、そのために自然、手当り次第のものを読んで捨ててゆくという習慣になり易い弊がある。これは不幸なことであると思う。もちろん教科書だけに止まるのはよくない。教科書というものは、どのような教科書でも、何らか功利的に出来ている。教科書だけを勉強してきた人間は、そのことだけからも、功利主義者になってしまう。
 もし読書における邂逅(かいこう)というものがあるなら、私にとって蘆花はひとつの邂逅であった。私の郷里の竜野は近年は阪神地方からの遊覧者も多い山水明媚の地であるが、その風物は武蔵野などとはまるで違っている。その土地で大きくなった私が武蔵野を愛するようになったのは、蘆花の影響である。一高時代、私はほとんど毎日曜日、寮の弁当を持って、ところ定めず武蔵野を歩き廻ったことがある。それはその頃読んでいた芭蕉などに対する青年らしい憧憬でもあったが、根本はやはり『奥の細道』でなくて『自然と人生』であった。蘆花を訪ねたことはついになかったが、彼が住んでいた粕谷のあたりをさまよったことは一再ではない。利根川べりの息栖とか小見川とかの名も蘆花を通して記憶していて、その土地を探ねて旅したこともある。彼によってまず私は自然と人生に対する眼を開かれた。もし私がヒューマニストであるなら、それは早く蘆花の影響で知らず識らずの間に私のうちに育ったものである。彼のヒューマニズムが染み込んだのは、田舎者であった私にとって自然のことであった。今も私の心を惹くのは土である。名所としての自然でなくて土としての自然である。それは風景としての自然でさえない。芭蕉でさえも私には風流に過ぎる。風流の伝統よりも農民の伝統を私は尊いものに考えるのである。もっとも、蘆花の文学は農民の文学とはいえないであろう。私は今彼を読み直してみようとは思わない。昔深く影響されたもので、その思い出を完全にしておくために、後に再び読んでみることを欲しないような本があるものである。

      三

 中学の同級生に古林巌というのがいた。後に姓を改めて藤岡といったが、私どもの学校で有名な秀才で、非常な読書家でもあった。四年生の時彼が寄宿舎を出て私の村に下宿するようになってから親しく交わるようになったが、その時以来私は彼の影響でいろいろな書物を読むようになった。考えてみると、私が哲学を志望するようになったのも、藤岡の感化に基づいている。五年生の頃、彼は永井潜博士の著書を愛読し、しきりに生命の問題を論じ、私をとらえては器械説がどうの、生気説がどうの、と語り、フェルウォルンを尊敬し、その『一般生理学』を読むためにすでにドイツ語の勉強を始めていた。その時分の中学では恐らく珍しい科学講演会というものを組織したのも彼であった。彼に刺戟されて私も永井博士の『生命論』を読み、あるいは丘浅次郎博士の『進化論講話』を繙(ひもと)きなどして、生命の問題に関心をもつようになったことが、後に私が哲学に入る機縁となったのである。藤岡は六高を経て京大の医科を卒業して生理学を研究し、特に生理学史に興味をもち、その方面の論文を発表していたが、不幸にして病に斃(たお)れてしまったのは惜しいことであった。彼も後年にはよく哲学の本を読んでいたようである。坂田徳男君は彼と同郷の後輩で、彼と同じように六高を経て京大の医科を卒業して生理学を勉強したが、今日では専門の哲学者になってしまった。
 たいていの人は先ず文芸書を通して読書家になるのではないかと思う。藤岡の場合もそうであり、いつも彼に指導されていた私の場合もそうであった。それに藤岡は初めは文学者になるつもりであったらしく、彼の提唱で文芸の回覧雑誌が出来、私も一、二小説めいたものを書いたことがある。その時の同人に現在新京の建国大学にいる宗教学の松井了穏がある。その頃私は、紅葉、露伴から、漱石、鴎外、一葉、樗牛、独歩、花袋、秋声、白鳥、荷風、潤一郎、三重吉など、実にいろいろなものを読んだが、特に感銘を受けたものを挙げるとすれば、藤村の『破戒』、『春』、『家』といったもの、『即興詩人』とか『涓滴』などの鴎外のものを挙げねばならぬであろう。その後藤村のものはあまり見ないが、鴎外のものは今もときどき見ることがある。竜野の町に伏見屋という本屋があって、私はよく学校の帰りにそこに寄って本を漁(あさ)り、父母に内証の借金が出来て苦労したこともある。時には姫路まで出かけて古本屋漁りをした。
 外国文学では、藤岡は特にワイルドが好きで『リーディング監獄の歌』を回覧雑誌に訳したりしていたが、私もワイルドのものを東京の丸善から取り寄せて辞書を頼りに読んだことがある。私には『デ・プロフンディス』が強く印象に残っている。他には、これも藤岡の感化で、ツルゲーネフのものを比較的多く読んだ。その時分私の中学で外国文学の新知識は、旧姓を永富といい、現在外交評論家として知られている鹿島守之助君であった。鹿島君は私どもよりは一年先輩であるが、令兄が大学で文科をやられていたのによるであろうか、私どもを全く驚かしたほど外国の作家のことを知っていた。昼の休みの時間に、学校の運動場の隅で、藤岡や私は鹿島君から、ハウプトマンがどうの、マーテルリンクがどうの、ボードレールがどうの、などとよく聞かされたものである。つまり西洋現代文学史の講義を一通り聞いたわけである。鹿島君には久しく会わないが、会って当時を語れば、お互いに吹き出すようなことが多いであろう。
 正確には覚えていないが、ブリックスといったのではないかと思う、私の在学時代に竜野中学にも初めて外人教師が来た。今関西学院の教授で経営学を担当している池内信行は私の同級生で、彼は英語の会話を最も得意とし、この先生とよく一緒であったようである。このアメリカ人の先生が就任の挨拶の時に、自分は太平洋を渡って来たが、この水が日本の岸を洗っていることを思い、世界は一つのものであることを深く感じたといった言葉が今も妙に私の耳に残っている。この先生は町でバイブル・クラスを開いていたが、英語の勉強のつもりでそれに出席したのが私の聖書を読んだ初めである。その後私は聖書は好んで日本訳で読んでいる。この翻訳は恐らく二葉亭や鴎外の翻訳以上に、日本文学史上における偉大な業績である。
 詩や歌の方面では、その頃の青年の多くがそうであったように、私も土井晩翠の『天地有情』を、その中のいくつかを暗誦し得るまでに読んだ。『藤村詩集』もよく読んだが、私の好きであったのは何よりも北原白秋の『邪宗門』や『思い出』であった。今も白秋の詩は私の好きなものの一つである。三木露風は姓が同じであるので、親戚ではないかとよくきかれることがある。そうではないが、露風も竜野の人なので、その名は中学時代から親しんでいた。いったい三木という姓は私の地方には多く、播州三木城の別所氏が豊臣秀吉に滅ぼされた時、家臣たちが亡命して身を晦(くら)ますために元の姓を秘してその土地の名をとり三木と称したのに始まると伝えられている。中学の頃には『廃園』、『寂しき曙』の中の露風の詩を愛誦したが、トラピスト修道院に入ってからのこの人の詩はあまり見ていない。歌ではやはり白秋の作品が最も好きであった。吉井勇の歌も好んで読んだ。歌といえば、私はその時分かなり熱心に稽古したことがあり、竜野中学の校友会雑誌には当時私の作った歌がいくつか残っているはずであるが、作歌の上で特に影響を受けたのは、その時代の多くの青年に普通であったように、若山牧水であったであろうか。

      四

 中学時代、私の得意としたものがあるとすれば、それは歴史であった。中にも山路愛山の史伝類をよく読んだが、特に『常山紀談』とか『日本外史』とかを愛読した。その頃は漢文も私としては得意とするものであったが、経書よりも史書を見ることが好きであった。竜野の脇坂藩の儒者で本間貞観という先生が私どもの中学に教えに来られていた。ところでまた藤岡に誘われて私は一年近くの間、この老先生のお宅に伺って、漢詩を作ることを稽古したことがある。その時分私は学校の作文では、当時の中学生に広い影響を与えていた大町桂月を読んで、桂月張りの文章を書いていたが、漢詩を習うようになってから勉強したのは久保天随とか森槐南とかの著書であった。一時は『唐詩選』の中の詩をできるだけ多く暗記するつもりで取りかかったことがある。先だって冨山房百科文庫で森槐南の『唐詩選評釈』を買ってきて読み、昔を思い出して懐しかった。
 図画の教師で法制経済も教えておられた先生に巌本という人があった。私はこの先生から思想といえば思想らしいものを注ぎ込まれたのである。藤岡にいわせると、巌本先生は社会主義者であるといっていたが、むしろニヒリストであったようである。幸福でなかった先生の境遇が恐らくそうしたものであろう。先生はもと評論家か新聞記者になられるつもりであったらしく、その仕事の重要さをよく話しておられた。私どもは教室でもしばしばこの先生から、中江兆民、福沢諭吉、徳富蘇峰、三宅雪嶺などについて聞かされたものである。しかし私はその頃はむしろ文学に熱中していて、思想の問題についてはそれほど深い関心がなかった。巌本先生から教えられたものの中では、蘆花との因縁で、蘇峰氏のものを最も多く読んだが、それもその時分流行していた演説の材料にするつもりで読んだので、思想的影響というようなものはなかった。
 播州赤穂は竜野から五里ばかりのところにある。私どもの中学では毎年義士討入りの日に全生徒が徹夜で赤穂の町まで行軍を行ない、そこで義士追慕の講演会を開くのが例であった。その講演会には生徒のうちの雄弁家が出ることになっていたので、平素においても演説はなかなか盛んであった。もっとも、これは、その時代が日本におけるいわば一つの雄弁時代であって、今の『雄弁』という雑誌もその頃は名のごとく主としてわが国の有名な雄弁政治家の演説の速記を載せていたような有様で、私どもの田舎の中学でも擬国会を催したこともあるという時代の一般的な空気の影響でもあり、むしろそれが根本的であった。私も一時は『雄弁』の愛読者であって、中学の裏の山に登って声を張り上げて演説の稽古をしたこともある。国語の教師に野崎先生というのがあり、演説が得意で、生徒にもそれを奨励されていた。赤穂の講演会での演説の準備という意味もあって、義士伝はその時分ずいぶんいろいろ読み漁った。福本日南の『元禄快挙録』なども感激して読んだものであるが、今は岩波文庫の中に収められるようになった。
 かようにして中学時代の後半は、私の混沌たる多読時代であった。私は大正三年に中学を卒業したが、私の中学時代は、日本資本主義の上昇期で『成功』というような雑誌が出ていた時である。この時代の中学生に歓迎されていた雑誌に押川春浪の『冒険世界』があった。かような雰囲気の中で、私どもはあらゆる事柄において企業的で、冒険的であった。私の読書もまたそうであったのである。これに較べると、高等学校時代の私は種々の点でかなり著しい対照をなしている。

      五

 自分について語ることは危険なことである。それは卑しいことであり、少なくとも悪い趣味であるといわれるであろう。私は書物について書きながら自分について、また他の人々について書くことになった。どのような本を読んだかは、ある意味ですべて偶然的なことである。しかし他方それはまたすべて必然的なことである。この偶然性と必然性とをいくらかでも示すためには、人間について、とりわけ自分について書くのを避けることができない。それから生じ易い危険を逃れる手近な方法は、できるだけ簡単に、事実だけを記すということである。
 中学を出ると、私はひとりぼっちで東京のまんなかに放り出された。一高に入学した私は、そこに中学の先輩というものを全くもたなかった。そして私はまた卒業するまでそこに中学の後輩というものを全くもたないでしまった。かようなことがわが国の特殊な社会事情において、ことに田舎から出て来た一人の青年にとって何を意味するかは、読者の想像し得ることであろう。そのうえ私の家には東京に知人というものがまるでなかった。その頃は九月の入学であったが、叔父が紹介してくれた保証人に挨拶に行くという父と一緒に途中暴風雨のために東海道線が不通になったので、中央線を廻ってたくさんのトンネルを抜け、油煙と汗とに汚れて、飯田町の駅に降りた時の気持は今も忘れることのできないものである。後には次第に学校の友も出来たが、私の心はほとんどつねに孤独であった。田舎者の私は、特に父の血をうけて、交際ははなはだ不得手であった。学校の寄宿舎で暮して、町に知った家がなかった私には、家庭生活の雰囲気に触れることも不可能であった。結局私は、東京に住むようになってからも、いつまでも孤独な田舎者であったのである。
 こうした孤独には多分に青春の感傷があったであろう。孤独な青年が好んでおもむくところは宗教である。むしろ宗教的気分というものである。宗教的気分はいまだ宗教ではない。それは宗教とは反対のものでさえある。宗教的気分がつねに多かれ少なかれ感傷的であるのに反して、宗教そのものはかえって感傷を克服して出てくるものである。自分で宗教的であると考えることそのことがすでにひとつの感傷に過ぎぬ場合がいかに多いであろう。高等学校時代を通じて私が比較的たくさん読んだのは宗教的な書物であった。それも何ということなく、いろいろのものを読んでいる。キリスト教の本も読めば、仏教の本も読む。日蓮宗の本も読めば、真宗の本も読む、また禅宗の本を読むこともあるという風であった。そうして一種の宗教的気分に浸るということが慰めであるように感じられた。今にして考えると、青春の甘い感傷に属するに過ぎぬものが多い。もちろん私は甘さというものを一概に無価値であるなぞと考えるのではない。それはともかく十分に日本的であるということができるであろう。『聖書』は繰り返して読んで、そのつど感銘を受けた本であった。しかし旧約の面白さがわかるようになったのは、ずっと後のことである。『聖書』は今も私の座右の書である。仏典の経典では浄土真宗のものが私にはいちばんぴったりした。キリスト教と浄土真宗との間にはある類似があると見る人があるが、そういうところがあると考えることもできるであろう。元来、私は真宗の家に育ち、祖父や祖母、また父や母の誦する「正信偈」とか「御文章」とかをいつのまにか聞き覚え、自分でも命ぜられるままに仏壇の前に坐ってそれを誦することがあった。お経を読むということは私どもの地方では基礎的な教育の一つであった。こうした子供の時からの影響にもよるであろう、青年時代においても私の最も心を惹かれたのは真宗である。そしてこれは今も変ることがない。いったいわが国の哲学者の多くは禅について語ることを好み、東洋哲学というとすぐ禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遙かに親しみが感じられるのである。いつかその哲学的意義を闡明(せんめい)してみたいというのは、私のひそかに抱いている念願である。後には主として西洋哲学を研究するようになった関係からキリスト教の文献を読む機会が多く、それにも十分に関心がもてるのであるが、私の落ち着いてゆくところは結局浄土真宗であろうと思う。高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった。近角常観先生の『歎異鈔講義』も忘れられない本である。本郷森川町の求道学舎で先生から『歎異鈔』の講義を聴いたこともある。近角先生はその時代の一部の青年に大きな感化を与えられたようであった。島地大等先生の編纂された『聖典』は、現在も私の座右の書となっている。
 私のみではない、その頃の青年にはいったいに宗教的な関心が強かったようである。日本の思想界が一般に内省的になりつつある時代であった。中学時代の初めに興味をもって読んだ『冒険世界』というような雑誌がいつしか姿を消して、やがて倉田百三氏の『出家とその弟子』とか『愛と認識との出発』とかが現われて青年の間に大きな反響を見出すようになる雰囲気の中で、私は高等学校生活を経てきた。一高にも日蓮宗とか、禅宗とか、真宗とかの学生の会があり、私も時々出席してみたことがある。私の最も親しくするようになった宮島鋭夫に誘われて、ある夏私は彼と一緒に鎌倉の円覚寺の一庵に宿り、坐禅をしたこともある。一日禅坊を出て、宮島の知っている堀口大学氏が浄智寺に来ておられるというので訪ねたことがある。堀口氏に会うといつもあの頃のことを思い出すのであるが、まだ口にしないのである。恐らく堀口氏の記憶には残っていないことであろう。

      六

 私の文学熱はこうして冷めていった。中学を卒業する前、将来は文学をやろうと考えて、当時鹿児島県に移っておられた寺田喜治郎先生に手紙で相談し、先生からは勧めの返事をいただいたのであるが、一高の文科に入ってからはそうした考えはむしろ薄らいでいった。私は文学に対しても懐疑的になっていた。弁論部に関心がなかったと同様、文芸部にも興味がなかった。一年生の時にはかえって一時剣道部に席をおいたことがある。こうした私は芹沢慎一氏――光治良氏の令兄――にひっぱられてボート部に入り、組選を漕ぐことになった。墨田川に行ってボートを漕ぐことは、運動は元来不得手であるにもかかわらず、当時懐疑的になっていた私にとって一つの逃避方法であった。一緒に組選を漕いだ仲間で哲学方面へ行った者には、後に東北大学の宗教学の助教授にまでなって惜しいことに病に斃れてしまった寺崎修一がある。独法の我妻栄、三輪寿壮などの諸君もボートの関係で知り合いになった人々である。京都大学に入ってからも、私は文科の選手として琵琶湖や瀬田川でボートを漕いだことがある。
 ともかく私の読書の興味の中心は次第に文学書から宗教書に移っていった。それは時代の精神的気流の変化の影響によることでもある。トルストイの『わが懺悔』が文学青年の間にも大きな影響を見出すというような時代であった。これは私も感激をもって読んだ本である。私はいつのまにか『芸術とは何ぞや』におけるトルストイに共鳴を感じるようになっていた。彼の『人生論』なども感動させられた本である。私の場合かようなことは中学時代に耽読した徳富蘆花の影響によって知らず識らず準備されていたといえるであろう。私も一時はある種のトルストイ主義者であった。去年の夏、満洲を旅行した時、汽車の中へ岩波文庫版の『イワンの馬鹿』、『人は何で生きるか』というような当時愛読したトルストイの小品を持ち込んで久し振りに読み直してみたが、今度はそれほど深い感動を覚えることができなかった。私はそこに何か気取りに似たものを感じた。しかし老齢になってからもなお気取ることができたところにトルストイの偉さがあるのかも知れない。ルソオの『懺悔録』とか、アウグスティヌスの『告白録』とか、マルクス・アウレリウスの『省察録』とか、そういった種類の、あるいは名前の本を私は好んで読んだ。哲学者ではショーペンハウエルとかニーチェとかの生の哲学が流行し、私もその影響をこうむった。和辻哲郎氏の『ニーチェ研究』とか『ゼーレン・キェルケゴール』とかは、当時の雰囲気を現わしている書物である。文学においても私はロシア文学に多く興味をもつようになり、ことにチェーホフの作品を愛読し『桜の園』のごときは幾度も繰り返して繙いたものである。青年の間では華巌の滝で自殺した藤村操が始終話題にのぼるという時代であったのである。私なども本を読みながら本に対して全く懐疑的になり、自分の持っていた本を売り払ってしまうというようなことが一度ならずあった。
 今私が直接に経験してきた限り当時の日本の精神界を回顧してみると、まず冒険的で積極的な時代があり、その時には学生の政治的関心も一般に強く、雄弁術などの流行を見た――この時代を私は中学の時にいくらか経験した――が、次にその反動として内省的で懐疑的な時期が現われ、そしてそうした空気の中から「教養」という観念がわが国のインテリゲンチャの間に現われたのである。したがってこの教養の観念はその由来からいって文学的ないし哲学的であって、政治的教養というものを含むことなく、むしろ意識的に政治的なものを外面的なものとして除外し排斥していたということができるであろう。教養の観念は主として漱石門下の人々でケーベル博士の影響を受けた人々によって形成されていった。阿部次郎氏の『三太郎の日記』はその代表的な先駆で、私も寄宿寮の消燈後蝋燭の光で読みふけったことがある。この流れとは別で、しかし種々の点で接触しながら教養の観念の拡充と積極化に貢献したのは白樺派の人々であったであろう。私もこの派の人々のものを読むようになったが、その影響を受けたというのは大学に入ってから後のことである。かようにして日本におけるヒューマニズムあるいはむしろ日本的なヒューマニズムが次第に形成されていった。そしてそれは例えばトルストイ的な人道主義もしくは宗教的な浪漫主義からやがて次第に「文化」という観念に中心をおくようになっていったと考えることができるのではないかと思う。阿部・和辻氏らの雑誌『思潮』が出て、私もその愛読者の一人となったが、それが後に岩波の『思想』に変ったのである。
 高等学校の最初の二年間は私にとっては内省的な彷徨時代であった。二年生になる時学校の規則で文学を志望するか哲学を志望するかを決定しなければならなかったので、私は哲学と書いて出しはしたが、自分の心ではまだいずれとも決定しかねていた。私の気持がまとまって、はっきり哲学をやることに決めたのは三年生の時で、その頃から私の読書の傾向も変ってきた。

      七

 考えてみると、私の高等学校時代はこの前の世界戦争の時であった。「考えてみると」と私はいう、この場合この表現が正確なのである。というのはつまり、私は感受性の最も鋭い青年期にあのような大事件に会いながら、考えてみないとすぐには思い出せないほど戦争から直接に精神的影響を受けることが少なくてすんだのである。単に私のみでなく多くの青年にとってそうではなかったのかと思う。そう考えると、日露戦争の時、戦争を知らないで研究室の生活を続けていた大学者があるという嘘のようなことも、十分あり得ることであったろうと思われる。私があの世界戦争を直接に経験したのはむしろその後一九二二年ヨーロッパへ行った時である。これは現在の戦争とは全く様子が違っていることである。近代戦争というものはリアリスティックになっている。近代戦争のこの性質はあらゆる人をその中に引き入れて何人も圏外に立つことを許さないというところに率直に現われる。その意味においてそれは全くメカニカルな必然性をもっている。これに反して以前は戦争にしても有機的なものであった、あるいはロマンティックであった。もちろん現在も戦争には何らかロマンティシズムが必要であろう。それにもかかわらず近代戦争は本質的にリアリスティックなものである。近代戦争のこの性質について深く考えてみるのは極めて重要なことである。
 あの第一次世界戦争という大事件に会いながら、私たちは政治に対しても全く無関心であった。あるいは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのはかえってあの「教養」という思想である。そしてそれは政治というものを軽蔑して文化を重んじるという、反政治的ないし非政治的傾向をもっていた、それは文化主義的な考え方のものであった。あの「教養」という思想は文学的・哲学的であった。それは文学や哲学を特別に重んじ、科学とか技術とかいうものは「文化」には属しないで「文明」に属するものと見られて軽んじられた。言い換えると、大正時代における教養思想は明治時代における啓蒙思想――福沢諭吉などによって代表されている――に対する反動として起ったものである。それがわが国において「教養」という言葉のもっている歴史的含蓄であって、言葉というものが歴史を脱することのできないものである限り、今日においても注意すべき事実である。私はその教養思想が擡頭してきた時代に高等学校を経過したのであるが、それは非政治的で現実の問題に対して関心をもたなかっただけ、それだけ多く古典というものを重んじるという長所をもっていた。日本における教養思想に大きな影響を与えたのはケーベル博士であって、その有力な主張者たちは皆ケーベル博士の弟子であった。かようにして私もまた一高時代の後半において比較的多く古典を読んだのである。ダンテの『神曲』とかゲーテの『ファウスト』など、むつかしくて分らないところも多かったがともかく一生懸命に読んだものである。『ファウスト』はドイツ語の時間に今は亡くなられた三並良先生から教わったこともある。その試験にドイツ文でファウスト論を書けという課題が与えられたが、私はその中に出てくるワグネルという人物について論じた。それがよく出来ていたというので賞められ、そんなことから三並先生には特別に親しくしていただくようになったというようなこともあった。特に影響されたものというと、ニーチェの『ツァラツストラ』であったであろうか。後に単行本になった阿部次郎氏の『ツァラツストラ解釈』も『思潮』に出ていたころ熱心に読んだものの一つである。古典という観念に影響された私の読書の範囲も量も、その頃の私の貧弱な読書力からいって、勢い局限されざるを得なかった。日本の文学では、その頃から次第に読書階級の間に動かしがたい地位を占めてきた漱石のものを比較的多く読んだように思う。これも当時の教養思想の有力な主張者たちの多くがまた漱石門下であったということにしぜん影響されたのであろう。ともかく高等学校時代、私は決して多読家ないし博読家でなかった。その時分私どもの仲間で読書家として知られていたのは蝋山政道君であった。何でも蝋山君は、大隈重信が会長であった大日本文明協会というので出していた西洋の学術書の翻訳を全部読んでいるというような噂であった。今でも蝋山君を見ると、あの頃毎日学校の図書館へ通っていた姿が眼に浮んでくることがある。
 その時代私の読書における一つのエピソードは、塩谷温先生――その御尊父青山先生から私どもは学校で漢文を習った――のお宅に伺って『資治通鑑』を読むという小さな会に参加したことである。この会の中心は私より一級下の倉石武四郎君であった。倉石君は現在京大の支那学の教授であるが、先だって同君からその著書『支那語教育の理論と実際』という本をもらって、ふとこの読書会のことを思い出した。会員は倉石君のほか、松山高等学校にいる川畑思無邪君、東京の諸大学でインド哲学を講じている山本快竜君、そして私のクラスからは寺崎修一と私とが加わったように思う。私たちは一週一回、寮の夕食がすむと、小石川の塩谷先生のお宅まで歩いて行った。本読みがすむと、いつも焼芋が出て雑談になったのを覚えている。あの頃から倉石君は実によく漢文を読むことができた。おとなしいうちにも何か毅然としたものをもっている人であったが、その倉石君が近年漢文を返り点によって日本読みにすることに反対してそのまま支那音で読み下すべきことを主張し、支那語教育のためのレコードを作ったりなどしているのは、面白いことである。
 読書会といえば、高等学校三年生の時、私が先に立って哲学の読書会を組織したことがある。ヴィンデルバントの『プレルーディエン(序曲)』の中の『哲学とは何か』を速水滉先生に願って読んでいただいたのである。会員は二十名くらいであったであろうか。その頃は世界戦争の影響でドイツ書を手に入れることができなかったので、謄写版刷りを作ってテキストにした。その時分私は大学に入ってから哲学をやることに決めていた。久しく迷っていた私にその決心をさせたのは西田幾多郎先生の『善の研究』であった。しかしそのことについては他の場所で書いておいたから、ここではもう繰り返さないことにする。宮島鋭夫に連れられて桑木厳翼先生を初めてお訪ねしたのもその頃であった。宮島は後に東大の哲学科に入った。永い間病気ばかりしていてまことに気の毒であったが、昨年とうとう死んでしまった。その通知をもらって後、桑木先生に会ったら宮島の話が出たので、あの時のことの記憶を新たにしたわけである。高等学校を卒業する前、彼からもらったレクラム版のショーペンハウエルの全集は、私にとって貴重な記念である。当時宮島はショーペンハウエルに傾倒していた。彼ばかりではない、その時代の青年がたいていそういう風であったのである。
 日本における哲学書の出版に新しい時期を画した岩波の『哲学叢書』が出始めたのは、その頃のことである。私なども紀平正美氏の『認識論』とか宮本和吉氏の『哲学概論』とか、分らないながら幾度も読んだものである。速水先生の『論理学』は、学校における先生の講義の教科書であった。つまり私の哲学の勉強は岩波の哲学叢書と一緒に始まったのである。高等学校の時、その方面で私がいちばん多く読んだのは心理学と論理学との本であった。大学へ行ってから哲学を専攻する者は高等学校時代には論理と心理とをよく勉強しておかねばならぬと私どもの仲間で一般にいわれていたので、その本を特に読んだわけであるが、それはまた私の場合速水先生の感化によることでもあった。一高の先生で私が最も多く影響を受けたのは速水先生である。先生の『現代の心理学』という本は私の熱心に繙いたものの一つであり、非常によい本であったように記憶している。哲学を専攻する者は何でも原書で読む稽古をしておかねばならぬとまた私どもの仲間でいっていたが、その原書は、戦争のためにドイツのものが来なくなっており、主として英書を読まねばならなかった。そしてまた哲学はドイツに限るようにきかされていたので、英語のものを読むとすればしぜん心理や論理の本を読むということにもなったのである。当時の一高生はよく本郷から日本橋の丸善まで歩いて行ったものであるが、そうして買って読んだ本で、今も私の手許に残っていて懐しいものに、ジェームズの『心理学原理』、ミルの『論理学体系』などがある。しかしその時代は何といってもわが国の思想界ではドイツの学問が圧倒的であった。心理学の方面でもヴントの名が最も喧しかった。私も速水先生の訳されたヴントの小さい心理学を初め、須藤新吉氏のヴントの『心理学』などを読み、また古本屋でヴントの『心理学綱要』の原書を見つけてきて勉強した。哲学の方面でもその頃からヴィンデルバントを初め新カント派の哲学が次第に一般の流行になりつつあった。ある時、三並先生を柏木のお宅に訪ねたら、哲学をやるにはカントを研究しなければならず、カントを研究するにはコーヘンのカント論を読まねばならぬといって、マントルピースの上に置いてあったコーヘンの三つのカント書を見せて下さった。そのような時代であったので、戦争のためにドイツの本が来なくなると日本の学問は衰えるというような論も行なわれた。そのことを公然と述べた人があってだいぶん問題になったこともあったが、たいていの学者は心中実際にそのように考えているのではなかったかと思う。ともかく第一次世界戦争が私に直接の影響として感じられたのは、ドイツ語の本が手に入らないということくらいであった。現在では全く想像もできないようなことである。

      八

 大学生活の三年間、私は下鴨の同じ一つの下宿で暮らした。それは蓼倉町で、その頃はまだ附近に余り家が建っていなかったので、室を出るとすぐ前に比叡山を見ることができた。九月のなかば初めてその下宿に行ったとき、葉鶏頭の鮮かな色がきわめて印象的であったが、その家では毎年美しい葉鶏頭を作っていた。私はその下宿を「雁来紅の家」と自分ひとりで呼んでいた。今でも葉鶏頭を見ると、八田といったその下宿のことが思い出されるのである。同じ年京都の哲学科に入ったのは私と広島高等師範を出た林礼二郎(旧姓森川)との二人であったが、やがて森川も私の下宿に移ってきて、私と同様卒業するまでそこに留まった。私たちはたいてい一緒に加茂の森を抜けて学校へ通った。
 大学時代に読んだもので最も大きな影響を受けたのはいうまでもなく西田幾多郎先生の著作である。ちょうど私の入学した年の秋『自覚における直観と反省』が本になって出た。続いて先生は『哲学研究』誌上に多くの論文を発表してゆかれた。私は先生の書かれたものを読むと共に、その中に引用されている本をできるだけ自分で読んでみるという勉強の仕方をとった。あの時分の先生の論文の中には実にいろいろの書物が出てくるのであるが、私の哲学勉強もおのずから多方面にわたった。先生は種々の哲学を紹介されたが、ひとたび先生の手で紹介されると、どの本もみな面白そうに思われ、読んでみたい気持を起させた。かようにして私は、カントからヘーゲルに至るドイツ古典哲学を初め、バーデン学派やマールブルク学派の新カント哲学、マイノングの対象論、ブレンターノの心理学、ロッツェの論理学、等々、いろいろのものを読んでみることに心がけた。アウグスティヌスやライプニッツの名も挙げておきたい。何を最も多く読んだかときかれるなら、私は二年生の時のリポートにライプニッツについて書き、卒業論文は『批判哲学と歴史哲学』という題でカントについて書いたので、この二人のものは比較的多く読んだといえるであろう。しかし何を特別に勉強したというほどのことはなく、ただ西田先生の後を追うていろいろの本を読んだというのが、大学時代三年間における私のおもな勉強であった。
 かようにして読んだ本のうちでも何か深く影響されたものがあるとすれば、それは新カント派の哲学であった。しかしそれも、意識的にではなく、むしろ知らず識らずそういうことになっていたのである。ある時の哲学会の例会で、私どもの先輩であった土田杏村氏が話をされた後で、私は質問をした。何の問題であったか記憶していないが、土田氏と私との議論になってしまい、なかなか終りそうになかった。そこで土田氏が、会に出ていられた西田先生を顧みて「先生、どうですか」と尋ねると、先生は「君の考えは現象学のようなもので、三木の考えは新カント派のようなもので、どちらがよいか、むつかしい問題だ」という意味のことを答えられた。先生からそう言われて初めて私は自分の考えが新カント派的であることに気づいて、いつのまにか深くその影響を受けていたのにむしろ驚いたことである。
 私がかように新カント派の影響を受けたのは、高等学校の時の読書会でヴィンデルバントを読んだことが素地をなしていたのであろうが、その時代のわが国の哲学の一般的傾向にも関係があったであろう。すでにいったごとく私が大学に入学した大正六年は、西田先生の画期的な書物『自覚における直観と反省』の現われた年であるが、やはりその年に桑木厳翼先生の名著『カントと現代の哲学』が出ている。これはカント哲学への入門書として私の熱心に読んだ本であった。その前年には朝永三十郎先生の名著『近世における「我」の自覚史』が出ている。私は一高にいてこの本を感激をもって読んだのであるが、その立場は新カント派である。そしてやはり大正六年の暮にはリッケルトの弟子であった左右田喜一郎先生の名著『経済哲学の諸問題』が出ている。これも私には忘れられない本である。左右田博士の影響によって、その頃からわが国の若い社会科学者、特に経済学者の間で哲学が流行し、誰もヴィンデルバント、リッケルトの名を口にするようになった。日本における新カント派の全盛時代であった。
 私は左右田先生の本を読んで、哲学が広く他の諸科学に交渉をもたねばならぬことを考えるようになった。経済学者などの書くものに私が注意を向けるようになったのはその時以来のことである。当時そうした本で最も印象に残っているのは、小樽高等商業学校の教授で、その才を惜しまれつつ若くして亡くなった大西猪之介氏の『囚われたる経済学』である。後に左右田博士の斡旋で『大西猪之介経済学全集』が出た時、私も求めて所蔵している。左右田先生は、私が大学院にいた頃、京都に講義に来られたことがあるが、その時初めて先生にお目にかかり、その学問に対する純粋な愛に深く打たれた。その後私はドイツに留学した時、リッケルト教授のゼミナールに出席し、左右田博士のリッケルト批評について報告したことがあるが、リッケルト教授も左右田博士も共に喜ばれた。そんなことから左右田先生とつながりができ、先生が亡くなられて後にも、先生の愛弟子であった本多謙三君と親しくしていたが、その本多君も前途を嘱目されつつ先年亡くなってしまったのは惜しいことである。ところがまた私は、やはり先生の愛弟子(まなでし)である杉村広蔵君の隣に住み、親しく交るようになったというのも、左右田先生につながる因縁であろうか。

      九

 京都大学の諸先生からはいずれもいろいろ影響を受けたが、中にも私が入学したのと同じ年に波多野精一先生が東京から宗教学の教授になって来られたのは、私にとって仕合わせなことであった。先生の名は『西洋哲学史要』、『スピノザ研究』、『キリスト教の起源』などの著書を通じて知っていたが、その頃先生の思想も新カント派に近かったようである。先生は最もプロフェッサーらしいプロフェッサーであった。私は先生から歴史研究の重要なことについて深く教えられた。また西洋哲学を勉強するにはそのいわば永遠の源泉であるギリシア哲学とキリスト教とをぜひ研究しなければならぬということを諭(さと)されたのも先生であった。その影響で私はギリシア語の勉強を始め、辞書と首引きでプラトンを読んだり、またキリスト教の文献に注意するようになった。これまでの自分を振返ってみると、私は考え方の上では西田先生の影響を最も強く受け、研究の方向においては波多野先生の影響を最も多く受けていることになるように思う。私の勉強が歴史哲学を中心とするようになったこと、あるいはアリストテレスなどの研究に興味をもつようになったこと、またパスカルなどについて書くようになったことは、その遠い原因は波多野先生の感化にあるといえるであろう。
 二年生の時、田辺元先生が東北から東京へ来られたことも、私の成長にとって重要なことである。ドイツ観念論の哲学について理解を深めることができたのは先生のおかげである。私は先生に就いて自分の考えを鍛えていただいた。今は亡き深田康算先生からはさらに別の影響を受けた。深田先生はケーベル博士の伝統を最も純粋に継がれた方で、私は先生において真の教養人に接することができた。その頃先生は特にフランスのものに興味を持たれていたらしく、お訪ねすると、テーヌとかアナトール・フランスとかジョルジュ・サンドとか、フロベールとか、ブリュンティエールとか、いろいろフランス人の話が出るのがつねであった。その時分、私の読書の範囲は主としてドイツの哲学書であって、広くフランスのものにまで手が廻らなかったが、フランスの文学や思想に憧憬を感じ、外国に留学した時にもパリに行くことを考えたのは、深田先生の感化によることである。
 私の青年時代は日本の文学や思想において自然主義に対する反動もしくは自然主義の克服としてヒューマニズムが現われた時代であった。私はその流れの中で成長したのである。このヒューマニズムというものの意味は広く、種々の形をとって現われた。そして私はそのすべてから多かれ少なかれ影響を受けた。
 それは先ず教養という観念を作り出した。その方向において私は高等学校のとき阿部次郎氏の著書から影響されたが、大学時代になると、波多野先生や深田先生の講義、特にその談話とその人格から大きな感化を受けた。両先生のお宅へはしばしば伺ったが、いつも親しくくつろいでいろいろ話していただくことができたのは私の学生生活における楽しい思い出である。
 次にこのヒューマニズムは一層宗教的な形をとって現われた。西田天香氏の一灯園の運動とか倉田百三氏の文学がそれである。私もその影響を受けたが、私にとってはその影響は一時的であった。
 第三の方向は白樺派で、武者小路実篤氏の新しい村の運動がある。私の友人でやはり京都の哲学科に来ていた一高出身の谷川徹三、日高第四郎、学習院出身で美学を専攻していた園池公功らは白樺派の人々に接近していたので、私も誘われて、新しい村の講演会を聴きに行ったこともある。武者小路氏の文学は以前から好きで読んでいた。有島武郎氏がホイットマンをしきりに言われていたのもその頃で、有島氏はその時分京都の同志社大学にときどき来て講義をされていた。谷川らに誘われて有島氏の宿を訪ねたこともある。私も一時は有島氏の熱心な読者であった。やはり一高から来ていた小田秀人も白樺派に傾倒していた。有島氏に接近していた人に、さらに一高から来て京都の経済科にいた八木沢善次があった。その頃有島氏は次第に人道主義的社会主義に移りつつあったが、京都の経済科の河上肇博士はもとの伊藤証信氏の無我愛に熱中されたことがあるというが、その頃はまだ人道主義的社会主義を多く出なかったようである。いずれにしてもヒューマニストの関心が社会問題に移っていったのは注目すべきことであった。
 第四に、このヒューマニズムの傾向は学究的な人々の間で「教養」という観念から「文化」という観念に変り「文化主義」などという言葉もできた。新カント派の価値哲学、文化哲学がその基礎になったのであって、桑木先生とか左右田先生とかがその代表者であった。その頃「文化住宅」とか「文化村」とかいう、大正時代の一つの象徴である安価な文化主義が、哲学者たちの意図とは別に、流行になっていた。
 思想の方面においてはヒューマニズムの流れはさらに別の方向をとって存在していた。新カント派が全盛になる以前、広く流行したオイケン、ベルグソンの「生の哲学」がそれであったと見られるであろう。生の哲学の流れは新カント派が隆盛を極めてからもわが国には根強く存在していたのであって、西田先生の哲学などもそれに属するといい得るであろう。
 私自身はその頃どちらかというと学究派であった。オイケン、ベルグソン時代にも私はその圏外に立っていた。しかし私は西田先生の影響を通じて生の哲学につながっていた。ベルグソンは学校の演習で西田先生から『創造的進化』を習ったのを初め、その著書を読んだが、オイケンのものはほとんど何も読まないでしまった。ベルグソンの面白さは近年になって分るようになったが、オイケンはその後もほとんど読まず、読み始めても中途でやめてしまった。一高から京都へ来た私の友人には、谷川徹三、林達夫、小田秀人など、文学派が多かった。もっとも林は少し違っていて、深田先生や波多野先生らの教養を理想としていたようであったが、谷川や小田は思想的にも生の哲学に属していて、私もある程度それに影響された。大学三年生の時、私は一年近くかなり熱心に詩を作ったことがある。生の哲学の方面で私が最もよく読んだのはジンメルであった。彼の哲学が文化哲学や歴史哲学に最も多く触れているためであった。

      十

 大正九年、大学を出ると、私は大学院に席をおいた。私の研究のテーマは歴史哲学であった。元来私は歴史は好きであったが、そのころちょうど日本の歴史学にも活発な動きが認められ、私の研究もそれに刺戟された。この動きは私の眼には二つの方向に現われた。その一つはいわゆる政治史から文化史への動きである。ドイツの史学界で盛んに闘わされた「政治史か文化史か」という議論は日本にも移され、歴史の新しい方向および方法として、政治史に対する文化史が主張された。中にも和辻哲郎氏の活動が私ども一般の青年には際立って見えた。ランプレヒトの『近代歴史学』が和辻氏によって翻訳されて現われた。それは私の卒業の前年の晩秋のことで、自動車事故のため松山病院というのに入院していた時、見舞に来て下さった田辺元先生からその新刊の本をいただいたので、私は今でもよく記憶している。和辻氏の著書『古寺巡礼』(大正八年)や『日本古代文化』(大正九年)は新鮮な印象によって広く読まれたが、私も興味深く感じた。しかしその頃京都大学で内田銀蔵先生が専門家として日本経済史その他の方面で立派な仕事をしていられたのにあまり注意しないでいたことを、私は後悔している。第二の動きは世界史への方向である。これは私には一層影響の多いものであった。特に坂口昴先生の『世界におけるギリシア文明の潮流』(大正六年)は私にとって忘れ難い書物である。先生の『概観世界史潮』が出たとき、私は『哲学研究』に紹介を書いたのを覚えている。大学院の学生として、先生のルネッサンス時代のイタリア史の講義を聴いたことも一つの思い出である。私はまた波多野精一先生から世界史的な見方について多くを学んだ。当時京大の文科には内田先生や坂口先生のほか、内藤湖南、原勝郎、三浦周行らの諸先生がいられて、まさに史学科の全盛時代であった。自分の専攻していた学科にもよるが、坂口先生以外、直接に就いて学ぶことをしなかったのは、惜しいことであったと思う。近来それら諸先生の著書を繙く機会のあるたびにその感を深くするのである。
 その頃日本の哲学界においても次第に歴史哲学の問題が関心され始めていた。これは主としてヴィンデルバント、リッケルトらの新カント派の影響によるものである。したがって当時歴史哲学として問題にされたのは、主として歴史的認識に関する方法論、認識論の形式的論理的問題であって、ヘーゲルが考えたような世界史の哲学としての内容的な歴史哲学ではなかった。ディルタイの仕事の意味なども、まだ一般には十分に認識されてはいなかった。私も新カント派に導かれて歴史哲学の研究に入ったのである。ヴィンデルバントの『プレルーディエン』、リッケルトの『自然科学的概念構成の限界』や『文化科学と自然科学』などから始めて、ジンメルの『歴史哲学の諸問題』等、またトレルチのやがて『歴史主義とその諸問題』に収められた論文を雑誌で探して、勉強した。特にトレルチのものが身になったように思う。その時分メーリスの『歴史哲学教科書』が評判になって、読みたいと思い、学校の研究室へ借りに行ったが、いつも誰かがすでに借り出していて見ることができず、だいぶんたってから、外国に注文しておいたのがやっと手に入って、読んでみるとそのつまらないのにがっかりしたことがある。評判の本が必ずしもよいとは限らない一つの例である。評判になるというにはいろいろ理由があるので、内容の質にばかりよらないのである。ディルタイの『精神科学概論』も読んでみたいと思いながら、絶版になっていて、なかなか見ることのできなかった本であった。後にドイツに留学した時、ベルリンで初めて本屋をのぞいたとき、この本の新版が出ているのを見つけて無性に嬉しくなり、ホテルの一室で読みふけったことを今思い出すのである。歴史家の書物では、その時分、ランプレヒト、ブルクハルト、ランケなどの諸著を繙いた。
 日本における新カント主義は、日本の社会の現実の事情に相応して、特殊な性質のものであった。純粋な新カント派といい得るのは、経済学者で哲学者そして銀行家であった左右田喜一郎先生くらいであろう。そのほかなお桑木厳翼、朝永三十郎の両先生を純粋な新カント主義者に加え得るであろうか。一般には、新カント派を通じてカントに還ることによって同時にカント以後のいわゆるドイツ浪漫主義の哲学に結びつくという傾向が濃厚であった。言い換えると、新カント派の認識論的立場に止まらないで形而上学に行くという傾向が非常に根強く存在していたのである。これは、社会的に見ると、日本においては資本主義とか自由主義とかが純粋に発達しなかったといわれる事情に相応すると考えることができるであろう。ともかく私自身、歴史哲学の研究においても、新カント派から出発して、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどのドイツ浪漫主義の哲学に進んでいった。シェリングの哲学には特別の親しみを感じていた。シュライエルマッヘルの『宗教的講演』や『独語録』は感激をもって読んだ。そこに青春の浪漫的心情の満足を求めようとしたということもあったであろう。
 しかしその頃、私が学園で平和な生活を送っている間に、外の社会では大きな変動が始まっていた。あの第一次世界戦争を機会として日本の資本主義は著しい発展を遂げたが、私の大学を卒業した大正九年は、それが未曽有の大恐慌に見舞われた年として記憶される年である。このような変化に応じて思想界にも種々新しい現象が現われた。大正七年の末、東大には新人会という団体が出来た。『改造』――すでにこの名が当時の社会にとって象徴的である――が創刊されたのは大正八年のことであったと思う。同じ年にまた長谷川如是閑、大山郁夫氏らの『我等』が創刊されている。主として『中央公論』によった吉野作造博士の活動が注目された。これらの雑誌は私も毎月見ていたので、ある大きな波の動きが私にもひしひし感じられた。京都はまだ比較的静かであったが、『貧乏物語』で有名になられた河上肇博士が次第に学生たちの注意を集めていた。
 このような動きに対して私は無関心ではなかったが、その中に入ってゆく気は生じなかった。また一灯園や「新しい村」の運動にも十分に興味がもてなかった。私はなお数年間、いわば嵐の前の静かな時を過したのである。当時私は古典派ないし教養派であり、ギリシア悲劇などしきりに読んでいた。グロートの『ギリシア史』を繙き、ブルクハルトの『イタリア文芸復興期の文化』を読み、ダンテとかリオナルド・ダ・ヴィンチとかに心を惹かれていた。そういう点で私は林達夫と最もうまが合った。京都時代を通じて文学書のうち私の最も熱心に読んだのは詩であったであろう。その頃有島武郎氏らの影響でホイットマンが流行していたが『草の葉』は私にも忘れられない詩集である。ヴェルレーヌ、ボードレール、ヴェルアーランなど、ゲーテやハイネなど、みな好きであったが、私の特に愛したのはジャムであった。日本の詩人では、白樺派の影響もあったであろう。千家元麿が好きであった。先だって東北へ旅行した時、改造文庫の『千家元麿詩集』を車中に携(たずさ)え「車の音」などという詩を読んで、あの頃のことを懐しく想い起した。宗教書はいつも何か読んでいたが、当時最も深い感銘を受けたのは、フランチェスコの『小さき花』である、ヨルゲンセンのフランチェスコ伝を訳した久保正夫氏――天随氏の令弟――が東京から京都の大学院へ移って来て、私たちの仲間に加わったが、その久保氏もすでに亡き人である。
 大学を卒業すると同時に私は下鴨から北白川に下宿を変えた。その北白川の下宿に、その頃『改造』の特派員として京都に滞在していた浜本浩氏がよく訪ねて来た。雑誌に原稿を書けということであったらしかったが、私は貧乏をしていたけれども、そのような気持はなく、浜本氏も強いて主張しなかった。原稿を書いて銭にするというような考えは私にはなかったが、これは私ばかりでなく、あの頃の学徒はたいていそうであったので、近頃とは世の中も青年学徒の考え方もよほど違っていた。北白川の下宿に訪ねて来た人で忘れられないのは三土興三――忠造氏の令息――である。三土は非常な秀才で、人間としてもなかなか変っていて、私はその将来の畏(おそ)るべきことを感じた。その三土が後に大村書店から出た『講座』という雑誌にキェルケゴール論を書いたきりで自殺してしまったのは惜しいことであった。
 すでにいったごとく、東京では新しい時代が活発に動いていたが、京都はまだどこかのんびりしたところがあった。ベートーヴェン通をもって任じていた久保氏が来てから、私たちの仲間では音楽を語ることが盛んになった。日高第四郎君なども非常なベートーヴェン崇拝者であった。そうした影響で、私はロマン・ローランの『ベートーヴェン』を読んでこの作家に親しむようになり、その『ミケランジェロ』や『トルストイ』を読み、さらに『ジャン・クリストフ』に手をつけた。ベートーヴェンで思い出すのは、ハイデルベルクの初めの下宿の主婦がドイツ語の勉強のために紹介してくれたドクトル――その名は忘れてしまった――がまたベートーヴェン研究の専門家で、ドイツ語の稽古にベートーヴェンの文章を使用するという、いささか無法なことをするほどベートーヴェンに熱中していたことである。しかしそのおかげで買ったベートーヴェンの手紙や文章、同時代人の記録を編輯したアルベルト・ライツマンの二巻の『ベートーヴェン』は、今も私は愛蔵している。ベルリオーズの書簡なども、久保氏の勧めで当時面白く読んだものである。久保氏は私たちの仲間で博識家として知られていたが、私がフランスの書物を多く読むようになったのは、深田康算先生とこの久保氏との影響であった。あの頃読んだもので特に思い出すのはポール・グゼルの録したロダンの言葉である。後に叢文閣から高村光太郎氏の編訳で『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』が出た時、私は早速求めたが、当時を思い出したためである。フロベールの書簡は、深田先生が、お訪ねすると、いつも面白いと話されるので、私も読んでみたが、なるほど面白かった。深田先生はまた、アナトール・フランスが好きであったようで、お訪ねするとやはりその話がよく出たものである。その頃私の見たのは『エピクロスの園』くらいであったが、後にパリの下宿で一時アナトール・フランスのものばかり読みふけったことがあるのは、深田先生の話がいつか私の頭に染みていたせいもあるであろう。その下宿は知らずしてアナトール・フランスの家の近くにあったが、ちょうど私のパリにいた時に彼は死んで、私は安倍能成氏と一緒にその葬式に行った。何かの因縁というものであろうか。そういうわけで、今は亡き深田先生のことを思い出す場合、アナトール・フランスを連想することが多いのである。
 私の生涯にもやがて新しい変化が来た。学校を出てから二年間、大谷大学、ついでまた竜谷大学で哲学の講師をしていた私は、外国へ旅立ったのである。

      十一

 外国で暮した三年間は、私のこれまでの生涯において最も多く読書した時期であった。その間、私はあまり旅行もしないで、ほとんど本を相手に生活した。留学は私にとって学生生活、下宿生活の延長に過ぎなかった。
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