寺田先生と僕
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著者名:海野十三 URL:../../index_pages/person1159

 題名ほどの深い關係もないのであるが、科學ペンからの求めで、已むを得ず[#「已むを得ず」は底本では「己むを得ず」]ペンを執る。
 僕が寺田先生を始めて知つたのは、多くの人がさうであるやうに、第一には「吾輩ハ猫デアル」の水島寒月に於て、また「三四郎」の野々宮理學士に於てである。これは書くまでもない至つて平凡なことである。只、その間、首くくりの力學には、始め滑稽を感じ、後學校で本物の力學を勉強するやうになつて畏敬と化した。首くくりはたしかに力學でもあつたからである。今も先生を心から敬慕して已まぬ[#「已まぬ」は底本では「己まぬ」]わけは、先生が首くくりにも力學を考へられた非凡なその學者的態度である。非凡とだけでは物足りない。悟りきつた、神のやうな學者的態度とでもいはふか。
 寺田先生から、手紙を一度頂いた事があつた。それは大正十二年の關東大震災の後に、東京朝日新聞紙上で、「私の探してゐるもの」といふ欄に先生が「羅災の人で、もしそのときの火災の進路について場所、風向、時刻について知らせて呉れると、たいへん學術上參考になる。また颱風に遭つた人は、それについても書いて欲しい。」と書かれた。僕は當時、淺草の今戸に居て、九月一日の午後五時ごろに自宅全燒の憂目に遭ひ、しかもその一時間ほど前には、もう生命もこれでお仕舞ひだわいと悲壯な覺悟をしなければならなかつたほどの大旋風にも襲はれたので、謹んで水島寒月先生に見聞記を奉つた。そのとき、當時着のみ着のまゝで燒き出された身の上であつたから、懷中はなはだ寒かつたが、この報告はどうしても東京市の地圖に矢印などを書きこまなければ要を盡さないと思つたので、無理に東京の地圖を遠方まで買ひにいつた記憶がある。
 さうして僕は、自分の見聞記を書いて、先生宛お送りしたわけであるが、そのとき折かへし頂いた先生の禮状が、前にいつた唯一の手紙なのである。
 惜しいことに、その手紙はその後轉々と引越をしたので、いつか失せてしまひ、今は甚だ殘念に思つてゐるが、なんでもレター・ペーパー二枚に丁重に書かれたもので、今日思ふと實に貴重な寶物であつたのに、惜しいことである。
 僕の提供したこの資料は、震災豫防調査會の第百號、關東大地震調査報文火災篇に、先生の手によつて「大正十二年九月一日二日ノ旋風ニ就テ」の項に輯録せられてあるが、次のとほりである。文中括弧内は、寺田先生の註である。
(今戸一二六佐野昌一氏書信ニヨル)觀測者ノ位置、淺草區今戸一二六番地自宅前、長昌寺境内(小高イ林ノ中)。九月一日午前三時半頃初メテ夢見シタ。當時近隣デハ隅田川添ノ今戸橋白髯橋間ノ狹イ地帶ニ火ノ手ガ見エナイダケデ、西ハ龜岡町、吉野町、山谷町、玉姫町イヅレモ火ノ手ガ盛デアツタ。風向ハ南々東デアツタ。急ニ轟々タル音響ガ聞エテ西南ノ方聖天町邊(書信ニハ圖ガ添ヘテアルガ略スル)ニ旋風ノ起ツテヰルノヲ認メタ。尤モ始メハ「ガス、タンク」デモ爆發シタカト思ツタ位猛烈ナ勢デアツタ。黒褐色ノ煙ノ柱徑一町以上ノモノガ天ニ沖シ、中空以上ハ擴ガツテ雲ノヤウデアツタ。音ハ耳ヲ聾スルバカリノ[#「聾スルバカリノ」は底本では「聾スリバカリノ」]グオーツトイフ音デ、生來之ニ比較スベキ音ヲ聞イタコトガナイ。非常ナ勢デ廻轉シテヰルコトハ何カ木片板片ノヤウナモノガ飛ビ交フ樣子デ分ツタ。廻轉ハ地上カラ向ツテ右ネヂノ方向デアツタト思フガ確カデナイ。避難者等ハ恐怖シテ悲鳴ノ聲、題目ノ聲ガ各所ニ起ツタ。風向キガ東南ニ變リ風ガ強クナツタ。旋風ハ二三分位ノ後ニハ待乳山ノ西側ト思ハレル邊マデ進ンデ行ツタガ大キサハ同樣デアツタ。其ノ内ニ音ガ小サクナリ、風モ治マリ、柱状ノモノモ以前ノノヤウニ明瞭ニハ見エナクナツタ。ソシテ南々西ニ向ケ、雷門吾妻橋ノ方ヘ(書信ニハ地圖ニ矢ヲ記入シテ方向ヲ示シテアル)進ンデ行クヤウニ見エタ。火ノ子ガ林ノ上カラ夥シク降ツテ來タガ、布カ木片ノ燃屑デ中々大キカツタ。發見後十五分位ノ後ニハ遙ニ南々西ノ方向(附圖ニヨルト、吾妻橋西詰ノ方ラシイ)ニ前ヨリモ高ク上空迄暗雲中ニ象鼻状(見取圖略)ノ白氣ガ搖レナガラ立昇ルヲ見タ。其ノ後急ニ近隣ノ火ノ手ガ強クナリ、今戸八幡ノ方ニモ火ノ手ガ擴ガツテ來タタメ、大川縁ヲ傳ヒ北方ニ、逃ゲル仕度ヲ始メタノデ、後ノ状況ハ見ナカツタ。ソレハ四時頃デアツタ。風ハ其後一度東風ニ變リヤガテ西風ニ變リ、四時半ニ長昌寺ガ燒失シタ。尚人々ノ話ヲ綜合スルト田中町小學校ニ旋風ガ發シタト云ハレ、又今戸公園ニ旋風ガ襲ツタトキ待乳山邊迄大イニ荒レタサウデアル。又今戸八幡デ旋風ニ遭ヒ、身體ガ浮イタトイフ老婆ノ實驗談ヲ聞イタ。
九月二日午後五時頃、當時燒跡ニ歸來シ、境内ニ掘立小屋ヲ作ツテヰタガ、南方カラ大判罫紙ノ燒焦ゲタ片ガ數多落チテ來タ。
(此項モ東京朝日新聞ノ「探シテ居ルモノ」ヘノ寄稿デアル。詳細ナル記述ヲ謝スル)
 といふわけで、ここまでは僕も相當得意であつたところ、それから四五頁後のところに先生は
以上ハ災後二三ヶ月以内ニ著者ノ手許ニ集ツタ材料ノ大要デアル。此等ノ中ニハ可也信用ノ置カレルノモアリ、又可也怪シイモノモアルガ、此點ニ就テハ一切私見ヲ加ヘルコトナシニ、其儘ヲ採録シタ。談話者又報告者ノ言葉モナルベク保存シ、話ノ順序、ノ混雜シタノヤ不得要領ナノモ故意ニ其儘ニシテ置イタ、サウシタ方ガ史料トシテノ價値ヲ損ジナイト思フカラデアル。
 と書かれてあつて、僕の得意の鼻はぽきんと折れてしまつた。
 先生はなほこれらの史料を過信することを戒められ、
兎モ角モ人間ノ眼デ見タ證據程當テニナラナイモノハナイトイフ、心理學上ノ事實ハ、吾々ノ忘レテナラナイ誡デアル。
 と、止めを刺されてゐる。僕としては、もつと常識を廣くして置いて確實な觀測をすればよかつたのにと、千載の一遇[#「千載の一遇」は底本では「千較の一遇」]を棒にふつてしまつた事を殘念に思ひ、かへつて寺田先生を悦ばせることの少なかつたことを遺憾に思つてゐる。しかし先生の出してゐられる旋風の特性を愛するノートは、實見者たる僕の同感する點が多い。だから、矢張り報告書をさしあげてよかつたと思つてゐる。
 寺田先生と一度お目に懸つてこんな思ひ出話をする好機を得たかつたが、遂にそのことなくして終つたのは、これまた心殘りである。
    ×      ×      ×
 先生のやうに、神か幼兒のやうに素直に物理學を專攻せられるの士は、他に類例があるまいと考へる。多少それに似た事をやる方はあつても、その心組みその悟りに於ては、蓋し雲泥の差があると思ふ。
 寺田先生の豪さには、明治大正昭和を通じて誰も傍に寄れる者がなからうと信ずる。
『科学ペン』昭和十二年十二月号



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