十八時の音楽浴
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著者名:海野十三 

      1

 太陽の下では、地球が黄昏れていた。
 その黄昏れゆく地帯の直下にある彼の国では、ちょうど十八時のタイム・シグナルがおごそかに百万人の住民の心臓をゆすぶりはじめた。
「ほう、十八時だ」
「十八時の音楽浴だ」
「さあ誰も皆、遅れないように早く座席についた!」
 アリシア区では博士コハクと男学員ペンとそして女学員バラの三人がいるきりだった。タイム・シグナルを耳にするより早く、三人は扉を開いて青い廊下にとびだした。
 その青廊下には銀色に光る太い金属パイプを螺旋形に曲げて作ってある座席が遠くまで並んでいた。
 三人は自分たちの名前が書かれてある座席の上に、それぞれ、ピョンピョンと飛びのった。それをきっかけのように、天井に三つの黄色い円窓があいて、その中から黄色い風のシャワーが三人の頭上に落ちてきた。すがすがしい風のシャワーだった。
 三人は黙々として、音楽浴のはじまるのを待った。
 博士コハクは中年の男性――漆黒の長髪をうしろになでたようにくしけずり、同じく漆黒の服を着ている。身体はすんなりとして細く、背は高いほうだ。上品な顔立ちをもち、心もち青白い皮膚の下に、なにかしら情熱が静かに、だがすこやかに沸々と泡を立てているといったようにみえる。博士は腰を螺旋椅子の奥深くに落し、膝の上に肘をついて、何か思案のようであった。ときどき眼窩の中でつぶらな瞼がゴトリと動いた。その下で、眼球がなやましく悶えているものらしい。
 男学員ペンは、女学員バラと同じように若い。ペンは隣りに腰をかけているバラのほうへソロソロと手を伸ばし、彼女に気づかれないように、バラのふくよかなる臀部に触れた。
 ピシーリ。
 女学員バラの無言の叱責だ。
 ペンの手の甲が赤く腫れあがった。それでもペンの手は哀願し、そして誘惑する。
 バラの手がペンの手の甲にささやいた。
「もうあと二時間お待ちよ」
 と、ペンの手は執拗に哀訴する。
「僕は二時間たたないうちに、いなくなるかもしれないのだ。だから君よ、せめて今……」
「しっ。戒報信号が出たわよ」
 高声器が廊下に向って呶鳴りはじめた。“隣りのアリシロ区では一人たりないぞ”という戒告だった。
 三人は座席の上から、言い合わしたように首を右へ向けてアリシロ区のほうを見た。そのとき扉が開いたと思うと、中から一人の男性が飛びだした。そしてすこぶる狼狽のていで、自分の座席に蛙のように飛びついた。
「ああ、あれはポールのやつだよ。あッはッはッ」
 と、ペンは笑った。
「あの廃物電池は、きっとまた自分で解剖をしていたんだわ。いやらしい男ね」
 バラはペッと唾をはいた。
 そのとき廊下一帯は、紫の光線に染まった。
 博士コハクは、むっくり頭を持ちあげた。
 そして二人の学員に向い、
「そォら、音楽浴だ。両手をあげて――」
 と注意を与えた。
 三人が六本の手を高く上げたとき、地底からかすかに呻めくような音楽がきこえてきた。
「ちぇッ、いまいましい第39番のたましい泥棒め!」
 ペンは胸のうちで口ぎたなくののしった。
 第39番の国楽は、螺旋椅子をつたわって、次第々々に強さを増していった。博士はじッと空間を凝視している。女学員バラは瞑目して唇を痙攣させている。男学員ペンは上下の歯をバリバリ噛みあわせながら、額からはタラタラと脂汗を流していた。
 国楽はだんだん激して、熱湯のように住民たちの脳底を蒸していった。紫色に染まった長廊下のあちらこちらでは、獣のような呻り声が発生し、壁体は大砲をうったときのようにピリピリと反響した。
 紫の煉獄!
 住民の脂汗と呻吟とを載せて、音楽浴は進行していった。そして三十分の時間がたった。紫色の光線がすこしずつうすれて、やがてはじめのように黄色い円窓から、人々の頭上にさわやかなる風のシャワーを浴びせかけた。
 音楽浴の終幕だった。
 螺旋椅子の上の住民たちは、悪夢から覚めたように天井を仰ぎ、そして隣りをうちながめた。
「うう、音楽浴はすんだぞ」
「さあ、早くおりろ。工場では、繊維の山がおれたちを待ってらあ」
「うむ、昨日の予定違いを、今日のうちに挽回しておかなくちゃ」
 住民たちは、はち切れるような元気さをもって、螺旋椅子から飛びおりるのだった。
 ペンもバラも、別人のように溌刺としていた博士コハクのあとにしたがって、元気な足どりでアリシア区に還ってきた。

      2

 アロアア区から電話がかかってきた。
 博士コハクは受話機の前に出て釦をおした。鏡面に漣(さざなみ)がたったかと思うと、大統領ミルキの髭の中にうずもれた顔が浮きあがった。
「ミルキ閣下。ミルキ国万歳」
 と博士コハクは挨拶をした。
「おお博士、すこし内談をしたい」
 ミルキは髭をうごかして物をいった。
 博士は心得て、うしろを向いてペンとバラの両人に、隣りの工作室に行っているようにと命じた。
 二人は、机の上にひろげていた書類を両手にかかえ、逃げるように隣室の扉を押して出ていった。
「もう誰も室内にはおりませぬが、ご用の筋はどんなことですか」
「ああ、ソノほかでもないが、博士には敬意を表したい。博士の音楽浴の偉力によって、当国は完全に治まっている。音楽浴を終ると、誰も彼も生れかわったようになる。誰も彼も、同一の国家観念に燃え、同一の熱心さで職務にはげむようになる。彼等はすべて余の思いどおりになる。まるで器械人間と同じことだ。兇悪なる危険人物も、三十分の音楽浴で模範的人物と化す。彼等は誰も皆、申し分のない健康をもっている。こんな立派な住民を持つようになったのも博士のおかげだ。深く敬意を表する。……」
「閣下、どうかご用をハッキリ仰せ下さい」
「ウム」と髭がゆらいだ。「では言うが、君が目下研究中の人造人間のことだが、あれはもう研究をうちきったほうがよくはないかと思うのだ」
「人造人間の研究をうちきれとおっしゃるのですか。それはまた何故です」
「というのはつまり、十八時の音楽浴でもって、住民はすべて鉄のような思想と鉄のような健康とを持つようになったではないか。彼等は皆、理想的な人間だ。しからばこの上に、なお人造人間を作る必要があろうか。人造人間の研究費は国帑(こくど)の二分の一にのぼっている。そんな莫大な費用をかける必要が何処にあるだろうか。音楽浴の制度さえあれば、人造人間の必要はないと言いたい。博士、どうじゃな」
「閣下のおっしゃることは分ります。ひとつ考慮させていただきましょう」
「どうかそうしてくれたまえ。――おお、忘れていた。家内が君に逢いたいそうだ。今夜ちょっと来てもらえまいか」
「はあ承知いたしました。今夜二十時にうかがいます」
 隣りの工作室では、ペンとバラが熱心に計算をつづけていた。二人はお互いに気のつかぬほど仕事に熱中していた。ここでも音楽浴の効きめは素晴らしかったのだ。この国では音楽浴後一時間というものがもっとも貴重であった。すべて重大なる仕事は、超人的能力をもってこの短時間のうちになされた。国防用の楯も滋養食料品も混合細菌も、すべてこの時間のうちに改良されるか、または新設計された。そしてこの時間がすぎると、あとは独創力を要しない労働に従事するか、または遊び、あるいは眠るのであった。十八時の音楽浴は、住民のことごとくを一時間大天才にすると同時に、あと二十三時間というものを健全なる国民思想にひきずるのであった。音楽浴の正体は、中央発音所において地底を匍う振動音楽を発生せしめ、これを螺旋椅子を通じて人間の脳髄に送り、脳細胞をマッサージし、画一にして優秀なる標準人間にすることにあった。目下のところ音楽浴には国楽第39番が使われているがこれは博士コハクが大統領ミルキの命令により改良に改良を加えた国楽であって、所謂第39型標準人間を作るに適した音楽であった。第39型とは、大統領が国民はかくあらねばならぬというおよそ三十九カ条の条件を満足する標準人間の型なのであった。
 その三十九カ条をいちいち列記することは差し控えるが、その条項中には、例えば一、大統領に対し忠誠なること、一、不撓不屈なること、一、酒類を欲せざること、一、喫煙せざること、一、四時間の睡眠にて健康を保ち得ること、一、髭を見たらば大統領たることを諒知すること、といったふうに大統領ミルキはなかなかやかましい条件を出してあるのであった。
 博士コハクがこれを完成させたとき、大統領は有頂天になって悦んだものである。国一番の重罪人を試験台として試みたところ、たちまちミルキの希望どおりの模範人間に改造できたものだから、腰をぬかさんばかりに愕いたのも無理はない。そこで大統領はこの成功せる音楽浴をラジオをかけはなしにするように、二十四時のべつまくなしに国民に聞かせよと言ったけれど、それはコハク博士の反対によってとりやめとなった。なぜなら、この音楽浴は脳細胞を異常に刺戟するため、あまりかけていると脳細胞を破壊して人間は急死を招くからであった。だから現行法令のように、博士の意見どおり一日に三十分に限られることになった。しかし大統領は、何か折さえあれば、もっと長時間かけることにして、国民のたましいを完全に取りあげたいものだと思っていた。さっき、博士には完全人間ができて嬉しいなどと挨拶したが、あれはお世辞にすぎなかったのである。事実国民は、大統領の希望するほど二十四時間を完全に緊張しつづけ、また不平不満ぬきで生活しているわけではなかった。

      3

 十九時過ぎのことだった。
 十九時といえば、古い時刻でいうならば午後七時に当るのだったが、この地底に埋もれている国には、明けることも暮れることもなく、いつも人工光線の下で生活していた。太陽はいつもものうき光線を彼らの国の屋根に相当する地表に投げかけているだけだった。地表には蝶一匹すら飛んでいなかった。たびたびの戦争に、地表面は細菌と毒ガスとに荒れはて生き物はおろか草一本生えていない荒涼たる風景を呈していた。生き残った人間と、わずかの家畜と寄生虫とだけが地底にもぐりこんで種を全うした。
 今も言った十九時過ぎのことだった。アリシア区の男学員ペンとアリシロの靴男工ポールとが私室において壺の中の蜜をなめながら話に夢中になっていた。
「ええおい、まったくこれはばかばかしいことじゃないか」
 とポールが大きなジェスチュアをしながらペンをそそのかすように言った。
「うん」ペンはすこし当惑げな顔つきだった。
「うんじゃないよ、ペン公。俺たちの自由が束縛され個性が無視されているんだ。本来俺たち人間は、煙草もすいたいんだ。酒ものみたいんだ。それをあの閣下野郎がすわせない飲ませないんだ、これじゃ何処に生き甲斐があるというんだ」
「オイ頼むから、あまり大きな声を出さんでくれ。誰かに聞えるとよくないぜ」
「なアに、誰かに聞えれば、そいつも至極もっともだと思うにちがいない。もっともだと思わないやつは、あの39番音楽にまだたぶらかされている可哀想なやつだよ」
「そういえば、ポール。お前にはミルキ閣下ご自慢の音楽浴もあまり効いていないらしいネ」
「うむ。もちろんそのとおりだよ」とポールは昂然と肩を張っていった。「これは大秘密だが、ちょっと俺の臀に触ってみろ」
 ペンは言われるままに、好奇の眼を輝かして、ポールの臀をズボンの上から触ってみた。するとそこには、なんだか竹籠のようにガサガサしたものが手にふれた。
「やッ、これは何だ。何を入れているんだ」
「ふふふ、どうだ分ったか。これはナ、俺が一年間かかって繊維をかためて作った振動減衰器なんだ。知っているとおり、あの音楽浴てえやつは耳から入るのはごく少くて、殆ど全部が廊下から螺旋椅子を伝わって身体の中に入りこむのだ。だからよ、この振動減衰器を臀に敷いてさえいれば、螺旋椅子から伝わってくる39番音楽の振動を相当に喰い止めることができるんだ。だから俺は、あんな人喰い音楽なんかに酔っぱらいやしないんだ」
「ふーン、なるほど。しかしひどいことをする男だ。それが知れたらどうするんだ」
「知れたらペン公が喋ったと思うぜ。いいかい。さもなければ知れっこないんだ。俺はあの人喰い音楽にかかったようなふうにウーンウーンうなるのがとてもうまいのだ。脂汗だってタラタラ流れてくるよ。お前は知るまいが、座席の前面には隠しマイクロフォンがついているんだ。だからこっちのうなり声は、そのまま総理部の監視所へ伝送されるのだ。靴男工ポールのうなっているのは明らかに自記装置(オートグラフ)に出ている。うなるのを忘れていりゃ警報器(アラーム)が鳴りだすんだ。俺はそんなヘマなことはやらないや」
 ペンはますます呆れ顔だった。見る目嗅ぐ鼻を持ったミルキ閣下に一杯喰わせて得々としている男が、彼の親しい友人の中にいたのである。あまりに強き政治の裏には、あまりに強き反動がある。ポールの罪だけではないとペンは思った。そしてポールと話しておれば、音楽浴の麻酔がジワジワと融けてくるのをさえ感じた。彼もまたポールと同じく、ミルキ閣下を冒涜する一人であると思った。
「ねえポール。そういえばバラに注意したがいいよ。あの女はお前のことを廃物電池といってさげすんでいたぜ。バラにこの秘密を嗅ぎつかれると大変だ」
「バラはお前の細君じゃないか。お前がしっかりしていりゃ、知れるきづかいはない」
「うんにゃ、バラは男のように鋭い女だ。俺の手にはおえない」
「なんだペン公、亭主のくせに、情ない弱音を吹くな」
「いや亭主はもう廃業しようかと思っている。あんな女に連れ添っていると、世の中がいっそう味気なくならあ」
「へえ、そいつは本気か。別れてしまって、また女房を探すんだろうが、誰かに見当をつけているのかい」
「冗談じゃない。気の合う優しい女なんていないものだな。なあポール。俺はお前が男友達でなくて女友達だったらいいと思うよ」
「ナニ女友達」ポールが口を丸くあけてパチパチ目をまたたいた。「ペン公、本当にそう思うかい」
「本当に思うって聞くのかい。もちろんさ。なぜそんなことを聞くんだい」
 ポールは無言でペン公の手を握って引き立てた。そして部屋の隅に立っている衝立の蔭に引張りこんだ。
 スルスルと衣服の摺れ合う音がした。衝立の上に、ポールの上衣がパサリとかかった。それからガチャリと皮革が垂れ下った。
 そのとき、中からペンの愕く声が聞えた。ポールの制する声を押し切ってペンは大声で叫んだ。
「――ああこのことだな。お前が自分で身体を解剖しているって噂のあったのは。なんだこれは大変な手術じゃないか。俺は急にお前が厭になった!」

      4

 約束のとおり、ちょうど二十時であった。
 アロアア区の戸口に佇む一個の人影があった。長身のすっきりした男性だった。
 表札には「ミルキ夫人」と記されてあった。
 扉が音もなくスーッと下にさがった。
 中には純白の緞子(どんす)張りの壁が見えた。その中から浮彫りのようにぬけいでた一個の麗人があった。頤から下を、同じく純白の絹でもって身体にピタリと合う服――というよりも手首足首にまで届くコンビネーションのような最新の衣裳を着、その上に幅広の、きわめて薄い柔軟ガラスで作ったピカピカ光る透明なガウンを長く引きずるように着ていた。
「おお博士コハクでいらっしゃるわネ」
 銀の鈴を鳴らすような大統領夫人の声に、かの男はうやうやしくその前にひざまずいた。
「令夫人に忠誠を誓います」
 ミルキ夫人はホホと笑って、博士を奥の一室に導いた。そこは金と赤との格子模様でもって、天井といわず床といわず、眩しきまでに飾りつけのあるサロンだった。部屋の真中にはガラスで作った大テーブルがあって、その上には高級な玻璃の器が所狭くならんでいた。豪華な晩餐の用意ができていたのである。ミルキ夫人は博士を向い合った椅子に招じた。
 ガラスの大テーブルの真中には、やや高い棚のようなものがあった。夫人が釦を押すと、この棚の中では上下に往復運動するエレヴェター式の運搬器(コンヴェアー)が動きだした。テーブルの下から古い酒や結構な料理が静かに上ってきては、主人と博士の前に機械的にはこばれた。用のなくなった皿は自然にテーブルの下におりていって、見えなくなるのだった。夫人が一九三七年製の葡萄酒の盃をあげると、反対運動のように博士も盃をあげた。夫人が蜂の子をつまみあげて口にもってゆくと、博士もこれにならった。そしてその合間々々に、会話がとりかわされた。
「博士。貴下の設計になる音楽浴は、すばらしき効果をあげています。ミルキ閣下においても、殊の外の恐悦です。わたしもまた、敬意を表するにやぶさかではありません」
 博士は黙って首を下げた。
「しかしですネ、博士」と夫人は酒の盃を下に置いて、「音楽浴の勲功も大きいが、その一方において音楽浴が同時に大きな罪悪をも、もたらしているということを気にしないでいられません」
 博士は身体を硬直させたまま口だけを動かして、
「罪悪とは?」
「それは人間性への反逆だからです。第39番の国楽は、支配者の勝手きままな統制条件だけでできています。それは人間をあやつるのに最も都合のいいように、あらためることにあって、そういうあらため方を生きた人間に加えてはたして無理がないであろうかという考慮が払われていません。事実、あの音楽浴のお蔭で国民は体躯においても活動力においても品行においても、みちがえるように立派になりました。だが一方において人間性を没却したことは、国民の身体の中にある毒素の欝積をもたらしています。それは日夜積み重なって、今にきっと爆発点に達するでしょう。わたしは国民の一部が、すでにこの毒素の欝積に気づいているものと見ています」
「毒素の欝積があるとしても、毎日十八時の音楽浴がそれを解消しているではありませんか」
「解消したように見えるだけです。一時は本当に解消するのでしょう。しかしそれは完全に解消するのではありません。麻酔はどこまでいっても麻酔です。賢明なる貴下がそれに気がついていないはずはないのです」
「ミルキ夫人よ。私は閣下に忠誠を誓い、そしてご命令によって動いているだけの学者なのでございます」
「お黙りあそばせ。貴下は音楽浴や人造人間を発明する科学者にすぎないと言うのでしょうが、どうしてどうして、貴下は科学者だけなものですか。貴下は科学者であるよりも、数等卓越した政治家なんです。ミルキ閣下などはそばへ寄れないくらいの偉人なんです」
「お言葉が過ぎるようにぞんじます。私は忠誠を誓う一国民にすぎません。ご命令によって忠実に動くことが精々な人間です」
「そんなことがあるものですか。この国をミルキが支配するよりも、貴下が支配するほうがどのくらいいいかしれないのです。貴下が支配者になれば、わたし自身も今の百倍も幸福になれることでしょう。博士、さあこっちを向いて、わたしの眼を見て下さい。わたしの震える唇を見て下さいましな。この世にわたしが魂と肉体とを献げるべき男性は貴下より外にないのです。さあ、どうかわたしを抱きしめて下さい。わたしに命じて下さい。わたしは貴下のためにどんなことでもしますわ。ミルキ一の美人であるわたしが国民の前でたった一言唇を開けば、国民はわたしの言うとおりになります。わたしの真の敬い、そして愛するのは博士コハクである、皆さんは博士に忠誠を誓いなさいといえば、百万人の国民は立ちどころにそうするにちがいありません。さあ、そうしてもっといい国家を樹てましょう。恋愛だとか性欲だとか嗜好だとか人間の欲望を徹底的に進展する新国家を樹てましょうよ。さあわたしを早く抱きしめて下さい」
 ミルキ夫人は爬虫類を思わせるようなしなやかな身体をくねらせて椅子から立ち上った。そして博士コハクの膝にその全身を投げかけたのだった。

      5

「まあ、貴下はどうかなすっていらっしゃるのじゃない?」
 と、ミルキ夫人は博士の膝の上で、愕きの声をあげた。
 博士は別になんにもこたえず、相変らずじっと前方を見つめていた。
「だって、貴下のお身体は死人のように冷たいんですもの。わたしの身体はまるで氷の上に載っているように冷えてきましたわ。おお気味が悪い。貴下は本当に生きてらっしゃるのでしょうね」
「フフフフ」と博士が笑った。「生きているようでもあり、また死んでいるようでもありますよ」
「えッ、も一度おっしゃって!」
 と、夫人が博士の胸にすがりついたその時だった。入口の扉(ドア)が荒々しくあいて、サロンへドタドタと飛びこんできた者があった。一人はミルキ閣下、一人は針金毛の女大臣アサリ女史だった。
 ミルキ夫人は、それと見るより早く、博士の膝から跳ね下りた。ミルキ閣下は、髭の中から大きな両眼をむきだし、鉄丸のような拳を振り上げながら、
「どうも結構な場面を拝見するものだ。法令では大統領夫人と庶民との恋愛的交渉を禁止してあるので、こんな場面なんか永遠に見られないかと思っていたのだ。お前は知ってやったか知らないでやったか分らぬがこのひどい冒涜の場面は先程からテレビジョンで全国へ放送されていたんだぞ。余が識ったばかりではなく、国民全体が識っているわ。そうなれば後はどうなるか、二人とも充分覚悟していることだろうな」
 と博士コハクに詰めよった。
 博士はそれでも冷然と構えていた。
「テレビ放送で全国に送られていたとすれば、この部屋で私の言った言葉も理解されているはずです。私の潔白はそれで証明されるでしょう」
 すると後から女大臣アサリ女史が憎々しげな赭ら顔を出して、
「博士、それはまことにお気の毒ですがネ、テレビ放送にはお二人の所作事が見えただけで、声の方はラジオが停ったきりで高声器はウンともスンとも鳴りませんでしたよ。だから貴下が何を喋ったか、それを知っている国民はただ一人もありませんでしょう」
「えッ、私たちの動作だけを放送して、声を放送しないなんて、そんなばかげたことがあっていいものですか。閣下のお言葉じゃないが、法令によればテレビは必ずラジオとともに放送する規程になっています」
 博士コハクは、今までの沈黙を破って、突如雄弁に喋りだした。
「はッはッはッ」と女大臣は無遠慮に笑って、「法令は閣下のお出しになるものです。今日閣下がテレビとラジオとは必ずしも同時に放送するを要せずという改正法令をお出しになったと仮定すれば、博士の抗議は意味ないことになるじゃありませんか。そして謹んで一言申し上げる光栄を有しますが、今日そのように改正法令が出たところなんです。だからテレビだけ送っても違反ではない……」
「それは許せない欺瞞だ。ことさら私たちの関係を誤解させるための悪辣な計略だ。何故(なにゆえ)の中傷です。何故(なにゆえ)の欺瞞です。それを説明して下さい」
 博士コハクは直立した身体から火のような言葉を吐いた。
 髭の閣下はみるみる蒼ざめた。が、彼はこのときブルブル慄える声で号令した。
「問答は無益だ。女大臣アサリよ、はじめ命じておいたとおり二人を処刑するんだ。それッ」
 ミルキ閣下は言い捨てるなり、アサリ女史をしたがえ外へ飛びだすなり扉(ドア)をしめた。
 このときまで壁を背にして傍観していた美しきミルキ夫人は、この様子に愕いて自分もともに室外へ飛びだそうとした。しかし扉(ドア)は鉄の壁でもあるかのようにビクとも動かなかった。
「おお、開けて下さい。わたしをどうしようというのです。閣下それではお話が違うではありませんか」
 ミルキ夫人は狂人のようになって扉(ドア)をドンドンと叩いた。そして開閉用の釦スイッチを押しつづけたが、閉まった扉は再び動こうとも見えなかった。
 そのときどこからともなく部屋のうちに、シュウシュウという、なにかパイプから蒸気の洩れるような音が聞えてきた。
 まっさきに夫人がそれに気がついた。彼女の紅をさしたしなやかな指が我と我が円き喉をしめつけた。
「ああッ、毒ガスだ。なぜわたしまで殺すのです。ううーッ、ここを開け――開けて下さい」
 灰白色の毒ガスはプスと低い音をたてて、床の上を匍い、霧のように渦をまいて、だんだんと高く舞いのぼってゆくのであった。夫人の喉笛あたりが、みるみる真紅になっていった。細い五本の指も赤く染まっていった。そしてその赤い雫は胸の白い煉絹の上にまで飛び散っていった。夫人は蒼白な顔をして荒々しい呼吸に全身を鞴(ふいご)のようにはずませていた。
 博士コハクは灰白色の毒ガスの中に、まるで塑像のように立っていた。夫人の苦しむ姿も目に入らぬようであった。なにかしきりと考えこんでいるようにも見えた。
 が、突然歩きだした。室内をクルクルと栗鼠(リス)のように走りだした。そして四方の壁の表をしきりと探しているふうに見えた。
 この室内の光景は、外部からもテレビ受影機をとおして手に取るように見えた。一方の壁付にミルキ夫人が苦悶している。博士コハクは狂人のようにクルクル走りつづけている。
 テレビ受影機をジッと覗きこんでいるのはミルキ閣下と女大臣アサリ女史だった。二人は彼の室内の模様がいかに移りかわってゆくかについて異常な興味をつないでいた。
 ただ二人は、間もなく眼の危険を悟った。テレビ受影機のスクリーン一杯に、博士コハクの顔が写った。とうとう送影機のレンズを見つけられてしまったのだ。はたして次の瞬間博士が椅子を目よりも高く振りかぶると見る間に、スクリーンは鏡のようにひらめき、次いで映像がストンと消えてしまった。
 二人はかわるがわる受影機の前に立って、目盛盤を廻してみたが、スクリーンの上にはふたたび何の影も現われなかった。室内の様子をうかがうテレビの器械は完全に破壊されてしまったのである。ミルキ閣下と針金毛のアサリ女史は目と目とを見合わせた。
「見えなくなった。どうしたらいいだろう」
「もう見えなくてもようございますよ。二人とも死んでしまうことは、もう明らかでございますからネ」
「きっと死ねるかネ、アサリ女史」
「問題はありませんわ」
 そういっているとき、ミルキ夫人の室から轟然たる一大音響が聞えてきた。
「あッ」とミルキ閣下は耳に蓋をしながら、「あの物音は一体何が起ったんだろう」
「閣下、早く行って見ましょう。博士が逃げるために扉(ドア)を破ったのかも知れませんよ」
 だが扉(ドア)は、前のようにピタリと閉まっていた。二人は相談した結果、扉を開いてみることにした。そこに番をしていた電気士がすぐに送電したので、扉(ドア)は釦を押すと同時に、また前のようにスルスルと下に落ちた。
 二人は室内に躍りこんだ。大爆発が起ったものと見え、あの豪華な装飾も跡はなくなって、じつに目をそむけたいような荒れ方だった。二人は床の上に、バラバラになって飛び散っている男女の腕や脚を見た。それを拾おうとして女大臣が一歩室内に足を入れたとき、ちょうど待っていたかのように、ボーッという音もろとも、床上が一面の火焔でもって蔽われた。勇敢をもってなる女丈夫アサリ女史も、こうなってはもう策の施しようもなく、その場に立ちすくんだ。床上に残っていたバラバラの手足も、すっかり火焔のなかに隠れてしまった。
 ミルキ夫人と博士コハクとはかくしてアロアア区の煙と化したものと見られた。しかし爆発の種がどこにあったのかは分らなかった。しいて考えれば、博士コハクが持ちこんだとしか思われなかった。でも博士がなぜ爆薬を用意してきて、自ら爆死したのか、ミルキ閣下にはそのへんの事情がいっこう腑に落ちないのだった。

      6

 博士コハクの身の上にそんなことが起ったとは夢にも知らぬ男学員ペンと女学員バラとだった。
 二人はバラの私室で、しきりに悪どいふざけかたをしていた。しかしやがて二人の昂奮は大風に遭った霧のように跡形もなく消えてしまった。そして二人は別々にものうい倦怠の中に吐息している自分自身を見出した。
 二人は別々に、なにがこう面白くないんだろうと考えた。
「ちかごろ、君はどうも冷淡にすぎるね」
 とペンがバラに言った。
「だってそれはお互いさまだから、仕方がないわ」
 バラは枕許のさすり人形を撫でまわしながらいった。さすり人形は、摩擦によって触感を楽しむ流行の人形だった。喫煙の楽しみを法令で禁ぜられた国民が、これに代る楽しき習癖として近頃発見したものだった。
「君はこの頃、僕が嫌いになったんじゃないか」
「さあ、どうだか。――とにかくわたしはちかごろいらいらしてならないの。どこがどうとハッキリわかっているわけではないけれど、近頃の生活は何だか身体のなかに、割り切れない残りかすが日一日と溜まってくるようで仕方がないわ。いまに精神的の尿毒症が発生するような気がしてならないのよ」
「そういわれると、僕もなんだかそんな気がしないでもないが、要するに、君は僕がいやになって、誰かほかに恋しい人ができているにちがいないよ」
「あら、そんなことうそよ。ペンだけがいやになったわけではなく、人間というものがすべていやになったのかもしれないわ」
「人間全体が嫌いになってはおしまいだ。僕はそうではない。もっとも嫌いな人間がないではない。さっきポールに、『僕はお前が嫌いになった』と言ってやったよ。あいつはいやらしいやつだ。君がいったとおりだったよ」
「わたしがいったとおりとは、どういうこと」
「ほら、ポールは自分で解剖していると、君が言ったろう」
「ウン、あのことなの」
「そうよ。ポールは自分の身体を自分で手術しているんだよ。それがあきれたじゃないか。これはここだけの話だけど、あいつは自分の性を変えようとしている」
「まあ、なんだって? 自分の性を変えるって? ああ、もしかすると――もっとその話のつづきをしてよ」
「話をしてくれといっても、それでハッキリしているじゃないか。あいつは手術によって男性を廃業して女性になりかかっているのだ」
「ええッ、そんなことができるのかしら」
「できるのかしらといったって、あらまし出来ているんだよ、まったくいやになっちまわあ。超短波手術法なんてものが発達して、人間の身体が彫刻をするように楽に、勝手な外科手術をやれるようになった悪結果だよ」
「人造人間さえ出来る世の中だから、そんなこともできるわけだわ。でも、生きた人間が自分で性を変えるなんて、これは素晴らしい決心だわ。素晴らしい思いつきだわ」
 バラは何を思ったか、急に寝床から身を起すと、たいへん昂奮の色を示して、太い腕でもって自分の扁平な胸をトントン叩くのだった。
「あきれたネ。君もなぜそんなに騒ぐのだ」
 ペンが眉をひそめて叫んだ。
「まあ、素晴らしいことだわ。ポールはよくやったわ。あの人は靴工なんかにはもったいない人間だったんだわ。そう言えば前からそんな気がしていたけれど。それはわたしたち圧迫せられた人間の唯一の逃避の道なんだわ。いや、この政治に対する反逆なんだわ。――十八時のあの魂を膠づけにするような音楽浴、禁煙、禁酒、わたしたちにいかなる自由が残されてあるんだろう。わたしたちは医学の進歩によって永遠の生命と若さとを保証されている。死ぬのは刑罰による死か特に巧妙なる場合の自殺だけだ。わたしたちは子供を生まなくてもいい、政府からの特に命令がある場合の外は……。一人が死刑になれば、政府によって選ばれたる一人の女性が手術による人工受胎法によって一人の嬰児を懐妊し、そして分娩するために国立生殖病院に入れられ、そして一人の人間を補充すればいいんだ。性欲の目的が生殖作用だったのは大昔のことで、現代においてわたしたちは性欲のための性欲のほかに何も知らない。わがミルキ国は、人間のありとあらゆる自由を奪って、ただ一つ新しく性欲の独立と自由とだけをわたしたちに与えた。でもわたしたちは、今までその自由を充分に楽しむことを知らなかったのだ。ポールは頭脳がいい。彼こそミルキ国第一の英雄だ。彼は性欲をさらにスポーツ化し、人間を新しき自由の世界に解放するために、性の束縛から逃れることを考えついたんだ。もうわたしは、必ずしも永遠の女性でなくてよくなったんだ。男性にもなれるんだ。ペン、わたしがもしも女性から男性に変ったとしたら、貴方はやっぱりわたしに対して、今までのように憧れるかしら」
 ペンは唖然として、バラの熱弁に叩かれていた。彼はこのときホッと溜息をついて、バラに向って慄える唇を開いた。
「ああ恐ろしいことだ。君が男性になるなんて。僕たちの関係も、これでもうおしまいだ。僕は生きていることのつらさが、これでまた一つ増えたことをしみじみ感じるよ」

      7

 女大臣アサリ女史からの急ぎの電話で、男学員ペンと女学員バラは急遽その部屋を立ちいでなければならなかった。それは女大臣がミルキ閣下とともに、五分後にアリシア区を訪問するという知らせを受けとったからだった。
 二人は急行コンベーヤー移動路を巧みに乗りかえて、やっと定刻までにアリシア区に帰ってきた。「博士コハクの姿が見えないが、どうされたんだろうネ」
「さあ、どうしたんでしょうね。もう時間が来ているのに、先生が見えないなんて変ね」
 二人は博士の不在にすぐ気がついたのだった。ミルキ閣下の叱責を恐れて、二人は手わけして方々に電話をかけたり、各室をさがしたりしたが、何処にも博士の姿は見えなかった。
「君、実験室の戸棚の中や、机の下も調べたんだネ」
 とペンがたずねた。
「もちろんよ。わたしにできることは皆したんだけれど、先生はどこにも見つからないのよ。誰も知らないっていうの」
「誰も知らない? 誰って、誰のことだい」
「ホホホホ、誰って、皆のことよ」
 バラは何を思ったか、憂いの顔をといて、おもはゆげにほほえんだ。
 間もなく戸外に、女大臣の到着したらしいざわめきが聞えてきた。
 ペンとバラとは、戸口のほうに飛んでいった。
「あ、これは――」
「まあ、閣下が――」
 女大臣の到着かと思ったのに、事実は女大臣は扈従(こじゅう)のかたちで、そこには思いがけなくもミルキ閣下が傲然と立っていた。
 アサリ女史はペンとバラとを尻眼にかけて室内に闖入した。そして誰に言ってるのかわからないようなそっぽを向いて、
「アリシア区の博士コハクは、本日ミルキ夫人との醜事件によって死刑執行をうけた。よってアリシア[#底本では「アシリア」]区の主任は当分のうち本大臣アサリが兼任する。なお女学員バラに臨時副主任を命ずる。終り」
 ペンとバラの二人は、電気にうたれたように、慄えおののいた。博士コハクの非業の最期を、ただいまアサリ女史の言葉によって二人は始めて知ったのであるから。
 博士がミルキ夫人と醜行があったなどということは信じられないことだった。博士は研究室に閉じこもって、二十四時間を殆ど仕事に費していた。醜行をするような余裕も気持も、博士にはなかったはずである。それにもかかわらず醜行があったとは、一体どんな醜行をやったのであろうか。しかも博士コハクはミルキ国第一の、いやミルキ国ピカ一の科学者だった。ミルキ国の至宝であったのだ。博士はミルキ閣下の命令により、あらゆる文化設備を設計し建設した。この博士に死刑を執行することは、ミルキ国が自殺をするに等しかった。これから博士に代って誰が仕事をしようというのだろうか。なんという無謀な死刑宣告だろう。博士の研究のうちでも、目下莫大なる国費を費して研究半ばにある人造人間の建造などは、これからどうなるのであろうか。二人の門下生は、急に目の前が陥没して、数千丈の谿谷ができたような気がした。
「さあそこで副主任バラ女史に命ずる。博士コハクに属していたアリシア区全体を閣下と共に検分する。すぐ案内にたつように」
 副主任と呼ばれてバラはいささか得意だったけれど、アリシア区を案内することは彼女にとってむしろ迷惑なことだった。
 でも、命令は命令である。彼女はやむなく次の工作室から始めて、ミルキ閣下の一行を各室に導いていった。
 アリシア区は全体が同じ段階の上にあった。そして室の数は大小合わせて十六にのぼっていた。しかしこの十六の部屋をことごとく知りつくしているのは博士コハクだけであって、バラは九室を、ペンはわずかに六室を知っているだけだった。いったい同一区の住民は、区内の隅から隅まで知るのを法令により許されているはずだったけれど、博士コハクはその掟を破って、職責に比例して研究室の交通を制限していた。
 第六室までの案内は、至極無事に終った。変っているには相違ないが、そう愕くほどのものはなかった。そこでバラは一行の方を振りかえり、「第七室から、主として人造人間の秘密研究室になります。これから先は、すこし変っていますから、そのおつもりで……」
 と、注意をすることを忘れなかった。
 第七室に入ると、果然そこには大仕掛けな動力機械が林のように並んでいた。すべては人工宇宙線による原子力分解機関であって、二十四基に分れ、それが各台ともさらに多数の枝線へ変圧配給されているのであった。部屋の一方の壁はこれらの配給線管で毛糸の編物を顕微鏡でのぞいたような光景を呈していた。そしてすべてが深海の底のように無音の状態に置かれてあるのが、さらにこの部屋を恐ろしいものにした。
 第八室に入ると、ここは参考標本室であった。人造人間の博物館ともいうべきところで、紀元前四世紀以来、人知が考え出した人造人間のありとあらゆる模型が陳列されてあった。あやつり人形のようなもの、甲冑武士のようなもの、進んでは電波操縦によるリレー式のもの、それから人造肉をかぶせてだいぶん人体らしくなってきたものなど約七百種のものが陳列されてあった。これらの人造人間の標本は、まるでみいらの殿堂に入ったように、怪しい表情を天井にむけ、永遠に硬化した肩と肩とを組み合わせていた。
 ペンは始めて見る室々の怪奇さに、揉み手をしたり、目を大きく剥いたりして昂奮という態であった。
「第九室です。すこしうるさくなります」
 とバラが案内人のような口調でいった。
 ミルキ閣下は女大臣と目を見合わせて、ちょっと不安な表情をしたが、間もなく二人は胸を張り肘をつっ張って、しいて虚勢を張りながら、第九室に通う戸口の前に立った。
 バラは、なんとしたことか、案内すると言って置きながら、扉(ドア)を開くのを妙に躊躇していた。女大臣アサリは早くもそれを見て取って、彼女らしいヒステリーを起した。
「さあ、早く扉(ドア)を開きなさい。ぐずぐずしていると、ためになりませんぞ」
 と、アサリ女史はバラを睨みつけた。
 それでもバラは、もじもじと尻込みをしながら、はんかちなどを出して、しきりに額の汗を拭うのであった。ペンはそれを見ていると恐ろしくなってきて、戸口から遠くへ身を引いた。
 女大臣の顔は、だんだんと赭らんできた。憤怒の血が湧き上ってきたのだった。
「開けないのだネ。開けなきゃ、わたしが開けて入る。しかしお前さんは後で刑罰を覚悟しているんだよ」
 女史が扉(ドア)を押そうとしたとき、バラはあわてて前へ飛びだした。
「あっあぶない、待って下さい。扉(ドア)をそのまま開けると爆発しますのよ」

      8

 爆発! と聞いて女史はブルブルと身ぶるいをした。博士をミルキ夫人の室で虐殺しようとしたときに、思いがけない爆発が起って、二人の手足が引裂かれてバラバラになったことを思い出したからである。「ではやむを得ません。只今わたしが安全装置を入れてから開けます」
 バラは観念したものと見え、今は悪びれる様子もなく、扉(ドア)の前に立って、三つの目盛盤を右や左にグルグルと廻しはじめた。青と赤と黄とのパイロットランプが次々に点滅した。そのうちに扉(ドア)は、静かに内部に向って動きだした。一行は、だんだんと開いてゆく隙間をとおして、室内の模様をこわごわ覗きこんだ。
「この第九室は、博士が試作品を入れておかれる部屋なんです。室内の生物たちを、あまりからかわないで下さいまし」
 バラの先導で、一行は恐る恐る室内に足を踏み入れた。
 途端に、なによりも早く一行を愕かせたものがあった。思いがけなくも、その室内に一人の裸女が立っていて一行の顔をジロリと見渡したのである。
 その裸女は、年の頃は十七、八歳でもあろうか。牛乳を固めたような真白な艶のある美しい肢体をもっていた。ことに人目をひくのは、その愛くるしい顔だった。世界中探しても二人とはいないほどの美少女だった。どこやらミロのヴィナスに似ていたが、むしろそれよりも天使に近かったといった方がいいかもしれない。彼女は文字どおり一糸をもまとわない裸身を別にはじらうでもなく、一行の方を向いてにっこりと笑ってみせた。
「これは素晴らしい美人だ!」ミルキ閣下は好色な喜悦をあけっぱなしに叫んだ。「その女、名前はなんという」
「アネットという名がつけてございます」
 とバラが少女に代って返事をした。
「なに、アネットというのか。相当いい名前だが、もっと似合のやさしい名前を与えてやった方がいいと思うぞ」
「しかし閣下、誤解なすっちゃいけませんよ。アネットは人造人間です。身体をよく見てやって下さいまし」
「なんだって。身体を見ろというのかい」
 ミルキ閣下は目を皿のようにして、アネットの全身をジロジロと探りまわした。
「おお、そうか」
 閣下の目が下の方に下がってきたとき、彼は思わずにが笑いをした。そこに人間として未完成な部分を発見したが故だった。
「――ではちょっとご説明いたします。この部屋に飼ってあるものは、いずれも博士コハクの試作生物です。こっちの小豚のような四つ足は身体と内臓とが人造肉によって作られ、そしてシェパードの脳髄を移し植えたものでございます。それからこっちは、猿に人間の幼児の脳髄を植えたもの……」
 バラは金網の前に立って、いちいち説明をしていった。
 実に怪奇を極めた生物館だった。一つとして、まともなものはいなかった。人間の形をしたものもいた。乳から上だけの人間が黄色い液体の充たされた大きなガラス器の中に漬かっていた。彼は両手でガラスの管を口にくわえて、紫色の液体をチュウチュウ吸いつづけていた。その液体のもとを見ると、複雑な化学装置からできていたが、その先は器内の黄色い液体だった。つまり黄色い液が途中で紫色の液になり、それが半身人間の身体を通るとまた黄色い液に変るという循環運動をなしていた。バラはこれを、新しき栄養摂取の試験をやっているのだと説明した。
 このバラの説明の間にもミルキ閣下はとかくソワソワした態度で、人造人間アネットの方に注意を奪われがちだった。女大臣アサリ女史の眼にも、それがハッキリと映じたので彼女はだんだん蒼ざめ、はては身体をブルブルとふるわせた。
 ところがミルキ閣下は、そんなことにいっこう気がつく様子もなくついに列を離れて、アネットの立っているところへ引き返してきた。
「美しいアネットよ。お前はこの部屋で何をしているのかい」
 アネットは白痴の唖女のように、ただニコニコと笑っているばかりだった。
「ああ閣下」とバラが血相をかえてやってきた。「アネットは試作品ですから、特別の符号でないと通じないのでございますよ。ミルキ語は、彼女にわからないんですよ」
「なんだって、ミルキ語がわからんというのか。それは実に不便だネ」
 とは言ったが、いわゆる白痴美というのであろうか、アネットの美しさに閣下はますますひきつけられていった。
 そのとき女大臣はこらえかねたように歯をギリギリ噛みあわせると、アネットのそばに足早に近づいた。そして内ぶところに隠し持ったナイフをキラリと抜くや、それを逆手に持ってアネットの心臓の上をめがけてただひと突きとばかり腕をふるったが、このとき遅しかのとき早し、顔色をかえたバラが身を挺してアサリ女史の腕にシッカと飛びついて、わずかにことなきを得た。しかし女史は大暴れである。バラもまたひどく昂奮していた。
「女大臣、何をなさるのですの」
「お前の知ったことではない。わたしの権限で、この人造人間を殺すのだ」
「殺すのはちょっとお待ち下さいまし」
「なにを邪魔するんだい。生きた人間を殺すのはいけないかもしれないけれど、器械で出来た人造人間を殺すことがなぜ悪いんだい。こんな女のできそこないは、見ているのも胸くそが悪い。わたしは権限をもってアネットを殺してしまうのさ」
「いけませんいけません、アネットを殺しては。アネットは作り上げられてから、もう何週間もこの部屋で試作品の世話をして働いていたのです。わたしたちとも言葉をかわして、仲好しになっているのです。本当の人間と変りはないのです。それを殺すなんて、それは――それはあんまりです」
 バラはナイフを握る女大臣の手を捕えて、頑とはなさなかった。
「ちょッ。お前さんは女大臣に反抗するんだネ。ようし、もう許して置けないッ」
「でもアサリ大臣、もう一度考え直して頂けません――それにあの、博士が亡くなったのなら、残された人造人間を大事にして置かないと、他の人の手ではもう再び人造人間を作ることができないかもしれないのでございますよ。それはミルキ国にとって最大の損失ですわ」
「最大の損失だなんて、僭越な。ホホホ、察するところお前はこの人造人間を愛しているのだネ」
「……」
 女大臣がバラの髪をむずと掴み、腹立ちまぎれに引き倒そうとする様子にミルキ閣下は愕いてついに大喝した。
「待て、アサリ女史。ミルキの名をもって、この人造人間に傷害を加えることを許さぬぞ。人造人間は国のため貴重な研究品だ。わしはいままでに八百億ルクルの金を、この研究のために支払っているぞ、殺しちゃならぬ。ナイフを収めい」
「閣下」とアサリ女史はミルキの胸ぐらを取って、「ご命令には従います。しかし今誓って下さい。この出来損いの人造人間に閣下が人間に対するような言葉をおかけにならぬように」
「うむ。そいつはよくわかっている。わしに何らの他意のないことはお前もよく知っているじゃないか」
 そういうと、女大臣はにわかに眼を細くして、おもはゆげに顔を赭らめた。
 部屋の隅ではペンがひとりでにがりきっていた。
「なんだ、面白くもない。バラの奴は人造人間を愛してやがるし、女大臣はミルキ閣下と密通していたんだ。それじゃあ俺も遠慮することはなかった。俺と仲のいい靴工ポールの奴は身体を女性に直しやがったが、あれは俺と一緒になりたくてそうしたのにちがいない。よオし、これから行って本気で話をつけてこようや」

      9

 その翌朝のことだった。
 ミルキ閣下と女大臣アサリはお揃いの朝食をとっていた。
 女大臣は寝衣(ねまき)を着ていたのに、ミルキ閣下は外出服をつけていた。
「閣下は昨夜ふけて寝床から抜けてゆかれましたね。おかくしになってもだめよ。一体何処へ行ってらしたのです」
「イヤなにちょっと、その……」
「いくらお隠しになっても駄目ですのよ。わたしの部下が、さっき閣下をアリシア区附近でお見かけしたといっていましたよ」
「アリシア区で見かけたというのかい、このわしを」
 ミルキ閣下は愕きの目をみはった。
「何のご用があって、わざわざ夜更けに寝床から抜けていらしたのですか」
「何の用って、別に――お前は誤解しているようでいけないよ。昨日もアリシア区を調べてわかったではないか」
「なにがわかったとおっしゃるの」
「ソノつまり、つまりソノ何だ。ええ、昨日アリシア区を調べたが第九室までしか見られなかった。第十室以後は、しいて開けようとすると爆発するという騒ぎだ。しかし第十室以後を見ないというのは、ミルキ国において自分の絶対権力が行われないところもあるという面白くない証拠を残すことになる。それははなはだ残念だからどうにかして中に入りこむ手段はないものかと、行って調べてきたんだ」
「それはどうも近頃勇敢なことです。そして閣下のお望みどおり第十室から奥へ入れましたか」
 と皮肉るのは大臣アサリだった。
「いや駄目だった」
「駄目だということはすぐおわかりでしたろうのに。それにどうして朝になるまでアリシア区にいらしたのですか」
「ナニどうにかして扉(ドア)を開けたいと思って、頑張っていたんだよ」
「はあ、さようでございますか。どの扉(ドア)を開けようとなすってらしたのかわかったものじゃありませんわ」
 アサリ女史は、そばの金の停り木にとまっていた青い鸚鵡の方を向いて、フォークの尖につきさした赤い肉片をさしだした。
 飢えた鸚鵡は、それを見るより早く嘴を開いて肉片にとびついた[#「とびついた」は底本では「とびいた」]。だが、間もなく床の上にポトンと肉片の落ちる音がした。飢えたる鸚鵡が、せっかくくわえた肉片を惜しげもなく下に落したのであった。
「あれあれピント」と閣下は鸚鵡の名前を呼んで、「お前はどこか身体の加減でも悪いのだろうか」
 するとアサリ女史が、鸚鵡に代ってこたえた。
「いいえ、ピントははちきれるように丈夫ですわ。でも人造人間の肉はまずくて口に合わないといっているのです」
「え、人造人間の肉だって?」
 ミルキ閣下は愕いて椅子から飛び上った。アサリ女史の足許を見ると、大きな金盥(かなだらい)に、赤い肉片が山のように盛られていた。そして顔色を変えるミルキ閣下の目に、金盥のところから血の滴がポタポタと落ち、奥のカーテンの蔭にまでつづいているのが映った。
「うむ、貴様やったな」
 飛ぶようにして、カーテンのところへ駈けつけたミルキ閣下は、そのカーテンの向うにバラバラに解体された精巧な器械の固まりを見た。その器械の固まりの端には美しい女の顔がついていた。それはやや蒼ざめてはいたが、何にも知らぬげににっこりと微笑んでいた。それを見た瞬間、閣下は爆発する火山のように憤怒した。
「な、何故殺したのだ。なぜアネットを殺したのだ。貴様はアネットが美しいので嫉妬しているんだな。殺しちゃならぬとあのくらいわしが命令したのに、なぜそのとおり遵奉(じゅんぽう)しないんだ。女大臣だとて、こうなっては容赦せぬぞ」
 でもアサリ女史は、悠然と椅子に腰を下ろして、ガラスのなかの飲料をとっていた。
「まあおしずまりなさいまし。そうしたのもミルキ国のためを思えばこそです。この非常時に、閣下が人造人間にうつつを抜かしていられるなんてことが住民に知れわたったら、彼らはどんなに騒ぐことでしょうか。今こそ、かねてわたしが申しておきましたとおり、非常政策を遂行するべきときなのです。賢明なる閣下に、それがおわかりにならぬはずはないと存じますが」
 閣下は、アサリ女史の言葉に反対はしなかった。だがそっぽを向いて独白した。
「――わしは檻のない監房に入っているのも同様だ。わしはもう永遠に美しい女性を手に入れることが出来ないんだ」
 アサリ女史は閣下の独白が聞えないような様子を装っていた。そして閣下をまた元のようにテーブルの前に坐らせると、醇々と国策問題を述べだしたのであった。
「さあ、ミルキ閣下。わが国は今日より非常推進を行うのです」
「非常推進か。それでどうしようというのかネ」
「ミルキ国の地下には、金鉱が無尽蔵に埋没されています。あれをこの際向う一週間で全部採掘するのです」
「誰が採掘するのか。僅か一週間で採掘するなんて、第一人手も足りなければ、機械だって揃わないぞ」
「そんなことは訳はありません。わたしに委せておきなさいませ」
「委せておけって。フフン、どうせ失敗するのはわかりきったことだ。博士コハクが生きていりゃ、彼なら立派にやりとおすだろうとは思うがネ。君は政治家であっても、絶対に科学者ではない」
「科学者の要るのは始めのうちだけです。ここまで来れば、あとは運用だけです。いかに巧みに運用して大きな事業をやるか、それは政治家でなくては駄目なんです。科学が政治を征服することは絶対にありませんが、政治はいつも科学を征服しています」
「そう思っていたよ、昨日まではネ。しかし人造人間アネットに会ってからは、その考えがグラグラして来た。ああ美しいアネット。あのアリシア区の第十室の奥には、アネットよりもっと美しい人造人間が百人も千人もいるのかもしれない。全く科学は偉大な力だ」
「科学よりは黄金です。わたしは一週間で地下の黄金を掘りだして、そしてミルキ国のあらゆる道路も部屋も天井も壁もすべて黄金づくりにしてしまうのです。なんと素晴らしい計画じゃありませんか。ミルキ国は黄金でもって世界を支配するのです」
「世界を支配するって。黄金よりも鉄だ。黄金では戦争は出来ない」
「いえ、黄金さえあれば、ミルキ国に代って鉄でまもってくれる国はいくらでもあります。いや戦争をしかけて来た国の宰相をミルキ国に案内して、そして黄金造りの部屋を一つ与える約束でもすれば、もう戦争は起らないでしょう」
「そう簡単にいくだろうか。わしはそれほど楽天主義ではない」
 そういっているところへ、遠方から、微妙な音響が聞えて、それはいつも聞き慣れたメロディーであった。ああ音楽浴が始まりだしたのだ。
「ああ音楽浴? 十八時の音楽浴じゃないか」
 と閣下は目をパチクリとしたが、「待てよ。いまは八時じゃないか。音楽浴が間違って始まりだした。おい係りの者は何をやっているのだ」
 するとアサリ女史は、いっこう慌てた様子もなく、ミルキ閣下に向って子供にさとすようにいった。
「ええ音楽浴ですわ。今日から音楽浴令を変えたんですのよ。これからは音楽浴を一時間置きに、つまり一日に二十四回やることにしました。そうすると国民は、今までの二十四倍ちかい仕事をするでしょう。そうなれば、もう眠ることも食べることも不要なんです。音楽浴さえかければ、それの刺戟で国民はあと一時間半を疲れもなく馬車馬のように働くでしょう。その後でまた次の音楽浴をかければいいのです」
「それは乱暴だ。死んだコハク博士もそんなことを計画しなかった」
「博士コハクは生れつき狡いから、わざと音楽浴を一日一回に制限したのです。でもないと博士自身も二十四時間働きつづけにさせられますからネ。わたしはそれを前からちゃんと知っていたのです。政治家でなければ、いちいち国の能率を本当に十二分にあげることは不可能ですよ。科学は政治家に征服されてこそ、真の偉力を発揮するのです」
 このときミルキ閣下の耳底には、音楽浴の行進につれて国民の口からハッハッと吐きだされる苦悩の呻き声がアリアリと感ぜられた。

      10

 ミルキ閣下は、昨日とは打ってかわった不機嫌なる体で、室内をゴトゴト歩きまわっていた。
 女大臣は電波化粧台の前にすわって、自分の分泌腺をしきりと刺戟しながら、執拗にもミルキ閣下に話しかけた。
「閣下はいまにわたしに感謝なさいますわよ。閣下はご存知ないのでしょうが、今なお国内にて音楽浴の効き目が薄れた倦怠時間になると、怪しき性の手術を施して、男性が女性になったり女性が男性になったり、それはそれは口にするのも唾棄すべき悪行為が流行しているのですよ。そんなことが流行しては、国民の意気はどんなに沮喪することでしょう。閣下は国民に対して甘すぎます。彼等に睡る時間や喰べる時間や考えたり遊んだりする時間を与えるのは全く無駄なことです。そんなものは、彼等を倦怠に導き、そして堕落させる外に、何の効果もないのです。今の悪行為の流行も、その一つの証明です。だからわたしは、国を救うため、そして国民自身をも救うために、音楽浴を二十四時間にふやしたのです。それでもうまくききめが現われないようならわたしの理想とするのべつ幕なしの音楽浴を計画したいと思います。そうすれば国民全体を一人の人間に命令するように不揃いなしに右にでも左にでも向かせることが出来るのです」
「完全に自由を奪うのだね。それまでにしなくともいいだろうに」
「いえ、その方が国民にとっても、どのくらい幸福かしれやしません。国民が心配することは一つもなくなるからです」
「わしはいやだ」
「閣下は、政治家たる素質がおありにならないから、そうお思いになるのです。ではこうなさいませ。生れつきの政治家であるわたしに統治の全責任をお委せになったら。そして閣下は引退なさるのです。そうすればどんなにか気楽ですわ」
「莫迦を言え。それは陰謀だ。わしはミルキ国の永遠の統治者だ。お前にはまかさんぞ」
「ホホホホ。何とおっしゃっても、もうこの国も閣下も、わたしのものですわ。わたしは今ではこの国一番の智慧者なんですもの。閣下は私を力になさるより外に、途がないのですもの。ホホホホ」
 女大臣アサリ女史は、頬骨の高い顔をつきだして、ふてぶてしく哄笑した。
 ミルキ閣下は、やっと今になって、女大臣の策動にかかって、愛する美しきミルキ夫人と智慧の神コハクを喪ったことを知り、じだんだ踏んだが、後悔は先に立たなかった。彼は今や、女大臣アサリの男妾にまで下落しようとしている自分自身に気がついた。
 それから三十分ほどたった後のことであった。突如として非常警報がミルキ国の全土を震駭(しんがい)させた。すわ、何事であろう。
 或いは高く或いは低く鳴奏される警報を耳にした国民は、誰の顔もいいあわせたように不安の想いに青ざめて、高声器の前に集まった。それは天文部長ホシミから発せられたものであった。
「警報! 天文部長発表。八時四十分観測員は北極星より南東十度の方角に当って、奇怪なるロケット艦を発見せり、その後引続き観測の結果、該ロケット艦の進路は、まさしく吾がミルキ国に向って直進中なることを知りたり。而してロケット艦とわがミルキ国との出会時日は明後日の二十三時なりと推定す」
 火星のロケットの襲来! 火星の民族が攻めてくるだろうとは、数世紀前から想像されていたことである。その恐怖すべき来襲の幕はいよいよ切って落とされたのだ。
 そういえば、この旬日、発信局の知れない電波信号が盛んに受信器に混信すると思っていた。
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