地球発狂事件
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著者名:海野十三 URL:../../index_pages/person965

地球発狂事件海野十三(丘丘十郎)  発端 この突拍子もない名称をかぶせられた「地球発狂事件」は、実はその前にもう一つの名称で呼ばれていた。それは「巨船ゼムリヤ号発狂事件」というのであった。これは前代未聞のこの怪事件を最初に発見し、そしてその現場に一番乗りをした上に、全世界の報道網に対し[#「対し」は底本では「封し」、6-上段-6]輝かしき第一報を打つことに成功したデンマーク新報のアイスランド支局員ハリ・ドレゴの命名によるものであった。巨船ゼムリヤ号発狂事件――という名称からして既に怪奇味が横溢(おういつ)し只ならぬ事態が窺(うかが)われる次第であるが、それが後になって更に一層発狂的命名をもって「地球発狂事件」と唱えられるに至ったのである。この改訂の命名者は、ドレゴ記者と仲よしの隣人である同業の水戸宗一君であった。 一体どうして巨船ゼムリヤ号が発狂したのか、また地球が発狂したのであろうか。率直にいって、この事件の名称はあまりに突拍子であり奇抜すぎて、なんだか本当のことのように思えないのである。ひょっとしたら、それはこれらの命名者であるドレゴ記者と水戸記者の、たちのよくない悪戯(いたずら)かもしれないと、始めはそう思った者もすくなくはなかったのである。 ところが、この事件の内容がだんだんさらけ出されて行くにつれ、その怪奇なる点、桁外(けたはず)れの点、常軌を逸している点などで「発狂事件」と命名するより外に[#「外に」は底本では「外に他に」、6-下段-5]妥当なる名前のつけ方がないことが、誰にも首肯されるに至った。さてこそまことに天下一大事、この事件にまさる大事件は有史五千年このかた記録にも予想にもなかったといえる。前置きはこのくらいに停め、それは一体どんな事件であったかという記述にうつらねばならぬ。それにはこの事件の発見者である記者ドレゴ君を登場せしめることが最も効果的であろう。 ドレゴ記者はオルタ町の郊外に、先祖伝来の家を持っていた。もちろん土地の旧家であって、農業や牧畜や交通について、彼の祖先は代々大きな権力をもっていたのである。ところが彼の父の代になって――というよりも数年前、このアイスランドがデンマーク領たることを御免蒙(ごめんこうむ)り独立してしまってからは、イギリス軍やアメリカ軍の進駐となり、古い淋しいアイスランドは急に夜が明けたように賑(にぎ)やかになった。そして彼の家も昔に増して大へんに忙がしくなったが、その権力の方は自然に消えていったのも仕方のないことであった。 ハリ・ドレゴはこの家の長男で、今年二十四歳になる。前にもいったようにデンマーク新報の記者であるが、このような土地のことゆえ特権もなく、牡牛のように張り切っている彼にはむしろ気の毒の連続であった。 自然彼は、町の酒場を歴訪するのがその日その夜の重大な仕事であった。新聞記者としての収入をあてにせずともよい豪家の長男坊のことだから、どこの家でも彼はちやほやされた。が、彼はちやほやされればされるほどそれが気に入らず、口にまで出していわないが、胸の中でむしゃくしゃしていたのである。 そういう生活の中に、彼が話相手として或る程度の満足を得られる友人が一人だけあった。それは先にも名前をちょっと出したが、日本人記者で水戸宗一という三十歳ばかりの背の低い色の黒い男であった。 例の事件を発見する日の前夜、ハリ・ドレゴは水戸を引張(ひっぱ)りまわして町中を飲み歩いた。この日二人の間には珍らしく議論が沸騰(ふっとう)したのである。それは「この世は神が支配し給うか。それとも悪魔が支配しているか」という問題だった。水戸は「もちろん神々によって支配されたる有難い世だ」と言ったのに対し、ハリ・ドレゴは「いや違う。この世は今や九百九十匹の悪魔と、僅か十人の神様とによって支配されているのだ。その生残りの神様も遠からず、この世から追放されてしまうであろう」と心細いことを主張して譲らなかった。水戸はドレゴの説をくつがえすために、色々と事実をあげて反駁(はんばく)した。がドレゴはいつになく水戸のいうことを聴かず、片端からあべこべの実例をもって水戸の甘い説を薙(な)ぎ倒(たお)していった。 この論議は、ドレゴの家の玄関口まで続いた。水戸はこの友情に篤(あつ)いドレゴがその夜飲み過ぎたことと、日頃に似合わず虚無的な影に怯えているらしいことを案じて彼の邸まで送って来たのである。そのときはもうドレゴは前後不覚で、彼の体重は完全に水戸の身体に移っていた。時刻は午前二時に近かったろう。夏も過ぎようとする頃で、白夜が次第に夕方と暁方との方へ追いやられ、真夜中の前後四時間ほどは有難い真黒な夜の幕に包まれ、人々に快い休息を与えていた。水戸は邸の中から爺やの出てくる間、その闇の中に友を抱えてひょろひょろしながら、黒く涼しい風を襟元にうけて、蘇(よみがえ)[#底本ルビは「よみが」、7-下段-15]ったような気持ちにひたっていた。「ああ、これは水戸様……おや、若旦那さまを。これは恐(おそ)れ入(い)り奉(たてまつ)りました」 ガロ爺やは、恐縮して水戸の腕から重いドレゴの身体を受取った。そのときドレゴは突然頭を獅子舞のようにふりたて、「いや、何といっても僕はこの目で見て勘定して来たんだ。九百九十匹の悪魔が棲んでやがるんだ。……いやいや、もう一匹いたぞ。ううん違う二匹だ。悪魔め、ちょっと僕が油断している間に、九百九十……九百九十五匹かな、九十四匹かな……ううい」 後はガロ爺やの背中でむにゃむにゃいっていたが、それもやがて聞こえなくなった。爺やは水戸に丁寧に礼を述べて玄関口を閉め、それからアルコール漬の若旦那さまを担いで馬蹄形に曲った階段をのぼり、そして彼の寝台の上にまで届けたのであった。 ドレゴは寝台の上に大の字になって倒れると、またしても声を出して「キ、君、悪魔集団は僕たちの隙を窺っているんだぞ。油断は……」 あとは口の中、そしてガロ爺やが戸口を閉めて部屋を出て行くときには、若旦那さまの独白は大きな鼾(いびき)に変わっていた。  稀代の怪事 そのままで何事もなかったなら、おそらくドレゴは昼前頃までぐっすりと眠り込んだことであろう。 ところがドレゴは思い懸けない出来事のため、それから一時間ばかり後に、一度目をさまさなければならなかった。 泥のように熟睡していたドレゴをほんの数秒の間なりとも目を覚まさせ、むっくり寝台の上に起上らせるという力を発揮したものは、相当のものであった。ドレゴは愕(おどろ)いて目をさましたのだ、そして重い瞼を懸命に開いて、何か大きな音のした方を見廻したのであった。分かった。寝台と反対側の壁にかけてあった聖母マリヤの額像が半分に千切(ちぎ)れ、上半分だけが壁にぶら下ってまだぶらぶらしていた。下半分は絨氈(じゅうたん)の上に散らばって落ちているようであった。「ちぇっ、うるせいぞ」 半睡半醒の状態にあったドレゴは如何なるわけにて不思議にもマリヤの額縁が半分に叩き壊されて落ちたのかを探求する慾も起らず、物音のしたわけだけを了解すると安心してそのまま再び寝台の上にぶっ倒れて睡ってしまったのである。 それから二時間ばかり経った。 ドレゴは再び目をさまさなければならなくなった。それは異様な血みどろの悪魔が、彼を包んでしまってその恐ろしさと苦しさにどうしても目をさまさずにいられなかったのである。「ああ――っ、夢だったのか……」 ドレゴは、完全に目をさまして、寝台の上に半身を起こした。彼は沙漠を旅行した者のように、疲れ切っている自分を発見した。それから下腹が今にも破れそうに膨(ふく)らんでいるのに気がついた。いや、もう一つ、顔の左半面が妙にひきつっている。 彼は手をそこにやってみた。指先にかさかさしたものが触った。何だろうと、手を引いて見ると、それは赤黒い血の固まりであった。彼はびっくりして顔から頭へかけて手で撫(な)でまわした。ぴりりと痛むところが一箇所みつかった。それは左のこめかみの少し上にあたるところで、毛根にがさがさするほど血らしきものがこびりついていた。  承前・稀代の怪事「いつ、やったのか。昨夜は大分飲んだらしいが、……はて、気がつかなかったぞ」 ドレゴは寝台を下りた。寝台を下りるとき枕許をふりかえると、枕も夥(おびただ)しい血で赤黒く汚れていた。 そのときも彼はその負傷が、昨夜の梯子酒(はしござけ)の行脚(あんぎゃ)のときにどこかで受けたものであろうとばかり考えていた。 彼は、北側の壁にかけてある鏡の前に進み寄った。「あ! ……」 彼は自分の顔を、幽鬼と見まちがえた。そうであろう、顔色は青く、目は光を失い、頭髪は萱原(かやはら)のように乱れ、そして艶のない頬の上にどろりと、赤黒い血痕が附着しているのであったから。 彼は、非常な後悔の念に駆られた。そして一刻も早くこのような幽鬼の形相から脱(のが)れたいと思った。そのために彼は、隣の化粧室の扉を蹴るようにして中へ飛び込んだ。 水をじゃあじゃあと出して、顔をごしごし洗った。首筋から胸へかけても、ひりひりするほどタオルでこすった。うがいも丁寧に二度もやった。そして頭髪に爽快なローションをふりかけ、ブラッシュでぎゅうぎゅうとかきあげた。そして最後の仕上げをチックと櫛に托して、漸く鏡の中にこれなら見られる自分の顔を取戻したのであった。 彼は長大息した。こびりついて放れそうもなかった悪夢が、あらかた彼の身体から出ていったように思った。いやまだ悪夢の断片がまだどこか、この化粧室に残っているような気がする。 彼は周章(あわ)てて化粧室をとび出した。そして元の寝室へ戻った。そして南向きの窓のあるところへいっていっぱいにレースのカーテンをひろげた。 午前四時のすがすがしい空気が、ヘルナー山の方から彼の胸に向ってぶつかった。彼は目を細くして大きく呼吸をした。真夏といえども山頂に白く雪の帽子を被つているヘルナーの霊峰、そしてその山腹に残っている廃墟オルタの城塞の壁。毎朝目をさますと、きまってドレゴはこのヘルナーの霊峰とオルタの古城を仰いで宇宙万象古今へ挨拶を贈るのであった。この朝彼は不慮の負傷のため、聊(いささ)か順序をくるわしはしたが、今や新しい精進の気持ちをもって、気高い霊峰の上へ目をやったのであった。「おお、わが霊の峰ヘルナー。永遠に汚れなくあれ、われは今……」 といいかけて、ドレゴは突然声を停めた。彼の厳(おごそ)かな態度は俄(にわか)に崩れた。彼の目には怪しい光があった。そして狼狽(ろうばい)の色が顔一杯に拡がり、そして全身へ流れていった。「変だよ、変なものが見える、ヘルナーの峰に……」 ドレゴは、窓から半身を乗りだして、白い雪の帽子を被ったヘルナーの峰を見つめていたが、いくど目をしばたたいてみても、霊峰の上に船の形をしたようなものが見えるのだった。「莫迦(ばか)な……」 それでも彼はまだ自分の頭を信じなかった。目を信ずるわけにいかなかった。その揚句(あげく)彼は一旦窓から半身を引っ込めた。そして再び彼の姿が窓に現れたときには、彼の手には長く伸ばした望遠鏡が握られていた。接眼鏡は左手によって彼の目に当てられた。右手は望遠鏡の先の方を窓枠にしっかりと固定した。焦点が合わせられた。彼の視野に、浅みどり[#「浅みどり」は底本では「朝みどり」、10-下段-6]の空と、白い峰の雪とが躍った。やがて彼の探らんとする物体が、レンズの中央にしっかりと像を結んだ一瞬、彼は心臓をぎゅっと握られたように愕いた。「おお……こんな奇妙な風景があるだろうか……」 彼は見たのだ。信じられないものを霊峰の上に見たのだ。それは彼の目によって見、彼の頭脳によって判断すると、ヘルナー山の峰の雪の上を、一隻の汽船が航行しているのである、船体をやや斜めに傾けて……。 そんなことが有り得べき道理はない。海抜五千十七米(メートル)のヘルナーの峰に、大海を渡るために作られた汽船が航行中というのはおかしい。が、いくら目をこすってみても、望遠鏡の焦点を再調整してみても、ヘルナーの山頂には少しも変わりなき異風景が見られたのである。ドレゴは遂に暈(めまい)を催(もよお)した。彼は望遠鏡を窓枠の上に置くと、そのまま窓の下にへたへたと崩れ座った。そして彼は目を両手で蔽うと、大きな声で泣き出した。それは彼自身が急に身体の調子を失して発狂したのだと思ったからであった。  登山準備 ドレゴが再び雄々しく立上ったのは、それから五分も経たない後のことだった。彼が若し自分が新聞記者であることを忘れていたとしたら、いつまでも窓の下で狂おしく泣いていたかもしれない。「……これは特種(とくだね)だ。すばらしい、特種だぞ。いや、恐るべき大事件だ。前代未聞の怪事件だ……」 ドレゴは、そういいながら、再び立上って窓から首を突出した。 今度は気が落ちついているので、あえて望遠鏡の力を借りずとも、霊峰ヘルナー山頂の白雪を噛んで巨船が横たわっているのが、はっきりと肉眼で確められた。一体どうしたというわけだろうか、海を渡るべきはずの汽船が山を登ったというのは……。 この解答は、ドレゴの一切の智力をもってしても出てこなかった。彼はいまいましくてならなかった。でも、かかる奇怪極まる謎を即座に解き得る者は、この世の中に誰一人としていないであろうと思い、彼は自己嫌悪の気持を稍(やや)取戻した。 「答える術のない怪事件だ。だがその事実だけは誰の目にも正しくうつっているのだ。そうだ、もっと多く観察しなければならない、これから直ぐ、ヘルナー山へ登ってみることだ」 ドレゴはガロ爺やを呼んだ。そして急いで二日分の糧食と飲物の用意を命じた。何もしらないガロは愕(おどろ)いて、「若旦那さま、どこかへお出ましでございますか。一体いずれへ……」 と尋ねたが、ドレゴはそれには応えず、命じたものを急いでここへ持って来るように命じた。それはサンドウィッチ、ビスケット、チーズ、塩肉、野菜スープの缶詰、それから数種の飲物だった。ガロはいいつけられたものを地下物置から取出すと、大きな盆の上に山盛にして、ドレゴの部屋へ持って来た。「若旦那さま。持参いたしました。これでよろしゅうございますか」「うん、待てよ、忘れものがあってはたいへんだ」 登山の身支度半ばのドレゴは、ガロの持っている盆のまわりをまわって必要品を調べる。ガロはドレゴの登山服に目を留め、「若旦那さま、ヘルナー山にお登りかと存じますが、御承知のとおり只今の気候は登山によろしくございませんで……」「爺や、危険を顧みている隙(ひま)はないのだよ。切迫した事情があるんだ。そしてそれは僕を一躍世界の寵児にしてくれるかもしれないのだ。お前が僕だったら、こんな千載一遇の機会をのがすかね」「はい。それは……しかし一体あの雪崩(なだれ)の峰に如何たる幸運が隠されているのでございますか。爺やは合点が参りませぬ」「お前だって、一目見れば分るよ。窓のところへ行ってヘルナーの峰を見てごらん。疑問はたちどころに氷解するだろう」「何と仰(おお)せられます」 爺やは窓のところへ歩みよったがそのときドレゴは、爺やに盆を下に置いてからそうするよう注意すべきだった。気のついたときは遅かった。霊峰へ目をやった爺やは、ああああっと長い叫び声を発すると、その場に卒倒してしまった。糧食の盆は大きな音と共に彼の手を放れて床の上に落ち、あたりへ大事なものを撒きちらし、転がせてしまった。 ドレゴは漸くにして身支度を整えて、家の前に待っている自動車に乗込んだ。彼はハンドルを山とは反対の方へ切って、町の中を降り出した。こういうときには絶対に協力者が必要だ。一人では成功することが覚束(おぼつか)ない。ドレゴは、最も信用している有能な通信員の水戸を誘うことを忘れなかった。  承前・登山事件 さすがの水戸も、いきなり門口から飛び込んで来たドレゴから、あと十分間に登山の用意をして車の中に乗り込めと命令同様にいわれた時には、何のことやら訳が分らず、しばらくは友の顔を穴のあくほど眺めるだけであった。「水戸、そうしてぼんやりしている一分間というものが、全世界にとって如何に尊い浪費であるか、今に分るだろう。さあ、すぐ仕度に取(と)り懸(かか)るんだ、早くしろ水戸」「ドレゴよ。何故……」「それは車の中で詳しく話をするよ。前代未聞の大事件発生だ」「なに、前代未聞の大事件」「そうだとも。そうしてわれわれは、一生涯の中に、二度とない機会を与えられているんだ。いや、君のように泰然と構えていては、その絶好の機会も掌の中からどんどん逃げ出しそうだ。早くせんか、この黄色い南瓜(かぼちゃ)の君よ」「これは済まぬことをした。待っていてくれ、急いで支度をするから……」 水戸は何事とも知らないが、やっと事態の重大性を呑み込めたと見え、それからは室内をこま鼠のようにくるくる走りまわって登山の支度に取り懸った。「食糧はある。君の大切にしている君の国の酒の壜だけは忘れないように」「おう、合点(がてん)だ」 猶予時間(ゆうよじかん)を十分間まで使わないで水戸はドレゴの操縦する車の中へ乗りこんで、彼と肩を並べた。車は走りだした。こんどは猛烈な速度で、ヘルナーの登山道をどんどん飛ばした。何にも知らない漁師や農夫が、危くはねとばされそうになって、車のあとへ呪いの言葉を投げつけた。「一体どうしたのか。前代未聞の大事件というのは……」 水戸はドレゴの脇腹(わきばら)を小突(こづ)いた。「おお、そのことだ。言葉で説明する前に、まず君の目で見て貰った方がいいだろう。ヘルナーの頂(いただき)に注意して見給え」「なに、ヘルナーの峰を見ろというのか」 水戸は、きっとなって、顔を風よけの硝子(ガラス)の方へ近づけると、首をねじ曲げてヘルナーの峰を探した。「ここらの連中と来たら呑気(のんき)すぎるよ。僕が発見してからもうかれこれ三十分になるのに、誰も気がついていないのだから……」「おう、あれか」と水戸の声は慄(ふる)えた。「なるほど不思議だ。雪のあるヘルナーの峰が盛んにもえている……」 そういった水戸の言葉を、今度は逆にドレゴが愕く番となった。「なに、ヘルナーの峰が燃えているって。そんなはずはない」「そんなはずはないといっても、確かに燃えているよ。炎々たる火焔が空を焦がしている」「え、それは本当か」 ドレゴはさっと顔色をかえて、車を停めた。そして扉をあけて下へ立った。 おお、なるほどヘルナー山頂は火焔と煙に包まれていた。例の汽船の姿はその煙の中に殆んど没入していた。さっきまでは煙一筋もあがっていなかったのに、これはどうしたことであろうか。 友はしきりに感歎の声を漏らしていた。そして滅多に興奮しない彼が日頃にもなく顔を赤く染めて、激しい間投詞[#「間投詞」は底本では「感投詞」、14-上段-1]を口にした。「これが僕の知っていることすべてだよ。後は、すっかり君の知識と同一さ」 ドレゴは言葉の終りをそう結んだ。 しかし正確にいうと、彼のこの言葉は完全だとはいい切れなかった。なぜならば彼はもう一つ水戸に語るべき事柄を忘れたのであった。尤(もっと)もそのときドレゴ自身が、その事柄をすっかり忘却していたのだから、彼を責める訳にも行かないだろう。それは、昨夜ドレゴが熟睡中、彼の寝室における異様な物音によって目覚めたという一事であった。この事柄こそ、事件判定の有力なる手懸りの一つであるわけだが、ドレゴはそれから程経つまでこの重要な事項を忘れていたのである。 現場は惨憺[#「惨憺」は底本では「惨怛」、14-上段-15]たるものであった、荒涼目をそむけたいものがあった。 巨船は人を莫迦(ばか)にしたように山頂に横たわり、そしてあいかわらず燃えさかっていた。 町中の人が、皆戸外に立って、燃えさかる山頂を恐怖の面持で見守っていた。今や事件は、この町中にすっかり知れ亙ったのである。  到着 ドレゴと水戸が、やっぱり一番乗りだった。ヘルナー山に登るには相当の用意が必要だったので、誰でも直ぐ駆けあがるというわけに行かなかった。 また自動車をこんなに速く山麓へ飛ばす芸も、この呑気(のんき)な町の人々には真似の出来ることではなかった。 それでも両人が現場に辿りつくまでには、かなりの時間がかかった。両人は全力をあげて能率的に互いを助け合ったつもりだったが、現場についたのは、もう夕刻であった。 その長い忍耐苦難の連続の道程に、ドレゴは彼の事件発見の顛末の一切を水戸に語って聞かせたのであった。そしてドレゴと水戸の両人は、船体から約二十米(メートル)以内に近づくことを許されなかった。もしそれを犯そうとすると、熱気のために気が遠くなるばかりであった。「残念だなあ。一番乗りはしたけれど……」 とドレゴは口惜しそうな声を出した。「まあ我慢するさ。それより早いところ第一報を出そうではないか」 水戸はそういって、リュックの中から携帯用の超短波送受信機を取出して組立始めた。ドレゴはぎょッとした。そうだ、自分は非常に大きい不用意をやってのけたのであった。新聞記者でありながら、この山頂からの通信をどうするかを考えなかったのだ。いつもの調子で町から容易に通信が出来るように思っていた。そこへ行くと水戸は咄嗟(とっさ)[#「咄嗟」は底本では「咄差」、15-上段-7]の場合にも用意周到だ。やっぱり、よかった。協力者として水戸を誘ってよかったのだ。もしドレゴ自身ひとりで出懸けて来ようものなら、通信機を持たぬ彼は今頃地団太(じだんだ)踏んで口惜涙(くやしなみだ)に暮れていたことであろう。「あの汽船の名前だけでも知りたいものだ。ドレゴ君、見て来てくれないか」 水戸は通信機の組立の手を休めないで、そういった。「よし、見て来よう」「それからこの事件の名称だ。ドレゴ君は名誉あるこの事件の発見者だから、君がいい名称を択ぶんだよ」「うん、すばらしい名称を考え出すよ」 ドレゴは、すっかり機嫌を直して、燃える巨船の船尾の方へ駆け出して行った。 煙が、意地悪く船尾の方へなびいているので、そこについているはずの船名は、そのままで読みとれなかった。これには困ってしまった。 が、彼はこのままで引下がることは出来なかった。何かよい工夫はないかと、頭脳を絞ってみたが、不図(ふと)思付いて、彼はすこし後退すると雪塊を掘っては岩陰へ搬(はこ)んだ。そしてかなり溜った上で、今度はそれを掴(つか)んで矢つぎ早に船尾を蔽う煙に向って投げつけた。 これは思い懸けなくいい方法だった。煙はこの雪礫(ゆきつぶて)に遭って、動揺を始め、或る箇所では薄れた。それに力を得て、ドレゴは更にその方法をつづけ、そして遂に朧(おぼろ)なる船名を判定することに成功したのであった。 ゼムリヤ号。 これがこの怪しき巨船の名であった。一体どこの国の船であろうか。それを知りたいと思って、なおもしばらく雪礫で煙を払ってみたが、それは成功しなかった。船腹には国籍の文字もなく、船旗も信号旗も悉く焼け落ちていたからである。 それからこの事件の名称だ。 ドレゴは、水戸の待っている場所まで戻る間に、この事件のためにすばらしい名称を思付くことを祈念した。そしてその結果、不図(ふと)一つの驚異的な名称を思付いたのである。「巨船ゼムリヤ号発狂事件」 この名称では少々奇抜すぎるかなと思った。しかし後々になってこの事件の内容がだんだん明白になるにつれ、最初にドレゴが考えたこの奇抜過ぎる事件の名称も、案外この事件に相応しい魅力を備えてはいないことに気がつくに至った。それは後の話として、彼ドレゴが何故このような名をつけたかというと、海を渡るべき巨船が山の上の航行を企てたところは、このゼムリヤ号が発狂したものとしか考えられないという着想から来ていた。嘴(くちばし)の黄色い[#「黄色い」は底本では「青い」、16-上段-7]ドレゴ記者にしてはまことに大出来であったといえる。 それはそれとして、本当に巨船ゼムリヤ号は発狂したのであろうか。発狂したとしたら、何故発狂したのか。そして何故にこんな雪山の上に巨体を横たえるようなことになったのであろうか。不思議である。奇抜すぎる。本当のことと思われない。しかしこれは飽(あ)くまで事実であった。ではこの事実をどう説き明かすか。それはゼムリヤ号の煙が、もう少し治るのを待たねばならない。  第一報飛ぶ 若きハリ・ドレゴは、折角こうして怪奇きわまるゼムリヤ号の狂態現場に駆付けながら、これ以上手をつけ得ないことをたいへん口惜(くや)しがった。 断崖の上で超短波の通信装置の組立に従っていた水戸宗一は、ドレゴの方に思いやりのある眸(ひとみ)を送って、彼を元気づけた。「ねえハリ。口惜しがったり、くさったりする前に、君が是非とも果さなければならない義務があるじゃないか」「なに、義務というと……」「困るなあ、君は……。君は、この大事件の名誉ある発見者でありながら、まだその義務を世界に向かって果していないではないか。つまり君は、まだこの大事件について、一本の通信も送っていない」 水戸にそういわれると、ドレゴはおおと呻(うめ)いて顔色を変えた。「そ、そうだった。自分だけで愕いて、興奮して、騒ぎたてるばかりだった。そうだ。早く第一報を送らないと、誰かにだしぬかれてしまう。水戸、今からではもう遅すぎるかなあ」 ドレゴは、水戸の腕をゆすぶった。そのとき水戸は、通信装置の試験をようやく終ったところだった。「その心配は無用だ。このヘルナー山頂の見える区域で、超短波の通信機を持っているのは、今のところ僕たちばかりだからね。村人も、もちろん今ではこの怪事件に気がついてはいるが、彼らは通信機関を持っていない。だから僕たちは依然として、第一報を送り得る恵まれた立場にあるのだ。なるべく早い方がいいが、しかしまだ周章(あわ)てることはない」「ふうむ、それもそうだな」とドレゴは、ようやく気を取直した。「無線機の用意はすっかり出来ているよ。さあ、今こそ君は光栄ある報道者として、この驚天動地の怪事件の第一報を、最も十分なる表現をもって全世界に放送するのだ。ハリ、原稿を書くがいい」「うむ。よし。書くぞ」 ドレゴは、紙を出して、その上に鉛筆を走らせ始めた。彼の額には血管が太く怒漲(どちょう)し、そして彼の唇は絶えずぶるぶると痙攣していた。「第一報は、簡潔なのがいいぞ。しかし驚天地異の大報道であることについて遺憾(いかん)なく表現すべきだ」 水戸は傍から友誼(ゆうぎ)に篤(あつ)い忠言を送った。ドレゴは、無言で肯(うなず)いた。「これでどうだい」 ドレゴは紙片を水戸の方へ差出した。彼の声は明るく、そして大興奮に震えていた。「やっ、これは書いたね。“汽船ゼムリヤ号は突然発狂した。何月何日の深夜、この汽船は発狂の極、アイスランド島ヘルナー山頂に坐礁した。そして目下火災を起し、炎々たる焔に包まれ、記者はあらゆる努力をしたが、船体から十メートル以内に近づくことが出来ない。この前代未聞の怪事件は、本記者の如く、自らの目をもって見た者でなければ到底信じられないであろう。このゼムリヤ号発狂の謎を、解き得る者が果たしてこの世界に一人でもいるであろうかと、疑わしく思う。もちろん本記者も決してその一人でないと、敢えて断言する。それほどこの事件は常識を超越しているのだ。だが本記者は、同業水戸記者の協力を得て、これより最大の努力を払って本事件の実相を掘りあて、刻々報道したいと思う”なるほど、これは上出来だ」「ほめるのは後にして、大いにこき下ろして貰おう」 ドレゴは、洟(はな)をすすった。「そうだなあ。敢えて、こき下ろすとすれば、この記事は長すぎる。前半だけで沢山だ。それに……」「それに?」「ねえ、ハリ。君は“ゼムリヤ号発狂事件”という名称が大いに気に入っているのだと思う。いや、全くのところ、僕も君の鋭い感覚と、そして大胆なるこの表現とに萬腔(まんこう)の敬意を表するものだ。しかし、欲をいうならば、この驚天動地の大怪奇事件を“ゼムリヤ号発狂事件”という名称で呼ぶには小さすぎると思うんだ」「ほう。そのわけは……」「つまり、ゼムリヤ号が発狂してこんな山頂にとびあがった――というよりも、もっとスケールの偉大な物凄い事件だよ。発狂した者がありとすれば、その当人は一ゼムリヤ号ではなく、もっとでかいものだよ」「ふふん。じゃあ、一体何が発狂したというのかね」「そのことだが、僕なら、こう命名するね。“地球発狂事件”とね」「なに、“地球発狂事件”? 君は、地球が発狂したというのかい、この巨大なる地球が……」「そうなんだ。地球が発狂したのでもなければ、この一万数千トンもある巨船が、標高五千十七メートルのヘルナー山頂に噴きあげられた理由が説明できんじゃないか。もちろん地球が発狂したといっただけでは完全なる説明にはなっていないが、とにかく常識破りのこの怪事件のばかばかしさというものは、地球が発狂したとでもいわないかぎり、そのばかばかしさを伝える表現法が見付からない。そうは思わんかね、君は……」「それは大いに思う。しかし……しかし、何だか僕の頭が変になって来るよ。地球発狂の次に、ハリ・ドレゴの発狂が起りそうだ」「ははは、世界第一の報道記者がそんな気の弱いことでどうする、さあ、そのへんで、とにかくその第一報を全世界へ向かって送ろうや」  渦巻く山頂 ハリ・ドレゴの発した“巨船ゼムリヤ号発狂事件”の第一報は、果して全世界に予期以上の一大衝撃を与えた。 この報道を受け取った新聞通信社の約半数は、この報道内容の常識逸脱ぶりを指摘して、報道者ドレゴの精神状態が正しいかどうかにつき疑問を持ち、報道をさしひかえた。これはこの事件が桁(けた)はずれの怪奇内容を持っているところから考えて、当然のことであったろうが、その代わりそういう新聞社は、遅くとも三十六時間後には非常な後悔に襲われると共に、睡りから覚めたように“巨船ゼムリヤ号発狂事件”について広い紙面を割(さ)かざるを得なかった。 世界各地の通信機関と調査団とが、ヘルナー山頂に続々と集まってきた。そういう人々の手によってやたらにキャンプが張られ、郵便所が出来、テレビジョンやラジオの放送塔が建てられた。それから簡易食堂や酒場や娯楽場までが出来て、あまり広くもない山頂一帯は、まだ火の手をおさめないゼムリヤ号を中心として、急設文化都市の出現に、もうキャンプ一戸分の余地も残さないようになってしまった。 どの通信社も、始めに派遣した団体のスケールでは、この大事件の報道には十分でないことが判った。そのことが判ると、彼らは本社へ向って、もっと強力な調査機関を備えた第二班の出動を請求した。しかし第二班が到着してみると、そのときには更に一層強力なる第三班の急派を打電しなければならない有様だった。それというのも、発狂したゼムリヤ号の火災は一向下火になる様子がなく、反(かえ)って燃えさかる模様が見えるばかりか、近き将来大爆発を起すのではないかとも思われたし、そうかといってこれだけの大掛かりの出張員たちがいつ消えるとも分らぬ火災を傍観しているばかりでも済ましていられず遂(つい)に防火服や防圧服に身を固め、船腹の一部へ突進して溶接器で穴を穿(うが)ち、たちまち噴き出す火焔と闘って懸命の消火作業を続け、ようやく火焔を内部へ追いやると共に、防火服の冒険記者が船体の中へ匍(は)い込(こ)むなどという、はらはらする光景も展開するようになった。しかも、こういう努力に対して酬(むく)いられるところは一向大きくはなかった。たとえば、このゼムリヤ号の航海日記などはどの通信社でも第一番に狙ったものであったけれど、それは誰も手に入れることが出来なかった。というのは、船橋などはもう既に完全に焼け尽し、真黒な灰の堆積(たいせき)の外(ほか)に何も残っていなかったのである。その他のものも、呆(あき)れるほどよく焼けており、この数日ゼムリヤ号の火災が普通以上に高熱を発して燃え続けたことが、誰の目にもはっきり承認された。 そうなると、調査方針は自然変更されねばならなかった。今度は積極的に消火することに狙いが置かれた。今盛んに燃焼している部分を完全に消し留めることによって、これから先燃焼するであろう物件を助け出し、それによってゼムリヤ号の搭載荷物とか遺留物品を点検して何かの新しい手懸りを得ようとするのであった。そのためには、更に大掛りな機械類の現場到達を本社へ向けて要請しなければならなかった。 このような大掛りな調査競争となったために、ハリ・ドレゴや水戸宗一の役割は、すこぶる貧弱なものに墜(お)ちてしまった。彼ら両人には、完全な耐熱耐圧服の一着すら手に入れることは出来なかった。従って両人は甚だ残念ながら報道の第一線から退(しりぞ)く外なかった。そして、“有名なる第一報者のハリ・ドレゴ”という博物館的栄誉だけが残されているだけであった。「これから、どうするかね、水戸」 野心勃々(ぼつぼつ)たるハリ・ドレゴは、まだ諦(あきら)めかねて水戸に相談をかけた。「うむ、ジム・ホーテンスの説に傾聴するんだな」 さっきから水戸は、巖陰(いわかげ)からオルタの町の方を見下ろしていたが、振り向いてドレゴの顔を見ながら、そういった。「ジム・ホーテンスって、アメリカのCPの記者のことか。あの背の高いそして口から煙草を放したことのない……」「そうだ、あの寡黙(かもく)な仙人のことだ。彼は見かけによらず、よく物を見通しているよ」「水戸。君はホーテンスと話をしたんだな」「うん。僕はどういうわけか、ホーテンスから話かけられてね、かなり深く本事件について意見を交換したんだが……」「で、結論はどうだというんだ」 ドレゴは、せきこんで聞いた。「……ホーテンスは、さすがに烱眼(けいがん)で、いい狙いをつけているよ。彼は、燃えるソ連船ゼムリヤ号の焔の中に飛びこむ代りに、七つの海の中からその前日までのゼムリヤ号の消息を拾いあげようと努力している」「あのゼムリヤ号はソ連船かい」「そうだ」「なるほど、僕はそういう大切なことを調べないでいたわけだ。そしてホーテンスは、ゼムリヤ号について目的を達したかね」「残念ながら、今朝までのところはね」 と水戸は応(こた)えた。それを聞いていたドレゴは、一段と顔の色を輝かすと水戸の手を取って引っ立てた。「おい水戸、これからホーテンスに会おうじゃないか。君は僕を紹介するのだ」 だが、水戸は首を左右にふった。「ホーテンスは、今この山にいない」「えっ、ここにいない。では何処にいる……」「あそこだよ」 水戸は下界を指した。それは彼らの古巣であるオルタの町だった。町は、ここから見ると、フライパンの上にそっくり載(の)りそうな程に小さく愛らしく見えた。 まもなく焦(あせ)るドレゴを連れて、水戸はホーテンスの跡を追った。そしてかれは、ホーテンスとドレゴとを、自分の部屋に招待して、晩餐会(ばんさんかい)を催すことにした。 彼は、マハン・サンノム老人の経営する素人下宿に住居しているのだった。 サンノム老人は、神のように心の広い人で、元は船長であったそうだ。夫人も死に、子供は始めから無く、今は遠い親戚に当たるエミリーという働きざかりの婦人にこの家を切り盛りさせている。なお、この家には佐沼三平という中年の日本人がいて、手伝いの役を勤めていた。水戸がこの家へ下宿するようになったのも、この三平が薦(すす)めたものであって、どういうわけかサンノム老人を贔屓(ひいき)にしていた。 この家における目下の下宿人は、水戸の外(ほか)に、音楽家の高田圭介と音羽子の夫妻があり、それからソ連の商人でケノフスキーという人物も滞在していた。 水戸の計画した晩餐会は大成功であった。ドレゴが喜んだことは勿論のこと、ホーテンスもいつになくよく喋(しゃべ)った。三人の間には、盛んにコップの触れ合う儀礼が交換され、空(から)になった酒壜は殖えていった。ホーテンスはこの土地の名産であるところの一種の鱒(ます)の燻製(くんせい)をたいへんに褒めて食べた。 すっかりいい気持ちになったところで、話題は例の巨船ゼムリヤ号の発狂事件に入っていた。 水戸は、ドレゴがホーテンスが調査したことの詳細を知りたがっていると述べると、ホーテンスは、「よろしい、ではこの好ましき仲間のためにもう一度それを述べよう、今日握った新しい事実も加えて……」 といって気軽に語り出した。  新鋭砕氷船「水戸君には話しておいたことだが、あの怪汽船ゼムリヤ号はソ連船なんだ」 と、ホーテンスは語り出してドレゴの顔を見た。ドレゴは血色のいい顔で肯いて、それは聞いて知っていると応えた。「ほう、知っているんだね。よろしい、ではそれから先の資料だ。水戸君も愕くことがある筈だ、なぜといってこのゼムリヤ号は、調べれば調べるほど、なかなか興味ぶかい船だからね」 水戸が酒壜を持ってホーテンスの盃に琥珀色(こはくいろ)の液体を注ぎそえた。「有難う。まず君達を喜ばせるだろうと思うことは、あのゼムリヤ号は最新鋭の砕氷船(さいひょうせん)だということだ」「砕氷船! そうか、砕氷船か」 聞き手の両人は、目を瞠(みは)った。「それも並々ならぬ[#「ならぬ」は底本では「ならね」、21-下段-17]新機軸を持った砕氷船なんだ。この船は、外部から氷に押されるとだんだん縮むのだ。船の幅で六十パアセントに圧縮されても沈みも壊れもしないで平気でいられるという凄い耐圧力を持った砕氷船なんだ。こんな新機構の船が今までに考えられたことを聞かないね」「ふうん、凄い耐圧力だ。それだけの圧縮に平気なら、氷原でも何でもどんどん乗り切って行くだろう」 と、ドレゴは羨(うらやま)しそうな顔をする。「で、そういう事実を、君はどこで発見したのかね、ホーテンス君」 訊(き)いたのは水戸だった。「そのことだ。僕は、怪船ゼムリヤ号の身許を知ることが、この事件の解決の近道だと思ったので、早速(さっそく)本社へ指令して、ありとあらゆる船舶関係の刊行物を調べさせた。ところがゼムリヤ号の名はどこにも見当らないと報告があった。僕は失望した。しかし、同時に別の勇気が奮い起った。それはつまり、ゼムリヤ号がいよいよ怪船らしく見えてきたからだ。だが、それだけではどうにも出来ぬ。何としてもゼムリヤ号の正体を探し当てなければならぬ。この上はどうしたらいいだろうかと思い、このオルタの港を眺めていると、そこへ入港して来た一隻の汽船がある。それはソ連船レマン号だった。僕はその船を見た瞬間一種の霊感に触れた。そこで飛ぶようにして一隻のモーターボートを傭い、そのレマン号へ乗りつけたのだ。それから、船長に要件を申し入れた。船長のポーニフ氏は愕いていたね。しかし彼はゼムリヤ号なんて聞いたことがない名前だといった。それは嘘だとは思われない。僕はまた失望したが、それなれば、新着の船舶関係の刊行物を見せて下さいと頼んで、サロンで新聞や雑誌類を見せて貰った。ところが、その中に只(ただ)一冊、当のゼムリヤ号の記事を掲げている雑誌につきあたったんだ。その雑誌はヤクーツク造船学会誌の最近号たる六月号だ。その雑誌の一隅に、新鋭砕氷船ゼムリヤ号のことが小さい活字で紹介してあったのさ。もしこの雑誌を調べ洩(も)[#底本ルビは「もら」、22-下段-10]らしていたとしたら、ゼムリヤ号の正体は今以て不明だったろう。いや、実にきわどいところだったよ」 そういってホーテンスは大きな溜息をつき、ぐっと一ぱい酒をあおった。「努力が酬いられたのだ。神は常に見て居給(いたも)う。そして正しき者へ幸運を垂れ給う」 水戸が誰にいうともなく呟(つぶや)いた。「その雑誌の中に、今君がいったゼムリヤ号は六十パアセントの圧縮に耐えると記されていたのかね」「そのとおりだよ、ドレゴ君。君もゼムリヤ号の特殊構造には興味を感じるだろう」「全く、大いに感じる。第一、そういう凄い耐圧力を持たせるには普通の鋼材では駄目だね。何という材料かなあ」「そのことは雑誌に少しも記されていない。だが我々は近き将来において、その材料のことや構造のことをはっきり知ることができるだろう。焼け落ちたとはいえ、その資料はヘルナー山頂に横たわり、今も我々の監視下にあるんだからね」 ホーテンスとドレゴは、新鋭砕氷船の特質につき大きな興味を沸かしているのだった。「一体砕氷船というものは、そんなに強い耐圧構造を持っていなければならないものかね」 水戸が、疑問をなげかけた。「さあ、それは強ければ強いほどいいだろうが、それにしても少し大袈裟(おおげさ)すぎるな。僕なら、そんな莫迦(ばか)げた耐圧力を持った砕氷船なんか作りやしないよ」 と、ドレゴが、寒帯住人らしい自信を持っていい切った。が、ホーテンスが、別の見解を陳(の)べた。「だがねえ、仮にゼムリヤ号のような砕氷船が百隻揃って北氷洋や南氷洋に出動したと考えて見給え。そうなると極寒の海に俄然常春が訪れるじゃないか、漁業や交通やその他いろいろの事業に関して……」「ほう、これは面白い想定だ。ううむ、そして実現性もある」「だが、僕はそう思わないね。ゼムリヤ号があのような強い耐圧力を持っている理由はもっと外にあるような気がするよ」「というと、どういう意味かね、ドレゴ君」「それは……」といいかけたドレゴは、後の言葉を咽喉(のど)の奥にのみこんだ。そして彼は視線をホーテンスの顔から逸(そ)らせた。 ホーテンスは、ドレゴの意見を聞きたがった。が、ドレゴは、「いや、もう少し慎重に考えてから、喋(しゃべ)ることにするよ」 と、いつになく尻込みをして、煙草の煙をやけにふかすのであった。水戸はちょっと心配になった。ドレゴのそういう態度が、折角今夜この招待に応じたホーテンスの気持をここで悪化させないかを虞(おそ)れたのである。だが、ホーテンスの明るい顔色は聊(いささ)かも変らなかったばかりか、彼は更にゼムリヤ号に関する未発表の調査事項までを、ドレゴと水戸の前にぶちまけたのである。  証拠の手斧「話はまだその先があるんだよ、君たち」とホーテンスは煙草に火をつけ、「さっきから述べてきたゼムリヤ号の正体を僕が発見して本社へ報告したところそれから間もなくゼムリヤ号の行動についての愕(おどろ)くべき詳細なる報告に接した。いいかね」 とホーテンスは腕組みをして、二人の同業者の顔を見渡し、「……事件の日から三週間前のことだが、ゼムリヤ号に相違ないと思われる汽船が、フィンランドの北岸ベチェンカ港外に現われたことが分ったのだ。ゼムリヤ号は沖合に碇泊し、港内へは入らなかったが、傭船を以て給水を受けた。そして三時間後には愴惶(そうこう)として抜錨(ばつびょう)し北極海へ取って返した。どうだ、面白い話ではないか」「ふうん。一つの有力なる手懸(てがか)りだ」「ところがさ、ゼムリヤ号の消息は、それっきり知られていないのだ。つまり事件の発生した日までの三週間に亙る行動は全く不明なんだ。そこでこういう説が行われている。ゼムリヤ号は、或る予期せざる椿事(ちんじ)のため、或る巨大なる力を受けて北極海から天空に吹きあげられ、そして遂にこのアイスランドのヘルナー山頂へ墜落したのだろう。勿論この推定は漠(ばく)たるもので、何等確実なる証拠がないが、常識からいって、そう考えられるという程度に過ぎないが……」「僕はそうは思わない」ドレゴが途中で口を挿んだ。「ゼムリヤ号が北極海からこのアイスランドへ飛来したという説は、全く事実に反するものだ」「なに、事実に反するって。それは面白い。君は早速それについて説明をしてくれるだろうね」 今度はホーテンスが聴き手に廻る。「ああ、是非聴いて貰いたいね。つまりこうなんだ。僕の結論を先にいえば、ゼ号は南方からこの島へ飛来したのだと思う。いいかね、南方からだ。君のいうように北方からではない。そしてそれには歴然たる証拠がある」「ほう、全く正反対の説だ。で、その歴然たる証拠とはどんな事だ。そしてその証拠はどこにあるのかね」「その歴然たる証拠物件は、何を隠そう、実は吾輩の寝室にあるんだよ。はっはっはっ」 ドレゴはそういい切って呵々大笑(かかたいしょう)した。「なに、君の寝室に……」 ホーテンスは目を丸くした。「そうなんだ。事件の当夜、あの事件の発見に先立つこと数時間前、水戸も知っているとおり僕はあの夜泥酔していて漸(ようや)く自分の寝台に登ったわけだが、忽(たちま)ち深い眠りに落込んだ。ところがその深い眠りを突然覚ますような事件が起ったんだ。ガーンとでかい物音が眠りを破った。それは寝室の北側の壁のあたりから発したように思った。僕はその物音に一旦目を覚ましたものの、音は一度きりだったので、又眠ってしまった。そして夜が明けた。僕はふとぼんやりした記憶に呼び戻されて、目を北側の壁へやったところが、愕(おどろ)いたね、そのときは……。なぜってそこに懸けてあった額縁が上下に真二つに割れ、壁にはその上半分だけが残ってぶら下っているんだ。それから僕は目を壁伝いに下に移した。床の上に、額縁の破片と一緒に、見慣れない手斧が落ちていた。その手斧は柄の一部が折れていたが、その上には明らかに、ゼムリヤ号の船名が彫りつけてあった。聞いているかね」「聞いているとも。実に素晴らしい話だ。先を続けてくれたまえ」 ホーテンスも前へ乗り出して来た。「それから僕は、この手斧がどこから部屋の中へ飛込んだかを確かめようと思ったさ。それは苦もなく分った。何故って、寝台の南側の窓のカーテンが一個所大きく、引き裂かれていたではないか。疑いもなくゼ号の手斧は南の窓から飛込んでカーテンを裂き、それから北側の壁の額縁にぶつかったんだ」「なるほど、なるほど……」「その手斧は、飛びつつあったゼ号からこぼれ落ちたものに相違ない。然(しか)らば、この手斧の運動方向とゼ号の飛行方向とは同一でなければならない。そうだね。するとゼ号は空中を、いやもっと精密にいうなれば、我家の真上を南から北へ飛び過ぎたものと断定して差支(さしつか)えない。さあどうだ、これが吾輩の握っている確かな証拠さ」 ドレゴが語り終ると、ホーテンスは昂奮のあまり椅子からとびあがると口笛を吹いた。「ほう、素晴らしい。頗(すこぶ)る重大なる手懸りだ。すると砕氷船ゼムリヤ号は事件直前において大西洋を航行中だったんだ。そうなるとゼ号は一体そんなところで、何をやっていたのかということになる。ゼムリヤ号の行動こそ、いよいよ出でて奇々怪々じゃないか」 と、ホーテンスは盛んに手をふりながら叫んだことである。水戸は椅子の中に深く身体を沈めて、じっと考えこんでいる。  怪力の追求 二人の若い記者の小晩餐があった翌日、ホーテンスはドレゴの邸宅を訪ね、彼の寝室の南のカーテンの裂けているところや壊れて真二つになった額縁や、そういう暴行を演じたゼムリヤ号の手斧などを見せて貰い、ドレゴの主張する南方飛来説が十分根拠のある訳を再確認したのであった。「君の寝室は重大なる手懸りとして大切に保存せらるべきだ」と、ホーテンスは言葉を強めて云った。「君の寝室はこの事件に関して僕の立てていた推定を根底から引繰り返してしまった。ゼ号は北極海からではなく大西洋方面から飛来したという事実を中心として、更に多くの資料を集めないことには、この怪事件は到底解決できないだろう。われわれは一層協力しなければならぬ」 そういって、この烱眼(けいがん)なる記者は、ドレゴと水戸の手をかわるがわる握ってこの困難なる仕事への再発足(さいほっそく)を激励し合った。が、この三人が重要問題としている点は、一般にはさほど重視されていなかった。新聞や放送におけるこの事件の報道の焦点は、やはり、如何なる怪力がゼムリヤ号を高い山頂へ搬(はこ)んだか、ということにあった。それは興味の点からいっても当然であろう。 この事件が発見された当時は各紙とも、この問題の解決に殆ど無能力に見えた。なにしろ一万数千トンもある巨船が、海抜五千米のヘルナー山頂へ引掛(ひっかか)っていることをどう説明したらいいか、途方にくれたのは当(あた)り前(まえ)であった。その点において、事件発見者のハリ・ドレゴが、“巨船ゼムリヤ号の発狂事件”と題名をつけたことは、寧(むし)ろ彼の頭脳のよさを証明していたものといっていいのだ。そうだ、ゼムリヤ号は発狂でもしなければ、そのような狂態を示し得ないであろう。 しかし、ドレゴの選んだこの事件の題名も、そばに居合(いあ)わせた水戸宗一の意見によって改訂され“地球発狂事件”として報道されたのであるが、この一層奇抜な題名は、今も尚(なお)この事件の題名として全世界に公認され、使用され、そして愛用されているのだといって誰もが本気になって“地球が発狂した”とは考えているわけでない。それはジャーナリスティックな奇抜な事件題名としてその感覚を買われているだけのことであって事件内容に触れ、そして事件の謎を解釈するものとしているわけでない。 如何にこの事件の謎の解決が困難であるにせよ、時間の経過は、この事件の解決案を要求してやまない。全世界に亙る読者と聴取者とは、日の経つに従って焼けつくほどの熱心さを以てそれを新聞社や放送局へ求めるのであった。求められた方では全く弱ってしまった。そこで少しでもこの謎について発言して呉(く)れそうな人物を探し、或は、ここぞと思う筋を衝(つ)いて報道の資料とした。 この困難な解決案の収集において現われたものを分類すると、凡(およ)そ顕著な傾向を示すものが四種類あった。その一は“この事件は殊更(ことさら)人騒がせをして大儲を企んだインチキ事件である”としてかかる陰謀者がヘルナー[#「ヘルナー」は底本では「ヘレナー」、26-下段-22]山頂へ材料を搬(はこ)び汽船を組立てておいて自ら騒ぎたてたものだとした。しかしこれは現場を検分したことのあるものなら明らかに不適当な解答だと認定することが出来る。その二は“この報道は一種の四月馬鹿的報道であって、ヘルナー山頂にはそういう事件の事実はないのだ”という説である。しかしこれは全然無意味だ、何故ならヘルナー山頂には確かにそうした事実が厳然として存在しているのだから。その三は、奇跡説ないしは怪談説である。つまり、“超自然現象”とするものである。これは余論もあろうがともかくも一説をなしている。しかし然らば如何にしてこの奇跡ないしは怪談が生じたかという説明がつかないかぎり、事件の解答として満足すべきものとはならない。ドレゴの感覚から摘出した“ゼムリヤ号発狂事件”や、水戸の唱えている“地球発狂事件”は共にこの範疇に入るものといってよろしかろう。最後の第四説として“原子爆弾説”がある。 この説によると、その事件の当時、某国が秘密裡に某海域においての実験を行ったのであるが、ゼムリヤ号は不幸にしてその実験現場附近を航行していた。そのために原子爆弾の巨大なる爆風に吹き飛ばされた結果、あのようなことになったのであろうというのである。この説は、四種類の答案中最も現実性を帯びているために、日と共に有力となっていった。と同時に、世界に第二の原子爆弾製造国が現われたのかも知れないという点で、原子爆弾の偉力に常に戦慄(せんりつ)を禁じ得ない世界人類に別個の刺激を与える結果となった。そして人々は、果してそうかどうかを一日も早く確かめたかった。 このことについて更に一層人々の関心を高めたものは、世界における原子エネルギー学の権威として知られているワーナー博士の発言であった。博士は研究室において意見を発表して曰(いわ)く、「ゼムリヤ号を高山頂(いただ)きにおいて座礁せしめることは、原子エネルギーによるに非ざれば不可能である」 と述べたのであった。  鍵は大西洋に 二つの台風の中心が双方から近づいて一つに合体し、更に一層猛烈な新台風を作ったかのように本事件は大沸騰を始めたのであった。そして、第二の原子爆弾製造国が現実に現われたかのように思い込んでしまう人々が多くなったばかりか、その製造工業に成功した某国とは一体何処なりやという点について熱心な論議が行われるようになった。 だがこの論議は、その影響するところの重大性に鑑(かんが)み、明らかなる国名は新聞や放送には発表されなかった。つまり遠慮されたのである。 しかるに別途、一つの疑惑に火がつけられた。それは、ゼムリヤ号がソ連船であり、そして驚異の性能を持った新鋭砕氷船であり、その行動も事件発生の三週間前から杳(よう)として謎に包まれているのにも拘(かかわ)らず、ソ連側からは一向何らの弁明すら発表されていないのはどうした訳かというのであった。そのために、問題の某国とはソ連のことではないかという臆説までが飛び出すようなことになってしまった。 そういう最中にソ連側の釈明が、ようやくにして公表されるに至った。その釈明は非常に簡単で、次のようなものであった。 “ゼムリヤ号は赤洋漁業会社の要求によりマルト大学造船科が設計した世界一の新鋭漁船である” かかる世界に誇るべき国宝級の船舶を何故に我国は自らの手を以て破壊するであろうか、また同船の乗組員は船長以下、国賓級人物を以て組織せられていたが、かかる人物を全部何故に自ら喪(うしな)うであろうか、釈明文は簡単であったがそれまでにおける世間の無責任なる憶測を一撃氷解させるだけの偉力があった。果して多くの人々が、この釈明に頗(すこぶ)る満足の意を表すると共に、かかる立派なる釈明があるなれば、何故にもっと早期において発表されなかったかを遺憾(いかん)とする者もあった。とにかくこの釈明によって、原子爆弾の秘密実験を行った某国というのはソ連ではなかったことが明瞭となった。この釈明の出た直後は、世界の隅々までにこの報道が行渡り話題としてにぎわった。ドレゴと水戸の両人もまた午後三時のお茶をのみながら、この事について語り合った。「僕はてっきりそうだと思っていたがね。だから僕は前にホーテンスにそのことをいいかけて、周章(あわ)てて口を噤んだのだ。彼を無用に刺激(しげき)したくはなかったのでね」 ドレゴがいった。水戸は黙って肯いた。「おや、君は何か別の意見を抱いているのかね」 ドレゴが、水戸の硬い面を凝視した。「いや、僕は始めからあの国を疑ぐりはしなかった。しかしあの国は何故“ゼムリヤ号は当時賑(にぎや)かな大西洋を航行中だったんだから、そのような嫌疑は無用である”という謂い方で釈明しなかったんだろうか。この事実を投げ出せば、釈明は一言でもって明瞭に片附くではないか、それをしないであのような謂(い)い方(かた)の釈明を採用したのは一体どういう訳だろうかね」 そういって水戸記者は、静かにドレゴの面を見詰(みつ)めた。ドレゴはくすりと笑って、顔を右へ振った。「おお、可愛想な東洋の哲学者よ、何故君はそんなに懐疑を恋人として楽しむのかね」 それを聞いて水戸ははっと顔を硬くした。が、すぐさま元の何気ない表情に戻って、「これは哲学ではない、事件真相の探究だ。悪くいっても推理遊戯の程度さ」 水戸は軽く笑って、冷たいコーヒーを飲み干した。「そうかねぇ、それにしてもあの事件の真相だが、原子爆弾の実験説を支持するとして此際(このさい)僕等はどの国へ嫌疑を向けるべきだろうかね、もちろんアメリカとソ連は吟味ずみで、その埒外(らちがい)だ。そこで僕は今、その嫌疑を……」「待ち給え!」と水戸は小さく叫んだ。「この事件は原子爆弾には無関係だよ。何故そういうか。これは現在の僕の力では十分に確かめるわけに行かなくて遺憾ではあるが、とにかくこの事件は従来地球上で信じられている法則を破っている点に注目したい」「すると結局かねて君の自慢の命名、“地球発狂事件”に収斂(しゅうれん)するわけじゃないか。抑々(そもそも)どこを捉えて本事件を“地球発狂”というか、ということになる」「真面目な話だが、僕は思うのに、この事件を解くには、ヘルナー山頂のゼムリヤ号にたかっていたのでは駄目で、寧(むし)ろ大西洋の海底全域を探す方が早いと思う」「はははは、大きなことを云うぞ、君は。おい水戸、誰がそんなことを実行に移すだろうか。大西洋は広く且つ深いのだ。全域に亙って探すということになれば一年懸るか二年懸るか分らない」「いや、それには探(さが)し様(よう)があるのだ。普通のやり方では勿論駄目だが僕の考えている方法でやるなら四週間位で結果が出ると思う」「ふふふふ、すごい法螺(ほら)を吹くぜ、君は」 と二人が盛んに論じ合っている卓子(テーブル)へ、入口から入って来た若い男がつかつかと歩み寄った。「おう、ドレゴ君に水戸君」「やあホーテンス君だよ」「へえ、そうかね、何事だい」「一つの機会が、今君達の前にある。どうかね、これからワーナー博士の調査団に加わって一週間ばかり船旅する気はないか」「ワーナー博士って、あの原子核エネルギーの権威であるワーナー博士のことか」 と水戸は、せきこんで訊(き)いた。「そうだよ」「ふうん、すると大西洋の海底を探(さ)ぐるんだな」「ほう、よく知っているね」「ぜひ連れていって呉(く)れ。事件の鍵はあそこになければならないのだ。おいドレゴ君、君も是非行くんだ」 水戸は何時になく昂奮して叫んだ。  異常海底地震 その朝、オルタの港へ、一隻の奇妙な恰好をした船が入って来て、町の人々の目をみはらせた。いやに四角ばった殺風景な船で、甲板の上には橋梁(きょうりょう)のようなものが高く組んであり、後甲板は何にもなく平らであった。白いペンキ塗装ばかりが美しく、そして船尾に目もさめるような星条旗がはためいていた。 掃海船サンキス号だった。 掃海船とはいうものの、この船は水上機母艦と同じ役目もやってのけた。町の人々は怪飛行機が橋桁の上にのっているのを見つけた。それがばっと煙をあげて、いきなり船を放れたのには驚いた。続いて大砲を撃ったような音が聞え、その船はカタパルトを持っていたんだと始めて気がついた者もあった。 この掃海船サンキス号こそ、ワーナー博士調査団の用船だった。 ジム・ホーテンス記者は、ドレゴと水戸とを伴って乗船した。そして前甲板の喫煙所で団長ワーナー博士に二人を紹介した。 博士は白髪赭顔の静かな人物だった。「おおドレゴ君。ゼムリヤ号事件の発見者たる名誉に輝くドレゴ君ですね」 博士は目をぱちぱちして、ドレゴの手を握って振った。ドレゴは、少女のように耳許(みみもと)まで真赤に染めて、博士に挨拶をした。 水戸も丁寧な礼を博士に捧げた。「まあお掛けなさい。間もなく出港ですから」 博士の言葉に、四人は籐椅子の上に落着いた。博士はパイプを咥(くわ)えた。「ゼムリヤ号事件については原子爆弾説が圧倒的だった中に、水戸君はワーナー先生と同様に、大西洋にゼムリヤ号事件の鍵があると主張して断然異説をたてていた人です」 と、ホーテンスは博士に紹介した。「それは愉快だ。で、大西洋についてどういう予見を持っておられるかな」 博士の問いに、水戸は何かを応えなければならなかった。「私の説は、まだ証拠がないのですから、大した価値はありませんが、推理としてはゼムリヤ号があの事件当時居た大西洋で、まさか原子爆弾の実験が行われる筈はないと思ったからです」「なるほどそれは同感だ」「それにゼムリヤ号を山頂にまで吹飛ばした巨大なる力はもちろん原子核エネルギーを活用すれば得られますが、しかし原子核エネルギーは今のところ爆弾の形においてしか存在しません。で、原子爆弾を使ったとすればゼムリヤ号の船体はヘルナー山まで飛ぶことは飛ぶが、あのように船体が中程度の損傷で停っている事はないと思うのです。
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