血の文字
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著者名:黒岩涙香 

          前置(著者の)

「あア/\斯(こ)うも警察のお手が能(よ)く行届き、何(ど)うしても逃れぬ事が出来ぬと知(しっ)たら、決して悪事は働かぬ所だッたのに」とは或(ある)罪人が己(おの)れの悪事露見して判事の前に引据(ひきすえ)られし時の懺悔(ざんげ)の言葉なりとかや、余(よ)は此(この)言葉を聞き此記録を書綴る心を起しぬ、此記録を読むものは何人(なんびと)も悪事を働きては間職(ましょく)に合わぬことを覚(さと)り、算盤珠(そろばんだま)に掛けても正直に暮すほど利益な事は無きを知らん、殊(こと)に今日(こんにち)は鉄道も有り電信も有る世界にて警察の力を潜(くゞ)り果(おお)せるとは到底(とうてい)出来ざる所にして、晩(おそ)かれ早かれ露見して罰せらるゝは一つなり。
 斯く云わば此記録の何たるやは自(おのずか)ら明かならん、個(こ)は罪人を探り之を追い之と闘い之に勝ち之に敗られなどしたる探偵の実話の一なり。
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          第一回(怪しき客)

 余が医学を修めて最早(もはや)卒業せんとせし頃(時に余が年二十三)余は巴里府(ぱりふ)プリンス街に下宿し居(い)たるが余が借れる間(ま)の隣の室(へや)に中肉中背にて髭髯(くちひげ)を小綺麗(こぎれい)に剃附(そりつけ)て容貌にも別に癖の無き一人の下宿人あり、宿(やど)の者等(ら)此人を目科(めしな)「様(さん)」とて特に「様(さん)」附にして呼び、帳番も廊下にて摺違(すれちが)うたびに此人には帽子を脱ぎて挨拶(あいさつ)するなど大(おおい)に持做(もてなし)ぶりの違う所あるにぞ、余は何時(いつ)とも無く不審を起し目科とは抑(そ)も何者にやと疑いたり、素(もと)より室と室、隣同士の事とて或は燐寸(まっち)を貸し或は小刀(ないふ)を借るぐらいの交際(つきあい)は有り、又時としては朝一緒に宿を出(い)で次の四辻にて分るゝまで語らいながら歩むなどの事も有りたれど其身分其職業などは探り知ろう様(よう)も無く唯(た)だ此の目科に美しき細君ありて充分目科を愛し且(か)つ恭(うやま)う様子だけは知れり、去(さ)れど目科は妻ある身に不似合なる不規則千万(せんばん)の身持にて或時は朝猶(なお)暗き内に家を出(いず)るかと思えば或時は夜通し帰り来(きた)らず又人の皆寝鎮(ねしずま)りたる後(のち)に至(いた)り細君を叩き起すことも有り其上(そのうえ)時々は一週間ほど帰り来らぬことも珍しからず、斯(かく)も不規則なる所夫(おっと)に仕え細君が能(よ)く苦情を鳴(なら)さぬと思えば余は益々訝(いぶか)しさに堪(た)えず、終(つい)に帳番に打向(うちむか)いて打附(うちつけ)に問いたる所、目科の名前が余の口より離れ切るや切らぬうち帳番は怫然(ふつぜん)と色を作(な)し、毎(いつ)も宿り客の内幕を遠慮も無く話し散(ちら)すに引代(ひきかえ)て、余計な事をお問(とい)なさるなと厳しく余を遣込(やりこ)めたれば余が不審は是よりして却(かえっ)て、益々募(つの)り、果(はて)は作法をも打忘れて熱心に目科の行(おこな)いを見張るに至れり。
 見張り初(はじ)めてより幾程(いくほど)も無く余は目科の振舞に最(い)と怪しく且(かつ)恐ろしげなる事あるを見て何(ど)うせ碌(ろく)な人には非(あら)ずと思いたり、其事は他(ほか)ならず、或日目科は当時の流行を穿(うが)ちたる最(いと)立派なる服を被(き)かざり胸には「レジョン、ドノル」の勲章を燦(きら)めかせて外(ほか)より帰ると見たるに其(その)僅(わず)か数日後に彼れは最下等の職人が纏(まと)う如(ごと)き穢(きたな)らしき仕事衣(しごとぎ)に破れたる帽子を戴(いたゞ)きて家を出(いで)たり、其時の彼れが顔附は何処(どこ)とも無く悪人の相(そう)を帯び一目見るさえ怖(こわ)らしき程なりき、是さえあるに或午後は又彼れが出行(いでゆ)かんとするとき其細君が閾(しきい)の許(もと)まで送り出で、余所目(よそめ)にも羨(うらや)まるゝほど親(したし)げに彼れが首に手を巻きて別れのキスを移しながら「貴方(あなた)、大事をお取(とり)なさい、内(うち)には私(わたく)しが気遣うて待て居ますから」と叫びたり、大事を取れとは何事にや、委細(いさい)の心は分らねど扨(さて)は、扨は、細君が彼れの身持を咎(とが)めぬのみかは何も彼も承知の上で却て彼れに腹を合せ、彼れが如き異様なる振舞を為(な)さしむるにや、斯く思いて余は殆(ほとん)ど震い上り世には恐ろしき夫婦もある哉(かな)と嘆(たん)じたれど、此後の事は是よりも猶(な)お酷(ひど)かりき。
 余は修学に身を委ねながらも、夜に入(い)りては「レローイ」珈琲館(かひいかん)と云えるに行き球(たま)や歌牌(かるた)の勝負を楽むが捨難(すてがた)き蕩楽(どうらく)なりしが、一夜(あるよ)夫等(それら)の楽み終りて帰り来り、猶(な)お球突(たまつき)の戯(たわむ)れを想いながら眠りに就(つき)しに、夢に球と球と相触れて戞々(かつ/\)と響く音に耳を襲われ、驚き覚(さ)めて頭(かしら)を□(あぐ)れば其響は球の音にあらで外より余が室の戸を急がわしく打叩くにぞありける、時ならぬ真夜中に人の眠りを妨るは何(いず)れの没情漢(ぼつじょうかん)ぞと打呟(うちつぶや)きながら、起行(おきゆ)きて戸を開くに、突(つい)て入(い)る一人(いちにん)は是なん目科其人にして衣服の着様(きざま)は紊(みだ)れ、飾り袗(しゃつ)の胸板は引裂かれ、帽子は失い襟飾りは曲りたるなど一目に他人と組合い攫(つか)み合いたるを知る有様なるに其うえ顔は一面に血塗(まみ)れなれば余は全く仰天し「や、や、貴方は何(ど)う成(なさ)ッた」と叫び問う、目科は其声高しと叱り鎮めて「いや此傷は、なに太(たい)した事でも有ますまいが何分にも痛むので幸い貴方が医学生だから手当を仕(し)て貰おうと思いまして」と答う、余は無言の儘(まゝ)に彼れを据(すわ)らせ其傷を検(あらた)むるに成(な)るほど血の出る割には太(たい)した怪我にもあらず、爾(さ)れど左の頬を耳より口まで引抓(ひっかゝ)れたる者にして処々(ところ/″\)に肉さえ露出(むきいで)たれば痛みは左(さ)こそと察せらる、頓(やが)て余が其傷を洗いて夫々(それ/″\)の手術を施し終れば目科は厚く礼を述べ「いや是くらいの怪我で逃れたのは未(まだ)しもです。併(しか)し此事は誰にも言わぬ様に願います」との注意を遺(のこ)して退(しりぞ)きたり、是より夜の明るまで余は眠るにも眠られず、様々の想像を浮べ来りて是か彼(あ)れかと考え廻すに目科は追剥(おいはぎ)か盗坊(どろぼう)か但(たゞ)しは又強盗か、何しろ極々(ごく/\)の悪人には相違なし。
 爾(さ)れど彼れ翌日は静かに余が室に入来(いりきた)り再び礼を繰返したる末、意外にも余に晩餐の饗応せんと言出(いいいで)たり、晩餐の饗応などとは彼れが柄に無き事と思い余は少し不気味ながらも唯(たゞ)彼れが本性を見現(みあらわ)さんと思う一心にて其招きに応じ、気永く構えて耳と目の及ぶだけ気を附けたれど露(つゆ)ほども余の疑いを晴す如き事柄は聞出しもせねば見出しもせずに晩餐を終りたり。
 爾(そう)は云え是よりして余と目科の間柄は一入(ひとしお)近くなり、目科も何やら余に交(まじわ)りを求めんとする如く幾度と無く余を招きて細君と共々に間食(かんじき)を為(な)し殊(こと)に又夜に入(い)りては欠(かゝ)さず余を「レローイ」珈琲館まで追来(おいきた)り共に勝負事を試みたり、斯(か)くて七月の一夕(あるゆうべ)、五時より六時の間なりしが例の如く珈琲館にて戯(たわむ)れ居(い)たるに、衣類も穢(むさ)くるしく怪(あや)しげなる男一人(いちにん)、遽(あわたゞ)しく入来(いりきた)り何やらん目科の耳に細語(さゝや)くと見る間に目科は顔色を変て身構し「好(よ)し/\直(すぐ)に行く、早く帰ッて皆に爾(そう)云(い)え」と、命ずる間も急(いそが)わしげなり、男は此返事を得(う)るや又一散(いっさん)に走去りしが、後に目科は余に向い「誠に残念ですが、勤めには代られぬ譬(たとえ)です、此勝負は明日に譲り今日は是で失敬します」とて早や立去らん様子なり、勝負の中止も快からねど夫(それ)よりも不審に得堪(えた)えず、彼れが秘密を見現すは今なり、と余は思切ッて同行せざるの遺憾を述(のぶ)るに「爾(そう)さ、なに構うものか、来るなら一緒にお出(いで)なさい、随分面白いかも知れませぬから」斯(か)く聞きて余は嬉しさに心(こゝろ)迫(せ)き、返す言葉の暇さえ惜しく、其儘(そのまゝ)帽子を戴(いたゞ)きて彼れに従い珈琲館を走出(はしりいで)たり。


          第二回(血の文字)

 目科に従いて走りながらも余は唯(た)だ彼れが本性を知る時の来りしを喜ぶのみ、此些細なる一事が余の後々に至大(しだい)なる影響を及ぼす可(べ)しとは思い寄ろう筈(はず)も無し、目科は宛(あたか)も足を渡世(とせい)の資本(もとで)にせる人なる乎(か)と怪しまるゝほど達者に走り余は辛(かろ)うじて其後に続くのみにて喘(あえ)ぎ/\ロデオン街(まち)に達せし頃、一輛(りょう)の馬車を認め目科は之(こ)れを呼留(よびとゞ)めて先(ま)ず余に乗らしめ馭者(ぎょしゃ)には「出来るだけ早く遣(や)れ、バチグノールのレクルース街(まち)三十九番館だ」と告げ其身も続て飛乗りつ只管(ひたすら)馬(うま)を急(せか)し立(たて)たり、「はゝア、行く先はバチグノールだと見えますな」とて余は最も謙遜の詞(ことば)を用い目科の返事を釣出(つりだ)さんと試むれど彼れ今までとは別人の如く其唇固く閉じ其眉半ば顰(ひそ)みたるまゝにて言葉を発せず其様深く心に思う所ありて余が言葉の通ぜぬに似たり、彼れ何を斯(か)く考うるや、眼(まなこ)徒(いたず)らに空(くう)を眺めて動かざるは六(むつ)かしき問題ありて□(そ)を解かん為(た)め苦めるにや、頓(やが)て彼れ衣嚢(かくし)を探り最(いと)太(ふと)やかなる嗅煙草(かぎたばこ)の箱を取出(とりいだ)し幾度か鼻に当て我を忘れて其香気を愛(めず)る如くに見せ掛(かく)る、去(さ)れど余は兼(かね)てより彼れに此癖あるを知れり、彼れ其実は全く嗅煙草を嫌えるも唯(た)だ空(から)の箱を携(たずさ)え居(お)り、喜びにも悲みにも其心の動く度(たび)我(わが)顔色を悟られまじとて煙草を嚊(か)ぐに紛(まぎ)らせるなり、兎角(とかく)するうちに馬車は早やクリチーの坂を登り其外なる大通(おおどおり)を横に切りてレクルース街(まち)に入り約束の番地より少し手前にて停りたり、停るも道理や三十九番館の前には凡(およ)そ二三百の人集り巡査の制止をも聞かずして推合(おしあ)える程なれば馬車は一歩だも進み得ぬなり、余は何事なるや知らざれど茲(こゝ)にて目科と共に馬車を降(くだ)り群集を推分(おしわけ)て館の戸口に進まんとするに巡査の一人強く余等(よら)を遮(さえぎ)りて引退(ひきしりぞ)かしめんとす、目科は威長高(いたけだか)に巡査に向い「貴官は拙者(せっしゃ)を知(しり)ませんか、拙者は目科です、是なる若者は拙者と一処(いっしょ)に来たのです」目科の名を聞き巡査の剣幕は打って代り「いや貴方(あなた)でしたか、爾(そう)とは思いも寄りませず」と遽(あわたゞ)しく言訳するを聞捨て閾(しきい)を一足館内に歩み入れば驚きて茲(こゝ)に集(つど)える此家の店子(たなこ)の中に立ち、口に泡を吹かぬばかりに手真似しながら迫込(せきこみ)て話しせる一老女あり定めし此家の店番なる可(べ)し、目科は無遠慮に話の先を折り「何所(どこ)だ、何所です」と急ぎ問う「三階ですよ、三階の取附(とっつき)です、本統(ほんとう)に先(ま)ア此様な正直な家の中で、夫(それ)に日頃あの正直な老人を」と老女が答え来(きた)るを半分聞き直様(すぐさま)段梯子を四段ずつ一足に飛上(とびのぼ)る、余は肺の臓の破るゝと思うほど呼吸(いき)の世話(せわ)しきにも構わず其学(まね)をして続いて上れば三階なる取附の右の室は入口の戸も開放せし儘(まゝ)なるゆえ、之を潜りて客室、食堂、居室等を過ぎ小広(こびろ)き寝室(ねま)へと入込(いりこ)みぬ、見れば茲(こゝ)には早や両人の紳士ありて共に小棚の横手に立てり、其一人の外被(うわぎ)に青白赤(せいはくせき)三色の線ある徽章(しるし)を佩(おび)たるは問(とう)でも著(しる)き警察官にして今一人は予審判事ならん、判事より少し離れたる所に、卓子(ていぶる)に向い何事をか書認(かきしたゝ)めつゝ有るは確(たしか)に判事の書記生なり、是等(これら)の人々何が為に此室にきたりたるぞ、余は怪むひまも無く床の真中に血に塗れたる死骸あるに気附たり、小柄なる白髪の老人にして仰向(あおむき)に打倒(うちたお)れ、傷所(きずしょ)よりいでたる血潮は既に凝(こゞ)りて黒くなれり。
 余は驚きの余り蹌踉[#「蹌踉」は底本では「蹌跟」]《よろめ》きて倒れんとし纔(わずか)に傍らなる柱につかまり我が身体を支え得たり、支え得しまゝ暫(しば)しが程は殆(ほとん)ど身動きさえも得せず、読者よ余は当時医学生たりしだけに死骸を見たるは幾度なるを知らず病院にも之を見(み)学校にも之を見たり、然(しか)れども面(まのあ)たり犯罪の跡を見たるは実に此時が初てなり。然り此老人の死骸こそは恐ろしき犯罪の結果なること言う迄も無し、唯(たゞ)余の隣人目科は余ほどに驚き恐れず足踏(あしぶみ)も確に警察官の許(もと)に進むに、警察官は其顔を見るよりも「アア目科君か、折角呼(よび)に遣(やっ)たけれど君を迎えるほどの事件では無(なか)ッたよ目「とは又何(ど)う云う訳で「いや君の智慧を借るまでも無く罪人が分ッて、仕舞ッた、実は最(も)う逮捕状を発したから今頃は捕縛(ほばく)された時分だ」罪人が解りたらば先(ま)ずほッと安心すべきところなるに目科は爾(さ)は無くて痛く失望の色を現わし□(そ)を体好(ていよ)く紛らさんため例の嚊煙草の箱を取出し鼻の先に二三度当て「おやおや罪人が分ッたのか」と云う、今度は予審判事が之に答えんとする如く「分ッたにも、最(も)う明白に分ッたよ、罪人は此老人が死切れた物と思い安心して逃て仕舞ッたが実は是(こ)れが本統(ほんとう)に天帝(てんてい)の見張て居ると云う者だろうよ、老人は未(ま)だ死切(しにきら)ずに居て、必死の思いで頭を上げ、傷口から出る血に指を浸して床へ罪人の名を書附て置(おい)て死(しん)だ。先(ま)ア見たまえそれ血の文字が歴々(あり/\)と残ッて居る」此(この)傷(いた)ましき語を聞きて余は直ちに床中(ゆかじゅう)を見廻すに成(な)るほど死骸の頭の辺に恐ろしき血の文字あり MONIS(モニシ) の綴りは死際(しにぎわ)の苦痛に震いし如く揺れ/\になりたれど読擬(よみまご)う可(べ)くもあらず、目科も之を見しかども彼れ驚きしか驚かざるか嚊煙草を振るのみにて顔色には現わさず唯(た)だ単に「夫(それ)で」と云う、今度は又警察署長「夫(それ)で分ッて居るじゃ無いか藻西太郎(もにしたろう)と云う者の名前の初めを書掛(かきかけ)て事切れと成(なっ)たのだ、藻西太郎とは此老人の唯一人の甥だ、老人が余ほど寵愛(ちょうあい)して居たと云う事だ」と説明す、目科は唯口の中(うち)にて何事をか呟くのみ、更(さら)に予審判事は今言いし警察官の説明を補わんとする如くに「此文字が何よりの証拠だから何(ど)の様な悪人でも剛情(ごうじょう)は張り得まい、殊(こと)に此老人を殺して夫(それ)が為に得の行くのは唯此藻西太郎一人(いちにん)だ、老人は巨多(あまた)の財産を持て居て、死(しに)さえすれば甥の藻西へ転がり込む様に成(なっ)て居る、のみならず老人の殺されたのは昨夜の事で、昨夜老人の許(もと)へ来たのは唯(た)だ藻西一人さ、帳番の証言だから是(これ)も確かだ、藻西は宵の九時頃に来て十二時頃まで居た相(そう)だ、其後では誰も老人の室へ這入(はいっ)た者が無いと云うから是ほど確な証拠は有るまい」目科は無言にて聞き終り意味有りげなる言葉にて「なるほど明かだ、日を見るよりも明かに藻西太郎と云う奴は大馬鹿だ、此老人が殺されさえすれば第一に自分は疑われる身だから、其疑いを避る様に、切(せめ)て盗坊(どろぼう)の所為(しわざ)にでも見せ掛け何か品物を盗んで置くとか此室を取散(とりちら)して置くとか夫(それ)くらいの事は仕(し)そうな者(もの)だ、老人を殺しながら夫(それ)をせぬとは余り馬鹿過ると云う者(もの)だ警察官「爾(そう)さ別に此室を取散(とりちら)すとか云う様な疑いを避ける工夫は仕て無(なか)ッた、殺すと早々逃たのだろう、余り智慧の逞(たくま)しい男では無いと見える、此向(このむき)なら捕縛すれば直(じき)に白状するだろう」と云い、猶(な)おも目科を小窓の所に誘い行きて小声にて何か話しを初め、判事は又書記に向い是(これ)も何やらん差図を与え初めたり。


          第三回(又不審)

 是(これ)にて先(ま)ず目科の身の上に関する不審だけは全く晴れたり、彼れは盗坊(どろぼう)にも非(あら)ず追剥にも非ず純然たる探偵吏(たんていり)なり、探偵吏なればこそ其身持不規則なりしなれ、身姿(みなり)時々変ぜしなれ、痛(いた)く細君に気遣われしなれ、「様(さん)」附(づけ)にも呼ばれしなれ、顔に傷をも受けしなれ、今は少しの不審も無し彼れが事は露ほども余が心に関せず、之に引代て唯(たゞ)痛(いた)く余の心に留り初めしは床の上の死骸なり、余が心は全く彼の死骸に縛附(しばりつけ)[#ルビの「しばりつけ」は底本では「しぱりつけ」]られたるに似たり、今まで目科を怪みたるよりも猶(な)お切に彼の死骸を思う、初て死体(しがい)を見し時の驚きと恐れとは何時(いつ)しか消えて次第に物の理を考うる力も己(われ)に復(かえ)りしかば余は唯(た)だ四辺(あたり)に在る総(すべ)ての物に熱心に注意を配り熱心に考え初めぬ、身は戸の口に立(たち)し儘(まゝ)なるも眼(まなこ)は室中(しつじゅう)を馳廻(はせまわ)れり、今まで絵入の雑誌などにて人殺(ひとごろし)の場所を写したる図などは見し事あり孰(いず)れにも其辺(そのあたり)最(い)と取散(とりちら)したる景色見えしに、実際なる此人殺しの寝室(ねま)の内には取散したる跡を見ず老人の日頃不自由なく暮し而(しか)も質素を旨(むね)として万事に注意の普(あまね)き事は是(これ)だけにて察せらる、寝床及び窓掛を初め在ゆる品物に手入能(よ)く行届き塵(ちり)も無ければ汚れも見えず、此老人の殺されしは必ず警察官及び判事等の推量せし通り昨夜の事なりしならん、其証拠とも云う可(べ)きは寝床の用意既に整い、寝巻及び肌着ともに寝台の傍(わき)に出(いだ)しあり猶(な)お枕頭(まくらもと)なる小卓(ていぶる)の上には寝際(ねぎわ)に飲(のま)ん為なるべく、砂糖水を盛(もり)たる硝盃(こっぷ)[#ルビの「こっぷ」は底本では「こっぶ」]も其儘(そのまゝ)にして又其横手には昨日の毎夕新聞一枚と外(ほか)に寸燐(まっち)の箱一個あり、小棚の隅に置きたる燭台は其蝋燭既に燃尽(もえつく)せしかど定めし此犯罪を照したるものならん、曲者は蝋燭を吹消さずに逃去りしと見え燭台の頂辺(てっぺん)に氷柱(つらゝ)の如く垂れたる燭涙(しょくるい)は黒き汚れの色を帯ぶ、個(こ)は蝋燭の自から燃尽すまで燃居(もえい)たるしるしなり。
 総(すべ)て是等(これら)の細(こまか)き事柄は殆(ほとん)ど一目にて余の眼(まなこ)に映じ尽(つく)せり、今思うに此時の余の眼は宛(あたか)も写真の目鏡(めがね)の如くなりし歟(か)、眼より直ちに種板(たねいた)とも云う可(べ)き余の心に写りたる所は最(い)と分明(ふんみょう)なるのみかは爾後(じご)幾年を経たる今日(こんにち)まで少しも消えず、余は今も猶(な)お其時の如く覚(おぼ)え居(お)れば少しの相違も無く其(その)室(へや)を描き得ん、予審判事の書記が寄れる卓子(ていぶる)の足の下に転がりて酒瓶(さけびん)の栓の在(あ)りし事をも記臆し、其(その)栓(せん)はコロップにて其一端に青き封蝋(ふうろう)の存(そん)したる事すらも忘れず、此後(こののち)千年生延(いきのび)るとも是等の事を忘る可くも非(あら)ず、余は真に此時まで斯(か)く仔細に看(み)て仔細に心に留る事の出来ようとは自(みずか)ら思いも寄らざりき、不意の事柄にて不意に此時現れたる能力なれば我が心の如何(いかん)を詳(くわし)く思見(おもいみ)る暇(ひま)も無かりき。
 我れと我が心に分らぬほど余は老人の死骸に近(ちかづ)き度(た)き望みを起し自ら制せんとして制し得ず、我心よりも猶(なお)強き一種の望みに推(お)され推されて余は警官及び判事を初め書記や目科の此室(へや)に在るをも忘れし程なり、彼等も別に余が事には心を留めざりしならん、判事は書記に差図を与え目科は警官と密々(ひそ/\)語らう最中なりしかば、余は咎(とが)められもせず又咎めらる可しと思いもせず、最(いと)平気に、最(いと)安心して、宛(あたか)も言附られし役目を行うが如くに泰然自若として老人の死骸の許(もと)に行き、其(その)傍(そば)に跪(ひざま)ずきてそろ/\と死骸を検査し初めぬ。
 此老人歳は七十歳より七十五歳までなる可し、背低くして肉瘠(や)せたれど健康は充分にして随分百歳までも生延得る容体とし頭髪(かみのけ)も猶(な)お白茶けたる黄色の艶を帯びて美しく、頬には一週間も剃刀(かみそり)を当ぬかと思うばかりに贅毛(むだけ)の延たれど個(こ)は死人に能(よ)く有る例しにて死したる後(のち)急に延たるものなる可く余は開剖室(かいぼうしつ)などにて同じ類(たぐい)を実見せしこと度々(たび/\)なれば別に怪(あやし)とも思わず唯(た)だ余が大(おおい)に怪しと思いたるは老人の顔の様子なり、老人の顔附は最(い)と穏(おだや)かにして笑(えみ)を浮めしとも云う可(べ)く殊(こと)に唇などは今しも友達に向いて親密なる話を初(はじめ)んとするなるかと疑わる、読者記臆せよ、老人の顔には笑こそあれ苦(くるし)みの様子は少しも存せざることを、是(こ)れ唯(た)だ一突(ひとつき)に、痛みをも苦みをも感ぜぬ中(うち)に死し去りたる証拠ならずや、余は実に爾(そ)う思いたり、此老人は突(つか)れてより顔を蹙(しか)むる間も無きうちに事切(ことぎれ)と為(な)りしなりと、若(も)し真に顔を蹙むる間も無かりしとせば如何(いか)にして MONIS(モニシ) の五文字を其(その)床(ゆか)に書記(かきしる)せしぞ、死(しぬ)るほどの傷を負い、其痛みを堪(こら)えて我生血(いきち)に指を染め其上にて字を書くとは一通りの事に非(あら)ず、充分に顔を蹙め充分に相(そう)を頽(くず)さん、夫(それ)のみか名を書くからには、死せし後にも此悪人を捕われさせ我が仇(あだ)を復(かえ)さんとの念あること必定(ひつじょう)なれば顔に恐ろしき怨みの相こそ現わるれ笑の浮ぼう筈(はず)万々(ばん/\)無く親友に話を初んとするが如き穏和の色の残ろう筈万々なし、今にも我が敵に噛附(かみつか)んずる程の怒れる面色(めんしょく)を存すべき筈ならずや。
 殊(こと)に老人の傷処(きずしょ)を検(あらた)め見れば咽(のど)を一突にて深く刺れ「苦(あっ)」とも云わずに死せしとこそ思わるれ、曲者(くせもの)の去りたる後まで生存(いきながら)えしとは認(みと)む可からず、笑の浮みしは実際にして又道理なり、血の文字を書きしとは、如何に考うるとも受取られず、あゝ余は唯(たゞ)是(これ)だけの事に気附てより、後にも先にも覚(おぼえ)なき程に打驚(うちおどろ)き胸のうち俄(にわか)に騒ぎ出(いだ)して、轟く動悸(どうき)に身も裂くるかと疑わる。
 去れば余は猶(な)お老人の傍(そば)を去る能(あた)わず、更に死体(しがい)の手を取りて検(あらた)むるに、余の驚きは更に強きを加え来(きた)れり、読者よ、老人の右の手には少しも血の痕(あと)を見ず唯(た)だ左の手の人差指のみ紅(あか)く血に塗(まみ)れしを見る、此老人は左の手にて血の文字を書きたりと云う可(べ)きか、否(いな)、否、否、左りの手にて書(かこ)う筈なし余は最早(もは)や我が心を抑(おさゆ)る能(あた)わず、我が言葉をも吐く能(あた)わず、身体に満々(みち/\)たる驚きに、余は其外の事を思う能わず、宛(あたか)も物に襲われし人の如く一声(せい)高く叫びし儘(まゝ)、跳上(はねあが)りて突立(つったち)たり。
 余の驚き叫びし声には室中の人皆驚きしと見え、余が自ら我が声を怪みて身辺を見廻りし頃には判事も警察官も目科も書記も皆余の周囲(まわり)に立ち「何だ「何事だ「何(ど)うした「何(ど)うしました」と遽(あわた)だしく詰問(つめと)う声、矢の如く余が耳を突く、余は猶(な)お一語をも発し得ず唯(た)だ「あ、あ、あれ、あれ」と吃(ども)りつゝ件(くだん)の死体(しがい)に指さすのみ、目科は幾分か余の意を暁(さと)りしにや直様(すぐさま)死体(しがい)に重(かさな)り掛り其両手を検め見て、猶予(ゆうよ)もせずに立上り「成(なる)ほど、血の文字は此老人が書いたので無い」と言い怪む判事警察官が猶お一言(ひとこと)も発せぬうち又蹐(せくゞ)みて死体(しがい)の手を取り其左のみ汚れしを挙(あ)げ示すに、警官も此証拠は争われず「あゝ大変な事を見落して居(おっ)たなア」と呟(つぶや)けり、目科は例の空(から)煙草を急ぎて其鼻に宛(あて)ながら「好(よ)く有(あ)る奴さ一番大切な証拠を一番後まで見落すとは、併(しか)し老人が自分で書(かい)たので無いとすれば事の具合が全く一変する、さア此文字は誰が書た、勿論老人を殺した奴が書たのだろう」判事と警官も一声に「爾(そう)とも爾とも目「愈々(いよ/\)爾とすれば曲者(くせもの)が老人を殺した後で自分の名を書附けると云う馬鹿はせぬなら、此曲者は無論藻西で無いと思わねばならぬ、是丈(これだけ)は誰も異存の無い所だから、此断案(だんあん)は両君何と下さるゝか」警官は茲(こゝ)に至りて言葉無し、判事は深く考えながら「爾さ、曲者が自分の名を書ぬ事は明かだ、書(かく)のは則(すなわ)ち自分へ疑いの掛らぬ為だから、爾だ他人(たじん)に疑いを掛けて自分が夫(それ)を逃れる為めだから、此名前で無い者が曲者だ、吾々(われ/\)は曲者の計略に載られて居たのだ、藻西太郎に罪は無い、爾とすれば本統(ほんとう)の罪人は誰だろう警「爾さ誰だろう目「夫を見出すは判「目科君、君の役目だ」
 斯(か)く一同の意見が全く一変せし所へ、宛(あたか)も外より入来(いりきた)る一巡査は藻西太郎を捕縛に行きたる一人(いちにん)なる可し「唯今帰りました」の声を先に立てゝ第一に警察官の前に行き「命令通り夫々手を尽しましたが是ほど旨(うま)く行(いっ)た事は有ません警「では藻西を捕縛したか、夫(それ)は大変だが巡「はい手も無く捕縛して仕舞いました夫に彼れ全く逃れぬ所を見てか不残(すっかり)白状して仕舞いました警「や、や藻西が白状したとな」


          第四回(白状)

 罪なき人が白状する筈(はず)なければ藻西太郎が白状せしと云うを聞き一同は言葉も出ぬまでに驚き果て、中にも余の如きは只(た)だ夢かと思うばかりなりき、今まで余の集め得たる証拠は総(すべ)て彼(か)れの外(ほか)に真(まこと)の罪人あることを示せるに彼れ自ら白状したりとは何事ぞ、斯(かゝ)る事の有り得べきや、人々の中(うち)にて一番早く心を推鎮(おししず)めしは目科なり彼れ五六遍も嚊煙草の空箱を鼻に宛(あて)たる末(すえ)、件(くだん)の巡査に打向いて荒々しく「夫(それ)は全く間違いだ、お前が自分で欺されたのか爾(さ)無(な)くば吾々を欺して居るのだ必ず其二(ふたつ)に一(ひとつ)だ巡「其様(そのよう)な事は有ません夫(それ)は私しが誓います目「いや誓うには及ばぬ無言(だまっ)て居なさい、何でも藻西太郎の言た事をお前が聞違て白状だと思たのか、夫(それ)ともお前が手柄顔に何も彼も分ッた様に言い吾々を驚かせようと思ッたのだ」此厳しき言葉を聞くまで最(い)と謙遜に構えたる巡査なれど今は我慢が出来ずと思いし如く横柄に肩を聳動(うごか)し「へえ御免を蒙(こうむ)りましょう、憚(はゞか)りながら私しは其様な馬鹿でも無ければ嘘つきでも有(あり)ません自分の言う事くらいは心得て居(おり)ますから」と遣返(やりかえ)す、此儘に捨置なば二人の間に攫(つか)み合も初り兼(かね)ざる剣幕なれば警察長は捨置かれずと思いし如く割て入り「いや目科君待ち給え詳しく聞終ッた上で無ければ分らぬから」と云い更に巡査に打向いて「さ事の次第を細かに述べ今一応説明(ときあか)して見ろ」と命じたり、巡査は此命を得て俄(にわか)に己の重きを増したる如く一寸(ちょい)と目科を尻目に掛け容体(ようだい)ぶりて説き始む「私しは貴官の命を受け検査官一名及び同僚巡査一名と共に、都合三名で、ビヽエン街五十七番館に住む飾物模造職藻西太郎と云う者をば、バチグノールの此家に住で居る伯父(おじ)を殺したと云う嫌疑で捕縛の為め出張致しました」警察長は、成る可(べ)く彼れの言葉を切縮(きりちゞめ)させんと思う如く、将(は)た感心する如くに「其通り、其通り」と軽く頷首(うなず)く、巡査は益々力を得て「吾々三人馬車に乗り頓(やが)て其ビヽエン街に達しますと藻西太郎は丁度夕飯を初める所で妻と共に店の次の間で席に就(つこ)うと仕(し)て居ました、妻と云うのは年頃二十五歳より三十歳までの女で実に驚く可き美人です、吾々三人引続て其家に入込ますと藻西太郎は斯(かく)と見て直様(すぐさま)何の用事だと問いました、問うと検査官は衣嚢(かくし)より逮捕状を取出し法律の名を以て其方を捕縛に参たと答えました」此長々しき報告を目科は聞くに得堪ずと思いし如く「お前は要点だけ話す事が出来ぬのか」と迫(せか)し立るに巡査は一向頓着せず、「私は今まで随分捕縛には出張しましたが、捕縛と聞て此藻西太郎ほど喫驚(びっくり)したのは見た事が有りません、彼れは漸(ようや)く我れに復りて其様な筈は有ません必ず誰かの間違いでしょうと言ました、検査官が推返(おしかえ)して決して人違いで無いと答えますと夫(それ)では何の廉(かど)で捕縛しますと問返しました、オイ何の廉などゝ其様な児供欺(こどもだま)しを云(いっ)ても駄目(だめ)だよ其方の伯父(おじ)は何(ど)うした、既に死骸が其筋の目に留り其方が殺したと云う沢山の証拠が有る其方に於いて覚え有う、と詰寄る検査官の言葉を聞て驚いたの驚か無いのと云て全(まる)で度胸を失ッて仕舞ました、何か言(いお)うとするけれど其言葉は口から出ず蹌踉(よろめ)いて椅子に倒れると云う騒ぎです、検査官は彼れの首筋を捕えて柔かに引起し今更彼是れ云うても無益だ有体(ありてい)に白状しろ白状するに越した事は無いと諭(さと)しました、彼れは早や魂も抜けた様に成り馬鹿が人の顔を見る様に検査官の顔を見上てハイ何も彼も白状致します全く私しの仕(し)た業(わざ)ですと答えました」警察長は聞来りて「能(よ)く遣(やっ)た、能く遣た」と再び賛成の意を示すに巡査は全く勝誇りて「私し共は素(もと)より出来るだけ早く事を終る所存です、成る可く人を騒がすなと云うお差図を得て居ましたが何時(いつ)の間にか早や弥次馬ががや/\と其戸口に集りましたから検査官は罪人の手を引立てさゝ警察署で待て居るから直に行こうと云いますと罪人はやッと立上り有(あり)だけの勇気を絞り集めた声でハイ参りましょうと答えました吾々は是で最(も)う何も彼も旨(うま)く行たと思て居ましたが実は彼れの背後(うしろ)に女房の控えている事を忘れて居ました、此時まで藻西太郎の女房は気絶でも仕たかと思わるゝほど静で、腕椅子に沈込んだまゝ一言も発せずに居ましたが吾々が藻西を引立ようとすると宛(まる)で女獅々の狂う様に飛立て戸の前に立塞がり、通しません茲(こゝ)を通しませんと叫びましたが本統(ほんとう)に凄い様でした、流石(さすが)に検査官は慣て居るだけ静に制してイヤ内儀(ないぎ)腹も立うが仕方が無い其様な事をするだけ不為(ふため)だからと云ましたけれど女房は仲々聴きません果(はて)は両の手に左右の戸を捕え所天(おっと)に決して其様な罪は無い彼に限ッて悪事は働かぬとか所天が牢へ入られるなら私しも入れて下さいとか夫は/\最う聞くも気の毒なほど立腹し吾々を罵るやら誹(そし)るやら、容易には収り相(そう)も見えませんでしたが、何と云ても検査官の承知せぬのを見、今度は泣ながら詫をして何(ど)うか所天を許して呉れと願いました、気の毒は気の毒でも役目には代られませんから検査官は少しも動きません、女も終(つい)には思い切(きっ)たと見え所天の首に手を巻て貴方は此様な恐ろしい疑いを受けて無言(だまっ)て居るのですか覚えが無(ない)と言切てお仕舞いなさい貴方に限て其様な事の無いのは私しが知て居ますと泣きつ口説(くどき)つする様(さま)に一同涙を催(もよお)しました、夫(それ)だのに藻西太郎と云う奴は本統に酷(ひど)い奴ですよ、何(ど)うでしょう其泣て居る我が女房を邪慳(じゃけん)にも突飛(つきとば)しました、本統に自分の敵(かたき)とでも云う様に荒々しく突飛しました、女房は次の室(ま)まで蹌踉(よろめい)て行て仆(たお)れましたが夫(それ)でも先(ま)ア幸いな事には夫でいさくさも収りました、何でも女房は仆れた儘(まゝ)気絶した様子でしたが其暇に検査官は亭主を引立て直様(すぐさま)戸表(とおもて)に待せある馬車へと舁(かつ)いで行きました、いえ本統に藻西を舁いだのです彼れは足がよろ/\して馬車まで歩む事も出来ぬのです、え何と恐ろしい者じゃ有ませんか、我が悪事が早や露見したかと失望したので足が立なく成たのです、先々(まず/\)是で厄介を払たと思た所ろ女房の外に猶(ま)だ一つ厄介者が有たのですよ、夫を何だと思います、彼れの飼(かっ)て居る黒い犬です、犬の畜生女房より猶だ手に合ぬ奴で、吾々が藻西太郎を引立ようとすると□々(わん/\)と吠て吾々に食(くら)い附(つこ)うとするのみか追ても追ても仲々聴ません、実に気の強い犬ですよ、夫でも先(ま)ア味方は三人でしょう敵は纔(わずか)に一匹の犬だから漸(ようや)くに追退(おいのけ)て藻西を馬車へ引載ると今度は犬も調子を変え、一緒に馬車へ乗うとするのです、夫も到頭追払(おっぱら)いやッとの事で引上る運びに達しましたが、其引上る道々も検査官は藻西太郎を慰めようとしますけれど彼れ首(こうべ)を垂れて深く考え込む様子で一言も返事しません、夫から警察本署へ着た頃は少し心も落着た様子でしたが、頓(やが)て牢の中へ入(いれ)ますと、彼れ唯一人淋しい一室へ閉籠られただけ又首を垂れあゝ何(ど)うしたんだなア本統にと繰返し/\呟きます検査官は之を聞て再び彼れの傍に近附て何うしたか自分で知って居るだろう、愈々罪に服するかと問ますと彼れは爾(そう)ですと云わぬばかりに頷首(うなず)きながら何うか独りで置て下さいと云うのです、夫でも若(も)しや独りで置いて自殺でも企てる様な事が有ては成らぬと思い吾々は竊(ひそか)に見張を就(つけ)て牢から退き、検査官と同僚巡査一人とは本署に残り私しが此通り顛末の報告に参りました」と世に珍しき長談議も茲(こゝ)に漸(ようや)く終りを告げたり。
 聞終りて警察長は「是で最う何も彼も明々白々だ」と呟き予審判事も同じ思いと見え「左様(さよう)、明々白々です、外に何(ど)の様な事情が有(あろ)うとも藻西太郎が此事件の罪人と云う事は争われぬ」と云う、余は実に驚きたれど猶(な)お合点の行かぬ所あり横鎗を入んため将(まさ)に唇頭(くちびる)を動さんとするに目科も余と同じ想いの如く余よりも先に口を開き「是(これ)を明々白々とすれば藻西は伯父を殺した後で自分の名を書附て行た者と思わねばならぬ、其様な事は何うも無い筈(はず)だが、警「無さ相(そう)でも好(よ)いじゃ無いか当人が白状したと云えば夫から上確な事は無い、成るほど血の文字が少し合点が行かぬけれど是も当人に篤(とく)と問えば必ず其訳が分るだろう、唯吾々が充分の事情を知らぬから未(ま)だ合点が行かぬと云う丈の事」判事は目科の横鎗にて再び幾分の危(あやぶ)む念を浮べし如く「今夜早速(さっそく)牢屋へ行き篤(とく)と藻西太郎に問糺(といたゞ)して見よう」と云う。
 是(これ)にて判事は猶(な)お警察長に向い先刻死骸検査の為(た)め迎(むかえ)に遣(や)りたる医官等も最早(もは)や来(きた)るに間も有るまじければ夫(それ)まで茲(こゝ)に留(とゞま)られよと頼み置き其身は書記及び報告に来し件(くだん)の巡査と共に此家より引上げたり、後に警察長は予審判事の頼みに従いて踏留(ふみとゞま)りは留りしかど最早夕飯の時刻なれば、成る可く引上げを早くせんと思いし如くそろ/\室中(しつちゅう)の抽斗(ひきだし)及び押入等に封印を施し初めぬ。
 余と目科両人は同じ疑いに心迷い顔見合せて立つのみなりしが、目科は徐々(そろ/\)と其疑いの鎮まりし如く「爾(そう)さなア、矢張り血の文字は老人が書たのかも知れぬ」余は忽(たちま)ち目を見開き「老人が左の手でかね、其様な事が有うか夫(それ)に老人が唯(たゞ)一突(ひとつき)で文字などを書く間も無く死(しん)だ事は僕が受合う」あゝ余と目科との間柄は早や君(きみ)僕(ぼく)と云う程の隔て無き交(まじわ)りと為(な)れり目「全く相違ないのかね余「傷から云えば全く爾(そう)だよ、今に検査の医者も来るだろうから問うて見たまえ、尤(もっと)も僕は猶(な)お卒業もせぬ書生の事だから当(あて)には成らぬかも知れぬが医官に聞けば必ず分る」目科は又も空箱を取出しながら「此事件には猶(ま)だ吾々の知らぬ秘密の点が有るに極(きま)ッて居る、其点を検めるが肝腎だ夫(それ)を検めるには是から更に詮策を初めねばならぬが、爾(そう)だ更に初めても構いはせぬなア面白い初めようじゃ無いか好(よ)し/\其積(そのつもり)で先(ま)ず第一に此家の店番を呼び問正(といたゞ)して見よう」斯(こう)云(い)いて目科は梯子段(はしごだん)の際(きわ)に行き、手欄(てすり)より下階(した)を窺(のぞ)きて声を張上げ店番を呼立たり。


          第五回(種々(しゅ/″\)の証拠)

 店番の来るまでにて目科は更に犯罪の現場の検査を初め、中にも此(この)室(へや)の入口の戸に最も深く心を留めたり、戸の錠前は無傷にして少しも外より無理に推開きたる如き痕(あと)無(な)ければ是(これ)だけにて曲者(くせもの)が兎(と)にも角(かく)にも老人と懇意(こんい)の人なりしことは確(たしか)なり、余は又目科が斯(か)く詮鑿(さく)する間に室中を其方此方(そちこち)と見廻して先に判事の書記が寄りたる卓子(てえぶる)の下にて見し彼のコロップの栓を拾い上げたり、要(よう)も無き唯(ただ)一個(ひとつ)の空瓶の口なれば是が爾(さ)までの手掛りに為(な)ろうとは思わねど少しの手掛りをも見落さじとの熱心より之も念の為にとて拾い上げしなれ、拾い上げて検(あらた)め見るに是れ通常の酒瓶の栓にして別に異(かわ)りし所も無し、上の端には青き封蝋の着きし儘にて其真中に錐(きり)をもみ込し如き穴あるは是れ螺旋形(うずまき)のコロップ抜(ぬき)にて引抜(ひきぬき)たる痕(あと)なるべし、尤(もっと)も護謨(ごむ)同様に紳縮(のびちゞ)みする樹皮(きのかわ)なれば其穴は自(おのずか)ら塞(ふさ)がりて唯(た)だ其傷だけ残れるを見るのみなれば更に覆(くつが)えして下(しも)の端を眺れば茲(こゝ)には異様なる切創(きりきず)あり、何者が何の為にコロップの栓の裏に斯(かゝ)る切創を附けたるにや、其創は最(もっとも)鋭き刃物にて刺したる者にて老人の咽(のんど)を刺せし兇刃(きょうじん)も斯(かゝ)る業物(わざもの)なりしならん、老人の咽を突きしも此コロップを突し如くに突しにや、斯(か)く思いて余はゾッと身震いしつ、其儘(そのまゝ)持行きて目科に示すに彼れ右見左見(とみこうみ)打眺(うちなが)めたるすえ「コレハ大変な手掛だ」と云い嚊煙草の空箱を取出す間も無く喜びの色を浮べたれば、余は何故(なにゆえ)是が大変の手掛りなるやと怪みて打問うに彼れ今も猶(な)お押入其他の封印に忙わしき彼の警察長を尻目に見、彼れに何事も聞えぬ様小声にて説明(ときあか)す「何故だッて君、此コロップは曲者が捨て行たのでは無いか、先(ま)ず此傷を見給え此傷を、是は確に老人を刺した刃物で附けたのだ」余も同じく小声にて「何の為に目「何の為に、其様な事を聞く奴が有るものか、曲者は余程鋭い両刃(もろは)の短剣を持て来たのだ、両刃と云う事は此傷の形で分る、傷の中程が少し厚くて両の縁(ふち)が次第に細く薄く成(なっ)て居るじゃ無(な)いか余「成るほど爾(そう)だ目「爾(さ)すれば此(この)鋭利(するど)い短剣を曲者は何(ど)うして持て来たゞろう、人に見られぬ様に隠して居たのは明かだ、さア隠すなら何所(どこ)へ隠す、着物の衣嚢(かくし)とか其他先ず自分の身の中(うち)には違い無いが其鋭利(するど)いものを身の中へ隠すのは極めて険呑(けんのん)だ、少し間違えば自分の身に怪我をするか或は又剣先(きっさき)の刃を欠くと云う恐(おそれ)が有る、して見れば何かで其剣先を包んで置かねばならぬ、さア何で包んだ、即ち此コロップだろう、コロップは柔(やわら)かで少しも刃を傷める患(うれ)いが無いから夫(それ)で之をそッと其剣先へ刺込で衣嚢(かくし)へ入れて来たのだ余「説き得て妙目「老人を突く時に此コロップを外したが後では最(も)う誰にも認られぬうち早く立去ろうと思うからコロップなどは打忘れて帰たゞろう余「成るほど目「所(ところ)で比コロップには青い封蝋が附いて居るから何か一種の銘酒の瓶に用いて有ッたに違い無い、斯(か)く段々推して行けば次第に捜すのも易くなる、何にしろ此コロップは大変な手掛だ、是が手に入る以上は僕必ず曲者を捕えて見せる」と云終(いいおわ)りて其コロップを衣嚢(かくし)に入(いる)るに此所へ入来るは別人ならず今しも目科が呼置きたる此家の店番にして即ち先刻余と目科と此家に入込しとき店先にて大勢の店子等(たなこら)に泡を吹きつゝ話し居たる老女なり、女「何御用か知ませんが少々用事も有ますので余りお手間の取れぬ様に願います」と云いつゝ老女は目科の差出す椅子に寄れり、目科は何所(どこ)と無く威光高き調子を現わし「少し聞度(きゝた)い事が有るので、是から一々お前に問うから何も彼も腹臓なく答えぬと返てお前の不為(ふため)だよ女「はい心得ました」目科は判事の尋問する如く己れも先ず椅子に寄りて「殺された老人の名は何と云う、女「梅五郎(ばいごろう)と申(もうし)ました目「何時(いつ)から此(この)家(いえ)に住で居る女「はい八年前から目「其前は何所(どこ)に住だ女「夫(それ)まではリセリウ街(まち)で理髪店を開いて居ました、老人は理髪師で身代(しんだい)を作ッたのです目「何(ど)れほどの身代が有る女「確(たしか)には知ませんが老人の甥が時々申ますに伯父は命を取られると云う場合には随分百万法(フランク)くらいは出し兼ぬと云いました」目科は心の中にて「ふゝむ予審判事は何かの書面を頻(しき)りと書記に写させて居たから梅五郎の身代を残らず調べ上て行たと見えるな」と打呟(うちつぶや)き更に又老女に向い「して梅五郎老人は平生(へいぜい)何(ど)の様な人だッた女「極々(ごく/\)の善人でした、尤(もっと)も少し我儘(わがまゝ)で剛情な所は有ましたが高ぶりは致しません、少し機嫌の能(よ)い時は面白い事ばかり言て人を笑せました、爾(そう)でしょうよ流行社会の理髪師で巴里(ぱり)中の美人は一人残らず彼(あ)の人の手に掛ッて髪をくねらせて貰ッたと云う程ですもの目「暮し向は女「先(ま)ア当前ですねえ、自分で儲溜(もうけた)めた金で暮す人には丁度相当と思われる暮し方でした、夫(それ)かとて無駄使などは決して致しませんでしたが目「夫だけでは確(しか)と分らぬ何か是と云う格別な所が有そうな者だ女「有ますとも老人の室の掃除向(むき)と給仕とは私(わたく)しが引受けて居ましたもの、大層甲斐々々(かい/″\)しい老人で室の掃除などは大概(たいがい)一人(にん)で仕て仕舞い私には手を掛させぬ程でした、何がなし暇さえあれば掃(はい)たり拭(ふい)たり磨(みがい)たり仕て居るが癖ですから目「給仕の方は女「給仕の方は毎日昼の十二時を合図に私しがお膳を持て来るのです、夫が老人の朝飯です、朝飯が済でから身仕度するが凡(およ)そ二時まで掛ります、大層着物を被(き)るのが八(や)かましい人で毎(いつ)でも婚礼の時かと思うほど身綺麗(みぎれい)にして居ました、身仕度が終ると家を出て宵(よい)の六時まで散歩し六時に外で中食(ちゅうじき)を済せ、夫から多くはゲルボアの珈琲館に入り昔友達と珈琲を呑(のん)だり歌牌(かるた)を仕たりして遅くも夜の十一時には帰て来て寝床(ねどこ)に就きました、ですが唯(たっ)た一つ悪い事にはあの年に成(なっ)て猶(ま)だ女の後を追掛る癖が止みませんから私しは時々年に恥ても少しは謹(つゝし)むが好(よか)ろうと云いました、ですが誰でも落度は有る者(もの)で夫(それ)に若い頃の商売が商売で女には彼是(かれこ)れ云れた方ですから言えば無理も有りますまいが」と云い少し笑いを催し来(きた)れど目科は極めて真面目にて「して梅五郎の許(もと)へは沢山(たくさん)尋ねて来る人が有たのか女「はい有ッても極極(ごく/\)僅(わず)かです其うちで屡々(しば/\)来るのが甥の藻西太郎さんで、土曜日の度には必ず老人に呼ばれてラシウル料理店へ中食に行きました目「甥と老人との間柄は女「此上も無く好い仲でした目「是までに言争いでも仕た事は女「決して有りません、尤もお倉(くら)さんの事に就ては両方の言う事が折合ませんですけれど目「お倉さんとは誰の事だ女「藻西太郎さんの細君(おかみさん)です、実に奇麗な女ですよ。あの様なのが先(ま)ア立派な女と云うのでしょう、夫(それ)に外に悪い癖は有りませんけれど其お倉さんも大変な衣服蕩楽(なりどうらく)で藻西太郎さんの身代に釣あわぬほど立派な身姿(みなり)をして居ますから綺倆(きりょう)が一層引立ちます、ですから全体云えば老人が大層誉め無ければ成らぬ筈ですのに何(ど)う云う者か老人は其お倉さんが大嫌いで藻西太郎さんに向ッては手前は女房を愛し過る今に見ろ女房の鼻の先で追使われる様になるからとか、お倉は手前の様な亭主に満足する女じゃ無い、今に見ろ何か間違いを仕出来(しでか)すからとか其様な事ばかり言て居ました、爾々(そう/\)夫ばかりでは有りませんよ昨年も老人とお倉さんと喧嘩をした事が有ます、お倉さんは亭主(やど)に或(あ)る飾屋(かざりみせ)の株を買せるからと云い老人に大変な無心を言て来たのです、すると老人は一も二も無く跳附(はねつけ)て、己(おれ)が死んだ後では己の金を藻西太郎が何(ど)の様に仕ようと勝手だけれど兎(と)角も己の稼ぎ溜た金だから生て居る間は己の勝手にせねば成らぬ、一文でも人に貸して使わせる事は出来ぬなんぞと言ました」読者よ余の考えにては此点こそ最も大切の所なれば目科が充分に問詰るならんと思いしに彼れ意外にも達(たっ)て問返さん様子なく余が目配(めくばせ)するも知らぬ顔にて更に次の問題に移り「したが老人の殺されて居る所は何(ど)うして見出した女「何うしてとは、夫は私しが見出したのですよ、先(ま)あ何うでしょうお聞下さい私しは毎(いつ)もの通り十二時を合図に膳を持て老人の室まで来、兼(かね)て入口の合鍵を渡されて居る者ですから何気なく戸を開て、内へ這入(はいっ)て見ますると、可哀相に、此有様です」と言来(いいきた)りて老女は真実憫(あわ)れに堪えぬ如く声を啜(すゝ)りて泣出せしかば目科は之を慰めて「いやお前が爾(そう)まで悲むは尤もだが、最(も)う時が無い事で有るし先ず悲みを堪(こら)えて――女「はい堪えます、堪えます目「私(わし)の問う事に返事を仕て、さゝ、夫から何うした、其老人の死骸を見て其時お前は何と思ッた女「何と思わ無くとも分ッて居ます、甥の畜生が伯父の死(しぬ)るのを待兼て早く其身代を自分の物にする気になり殺したに極て居ます、私しは皆に爾(そう)云て遣(やり)ました目「併(しか)し、何故其甥が殺したに極て居る人を人殺しなどゝ云うは実に容易の事で無く其人を首切台へ推上(おしのぼ)すも同じ事だ、少し位は疑ッても容易に口にまで出して言触す事の出来る者で無い、夫くらいの事はお前も知て居るだろう女「だッて貴方(あなた)、甥で無くて誰が殺しましょう、藻西太郎は昨夜老人に逢(あい)に来て、帰て行たのは大方(おおかた)夜の十二時でした、毎(いつ)も来れば這入がけと帰掛(かえりがけ)とに大抵私しへ声を掛る人ですのに昨夜に限り来た時にも帰る時にも私しへ一言の挨拶をせぬから私しは変だと思て居ましたよ、何しろ昨夜其甥が帰てから今朝私しが死骸を見出した時まで誰も老人の室へ這入ッた者の無いのは確かです夫は私しが受合います」
 読者よ是だけの証言を聞き余は驚かざる可(べ)き乎(か)、余は実に仰天したり、余は此時猶お年も若く経験とても積ざれば、最早や藻西太郎の犯罪は警察官の云し如く真に明々白々にて此上問うだけ無益なりと思いたり去れど目科は流石(さすが)経験に富るだけ、且(か)つは彼れ如何に口重き証人にも其腹の中(うち)に在るだけを充分吐尽(はきつく)させる秘術を知れば猶(な)お失望の様子も無く宛(あたか)も独言(ひとりごと)を云う如き調子にて「成(な)る程昨夜藻西太郎が老人に逢(あい)に来た事は最(も)う確だな女「確かですとも、是ほど確かな事は有ません目「するとお前は藻西を見たのだね、其顔を確(しっか)り認(みとめ)たのだね女「いえ少しお待なさい、見たと云て顔を見た訳では有ません廊下へ行く所を見たのです、夫も彼れ急いで歩きましたから、何でも私に目認(みと)められまいと思う様に本統(ほんとう)に憎いじゃ有ませんか廊下の燈明(あかり)が充分で無いのを幸いちょい/\と早足に通過(とおりすぎ)ました」余は此一節(ふし)を聞きて思わず椅子より飛離れたり、是れ実に軽々しく聞過し難き所ならん、余は殆ど堪え兼て傍(かたわら)より問を発し「若(も)し夫だけの事ならばお前が確に藻西太郎と認めたとは云われぬじゃ無いか」老女は最(いと)怪(あやし)げに余を頭の頂辺(てっぺん)より足の先まで隈(くま)なく見終り「なに貴方、仮令(たとい)当人の顔は見ずとも連て居る犬を確に見ましたもの、犬は藻西に連られて来る度(たび)に私しが可愛がッて遣(や)りますから昨夜も私しの室へ来たのです、だから私しが余物(あまりもの)を遣(やろ)うとして居ると丁度(ちょうど)其時藻西が階段の所から口笛で呼ましたから犬は泡食(あわくっ)て三階へ馳上(はせあが)ッて仕舞ました」此返事を目科は何と聞きたるにや余は彼れの顔色を読まんとするに、彼れ例の空箱にて之を避(よ)け「して藻西の犬とは何(ど)の様な犬だ」と老女に問う女「はい前額(ひたい)に少し白い毛が有るばかりで其外は真黒な番犬(ばんいぬ)ですよ、名前はプラトと云ましてね、大層気むずかしい犬なんです、知ぬ人には誰にでも□(うな)りますが唯(たゞ)私しには時々食う者を貰う為め少しばかり穏(おだや)かです、藻西太郎より外の者の云う事は決して聴きません」是(こゝ)だけ聞きて目科は「夫で好し最(も)う聞く事は無いからお前下るが好い」と云い老女が外の戸まで立去るを看送(みおく)り済(すま)し更に余が方(かた)に打向いて「最(も)う何(ど)うしても藻西太郎の仕業(しわざ)と認める外は無い」と嘆息(たんそく)せり。
 目科が猶お老女を尋問し居たるうちに、先刻判事が向いに遣(やり)しと云いたる医官二名出張し来りて此時までも共々(とも/″\)に手を取りて老人の死骸を検(あらた)め居たれば余は一方に気の揉める中(うち)にも又一方に医官が検査の結果如何(いかゞ)と殆(ほとん)ど心配の思いに堪えず、凡(およ)そ医師二人(ににん)以上立会うときは十の場合が七八(なゝやつ)まで銘々見込を異にする者なれば若(も)し此場合に於ても二人其見る所同じからず、縦(よ)し一方が余の見立通り老人は唯一突にて痛(いたみ)を感ずる間も無きうちに事切れたりと見定むるとも其一方が然らずと云わば何とせん、青(あお)書生の余が言葉は斯(かゝ)る医官の証言に向いては少しの重みも有る可きに非ず、斯(かく)思いて余は二人の医官を見較ぶるに一方は瘠(や)せて背高く一方は肥(こえ)て背低し斯(かく)も似寄たる所少き二人の医官が同様の見立を為すは殆ど望み難(がた)き所なれば猶お彼等の言葉を聞かぬうちより既(すで)に失望し居たる所、彼等は頓(やが)て検査し終り、今まで居残れる警察長に向い不思議にも同一の報告を為(な)したり、同一の報告とは他ならず梅五郎老人は唯一突にて即死せし者なれば従ッて血の文字は老人の書し者に非ずと云うに在り。
 余は意外にも二人の医官が二人ながら余の意見と同一の報告を為せしを見、ほッと息して目科に向えば目科は益々怪しみて決し兼たる如く「フム老人が書たで無いとすれば誰が書たのだろう、藻西太郎か、藻西太郎が自分で自分の名を書附て行くと云う事は決して無い、無い/\何うしても無い、自分で自分の名を書くとは余り馬鹿げ過て居る」
 余は此言葉に何の批評をも加えねど、己が役目の漸(ようや)く終り、やッと晩餐に有附く可き時の来りしを歓びながら出(いで)て行く彼の警察長は目科の言葉を小耳に挟み彼れをからかうも一興と思いし如く「当人が既に殺しましたと白状した後で他人の君が六(むず)かしく道理を附け独り六かしがッて居るのは夫こそ余り馬鹿さが過るじゃ無いか」目科は怒りもせず「左様(さよう)、馬鹿さが過るかも知れぬ、事に由ると僕が全くの馬鹿かも知れぬ、けれども今に判然と合点の行く時が来るだろうよ」警察長は聞流して帰り去り、目科も亦(また)言流して余に向い出し抜(ぬけ)に「さア是から二人で警察本署へ行き、捕われて居る藻西太郎に逢て見よう」


          第六回(犬と短銃(ぴすとる))


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