大空魔艦
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著者名:海野十三 

   模型飛行機


 丁坊(ていぼう)という名でよばれている東京ホテルの給仕君(きゅうじくん)ほど、飛行機の好きな少年は珍(めず)らしいであろう。
 丁坊は、たくさんの模型飛行機をもっている。みんなで五六十台もあろうか。これはみな丁坊が自分でつくったのだ。
 航研機(こうけんき)もある。ニッポン号もある。ダグラスやロックヒードの模型もみんな持っているのだ。
「おい、丁坊。ベルリンから来た新聞に、こんな新しい飛行機の写真が出ているぜ」
 などと、ホテルのボーイ長(ちょう)の長谷川(はせがわ)さんは、外国から来る新聞によく気をつけていて、珍らしい写真があると、それを丁坊に知らせてくれるのだった。
「ふふん、これは素敵(すてき)だ。プロペラが四つもついていらあ。――長谷川さん、どうもありがとう」
 そうお礼をいって、丁坊は新聞を穴のあくほど見つめているが、それから一週間ぐらい経(た)つと、丁坊は大きな叫び声をあげて、ホテルの裏口からとびこんでくる。
「長谷川さんはどこにいるの。うわーい、新しい飛行機が出来たい」
 丁坊は、手づくりのその模型をボーイ長の鼻の先へもっていって愕(おどろ)かせる。
「うーむ、これは何処で買ってきたんだい」
「買ったんじゃないよ。僕が一週間かかってこしらえちゃったんだい」
「あはっはっはっ。嘘(うそ)をつけ、子供にこんな立派な細工が出来るものかい」
 と、ボーイ長は本当にしない。
 そこで丁坊は怒(いか)って、それじゃ僕の腕前を見せてやろうというので、この頃はホテルの中で身体(からだ)の明(あ)いたとき、せっせと模型飛行機をつくっている。
 ホテルで丁坊が儲(もう)けたお金のその半分は、模型飛行機材料を買うためになくなってしまう。
 丁坊の家族は、お母さんが只(ただ)ひとりいるきりだ。お父さんは、今から十年ほど前、なくなった。このお母さんという人が変っていて、丁坊が飛行機模型をつくるのに、ホテルで儲けた尊いお金の半分をつかってしまうので、さぞお怒(おこ)りなんだろうと思っていると、そうではない。
「丁太郎(ていたろう)(これが丁坊の本名だ)は飛行機がすきなんだし、それに手も器用なんですから、わたくしは飛行機づくりならいくらでもおやり、お母さんは叱(しか)らないからねといっているのでございますよ」
 と、お母さんはすましたものである。
「いえね、それにうちの丁太郎は自分で働いて儲けたお金で好きな細工をやっているんですから、云うことはありませんよ。これからの世界は、わたくしたちの昔とはちがいますよ。役に立つことにはどんどんお金をつかわないと、えらい人にはなれませんよ」
 と、お母さんは近所の奥さんに話をして、とくいのように見えた。こんなふうだから、丁坊はいよいよ飛行機模型づくりに熱心になって、三間(みま)しかないお家の天井という天井には、いまでは大小さまざまの飛行機模型がずらりとぶらさがっていて、風にゆらゆらゆらいでいる。だから蠅(はえ)などは、それにおどろいて、丁坊の家に入ってきても、すぐ逃げていってしまう。
 このような丁坊の飛行機好きが、後になって、大変なさわぎを起そうなどとは、当人はもちろん丁坊を眼の中に入れても痛くないというほど可愛(かわ)いがっているお母さんにも、全(まった)くわかっていなかったろう。


   戦争の噂


 それは、まだごはんにはすこし早いという或る冬の日だった。
 丁坊は非番でホテルへはいかず、自分の部屋で、飛行機づくりに夢中になっていた。
 そのとき遠くの方で、ピピーという口笛が鳴った。
「ああ、口笛が鳴った。清(きよ)ちゃんだね。そうだ今日はユンカース機を見せてやろう」
 そういって彼は、長い竹をとりあげて、天井に釣(つ)ってあったユンカースの重爆機(じゅうばくき)の模型を畳(たたみ)の上におろした。
 ばさーっ。
 玄関に、夕刊の投げこまれる音がした。
「おーい清ちゃん。こっちの窓へお廻りよ」
「ああ、いまいかあ。――」
 とんとんと土をふんで、林檎(りんご)のように赤くて丸い顔をした鉢巻(はちまき)すがたの少年が、にっこりと窓の外から顔を出した。
「やあ丁坊。早く見せておくれよ。今日は本社の配達がたいへん遅れちゃったんで、これからいそがなきゃならないんだよ」
 吉岡清君(よしおかきよしくん)は、動物園のお猿のように、窓の鉄格子(てつごうし)につかまって覗(のぞ)きこんでいる。
「じゃ、早く見なよ。これがほら、この前いったユンカースの重爆機だよ。七十四型というのだ。どうだ凄(すご)いだろう。ドイツでは、今から十年も前に、これを旅客機として作ったんだ。そのころのドイツは、軍用機を一つもつくることができなかったんだが、いざという場合には、この旅客機を重爆機として、祖国を苦しめる敵軍を爆撃するつもりだったんだ。ほら、よくごらんよ。この翼(つばさ)の形は、どうだい。操縦席(そうじゅうせき)のところも、ずいぶん凄いだろう」
「うん、凄いや凄いや」
 と、清君はしきりに頭をふっている。
「もう一台つくったら、君にもあげるよ」
「うふん」と清君は遠慮ぶかい笑(え)みをうかべたが、
「ねえ丁坊、本社で聞いたんだけど、そのうち北の方で大戦争が起るんだってさ」
「へえ、北の方で大戦争が……」
 と、丁坊は眼をまるくした。
「北の方って、どこだい」
「北の方って、よくは分らないけれど、つまり北極に近い方をいうのだろうさ」
「こんな寒いときにも、北極で戦争をするのかい」
「あんなことをいってらあ、北極の附近なら、年がら年中、氷が張っているじゃないか」
「それはそうだけれど、あの辺だって、夏になると、すこしは氷が溶けるのだよ、氷山なんか割れるしね」
「そうだ。――」と清君は首をひねって、
「いまの大戦争は北極を中心として、シベリヤ、アラスカ、カムチャツカなどという、日本の樺太(からふと)や北海道よりもずっと北の方へひろがるだろうといってたぜ」
「どうしてそんなところに戦争が起るんだい」
 と、丁坊がたずねると、清君は新聞記者気どりで、
「そりゃ分っているよ。北の方で、世界の国々が、自分のために力をひろげておかねばならぬと喧嘩(けんか)をはじめるんだとさ。ソ連、米国、英国なんて国がさわいでいるんだよ。日本も呑気(のんき)に見ていられないだろうといっていた」
「ふーむ、日本もね」
 そういっているところへ、丁坊のお母さまが飴玉(あめだま)を紙につつんで、清君にあげましょうともってきた。
「清ちゃんはえらいのねえ。新聞配達をして小さい弟や妹を養(やしな)っているんだから……」
 清君はあたまを下げた。
「まだお父さんもお母さんも、御病気がよくならないのかい」
「ええ、まだなんです」


   変な怪我(けが)


 一家のために、けなげにも新聞配達をして、くらしの足(た)しにと、わずかながらもお金を稼いでいる清君は、丁坊のように活発ではないが、おとなしい感心な少年だった。
 それから三日ばかり経(た)った日の夜のこと、丁坊はその日も休みで家にいたが、なんとなく、そわそわしていた。
「どうしたんだろう。今日は清ちゃんの夕刊配達が、ばかに遅いけれど、どうかしたのじゃないかしら」
 仲よしの清君の身の上をおもって、丁坊はさすがに心配のあまり、好きな模型づくりもやめてしまった。
 時計はもう七時だ。
 するとピピーと口笛の音が、表口の方にした。
「ああ、清ちゃんが来た」
 丁坊は、そのままとび上るようにして、自分の部屋の窓をあけた。
「おーい。清ちゃん。早くこっちへおいでよ。ばかに今日は遅いじゃないか」
 夕刊をばさっと投げいれる音がした。
 それからばたばたと、窓下へかけてくる小さい足音がした。赤いベレー帽がみえた。その下で白い顔が笑っている。
「おや、――」
 と、丁坊は叫んだ。
「おや、ユリちゃんじゃないか。兄さんはどうしたの」
 意外にも、新聞の入った大きな袋を肩からかけて、窓下に立ったのは清君ではなくて、その妹のユリ子だった。
「丁ちゃん。兄ちゃんは、きょう怪我(けが)をしたから、配達ができないのよ」
「えっ、兄ちゃんが怪我をしたって。どうして怪我をしたの、そしてどんな怪我なんだい」
 お母さんもとんで出てきて、けなげなユリ子の手を窓ごしに握って、涙をこぼした。
「――さっき、兄ちゃんが沢山の夕刊を持って、この向うの雑木林(ぞうきばやし)をぬけようとしていると、そのとき、あっという間もなく、頭の上からなんか大きな硬いものが落ちてきて、兄ちゃんの左脚(ひだりあし)にあたったのよ。それで左脚がひきさいたように裂(さ)けて、歩けなくなったの。折よく傍(そば)を自転車にのった酒屋さんが通りかかったから、うちへ知らせてもらったんだけれど、ずいぶんびっくりしたわ。そんなわけで、あたしが兄さんの代りに配達しているのよ。でも夕刊が遅れるといけないでしょう」
 ユリ子は、けなげにもそういった。丁坊はこのユリちゃんが大好きである。実に、はきはきしている子だったから。
「その大きい硬いものって、何だったの」
「それが分らないのよ。土中(どちゅう)に深く入っていて、中々掘りだせないんですって」
 ユリ子は悲しそうに首をたれた。
「なんだろうね、そいつは。清ちゃんを怪我させて、黙って地面の下にもぐっているなんて」
 丁坊は大へん腹を立てた。
「よし、僕が一ついって見てきてやろう」
 そういって、お母さんやユリ子の停(と)めるのもきかずに、暗いおもてに飛びだした。


   空魔艦


 暗い雑木林の中だった。
 しかし丁坊は、もともと日本兵のように豪胆者だったから、すこしもおそろしくない。
 懐中電灯をてらしながら、中へ入ってゆくと、やがてその場所へ来た。
 そこには地面に大きな穴があいていた。附近の笹(ささ)の葉には、清君の身体(からだ)から出た血らしいものがとんでいた。
 見たけれど、穴は深いが、なんにもない。ただ一つ土のなかから、丸い環(たま)と、これについている沢山の麻糸(あさいと)とをみつけだした。
「なんだろう、これは?」
 と、手にとりあげて見ていたが、そのうちに丁坊は、
「ああ、これはたいへんなものだ。成層圏(せいそうけん)という高い高い大空のことをしらべる風船の破れたものだ。この下に機械がついているはずなんだが、どこにあるんだろう」
 そういって、彼はあたりを懐中電灯でもってさがしはじめた。
 そのとき近(ちか)くで、ふと足音が聞えたと思ったら、
「あっ、――」
 と、丁坊がさけぶひまもないほどすばやく、彼の頭の上から、なにか大きな布(きれ)がばさりと被(かぶ)さった。
「ううー」
 と、呻(うな)ってみたが、もうだめである。何者とも知らず、二三人の大人があつまってきて、丁坊のからだをかるがると抱(だ)き上げた。そして丁坊をどこかへ連れてゆく。
 そのうち丁坊は、なんだかいいにおいをかいでいると思っているうちに、たいへんねむくなった。
 どこへ連れられていったのやら、またどのくらいたったのかはしらないが、おそらくずいぶん長いことたった後(あと)なのであろうが、丁坊は、はっと眼がさめた。そのとき彼が一番はじめに気がついたのは、ごうごうという洪水(こうずい)が流れるような大きな音であった。
 なんの音だろう。
 と、思う間もなく、身体がすーっと下に落ちてゆく。
「はてな、――」
 と思うまもなく身体は停った。目を明いてみると、小さい西洋風の寝台に寝ているではないか。部屋は小さい。あたりを見ると、誰もいない。
「ここはどこだろう」
 そう思った彼は、寝台のそばに小さい丸窓のあるのに気がついて、顔をそっとその方へよせた。そのときの愕(おどろ)きくらい、丁坊にとって大きい愕きは外になかった。
「うわーっ、飛行機にのっているのだ」
 しかしその愕きは、まだまだ小さかった。彼の目がひょいと向うの方にうつると、
「ああっ、――」
 と、愕きのあまり息がとまるように思った。
 なんであろう、あれでも飛行機なのであろうか。まるで要塞(ようさい)に羽根が生えてとんでいるようだ。
 それが世にもおそろしい空魔艦とは知らず、丁坊は小窓にかじりつくようにして、向うを飛ぶその空魔艦の姿に見入った。


   空中戦のはて


 いつの間にさらわれてしまったのか、丁坊が気のついたときは飛行機のなかの寝台にねていたのだ。ところがその飛行機も、ただの飛行機ではなかった。
 空魔艦とよばれる世界一のおそろしい飛行機であった。まるでお城に翼をはやしたような、ものすごいかっこうをしている空魔艦であった。
 大砲や機関銃やらが、いくつあるのかちょっと見たくらいでは、数(かず)がわからないというたいへんな攻撃力をもっていた。
 その空魔艦のおそろしい姿を、丁坊は窓のそとに見た。そこをとんでいるのだった。丁坊ののっている飛行機も、やはり空魔艦であった。つまり二台編隊で、ゆうゆうと空をとんでいるのである。
 一体どこをとんでいるのだろう。そしてどこへゆくのだろう。
 丁坊は、窓から地上をのぞいてみた。
 見なれない景色がみえた。雪がふっていてまっしろだ。いや、氷山のようなものも見える。空は、いまにも泣きだしそうに灰色であった。
「ずいぶん北の方らしい」
 丁坊は、そのときはまだなんにも分らなかった。氷の山が見えたり雪がいちめんにふっているから、北の方の国だと思ったばかりであった。
 もしそのとき丁坊が、いま窓から下に見える土地が北極にごくちかい寒帯地方だと知ったらどんなにおどろくだろう。
 いや、そんなことにおどろかなくてもいいことになった。もっともっとびっくりすることが向うからやってきた。
 ダダダダダン。ダダダダダン。
 いきなりはげしい機関砲の音であった。びりびりと、機のなかのかべがふるえた。
 びっくりして窓からそとをみると、いつの間にあらわれたのか、上空から戦闘機が身がるにすーっとおりてくるのが見えた。
 一機ではない。二機、三機、四機、五機――みんなで五つか六つある。それがいずれも編隊をくんで、まっさかさまにこっちを狙いうちにまいおりてくるのだ。
 どどーン、どどーン。
 大きな砲門もひらいた。
 空にぱっとうすずみいろの煙が、ハンカチの包みをほおりだしたようにあらわれる。
 こっちの空魔艦からうっているのである。
 ダダダダン、ダダダダン。
 向うの飛行機からも、機関銃が火のような弾丸をぶっぱなす。ときどきこつんと音のするのは、機体に敵の弾丸があたった音にちがいない。
 フワーッと、敵機は空魔艦のまわりであざやかな宙がえりをうって逃げる。
 そこをつづいて、ダダダダンとうつ。
 おそろしい空中の戦闘だった。なぜこんなことが始まったのであろうか。


   えらいチンセイ


 まるで大象(おおぞう)を、燕(つばめ)の群(むれ)がおいまわすような恰好(かっこう)だ。――空魔艦と、敵の戦闘機(せんとうき)との空中戦は。
 空魔艦もいらいらしてきたらしい。
 うちだす砲声も銃声も、いよい、よさかんになり、そのはげしい砲火(ほうか)のため、耳もきこえなくなりそうだ。
 どどどーン。
 ダダダダダン。
 そのうちに、敵の戦闘機の一機に、こっちの弾があたったらしく、つばさがぶるっとふるえると、たちまち黒煙をあげて、きりもみになって落ちていった。
「みごとに撃墜(げきつい)だ」
 げきつい――という言葉はよくきくが、そのげきついを見るのはこれがはじめての丁坊だった。
「じつにものすごいなあ」
 丁坊は感心をした。
 それをきっかけに、空魔艦のねらいはますます正確になっていって、一機またつづいて一機もうもうたる火焔(かえん)につつまれ、いずれも地上におちていった。
 それをみるより、のこりの三つか四つの敵機もおじけがついたのか、くるっと機首をまげて、向うへとんでいった。敵は空魔艦にかなわないとみて、どんどんにげだしたのだ。そうして遂に、敵機のすがたは見えなくなった。
 空魔艦は、べつに後からおいかける様子もなく、ゆうゆうと高い空をとびつづけるのであった。
「なんという強い飛行機があったものだろうか。一体どこの飛行機なんだろう」
 丁坊はすっかり感心したり、ふしぎにおもったりした。
 空中戦がすっかりすんでしまうと、丁坊は身体(からだ)を寝台の上によこにしているのが退屈になった。
「誰かこないかなあ」
 つい、そういってひとりごとをいったときに、この寝台の室の扉がさっとひらいた。そして扉の向うからひょっくり顔を出したのは、二十五六の背広の洋服をきた男であった。
 その顔をみると、たしかに東洋人であった。丁坊は毛布にあごのところまでうずめながら少し安心した。
 その男は、腰をかがめて丁坊の額(ひたい)へ手をやった。そしてううーと呻(うな)った。丁坊は目をつぶって狸(たぬき)ねいりをしていたのだが、このときぱっと目をあいてにこにこと笑った。
 すると、背広男は、うわーっとおどろいて丁坊の前からにげだしたが、扉のところでおもいかえしたらしく、また丁坊のところへやってきた。そして丁坊の耳のところへ口をあてて、
「おれチンセイだ。この飛行機の中のありとあらゆる室を見まわっているえらい人間だ。おれをうやまったがいい。どうだ少年、もう気ぶんはなおったか」
 といった。
 チンセイのもののいい方は、日本人ではない。どうやら中国人みたいである。


   国のない国


 丁坊は寝台の上からチンセイに、ていねいに礼をいった。気ぶんもわるくはないこと、しかしおなかがたいへんへったことを話した。するとチンセイは、ぷいと座をたっていったが、まもなく金属せいの丼(どんぶり)のようなものをもってきた。そのなかからは、あったかそうに湯気(ゆげ)が立っていた。それを喰(た)べろというので、なかを見ると、うまそうな中華そばが入っていた。
 中華そばを喰べながら、丁坊はどうして自分がこんなところへつれてこられたのかときいた。
「さあ知らないね」
「でもチンセイさんは、この飛行機の各室を見まわっているえらい人だというから、知らないことはなかろう」
「うん、えらいことはえらいが、知らんことは知らないよ。しかし今に機長が話をしてくれるだろう」
「えっ、機長てなんだい」
「機長かね。機長はこの飛行機の中にのっている百二十人の人間のなかで、一等えらい人のことだ」
「ああそうか。船でいうと、船長みたいなものだね」
 と丁坊はいったが、内心にはこの飛行機に百二十人もの人間がのっているときいて、非常におどろいた。今までに、そんなに沢山の人間がのりくんでいる飛行機の話をきいたことがない。
「チンセイさん。この飛行機は、なんのためにこんな寒いところを飛んでいるのかね」
「それはわかっているじゃないか。客と荷物をはこぶためだ」
「うそいってらあ」と丁坊はやりかえした。
「だって、さっきはどこかの戦闘機とたいへん激しい空中戦をやったじゃないか。戦争をやるこの飛行機が……」
「うう、まあ待て」とチンセイはあわてて少年の口をおさえた。
「それを見たか。あれは、こんなさびしいところを飛んでいるとああいう空中のギャングがよく現れるのだ。だからこっちでも大砲や機関銃をもっていて、空中のギャングをああいう風におっぱらうんだ」
「そうかね」丁坊は、よく分らないけれど、分ったような返事をした。
「チンセイさん、この飛行機には名前がないのかい」
「名前はあるよ。それは――つまり日本語でいうと『足の骨』というんだ」
「えっ、『足の骨』! へんな名前だなあ。いったいこの飛行機は、どこの国のものなんだい」
「どこの国の飛行機?」
 チンセイの顔色が急にあおくなった。彼はいままでのように、すぐには返事をしなかった。やがて彼は、ふるえ声で丁坊の耳にそっと伝えた。
「おい、おどろくな。この飛行機はね、世界のどこの国の飛行機でもないんだ。つまり国のない国の飛行機なんだ」


   氷上の怪人


「ええっ、国のない国の飛行機(ひこうき)!」
 国のない国って、どんな国のことだろう。
 丁坊は、まるでなぞなぞの問題をだされたように思った。
 そのうちに、空魔艦はにわかに高度を、ぐっとさげはじめた。
 じつに上手な操縦ぶりだ。
 たちまち白い地上は、すぐ近くにもりあがってきた。
 下は氷でおおわれている。どうみても極地の風景であった。
 その広々とした氷の上に、ばらばらと黒い点があらわれた。よく見ると、人間らしい。
 空魔艦はエンジンの爆音もたからかに、どしんと氷上についた。
 どこかでブーブーと、サイレンがなりひびいている。
 長い滑走をしたあげく、やがて空魔艦の停ったところは、小山のような氷山の前であった。
 チンセイはあわてて部屋をとびだしていった。
 丁坊は、窓のところに顔を出して、ものめずらしげに、あたりの氷山風景をながめまわした。
 よくみると氷山の下がくりぬいてあって、大きな穴ができている。その穴が格納庫(かくのうこ)になっているらしく、空魔艦と同じ形の飛行機がおさまっている。穴の中からは、毛皮をきた人間が、ぞろぞろ出て来て、こっちへかけつけてくる。どうやらここは飛行港(ひこうこう)らしい。
 どうなることかと、丁坊は片唾(かたず)をのんで窓の外の、人のゆききをながめている。
 するとそのとき、少年のうしろの扉があらあらしく開いた。
 はっとうしろをふりかえると、防毒面(ぼうどくめん)に防毒衣(ぼうどくい)をつけた人相のわからない者が、二人ばかり入ってきた。
 なにか分らぬ言葉で叫ぶと一人が逞(たくま)しい両腕をのばして、丁坊をむずとつかまえた。
「な、なにをするんだ」
 丁坊は、力のかぎりはねまわった。が、とても大人の力に及ばない。そのうちにもう一人がもってきた袋のようなものの中に、丁坊のからだはすぽりと入れられてしまった。その袋は丁坊の首のところでぎゅーとバンドがしまるようになっていた。
 二人の怪しい男は、防毒面の硝子(ガラス)ごしに、にやりと笑ったようである。
 それから二人は、丁坊を入れた毛皮の袋を両方からかついで、飛行機の外にはこびだした。
 一体どうなることだろう。
 丁坊の運命はいまや、あやしいみちをとおっている。
 やがて丁坊の入った袋は氷上にどしんとおかれた。
 すると左右から、いずれも怪しい服をつけた人間が十四五人あつまってきて、丁坊をまんなかにぐるりとまわりをとりまいてしまった。


   危(あやう)き一命(いちめい)


 毛皮の袋の中に入れられ、首だけちょこんと外に出している丁坊を、ぐるりと取巻いた十四五名の防毒面の怪漢たちは、丁坊を指しながらなにごとか分らぬ国のことばで、べちゃくちゃと喋(しゃべ)っていた。
「なんだ。なにを騒いでいるのだろう。ははあ! 僕をどう始末(しまつ)しようかと相談しているらしいぞ」
 丁坊は、怪漢たちの心の中をそういう風に察した。
 そして、どうなるのだろうと成(なり)ゆきをみていた。はたして、しばらくすると、その中の一名が、ほかの人をおしのけて、丁坊のまえにつかつかと出てきた。そしていきなり丁坊の鼻のさきへ、ピストルの銃口をむけた。
「あッ、僕を殺そうというんだな。殺されてたまるものか。うぬッ――」
 と、丁坊は、かなわないまでも、その怪人にくいつこうと思って、一生懸命に立ちあがろうとしたが、どうして立ちあがれるものか。なにしろ丁坊は、首だけ外にだして袋の中に入っているんだから、まったく自由がきかない。くやしいが、ついにこんな見もしらぬ氷原の上で、防毒面の怪人に殺されるかと思い、丁坊は非常に無念であった。
 すると、そのとき別の人がつかつかと出てきて、ピストルを持つ人の手をおさえた。ピストルを持っていた人は怒(おこ)ったらしい。二人が争うのを見ていた残りの人も、結局ピストルをうとうとした人をおし止めた。
「なんだ! 生命(いのち)は助かったのか」
 丁坊は弱味を見せまいとしたが、さすがに嬉しかった。
 しかしはたして、それは嬉しがることであったろうか。いや、丁坊は知らないけれど、彼の一命を助けた人というのは、この氷上の怪人団の智恵袋(ちえぶくろ)といわれている人物であって、やがてこの丁坊を、死よりも、もっとつらい仕事に使おうとしているとは、神ならぬ身の丁坊は知るよしもなかった。
 やがて中国人チンセイがよばれた。
 チンセイは丁坊の張番を命ぜられたのだ。十四五人の怪人は、もう用がすんだという顔つきで、大空魔艦の格納庫の方へすたすたと歩いていった。
「チンセイさん。僕のことを、あの人たちはどういってたの?」
 と、丁坊はチンセイに話しかけた。
「うむ、何にも知らん」
 チンセイはかぶりを振った。知っていても喋ると叱(しか)られるのが、こわいという気もちらしかった。
「ねえ、チンセイさん、云っておくれよ。僕はどうせこんな風に捕虜になっていて、逃げようにもなんにも出来ない身体なんだよ。すこしぐらい、僕の知りたいと思っていることを教えてくれたっていいじゃないか」
 丁坊は、ここを先途(せんど)と、チンセイの心をうごかすことにつとめた。
 チンセイはもともとお人よしであるらしく、丁坊の言葉(ことば)にだんだん動かされてきた。
「じゃあ、話をしてやるが、黙っているんだぞ。こういうわけなんだ――」
 チンセイは、怪人たちに気取(けど)られぬよう、そっぽを向いて早口で語りだした。はたして彼はどんなことを口にして、丁坊の心をおどろかそうとするか?


   空魔艦の秘密


「おい丁坊、ほんとをいうと、おれは空魔艦『足の骨』のコックなんだ。料理をこしらえたり、菓子をつくったりするあのコックだ。おれは、お前と同じように、攫(さら)われてきたんだ。それはおれが杭州(こうしゅう)で釣をしているときだったよ。突然袋を頭から被せられてかつがれていったのだ。あれからもう三年になる。早いものだ」
 そういってチンセイは、ふかい溜息(ためいき)をした。
「チンセイさん。僕のことを早く話しておくれよう」
「おう、そうだったな」
 とチンセイはわれにかえり、
「なんでもお前は、この空魔艦の秘密を見たそうじゃないか。空魔艦がとんでいるところを見たんだろう。そういってたぜ」
「嘘だよ。空魔艦なんか、僕の村にいたときは見なかった。ただ林の中で、成層圏(せいそうけん)の測定につかった風船や器械が落ちているのを発見しただけのことだ」
「それ見ろ。そいつが困るんだ。おれは三年前、この仲間に入ったから、多少は知っているんだが、この空魔艦の一つの仕事は、あの高い成層圏を測量し、そして世界中のどの国よりも早く、成層圏を自由に飛ぼうと考えているらしい」
「なぜ成層圏なんて高い空のことを知りたがっているのかい」
「それはつまり――つまり何だろう、成層圏を飛行機でとぶと、たいへん早く飛行が出来るのだ。たとえば今、太平洋横断にはアメリカのクリッパー機にのってもすくなくとも三日間はかかる、ところが成層圏までとびあがって飛行すれば、せいぜい六時間ぐらいで飛べるんだ。ただし空魔艦ならもっと早く飛べるよ」
「へえ! 空魔艦も成層圏をとぶのかい」
「そうさ、第一あのふしぎな恰好を見ても分るじゃないか」
 丁坊はチンセイの物語に、たいへん心がひかれた。
「――だがね、僕が林の中で成層圏探険の風船がおちているのを見ていたぐらいで、さらうのは、おかしいじゃないか」
「そうじゃないよ。空魔艦が、そういうものを日本の国の上で測量しているのが知れては困るというんだ。だからお前をさらってきたんだ」
「へえ、一体、空魔艦は、どこの国の飛行機なのかね」
「うふん、また訊(き)いたね。いくど訊いても同じことだ。空魔艦は、世界のどこの国の飛行機でもないんだ。それ以上は、今は云えない。しかし気をつけたがいい、お前は逃げないかぎり日本へは帰れないだろう。あの人たちはお前を逃がさんつもりらしいぞ」
「ええッ、日本へかえさないって」
 そういっているところへ、格納庫の中で手入れをしていた空魔艦が、出発のためにしずしずと巨体を氷上にあらわした。そして例の十四五人の怪人たちが、チンセイと丁坊の待っている方をむいて駈けてきた。


   僚機(りょうき)「手(て)の皮(かわ)」


 空魔艦「足の骨」は、出発の位置についた。
 この巨機の窓という窓からは、いろいろな顔がのぞいている。しかしどれもこれも防毒面を被(かぶ)っているので、下から見ると、異様なお化けが巨人飛行機にのっているとしか見えなかった。
「さあ、はやく乗った!」
 十四五人の怪人たちは、手まねをして、チンセイに、機の中に入るように命じた。この十四五人の怪人は何者であろうか。これこそ実は、この空魔艦の主脳部の人たちであったのである。
 チンセイが乗ると、怪人は丁坊のそばによってきて、かるがると両方からぶらさげた。そして、よいこらと空魔艦のなかに積みこんだのであった。
 どこへ空魔艦は行くのか。
 爆音が高くひびくと、空魔艦は氷上に滑走(かっそう)をはじめた。ぴんと張った両翼は、どう見ても巨大ないきもののように思えてならない。そのうちに空魔艦はふわりと空中に浮いた。
 チンセイは丁坊のそばにいる。
「チンセイさん。もう一つの空魔艦は、ついてこないのかい」
「いや、一緒に来るはずだよ。ほらほら、いま滑走をやっているよ」
 丁坊は身体の自由がきかないから、外が見えない。
「もう一つの空魔艦は、なんという名前なの」
「ああ、あれかい、あれは『手の皮』というんだ」
「へえ、変な名前だね。これが『足の骨』で、もう一つのが『手の皮』かい」
「足の骨」と「手の皮」の二機は、ぐんぐん高度をあげて、北の方にとんでゆく。
「チンセイさん」
 と、また丁坊がよびかけた。
「なんだい、丁坊。ちと黙っていろよ」
「だってチンセイさん。僕はこうして、いつまでたっても毛皮の袋の中に入れられたっきりだぜ。いやになっちまうなあ。チンセイさんから頼んで、僕を袋から出してくれないか。僕はもう逃げやしないよ。日本へ帰ることもあきらめている。だけれど、こんな窮屈(きゅうくつ)な袋の中にいれられているのはいやだ。出して呉(く)れればコックのことだって、ボーイの役目だってなんなりとするよ」
 丁坊は熱心さを顔にあらわして、チンセイに頼んだ。
「そうだなあ」とチンセイはようやく本気になって、
「じゃあ一つ、機長の『笑(わら)い熊(ぐま)』さんに聞いてみてやろう」
「『笑い熊』だって?」
「ああそうだよ。それが機長の名前なんだよ。じゃおとなしくして、しばらく待っておれ、いいか」
 チンセイは背広のポケットに両手を入れたまま立ちあがった。


   難破船(なんぱせん)


 丁坊は、チンセイの帰ってくる足音を、いまかいまかと待ちつづけた。チンセイはうまく話をしてくれたかしら?「笑い熊」機長は、丁坊を自由にしてくれるかしら。
 どやどやと、入りみだれた足音が近づいてきた。チンセイ一人ではなさそうだ。ではうまく行ったのかと思っていると、扉がガチャリと明いた。
 真先に入ってきたのは、例の防毒面の怪人で、一番えらそうな人物――これこそ機長の「笑い熊」であると知られた。
 そのうしろからチンセイや、主脳部(しゅのうぶ)の怪人たちがつづいた。
 チンセイは「笑い熊」のうしろからとびだしてきて、丁坊のそばにすりよった。
「おい丁坊。機長さんに話をしたところ、お前を自由にするまえに、一つ試験をするといっているぜ。その代り、この試験に及第すれば、この空魔艦の一員にとりたててやるというのだ。しっかりやれ」
 丁坊は、うなずいた。試験もよかろう。とにかく早く自由にしてもらわねば、どうすることも出来やしない。
「笑い熊」が手をあげて合図すると怪人たちは太い針金でもって、丁坊の身体をぐるぐると捲(ま)いてしまった。
 どうするのかと思っていると、「笑い熊」がチンセイをよんで、なにごとかを命令した。
 それを聞いていたチンセイは、窓のそとをのぞいて、さっと顔色をかえた。そして丁坊のそばによって、気の毒そうな声でいった。
「丁坊、いまから試験が始まるそうだ。これからお前は、地上におろされるのだ。そしてそれから先、どんな目に遭おうとも、黙って我慢していて、後にわれわれが迎えに行くまで待っているのだ、いいか」
 地上におろされる?
 どういう風におろされるのだ。彼の身体は、いま針金でぐるぐる巻(ま)きにされている。なんだか一向わからない。
「笑い熊」が、またさっと手をあげた。
 すると怪人たちは、いきなり毛皮の袋に入った丁坊をだきあげて、窓の外に出した。
「呀(あ)ッ、――」
 目がくらくらした。はるかに何百メートル下の氷原が、きらきら光っている。
 丁坊の身体は、そろそろと下る。
 針金がだんだんのばされるのだ。針金一本が丁坊の生命の綱だ。
 おそろしい宙釣(ちゅうづ)りとなった。ぱたぱたと板のように硬い風が、丁坊の頬(ほほ)をなぐる。そして身体はゴム毬(まり)のようにゆれる。いまは遉(さすが)の丁坊も生きた心持がない。
 一体どうするのか。このまま下すのだろうか。どこへ下して、なにをさせようというのか。
 このとき丁坊は、すこしずつ近づく下界を見た。いま空魔艦は、だんだん高度を下げながら一つところをぐるぐる廻って飛んでいるようだ。
「おお、あれは何だ」
 そのとき丁坊の眼に入ったものはなんであったか?
「船だ、船だ!」
 それは船であった。氷原の真只中(まっただなか)に、氷にとざされて傾いている巨船であった。
 ああ北極の難破船(なんぱせん)! あれが着陸地らしい。
 なぜ丁坊は、そんなところへ、ただ一人で下ろされるのか!
 いよいよ奇怪な空魔艦の行動であった。


   吊(つ)り綱(づな)


 空魔艦の上から、一本の綱でもって宙につりさげられた丁坊は、気が気ではない。
 丁坊の身体こそは温い毛皮で手も足も出ないように包まれているけれど、顔はむきだしになっていて、氷のような風がびゅうびゅうと頬(ほっ)ぺたをうつ。顔一面がこわばってしまって、すっかり感じがなくなり、まるで他人(ひと)の顔のような気がするのであった。
 下はまっしろに凍(こお)りついた氷原(ひょうげん)である。
ものの形らしいのは、氷上の難破船一つであった。
「あれはどこの国の船だろうかなあ」
 もちろん檣(マスト)には、どこの国の船だかを語る旗もあがっていず、太い帆げたも、たるんだ帆綱(ほづな)もまるで綿でつつんだように氷柱(つらら)がついている。
 丁坊をつりさげた綱は風にあおられて、いまにもぷつりと切れそうだ。切れたが最後(さいご)、いのちがない。なにしろ氷上までは少なくとも七八百メートルはあるだろう。綱が切れれば、身体は弾丸のように落ちていって、かたい氷にぶつかり、紙のように潰(つぶ)れてしまうであろう。
 迫(せま)ってくるこわさに、ともすれば丁坊の気は遠くなりそうだ。目まいがする。頭はずきんずきんと痛む。
「これはとても生命はないらしい。空魔艦の乗組員はひどいやつだ」
 丁坊は、曲らない首をしいて曲げて、上を見た。空魔艦は悠々と上空をとんでいる。
「おや、また綱をくりだしているぞ」
 丁坊が出てきた窓のところから四五人のマスクをした顔がのぞいている。そしてにゅっと出た手が、しきりに綱を下へおろしている。
「いくら綱をおろしたって、とても氷の上にはいかないのに」
 そう思っているうちに、丁坊の身体は急に猛烈なスピードでどっと落下をはじめた。
「あッ、綱が切れたんだ」
 丁坊は愕(おどろ)きのため息がつまった。目を開こうと思ってもしばらくは目があかなかった。いよいよもうおしまいだ。「笑い熊」機長の大うそつきめ!
 この間(かん)数十秒というものは、丁坊が生れてはじめて味わった恐ろしさであった。
 だが、これでいよいよ自分は死ぬんだなと覚悟がつくと、こんどは急に気が楽になった。そして変なことだが、なんだかたいへん可笑(おか)しくなった。あっはっはっと笑いだしたいような気持におそわれた。
「――おや、僕は気が変になるんだな」
 気が変になるなんて、なんて情(なさけ)ないことだろうと、丁坊は歯をくいしばって残念がった。
「どうにでもなれ。これ以上、自分としてはどうすることもないんだ」
 丁坊はすべてを諦(あきら)めて、そしてこの上は、せめて日本人らしく笑って死のうと思った。ただしかし、東京にいるお母さんに会えないで死(し)ぬことが悲(かな)しい――。


   落下傘(らっかさん)


 死の神の囁(ささや)きが、丁坊の耳にきこえてきた。
「いよいよ最期(さいご)がきた。――」
と思った丁度(ちょうど)そのとたんの出来事だった。彼の身体は、急に上へひきあげられたように感じた。
「おや、――」
 びっくりして、彼は空を見上げた。
 空には、まっすぐに伸びた綱の上に、白い菊の花のような大きな傘がうつくしく開いていた。丁坊ははじめて万事(ばんじ)をさとった。
「あれは落下傘(らっかさん)だ」
 助かった助かった。落下傘のおかげで、危(あやう)い一命をたすかった。綱のさきには落下傘がついている。
「ああ、よかった。僕はすこしあわて者だったね」
 急に気がしっかりしてきた。
 空を見上げると、空魔艦はどこへ飛びさったか、あの大きな翼も見えないし、エンジンの音も聞えない。
 眼をひるがえして下を見ると、おお氷原はすぐそこに見える。難破船が急に大きくなって眼にうつった。
 ここにいたって丁坊は、機長「笑い熊」の考えがさっぱり分らなくなった。大悪人(だいあくにん)だと今の今まで思っていたが、落下傘をつけて放すようでは、善人(ぜんにん)である。
「いや、善人といえるかどうか。なにしろ下が東京の銀座とか日比谷公園でもあるのならともかく、氷点下何十度という無人境(むじんきょう)なんだ。そんなところへ落下傘でおろすような奴(やつ)は、やっぱり善人ではない」
 そうすると、やっぱり「笑い熊」を憎んだ方が正しいのであろうか。丁坊は、そのどっちであるかを一刻もはやくたしかめたいと思った。
 氷原はぐんぐん足の下にもりあがってくる。はじめは小蒸気(こじょうき)ぐらいに思えた難破船が、だんだん形が大きく見えてきて、今はどうやら千五六百トンもある大きな船に見えてきた。
 すると船上に、今まで見えなかった人影が五つ六つ現われているのに気がついた。
「ああ、人だ。あの船に人がいる」
 丁坊は嬉しかった。
 たとえ善人であろうと悪人であろうと、そんなことはどうでもいい。生きた人間がいさえすればいいのだ。氷原に誰一人として生きた人間がいなければ、このまま落下傘で下りてみたところで、丁坊は餓死(がし)するか、さもなければこの辺(へん)の名物である白熊に頭からぱくりとやられて、向うのお腹(なか)をふとらせるか、どっちかであろう。
 しかしもう大丈夫だ。生きた人間が見ている以上は自分をかならず助けてくれるであろう。
 丁坊は、はじめていつものような快活な少年にもどっていった。
 はたして丁坊の思ったとおり、彼の一命はうまくすくわれるであろうか。


   銃声(じゅうせい)


 落下傘はついて、丁坊を氷原の上になげだした。
 風があるので、丁坊のまるい身体は、氷上をころころと毬(まり)のように転(ころが)ってゆく。はやく助けてくれなければ、いまに氷の山かなにかにぶつかって死んでしまう。はやく頼む。
 そのうちに、うしろの方で思いがけなく大きな銃声がした。
 だーん、だんだだーん。
「ああ、僕を撃(う)った。やっぱり彼奴(きゃつ)らも大悪人だ。なぜ罪もない僕をうつんだ」
 丁坊は、また大きな失望と恐怖とに陥(おちい)った。しかも間もなく、彼はそれが間違いであったことに気がついた。
 なぜなら彼の丸い身体が、急にどしんと軟(やわらか)い白いものに当ったからである。それに落下傘の綱がうまくひっかかったものだから、それ以上、氷原を転がらなくてもいいことになった。その白い軟いものをよくよく見れば、それは大きな白熊だった。
 こわい!
 いや、こわくはない。その白熊は顔面をまっ赤に染めて、氷上にぶったおれていたのだ。血だ、血だ。その赤い血は、傷口からふいて氷上に点々としたたっていた。
「ああ、あぶないところだった」
 毛皮を頭からかぶった真先(まっさき)にとんできた人間が、銃の台尻(だいじり)で熊の尻ぺたをひっぱたいて、嬉しそうに叫んだ。その声は、丁坊をたいそうおどろかせた。
 なぜって?
 なぜというに、それは紛(まぎ)れもない懐(なつか)しい日本語だったからである。
 ぱたぱたと続いてかけつけた同じような服装(ふくそう)の人が五六人みな銃を手に握っている。この人たちのお蔭で、丁坊に喰いつこうと思って氷上に待っていた白熊が射殺(いころ)された。するとこの日本人たちは、あきらかに丁坊の危難をすくってくれたことになる。
「おじさん、白熊をうってくれてありがとう」
 と丁坊が大声で叫ぶと、かけつけた人たちはふりかえって愕(おどろ)きの眼をみはった。
「な、なんだって、――お前は日本語をしっているのか」
「知らないでどうするものか。見よ東海の天(そら)あけて――僕、日本人だもの」
 落下傘についていた少年が、愛国行進曲をあざやかに歌って、僕は日本人だあと叫んだのであるから、氷上の人たちはあまりの意外に眼をみはるばかりだった。
「――ああ、たしかに日本人らしい。どうしてまあ、こんな北極にちかいところへ君はやってきたんだ」
 と、最初にかけつけた男がいって、丁坊に近づこうとすると、残りの人たちがびっくりしたような顔をしてその身体をひきもどした。
「おい一木(いちき)。はやまったことをしてはならんぞ。近づいちゃいかんというのだ」
 丁坊は、はっとした。
「なんだ二村(にむら)、いいじゃないか。これは日本少年だ。声をかけてやるのが当り前だ」
「いや、いけない。お前はこの子供が、空魔艦の者だということを忘れているのだろう。かるはずみなことをして、大月大佐(おおつきたいさ)に叱られたら、どうするつもりだ」
「そうだったね、二村」
 と、一木と呼ばれた親切な人も、手をひっこめそうになった。
 丁坊は思わずはらはらと涙をこぼした。せっかく日本人にあいながら自分が空魔艦から下りてきたということのために、たいへんいやがられ、そして恐れられているのだった。やっぱり自分はひとりぽっちなのか。


   大月大佐


「おお、本船が信号をしているぞ」
 一人がうしろをふりかえって叫んだ。
「どうしたのか、わけをしらせろって、大月大佐の御催促(ごさいそく)だ」
 すると一木が、
「じゃ丁度(ちょうど)いいじゃないか。わけを報告してこの日本少年をどうしましょうと聞けやい」
「そうだったね。うむ、聞いてみよう」
 丁坊が泣きじゃくっている間に、手を使って信号がとりかわされた。
「おお、大佐は、少年を船へつれてこいていわれる。ただしそのまま担(かつ)いでこいということだ」
「それ見ろ。大佐も俺も同感らしいじゃないか」
 と一木はにやりと笑って、丁坊のところへ近づいた。
「こら、お前はこれから探険船若鷹丸(わかたかまる)へつれてゆかれる。おとなしくしていなきゃいけないぞ」
 丁坊は、黙ってうなずいた。彼の眼はいきいきと輝きを加えた。
 大勢の肩にかつがれて、やがて丁坊は難破した探険船若鷹丸についた。そして階段を下りてやがて一つの部屋につれこまれた。
 そこは事務室のようであった。大月大佐であろうか、正面にやはり毛皮を頭からすっぽりと被(かぶ)った長い髭(ひげ)の壮漢(そうかん)が、どっかと粗末な椅子に腰をかけていた。
「こっちへ連れてこい」
 大佐は一つの椅子をさした。
 丁坊はその上に、ちょこなんと載せられて、どんな問答が始まるのであろうか。気の毒にもこの難破船はもうストーブにくべる石炭や薪(まき)もなくなったと見えて、室内に氷が張っていたり天井(てんじょう)から氷柱(つらら)が下っていたりする。すこぶる困っている様子であった。
「私(わし)はこの探険船の団長大月大佐だ。お前は何者か。そしてなぜ落下傘で氷上におりてきたか。さあ、包まず話せ」
 そういわれて丁坊は、のぞむところと、いままでのいきさつをなにからなにまで話をした。
 丁坊の話を感にたえないような顔で聞いていた大佐はそこで腕組(うでぐみ)をして、
「わけが分らずに、氷原へお前は下ろされたというのだね。そしてあとから拾いにゆくといったのだな。はて空魔艦からの変な贈物だわい。一体どういうわけだろうか」
 といっているところへ、一人の船員が階段を転がるように入ってきた。
「おお、大佐、たいへんです。船腹(せんぷく)がさけました。船はめりめり壊(こわ)れています。もう間もなく――そうです、十分とたたないうちに、この船は氷の下に沈んでしまいますぜ」
「ええ、船が――船がとうとう氷に壊されたか。今までそんなけはいも見えなかったのに、どうしたんだろう。いや、これも空魔艦のなせる業にちがいない。さあ全員をよびあつめて、そしてすぐ氷上へ避難だ」
 丁坊の訊問(じんもん)どころではなく、難破船は大混乱となってすぐさま荷物の陸あげにかかった。そういううちにも、船は一センチ、また二センチと、しだいに気味わるく下ってゆく。はたしてこれも空魔艦のせいであろうか。空魔艦はどんなおそるべき仕掛をしていったのだろうか。


   最後は迫(せま)る


 若鷹丸は、刻一刻と氷の下にめりこんでいった。
 大月大佐は隊員を指揮して、船内にあった大切な器具や残り少くない食糧を氷原にはこばせた。船はだんだん傾きはじめた。船首がたかく上にもちあがって、船尾はもう氷とすれすれになった。いままで真直に立っていた檣(マスト)が、今は斜に傾いているのもまことに哀れな姿であった。
 丁坊少年は、例のとおり達磨(だるま)さんのように手も足も厚い蒲団(ふとん)のようなものにくるまれたまま氷上に置かれて、沈みゆく難破船をじっとみつめていた。久方(ひさかた)ぶりで懐しい日本人に会えた悦(よろこ)びも、この沈没さわぎで煙のように消えてしまった。どうしてこうもよくないことが丁坊の行くところへ重なってくるのだろう。
「おい皆、もっと元気(げんき)を出して頑張れ。船が沈んでしまったら、それこそ何にも取りだせないぞ」
 と大月大佐は、まだ船の上に立って、しきりに隊員をはげましていた。
「食糧と水とは全部だしました。武器や観測用具も殆んどみな出ました。こんどはエンジンを出したいのですが、どうも間にあいません」
 と隊員が大声で叫んだ。
「いや、どう無理をしてもエンジンは出さなきゃいけない。無電室に小さいのがあったじゃないか」
「あれは前から壊れているのです」
「壊れている? 壊れていても、エンジンを一つも出さないよりはましだ。出して置いた方がいい。それから椅子や卓上(テーブル)や毛布など隊員の生活に必要なものは一つのこらず出してくれ」
「ええ、そいつはもうすっかり出してあります。船の向う側へ抛(ほう)りだしてあるんです」
「無電装置は出したろうな」
「ええ、短波式のを一組、いま出しにかかっているところですが、この分じゃ間に合うかなあ」
「間に合うかなあと心配ばかりしてはいけない。無電装置はぜひ入用だ。いいからすぐ全員をその方に向けて、なんとしても取出すんだ」
「はい、承知しました」
 船員は呼笛(よびこ)につれて、傾いた甲板(かんぱん)の上を猿(ましら)のように伝わって走ってゆく。
 そのうちに、ああっという叫び声が聞えた。見よ、若鷹丸の船首はすっかり宙に浮いてしまって、さびついた赤い船底までがにょっきり上にあがってきた。それと反対に、船尾の方はまったく氷の下に隠れてしまった。いまや若鷹丸は沈没の直前にあった。
「あ、危い。――もう駄目だ。皆、下りろ、早く!」
 大月大佐は舷(ふなばた)につかまったまま、船内にむかって怒鳴(どな)った。


   沈没


「おいどうした。皆、早く甲板へ駈(か)けあがれ。そして氷の上にとびおりろ。おい、どうしたんだ」
 無電室へとびこんだ隊員たちは、だれ一人として姿(すがた)をあらわさなかった。ただ、よいしょよいしょという掛け声だけがする。
 隊員たちは、いまや決死の覚悟で無電装置を搬(はこ)びだしているところらしい。
「これはいけない。皆逃げおくれてしまうぞ」
 大月大佐は舷(ふなばた)をはなれて、無電室の方へ匍(は)いよった。そのときは氷原がもうわずかに目の下一メートルばかりに見えた。
「おい皆、早く逃げろ。無電装置よりは人命の方が大事だぞ」
 その声が無電装置をうごかすのに夢中の隊員の耳にやっと通じたものか、おうという返事があった。
「おい、最後の努力だ。さあ力を合わせて、そら、よいしょ」
 どどどどっという足音とともに、嬉しや無電室から大勢の姿があらわれた。彼等が周囲からささえているのは、最後まで望みを捨てなかった無電装置だ。
 彼等は室外に出ると、只ならぬあたりの光景に気づいて、一せいにうむと呻(うな)った。いつも見なれてきた平らな甲板は、今は立て板(いた)のように傾いている。またずっと下にあった氷原が、手にふれんばかりの近さに盛りあがっている。
「おい、もう一秒も余すところがないぞ。思いきって氷上にとびおりろ」
 と大月大佐は必死になって怒鳴った。
「わっ、――」
 一同は無電装置を舷から外に押しだした。そいつはうまく氷の上にひっかかった。その代り隊員の姿は氷の下に隠れた。
「おい、なにをぐずぐずしているんだ。船首の方へ匍いあがれ。そして氷にとびつくんだ」
 大佐は手すりにぶらさがって叫んだ。
 もういけない。めりめりという船腹をくだく物凄い音響だ。これに入り乱れて、氷片を交えた北極の黒い海水が、ごぼごぼと下から泡(あわ)をふいて湧(わ)きあがる。
 逃げそこねた隊員は、最後の力をふりだして、滑(すべ)る甲板をよじのぼる。
 黒影(こくえい)が一つ、また一つ、氷上(ひょうじょう)にとびだしてゆく。
「もういないか、誰だ、残っているのは」
 大月大佐は、隊員の身の上を心配して、まだ舷の手すりにつかまっている。危険きわまりない芸当だった。ただ大佐は船首に近い位置にうつっていたので、残った隊員よりはずっと氷の上に出ていた。
「隊長、あぶないです。もうとびおりて下さい」
 氷上では、無事に避難した隊員が手をふりながら、口々に大月大佐に飛びおりるようにすすめる。
「まだ誰か残っている。もう二人いる。おい頑張れ。俺は、お前たちが出ないまでは、ここにつかまって見ているぞ」
 隊長大月大佐は一身を犠牲にして、逃げおくれた二人の隊員を元気づけた。
「おお、ううん、ううん」
 二人の隊員は隊長の声に元気づいた。そして無我夢中で断崖(だんがい)のように見える傾いた甲板をよじのぼった。
「もう一息だ。それ、頑張れ。一木に二村!」
 隊長の声は、ますます大きくなる。
「よ、よいしょ。うぬっ!」
 とうとう一木が氷上にとびついた。つづいて二村が飛んだ。
 そのころ、まるで棒立ちになった若鷹丸は、そのまま矢のように海中に沈んでいった。
「あっ、隊長、危い!」
 隊員たちが異口同音(いくどうおん)に叫んで、手で眼を蔽(おお)ったとき大月大佐の巨体は、もんどりうって氷上に転がった。
 と、それと入れ替えのように、若鷹丸の船影は、全く氷上から姿を消し、海底ふかく沈没してしまった。
 もう五秒も遅れると、大月大佐の身体は船体もろともに、氷の下にひきずりこまれたであろう。全く間一髪という危いところで大佐の生命は救われた。隊員おもいの大佐に、神様が救いの手をさしのべたせいであろう。
 丁坊はこの息づまるような避難作業の一部始終を、魅(み)いられるように氷上でみつめていたが、隊長が最後に救われたと知った瞬間、両眼から涙がどっと湧(わ)いてきて、眼の前がまったく見えなくなってしまった。
 なんという感激すべき人達だろう。さすが日本人だ。


   天幕生活(テントせいかつ)


 若鷹丸の沈んだ跡は、しばらくのうちは氷が船の形に明いていて、黒い水が淀(よど)んでいたけれど、そのうちにどこからともなく氷片がぶくぶくと浮いて来て、次第に白く蔽(おお)われていった。
 氷上には、早速(さっそく)天幕(テント)が急造された。大きいのが一つに、小さいのが三つできた。
 大きい方には、大月大佐以下二十名の隊員が入り、小さい三つの天幕には、陸あげされた器械や器具などが入れられた。
 大月大佐は、大きい天幕の中に新しくつくられた席に腰をおろすと、
「おい、さっきの空魔艦から降ってきた日本少年をひっぱってこい」
 と命じた。
 達磨(だるま)のような姿の丁坊は、左右から二人の隊員によってひっさげられ、隊長の前にひきすえられた。
「どうだ、丁坊――といったな。若鷹丸はとうとう沈んでしまった。お前はいい気持だろう」
「えっ、なんですって」
 丁坊は自分の耳をうたがって、大佐の言葉を聞きかえした。
「お前は、いい気持だろうというんだ」
「すこしもいい気持ではありません。僕、たいへん口惜(くや)しいです。隊長そんなことを、なぜ僕にいうのですか」
 すると大月大佐は、少年の顔をぐっと睨(にら)みつけて、
「お前にはよく分っているじゃないか。お前は空魔艦の廻(まわ)し者だ。そして若鷹丸を沈めにきたということはよく分っている」
「なんですって、隊長さん。ぼ、僕は日本人ですよ、空魔艦に攫(さら)われた者ですよ。空魔艦を恨(うら)んでも、どうして同国人である隊長さんなどに恨(うら)みをもちましょう」
「ごま化してはいけない。じゃあ聞くが、なぜ空魔艦はお前をこの若鷹丸の難破しているところへ落下傘で下ろしたのだ。その理由を説明したまえ」
 丁坊はそういう風なことを聞かれて、全く困ってしまった。大佐は自分のことを空魔艦の廻し者だと思って、気をゆるさないのだ。


   秘密の仕掛


「僕、なんにも知らないのです。なぜこんなところに下ろされたか知らないのです。もし知っていれば同じ日本人の隊長さん方に喋(しゃべ)りますとも」
「いや、儂(わし)には、お前が本当に日本人かどうかということが分らないのだ」
「ええっ、僕が日本人でないかも知れないというのですか。ああ、そんな馬鹿なことがあるものですか。僕は立派な日本人です」
 丁坊はわっと泣きだした。そうであろう。そのくやしさは尤(もっと)もだった。日本人が日本人でないと疑われるくらい情けないことがあろうか。
 大月大佐は、丁坊の眼からぼたぼた流れる涙をしばらく見つめていたが、やがて、
「――お前が日本人であることがはっきりわかるか、それとも空魔艦がなぜお前を下ろしたかその理由(わけ)が分るか、そのどっちかが分らない間は安心(あんしん)していられないのだ」
 と云って溜息(ためいき)をついた。
 丁坊が日本人であることは、丁坊自身ばかりではなく、読者もよく知っている筈だ。しかし読者がもし丁坊のような場合にであったとしたら、どうして見ずしらずの他人の前に出て、自分は日本人だという証明をなさるであろうか。なんでもないように見えて、それはなかなかむずかしいことだ。
 もう一つ、空魔艦がなぜ丁坊を下ろしたかという疑問は、これは空魔艦の幹部にきいてみないと分らない。
 しかしそれは、いま空魔艦のなかでどんな光景がひろげられているかを説明すれば、容易にわかることだった。
 ではその方へ、物語を移してみよう。
 ここは例の氷庫(こおりぐら)の前の、空魔艦の根拠地であった。
 丁坊をとらえた方の空魔艦「足の骨」の機長室では「笑い熊」と称(よ)ばれる機長が、マスクをしたまま一つの機械をいじっている。そのまわりには、六七人の幹部のほかに、中国人チンセイも加わって機械を注視している。
「こっちの機械はよく働いているんだから、もうそろそろ聞えてきてもいい筈だ」
 と「笑い熊」はいった。
 暫(しばら)くすると、その機械から、ぼそぼそと語りあう話声がきこえてきた。
「笑い熊」は緊張して、機械の目盛盤(めもりばん)をしきりに合わせた。
“隊長さん。なぜあなたがたは、こんな北極まで探険にこられたのですか。その目的はどんなことなのですか”
 そういう声は、紛(まぎ)れもなく丁坊の声であった。なぜ丁坊の声がきこえてくるのか。

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