獄中消息
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著者名:大杉栄 

市ヶ谷から(一)

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 宛名・日附不明
 僕は三畳の室を独占している。日当りもいいし、風通しもいいし、新しくて綺麗だし、なかなか下六番町の僕の家などの追いつくものでない。……こんなところなら一生はいっていてもいいと思うくらいだ。しかし警視庁はいやなところだった。南京虫が多くてね。僕も左の耳を噛まれて、握拳大の瘤を出かした。三、四日の間はかゆくてかゆくて、小刀でもあったらえぐり取りたいほどであった。
 十分間と口から離したことのない煙草とお別れするのだもの、定めて寤寝切(ごしんせつ)なる思いをしなければなるまいと思っていたが、不思議だ、煙草のたの字も出て来ない。強いて思って見ようと努めて見たが、やっぱり駄目だ。
 いつまでここに居るか知らないが、在監中には是非エスペラント語を大成し、ドイツ語を小成したいと思ってる。
 監獄へ来て初めて冷水摩擦というものを覚えた。食物もよくよく噛みこなしてから呑込むようになった。食事の後には必ずウガイする。毎朝柔軟体操をやる。なかなか衛生家になった。
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 来た初めに一番驚いたのは監房にクシとフケトリとが揃えてあったことです。これがなかったら大ハイ□当時の僕のアダ名、ハイはハイカラのハイも□何も滅茶苦茶です。しかしまさかに鏡はありません。於是乎、腕を拱いて大ハイ大いに考えたのです。そしてとうとう一策を案出したのです。それは監房の中に黒い渋紙を貼った塵取がありますから、ガラス窓を外して、その向側にそれを当てて見るのです。試みにやって御覧なさい。ヘタな鏡などよりよほどよく見えます。
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 宛名不明・明治三十九年四月二日
 この頃は、半ば丸みがかった月が、白銀の光を夜なかまで監房のうちに送ってくれます。
 監獄といえども花はあります。毎朝運動場に出ると、高い壁を越えて向うに、今は真っ盛りの桃の木を一株見ることができます。なおその外にも、病監の前に数株の桜がありますから、近いうちにはこの花をも賞することがあるのでしょう。
 月あり、花あり、しこうしてまた鳥も居ります。本も読みあきて、あくびの三つ四つも続いて出る時に、ただ一つの友として親しむのは、窓側の桧に群がって来る雀です。その羽の色は決して麗わしくはありません。その声音も決して妙なるものではありません。その容姿もまた決して美なるものではありません。しかし何だかなつかしいのはこの鳥です。
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 宛名・日附不明
 今朝早くからエスペラントで夢中になっております。一瀉千里の勢いとまでは行きませんが、ともかくもズンズン読んでゆけるので嬉しくて堪りません。予審の終結する頃までにはエスペラントの大通になって見せます。
 ここにもやはり南京虫が居ります。これさえ居なければ時々は志願して来てもいいと思って居ったのに惜しいことです。今日までに噛まれた数と場所とは左のごとくです。警視庁では左の耳の下三。監獄では、左の耳の下二。右の耳の下一。左の頬一。右の頬一。咽喉二。胸一。左の腕四。右の腕三。右の足一。右の手の指一。こんなに噛まれて居ながら、未だにその正体を拝んだことがないので、はなはだ遺憾に思っています。
 朝から晩まで続けざまに本を見て居れるものでなし、例の雀もどこかへ行ってしまう、やむを得ずに南京虫に喰われた跡などを数えて時を過しています。時々に地震があって少しは興にもなりますが、これとてあまり面白いものではありません。こんな時に欲しいのは手紙です。
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 堺利彦宛・明治三十九年四月
 五日、父面接に来り、社会党に加盟せるを叱責すること厳也。予すなわちこれに答えて曰う。「父たるの権威を擁して、しこうしてすでに自覚に入れる児の思想に斧鉞を置かんとす、これ実に至大至重の罪悪也。児たる我は、かくのごときの大罪を父に犯さしむるを絶対に拒む」と。噫々これはたして孝乎不孝乎。しかれどもまた翻りて思う。社会の基礎は家庭也。余社会をして(二字削除)に帰せしめんと欲す。(二字削除)の(二字削除)は、まず家庭に点火せらるるによりて初めてその端緒を開く。噫々われすでに家庭に火を放てり。微笑と涕泣、もってわが家の焼尽し行くさまを眺めんかな。
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 堺利彦宛・日附不明
 毎日毎日南京虫に苦しめられるから、どうしたら善かろうかと、運動の時に相棒の強盗殺人犯先生に聞いて見た。先生の言うには、それは殺すに限る、朝起きたら四方の壁を三十分ぐらいにらんで居るのだ、きっと一疋や二疋は這って居る、と。果然、のっそりのっそりとやっている。すぐに捕えてギロチンに掛けた。人の血を吸う奴はみなこうしてやるに限る。
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 宛名・日付不明
 先々月の二十二日にここに入れられたまま一昨日はじめて外へ出た。それは公判の下調べと言うので遠く馬車を駆って裁判所まで行ったのだ。例の金網越しに路ゆく人を見ると、綿入れは袷となった。中折はパナマや麦藁となった。そしてチラホラと氷店の看板さえも見える。世はいつの間にか夏に近づいたのだね。途で四谷見附の躑躅(つつじ)を見た。桃散り桜散り、久しく花の色に餓えたりし僕は、ただもう恍惚として酔えるがごときうちに、馬車は遠慮なくガタガタと馳せて行った。
 読書はこの頃なかなか忙がしい。まず朝はフォィエルバッハの『宗教論』を読む。アルベエル(仏国アナーキスト)の『自由恋愛論』を読む。午後はエスペラント語を専門にやる。先月は読む方ばかりであったが、こんどは、それと書く方とを半々にやる。つまらない文法の練習問題を一々真面目にやって行くなどは、監獄にでもはいって居なければとうていできぬ業だろうと思う。ただ、一人では会話ができないで困る。夕食後就寝まで二時間余りある。その間はトルストイの小説集を読んでいる。
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 この頃はノミと蚊と南京虫とが三位一体になって攻め寄せるので、大いに弱っている。僕昨日剃髪した。□髪を長くのばしていたのを短かく刈ったのだ□これは旗などをかついで市中を駆けまわった前非を悔いたのだ。
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 由分社宛・明治三十九年五月
 どうせ食うなら重罪の方が面白い。軽罪はあまり気がきかない。無罪ならもっとも妙だ。看守さんに聞いたら九年以上との話。マア十年と思って考えて見よう。すると僕が出た時には、堺さんが五十近くの半白爺、秀哉坊がちょうど恋を知りそむる頃、僕がまだようやく三十二、三、男盛りの登り坂にかかる時だ。身体は大切にして居ればそう容易く死にもしまい。
 エスペラントは面白いように進んで行く。今はハムレットの初幕のところを読んでいる。英文で読んだことはないが、仏文では一度読んだことがある。しかしこんどほど容易くかつ面白くはなかったようだ。
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 宛名・日付不明
 昨日から特待というものになった。と言ってもわかるまい、説明をしよう。社会主義者が人類を別けて紳士閥と平民との二になすがごとく、監獄では待遇上被告人を二つの階級に別けてある。しこうしてその一は雑房に住み、他の一は独房に住むの差異がある。……すなわち独房をもって監獄における紳士閥として置こう。
 平民の方は少しも様子を知らないが、この紳士閥の方にはまた二つの階級がある。一は特待と言うが、一は何と言うのかたぶん名はないと思う。特待になると純粋の特権階級で、一枚の布団が二枚になり、朝一回の運動が午前と午後との二回になり、さらに監房の中に机と筆と墨壷までがはいる。この上に原稿を書いて『研究』や『光』に送ることができたら、被告人生活というものもなかなかオツなものなんだけれど。
 白熊、孤剣、起雲、世民の徒は、来るとすぐにこの特権階級にはいったようだ。他のものはみな平民の部に属して居る。少翁なども勉強ができぬと言って大いにコボシているそうだ。僕のところは机だけは初めから入れてくれた。たぶん特待候補者とでも言うのであったんだろう。
 自分が特権階級にはいって見れば、なるほど気持の悪いこともないが、その代りに特権褫奪という恐れが始終頭に浮ぶ。紳士閥が、軍隊だとか、警察だとか、法律だとかを、五百羅漢のように並べ立てて置くのも、要するにこの特権維持に苦心した結果に過ぎないのだ。
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 折々着物についての御注意ありがとう。天にも地にもたった一枚の羽織と綿入れだもの、大切にしなくて如何しよう。ただ困るのは綻びの切れることだが、これは糸を結んで玉を作って、穴の大きくならぬようにして置く。もっとも看守さんに話をすれば針と糸とを貸して下さるのだけれど、食品口という四寸四方ばかりの小窓を開けて「看守殿お願いします、お願いします」と言わなければならぬのがいやさに、ツイ一度もいわゆるお願いしたことがない。
 僕等の監房の窓の下は、女監へ往来する道になっている。毎日十人くらいずつ五群も六群もはいって来る。道がセメントで敷きつめられているから、そのたびごとに、カランコロン、カランコロンと実に微妙な音楽を聞くことができる。
 女監を見るたびにいつも思うが、僕等の事件に一人でも善い、二人でも善い、ともかくも婦人がはいっていたらどんなに趣味あることだろう。『家庭雑誌』に載った秀湖のハイカラ女学生論も、決して日比谷公園で角帽と相引きするをもって人生の全部と心得ているようなものを指したのではあるまい。僕秀湖に問う。兇徒聚衆の女学生! これこそ真に「痛快なるハイカラ女学生」じゃあるまいか。
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 昨日保子さんから猫の絵はがきを戴いた。何だか棒っ切の先から煙の出てるのを持っているが、あれが物の本で見る煙草とかいうものなのだろう。今までは人間の食物だと聞いて居たが、ではなくて猫の玩弄品と見える。
 今朝妹と堀内とが面会に来た。こんな善いところにいるのを、何故悲しいのか、オイオイとばかり泣いていた。面会所で泣くことと怒ることだけは厳禁してもらいたい。そしてニコニコと笑っていてもらいたい。
 入獄するチョット前からハヤシかけていた髭は、暇に任せてネジったりヒッパったり散々に虐待するものだから、たださえ薄い少ないのが可哀相に切れたり抜けたり少しも発達せぬ。よく見ると顔のあちこちに薄い禿がたくさんできた。これは南京虫に噛まれたのを引っかいたあとだ。入獄の好個の紀念として永久に保存せしめたいものだと思っている。
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 今朝は暗い頃から火事のために目がさめて、その後ドウしても寝つかれない。そこでさっそく南京虫の征伐に出かけた。いるいるウジウジいる。ついに夜明け頃までに十有三疋捕えた。大きいのが大豆の半分ぐらい、小さいのが米粒ぐらい、中ぐらいのが小豆ぐらいある。これは出獄の時の唯一のお土産と思って、紙に包んで大切にしてしまってある。そしてその包紙に下のごとくいたずら書きをした。
 社会において吾人平民の膏血を吸取するものは、すなわちかの紳士閥なり。監獄において吾人平民の膏血を吸取するものは、すなわちこの南京虫なり。後者は今幸いにこれを捕えて断頭台上の露と消えしむるを得たり。予はこれをもって前者の運命のはなはだ遠からざるを卜せんと欲す。社会革命党万歳! 資本家制度寂滅!
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 同志諸君・明治三十九年六月二十二日
 昨夕六時頃、身受けのしろ百円ずつで、ともかくも一とまず自由の身となりました。
 入獄中、同志諸君より寄せられた、温かき同情と、深き慰藉と、強き激励とは、私どもの終生忘るべからざるところであります。
 裁判は、たぶん本月中に右か左かの決定があることと思います。


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巣鴨から

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 堀保子宛・明治四十年六月十一日
 一昨日と昨日と今日と、これで三たび筆をとる。その理由は、あまり起居のことを詳しく書いては、かえって宅で心配するからという、典獄様のありがたい思召しで、書いては書き直し、書いては書き直し、したからである。
 二度目でもあるせいか、もう大ぶん獄中の生活に馴れて来た。日の暮れるのも、毎日のように短かくなるようだ。本月の末にでもなったら、まったく身体がアダプトしてしまうことと思う。心配するな。
 朝起きてから夜寝るまで、仕事はただ読書に耽るにある。午前中はアナーキズムとイタリア語との研究をやる。アナーキズムは、クロポトキンの『相互扶助』と、ルクリュの『進化と革命とアナーキズムの理想』というのを読み終った。今はクラーウの『アナーキズムの目的とその実行方法』というのを読んでいる。イタリア語は、文法を三十五ページばかり読んだ。全部で四百ページ余あるのだから、まだ前途遼遠だ。午後は、ドウィッチェの『神愁鬼哭』と、早稲田の『日本古代史』とを読んでいる。
 八日に「新兵事件」の判決文が来て、いささか驚かされた。他の諸君にははなはだお気の毒であるが、これも致し方がない。このことについては、何とも言うて来ないが、どうしたのだ。まだ知らないのか。助松君も重罪公判に移されたそうだけれど、まだ予審のことだからこのさきどうなるかわからぬ。よく操君を慰めるがいい。
 お手紙は九日発のがきょう着いた。たしかこれが九通目だ。同志諸君からも、毎日平均二通は来る。秋水の『比較研究論』は不許になったようだ。
『青年』の原稿は熊谷に渡したか。早く出すように言え。雑誌の相談はどうなったか。
 留守中の財政はどうか。山田から十五、六日頃に端書が来るだろう。お絹嬢にでも取りにやらせろ。仙台に行っている筈のことを忘れるな。
『社会新聞』と『大阪平民新聞』とは、もし送って来なければ前金を送れ。そして保存して置け。
 山川の獄通から、しきりに桐の花がどうの、ジャガ芋の花がどうのと言って来るが、桐は入獄した時にすでに葉ばかりになっていた。ジャガ芋の花は白く真盛りに咲いている。臭いいやな花だ。
 枯川老および兄キの病気よきよし、喜んでいる。幽月はどうか、真坊の歯はどうか。弥吉はどうか。
「新兵」で刑期が思ったよりも延びたから、いろいろ相談もある。面会に来い。同志諸君および近所の諸君によろしく。
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 堀保子宛・明治四十年七月七日
 その後病気はどうか。前々の面会の時のように、話を半ばにして倒れるのを見たり、また前の面会の時のように、蒼白い弱り込んだ顔色をしているのを見たりすると、いろいろ気にかかって堪らぬ。片瀬行きのことはどうなったか。だんだん暑くもなることだから、もし都合がいいようなら、なるべく早く行くがいい。そして、もう少し気を呑気にかつシッカリ持って、ゆっくり体を養ってくれ。
 僕は相変らず頑健、読書に耽っている。しかし例の「新兵」で思ったより刑期も延びて、別に急がぬ旅になったことだから、その後は大いに牛歩をきめて、精読また精読している。イタリア語も、後に差入れた文法の方が、よほどいいように思われたから、前のは止して、また始めからやり直している。毎日一章ずつコツコツやって行って、来月の末に一と通り卒業する予定だ。
 その後読んだもの。チェルコソフ『社会主義史の数ページ』、クロポトキン『無政府主義の倫理』、同『無政府主義概論』、同『無政府主義と共産主義』、同『裁判と称する復讐制度』、マラテスタ『無政府』、ロラー『総同盟罷工』、ニューエンヒュイス『非軍備主義』(以上小冊子)。ゾラ『アソンモアル』、クロポトキン『パンの略取』、アラトウ『無政府主義の哲学』、『荘子』、『老子』、『家庭雑誌』、『日本エスペラント』。
 ジャガ芋の花を悪く言って、大いに山川兄から叱られたが、あれももう大がい散ってしまったようだ。今は、ネジリとかネジリ花とかいう小さな可愛らしい草花が、中庭一面の芝生の中に入りまじって、そこにもここにもいたるところにその紅白の頭をうちもたげている。面会や入浴の時には、いつもこの中庭の真ん中を通りぬけて行く。眼をあげて向うを見ると、この芝生のつきるところには、一、二間の間をおいて、幾本となく綺麗な桧が立ちならんでいて、そしてその直後に、例の赤煉瓦のいかめしい建物が聳えている。この桧の木蔭の芝生の厚いところで、思う存分手足を伸ばして一、二時間ひるねして見たい。
 手紙は、一日に平均三通ずつ来る。東京監獄では、監房の中に保存して置くことができたので、毎日のように、退屈になるとひろげ出して見ていたけれど、ここでは読み終るのを待っていて、すぐにまた持って行かれてしまう。あまりいい気持でもない。
 同志諸君によろしく。さよなら。
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 堺利彦宛・明治四十年八月十一日
 暑くなったね。それでも僕等のいる十一監というところは、獄中で一番涼しいところなのだそうだ。煉瓦の壁、鉄板の扉、三尺の窓の他の監房とは違って、ちょうど室の東西のところがすべて三寸角の柱の格子になっていて、その上両面とも直接に外界に接しているのだから、風さえあればともかくも涼しいわけだ。それに十二畳敷ばかりの広い室を独占して、夜になれば八畳つりぐらいの蚊帳の中で、起きて見つ寝て見つなぞと古く洒落れているのだもの、平民の子としてはむしろ贅沢な住居さ。着物も特に新しいのを二枚もらって、その一枚を寝衣にしている。時々洗濯もしてもらう。
 老子の最後から二章目の終りに、甘其食、美其衣、安其居、楽其俗、鄰国相望、鶏犬声相聞、民至老死不相往来という、その理想の消極的無政府の社会が描かれてある。最初の一字の、甘しとしただけがいささか覚束ないように思うけれど、僕等の今の生活と言えば、正にこんなものだろうか。妙なもので、この頃は監獄にいるのだという意識が、ある特別の場合の外はほとんど無くなったように思う。
 かつてロシアの同志の、獄中で猫を抱いている写真を、何かの雑誌で見て、日本もこんなだといいがなあなぞと言って、みんなで大いにうらやましがったことがあった。ところがこの巣鴨の監獄にも、白だの黒だの斑だの三毛だのと、いろいろな猫がそこここにうろついている。写真は撮れまいけれど一所に遊ぶことくらいはできるだろうと思って、試みに小さい声で呼んで見るが、恐ろしく眼を円くして、ちょっとねめつけるくらいが関の山で、立ち止って見ようともしない。聞くにまったく野生のものばかりだそうだ。僕の徳、はたしてこれを懐かしむるに足るかどうか。ナツメ□飼猫□が大怪我をしたそうだが、その後の経過はいいかしら。
 保子から、やれ胃腸が悪いの、やれ気管支が悪いの、やれどこが悪いのと、手紙のたびにいろいろなことを言って来るが、要するにいよいよ肺に来たのじゃないかと思う。医者はよく肺の初期をつかまえて、胃腸だの気管支だのと言うものだ。面会の時なぞも、勢いのないひどく苦しそうな呼吸をしているのを感ずる。できもすまいけれど、まあできるだけ養生するよう、よく兄よりお伝えを乞う。なお留守宅の万事、よろしく頼む。
 社会党大会事件、またまた検事殿より上告あったよし。「貧富」や「新兵」の先例から推すと、近々の中に深尾君もまたやって来なければならぬのかな。同君によろしく。なお、孤剣、秀湖、西川、山川、守田の諸君によろしく真さんにもよろしく。さよなら。
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 幸徳秋水宛・明治四十年九月十六日
 暑かった夏もすぎた。朝夕は涼しすぎるほどになった。そして僕は「少し肥えたようだね」などと看守君にからかわれている。
 この頃読書をするのに、はなはだ面白いことがある。本を読む。バクーニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、その他どのアナーキストでも、まず巻頭には天文を述べている。次に動植物を説いている。そして最後に人生社会のことを論じている。やがて読書にあきる。顔をあげて、空をながめる。まず目にはいるものは日月星辰、雲のゆきき、桐の青葉、雀、鳶、烏、さらに下って向うの監舎の屋根。ちょうど今読んだばかりのところをそのまま実地に復習するようなものです。そして僕は、僕の自然に対する知識のはなはだ薄いのに、毎度毎度恥じ入る。これから大いにこの自然を研究して見ようと思う。
 読めば読むほど考えれば考えるほど、どうしても、この自然は論理だ、論理は自然の中に完全に実現せられている。そしてこの論理は、自然の発展たる人生社会の中にも、同じくまた完全に実現せられねばならぬ、などと、今さらながらひどく自然に感服している。ただし僕のここに言う自然は、普通に人の言うミスチックな、パンティスチックな、サブスタンシェルな意味のそれとはまったく違う。兄に対してこの弁解をするのは失礼だから止す。
 僕はまた、この自然に対する研究心とともに、人類学にまた、人生の歴史に強く僕の心を引きつけて来た。こんな風に、一方にはそれからそれと泉のごとく、学究心が湧いて来ると同時に、他方には、また、火のごとくにレヴォルトの精神が燃えて来る。僕は、このスタデーとレヴォルトの二つの野心を、それぞれ監獄と社会とで果し得たいものだと希望している。
 兄の健康は如何に。『パンの略取』の進行は如何に。僕は出獄したらすぐに多年宿望のクロの『自伝』をやりたいと思っている。その熟読中だ。
 枯川のイタリア語のハガキの意味はわからんと言ってくれ。保子に判決謄本とアナルシーと授業料とを忘れないように、ことに授業料を早くと伝えてくれ。留守宅のことよろしく頼む。マダムによろしく。同志諸君、ことに深尾、横田の二兄によろしく。さよなら。
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 山川均宛・明治四十年十月十三日
 きのう東京監獄から帰って来た。まず監房にはいって机の前に腰を下ろす。ホントーに「うち」に帰ったような気がする。
 僕は法廷に出るのが大嫌いだ。ことに裁判官と問答するのがいやでいやで堪らぬ。いっそのこと、ロシアのように裁判もしないですぐにシベリアへ逐いやるというようなのが、かえって赤裸々で面白いように思う。貴婦人よりは淫売婦の方がいい。
 裁判がすめば一とまず東京監獄へ送られる。門をはいるや否や、いつも僕は南京虫のことを思うて戦慄する。一夜のうちに少なくとも二、三十カ所はかまれるのだもの、痛いやらかゆいやら、寸時も眠れるものじゃない。加うるに書物はなし、昼夜時の過しようがない。わずか二、三日して巣鴨に帰ると、獄友諸君からしきりに「痩せた痩せた」というお見舞いを受ける。
 ただ東京監獄で面白いのは鳩だ。ちょうど飯頃になると、窓の外でバタバタと羽ばたきをさせながら、妙な声をして呼び立てる。試みに飯を一とかたまり投ってやる。すると、どこからとも知れず十数羽の鳩があわただしく下りて来て、瞬くうちに平らげてしまう。また投ってやる。つい面白さにまぎれて、幾度も幾度も続けさまに投ってやる。ある時などは、飯をみんな投ってやってしまって、汁ばかりすすって飯をすましたこともある。あとで腹がへって困ったけれど、あんなことはまたとない。
 巣鴨に帰る。「大そう早かったね、裁判はどうだった」などと看守君はいろいろ心配して尋ねてくれる。何んだか気も落ちつく。ホントーに「うち」に帰ったような気がする。
 しかしこの「うち」にいるのも、もうわずかの間となった。僕もまた、久しきイナクチヴの生活にあきた。早く出たい。そして大いに活動したい。この活動については、大ぶ考えたこともある。決心したこともある。出たらゆっくり諸君と語ろう。同志諸君によろしく。
 兄の家の番地を忘れたから、この手紙は僕の家に宛てた。守田兄によろしく。さよなら。
巣鴨にて、一〇九八生

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市ヶ谷から(二)

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 堀保子宛・明治四十一年一月二十八日
 出てからまだ二た月とも経たぬうちに、またおわかれになろうとは、ほんとに思いも寄らなかった。革命家たるわれわれの一生には、こんなことがいずれ幾度もあるのだろうと思うが、情けないうちにもなお何となく趣きのある生涯じゃないか。どうぞ「また無責任なことをして」などと叱っておくれでない。それよりか清馬□今大逆事件で秋田に終身ではいっている坂本清馬のこと□が口ぐせのように歌っていた「行かしゃんせ行かしゃんせ」でも大声に歌ってくれ。
 とは言うものの、困ることは困るだろう。お為さんに頼んで、隆文館に事情を話して、少なくとも、もうテンぐらいはとって貰ってもよかろう。安成□貞雄君□から『新声』の原稿料をよこすだろう。毎度ながらまた紫山に少し無理を言え。それからこの次の面会の時に洋服を宅下げするから、飯倉□質屋□へでも持って行け。それでともかくも本月はすませるだろう。来月は例の保釈金□電車事件の際の□でも当てにしているがいい。
 枯川はしきりに同居説をすすめる。それはあなたの自由に任すが、ともかくもこの際今の家をたたんでしまった方がいいと思う。どこでもいいじゃないか、当分の間のことだ。経済上は勿論、一人で一軒の家を構えていては、いろいろ不便で困るだろう。できるなら本月中に何とかするがいい。
 山口に至急本を差入れてくれ。小さい方の本箱の上にある、竹の棚の中の英文の本がみなそれだ。たしか七冊あったと思う。それに『源氏』と『法華経』と『婦人新論』と『新刑法』とを入れてやってくれ。『新刑法』は小冊子だ。やはりその竹の棚の中にある。持って行くのは、宇都宮か誰かに頼んだらよかろう。それから古川浩のところに事情を話して、差入れのできないことを言ってやってくれ。
 手紙は隔日でなければ書けない。余は明後日に。手紙は誰にも見せるには及ばん。さよなら。
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 宛先不明・明治四十一年一月二十八日
 またやられたよ。しかし今度はまだろくに監獄っ気の抜けない中に来たのだから、万事に馴れていてはなはだ好都合だ。ただ寒いのには閉口するが、これとても火の気がないというだけで、着物は十分に着ているのだから巣鴨の同志のことを思えばそう弱音もはけない訳さ。窓外の梅の花はもう二、三分ほど綻びて居る。寒いと言ってもここ少しの辛棒だ。
 今クロポトキンの『謀反人の言葉』という本を読んでいる。クロがフランスのクレボーの獄にはいって二年半あまりを経て、その同志にして親友なるエリゼ・ルクリュが「クレボーの囚人はその監房の奥からその友人と語るの自由を持たない。しかし少なくとも彼の友人は、彼を思出し、また彼のかつて物語った言葉を集めることはできる。そしてまた、これは彼の友人の義務である。」と言って、クロが一八七九年から一八八二年の間、無政府主義新聞『謀反人』に載せた論文を蒐集したものである。『パンの略取』は理想の社会を想望したものとして、『謀反人の言葉』は現実の社会を批評したるものとして、ともにクロの名著として並び称せらるるものだ。
 クロはいわゆる「科学的」社会主義の祖述者のごとくに、ことさらに、むずかしい文字と文章とを用いて、そして何だかわけの分らない弁証法などという論理法によって、数千ページの大冊の中にその矛盾背理の理論をごまかし去るの技倆を持たない。しかし彼は、いかなる難解甚深の議論といえども、きわめて平易なる文章と通俗なる説明とを用いて、わずかに十数ページの中にこれを収むるの才能をもって居る。世界の労働者の中に、『資本論』を読んだものは幾人も居ない。しかし『パンの略取』と『謀反人の言葉』は、少なくともラテン種の労働者の間に愛読されている。
 クロは常に科学的研究法に忠実である。その『謀反人の言葉』は、まず近世社会の一般の形勢に起して、国家と資本と宗教との老耄衰弱し行くさまと、またその荒廃の跡に自由と労働と科学の新生命との萌え出づるさまを並び描いて、そして近世史の進化の道が明らかに無政府共産主義にあることを説明して、最後に「略収」の一章においてその大思想を略説結論して居る。その中の主なる、「青年に訴う」、「パリ一揆」、「法律と権威」、「略収」の数章は、すでに小冊子として英訳が出て居る。
 この露国の『謀反人の言葉』は、今東京監獄の一監房の隅において、その友と語るの自由なき日本の一謀反人によって反覆愛読されつつある。
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 堀保子宛・明治四十一年一月三十一日
 手紙が隔日に二通ずつしか書けないのみならず、この隔日もまた折々障礙せられるので不便で困る。二十五日に書こうと思ったら、監獄に書信用紙がないと言う。次の二十八日には、大阪へ出す手紙を書いている中に時間が来て監房へ連れて帰られる。昨日はと思ったら、何とか天皇祭とかで休みだと言う。そんなことで今日ようやく第二信を書く。
 あちこちから「未だ健康も回復しないうちにまたまた入獄とは」というのでしきりに見舞いが来る。ところが、入獄の時に体重が十四貫五十目あった。巣鴨を出る時に較べれば一貫三百五十目増えている。また先きに巣鴨にはいった時に較べれば百目ばかりしか不足していない。そしてこの百目はたしかに本郷警察の二日と警視庁の一日とで減ったのだと思う。すると僕の健康はもう十分に回復していたのだ。幸いに御安心を乞う。
 かえってまだ碌に監獄っ気の抜けないうちに来たのだから、万事に馴れていて、はなはだ居心地がいい。飯も初めから十分に食える。ただ寒いのには閉口するが、これとても火の気がないというだけで、着物は十分に着ていられるのだから、巣鴨の同志のことを思えばそう贅沢も言えない訳だ。しかし寒いことは寒いね。六時半から六時まで寝るのだが、その間に幾度目をさますか知れない。それでも日に日に馴れて来るようだ。
 この寒い中に二つ楽しみがある。一つは毎日午後三時頃になると、ちょうど僕の坐っているところへ二尺四方ばかりの日がさして来る。ほんのわずかの間の日向ボッコだが非常にいい気持だ。もう一つは三日目ごとの入浴だ。これが獄中で体温をとる唯一のものだ。僕のような大の湯嫌いの男が、「入浴用意」の声を聞くや否や、急いで足袋とシャツとズボン下とを脱いで、浴場へ行ったらすぐ第一番に湯桶の中に飛びこむ用意をしている。
 あなたはこの寒さに別にさわりはないか。また巣鴨の時のように、留守中を床の中で暮すようでは困るから、できるだけ養生してくれ。面会などもこの寒さを冒してわざわざ三日目ごとに来るにも及ばない。
 もう転宅(ひっこし)はしたか。あんなところではいろいろ不自由なこともいやなこともあろうけれど、まあ当分の間だ、辛棒していてくれ。そして職業なぞのことはどうでもいいからあまり心配をしないで、もう少しの間形勢を見ていてくれ。
 留守中、かつて幽月□故菅野須賀子□の行っていたところへ英語をやりに行かないか。勉強にもなるし、また少しは気のまぎれにもなるだろう。お為さんによろしく。真坊はどうしている。
 寒いので手がかじけてよく書けない。御判読を乞う。
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 堀保子宛・明治四十一年二月五日
 一昨日手紙を書こうと思ったら、また用紙がないと言う。そして今日もまたないと言う。いやになってしまう。やむを得ずハガキにした。またさびしいさびしいと言って泣言を書き立てているね。検閲をするお役人に笑われるよ。
 手紙はできるだけ隔日に書くこととする。あなたの方も、も少し勉強なさい。二十三日のハガキと二十七日の封書とが着いたばかりだ。
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 堀保子宛・明治四十一年二月十三日
 保釈はまだ何とも言って来ない。もし許されたらすぐ電報で知らせる。
 兄キの子供が死にそうだとか言っていたが、その後どうしたか。いやだなぞと言わずに、たまには行って見るがいい。そして毎度毎度ではなはだ済まないような気もするが、少しは何とかして貰うさ。
 面会をああ長く待たせられて、そして、ああ短かくすまされては、何とも仕方がないね。これからは月に二、三度も来れば大がい用も足りるだろう。そしてそのかわりにもう少し手紙をくれないか。かまわないから大いに森近夫人式にやるさ。
 この前の面会の時にまたひっこすとか何とか言っていたが、それはいろいろ嫌やなことも不自由なこともあろうけれど、なるべくならあまり面倒なことをしないで、今のところで辛棒していたらどうだろう。わずか二た月ばかりのことじゃないか。
 南はどうしている。出たことは出たが、やはり困っていやしないか。そのほかの連中はみなどうした。
 僕は、こんど出たら少し小説の翻訳をやって見ようと思っている。短かいのでやりやすいようなのが、二つ三つ今手もとにある。小説が一番金になりやすくてよかろう。
 兵馬にツルゲーネフとゴーリキーの小説を送るように言ってやってくれ。翁からの手紙によればもう肺結核が二期にまで進んでいるんだそうだね。
 福田、大須賀の二女史から見舞いが来た。会ったらよろしく言って置いてくれ。
 この手紙はたぶん裁判所へ廻らないで、すぐ行くかと思う。さよなら。
   *
 堀保子宛・明治四十一年二月十七日
 昨日は何だか雪でも降りそうな、曇った、寒い、いやな日だった。こんな日には、さすがにいろいろなことを思い出される。夜もおちおちと眠れなかった。窓のそとには、十二、三日頃の寒月が、淋しそうに、澄みきった空に冴えていた。
 僕の今いるところは八監の十九室。一昨年はこの隣りの十八室で、長い長い三カ月を暮したのであった。出て間もなく足下と結婚した。しかるにその年のうちに、例の「新兵諸君に与う」でまた裁判事件が起る。そして、年があけてようやく春になったかと思うと、またまた「青年に訴う」が起訴される。その間に、雑誌はますます売れなくなる。計画したことはみな行き違う。ついに初めての家の市ヶ谷を落ちて柏木の郊外に引っこむ。思えば、甘いなかにもずいぶん辛い、そして苦い新婚の夢であった。
 その夢もわずか九カ月ばかりで破れてしまう。僕は巣鴨に囚われる。そしてしばらくするうちに、余罪で、思いの外に刑期が延びる。雑誌は人手に渡してしまう。足下は病む。かくして悲しかった六カ月は過ぎた。
 出獄する。自分も疲れたからだを休め、足下にも少しは楽な生活をさせようと思って、かれこれしているうちに、またこんどのような事件が起って、再びお互いに「長々し夜」をかこたねばならぬこととなった。これがわずか一年半ばかりの間の変化だ。足下と僕との二人の生活の第一ページだ。そしてこの歴史は、二ページ三ページと進むに従って、ますますその悲惨の度を増して行くことと思う。僕は風にも堪えぬ弱いからだの足下が、はたしてこの激しい戦いに忍び得るや否やを疑う。しかし僕は、この際あえてやさしい言葉をもって、言い換えれば偽りの言葉をもって、足下を慰めるようなことはしたくない。むしろ断然宣言したい。あのパベルのお母さんを学んでくれ。
 僕はこの数日間、ゴーリキーの『同志』をほとんど手から離す間もなく読んだ。足下も『新声』でその梗概を見たと思う。パベルのお母さんが、その子の入獄とともに、その老い行く身を革命運動の中に投じて、あるいは秘密文書の配付に、あるいは同志の破獄の助力に、粉骨砕身して奔走するあたり、僕は幾度か巻を掩うて感涙にむせんだ。『新声』のは短かくてよく分らんかも知れんが、もう一度読み返して御覧。そして彼が老いたるマザーにして、自らが若きワイフなることを考えて御覧。
 次の書物を送ってくれ。La Conqu□te du Pain.――De la Commune a l'Anarchie.――Le Socialisme en Danger. 三冊とも赤い表紙の本だ。それから若宮に「ノヴィコー」の本を借りて来てくれ。ノヴィコーと言えばわかる。さよなら。
   *
 堀保子宛・明治四十一年三月二十二日
 少しも手紙が来ないから、どうしたのかと思って心配していたが、はたしてまた病気だそうだね。一体どこが悪いのか。雪の日に市ヶ谷へ行ったからだというが□二、三人の仲間の出獄を迎いに□重い風邪にでもかかったのか。それともまた、他の病気でも出たのか。少しも様子が分らないものだから、いろいろと気にかかる。そしてその後はどうなのか。もし相変らず悪いのなら、六日にはわざわざ迎いにまで来なくともいいから、それよりは大事にして養生していてくれ。
 僕も十日ばかり前に湯の中で脳貧血を起して、その後とかくに気分が勝れない。たぶん栄養と運動との不足なところへ、あまり読み過ぎたり書き過ぎたりしたせいだろうと思う。書物を読み出すとすぐに眼が眩んで来る。頭が痛くなる。しばらく何にもしないでぼんやりしている。するとこんどは退屈で堪らなくなる。やむを得ずまた書物を手に取る。毎日こんなことを幾度も幾度も繰返して暮している。しかし別に大したほどではないのだから、出てから少しの間静かに休養すればよかろうと思う。しもやけも、一時は大ぶひどかったが、暖かくなるに従ってだんだん治って来た。
 その後セーニョボーの話はどうなったか。古那はどこの本屋へ相談したのだろう。もしその話がうまく行ったら、当分どこかの田舎に引っこみたいね。温泉でもよし、また海岸でもいい。『平民科学』の原稿はただ写し直しさえすればいいようになっている。
 志津野の子が生れたそうだね。まつのさんはどうか。この手紙は私事ばかりだから人に見せるに及ばぬ。もうあとが三日、四日には会える。さよなら。
巣鴨にて、一二〇〇生

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市ヶ谷から(三)

   *
 堀保子宛・明治四十一年七月二十五日
 ……もその肩を聳やかして、それはそれは意気けん昂なものだ。礼さんも病監にはいっているのだそうだね。
 十七日に電車の判決があったのだから、すぐ赤い着物を着ることと思って、毎日のように待っていたけれど、まだ何とも音沙汰がない。堺も山川も同じことだ。あるいは予審の決定を待っているのじゃないかと思う。察するに、今夜あたり決定書が来て、そして明日早朝、赤い着物になるのかも知れぬ。
 保釈の金は戻ったことと思う。その処分については、なお会ってよく話そう。お為さんも困っているだろう。あすこからの借金だけは、ともかくも返して置くがいい。お為さんがうちのあとへ来て、そして足下が二階へ行ったのだそうだね。
 守田は『二六』をやめられたそうじゃないか。大恐慌だろう。細君はどうだ。秋水も土佐を出たとか、東京へ着いたとかいう話だが、どうしたか。いつか常太郎君から差入れがあったが、帰って来ているのか。宮永はどうしている。南の魚屋はどうした。諸君によろしく。
 大森へ旗の縫賃を払ってくれ。いくらとも決めてはなかったのだが、いいように払って置いてくれ。何だか裁判所へ証人として呼び出されたような様子だが、もしそうだったらわびをして置いてくれ。
 エスペラントの夏季講習会はどうしたろう。
 電車の刑を執行されても、巣鴨へ行くようなことはない。みんな済ましてから行くのだろう。


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千葉から

   *
 堀保子宛・明治四十一年九月二十五日
 この監獄はさすが千葉町民の誇りとするだけあって、実に立派な建築だ。僕等のいる室はちょうど四畳半敷ぐらいの分房で、なかなか小ざっぱりしたものだ。巣鴨に較べて窓の大きくてそして下にあるのと、扉の鉄板でないのとがはなはだありがたい。七人のものはあるいは相隣りしあるいは相向いあっている。
 来てから三、四日して仕事をあてがわれた。何というものか知らんが、下駄の緒の芯にはいる麻縄をよるのだ。百足二銭四厘という大枚の工賃で、百日たつとその十分の二を貰えるのだそうだ。今のところ一日七、八十足しかできない。
 先日の面会の時、前へオイとか左向けオイとかいう大きな声の号令を聞きやしなかったか。あれがこの監獄の運動だ。僕等は七人だけ一緒になって毎日あれをやっている。堺がまさに半白ならんとするその大頭をふり立てて、先頭になって、一二、一二と歩調をとって行くさまは、それやずいぶん見ものだ。
 兄キに叱られたというが、何を言われたのか。浜の人には会ったか。谷君の方はまだ決まらぬか。話の都合によってはいずれにしても宜かろうが、茅ヶ崎に一人いるというようなことはとてもできまい。ともかくも決定する前に詳しく手紙で書いて寄越して、そして面会に来い。
 鹿住から何とか返事があったか。あるいは静岡の方からそんなところへ寄らなくともいいとか何とか言われていやしないか。僕からは来月あたり手紙を出そうと思う。五〇〇も請求しようと思うが、多いとかえってむずかしいからあるいは三〇〇ぐらいにして置こうか。そしてその中一〇〇ばかり本を買おうと思う。その前に僕の『万物の同根一族』を送って置いてくれ。
 パリから書物が来たら、著者の名と書名とおよび紙数とを知らしてくれ。ドイツ語の本はできるだけ早く送ってくれ。スケッチ外数冊郵送の手続きをした。その中の La Morale という[#「という」は底本では「というう」]のは兵馬に返してくれ。カスリの単衣は宅下げすることができんそうだ。
 千葉あたりに住みたいなどとそんな我儘を言うものでない。病気はいかが。猫のはがきは着いた。その他、足下のはみな見せられたようだ。他の同志からのはまだ一通も見ない。山川へエスペラントの本を送ったか。そのほかこうしてくれ、ああしてくれというたことは一々何とか返事を寄越してくれ。
 次のことを秋水に知らせてくれ。悟君の事件の本人には、堺、森岡、僕の三人の名をもって絶縁を宣告する。また、同志諸君にも爾来彼を同志視せざらんことを要求する。山川にもこの旨知らしてくれ。
 同志諸君によろしく。
   *
 大杉東宛・明治四十一年十一月十一日
 いつもながら御無沙汰ばかりしていてまことに相済みません。
 先きの電車事件が有罪となり、また新たに官吏抗拒事件というのが起って、目下私の在監中なのはすでに新聞紙や何かで御承知のことと思います。したがって定めて御心をなやましておいでのこととひそかにはなはだ恐縮しています。この上さらに御心配をかけるのもはなはだ相済みませんが、この際私に是非お願いしたい二つのことがあります。
 その一は私の廃嫡のことです。父上の方でも私のようなものに父上の家を継がせるのは定めて不本意のことでしょう。また私の方でも、私の兄弟あるいは親戚たることによって、それらの人の身の上に何等かの禍いのあるようなことが起っては、私としてはなはだ相済まざる次第です。したがって、なるべく私の身を父上の一家より遠ざけて置くのが、それらの人に対する私の義務かと思います。幸い菊の舅父は弁護士だとかいうように聞いていますが、そんな人にでも頼んで至急その法律上の手続きをして下さることをお願いします。これは先きに父上から堺までお話もあったことですし、別に御異存のあろう筈もないと思います。
 もう一つのお願いというのは金のことです。はなはだ申上げにくいのですけれど、何卒お聞き届けを願います。私、この一年ほど前からある学問の研究に着手しています。それはヨーロッパでもまだごく新しいので、日本の学者なぞはほとんど看過している学問上の新天地と言うべきものです。すなわち生物学と人類学と社会学(社会主義とは異也)とのこの三新科学の相互の関係です。もしこれが十分に研究できれば、今日の人類社会に関する百般の学問は、ほとんどその根底から新面目を施さねばならぬこととなるのです。私の先きの小著『万物の同根一族』などはそのきわめて小なる部分です。
 私はこの二年有余の長い獄中を、せめてはこの研究の完成によって慰められたいと思っています。もとより完成ということはむずかしいでしょうが、この在監中に少なくとも一大学を卒業する程度ぐらいまでは、容易に達し得らるるでしょう。しかしこの研究には大ぶ金がいります。まずこの間に百冊の本は読めるでしょうが、その価は決して三百円を下りますまい。そこで私の最後の無心として、父上にお願いします。もし私のような不孝児でもなお一片子として思うのお情けがありますならば、また私をして単純なる謀反人としてこの身を終らしめず、なお一学者としての名を成さしめんと思召すならば、何卒この三百円だけの金を恵んで下さい。もっとも一時でなくとも、本年と来年とに三度ほどに分けて下すっても宜いのです。
 金と言えば例の電車事件の時の保証金、あれはなおしばらくの間お貸しを願います。実は請取書がなくとも返して貰うことができたので、私の入獄のものいりの際にほとんど費ってしまってあるのです。はなはだ申し訳もありませんけれど、何卒お許しを願います。
 私は獄中すこぶる健康でいます。留守居の保子は友人や同志の助けによってともかくもその日を暮して行けそうです。この二点は御安心を願います。
 最後に御両親および諸兄弟の健康と祝福を祈ります。
 父上様

 保子に言う。この手紙を持って静岡へ行って、そしてなおいろいろ詳しい事情を足下から話して来てくれ。また、その詳しい事情というのを僕から足下に話したいから、この手紙の着次第、至急面会に来てくれ。これはすでに典獄殿にも願ってある。
 この手紙の公表は禁ずる。
 たしか去年の今日は巣鴨を放免になった日だったね。
   *
 堀保子宛・明治四十一年十二月十九日
 もうここの生活にもまったく慣れてしまった。実を白状すれば、来た初めには多少の懸念のないのでもなかった。ああこの食物、ああこの労働、ああこの規則、これではたして二カ年半の長日月を堪え得るであろうか、などと秋雨落日の夕、長太息をもらしたこともあった。面会のたびごとに「痩せましたね」と眉をひそめられるまでもなく、細りに細って行く頬のさびしさは感じていた。しかし月を経るに従ってこれらの憂慮も薄らいで来た。そしてついに、今日ではそれがほとんどゼロに帰してしまったのみならず、さらに余計な余裕さえできて来るようになった。
 それに刑期の長いということが妙に趣きを添える。今までのように二、三カ月の刑の時には、入獄の初めの日からただもう満期のことばかり考えている。退屈になると石盤を出して放免の日までの日数を数える。裏を通る上り下りの汽車の響きまでがいやに帰思を催させる。したがって始終気も忙しなく、また日の経つのもひどく遅く感ぜられた。しかし、こんどはそんなことは夢にも思わず、ただいかにしてこの間を過ごすべきかとのみ思い煩う。そして、これこれの本を読んで、これこれの研究をして、などと計画を立てて見ると、どうしてももう半年か一年か余計にいなければとても満足な調べのできぬ勘定になる。さあ、こうなるともう落ちついたものだ。光陰も本当に矢のごとく過ぎ去ってしまう。長いと思った二年半ももう二年の内にはいった。ついでに言う、僕の満期は四十三年十一月二十七日だそうだ。
 先日の面会の時に話した通り若宮□卯之助君□に次のように言ってくれ。この二カ年間に生物学と人類学と社会学との大体を研究して、さらにその相互の関係を調べて見たい。ついては通信教授でもするつもりで、組織を立てて書物を選択して貸して[#「貸して」は底本では「借して」]くれないか。毎月二冊平均として総計五十冊は読めよう、と。そしてもし承諾を得たら、第一回分として至急三、四冊借りて送ってくれ。
 なお、そのかたわら、元来好きでそして怠っていた文学、ことに日本および支那の文学書を猟りたい。この監獄は社会主義的の書物は厳重に禁じているが、文学書に対してはすこぶる寛大な態度をとっているらしい。まず古いものから順次新しいものに進んで、ことに日本では徳川時代の俗文学に意を注いで見たい。これは別に書物を指定しないから、兄□女房の、堀柴山□や守田□有秋君□などに相談して毎月二、三冊の割で何か送ってくれ。本箱の中に青い表紙の小さな汚ならしい本が五、六冊並べてある。その中の Avare(吝嗇爺)というのを送ってくれ。横文字の本は書名と語名とを書き添えることをわすれないように。
 ドイツ語もようやく二、三日前にあのスケッチブック□アービングの、独訳□を読み終った。たとえて見ると、ちょうどおたまじゃくしに足が二本生えかかったぐらいの程度だろうか。来年の夏頃までには尾をつけたまま、陸をぴょんぴょんと跳び歩くようになりたい。そしてこの尾がとれたらこんどはロシア語を始めようと思う。少々欲張り過ぎるようだけれど、語学の二つ三つも覚えて帰らなければ、とてもこの腹いせができない。これとイタリア語とは二カ月に各々一冊ぐらい読む予定だから、先日話したものを大至急送った上、さらに二月の面会の時にまた何か持って来てくれ。あえてエンゲルスを気取る訳でもないが、年三十に到るまでには必ず十カ国をもって吃って見たい希望だ。それまでにはまだ一度や二度の勉強の機会があるだろう。
 仙境なればこそ、こんな太平楽も並べて居れるが、世の中は師走ももう二十日まで迫って来たのだね。諸君の歳晩苦貧のさま目に見えるようだ。僕はこれから苦寒にはいって行く。うちの諸君およびその他の諸君によろしく。さよなら。
 証拠品の旗三旒および竿二本を返すそうだから、控訴院検事局まで取りに行ってくれ。きょう上申書というのを出して、大杉保子が受取りに行くからと願って置いた。菅野に、関谷に談判して書物をとりもどすよう頼んでくれ。
   *
 堀保子宛・明治四十二年二月一日
 手紙見た。ちょうど四カ月目に懐かしい筆跡に接したので非常に嬉しかった。今日は雑誌の発刊についてというので臨時発信の許可を得た。よってこの返信を書く。
『家庭雑誌』の再興も面白かろう。僕も賛成する。そこで大体の方針に関する僕の意見を述べて見よう。
 まず第一に改題するがいい。いつかも議論のあったように『新婦人』などはどうかと思う。そしてその内容も、兄などの言うがごとくに、ただ没主義な卑俗なものにしてしまうよりは、やはりその名の実をとって新婦人主義(フェミニズム)を標榜して貰いたい。もっともこれも程度の問題だろうが、最初の『家庭雑誌』くらいのところかあるいはもう少し進んだくらいのところなら、別に差支えもなかろうじゃないか。そして従来の多少の革命的の部分を科学的に代えるのだね。まず売捌きの点から考えてもこの方が都合よかろう。今さらとても他のいわゆる婦人雑誌と競争のできるものでもなし、読者はやはり昔からのお馴染のほかに、主として同志の中に求めねばなるまい。
 同志と言っても口でこそ大きなことも言え、その実際生活においてはみなこの『新婦人』以下のところに蠢いているのだ。それに今は、仲間の雑誌が何もないことと思う。したがって同志はよほど読物に餓えているに違いない。またこんな際に雑誌を出すものの義務は、多少なりとも同志間の連絡あるいは広告の機関に供するにあると思う。何だか事がむずかしくなるようだけれど、ちょっとした個人消息を載せるだけでもどれほどその助けになるか知れない。
 編集人は兄の方で適当の人があるかも知れんが、こんな意味からもやはり守田に頼むのがよかろう。ちょうど婦人運動をやりたがってもいるのだし、自分のもののようにして骨折ってくれるに違いない。そして幽月などの新婦人連に大いに助力して貰うのだね。また、秋水にもこんどは是非毎号筆を執って貰いたい。科学の話などはお得意のものだろう。
 なお、いろいろ言いたいこともあるが、社会の事情もよくわからんし、また他に相談相手もあることだから、こんなところで止めて置こう。そしてこの上の細かい点については会って打合せすることにしよう。この手紙の着次第、さっそく来て貰いたい。
 若宮に本を借りることのできないのは非常に失望した。こんどは山田に相談して見てくれないか。少し専門が違うようだから「順序と組織を立てて」というようには行くまいが、多少あんな類のものを持っていよう。また、他の種類のものでもいい。ともかく、毎月何か二、三冊借りるように頼んで見てくれ。英文、地球の生滅二冊、および植物の精神一冊を堺家から借りて来てくれ。同時[#「同時」は底本では「同事」]にエス文学を忘れないように。先月以来差入れのものはようやく四、五日前に手にはいった。こちらの郵送のものは着いたろうね。
 諸君によろしく。さよなら。
   *
 堀保子宛・明治四十二年二月十六日
 かなりの恐怖をもって待ち構えていた冬も、案外に難なくまずまず通過した。もっともこの間には、一月十日過ぎの三、四日の雪の間のごとき、終日終夜慄え通しに慄えていたようなこともあったが、やがて綿入れを一枚増して貰ったのと、天候の恢復したのとで、ようやく人心地に帰って、ついにかぜ一つ引かずにともかくも今日まで漕ぎつけて来た。
 監獄で冬を送るのもこれで二度目だが、ここは市ヶ谷や巣鴨から見るとよほど暖かいようだ。それに、僕等の監房はちょうど真南向きに窓がついているので、日さえ照れば正午前二、三時間余りの間は、背を円くして日向ぼっこの快をとることができる。このために向う側の監房に較べて四、五度温度が高いのだそうだ。されば寒いと言っても大がい四十度内外のところを昇降しているぐらいのもので、零度以下に降ったのはただの一度、例の慄え通しに慄えていた時のみだと思う。
 しかしこの温度も、いつかの手紙にあったように「ああ、炬燵の火も消えた、これで筆を擱こう」などという、ぜい沢な目から見るのと少しわけが違う。足下等の国では火というもので寒さを凌ぐのかは知らんが、ここでは反対に水で暖をとっている。まず朝夕の二度、汲み置きの冷たい奴で、からだがポカポカするまでふく。そして三十分間柔軟体操をやる。その気持のよさは、とうてい足下輩の想像し得るところでない。折々鉄管が凍って一日水の出ないことがある。そんな時には、したがってこの冷水摩擦ができねば、手足が冷たくて朝起きても容易に仕事にとりかかれず、また夜床にはいっても容易に眠られない。
 しかし寒いのももうここ十日か二十日の間だ。やがて「噫、窓外は春なり」の時が来る。
 先月の中旬に体重を量った。例のごとく大ぶ減っている。去年の五月の入監の時には十四貫五百五十目あったのが、九月にここへ移って来て十三貫六百目に下り、さらにこんどは十二貫七百目に落ちた。もっともこの最後のには、二日の減食で二百目、四日の減食で六百目というような念入りの減り方もあったけれど、それは一カ月ばかり後にまったく恢復していた筈だ。
しかしこの降り坂も、もう大がいはここらでお止りのことと思う。
 先日面会の時に言ったドイツ語の本は、あれで分ったか。一つは Ein Blick in die Zukunft というので、もう一つは Boetius, Die Tr□ftungen der Philosophie というのだ。
 この次にはケナンの著シビリーン三冊(シベリア紀行)と、ルシツシェ・ゲフェングニツセと、およびツェルトレーベン・イン・シビリーンとの三冊を合本にて送ってくれ。もしこれがなかったら、ハイネの作を全部。それから『吝嗇爺』の叢書の中にドイツ文学の仏訳のものがある。その中のゲーテとシルレルとの二人の作を全部取寄せるように、青年会館の前の三才社に注文してくれ。全部と言っても六、七冊くらいのものだと思う。
 ビュルタンの中に何かイタリア語の本が見つかったか。もし無ければ、僕の本棚の中に黄色の表紙の『ル・ムーブマン・ソシアリスト』という雑誌が十数冊ある。それにも新刊紹介があった筈だ。若宮からは貸してくれるか。
 仏文の Corneille 全集一冊(鼡色の表紙)Moli□re 全集三冊(合本して)および原書仏語辞書を送ってくれ。いずれも本箱の下の棚にあったと思う。
 ドイツ文学史、英文学史(この二冊は日本文でも欧文でもよし)および支那文学史を、守田と安成に話して借りてくれ。
 毎度言うが、エス文のものを何か送ってくれ。もし千布のところへ行くのがいやなら、家にある Kondukanto de l'interparolado Kaj Korespondado(エス語会話)La Fundo de L'mizero(悲惨の谷)Vojago interne de mia cambro(室内旅行)等を送ってくれ。先日話したエスペランタユ・プロザゾエというのは分ったか。もしそれが見つからねば、ハムレットを入れてくれ。ノチア・レブオはその後送って来るか。もし来ているなら、もう大ぶたまったと思う。それに日本エスペラントは相変らず出ているか。この二つを合本して入れてくれ。
 家の解散、雑誌の発刊、および小田原行きの三件はどう極まりがついたか。いずれも互いに関係のあることではあり、それに事情のよく分らぬ僕には何とも決答しかねる。せっかく都合よく行っているように見える今の家を解散するのも惜しいことだが、もしそうなるなら谷等にこれまでの厚意をよろしく謝してくれ。雑誌を出すか、小田原へ行くか、これは幸徳、安田、および兄などと相談していいように決めるがいい。
 静岡からその後何とも言って来ないか。こちらからは、もう一度手紙を出して見たいと思う。前に言った三分の二でも二分の一でもいい、くれとは言わぬ貸して[#「貸して」は底本では「借して」]くれ、と言ってやって見ないか。もっとも、とても駄目だと思うなら、またいやなら止してもいい。少し金がないと本を買うに不便で困る。この困っている実情を述べて、「本当に子と思うなら」と、もう一度泣きついて見てくれ。
 金と言えば足下の経済事情はどうなっているのか。いつもいつも自分の勝手ばかり言ってはなはだ済まない。諸君によろしく。さよなら。
 トルストイ、イブセン、および『太平記』、今日着いた。
   *
 堀保子宛・明治四十二年四月二十六日
 いい陽気になった。運動に出て二、三十分間ポカポカと照る春の日に全身を浴せていると、やがて身も魂もトロトロに蕩けてしまいそうな気持になる。
 一、二週間前のことだった。この運動を終えて室に帰って見ると、どこからとも知れず吹く風にさそわれて桜の花瓣がただ一片舞いこんで来ている。赤煉瓦の高い塀を越えて遙か向うにわずかに霞の中にその梢を見せている松の一とむらと、空飛ぶ鳥のほかに、何等生の面影を見ない囚われ人にとっては、それが何だか慰めのようなまたからかいのような一種妙な混り気の感じとなった。「ああ窓外は春なり」のあの絵、あれを見て僕等のこの頃の生活を察してくれ。
 しかし暖かくなって肉体の上の苦しみのなくなったのは何よりだ。そのせいか、体重も大ぶ増えた。一月から見るとちょうど四百目ほど増して十三貫八十目になった。十五日から着物も昼の仕事着だけ袷になった。
 三月の手紙に『婦人文芸』として雑誌を出すとあったから、これはよほど編集を骨折らないとむずかしいわいとひそかに心配していたが、やはり前の通りの題で出たのでまず安心した。僕は前に僕が話したようにするか、あるいは旧のままかと二様の考えを持っていたのだ。雑誌は不許になったので見ることはできぬが、編集は守田のお骨折のことなれば、不味かろう筈はあるまい。少なくとも以前に僕が、いやいやながらに怠け怠けてやっていたような蕪雑な粗漏のないことを信じて安心している。
 広告はよくあれだけ取れたね。大いに感心している。
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