冬の女
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:横光利一 

冬の女横光利一 女が一人籬(まがき)を越してぼんやりと隣家の庭を眺めてゐる。庭には数輪の寒菊が地の上を這ひながら乱れてゐた。掃き寄せられた朽葉の下からは煙が空に昇つてゐる。「何を考へていらつしやるんです。」と彼女に一言訊ねてみるが良い。 彼女は袖口を胸に重ねて、「秋の歌。」 もし彼女がそのやうに答へたなら止(と)めねばならぬ。静に彼女の手を曳いて、「あなたは春の来るのを考へねばなりません。家へ帰つてお茶でもお煎れになつてはどうですか。春の着物の御用意はいかゞです。湯のしん/\と沸き立つた銅壷の傍で縫物をして下さい。あなたの良人は間もなく手先を赤くして帰つて来るでせう。それまであなたは過ぎ去つた秋の物思ひに耽つてはいけません。秋には幸福がありません。さア家の中へ這入らうではありませんか。もし炭箱へ手を入れることがお嫌ひなら手袋を借しませう。水は冷めたくとも間もなく帰る良人の手先を考へておやりなさい。花々はまだ花屋の窓の中で凋んではをりません。暖炉の上の花瓶から埃りをとつて先づ一輪の水仙を差し給へ。縁の上では暖く日光が猫を眠らせ、小犬は明るい自分の影に戯れてゐる筈です。だが、あなたはあの山茶花を見てはなりません。あの花はあれは淋しい。物置の影で黙然と咲きながら散つて行きます。あなたは快活に白い息をお吐きなさい。あの散り行く花弁に驚いて飛び立つ鳥のやうに。眼をくる/\むいて白い大根(だいこ)をかゝヘて勝手元でお笑ひなさい。良人の持つて帰つた包からはあなたの新らしいシヨールが飛び出るでせう。しかし、春は間もなく来るのです。手水鉢の柄杓の周囲で蜜蜂の羽音が聞えます。村から街へ登る車の数が日増しに増して参ります。百舌は遠い国へ帰つて行き、枯枝からは芽が生々と噴き出します。あなたは、愛人の手をとつて郊外を漫歩する二人の若い人達を見るでせう。そのときあなたは良人の手をとつて、『まア、春が来ましたわ。ね、ね。』と云ひ給へ。だが、あなたの良人のスプリングコートは黴の匂ひがしてゐてはいけません。」
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:1705 Bytes

担当:undef