鍵屋の辻
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著者名:直木三十五 

鍵屋の辻直木三十五     一 張扇から叩きだすと、「伊賀の水月、三十六番斬り」荒木又右衛門源義村(みなもとのよしむら)――琢磨兵林(たくまひょうりん)による、秀国、本当は保和、諱(なのり)だけでも一寸(ちょっと)これ位ちがっているが――三池伝太光世(みつよ)の一刀をもって「バタバタ」と旗本の附人共三十六人を斬って落すが、記録で行くとこの附人なる者がただの二人になってしまう。その上困った事にはこの天下無双の荒木又右衛門が背後(うしろ)から小者に棒で腰の所を撲られている。琢磨兵林――これは著者が鳥取に渡辺数馬を尋ねて行って書いたものと称しているが時々誤りのある実録物だ――だと、これがもう一つひどくなって頭を二度槍で撲られている。とにかく柳生十兵衛取立の門人一万二千人――但し講釈師の調査――の中から、只一人の極意皆伝という又右衛門が小者輩(こものはい)に腰だの頭だのを撲られては恩師十兵衛に対して甚(はなは)だ申訳の無いことであるし、第一三十人も御負けをつけて贔屓(ひいき)にしてくれた講釈師に対しても全く済まぬ訳であるが、どうも事実だから曲げる事もできない。尤(もっと)も芥川竜之介に云わせると、「そりゃ君、又右衛門が棒だと知っていたから撲らしておいたのだよ」 と説明するがこれは、氏の機智意外に面白い解釈である。棒位なら時として撲らしておいてもいいというのは武術の心得の一つである。 宮本武蔵の二刀流を伝えた細川家の士(さむらい)に都甲太兵衛(とごうたへえ)と云う人がある。一日(あるひ)街を行くと人が集って騒いでいる。聞くと、「角力取(すもうとり)らしい男が人を斬って、あの空屋へ逃込んでいるが捕える手段(てだて)が無くて困っている」 と云うのである。「何か壁を壊す物があるまいか」 と聞くと、杵(きね)をもって来た。太兵衛はそれで壁へ穴をあけると、のそのそと尻から先へ押入っていった。いかさま不思議な入り方である。太兵衛が曲者を捕えて人々に引渡した時に、「尻から入るは、どうした訳で御座りますか」 と聞くと、「あいつめ異な事をする奴だわいと、呆んやり見ていたからすぐ捕える事ができたのだ、それに尻なら少々斬られたって大事が無いからな」 と答えた。この尻の逸話(はなし)から推すと、又右衛門の腰も、「棒なら大事ないからなあ」 と芥川説がちゃんと理由づけられる事になる。然し尻でも腰でも切られぬに越した事は無い。ただ尻から入る機智、尻なら少々斬られてもいいという覚悟は、武術の奥儀を腹に包んでいる人にして始めて出る考えであり、出来る覚悟である。そして都甲太兵衛は対手(あいて)を知っていたからである。もし次のそう云う場合にも彼は矢張り尻から入るかと云ったら、恐らく愚問だと笑うだろう。時には壁を全部こわしもするだろうし、時には黙って通りすぎるかも知れない。機により変に応じて、それぞれに処して行くのが剣の極意である。伊東一刀斎の「間(かん)」と説明しているのも此処である。事に面してどう処して行くか。一瞬の「間」に当って腹ができていると「尻を斬らして捕え」もするし「腰を撲らして」強敵を倒しもするのである。「間」はただ剣と剣とを交えている時の「隙」だけでは無い、あらゆる突発的出来事に面した時の刹那の「間」であって、これにちゃんと処して誤らないのは「出来た腹」のみである。そうしてこの腹は剣からも入る事が出来るし禅からも入る事ができる。多くの剣客が禅に篤(あつ)く所謂(いわゆる)剣禅一致の妙などと云う言葉をも喜んだものである。勿論文芸からでもいいし、女買いからでも入れるし、絵からでもいい。武蔵が絵画も剣も究極は一であると云ったがこの意味である。 又右衛門の師、柳生但馬守(たじまのかみ)宗矩(むねのり)などはこの点に於てその妙境に到達している人である。禅でも心の無を重んじるが剣も心を虚(むなし)くする事を大切としている。無刀流とか無念流とか無想剣とか無を大事にした事は多い。「打太刀にも、程にも、拍子にも、心を留むれば手前の働き皆脱け候(そうらい)て、人に斬られ可申(もうすべく)候。敵に心を置けぱ敵に心をとられ、我身に心を置けば我身に心をとられ候――是(これ)皆心の留まりて手前の脱け申により可申候」 と沢庵(たくあん)禅師の「不動智」にあるが、無念無想の境にあって敵に応じて無より出、無限に働くのを極意としている。平たくいうと、敵の眼に心を留めると、太刀の方が留守になるし、太刀のみに気を入れていると、脚の構えが抜けるし、一人に心を留めると、背後(うしろ)へ廻った敵に困るし前後へ気を配れば左右が粗になる。というように到底心を何物にかに留めては、留切れないから、こっちが「無」になってしまって対手を見ない事にするのである。そして敵から与える「間」にこっちが働いて行くのである。「無」になる為めには勿論生死を出ていなくてはならぬ。何時(いつ)でも死んでもいい腹は一番に結(くく)っておかねばならぬ物である。武蔵に見出された時の都甲太兵衛が、細川公の前で武蔵から、「平常(へいそ)の覚悟は」 と聞かれて、「いつも死の座に居るつもりしていたが、近頃その死という事も忘れた。何も云う事も無いが、そう聞かれると、こうでも返事するより外に覚悟は無い」 と答えると、武蔵が、「これが剣の極意と云うもの」 と云った話がある。宗矩の高弟である又右衛門も多少この辺の事は心得ていたらしい。腰の一件も、強敵桜井半兵衛を斬倒していた時だから、「腰ならいい」 と撲らしておいたとも云える。少くもその腰を撲った小者を、刀で払いはしたが斬らなかった所を見ると対手にせなかったものらしい。「危い危い、傷(けが)しちゃいけないから退(の)け退け」 位(ぐらい)は云ったかも知れぬ。――と、尤(もっと)もこれは又右衛門を贔屓(ひいき)にしての説明で、本当は油断の隙を撲られたのかも知れない。     二「主人、朋友の敵(かたき)は其義(そのぎ)の浅深に可依也(よるべきなり)、我子並(ならび)に弟の敵者不討也(かたきはうたざるなり)」 と「勇士常心記」に出ている。弟源太夫の敵として又五郎を討つと云う事は当時の武士の常識から云って出来ない事である。それを荒木又右衛門までが助太刀に出て、天下の評判を高めたのは、弟の敵以外に「上意討」の如くなっていたからである。又五郎を旗本の安藤四郎右衛門――講釈の阿部四郎五郎――が隠匿して池田公に喧嘩を吹掛け、 此度(このたび)は備前(びぜん)摺鉢(すりばち)底抜けて、池田宰相味噌をつけたり と云うような落首まで立つ位になったから意地として池田忠雄公(ただたけこう)は又五郎を討たずにおれなかった。それで手強く幕府へ懸合っで老中共も持余(もてあま)している時、毒殺だと噂された位急に死んでしまったのである。死際(しにぎわ)に、「旗本の面々と確執を結び、不覚の名を穢(けが)し、今に落着相極(あいきわま)らず死せん事こそ口惜しけれ、依て残す一言あり、我れ果(はて)ても仏事追善の営み無用たるべし、川合又五郎が首を手向(たむ)けよ、左なきに於ては冥途黄泉の下に於ても鬱憤止む事無く」 と遺言した位だったから、数馬の決心も固くならなくてはならぬし弟の敵であると共に主君の命によって討つ所謂(いわゆる)「上意討」も含まれてきたのである。 寛永九年三月、「川合又五郎と申す者は一夜の宿を貸し候とも二夜と留置き候者は屹度(きっと)曲事(くせごと)に行わるべき者也」 という御触れが出て又五郎は江戸に居られなくなった。これは一方の池田公が暴死したから、旗本を押える為めの御触れである。こうなれば四郎右衛門も匿まっておけない。江戸を出るとすれば池田家の誰が討たんにも限らぬし、郡山(こおりやま)名代の剣客、数馬の姉聟(むこ)である荒木又右衛門が助太刀に出ているというから又五郎は危い。寛永の頃の武士気質(さむらいかたぎ)は未だ未だ大したものであった。荒木と同家中であって又五郎の叔父に当る川合甚左衛門が浪人して又五郎の為めに助太刀にくるし、又五郎の妹聟桜井半兵衛も、「見ず知らずの旗本さえあれだけの事をしてくれるに縁につながる自分が出ぬ法は無い」 と戸田左門氏鉄(うじかね)の家中で二百石を領していた知行を捨てて加わって来た。この桜井半兵衛は十文字槍の達人で、霞構(かすみがま)えと来たら向う所敵無しと称されていた者である。家中では霞の半兵衛という綽名(あだな)の出来(でき)ている位槍をもたしては名誉の武士であった。又右衛門が鍵屋の辻で、「半兵衛に決して槍をとらすな」 とその為めに孫右衛門、武右衛門の二人にかからせたのでも判る。 又五郎は一二カ所に匿れ忍んで居たが面白くなかったり主人に死なれたりして結局又江戸へ戻ったらという事になった。江戸御構いというものの黙って入ってこっそり隠れて居れば旗本の同情があるから判りっこはない。田舎で目に立ってびくびくしているよりもその方が利口である。頭山満(とうやまみつる)の邸へ逃込んだ印度人がとうとう判らなくなったり、早大の佐野学が某所に匿(ひっこ)んでいるんだなどと噂やら事実やらとにかく東京で有力な人の袖に縋(すが)れば、安全な事今も昔も大した変りはない。荒木は又五郎の動静を主として甚左衛門の一止一動によって知ろうとした。甚左衛門も寛永の武士気質をもっている立派な男である。又五郎へ義理立てて浪人してからは又五郎の居る所に必ず附いて行く事にしている。又右衛門は甚左衛門と同家中だから敵の顔を知らぬ上に於て、甚左の意地張(いじば)って又五郎の前に立っているのを利用するにかぎる。甚左衛門はそうと知っているがそれを避けて匿れる程の策も持たない。意地一本、真正直に又右衛門に逢えぱ討取るつもりでいる。     三 又右衛門は甚左衛門が奈良へ帰った事を知った。探偵してみるとどうやら又五郎も一緒らしい。機会としては絶好の時である。然し当時奈良の町奉行は中坊飛騨守秀政(ちゅうぼうひだのかみひでまさ)といって旗本の関係者であった。もし濫(みだ)りに斬込んで、奉行の手で邪魔が入ったり、討ったとしても後で不利益だったりしてもつまらぬし、町家では町人百姓が騒立ててどんな事が起らぬにも限らぬからそのまま様子を見ている事とした。寛永十一年十一月五日の事である、諸説あるが、馬子の口から洩れたというのが本当だろう。又五郎から馬三頭を六日の夜明けぬうちに廻せという註文がきたというのである。待っていた機会がいよいよ来た訳である。見張を出して川合方の様子を見せると、立ちそうだという。四人は支度を整えて一行の跡をつける事にした。鎖帷子(くさりかたびら)と鎖入鉢巻の用意をして、七八町のあとから見えがくれに後を追って行く。 武士の意地で殺し、意地から匿(かくま)い、意地で来た助太刀である。いつでも対手になってやるという覚悟で、勿論鎖帷子、白昼堂々と槍を立てて又五郎は行く。三人に槍三本、鉄砲一挺、半弓一張とちゃんと格式を守って大手を振っているのである。若党、小姓、足軽、人足合せて二十人、奈良般若寺(はんにゃじ)口から坂道を登り木津から、笠置を経て、笠置街道を進む。六日の午後の二時に島ヶ原へ入った。日足の早い冬、次の駅まで行くのは危険である。敵をもつ身はただの旅人にも増して早立ち早泊りが必要である。それで松屋という宿へ泊る事となった。それを見届けて、松屋より二三町先の方、馬借(ましゃく)勘兵衛(かんべえ)の家(うち)へ頼んで、又右衛門は見張る事にした。松屋の近くの宿では泊れぬから、仕方無しに馬問屋へ頼んで、腰をおろしたのである。七日の明け切れぬ中に荒木はここを立った。これから先は、道を選んで場所をこしらえるだけである。隠れているのによくて敵の逃道の無いそして味方に足がかりのいい所を選ばなくてはならぬ。探(たず)ね探ねしながら長田川の橋を渡って五町、上野の城下小田町の三ツ辻まできた。上野は藤堂家の領地で、此処には数馬の知人もいる。三ツ辻、俗に鍵屋の辻ともいうが突当りが石垣で、右角の茶店が万屋(よろずや)喜右衛門、右へ曲ると塔世坂(とうせざか)という坂があって町へ入る。左角が鍵屋三右衛門、角を折れると北谷口から城の裏へ出る事が出来る。「此処がいい。左右に分れて隠れる事が出来るし、先が曲ってしまえば、後の出来事は判らない。ここで逃路を切取って二人が前から懸れぱ袋の鼠に出来る。武右衛門と孫右衛門は鍵屋の角で隠れて敵の逃げるを斬るがいい。もし先立って甚左か半兵衛が来たなら二人でかかれ。私は最後の奴を斬捨てて下人共を追散そう。数馬はただ又五郎一人にかかって余人に振向くな、余人は又右衛門が必ず一人で食止めるから。それからくれぐれも云っておくが、もし半兵衛が先に来たら武右衛門、決して槍をとらすな。半兵衛を斬るか槍持を斬るかとにかく槍を執らさぬ手段をするがいい。斬込む合図は私が後の奴を斬ると同時だ。三人一度に目指す者にかかれ」 こういう指図であったらしい。十一月七日の早朝だから寒空である。又五郎の一行を待つ為めに四人は万屋へ入った。街道筋の商人(あきゅうど)はこの寒さにも五時から店を開けている。「亭主寒いナ」 と云って入った。この四人、そろって上方者だから写実で行くと、「おっさん、えらい寒いこっちゃナア」 と云ったかも知れぬが、とにかくこの茶店へこういう事を云ったと伝えられている。「親父、じろじろと見るナ。怪しくみえるかの。武士(さむらい)と云うものは敷居を跨ぐと敵のあるものでのう。鎖帷子、ほうら鎖頭巾、どうじゃ、こうちゃんとした扮(なり)をするといい男だろうがの、今に喧嘩でもしてみろ、三人や五人ならおくれはとらぬぞ。時に亭主もっと燗を熱くしてくれ」 又右衛門は濁酒(どぶろく)の燗を熱く熱くと幾度も云ったそうである。茶屋の親仁(おやじ)だから燗の事だけは確かに明瞭(はっきり)と覚えていたにちがいない。酒を傾けながら孫右衛門は時々店先へ出て、又五郎らの来るのを見る。長田川の橋からは一本道で橋上にかかれば茶店からは一眼である。敵がそこへ現れたという合図は孫右衛門が小唄を唄う事にしてある。「いい心持になった、亭主、この羽織をお前にくれてやろう」「旦那様、めっそうもない……」「ま、取っておけ、少し長いぞ」 と云ったが又右衛門の身丈(みのたけ)六尺二寸と云うのだからぞろりと着れば踵まであったかも知れない。「亭主、わしのもくれようか」 と云って数馬も羽織をぬいだ。これは池田家第一の美男子と称された源太夫の兄である。遺伝学から云うと兄より弟の方がいい男が多いそうだが、その代り兄は甚六で多少ゆったりしているから矢張り数馬もいい男であったにちがいない。緋羽二重(ひはぶたえ)の下着に黒羽二重の紋付という扮装(いでたち)など、如何にも色男らしいこしらえである。 寛永時代の小唄だから頗(すこぶ)る悠長な、間のびのした半謡曲染みたものであろう。酒も大してのまないのに、孫右衛門店先でゆらゆら唄出した。 襷(たすき)に、鉢巻、足許を調べて、「亭主、勘定」 武右衛門と孫右衛門は左角の鍵屋の軒へ忍んで北谷口で逸する敵の退路(にげみち)を切取ると共に先頭(さき)に立つ一人を斬る。荒木、渡辺の二人は万屋の小影に身をひそめて又五郎と附人に当る。     四 寛永十一年十一月七日、辰の刻、今の朝八時である。此時荒木が又万屋へ戻ろうとするから、「何故(なぜ)?」 と聞くと、「イヤ、一文多く渡したのだが、平常(いつも)なら何でも無いが、こういう場合だから、又右衛門め周章(あわ)てたなと思われるのが残念だから、一寸(ちょっと)行って取戻してくる」 と云ったという話があるが、これは嘘らしい。  長田川の橋に現れた一行、真先に立って周囲(あたり)を見廻しつつ馬上でくるのは又五郎の妹聟で大阪の町人虎屋九左衛門、半町も先に立って物見の役とある。つづいて美濃の国戸田家の浪人、桜井半兵衛とって二十四歳の若者、使慣れたる十文字の槍を小者三助に立てさせ馬側に気に入りの小姓湊江清左衛門(みなとえせいざえもん)を引つけ、半弓をもった勘七、同じく差替をもった市蔵を後にしたがえて、天晴なる骨柄寛永武士気質を眉宇(びう)に漲らせている。又五郎同じく二十四歳、小者一人、喜蔵というに十文字の槍をもたせ後ろを押える人として叔父の川合甚左衛門、四十三という男盛り、若党与作に素槍を担(かつ)がせ、同じく熊蔵を従えた主従十一人鎖帷子厳重に、馬子人足と共に二十人の一群、一文字の道を上野の城下へ乗入れてくる。 荒木又右衛門保和、時に三十七、来(らい)伊賀守(いがのかみ)金道(きんみち)、厚重(あつがさね)の一刀、※元(はばきもと)で一寸長さ二尺七寸という強刀、斬られても撲られても、助かりっこのない代物である。虎屋九左衛門の馬は遥かに過ぎ、鍵屋の前を桜井の馬が曲り、押えの甚左衛門が、今万屋の軒先へさしかかった時、「甚左衛門ッ」 大音声の終らぬうち大きく一足踏出した又右衛門の来金道、閃くと共に右脚を斬落としてしまった。馬から落ちる隙も刀を抜くひまも無い。タタと刻足(きざみあし)に諸共(もろとも)今打下した刀をひらりと返すが早いか下から斬上げて肩口へ打込んだ。眼にも留らぬ早業である。川合甚左衛門、自慢の同田貫(どうたぬき)へ手をかけたが抜きも得ないで斃(たお)されてしまった。一口に刀を返してというが中々尋常の腕でこの返しが利くものでない、「翻燕(ほんえん)の刀」と称して、真向へ打を入れて、受けんとする刹那、転じて胴へ返すのが本手で、これはいろいろに使うのである。打込んで行く勢を途中で止めるのが練磨の腕前だが敵もさる者、それを見破ってその「間(かん)」に逆撃されると負になる。あくまで真向(まっこう)微塵(みじん)とみせて、ヒラリと返すのだから一流に達した腕でないと出来ない芸当である。初太刀は大抵受けられるが、後の先といってすぐの斬返しにまで備えるのは余程の腕が要る。片脚を落された刹那刀を抜いて次の斬込みに備える隙位は普通の相手なら有る所だが、名代の荒木又右衛門、斬下すと共に返してきたから、隙も何も有ったものでない。二太刀で物の美事にやられてしまった。甚左衛門を倒すと共に、周章(あわ)て立つ小者共に、「邪魔すなッ」 と大喝したから、思わず逃出す。「数馬、助太刀はせぬぞッ」 と云い捨てて、二人きりの勝負とし、小者共を追いながら鍵屋の角から桜井半兵衛へかかって行った。 この早業は到底数馬には出来ない。荒木と共に走出したが、又五郎も期していた所である。供の槍を取るが早いかそれを力にしてひらりと左の方へ降立つ。「又五郎、覚悟致せ」「さあ、参れッ」 万屋も鍵屋もバタバタと戸を閉める。小田町は大騒ぎになった。数馬は又右衛門に仕込まれて相当の腕にはなっている。しかし真剣の立合はこれが始めてである。ただ敵に対した時の覚悟だけはちゃんとしていたらしい。美少年でも流石(さすが)は寛永時代の武士、中々味のある勝負をしている。又五郎は琢磨兵林によると真刀流の達人で、弱年の頃「猫又」を退治したと書いてあるが、「猫又」などという代物が怪しいように、又五郎の腕も判らない。その証拠には源太夫を殺した時に周章(あわて)て、止(とど)めも刺さなけりゃ、鞘まで忘れて逃出してしまっている。不良少年の強がりで一寸(ちょっと)人を斬っては見たが、度胸も腕もそうあったものとは思えない。それ以後二三年の修業だからまずは数馬と互角の勝負、ただ槍をもっているだけが強味という所である。腕が同じだと槍の方に歩がある。槍の目録に対して刀の免許が丁度いい位で、一段の差があるそうである。 又五郎は中段に位をとる。数馬は柳生流の青眼、穂先と尖先(きっさき)が御互にピリピリ働いて、相手に変化を計られまいとする。二尺余りを距てて睨合っているが、槍の方から仕懸けて行くらしく時々気合と共に穂先が働く。それにつれて刀も動く。と、閃めいた穂先、流星の如く胸へ走る、数馬の備前(びぜん)祐定(すけさだ)二尺五寸五分、払いは払ったが、帷子の裏をかいて胸へしたたか傷けられた。「此処だぞ」 と、数馬は思った。「自分は死んでもいい、その代りにはきっと又五郎は討取ってみせる、さあ来い」 又右衛門の仕込んだのは此決心である。身を捨てて敵を討つという必死の決心である、短い気合を二三度かけるが早いか、数馬は又五郎の手元へ飛込もうとした。さっと繰引いて突出す槍、胸へ閃いてくるのをそのままに片手で槍の柄を握るが早いか、半身を延して片手討の大上段、真向から斬込んでしまった。槍は離れて得な武器だが、附込まれて役に立たぬ。放すが早いか飛退って腰へ手がかかる刹那、左手(ゆんで)に槍をすてて片手なぐりに二度目の祐定が打下す。こうなれば受ける隙も無い。咽喉笛へ噛(かじ)りつきたいように憎みを御互にもちながら、又五郎も斬らしておいて抜打に数馬の真額(まっこう)へ斬つける。この抜打は承知の事だから、避けは避けたが気が上ずっている身体(からだ)はままに動かない。耳から頬へかけて一筋かすられる。こうなればもう二人とも本当の刀は使えない。無茶苦茶に呼吸(いき)がつづけば斬合うだけである。相当の腕の者なら、槍を受けておいて斬込んだ時に、致命傷を与えてそれでケリがつくのだが、腕のちがいはそうも行かない。宮本武蔵が、「二刀を使うのは、片手でも双手(もろて)と同様に働かせるための練習である」 と云っているが此処の事である。片手で斬込んだ時平常(ふだん)の練習で双手で斬込んだと同じ効果(ききめ)があったら、数馬は矢張池田家中第一の美男子でおられたかも知れないが、不幸にしてこの心得が無かったため、顔へ二ヵ所の傷を受けてしまった。武蔵は従って大抵二刀で仕合をしていない。必ず一刀でそして一太刀で相手を倒している。流石(さすが)に剣道の第一人者だけの事がある。又右衛門とは又同日の談ではない。 この二人の勝負で、数馬は十三ヵ所、又五郎は五ヵ所の手傷を受けた。池田家に保存されているこの時の祐定の刀には六ヵ所も斬込みがあって如何に悪闘したかを物語っているが、伝える所によると「辰の刻より三刻が間」というから朝の九時から午後の三時まで斬合っていた事になる。正味六時間、これはどうも※(うそ)らしい。又右衛門が甚左衛門を斬ったのは物の十秒とかかっていない、それからすぐ桜井半兵衛にかかって、容易(たやす)く打討(うちと)ったのだから長くて四五十分の事である。一時間とみたとしても残りの五時間を又右衛門が又「熱燗」で、二人の勝負を見物していたとは考えられない、この三刻は甚左衛門が斬られてから、役人の出張、負傷者の手当、野次馬が又右衛門について役所へ行く迄の時間と見るのが正当である。 鍵屋の角を曲った時、桜井半兵衛は又右衛門の懸声を聞いた。とたん、物影から武右衛門が斬つけた。たたみかけて斬込む刀、槍を取る隙が無いから、刀の鞘を払って受留めると共に馬からうしろへひらりと降立った。武右衛門と共に走出た孫右衛門は、槍持ちの三助に斬かかったから、三助驚いて槍を縦横に振廻す。半兵衛と三助御互に渡しも受取りもできない。素破(すわ)っ、と驚いたが流石に半兵衛の供をしてきた若党だけある。清左衛門が抜くと共に市蔵も木刀を抜いた。定まらぬ腰ではあるが、主人大事と、遠くから「ヤアヤア」位で迫ってくる。武右衛門も又右衛門に相当の間奉公していて一人前の腕だが三人に一人の腕では無い。まして半兵衛、槍ほど無類の達者では無くとも、刀法も武右衛門よりは上である。「下郎、参れッ」 と大上段、つつと小刻に寄ったから武右衛門一足退く、と中段に刀が変るが早いか、「エヤッ」 躱(かわ)す隙も無く、肩をざくりとやられてしまった。三助を相手にしていた孫右衛門、相手を捨てておいて、「己れ」 と横から斬かかる。「ヤア」 と、構えられると流石にすぐは踏込めない。三助、その間に槍の鞘を払うや孫右衛門へ、「こん畜生ッ」 と突いてかかった奴を袖摺(そですり)へ一ヵ所受けた。その時又右衛門が走寄(はしりよ)ってきたのである。血に染んだ来金道二尺七寸を片手に、六尺余りの又右衛門が走(かけ)つけたのだから小者は耐(たま)らない。浮足立つ所孫右衛門、「糞ッ」 というが早いか、十文字槍をもってへっぴり腰に突いてかかった三助へ斬込んで一太刀肩へ斬込んだ。ばったり倒れたので孫右衛門が暫く呼吸(いき)をついで、半兵衛にかかろうとする。武右衛門は半兵衛を孫右衛門に渡したが肩の傷が可成りに深い。気が立っているから戦はするものの、清左衛門に又傷を受けた。しかし、又右衛門が来て半兵衛が追すくめられているのをみると、小者共はとても戦う勇気などなくなってしまう。半弓をもっていた勘蔵がうろうろしていて武右衛門に尻を斬られて横っとびに逃るし、清左衛門も武右衛門の決死の顔をみると薄気味悪くなって、逃げ出すのを追討ちに肩をやられる。市蔵一人木刀をもって石垣の所で固くなっているのみである。武右衛門は二人を追払うと共にぐったりとなってしまった。鍵屋の前で又五郎と数馬が斬合っているから助太刀しようとして一足踏出と共に倒れてしまった。気を取直して石へ腰をおろしたが刀を杖にしたままどうもできない。 又右衛門も相手が半兵衛だから自重している。御互に青眼、所謂相青眼の構え。「どうした事じゃ、其処な御仁(おひと)に申すが敵討か、喧嘩か」 という声が突当りの崖上からした。孫右衛門の耳にも誰の耳にも入ら無いが、又右衛門は微塵(みじん)も逆上していない。「敵討、敵討で御座る」 と、じっと半兵衛を見凝(みつ)めながら答えた。しかし対手が老人で通らない。又しても聞くのに対して又右衛門は又返事をしながら鉾子尖(きっさき)をカチリと半兵衛の太刀先へ当てながらじりじりと追込んでくる。槍をもたしたならどうなったか知れぬが武右衛門の命がけの働で槍をとる隙がないから半兵衛は歩の悪い太刀打である。喋りながらも寸毫(すこし)の隙なく詰寄せてくる太刀に気は苛立ちながら、押され押されして次第に追込まれる。軒下に焚物の枯松葉が積んであったが其処まで押つけられてしまった。散らかしてある松の小枝に半兵衛の踵がかかる、その「間」、「エイッ」 心得て一足退る。足をとられて松葉の上へ倒れかかるその一髪の隙、来金道が肩先へ斬込んできた。どっと倒れる所、孫右衛門得たりと斬つけて耳の上と眼の上へ傷(て)を負(おわ)せた。ハラハラとして、その様をみていた市蔵、来金道が打込むとき吾を忘れて走出した。振かぶった木刀、どしりと又右衛門の腰へ入った。綿入二枚に帯までしめていては痛い事も無い。二度目の木刀を又右衛門振かえりざま、「危いぞッ」 と、払ったが、市蔵は死物狂い、三度目は憎い刀めと伊賀守金道を撲った。又右衛門も後に『不覚であった』と物語っているが、流石に厚重ねの強刀が、鍔元から五寸の所で折れてしまった。又右衛門もハッとしたが市蔵も思わず驚くと急に怖しくなって逃出した。「孫右衛門、止(とど)めを刺すな」 と云っておいて又右衛門は鍵屋の前へ走(かけ)つけた。     五 数馬と又五郎は刀を杖にしてただ立っているだけである。咽喉(のど)はもうからからになって呼吸(いき)もつづかない。指は硬直してしまって延びも曲りもしない。掌は痛むし刀は重いし、眼は霞むようだしぼんやりしてしまって相手が刀を上げるとこっちも上げるし、休めば休むという風に反射作用で動いているだけである。「数馬ッ、何故討てぬ。累年の仇敵(かたき)ではないか。愚者(おろかもの)ッ」 数馬が刀を取上げると又五郎も取上げたが、もう人の身体(からだ)かも判らない。斬込んだ刀の重み祐定の切味で、左腕を斬落した。又五郎も形だけは受けてみるが手もなく倒れてしまった。「それ止(とど)め」 くずれるように止めを刺した数馬を、「気を確かに、しっかりせぬとこのまま死んでしまうぞ」 と労(いた)わりつつ鍵屋の軒下へ入れた。町奉行が駈付ける。又右衛門が事情を話す。負傷者の手当をする。それぞれ役人警護の下に引取る所へ引取って上役の指図をまつ事になる。又右衛門は武右衛門をつれて傷の手当をしに数馬の姻族、彦坂加兵衛の家へ行って水を飲み、大飯を食って、役人のくる迄と眠ってしまった。藤堂家中の人々が称(ほ)めるのも、鳥取侯が死んだと偽って郡山へ戻さなかったのも三大仇討の一つと云われるのも、講釈師が飯の種にするのものも、芥川竜之介が又右衛門を強いというのも――尤(もっと)も芥川氏は弁慶が一番強いんだそうである。日本人の造出した一番強い奴が弁慶だからこいつに敵(かな)う奴は無いのだそうである。べんけいする奴には敵はないとか、ベんけいは天才の母とかいうのは此処から出た事である――。 武右衛門は暫くして死んだ。三助と半兵衛も二三日して死んだ。又右衛門は擦傷(かすりきず)を受けただけである。四十一歳で死んだというが、鳥取藩私史と渡辺家記とから考えると後まで城内深く留めておいたものらしい。墓は鳥取市外の玄忠寺にある。数馬は寛永十九年十二月二日に死んだ。鳥取寺町興禅寺に墓がある。岩本孫右衛門は七十三まで長命した。矢張寺町の光明寺にある。三人の子孫共現存しているそうである。郡山には荒木の屋敷趾が保存されているし、鳥取にも跡が判っている。数馬の家も粟屋町に残っている。川合又五郎の墓は上野の寺町万福寺にあって、念仏寺の川合武右衛門の墓と隣同志になっている。外の連中のは何も残っていない。鍵屋は現在も茶店である。仇討の跡には碑が立っている
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