三人の相馬大作
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著者名:直木三十五 

    一

「何うも早(は)や――いや早や、さて早や、おさて早や、早野勘平、早駕(はやかご)で、早や差しかかる御城口――」
 お終いの方は、義太夫節の口調になって、首を振りながら
「何うも、早や、奥州の食物の拙(まず)いのには参るて」
 赤湯へ入ろうとする街道筋であったが、人通りが少かった。侍は、こう独り言をいいながら
「早や、暮れかかる入相(いりあい)の」
 と、口吟(くちずさ)んで、もう一度、首を振ってみたが、村の入口に、人々の――旅の、客引女らしいのが立っているのを見ると、侍らしくなって歩き出した。
 少し、襟垢がついていて、旅疲れを思わせる着物であるが、平島羽二重(ひらしまはぶたえ)の濃紫紺、黒縮緬(ちりめん)の羽織に、絹の脚絆(きゃはん)をつけていた。
「お泊りなら、すずかなお離れが、空いてるよう」
「お武家衆(す)様、泊るなら、こっちへ」
 女が口々に呼びながら、小走りに、近づいたが、さすがに、商人にするように、袖を掴まなかった。
「ええ、お娘子(ぼこ)を取りもつで。江戸のお武家衆や」
 侍は笑って
「江戸と、何うして、判るか」
「ええ、身なりがに――さ、寄って、泊って行かっせ」
 勇敢な一人が、羽織をつかんだ。
「お湯も、けれえだから」
「よし、泊ってつかわそう」
「そりゃまあ」
 女は、先に立って
「泊りだよう」
 と、叫んだ。番頭が上り口へ手を突いて、お叩頭(じぎ)[#ルビの「じぎ」は底本では「じき」]をした。
「厄介になるぞ、何程かの」
「へい、二十五文が、定ぎめで御座ります」
「よかろう」
「手前は、浪花講で御座ります、へい、おすすぎーッ」
「ひゃあーッ」

    二

 浪宿の慣らわしとして、三人の相客があった。侍は、床の間を背にして、固い褞衣(どてら)の中から、白い手を出して、煙草を喫いつつ
「南町奉行附、直参、じゃが、ちと、望みがあっての」
「南町奉行附と申しますと――え、何かお召捕用で?」
「ま、そんなところだの」
 廊下に、足音が聞えると、障子が、開いて十二、三の女の子が、三人
 おばあ子、来るかやあと
 鎮守(つんず)の外んずれまで
 出てみたば
 と、叫んで、踊りながら、入ってきた。
「うるさい。もうええ」
 客の一人が手を振った。
 おばこ来もせで相馬の大作なんぞいかめ面(つら)。
「出てくれ」
 と、一人が、一文銭を、抛出(ほうりだ)した。女の子は、次の部屋へ唄って行った。
「ほほう、相馬大作なんぞ、この辺で、唄になっているのかのう」
「ええ、えらい人気で、御座りましてな」
「何時時分に、何(ど)の辺に、おろうな、聞かんかの」
「一向に」
「わしは、その大作を追うているが――」
「貴下(あなた)様が――へえ、そいつは、うっかり、踏込めませんぜ。宿で、泊めないなんてことが御座いますからの」
「何故」
「いえ、大作様を、生神様のように思っている奴がおりましてな」
「なるほど」
「それで、あんな唄まで、出来ましたが、旦那様、うっかりなさらんように――」
「忝(かたじけ)ない」
 侍は、腕組をした。
「何(ど)れ、もう、一風呂浴びてきて、寝ましょうかの」
 一人が立上った。侍は、頷(うなず)いただけであった。

    三

「遅う御座いますな」
「遅い」
 二人の潜んでいる草叢(くさむら)の草は、二人の頭を隠すくらいに茂っていた。そして、その上には陽の光さえ、洩らさないような梢と、葉とが、おおいかぶさっていたし、二人の周囲には、そうした大木が、一杯に並んでいた。
 二人の横には、木の株を枕にして、大砲が置かれていた。筒口は、下を向いていて、その筒口の見当には、街道が、白く走っていた。
(この一発が、天下の眠りを醒(さ)ますのだ。ただ、南部の為に、津軽を討つというのではない。一つは、その為だが、二つには、領民のために、三つには、武士道のために――奢(おご)っている天下の人心を醒まして、ここに、真個(ほんとう)の武士あることを知らせるのだ)
 関良輔は、そう考えて
「吃驚(びっくり)しましょうな」
「ふむ」
 と、大作は、答えて、火薬の油紙包を、掌の上で、いじっていた。
「供侍のみでなく、天下が――」
「さあ――」
「先生も、お喜びなされましょう」
 大作は、答えなかった。良輔も、黙ってしまった。
 街道には、時々、人が通った。葉の間、枝の間から、ちらちらと、見えていた。
「先触れも、通りませんな」
「少々、遅いが――」
 人の影が見えると、二人は、津軽の行列の中の一人では無いかと、じっと、すかして眺めていた。
「外の道を、もしかしたなら――」
「そんなことは出来ん。無届で、参覲交代の道を変えることは、重い咎(とが)めになる」
「え、――降りて、見て参りましょうか」
「明日にでも、延びたか――」
「そんなことも――」
 大作は、大砲へ頬を当てて、もう一度、照準をきめてみた。半ヶ月前、半沢山から青面金剛堂を、打破ったので、大砲の偉力は十分に信じることができたし、自分の火術にも、十分以上の自信がもてる。
 大砲は、紙製であったが、良質の紙を重ね合せた固さは、鉄と同じくらいの固さをもっていた。大作は静かに、大砲の肌を撫でながら
「陽が、傾きかけたのう」
 と呟(つぶや)いた。
「その辺まで出て、様子を、見てまいりましょう。このまま――」
「よし、大急ぎで」
 良輔が、立上って、草の深い中を、手で分けつつ、走り出した。
「気をつけよ」
 良輔は、頷いたまま、すぐ木の中へ、草の中へ、見えなくなってしまった。

    四

「先生っ、言語道断」
 良輔が、叫んだ。
「何んとした?」
「道を変えて、逃げ走りました」
 大作は、草の中へ、立上った。
「道を変えたか」
「裏道へ」
「裏へ」
「何んとも申しようの無い卑怯(ひきょう)者。何うして、これが洩れましたか、それにしても侍共が、まだここへまいらんのは、幸で御座りますが、早く立退きませんと、いつ、何時まいるかと――」
「そうか」
 大作は、火薬の包を、大砲へ、抛出すように置いて
「矢張り、裏切者がいたか?」
「百姓らで、御座りましょう」
「それは判らんが――」
「先生、もし、役人が、来ましては」
「もう、追っつけ暮れるであろう。周章(あわ)てることは無い」
「折角の大砲が――」
「大砲は、また造れる。当節は、いろいろと苦心して造っても、学んでも、役に立たんことが多い。学んで、役に立つのは、流行(はやり)唄ぐらいのものだ。是非も無い」
「大砲は?――このままで――」
「真逆(まさか)、背負って歩く訳にも行かぬ、又、誰か、心ある者でも、発見したなら、工夫の役に立つこともあろう」
「よく出来ましたに、惜しゅう御座いますな」
「惜しゅうて、役に立たんのが、ずい分いる。平山先生の如き――」
「全く」
 と良輔が頷いた。
「参ろう」
 大作は、残した物の無いのを確めてから、草の中を、静かに歩き出した。
「残念だ。津軽め、命冥加(いのちみょうが)な」
 良輔が呟きつつ、ついて行った。
「併(しか)し、わしも、命冥加だぞ」
 大作が、振向いて、笑った。

    五

「一足ちがいだった。残念な」
 女狩(めがり)右源太は、大声で、叫んだ。人々が、振向いた。
「警固、御苦労に存じます」
 右源太は、役人に挨拶した。
「いや」
 役人も、軽く頭を下げた。
「江戸から、大作を追うておりまして、ようよう手蔓(てづる)を握ったかとおもうと、取逃しまして――」
「ほほう、江戸から――」
 役人と、役人の周囲にいる木樵(きこり)、百姓が、一時に、女狩の顔をみた。
「拙者は、南町奉行附同心、女狩右源太と申します。役目によって大作の手に倒れました兄の仇討なり、又二つには、役の表によって――」
 右源太が、話している内に、役人も、あたりの人も、幾度も頷いた。
「大作を、召捕ろうと――それが、半日ちがいで、取逃すとは――」
「御尤(ごもっと)も――」
 右源太は、役人の脚元を覗いて
「それが、大砲で御座りますか」
「いかにも――」
 右源太は、脚下へ、しゃがんで、大砲を叩いてみて
「紙?」
 と、見上げた。
「紙らしく見受けますな」
「はははは、手遊びの――これは、嚇(おど)かしで、昔の楠公の――」
「めっそうな、お武家様。あんた、これで、この先一里余りの所にある御堂をめちゃめちゃに打ちこわしましてな」
「馬鹿らしい。それは、買冠(かいかぶ)りじゃ。余り、大作を恐れすぎている」
「いいえ、本当に――」
「その時は、青銅製で、嚇かしておいて、これで又、嚇かそうと、――元来、彼、相馬大作の先生、平山行蔵なる代物が、いかさま学者で、奇を売物にしているのだからのう」
 と、いった時
「退け退け」
 と、いう声がして、供を先に、後に、裏金陣笠の侍が、草の中から胸を出して、近づいてきた。

    六

(埓(らち)も無い)
 と、右源太は、山を降りながら、思った。
(相馬大作、相馬大作と、豪傑のように――来てみれば、左程でも無し、富士の山だ。紙の大筒など、子供欺しをしおって――万事、平山のやり方は、山師だ。玄関先に、堂々と、いかなる身分の者、いかなる用件といえども、紹介する者無しには、面謁せぬと。頼山陽先生さえ、断ったというが――たわけた沙汰だ。大作も、その弟子だから、見えすいた術策を弄して――紙の大筒――よし、今日まで、世間の噂、びくびくしていたが、正面からの太刀打は――まず、出来んとしても、欺し討ちなら、大丈夫だ。天下のお尋ね者を討取り、重ねて兄の仇を討ったと――まず、安うて二百石。二百石になると、新吉原へ行っても太夫所が買える。芸者なら、櫓下(やぐらした)――)
 右源太は、にやにや笑いながら、曲り、折れる急坂を、とことこ小走りに、降りて行った。
(早く、討取って、早く戻って――何んしろ、食物の拙いのには、恐入る。食物は、江戸に限るて――)
 右源太は、江戸のことを思いながら、足は、大作の去ったと思う、津軽領の方へ、急いでいる。
「米沢街道に、白菊植えて
何さ、聞く聞く
便りきく
米沢街道に、松の木植えて
何を、まつまつ
主を待つ
とこ、すっとこ、ぴいとことん、か」
 右源太は、唄いながら
「おっとっと」
 と、独言をいって、細い、急な坂道を、どんどん降りて行った。行手に、道が白く延びていて、田畑か、川が、家の屋根が、見えていた。

    七

 二人の侍が、ずかずかと、茶店の中へ入ってきて
「只今、津軽越中守様が、御通行に相成る。許しのあるまで、ここから出んよう」
 茶店の亭主が、膝まで手をおろして
「はいはい」
 と、つづけさまに、お叩頭をした。役人は去ってしまった。
「厳しいのう」
 一人が、隣りの男へ、小声でいった。
「大砲以来、とても、とても――へっ、昼寝でもしてこまそか」
「然し、相馬大作って、人は、大きい声でいえねえが、えらい人だの。一人で、南部を背負って立って、津軽の睾丸(きんたま)を、縮み上らせているのだから――」
「越中さんも、ここまでくりゃ、然し、一安心だ。川を越えりゃ、自領だからのう」
「へい、へい」
 表で、忙がしい返事がして、一人の旅商人が、一人の役人に襟首をつかまれながら、小走りに、押されて茶屋の中へ入ってきた。
「うろうろするな、野良犬めっ」
 役人は、商人を突放しておいて、去ってしまった。
「何うもはや――」
 商人は、襟を直し、髪を撫でて
「御免なされて、どうも、うかうか歩きもできん」
「何うしましたえ」
「何にね、その村から、近道しようと、畦(あぜ)を出てきたら、こらっと、やられて、猫の子みたいに、首筋を掴まれて――何うも、相馬大作も、いろいろたたりをしますわい。しかし、川筋の取締りが、大変で御座りますよ。津軽領には、二百人から出張ってで御座りますな。ずらっと、堤の上に――」
 女狩右源太は、人々の話を聞いていたが
「そうも、恐ろしいかのう」
 と、呟いた。人々は、一斉に、右源太を見て
「ええ、檜山領の百姓には、生神様のように思われて――」
「大砲を何しろ作って」
「見たか、その大砲を」
「いいえ」
「わしは見た。紙じゃ」
「紙? 張りこの?」
「そうじゃ。余り、びくびくすると、張りこが、鉄(かね)に見える。世間が泰平じゃと、話が、面白可笑(おか)しく尾に鰭をつけていかん。大作など、人気とりの山師にすぎん」
 人々は、黙ってしまった。
「出るな、出るな」
 幾人も、袴をくくり上げて、草鞋履(わらじば)きで通って行った。行列が、近づいてくるのであった。

    八

 人々は、渡し場の、草の中へ、膝と、手とを突いていた。舳(へさき)にも、艫(とも)にも、船頭が、川の方を向いて、両手を突いていた。船中の侍は、駕の側、前後に、膝をついていた。駕の中に、垂れをあげた津軽越中守が、腕組して、水を眺めていた。
 川下にも、川上にも、小舟の中にも、侍が立って、川面、両岸を、警戒していた。向う岸の、津軽領には、人々が、草の上へ黒々と立っていたし、馬が、槍が、人々の頭の上で動いたり、光ったりしていた。
「出ます」
 杭を押えていた侍が、こう叫ぶと共に、船頭が立上って、纜(ともづな)を解いた。船は、静かに、舳を川の方へ押し出しかけて、四人の船頭は、肩へ竿を当てて、力を込めた。
 川水は、少し濁っていて、杭には、草が、藁が引っかかっている。岸の凹みには、木切れ、竹、下駄などが、浮いていた。
「おーい」
「おーい」
 船頭は、合図をして、竿を外して、艪(ろ)に代えた。船は、ぴたぴた水音をさせつつ、静かに、中流へ出た。
「ああ何か」
 と、岸の一人が、呟いた。船べり近くの水面へ、黒い影が浮んできたのが、見えたからであった。
「何?」
 一人が、振向いた。
「あれ」
 と、指差すか、差さぬかに、水がざっと泡立ち裂けると、白鉢巻をした顔が――手が、足が――
「曲者っ」
「曲者っ」
 岸の人々が叫んで、手を延した。
「曲者だ」
 二三人が、警固の船手の方へ走出した。四五人が、刀を取って、草叢へ抛出し、羽織を脱いで袴へ手をかけた。
「ああ」
 人々の絶叫が、両岸から起った。

    九

 人々が、動揺し、絶叫した瞬間――川の中の男は、船中へ跳上っていた。駕側の供が立上った時、駕は、左へ傾いて、越中守が駕へ、しがみつきながら
「何を致す」
 と、叫んだ時であった。一人が、刀へ手をかけ、一人が組みつこうと、手を出した時、越中守の首を抱えると、力任せに、脚を船べりへかけ押しながら、己の身体の重みを利用して、越中守を抱いたまま川の中へ、半分傾いていた。
「うぬっ」
 一人は、抜討に斬ろうとしたが、男の上になって落ちて行く越中守へ、刀が当るので、はっとした時水沫(しぶき)を、高く飛ばし、川水に大きい渦巻を起して、二人の姿は、川の中へ没していた。
 手早く羽織をとった、一人が、川の中へ飛び込んだ。二三人は、刀を抜いて、左右へ動揺している船中から、川水を、睨みつけた。又一人が、飛込んだ。つづいて、裸の一人が、両手を延して、飛込んだ。川水は、人々に掻乱されて、岸の方へまで、波紋を描いた。
 わーっという両岸のどよめき――必死に漕(こ)いでくる警固の舟――川水の中へ、浮き上る黒い頭。その度に人々は
(越中守?)
 と、凝視したが、それは、家来で――いつまで経っても、越中守は浮いて出なかった。
(殺された――相馬大作だ)
 と、人々は、思って、自分達が、手出しをしても、無駄なような気がした。街道を、堤の上を、百姓が、旅人が、走って来たが、誰も止める人が無かった。
「血だ」
「ああっ。血だ」
 四五人が、水面を指さした。反対側の人々が、一時に見にきたので、船が傾いた。
「危ない」
「血だ」
「いかん。おーい、ここに血が」
 船中の人々は、川の上下で、水に潜ったり泳いだりしている人々へ、叫んだ。人々が、泳いで集ってきた。
「見えた」
「浮いた」
 川上へ黒い影がさしてきた。越中守の、黒い着物と、袴とが、水へ写って打伏(うつぶ)せになって、浮上ってきた。
 両岸の人々は、土堤(どて)の左右へ、我勝ちに走って、川面を、川岸を、注意していた。二町も、三町も、川の上、川の下へ、人々は、槍をもち、袴を押えて、走っていた。だが、曲者の姿は、浮いて来なかった。

    十

「何うだい、凄いことをやるじゃあねえか、この狭い渡し場で、多勢の中を、一体天狗業だの」
 一人が、堤の草の中へしゃがんで、こういった。
「全く」
 一人は、女狩を、見上げて
「お武家衆、だから、相馬大作って方は、えらいというのですよ。第一、どう潜ったのか――あいつら夜になっても、ああして張るつもりだろうが、お前、川の中に、抜穴かなんか、あるのだぜ。そうで無けりゃ、第一、呼吸(いき)ができんもんな」
「大作って人は、三日位、呼吸をせんでもいいように――」
「□(うそ)つけ。飯じゃあるめえし――」
「いいや、羽黒の山伏について、修行したんだとよ。その辺の川底に、まだ、潜ってるかも知れんよ」
 女狩は、人々の話を聞きながら
(噂通りに、大変な奴だ)
 と、思った。
(この川へ、何う忍んだのか? 忍ぶのは、夜の内からでも、忍べるが、刺し殺しておいて、何うもぐったのか――判らん。大砲で、討取れなかったから、こんな、突飛な真似をしたのであろうが、成る程な、一人で、乗込んでくるだけある。わしの手におえる奴ではない。十人かかっても敵うまい――といって一体わしは――江戸へ、このまま戻りも出来んし――一体、何うしたらな)
 川面を眺めて、じっと、立っていた。
「渡しを出さんかよう」
 二三人が、叫んだ。
「この大騒ぎに、お前、出すもんか」
 女狩は
(せめて、大作の評判、足跡だけでも聞いて江戸へ戻ったなら――いいや、討取るといって出てきたのに――第一、何か、一手柄立てて戻らんと、女がもらえぬ。あいつは、別嬪(べっぴん)だから――)
 女狩は、失望を感じたが、それと同時に、辛抱をする決心をした。
(この辺に、大作は、潜んでいるにちがい無い。何か、うまい計略でも考えて――)
 女狩は、川岸の乱杭の中に、流れついた竹が、ぴくぴく動きながら、立っているのを、じっと凝視(みつ)めて
(兄も、運の悪い、えらい奴に、討たれたものだ。対手が、強いだけならとにかく、評判までいいのだから――)
 じっと、俯きながら、竹の、川水に動くのを、凝視していた。

    十一

 夜になった。女狩右源太が堤に立って、眺めていた竹筒が、左右へ動くと、人の顔が水の中から出てきた。耳と、眼だけを出して音を、影をうかがってから、首を、胸を出した。そして、身体を顫(ふる)わしながら、堤の上へ這上(はいあが)って、又、暫(しばら)く、四辺を、警戒していたが、静かに、指を口へ入れて、ぴーっと吹いた。
 提燈が、堤の両側に、川下に、川上に動いていた。夜風が、もう冷たくなっていたので、大作の身体はがたがたと、眼に見えて顫(ふる)え出してきた。
「ぴーっ」
 それに応じて
「ほーう」
 と、ふくろうの鳴声がした。低く、ぴっと鳴り、又、ほーっと応じた。茶店へ、押入れられた商人が
「先生」
「寒い」
 暗い中で、大作は、手早く、どんつく布子をきて、髪を束ねた。そして、薬をのんで
「大丈夫か」
 と、いった。
「人数は出しおりますが、恐ろしさが、先で、一言名を名乗ったら、逃出しましょう」
「百姓共は、何んと、申しておる」
「喜んでおります」
「ならよい。村へ逃げて入れば、どこかへ匿(かく)してくれよう」
「食事を」
「歩きながら」
 大作は、立上った。
「よく――何と申してよろしいか、人間業では御座りませぬな」
「いいや、人間業じゃ。死を決して行えば、鬼神も避けるし鬼神も討てる。遠くから手を束ねて討とうなどと考えたから、大砲は仕損じたが、越中風情短刀一本で事が足りる」
「首は」
「首か――斬ろうとは存じたが、わしに救いを求めているらしい眼をみると、気の毒でのう」
「首があっては、家断絶にはなりますまい。急死の届けで、済みましょう」
「首が無(の)うても、当節の役人は、袖の下で、何とでも成る。殺しておけば、津軽も、命には代えられんと思うから、檜山を返すであろう」
「然し」
「戻さん節は、また、殺す」
 大作と、関良輔とは、堤の上から、田圃の畔(あぜ)へ降りて、紙燭をたよりに、村の方へ歩いて行った。

    十二

 いつまでも、渡し舟が出ないで、夕方近くになったから、人々は、そこから先の旅をあきらめて、近い村の百姓家で、泊ることにしていた。
 噂は、大作のことで、一杯であった。誰も、彼も、大作を、日本中で生れた、どの豪傑よりも強いと、称(ほ)めた。
「何しろ、船の中へ、一人で斬込んで、川の中へ潜ってしもうたんだから――」
「大作って、いい男だってのう、色の白い、齢(とし)は――三十七八、背の高い――」
 女狩が
「齢は三十じゃ。余りよい男では無い」
「おやっ、御存じですかい」
 と、いった時、女狩は、側へおいてある刀へ手をかけて、じっと、往来をみた。広い土間に集っている人々は、煙草と、出がらしの茶とを楽しみながら、大声で、談笑していて、一人の侍についても、誰も、注意していなかった。
 往来を行きすぎかけた四人の人が、人々のどよめき、笑い声に振向くと、その中の一人が、走って入ってきて
「吉」
 と、叫んだ。
「おいの」
 二人が、何か囁いていた。女狩は、刀をもって、そうと、土間へ降りた。
(大作にちがいない)
 女狩が、出ようとすると
「これ、お武家、何処へ、行きなさる」
 女狩が、振向いて
「ちと、外へ」
 その男は、首を振って
「いいや」
「何故」
 大作は、向う側の軒下に立っていたが、誰かが、声をかけたらしく、その方を見て、すぐ、行きすぎてしまった。女狩が外へ出ようとした。
「これ、駄目だ――おーい、吉」
 男は、女狩の肩へ手を当てて
「強(た)って行かしゃるなら、承知しねえ。赤湯から、大作様の跡をつけてきてるというのは、お前様かの、それが、本当なら、ただではおかんぞ」
 上り口の人々が、一斉に
「そうだとも」
 と、叫んだ。女狩は、少し蒼くなって
「違う。それは、違う。人違いじゃ。わしは、何も――」
「じゃ、早く、離れて行って、休まっしゃれ。おい、お春や、案内して上げな」
 女狩は
(うかうかしていると、危いぞ)
 と、思って、人々の間を、足早に、奥の方へ入って行った。

    十三

 女狩右源太は、ぼこぼこ土埃(つちぼこり)の立つ街道を、俯きながらゆるゆると歩いていた。足は、南部の方へ向いていたが心はそれと、一緒ではなかった。
(一体、俺は、何うしたならいいんだろう。このまま、何処まで、歩きつづけるのか? 歩いたならいいのか? 相馬大作は、この近くにいる。そして、俺と前後して、矢張り、この街道を歩いているかも知れぬ。俺が、馬で追っかけたなら、半日で追っつけるかもしれぬし、俺が、ここで待っていたなら、半日の内に、目の前へ通りかかるかもしれぬ――しかし――だ)
 右源太は、そう思うと、昨日の宿での、大作の人気に、肌を寒くした。
(大作を召捕りに、江戸から出向いたものだと、一人に話したら、何うだろう。あの百姓共の殺気の立ち方は?――俺は、袋叩(ふくろだた)きに逢って、簀巻(すま)きにされるかと思った。それに、又、あの大胆な大作の振舞は――津軽公を殺して、姿を変えてのこのこと、村の真中へ出てくるとは――いくら、村人が同情していても、人の心は計られんのに――そして、その大作が、村の人へ、よせよせ、生殺は天にある、越中守のように厳重警固していても、討たれる時には討たれる、こうしても、討てん時には、討てん、のう、そこのお役人、と笑った時には、腹の底から、冷たいものが湧いてきたが――俺は、ほうほうの体(てい)で、宿を出たが――俺には、到底、あいつは討てぬ、といって、このまま、のめのめと江戸へは立戻れぬ。江戸では、越中守を討ったから、また、大評判であろうが、その中へ、戻ることは、俺が恥を掻きに戻るようなものだ。
 右源太は、行手からくる旅人の足、追抜いて行く馬の脚を、夢のように感じながら
(所で、旅銀だ)
 と、腹巻の上から、手を当ててみた。
(未だ、大丈夫らしいが、然し、十分ともいえぬ。こいつが無くなっても、大作が討取れなかったら?)
 右源太は、この辺から奥へ行くと、だんだん大作への人気が高くなって行くのを知っていたが、江戸へ戻ることは、流石(さすが)に出来なかった。
(とにかく、一服して、腹ごしらえをしてからだ)
 編笠から眺めると、土堤沿いの、大きい木蔭に、簾(すだれ)を立てて茶店があった。樹の背後の土堤の草の中に、馬が二匹、草を食(は)んでいた。
(飯を食ってだ)
 と、思って、右源太は、茶店へ急いだ。

    十四

 鰊の焼いたのと豆腐とで飯を食べていると
「八文かね――置くよ」
 と、隅で元気のいい声がした。右源太は一杯目の飯を食ってすぐ
「代り」
 と、茶碗を突出した時
「どっこいしょ」
 と、右源太の後方で、懸声して
「お武家様、少々」
 と、丁寧にいった。右源太は、大きく開いた右脚を、引込めて、振向くと、すぐ、顔を反向(そむ)けた。
(大作だ――いいや、よく似ているが違う。鼻が違う)
 大作を恐れる心が、右源太を、警戒させ、狼狽(ろうばい)させたが、ちがうと思うと、すぐ、振向いて、その男の顔を眺めた。大作と同じ頃の齢で、ただ少し、鼻が低い外、似た男であった。木刀を一本差して、南部家中の小者らしく、挟箱(はさみばこ)を肩にしていた[#「していた」は底本では「してゐた」]。
「御免なされ」
 右源太の前を、小腰をかがめて通って
「さよなら」
 と、竈(かまど)の前の、爺に声をかけた。横顔も、どこか大作に似ている。
「さよなら、有難うよ」
「御馳走様だ」
 小者は、急いで出て行った。
(そうだ)
 右源太は、空腹を忘れてしまった。
「旦那様」
 婆の差出した盆の上の飯を手に取ったが、すぐ、側へおいて
「勘定」
 と叫んだ。
「御飯を、旦那様」
「いらん、早く勘定を」
「何が、お気に障(さわ)りましたで御座いましょうか――」
 爺が、そういいながら、いくつも穴の並んだ、土竈の角を廻って出てきた。
「いいや、いいや、一寸、急ぎの用を思い出したゆえ」
「それなら――ああ、心配致しました。この婆め、頓間(とんま)で、いつも――」
「おやおやおや、自分のもうろくを棚へ上げて、人を頓間などと――」
「勘定を早くと申すに」
「はい、はい」
 爺は、周章(あわ)てて、引込んだが
「十二文で御座ります。御粗末様で」
 右源太は、腰の巾着から小銭を出して、ばらばら腰掛けへ落して、編笠を掴むと、小走りに出てしまった。

    十五

(悪いこと――そうだ、悪いことにちがいない、然し、止むを得ないことだ。俺を助けるのは、彼奴(かやつ)を斬るより外に道がないのだ――全く、よく似ている。彼奴を斬って、首にし、これなら、誰でも、大作の首にちがいない、というだろう――そして、よし、大作がまた現われたなら?――いいや、越中守を殺した大作が、のこのこ現れよう道理がない。いくら、大胆不敵の奴でも、命は惜しいにちがいない。が、もし、現れたなら?――)
 右源太は、行手に、小さく、黒い挟箱を担いで行く小者を、じっと見つめながら、刀を押えて、小走りに、急いでいた。
(現れたなら?――俺は、大作をよくは知らぬが、大作と信じて討取ったのだ、といえばいい。あれ位似ておれば、間違うのも、無理は無いと、誰でも思うだろう。だが――何うして討ったかと聞かれたら?――それは、尋常では討てんから、計(はかりごと)にかけた、と、いえばいい、そうだっ)
 右源太は、微笑して、後方を振向いた。人影が無かった。
(恰度(ちょうど)いい場所だ。村にも遠いし、人もいないし――彼奴は可哀そうだが――今、もし、彼奴を討って江戸へ戻らなかったら、俺が人から可哀そうがられるだけだ。人から、可哀そうに思われたって、俺には、何んにもなりゃしない。彼奴か、俺か、この世の中に、どっちか、可哀そうな奴が一つできるようになっているのだ)
 右源太は、足踏みして、草鞋の紐の固いのを試し、鯉口を切って、襷(たすき)を取出すと、片手と口とで、素早く、袖を絞り上げた。そして小者の歩き振りを見定めて、編笠を脱いだ。そして、笠で、襷をかくしながら、草の上を音も無く、迫って行った。
南部の山は、黄金(こがね)山
南部の河は、黄金河
 と、小者は、口吟みつつ、歩いていた。
鮭の鱗は、金光り
家老の頭、銅光り
女房の肌(はだえ)は、銀光り
そのまた
やっこらせ
女房の肌を抱く時にゃあ
(肩?――頸?)
 つつっと、小刻みに寄った右源太、足を構えて、踏止まると
「ええいっ」
 大きく、踏出す右脚と共に、十分に延した刀、十分の気合。
「ああっ」
 と、叫んで、挟箱を担いだまま、二間余り走ると、両脚を揃えて、木のように、倒れてしまった。右源太は刀を前へかくして、四方を眺めた。
(上首尾に行った)
 心臓の烈しく打つのを押えながら、心の中で
(人の来ぬよう)
 と、祈りながら、注意深く、小者の倒れている所へ近づいた。

    十六

 相馬大作は、いつもの通り、人を睨みつけるような、関良輔の眼を、じっと見つめながら
「津軽は、老中共に、袖の下をつかましているな」
「としか考えられませぬ。参覲交代の時に、届けもなく、道順を変更して、大砲の先を逃れましただけでも、咎めのあるべき筈のところ――」
「よし、津軽に対して、そういう偏頗(へんぱ)の処置を取るなら、わしは江戸へもどって、相馬大作の名乗を上げてやろう」
「先生、それは――」
「いいや」
 大作ははげしく、首を振った。蒼白い顔色であるが、頬骨は高く、額の広い、面擦れのできた大作は、こういうと、何人(なんぴと)も動かしがたい決心の様が、眼にも、額にも、脣(くちびる)にも、現れたようであった。
「わしを召捕るなら召捕るがいい。津軽に袖の下を掴まされたのは、老中の一人か二人、または三四人のかかりの者位であろうが、奉行所まで、真逆、動かされてはいまい。わしを召捕って、訊問するとなれば、南北両奉行寺社奉行立会いの上であろうが、その面前でわしのしたことを、包みなく披露してやろう。さすれば、罪は津軽のみでなく、老中へまで及んで、現時の如き、腐り果てた支配向きは、いささかなりとも直ることもあろう」
「然し――」
「奉行が老中に、圧迫されるというのであろう」
「はい」
「上下共に、法を曲げて直を直とせん世ならば、人生生きていて何の甲斐がある。上下、人民までが、奢侈(しゃし)にのみ走り、遊惰に傾き、大義大道を忘れている世に、碌々(ろくろく)、生を貪っていて、何んの五十年ぞ。その時には、奉行の前で、いささか、心中の気を吐いて、倒れるだけじゃ。丈夫の事を為す。必ずしも事の成否を問わん。ただ、心の命ずるがままに行って、倒れて後やむ。わしは、江戸へ戻るぞ。そして兵学の道場を開いて、天下に向うのだ。廃(すた)れたる世なりと雖(いえど)も、一人や、二人の義人はあろう。それでいい、一人もいなくとも、平山先生が在(おわ)そう」
「私もいささか――」
「お身も時世に逆っているが、誠心は、いつの世にか知己のあるものじゃ。明日、早朝、江戸へ立とう」
 大作は、薄暗い燭台の灯を、半顔に受けて、じっと、天井を睨んでいた。
「越中守を討取っても、改易にならんのか」
「檜山横領を、黙認する位、当然で御座りますな」
「この噂が、世上へ拡まった時、人民は、何う思うか? 私欲のために、天下の法を曲げて徳川の代も末遠くないぞ。良輔」
「はい」
「臥(ね)るがよい」
 大作は、腕組したまま、いつものように端坐して、眼を閉じた。

    十七

「然し先生」
 良輔は、声をかけたが、大作、黙ったままであった。暫くしてから、もう一度
「手前当代の津軽を討とうと存じますが」
 大作は、眼を閉じたまま
「討てるか」
「一人を討っただけで、捕われるのも残念に思いますから、先生が、お手を下されないなら、手前討とうと存じます」
「討てるか」
「短銃で、討てようと思います」
「それもいい。相馬大作が、二人現れてはおもしろかろう」
 大作は、眼を開いて微笑した。
「然し、短銃は、己を全うして、敵を討とうとする得物(えもの)じゃ。凡そ、人を討つほどの者は、敵のみ討って、己を全うしようと考えてはいかん。己も死ぬ、その代りに、敵も斃(たお)す。この覚悟をせんといかん。十死一生、これが、剣道の奥儀じゃ」
「よく心得ております」
「場所は?」
「新らしい橋のあたり」
「よかろう」
「甘酒屋にでも姿を変えまして」
「それもよい」
「十分の距離にて狙撃すれば、逃がすことはあるまいと、心得ます」
「よし、わしは、見ていよう。二人の壮士が現れたことが、何ういう風に、この遊惰な世間へ響くか――やってみるがよい」
「それでは――先生、お名前を、相馬大作のお名前を使いますことを許して頂けますか」
「よいとも」
「有難う存じます」
「短銃?」
「買求めます」
「わしのを使うがいい」
「いえ――」
「精巧でないといかん。相馬大作が、武器も選ばず、旧式のを使っていたと噂されては、心外だ。二十間ほどの着弾距離があるが、十間なら、十分に、打抜けよう。江戸へ戻ってから手渡そう」
「万々、仕損じました節は、お名を汚しませぬ。また、首尾よく仕遂げましたなら、天下の白洲(しらす)にて、いささか学びました、大義大道を説くことに致します」
「良輔」
 大作は、和やかな眼で、眺めた。
「はい」
「わしは、十七八年、平山先生について学んで、ようよう心らしい心になったが、お身は、三年にしかならぬ。よく、その決心がついたの」
「恐入ります」
「血気だけではできんことだ」
「決して、逸(はや)っているのでは御座りません」
「逸っていてもよい。お身が、相馬大作といっても、大作はわし一人しか無い。逸った大作、逸らぬ大作、何(いず)れにしても、世人に与えるものが同じならよい。先生は、お喜びになるであろう」
 鶏が鳴いた。
「夜鳴している」
 と、大作が呟いた時、寺の鐘が、時刻を知らせた。
「寝よう」
 と、いって、床へ入った大作は、すぐ寝入ってしまったらしく、静かな寝息が聞えてきた。良輔は、興奮に冴えた眼を、闇の中で、開きながら
(眠るのと、眠られぬのと、これが心の到る、到らんの差だ)
 そう思いながら、眠ろうとしていると、隣りの部屋で、低く
「南無阿弥陀仏」
 と、繰返している男がいた。
(あの男――あの侍、何処かで、見たことのありそうな――)
 と、良輔は思ったが、思い出せぬ内に、寝入ってしまった。

    十八

 南町奉行附与力、曾川甚八が、足早に出てきて
「大作を討取ったとは、ほんとか、入れ、入るがよい」
 と、立ったままでいって、褥(しとね)の上へ坐った。右源太は、縁側に、平伏しながら
「忝のう存じますが、旅着のまま、むさ苦しゅう御座りますゆえ、これにて――」
「首をもって戻ったか?」
「はっ、恐れながら」
 右源太は、喘(あえ)いでくる心臓、呼吸を押えて、酒浸しの布にくるんだ上を、油紙で巻いた首を、布の中から取出した。臭い臭いがした。曾川は眉を歪めながら、右源太の手許を見ていた。曾川の従者が、左右から、縁側から首を伸ばして、眺めていた。右源太は、油紙を一枚一枚剥(は)いで、布をとり、綿をとって、蒼白(あおじろ)くふくれて、変色している首を剥出(むきだ)した。
「やー、遠路ゆえ、面体損じておりまするが」
 と、曾川の顔を見たくないので、俯いたまま、左手を添えて、首を差出して、平伏していた。
 首は、睫毛は抜けていたり、脣の皮は剥けてしまっていたが、大作らしい面影は、十分に残っていた。
「何うじゃ」
 と、曾川は、左右へ聞いた。
「そうで御座りましょう」
 と、二三人が、答えた。
「女狩、何か、外に、証拠の品は?」
「外にと申しますと?」
「刀とか、懐中物とか」
「生憎く――御承知の如く、彼大作なる者は、十分に変装致しておりまして、手前、討取りまする節は、小者の姿でおりましたが――」
「成る程――して、中々、手者(てもの)だと聞くが、尋常に名乗りかけて討ったか」
「中々――お恥かしい話で御座りますが、欺して討取りまして御座ります」
「欺してな?」
「尋常の太刀討では、手前共、五人、七人かかろうとも敵いませぬゆえ、酒に酔わさして、縄で足をとって、倒れるところを、斬りまして御座ります」
「左様か、何れにしても、討取ればよい。追って、褒美の沙汰があろうが、疲れておろう、戻ってゆっくり休憩するがよい」
 右源太は
(ここさえ無事に通ればよい。全く、芝居でもする通り、首実検は、危ない仕事だ――いいや、危ないように見えていて、昔から、やさしいことらしい。死顔と、生顔とは相好の変るもの――)
 と、肚の中で、仮色(こわいろ)の真似をしてみた。

    十九

 湯の中は、薄暗くて――乏しい光と、濃い湯気とで、すぐ側の人の顔さえ、判らなかった。
白いお馬は、主かいな
今宵帰して、いつの日か
濡れにくるかや、しっぽりと
抱いて、あかした移り香の
さめて、果敢(はか)なや、肌寒の
朝の廓の霜景色
霜にまごうか白い馬
「とくらあ――あちちちち」
 一人の若い衆が、湯の中から、飛上った。
「気をつけろ」
「御免なせい。こりゃお侍さんだ。申訳御座んせん。余り、熱いので、つい――」
「いいや、そう謝らんでもよい」
「お侍さん、何う思いなさいます。あの相馬大作って人を討取ったって奴を?」
 右源太は、はっとして
「うむ、何うしたと?」
「南部の忠臣、相馬大作を討取るなんて、高師直(こうのもろなお)みたいな野郎じゃ御座んせんか」
「そうだのう。たった一人で、津軽二十七万石を向うへ廻しての大働きだ。俺あ、当節、贔屓(ひいき)にしているのは、一に大作、二に梅幸」
「三に横丁の子守っ子さ」
「誰だ、誰だ、こっちい出て来い。面あ出せ、面を」
「御覧に入れるような面じゃねえんで――」
「政公か、こん畜生――何んしろ、やることが、気に入ったね、大砲を山へもち込んで、だだあん」
「こら、耳のはたで、びっくりすらあな。ほら、女湯で、子供が泣き出したわな」
「ばばばあーん、これぞ、真田の張抜筒」
 右源太は、光の届かぬ、湯の中の隅へ入って
(南部だけでなく、江戸にも、人気があるらしいが――もし、江戸へでも、現れたなら)
 と、心臓を固くして、額の汗を拭いていた。人々は
「大作のお師匠さんの、平山行蔵ってのは妙な仙人だが――」
「大作って先生も、近頃の世間の奴らは、遊びにすぎて、といい出すと、うるさいって、村山の若旦那も仰しゃってたけれどもが、俺ら理窟抜きに好きだわな。芝居ですると、団十郎だ」
「芝居でも、船の底へもぐるなんざ出来やしめえ。俺ら、明日から一つ、贔屓(ひいき)にして――墓は、何処だろうな。一つ万燈を立てて、町内で、お参りしようじゃねえか。こんなお墓の石をもっていると、女の子に振られねえぜ。政公なんざ、石塔ぐるみ、背負ってるといいや」
「へん、背負っているのは、女の子だ」
「何を、借金と灸(きゅう)のあととだろう」
「一体、何んて野郎が、大作を討ったのだい」
「さあな、聞いてたが忘れたが――」
「そいつの邸へ、犬の糞を、投込んでやろうじゃねえか。ねえ、お侍さん、御存知じゃありませんか――おや、いねえぜ、二本棒あ」
「何んじゃ」
「うわあ、お出なさいまし、今晩は?」
 右源太は、頭から手拭をかぶって
「熱い熱い」
 と、いいながら、出て行ってしまった。

    二十

「羨ましいな、右源太。当節、百石の加増など、一生かかっても、有りつけんぞ」
 玄関際の、詰所――小さい庭から、差込む明りだけで、薄暗くて、冷たい、部屋の中で朋輩の一人がいった。
「そうでも無い」
 右源太は、扇子を、膝へ立てて、羽目板へ凭(もた)れて、微笑していた。
「まず、重役に妾の世話をするか――己の娘を、差上げるか、そんな例は多いが、これこそ、槍先の功名に等しいからのう」
「然し、町人共は、よく申さぬな」
 と、一人が、口を出した。
「平山行蔵を始めとして、あの門下一党は、世の中を、罵倒して、上役人の無為無能、下人民の奢侈、怠惰を口汚く申しておるが、江戸っ子はおもしろいものだ、そんなことは、蛙の面に水、大作を、役者に見立ててこの狂言大当りなどと、二枚画を出して、叱られた双紙屋さえあると申すのう」
「そうらしい」
 と、右源太は頷いた。そして
「武士の作法で討つなら仕方があるまい」
 といった。
「ところが――右源太」
 と一人が、声を低くして
「大作が、もう一人いると申すでは無いか」
「ええ?」
「見かけたという奴が、確(たしか)に、相馬大作で、然も、平山子龍の邸から出てくるのを見たというが、何うもおかしいの。討たれた奴が白昼出るのは?」
 右源太は、黙っていた。そして
(本当だ)
 と、思った。
(戻ってきているのかもしれぬ。然し、大手を振っては歩きはすまい。二度と、人に顔を見られるようなことはすまい。そんなことをしたなら、身の破滅だからな――俺は、何処までも、そいつは、他人の空似だと頑張っておればいい。もし、本物と判ったなら――その時は、その時だ)
「妙でないか」
 一人が、右源太の顔を見た。
「他人の空似ということがあるからの」
「それはそうだ」
「然し、その男は、確に、大作だと申しておったが――」
「証拠でもあるか?」
「ちらと見ただけだが――」
「はははは」
 右源太は、おっかぶせるように笑った。そして
「そんな話より、岡場所のことでも、話そうでは無いか、何んなら、今夜一つ奢ろうかの」
「結構、一つ、あやかりに――」
「又もや、御意の変らぬ内、拙者一足先へ参っておるとしようか」
 と、一人が片膝を立てた。

    二十一

 だあーん――それは、その近くに住む人が、生れて以来、聞いたことの無い音であった。その近くで、その音を立てたなら、死罪に処さるべき、鉄砲の音であった。
(鉄砲だ)
 と人々は、ぎょっとすると共に、窓を開けたり、跣足のまま走って出たり――往来の人々は、音のする方を眺めて――新らしい橋の橋外の柳の木の辺に、行列の人数の乱れているのを見ると共に――小僧は徳利を小脇にかかえて、溝沿いに、恐る恐る走ると、侍は刀を押えて、町人は顔色を変えて、走り出した。
 人の騒ぐ姿、罵る者、橋外へ来かかった津軽の行列は槍を傾け、挟箱持は濠端(ほりばた)へ逃げ、駕籠(かご)はよろめきながら、人数の乱れる脚の真中に――そして、柳の木の下には白い硝煙が、薄く立ち昇っている。
「津軽だ」
 と、挟箱の金紋を見た侍が、叫んだ。
「津軽さんだ、津軽さんだ」
 群衆は口々に、叫んだ。
「相馬大作じゃないか」
 と、いった時、橋の下に、動揺している侍、白刃、その中に囲まれている人があるらしく
「津軽近江を討取ったのは、相馬大作じゃ。檜山横領の不義をたださんがため、相馬大作津軽公を討奪(うちと)ったり」
 群衆は、わーっと喚声を挙げた。津軽の駕籠は、すぐ、角の、酒井出羽の邸へ、押されるように入ってしまった。挟箱、草履(ぞうり)、御槍の人々が、そのあとを、追って行った。駕籠脇の侍が二十人余り、橋の下の一人を取囲んで、白刃の垣を作っていた。
「やれやれ」
 と、群衆が叫んだ。いろいろの人々が、四方から集ってきた。
「津軽が、討たれましたかい」
「さあ」
「何んしろ、大砲を打ち込んだからねえ」
「じゃ、駕籠は、木(こ)ッ葉(ぱ)微塵でしょうな」
「どこへ飛んじまったか、形も無(ね)えだろう」
「成る程ねえ」
 橋の内部から、七八人の、棒をもった人々が、走ってきた。
「お役人だ」
「相馬大作ってのは、討たれたって話だが」
「何んの、影武者が、ちゃんと、七人あるんだ」
「じゃあ、この大作は?」
「これが、本物さ」
「あとの六人は?」
「今、昼寝している」
 役人が、走ってきて
「神妙に」
 と、声をかけた。

    二十二

 関良輔の、相馬大作は、甘酒屋の荷と、柳の大木を楯にして、脇差を抜いていた。誰も懸け声だけで近づかなかった。役人がくると同時に、自分達は、じりじりと退いた。役人は、棒を構えて
「神妙に致せ」
 と、叫んだ。幸橋の方から、霞ヶ関の方から、群衆と、役人とが――馬上で、徒歩で、それから、その近くの邸の人々は、足軽を出して、群衆を追っ払い始めた。
「神妙に致せ」
 という声が、いつまでもつづいていた。関良輔は、人々が、十分に集ったのを見ると
「白沢の関より届にも及ばずして、参覲交代の道を変更したる段につき、上より咎めあるべきはずを、沙汰の無き、これ一つ。津軽越中守を、国境の渡場にて討取ったる上は、家改易に処すべきに、これまた、咎めの無きこれその二。第三に、天下周知の檜山横領の件。この三つの大罪を犯したる津軽を依怙(えこ)贔屓によって、処断せざること、天下政道の乱れ、これに優ること無し。いささか、南部に縁ある者として、また、天下を憂える者として、ここに、白昼、お膝下、衆人環視の内において、津軽近江を討取ること万人が、その証拠人であろう。これによって、津軽を処分せずんば、信を天下に失うものと知るがよい」
 関良輔は、赤くなって、絶叫した。群衆の中から、幾人もが頷いた。
「無益の殺生は致さん、思うこと申したる上は尋常にお縄を頂戴致そう」
 良輔は、こういって、脇差を鞘へ納めて、荷の上へ置いた。
「神妙に致せ」
 一人が、棒を突出して、じりじりと寄った。一人が、素早く、後方から、組みついた。と、同時に、役人と津軽の家来とが、飛びついた。髻(もとどり)をつかんだ。脚を蹴った、役人が
「無法なっ」
 と、叫んで、津軽の者を、突きのけた。
「馬鹿野郎、津軽の馬鹿っ」
 と、町人が、叫んだ。
「卑怯者っ、武士かっ、それでも武士かっ」
 と、一人の侍が、走り寄った。良輔は、血を流し、髪を乱して微笑していた。役人は、津軽の人々の手から、良輔を守って、橋を渡りかけた。
 群衆は役人に追われつつついて行ったり、出羽の邸をのぞいたりして、だんだん数が増してきた。甘酒の荷と、短銃と、脇差とをもって、役人は、奉行所の方へ走った。
「志士というべしじゃ」
 と、老人の侍が呟いた。
「大作は、もっと、痩せて、身丈(みたけ)が高いと聞いておったが――」
 と、一人が呟いた。その群衆の、後方の方で
「大作――大作が――本当かの」
 と息を喘(はず)ませて、右源太が、人に聞いていた。そして、群衆の中を、走って行った。新らしい橋へ来た時、もう、大作の姿も、役人の姿も無かった。
(大作の畜生っ、何んて、大胆な――こんな所へ現れて――畜生っ、俺は、じっとしておれなくなったぞ、百石どころか、元も子も、棒に振るか、振らんか――畜生)
 右源太は、脣を噛みながら、濠に沿うて歩き出した。
(ここは、濠だが――いつか、南部の方へ、ぼんやりと、歩いて行った時は、こんな気持だった。あれから二ヶ月しか経たぬのに、又――俺は、何うすりゃいいんだ。俺の考えておいた弁解が通るか通らぬか――通らなかったら――)
 右源太は、蒼い顔をして、俯きながら、まだ、だんだん増してくる群衆の中を、当てもなく歩いて行った。

    二十三

 曾川甚八は、右源太を睨みながら
「聞いたであろうな」
「はい」
「何んと申訳する? 上を欺いた罪――」
「いえ――」
「黙れ。その方の申し分を信じて、お上へ取次いだる拙者の面目、何んとなると思いおるか? 拙者を盲目にして、お上を欺いて――」
 曾川は、拳を顫わして、声を大きくしてきた。
「恐れながら――」
 右源太は、真赤な顔を挙げた。
「お言葉を返して恐入りますが、手前――昨日捕えられました大作は、似而非者(えせもの)と心得まする?」
「何?」
「或は、手前の討取りましたる大作が、似而非者で御座りますか――その辺、いかがかと存じまするが、相馬大作なる者は、三人も御座りまして、何れが本物やら――いろいろと南部領にて、取調べますと、判らないところが御座ります。白沢の駅で大銃(おおづつ)を放とうと企てたのが、真正の大作か、渡し舟のが、当の本人か、どうも、出没自由にて、稀代の曲者と心得ます。手前の、討取りました大作も、その中のたしかに、手前の兄を殺しましたる、大作に相違御座りませぬが、外にも、どうも大作がいるらしく――それゆえ、大作を一人とお心得下されましては――と、恐れながら、御賢察下さりますよう――」
 右源太は、こういって
(吾ながら、うまい)
 と思った。
「ふむ」
 曾川は、暫く、黙っていたが
「同一人が、三、四人も居ると申すのか」
「はい」
「それなら、それで、何故早く、そう申さん?」
「はい――余り奇怪な事柄ゆえ、或は、お取りあげに――」
「重大なことではないか。その方一存で、胸の中へしまっておくべき事柄とは、ちがうではないか」
「恐入りまする」
「今一応取調べるが、その方の討取ったのは確に、相馬大作であろうな」
「はっ」
「よし退れ」
「お耳に逆らって、恐入ります」
 右源太は、心の中で、微笑しながら、詰所へ退ってきた。

    二十四

「大作が二、三人いる? 馬鹿なっ」
 と、一人が、怒鳴った。
「いや、いる」
 右源太は、はっきりといった。
「相馬大作は、下斗米将実(しもとまいまさざね)では無いか? 平山塾へいって聞けばすぐ判ることだ」
「然し、下斗米将実だけが、相馬大作と名乗っているだけでは無い、外に――」
「昨日の相馬大作、あれ一人だ。あれが下斗米だ」
「では、拙者の討取ったのは、同名異人だと申すのか?」
「そこが判らん」
「判らずに――」
「いいや、大作は、中々の腕だからのう、世の中には、似た者が、いくらもあるし――」
 右源太は、膝を立てて
「贋首(にせくび)だと申すのか」
 と、怒鳴った。
「怒っては困る」
「不届ではないか? 上のお眼鏡まで、汚すではないか」
 右源太が、こういった時、襖を開けて、足早に入って来た一人が
「昨日の大作は、本物でないぞ、あいつは、大作の弟子の関良輔という人物じゃ」
「ええ?」
 右源太は、微笑した。そして
(俺は運のいい人間だ、そうだろう。大作が、のこのこと江戸をうろつくものか、津軽とて、黙って見逃してはおくまいし――何うだ。うまく行く時には、うまく行くものだな)
 右源太に反感を、疑惑をもっていた朋輩は、顔を、一寸赤くして
「関良輔?」
「うむ」
「奉行所で聞いたのか?」
「聞いてきた。追っつけ此処へも、回状がくるであろう」
「ふうむ」
 朋輩は、腕組をして俯いた。
「相馬大作が一人でないことは、南部まで行かんと判らん。大名相手の大仕事を、一人や二人で出来るものかを考えずとも、判りそうなものじゃ」
 右源太は、静かにいった。右源太を、平常から軽蔑していた上に、今度の加増で、反感と、嫉妬とをもっていた人々は、右源太に、こういわれて、じっと、横から、その顔を睨みつけていた。白々とした空気が、部屋一杯になってしまった。

    二十五

「何うでえ、野郎。日本中の胆っ玉を、一人で買集めたってんだ。ええ、何うでえ」
 と、職人は、大声を出していた。新らしい槻の板に
「実用流軍学兵法指南 相馬大作将実」
 と、書いたのが、門にかかっていた。黒塗の門で、石畳が七八間も、玄関までつづいていて、その左側に、道場があるらしく、武者窓が切ってあった。
 看板の前に、大勢の町内の人が集って、口々に、話合っている。そして、侍が近づいて覗き込むと
「どうでえ。これがほんとうの勇士ってんだの、百万の敵中へ、たんだ一騎、やあやあ近くば耳にも聞け、遠くば鼻で嗅いでみよ――」
「ほほう、大胆な仁だのう」
 侍が、呟くと
「一番手合せなすったら?」
「立合せか、花かるたなら致そうが――」
「こいつは話せる、旦那」
 と、いっている間に、薄色の羽織、小粗い仙台平(ひら)の袴の侍は、去ってしまった。
「ああいう侍ばっかりの中へ、何うでえ、町内の誉だぜ。又来た、来た」
 一人の侍が、眺めてみて、首を振って
「不敵不敵」
 と、呟きながら行った。
「あん畜生、余り女郎買して、鼻が無くなったんだろう。素的素的ってのさ、不敵不敵って、いってやがらあ」
「しっ、聞えるぜ」
「ほっ、又来た」
 一人の若侍が、小者に、何かの包を持たせて、人々の中を、玄関へ入って行った。
「ほっ、弟子入りだ。しめしめ、出てきたら胴上にしちゃえ」
 珍らしい物、珍らしいことを、何よりも好んでいた江戸の人々は大作の放れ業を、大胆さを、渇仰(かつごう)して、超人のように称(とな)え出した。町内の人々は、自分の仕事をすてておいて隣りの町へ、自慢に行った。隣りの町の人々は、すぐ見に行って、その隣りの町の人々へ先に見てきたことを自慢した。そうして相馬大作の顔を見ようとする男、女――子供、老人、あらゆる人々が、往来一杯になる位に出てきた。役人がきた。人々は、動揺した。役人が戻った。
「今に大捕物があるぜ」
 と、噂した。そして、徹夜までしたが、何も無いと知ると
「役人も手がつけられねえ、八十人力だというからのう」
 とか
「邸の中に、お前、地雷火が伏せてあるんだとよう」
 とか、話をした。そして、相馬大作の再現は、江戸中へ、拡がった。

    二十六

 大作は縁側へ出、庭に向って、毛抜きで、頤髭(あごひげ)を抜いていた。
(何時捕えられるかもしれぬ――いつ、捕えられてもいい)
 邸の外では、群衆が、大作に聞える位の大きい声で、口々にその素晴らしい、英雄的行為を称(ほ)めていた。大作は、眼を険しくして、眉をひそめて
(町人共は、わしを称めている。然し、あいつらに、わしの行いは判るであろうが、わしの志は判るまい――だが、それは無理も無いことだ。町人までが、わしの志の判る世の中なら、それは堯舜(ぎょうしゅん)のような時代だ、老中、重役共でさえ、大義が何んであるかを知らない時世だ。こういう世の中において、義を述べんとする者は、死を以(もっ)てなすより外にない)
 大作は、褌(したおび)を新らしくし、下着を取替えて、いつでも、召捕られる用意をしていた。
「入門者が、参りました」
 と、新らしく召抱えた田舎出の老人が、いってきた。
「入門者?」
「はい、若い、御大身らしい方で、御座りますが」
「客間へ通しておけ」
 大作は、そういって
(奉行所からの廻し者であろう)
 と、思った。そして、頤を撫でて
(こうしておけば、十日、二十日、牢屋におっても、むさくるしい顔には成らん)
 と、考えながら、客間へ立って行った。
 客は、黒縮緬の羽織に、亀甲織の袴をつけた、若い侍であった。挨拶を済ますと
「入門を、お許し下されましょうか」
 と、いった。大作は
(奉行の手の者では無い。それにしても、物好きな――)
 と、感じると同時に
「相馬大作は何者で、何をした男か、御存じの上か?」
「心得ております」
「咎めを受けることがあるかもしれぬが、御承知か?」
「義を、道を学ぶ者として、俗吏の咎め位を恐れて、何と致しましょう」
 若者は、その当世風の着物に似ず、しっかりした口調でいった。大作は、微笑して頷いた。そして
(世間は広い。こんな若さで、こんなことをいえる侍も居る。
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