太平洋魔城
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著者名:海野十三 

   怪しい空缶


 どういうものか、ちかごろしきりと太平洋上がさわがしい。あとからあとへと、いくつもの遭難事件が起るのであった。
 このことについて、誰よりもふかい注意をはらっているのは、わが軍令部の太平洋部長であるところの原大佐であった。
 その原大佐は、いましも軍令部の一室に、一人の元気な青年と、テーブルをかこんでいるところだった。
「おい太刀川(たちかわ)。この次々に起る太平洋上の遭難事件を、君たちはなんとみるか」
 力士のような大きな体、柿の実のようないい艶(つや)をもった頬、苅りこんだ短い髭、すこし禿げあがった前額(まえびたい)、やさしいながらきりりとしまった目鼻だち――と書いてくれば、原大佐がどんなに立派な海軍軍人だか、わかるであろう。
「さあ、――」
 太刀川青年は、膝のうえに拳をかためた。なんのことだか、よくわからない。
 いま原大佐からきいたところによると、この春、太平洋横断の旅客機が行方不明になってしまった事件がある。それから間もなく、四艘から成るわが鰹船の一隊が、南洋の方に漁にでたまま消息を絶ってしまった。つい最近には、ドイツ汽船が、「救助たのむ」との無電を発したので、附近を航行中であったわが汽船が、時をうつさず現場におもむいたところ、そのドイツ汽船のかげもかたちもなく、狐に化かされたようであったという話がある。
 よく考えてみると、なるほどちかごろ太平洋上に、しきりとふしぎな遭難事件がくりかえされている。しかし太刀川には、なぜそんなことが起るのか、よくわからなかった。そもそも彼は、水産講習所を卒業後、学校に残って研究をつづけていた若き海洋学者であって、海の学問については知っているが、原大佐からたずねられたような海の探偵事件について考えてみたことがなかった。
 大佐は、眉をぴくりとうごかし、
「いままでに起った事件は、まあそれとしておいて、きょう君にきてもらったわけは、もっと生々しいことだ。ごらん。こういうものがあるのだ」
 そういって原大佐は、さっきから話をしながら指さきでいじっていたはげちょろの丸い缶を、太刀川青年の前におしやった。
「はあ。この缶は、一体どうした缶ですか」
 太刀川はけげんな顔をして前に出された缶をみた。それは、彼の掌のうえに、ちょうど一ぱいにのる小さな缶だった。その缶の胴には、一たん白いエナメルをぬりこみ、そのうえに赤黒青のきれいなインキで外国文字を印刷してあるものだったが、白いエナメルの地はところどころはげていて、これまでにずいぶん手荒くとりあつかわれたことを物語っていた。
 手にとって、缶の胴に印刷されてある文字をひろい読んでみると、それはどうやら高級の油が入っていたものらしく、缶の製造国は日本ではなくて、アメリカであると知れた。缶は、なにか入っているのか、たいへん軽かった。そして缶を横にすると、中でことんことんと音がするものがあった。太刀川はその缶に、たいへん興味をひかれたが、さて何のことだかさっぱり見当がつかない。
 その様子をみていた原大佐は、太い指をだして缶の蓋をさし、
「かまわないから、その缶をあけてみたまえ。そして中にあるものをよくしらべてみたまえ」
「あけていいのですね」
 太刀川は、お許しがでたので、さてなにが出てくるかと、たいへんたのしみにしながら、缶の蓋を力まかせにこじあけた。
 蓋は、あいた。
 中をのぞくと、白い紙片を折りたたんだものがでてきた。それをつまみだすと、まだ缶の中に入っているものがある。缶をさかさまにすると、ごとんと掌のうえにころがり出たものは、ずっしり重い鉄片であった。その大きさは一銭銅貨ぐらいだが、厚さはずっと厚く、そして形はたいへんいびつで、砲弾の破片のようにおもわれた。しかもこの鉄片は、鉄のような色をしていないで、なにか赤黒いねばねばしたものに蔽(おお)われていた。まったく不思議な鉄片であった。缶の中には、そのほかになんにも入っていない。
 折りたたんだ紙片と、汚れた鉄片!
 この二つが缶の中から出てきたのである。
「その紙片をひらいて、そこに書きつけてある文章を読んでみたまえ」
 原大佐がいった。
「はあ、――」
 太刀川は、紙片をひらいた。とたんに彼は口の中で、おもわず、あっと叫んだ。


   太平洋の怪


 太刀川青年は、紙片をひらいて、何におどろいたのであろうか。
 それはほかでもない。その紙片が、たしかに人の血とおもわれるもので、汚れていることだった。血に染まった指の跡が、点々としてついている。そしてそこには鉛筆で、走書(はしりがき)がしてある。その筆跡は、いかにもたどたどしい。たどたどしいというよりも、気がかーっとしていて、夢中に鉛筆を走らせたといった文字だ。それをひろって読んでみると、こんなおどろくべきことが書いてあった。
“――十二日アサ、海ノ色、白クニゴル。ソレカラ一時間ノチ、左舷前方ニトツゼン大海魔アラワレ、海中ヨリ径一メートルホドノ丸イ頭ヲモタゲ、ミルミル五十メートルホドモ頸ヲノバシタ。ランランタル目、ソノ長イ体ハ、波ノウエヲクネクネト四百メートルモ彎曲シ、アレヨアレヨトオドロクウチ、口ヨリ火ヲフキ、鉄丸ヲトバシ、ワガ船ハクダカレ、全員ハ傷ツキ七分デ沈没シタ。カタキヲタノム。ノチノショウコニ、ワガ足ノ傷グチカラ、破片ヲヌキダシ、コノ缶ニイレテオク。第九平磯丸、三浦スミ吉、コレヲシルス”
 なんというおどろくべき遭難報告であろう。だが、ここに書いてあることが、にわかに信じられるだろうか。大海魔があらわれ、首を五十メートルももたげ、波のうえにのびた身長が四百メートルもあったなどとは、本当のことだと信じられるだろうか。これでは、まるで昔のお伽噺(とぎばなし)に出てくるような大海蛇そっくりである。この科学のさかんな世に、誰がそんなばかばかしい海魔を信ずることができるだろうか。新しい海の学問をおさめた太刀川時夫には、ほらばなしとしかうけとれなかった。
「これはいたずらずきの者が書いた人さわがせの手紙ではないのでしょうか」
 太刀川は、思っているままを、原大佐にいった。大佐は、首をかるく左右にふって、
「ところが、そうも考えられないのだ。第一それを書いた第九平磯丸という船は、たしかに船籍簿にのっているし、船の持主のところへいって調べると、たしかに漁にでているとのことだった。また三浦須美吉という漁夫もたしかに乗りこんでいったそうで、このへんのことは、実際とよくあうのだ。するとこの手紙は本当のようにおもう」
「原大佐は、そんな魔物が、太平洋に棲んでいるとおもわれるのですか」
「だから君を呼んだのだ」
 と原大佐は、きっぱりいった。
「私をお呼びになって、それでどうなさるおつもりなんですか」
「ひとつ君にくわしく調べてきてもらおうと思うのだ」
「化物(ばけもの)探検ですか。この私が……」
 太刀川はおどろいて聞きかえした。
「いや、まだそれは化物ときまったわけではない。化物かどうかを、君にいって調べてもらいたいのだ。わが海軍としては、太平洋の護(まもり)は大切このうえもない。そこへ化物が出てくるというのでは、困るのだ。とにかく、化物であるかないかを、われわれは一刻もはやく知りたいのだ。部内から軍人などをえらんで向こうへやると、列強のスパイにすぐ気(け)どられてしまう。だが[#「だが」はママ]君のように、こっちと従来関係のなかった人をえらんで、現場へおくりたいのだ。それには君が一番適任だとおもう。御苦労だが一つひきうけて、海魔の正体を調べてきてくれ」
 太刀川は大佐の言葉をじっと聞いていたが、やはり駄目だという風にかぶりをふり、
「私はお断りいたします。化物探検などというそんな架空な、そして不真面目(ふまじめ)なことをやるのはいやです」
 青年は、きっぱりと大佐の頼みを断った。
 原大佐は、それを聞いて、怒るか、それとも失望するかと思いのほか、いよいよ満足らしい笑をうかべて、
「ほう、なかなか強硬だな。君のその真面目な性格を見こんでいればこそ、あえて私はそれを頼むのだ」
「まことに失礼とは思いますが、この事ばかりはどうかお許しください」
「それはどうかと思う。おい太刀川。君はたいへん思いちがいをしているぞ。架空だとか不真面目とかいうが、そんなものではない。私はこれが実際そうあり得ることではないかと思うから、君に調べ方を頼むのだ。第一考えてもわかるだろう。わが海軍が、そんな不真面目なことを命令するだろうか。断じて否である。今日の国際情勢を見なさい。世界列強は、いずれも競争で武装をしているではないか。科学のあのおそろしい進歩をごらん。これからの戦争には、なにが飛びだしてくるかわからないのだ。野心に眼(まなこ)を狼のように光らせている国々がある。それに対し、われわれは、極力警戒をしなければならないのだ。この手紙は、漁夫の書いたものではあるが、ともかく太平洋の怪事をしらせているのだ。この空缶は、わが琉球のある海岸に流れついたものである。太平洋は、わが大日本帝国の東を囲む重大な区域だぞ。太平洋の怪事を、そのまま放っておけると思うか。漁夫の目には、それが化物に見えたかしらぬが、科学者である君が見れば、それは科学の粋をつくした最新兵器であることを発見するかもしれない。そこだよ、大切なところは。これほど真面目な重大な使命が、ほかにあるだろうか。国防の最前線に立つ将校斥候(せっこう)を、あえて君は不真面目というのか」
 大佐の言葉は、一語一語、火のように熱かった。


   貴重なステッキ


「ああ恐れいりました。私が考えちがいをしておりました」
 太刀川は、はっとテーブルのうえに顔をすりつけて、大佐にあやまった。
 原大佐の顔に、微笑がうかんだ。
「おお、わかってくれたか。太刀川」
「はい、わかりました。私をお選びくださって、忝(かたじけの)うございます。皇国のために、一命を賭けてこの仕事をやりとげます」
「おお、よくぞいった。それでこそ、私も君を呼んだ甲斐があった」
 と、大佐はつと起立すると、太刀川の方へ手をのばした。二人の手はがっちりかたく握りあわされた。二人の眼は、しつかり相手を見つめていた。大きな感激が、大佐と青年との心をながれた。
 やがて二人は、また席についた。
「原大佐。それで私は、どういう事をすればよいのですか」
「うん、そのことだ。いずれ後から、くわしく打合わせをするが、まず問題の場所だ。これは今もいったとおりこの空缶は、流球のある海岸にうちあげられたのだ。どうしてそんな場所へうちあげられたかをいろいろ研究してみると、謎の空缶の投げ込まれた場所は、北赤道海流のうえであると推定されたのだ」
「はあ、北赤道海流ですか」
「そうだ。君も知っているとおり、この北赤道海流というやつは、太平洋においては、だいたいわが南洋諸島の北側にそって東から西へ流れている潮の流だ。それはやがて、フィリッピン群島にあたって北に向をかえ、わが台湾や流球のそばをとおり、日本海流一名黒潮となる。だから、もし南洋附近の潮の道に空缶を投じたものとすれば、潮にのって押しながされ、琉球の海岸へうちあげられてもふしぎでない」
「そのとおりですね」
「だからあやしいのは、その北赤道海流のとおっている南洋のちかくだということになる。そこで君は、香港までいって、香港から出る太平洋横断の旅客機にのりこみ、アメリカまで飛んでもらいたい」
「え、旅客機で、太平洋横断をするのでありますか」
「そうだよ。あの旅客機は、幸いにもちょうど北赤道海流の流れているその真上を飛んでゆくような航空路になっている。君は機上から、一度よく偵察をするのだ。その模様によって、第二の行動をおこすことにしてくれたまえ」
「はい。誓って任務をやりとげます」
 ここに太刀川青年は、特別任務を帯びて、謎の太平洋へ出発することとなった。
 その前三週間、彼は短期ながら、偵察員としての特別の訓練をうけた。早くいえば探偵術を勉強したのである。
 いよいよ出発の日、原大佐は太刀川青年をよんで、最後の激励の言葉をのべ、そのあとで、
「おい太刀川。君にぜひとも持ってゆかせたいものがある。これだ。これをもってゆけ」
 といって、渡したものがあった。それはチョコレート色の太いステッキであった。
「これはステッキですね。ありがたく頂いてまいります」
「ちょっと待て。このステッキは、見たところ普通のステッキのようだが、実はなかなかたいへんなステッキなのだ」
「え、たいへんと申しますと」
「うん。このステッキの中には、精巧な無電装置が仕掛けてある。これをもってゆき、こっちと連絡をとれ。しかし、むやみに使ってはならぬ」
「はい、これは重宝なものを、ありがとうございます」
「なお、このステッキは、いよいよ身が危険なときに、身を護ってくれるだろう。あとからこの説明書をよんでおくがいい。しかしこれも、むやみに用いてはならない」
 といって、原大佐は一冊の薄いパンフレットをわたしたが、どこからどこまでも行きとどいたことであった。
「では、いってまいります」
「おお、ゆくか。では頼んだぞ。日本を狙う悪魔の正体を、徹底的にあばいてきてくれ。こっちからも、必要に応じて、誰かを連絡のために向ける。とにかく何かあったら、その無電ステッキで知らせよ。こっちの呼出符号は、そこにも書いてあるとおり、X二〇三だ」
「X二〇三! ほう、二十三は、私の年ですから、たいへん覚えやすいです」


   乱暴な怪漢


 熱帯にちかい香港に、太刀川青年がぶらりと姿をあらわしたのは、七月一日であった。壮快な夏であった。海は青インキをとかしたように真青であり、山腹に並ぶイギリス人の館の屋根はうつくしい淡紅色であり、そしてギラギラする太陽の直射のもと、街ゆく人たちの帽子も服も靴も、みな真白であった。どこからともなく、熱帯果実の高い香がただよってくる。
 太平洋横断アメリカ行の飛行艇サウス・クリパー号は、湾内にしずかに真白な翼(つばさ)をやすめていた。それはちかごろ建造された八十人乗りの大飛行艇で、アメリカの自慢のものだった。
 太刀川は、四ツ星漁業会社の出張員という身分証明書で、この飛行艇の切符を買うことができた。
 七月三日、いよいよサウス・クリパー機の出発の日だ。
 太刀川は、朝九時、一般乗客にうちまじり、埠頭からモーター・ボートにのって、飛行艇の繋留(けいりゅう)されているところへ急いだ。
 モーター・ボートが走りだしてから、太刀川はあたりをみまわしたが、まるで人種展覧会のように世界各国の人が乗りこんでいる。アメリカ人イギリス人はいうに及ばず、ドイツ人やイタリヤ人もおれば、インド人、黒人もいる。また顔の黄いろい中国人もいた。日本人は、彼一人らしい。
「ああ痛! ああ痛! 足の骨が折れたかもしれねえぞ。だ、誰だ、俺の足を鉄の棒でぶんなぐったのは」
 太刀川の[#「 太刀川の」は底本では「太刀川の」]耳もとで、破鐘(われがね)のような大声がした。それとともに、ぷーんとはげしい酒くさい息が、彼の鼻をうった。すぐ隣にいた大男の白人が、どなりだしたのであった。ひどく酔っぱらっている。このせまい艇内では、どうなるものでもない。
 太刀川は、面倒だとおもって、酔っぱらい白人の肘でぎゅうぎゅうおされながらも、彼の相手になることを極力さけていた。
「な、なんだなんだ。誰も挨拶しねえな。さては俺を馬鹿にしやがって、甘く見ているんだな。俺ががさつ者だと思って、馬鹿にしてやがるんだろうが、金はうんと持っているぞ、力もつよい。えへへ、りっぱな旦那だ。それを小馬鹿にしやがって――」
「おいリキー。おとなしくしていなよ」
 リキーとよばれたその酔っぱらいの向こう隣に、身なりの立派な白人の老婆がいて、リキーをたしなめた。
「だって、大将――いや、ケント夫人! 俺の足の骨を折ろうとたくらんでいる奴がいるのでがすよ。我慢なりますか」
「おいリキー。あたしは二度いうよ。おとなしくしておいでと」
 この老夫人の言葉は、たいへん利いた。リキーは、ううっと口をもぐもぐさせて、ならぬ堪忍を自分でおししずめている様子だった。リキーには、この老夫人が、苦手らしい。それは多分リキーの主人でもあろうか。
 この老夫人ケントは、たいへん立派な身なりをしていたが、この暑いのに、すっぽりと頭巾をかぶり、そしてよく見ると、顔中やたらに黄いろい粉がなすりつけてあり、また顔中方々に膏薬を貼ってあった。ことに、鼻から上唇にかけて、大きな膏薬がはりつけてあり、そのせいかたいへん低い鼻声しか出せない。太刀川は、ケント夫人が皮膚病をわずらっているのであろうと思った。お金がうんとあっても、病気に悩んでいるらしいこの老夫人に同情の心をもった。
「やや、なんだ、鉄棒かとおもったら、この安もののステッキが、俺の向脛(むこうすね)をぐりぐりぶったたいていたんだ。けしからんステッキだ」
 酔っ払いのリキーが、またどなりだした。そのとたんに、太刀川がついていたステッキが、あっという間につよい力でもぎとられた。リキーは、それを頭上にさしあげた。
「このステッキは、誰のか。俺の向脛を折ろうとしたこのステッキは、一体誰のか。さあ名乗らねえと、あとで見つけて、素っ首をへし折るぞ。ええい、腹が立つ、この無礼なステッキを海のなかへ叩きこんでしまえ」
 リキーは乱暴にも、ステッキを海中へ投げこもうとした。
「待て。それは僕のステッキです」
 太刀川は、さっきから、そのことに気がついていたが、どうしたものかと考え中であった。大任を持つ身の[#「持つ身の」はママ]、こんな小さなことで喧嘩したくはなかったが、原大佐から親しくさずけられた貴重なステッキを奪われ、海中になげこまれたのではもう我慢ができない。
「な、なんだ。貴様のステッキか。じゃ貴様だな、俺の向脛を叩き折ろうとしたのは。さあ、なぜ俺を殺そうとしたか。この野郎、ふざけるな」
「ステッキをかえしてくれたまえ」
「いや、駄目だ。おい放せ。ステッキは捨ててしまう」
「いや、かえしてください」
 太刀川は大男の手からステッキをもぎとった。
 これを海中へ捨てられてなるものか。
「あ痛。うーん、貴様、案外力があるな。よし、それなら決闘を申しこむぞ。俺はこのモーター・ボートが飛行艇につくまでに貴様の息の根をとめにゃ、腹の虫がおさまらないのだ。さあ、来い」
「リキー、およしよ。三度目の注意だよ」
 老夫人が、にがにがしい顔で、リキーの横腹をついた。リキーは、いまや太刀川の頭上に、栄螺(さざえ)のような鉄拳をうちおろそうとしたところだったが、このときうむと唸(うな)って、目を白黒、顔色がさっと蒼ざめて、その場にだらんとなってしまった。
 太刀川は意外な出来事に眼をみはった。彼は、リキーになにもしないのに、伸びてしまった。結局、老夫人ケントがリキーをどうかしたらしいのであるが、あの弱々しい老夫人には似合わぬ腕節(うでっぷし)であった。
 あやしい老夫人の腕力!


   暗号無電


 太刀川は、飛行艇にぶじ乗りうつることができた。
 飛行艇サウス・クリパー号は、六つの発動機をもっている巨人艇である。見るからに、浮城といった感じがする。
 金モールのいかめしい帽子を、銀色の頭髪のうえにいただいているのが、艇長ダン大佐だった。彼は欧州大戦のときの空の勇士の一人として有名な人物だった。
 太刀川が入った客室には、二十四人の座席があった。彼が座席番号によって、自分の席をさがしていると、ダン艇長がつかつかとやって来て、
「おお太刀川さん。あなたの座席はここですよ」
 といって、自ら案内してくれた。それは室の一番隅の席であった。
「やあ、すみません」
「いえ、こんなところでお気の毒ですが、きまっているので我慢してください。私はニューヨークの郊外に家をもっていましてね、私の家の隣が、あなたの勤めていらっしゃる四ツ星漁業の支店長花岡さんのお宅なので、いつも御懇意にねがっているのですよ。あなたもどうか、御懇意にねがいます」
 そういってダン艇長は、大きな手で、太刀川の手を握った。知人のない太刀川は、思いがけない艇長の言葉に、たいへん嬉しさを感じた。
 室内へ入ってくる乗客をじっと見ていると、ずっと遅れて、例の酔っぱらいリキーとケント老夫人とが入ってきたのには、ちょっと不愉快になった。
「さあ、どけ。こんなところで何をしてやがる」
 たちまち室内にひびきわたるリキーの怒号の声!
 間違ってリキーの座席にすわっていた若いインド人夫妻が、締め殺されるような悲鳴をあげて、太刀川のいる方へ逃げてきた。
「どうしました。あなたがたの座席番号は?」
 と、太刀川がきいてやると、二人はよろこんで、まだぶるぶる慄える手に二枚の切符をもって、さしだした。
「四十七号と四十八号。それなら、私の前です。私は五十号ですから」
 インド人夫妻は、うれしそうに、いくども礼をいって、太刀川の前に座をとった。
 眼をあげて、リキーの方をみると、かの二人はようやく落ちついたようであった。すなわち、太刀川のいるところと真反対の一番隅に、老夫人がふかく腰をおろし、通路に近い方に酔っぱらいのリキーがすわっている。
 そのうちに、出発の時刻がだんだん迫ってきた。
 はげしく、賑やかに銅鑼(どら)が鳴りだした。乗客たちは、飛行艇の窓から外をのぞきながら、小蒸気の甲板にいる見送人と手をふり、ハンケチをふって、別れの挨拶をする。
「出航用意!」
 艇長ダンの声が聞えた。
 太刀川の席のすぐ向こうに、艇長室があるらしく、彼の命令する声がひびいてくる。しかしこれはよく調べてみると、艇長室と彼の席のすぐうしろの壁との間に空気ぬきのパイプが通じていて、それがあたかも伝声管のような役目をして、向こうの声がこっちへ伝わってくるものだとわかった。
 発動機は、轟々(ごうごう)と音をたてて廻りだした。いよいよ太平洋を西から東へ、一万四千キロの横断飛行が始るのである。
「出航!」
 号令とともに、飛行艇は海上をすべりだした。
 スピードは、ぐんぐんあがる。
 艇のあとにひいた夥(おびただ)しい泡が、はたとたち切れると、艇はすーっと浮きあがった。空中の旅が始ったのである。見下す海面は、ガラス板のように滑らかであった。
 どこかで、無電をうっているらしい音が、しきりにする。
 ふりかえると、いつの間にやら、香港一帯が箱庭の飛石のように小さくなった。発動機の振動が、微かに座席にひびいてくるぐらいで、全く快い空の旅であった。
 酔っぱらいのリキーは、大きな鼾(いびき)をかいて寝こんでしまった。老夫人もその隣で、じっと睡(ねむ)っているらしい。室内では、乗客たちがだいぶん落ちついて、あっちでもこっちでも、しずかな談話をはじめたり、チョコレートの函をひらいたりしている。しかし艇員が出入に防音扉をあけるごとに、轟々たる発動機の音が、あらゆる話声をふきとばしてしまう。だが、なんという穏やかな空の旅であろう。
 それから一時間たった。
 艇は、針路を南東にとって、一路マニラにむけて飛行中であった。すでに陸地はとおくに消えてしまって、真青な大海原(おおうなばら)と、空中にのびあがっている入道雲との世界であった。その中を、飛行艇サウス・クリパー機は翼をひろげ悠々と飛んでゆく。
「艇長、本社から無電です」
「なんだ、ニューヨークの本社からか。ほう、これは暗号無電じゃないか、なにごとが起ったのか」
 艇長は、しばらく黙っていた。暗号を自分で解いているらしかった。
「事務長をよべ」艇長の声は、甲高い。
「艇長、お呼びでしたか」
「うん。本社からの秘密無電だ。えらいことになったぞ。これを読んでみろ」
「はい」事務長は電文を読みだした。
「貴艇内に、共産党員太平洋委員長ケレンコおよび潜水将校リーロフの両人が乗りこんだ。監視を怠るな。マニラにて両人の下艇をもとめよ。あとの太平洋飛行は危険につき、当方より命令するまで中止せよ」
 事務長の顔は、真青になった。
 艇長ダン大佐の眉に心配の皺(しわ)がよった。
「どういたしましょう」
「飛行中、この飛行艇を爆破されるおそれがある。困った」
「しかし艇長、その無電は間違いではないでしょうか。ケレンコにリーロフなんて、そんな名前は艇客名簿にのっていません」
「いずれ変名をしているんだろう。まずその両人を見つけることが第一だ」
 さっきから、この会話を聞いていた太刀川の眼が、きらりと光って、向こうの隅に睡っている酔っぱらいリキーと老夫人ケントのうえに落ちて、じっとうごかなくなった。
 太平洋横断の、しずかなる空の旅とおもっていたが、いまやこのサウス・クリパー機上の百人近い命は、最大危険にさらされていることがわかったのである。
 ニューヨーク本社が慄えあがった共産党員太平洋委員長ケレンコとは、一体何者であろうか。彼は何を画策しているのであろうか。
 帝国の国防のため重大使命をおびている武侠の青年太刀川時夫は、はからずもたいへんな飛行艇の中に乗りこんだものである。
 さあ、どうなる? 太平洋横断の飛行艇サウス・クリパー機の運命は!


   大捜査


 おそろしい二人の共産党員が、このサウス・クリパー艇の乗客のなかに、名を変えてまぎれこんでいるというのである。
 一体だれが共産党太平洋委員長ケレンコであり、まただれが潜水将校リーロフなのであろうか。
 太刀川時夫は、空気ぬきのパイプから洩れてくる艇長室の声に、じっと耳をかたむけている。
「おい、事務長」
 ダン艇長の声だ。それはなにごとか決心したらしい強い声だった。
「はい、艇長」
 別の声だ。
「とにかく今からすぐ手わけして、ケレンコとリーロフの二人をさがし出そう」
「はい、かしこまりました。では早速……」
「うん、ひとつがんばってくれ。だがわれわれが凶悪な共産党員をさがしているんだということを、誰にも気どられないように注意しろよ。万一、奴らに気づかれて、その場であばれだされると、危険だからね。この飛行艇が、マニラにつくまでは、あくまで知らぬふりをしておくことが大切だ」
「よくわかりました。ではすぐ艇内をさがす捜索隊の顔ぶれをきめましょう」
「うん、うまくやってくれ」
 その後は、声が急に低くなって、聞きとれなかった。
 それから十五分ほどすると、捜索隊の顔ぶれがきまったのか、事務長が艇内の方々へ電話をかけはじめた。
 秘密のうちに共産党員にたいし、戦いの火蓋が切られたのである。
 当のケレンコとリーロフが、知っているかどうか知る由もないが、艇内はにわかに、重苦しい空気につつまれて行った。
 太刀川時夫は、座席にふかく体をうずめたまま、じっとこらえていた。
(怪しい奴といえば、あの向こうの隅に睡りこけているケント老夫人と、酔っぱらいのリキーの二人組だが……)
 太刀川は、どういうものか、二人組が気になって仕方がなかった。
(しかし待てよ。共産党員のケレンコとリーロフというのは、どっちも男だ。ところがあの二人は、一人は荒くれ男だけれども、もう一人の方はお婆さんではないか。するとこれは、別人かな)
 と思ったが、それでもなお、彼はこの二人組から、目を放す気持にはなれなかった。
 その時であった。
 とつぜん防音扉が、ばたんとあいてどやどやと捜索隊がはいってきた。
(すわこそ!)
 と、太刀川時夫は席から立ちあがろうとしたが、いやまてと、はやる心をおさえつけて、そのまま席に体をうずめた。
「ひどい奴だ。さあ、こっちへ来い」
 隊長らしい艇員の一人が、声をあららげて、誰かを叱りとばした。
(さあ、始ったぞ。リキーの奴がひきたてられるのか!)
 太刀川は、印度人夫妻の肩ごしに、その方に目を光らせたが、リキーは今目をさましたらしく、両腕を高く上にのばして、大あくびをしているところだった。
(あれ、リキーじゃないとすると、一体誰が叱られているんだろう?)
 そのとき、隊長らしい艇員が後をふりむきざま、
「さあ、早くこっちへくるんだ」
 といって、顔をまっ赤にして、一人の少年の首すじをつかんで、ひきずりだした。見ると、それは色のあせた浅黄(あさぎ)いろのズボンに、上半身はすっ裸という恰好の、中国人少年だった。
「貴様みたいな小僧に、この太平洋をむざむざ密航されてたまるものか。この野郎めが」
 艇員は拳をあげて、少年の小さい頭をなぐった。
「ひーい」
 少年は、悲鳴をあげた。
「なんだ、密航者か」
「ふとい奴だ」
「いや面白い。これは、いいたいくつしのぎだ」
 乗客たちは、てんでに勝手なことをいって、さわぎだした。
「さあ、早く歩け」


   密航少年


 と、隊長の艇員は叱りつける。と突然、
「やかましいやい」
 とリキーが座席から立ち上って、どなった。
「密航少年の一人ぐらいで、なんというさわぎをやってるんだ。俺がかわって片づけてやらあ。さあ、その小僧をこっちへよこせ」
 リキーは、松の木のような太い腕をのばして、少年をぐいとつかんだ。
「ああ、ちょっとお待ちください。この少年の処分は、ダン艇長がいたしますから、どうかおかまいなく」
 艇員の隊長は、腕節のつよそうなリキーに遠慮がちに、それでもいうだけのことをいった。
「おれはさっきから、頭がいたくてたまらないんだ。貴様がこの小僧をぴいぴい泣かせるものだから、頭痛がいよいよはげしくなってきたじゃないか。なあに、こいつを片づけるくらい、訳のないことだ。窓から外へおっぽりだせば、それですむじゃないか」
 リキーは、たいへんなことを、平気でいった。そしてそれをすぐにもやりそうであった。
 乗合わせている婦人たちは、さっと顔色をまっ青にした。
「まあ、ちょっとお待ちください。いま艇長に話をいたしますから」
「艇長なんかに用はない。そこを放せ」
 ケント老夫人が、リキーをとめるだろうと思っていたのに、どうしたわけか、老夫人は知らぬ顔をしてそっぽを向いている。
 このさわぎを、太刀川時夫はさっきからじっと眺めていた。はじめは冗談のおどかしかとおもっていたが、リキーが本当に、中国少年を飛行艇からなげだしそうなので、これは困ったことになったと思った。
 密航するのは悪いにきまっている。しかしその罰に、命をとるというのは、無茶な話だ。可哀そうに、少年は、リキーの腕の中で手足をばたばたさせながら泣き出した。
(もう見ていられない。誰もたすけだす者がいなければ、一つ僕がリキーをとっちめてやろうか)
 と、太刀川は考えた。リキーは、相当腕節が強そうだが、強い者が弱い者をいじめているのを日本人の血はどうしてもだまって見ていられないのだ。
 彼は、拳をかためて、すくっと立ちあがった。その時、足もとでがたんと音がした。何かとおもって下をむくと、東京を出発するとき原大佐から贈られた例の太いステッキであった。
“待て太刀川!”
 洋杖が、なにか囁いたようであった。
“お前の使命は、重大だぞ”
 大佐が別れにのぞんで彼にいった言葉が思いだされた。
(そうだった。軽々しいことはできない)
 太刀川は、一歩手前で、気がついた。彼の双肩には、祖国日本の運命がかかっているのだ。リキーと闘って勝てばいいが、もし負けて、中国少年同様、南シナ海になげこまれてしまえば、祖国への御奉公も、それまでではないか。
(といって、あの中国少年は見殺しには出来ない)
 太刀川は、わが胸に問い、わが胸に答えながら、考えこんでいたが、何事を思いついたのか、
「そうだ」といって席をたった。


   おそろしい制裁


 ダン艇長は、隣室の騒ぎを、まだ知らなかった。太刀川が扉をひらいたので、はじめて気がついたようであったが、太刀川は立ちあがろうとするダン艇長を、すぐさま手まねで押しとどめて、そして扉をぴたりと閉じた。
 どんな話が、艇長室のなかでとりかわされたかわからない。
 だが、それから、一、二分のち、ダン艇長は間の扉をひらいて、さりげない風で、たけり立つリキーの前にやって来た。
「おさわがせして、あいすみませんでした。どうぞリキーさん、その少年をこっちへお渡しください」
 艇長は、おそれ気もなく、リキーによびかけた。
「な、なんだ。うん、貴様は艇長だな。貴様たちが、あまりだらしないから、こういうことになるのだぞ。さあ、どけ、おれがじきじき、この密航者を片づけてやるのだ」[#「やるのだ」」は底本では「やるのだ」]
「ちょいとお待ちください。あなたは密航者密航者とおっしゃいますが、その密航者は、どこにおります?」
「なんだと!」リキーは、眉をぴくりとうごかした。
「密航者はどこにいるかって? この野郎、貴様の目は節穴か。よく見ろ、こいつを」
 リキーは、熟柿のような顔をしながら、片腕にひっかかえた中国少年の頭を、こつんと殴った。
「あ、その少年のことですか。それなら密航者ではありません」
「何を、貴様、そんなうまいことをいって、おれはそんな手で胡魔化されないぞ」
「いえ、本当なのです。その少年の渡航料金は、ちゃんと支払われているのです」
「馬鹿をいうな。おれはそこにいる艇員が、密航者だといったのを聞いたのだ」
「いや、それは何かの間違いでございましょう。この少年の渡航料金はたしかにいただいてあります。艇長が申すのですから間違いありません」
「そんな筈はない。一体だれが渡航料を払ったのだ」
「だれでもかまいません。あなたには御関係のないことです」
「なにを。こいつが!」
 叫びざま、リキーが艇長におどりかかろうとした時、
「リキー、その子供をお放しよ」
 それまで隅っこに風呂敷のような布をかぶって、だまっていたケント老夫人が、かすれ声でたしなめた。
「ううん。ちぇっ」
 リキーは舌うちしながら、にわかに見世物の象のようにおとなしくなった。それでも、なにかぶつぶついいながら、小脇にかかえこんでいた中国少年を、床のうえにどすんと放りだした。
「あっ」といって、中国少年は、その場に倒れた。
 太刀川時夫は、そうなるのを待っていたかのように、前へすすみ出て、中国少年をおこしてやった。
「もう泣かないでもいい、こっちへおいで」
「?」
 中国少年は、びっくりしたような顔をして、太刀川青年を見あげた。
「さあ、僕のとなりの四十九番の席にかけなさい」
 太刀川は、汚れきった中国少年に眉一つゆがめず、やさしくいたわって、座席へつかせてやった。
 太刀川は、ダン艇長にたのみ、料金を払って中国少年をたすけてやったのであった。
 これで密航者の問題は無事におさまったが、おさまらないのは、厄介な酔っぱらいリキーであった、よろよろと立ち上ると突然、
「やい」
 と叫んでどすんと腰を下した。
「やい、よくも貴様は、おれの邪魔をしやがったな。よーし、今にみていろ、吠面(ほえづら)をかかしてやるからな」
 いいながら又立ち上ろうとする。と、ケント老夫人が又たしなめた。リキーはしぶしぶ腰を下したが、いまいましそうにこちらを睨みながら、時々何事かつぶやいていた。
 太刀川は、たいへんなお客と乗り合わせたものだと思った。
 中国少年は、彼にたすけられて、すっかり安心したものか、すやすやと安らかな鼾(いびき)をかきはじめた。


   怪しい透視力


 密航少年事件が、曲りなりにもおさまったので、ダン艇長は、艇員たちをつれて、自室にひきあげた。
「どうだい皆。二人組の共産党員の心あたりはついたかね」
「はい、私の受持の部屋には、怪しい者は見当りませんでした」
「私の受持でも、駄目でした」
「そうか。じゃあ、皆、獲物なしというわけだね」
 ダン艇長の顔には、深い憂(うれい)の皺(しわ)がうかんだ。その時、
「艇長」
 とよびかけたのは、事務長だった。
「何だ」
「あの本社からの秘密無電に、誤りがあるのではないでしょうか。もう一度、本社へたずねてみては、いかがでしょう」
「そうだね。いや、もっともだ」
 艇長はうなずいた。彼は通信長を電話によび出し、
「おい、すぐ本社へ無電連絡をたのむ。なに、天候状態がわるくなったって、それは困ったね。だが大事なことだから、なんとかして、至急本社と連絡をとってくれ」
 艇長は、電話機をかけた。
「天候が悪くなったそうだよ」
「そうですか」
 と事務長は、丸窓から外をのぞいてみて、
「ああ、あそこへ変な雲がでてきました。不連続線のせいですよ。一荒れ来るかもしれません」
 艇長も外に目をやった。なるほど、南の方から、まっ黒な雲がむくむくとのぼってくる。
「海の上の気象は、これだから困る。操縦室へ、注意をしてやれ、それから事務長、マニラへ無電をうって、すぐさま近海気象をたずねてくれたまえ」
「はあ、ではすぐ連絡方を、通信室へいって頼んできましょう」
 事務長は、腰をあげて、艇長室を出ていった。急に時化(しけ)模様となったので、他の艇員たちも、それぞれ自分の持場へ帰っていって、艇長室には、ダン艇長一人となった。
 彼は心配そうに、窓の外をながめている。
「こいつはなかなか手ごわい雲行だぞ。すぐに針路を変えなきや、危険だ」
 艇長は、操縦室と書いたボタンを押して、電話機をとりあげた。
「おお、操縦長か。あの雲を見たろう。針路をすぐに北へ四十度曲げてくれ」
「北へ四十度。するとマニラへはだんだん遠くなりますが――」
 操縦長の声であった。
「仕方がない。このままマニラへ近づくことは、あの黒雲の中の地獄へ近づくことだ」
「はい。ではすぐ」
「そうだ、そうしてくれ。そして当分全速力でぶっ飛ばすんだ、嵐より一足先にこっちが逃げちまわないと、たいへんなことになる」
 どこまでも不運なサウス・クリパー機であった。兇悪な共産党員に乗りこまれている上、いままた悪天候に追いかけられることとなった。艇長は、乗員の安全をはかるため、いままで目的地のマニラへ向けていた針路を、ぐっと北へ変えた。
 すると、マニラに到着するのは、何時になることやら。
「小父さん。外はひどい嵐になったよ」
 太刀川時夫は、だしぬけに中国語でよびかけられて、はっと目を覚ました。彼は睡(ねむ)ってはならないと思いつつ、いつの間にか、うとうととしたのだった。
 声のする方にふりむくと、すぐ鼻さきに、中国少年の汚れた顔があった。
「ああお前か。あははは、すっかり気がおちついたようだね」
「小父さん。今しがたこの飛行艇は左の方へ向(むき)をかえたよ」
「はははは、そうか。ところで僕をつかまえて、小父さんはすこし可哀そうだが、お前はなんという名かね」
「おれの名かい」
「そうだ」
「石福海(せきふくかい)というのだ。こういう字を書くんだよ」
 少年は、掌のうえに、指さきで文字をかいてみせた。
「なるほど石福海か。福海にしては、ちとみすぼらしい福海だね」
 その時であった。少年は太刀川の脇腹をぐっと突いた。
「小父さん。悪い男が、部屋を出てゆくよ」
「えっ」
 彼は、顔をあげて、室の出入口を眺めた。出入口の扉を押して、ケント老夫人が出てゆくところだった。酔っぱらいのリキーを座席にのこしたまま!……


   電送写真


(変なことをいう少年だ)
 太刀川は、ふしぎに思った。
「お前は、何をいうんだ。今出ていったのは、お婆さんじゃないか。お前は目が見えないわけじゃなかろう」
「そうなんだよ、小父さん」
「何だって」
「おれは目がわるくて、目の前ほんの一、二米(メートル)ぐらいしかはっきり見えないんだよ」
「ほほう。そうか。そんなに悪い目をしていて、出入口を通る人をあてるなんて、おかしいじゃないか。はははは」
 ところが、少年は至極まじめだった。
「ちがうよ。そんなことは、目でみなくたって、おれには、ちゃんと分かるんだよ」
「なに、目でみないでも分かるって、馬鹿なことをいうものでない。いいからもうだまっておいで」
 太刀川は、石少年が透視術みたいなことをいうので、ちょっと気味が悪かった。だが、ケント老夫人のことを男だなんて、そんな当りの悪い透視術は、もうたくさんだとおもった。
 だが、はたして彼の考えた如く、石少年の言葉はまちがっていたであろうか?
 無電室では、四人の係員たちが、器械の前にすわりこんで、耳にかけた受話器の中に相手無電局の電波を、しきりに探しもとめている。
 天候状態は、つづいて悪かった。
 そこへダン艇長が、顔をこわばらして入ってきた。
「どうだ。まだ入らないか」
「マニラはやっと入りました。しかしニューヨークの本社が、さっき入りかけて、また聞えなくなってしまいました」
 通信長が答えた。
「マニラの気象通報は、どうだった」
「あっちも、悪いそうです。北々西の風、風速二十メートルだといってました」
「そうか」
 艇長は、それだけいって唇をかんだ。
 その時、一番奥の器械の前についていた通信士が、両耳受話器に手をかけながら、こっちをふりむいた。
「通信長。ニューヨーク本社が出ました」
「なに、本社が出た。それはお手柄だ」
 通信長は、竹竿をつないだような細い体を曲げて、奥へとんでいった。そして別の受話器を耳にかけた。
「はあ、はあ、ダン艇長がいま出ます」
「おお、本社が出たか」
 ダン艇長の頬に血の色が出た。
「ああ本社ですか」
 艇長の声は、上ずっていた。
「なに、専務ですか。いや、しばらくでした。ところで、例の二人組の共産党員ですがね、こっちじゃ分からなくって困っています。これにのりこんだことは、たしかなのでしょうね」
 しばらく艇長の声がとぎれた。
「ははあ、そうですか。すると、たしかに乗っているわけですね。では、そっちにその二人の人相書かなんかありませんか。ええ、何ですって。写真、それは素敵です。では、すぐその写真を電送して下さい。こっちの用意をさせますから」
 艇長は、まっ赤に興奮している。
「おい、写真電送で、二人の顔を送ってくる。すぐ受ける用意をしたまえ」
「はい」
 通信士は、スイッチをひねって、写真電送のドラムを起動した。このドラムの中に、薬品をぬった紙が入っていて、向こうから送る電波によって、一枚の写真が焼きつけられるのだ。
「は、用意ができました」
「もしもし、本社ですか。用意ができました。写真をすぐに送ってください」
 まもなくジイジイジイと、写真を焼きつけるための信号が入ってきた。もうあと十分たてば、写真は出来あがるのである。ケレンコの顔もリーロフの顔も、すっかり分かってしまうのだ。
 なんというすばらしい文明の利器であろうか!
 艇長はじめ通信係の一同は、ジイジイジイと廻るドラムの上を、またたきもせず、見つめている。やがてドラムの中に焼きあがる写真は、そもどんな顔をしているであろう。
 一分、二分、三分――誰一人、声をだす者もない。
 その時だった。
 この無電室の入口の扉が、音もなくすーっと細目にあいた。室内の者は、誰も気がつかない。
 その扉の間から、ぬーっと現われたものがある。
 あ、ピストルの銃口だ!
 ピストルの銃口は、しずかに室内の誰かを狙うものの如くぴたりととまった。ピストルを握るのは、膏薬(こうやく)をはりつけた汚い手だった。指が引金にかかった。
 とたんに、ドン! 轟然たる銃声!


   おそわれた無電室


 パーン!
 ピストルの音が、びりっと無電室の壁をゆすぶった。
「あ!」
 ダン艇長は、身をかわしつつ、うしろの扉をふりかえった。
 扉がすこしばかり開いている。その間から、ぬっとピストルの銃口がでている。
 ――と、たてつづけに、パーン、パーン。
 カーンと金属的な音がした。
 と思ったら、いままでジイジイと鳴っていた写真電送の器械が、ぷつんと、とまってしまった。
(あ、やられた)
 艇長が叫んだとき、
「うーむ!」
 と、くるしそうな、うめきごえをあげて、今まで器械の前に、両肘をついていた通信士の体が、横にすーっとすべりだした。
「おお、撃たれたか!」
 艇長が、おもわずその方へ走りよろうとしたとき、通信士の体はぐにゃりとなって、椅子もろとも、はげしい音をたてて、床にころがった。
 つづいてパン、パン――
 ぴゅーんと、艇長の頬をかすめて、弾は窓をつらぬき、外へとびだした。
「うー」
 艇長は、うめいて、ぴたりと床にはらばった。何やつだと思った時、
「動くな。動けば、命がないぞ!」
 聞きなれない太いこえが、ダン艇長の頭のうえからひびいた。
 艇長は、勇気をふるって、首をうしろにねじむけた。と、その時、
「ああ、――」
 艇長の目はレンズのように丸くなった。
 彼は一たいそこに何を見たか。
 一挺のピストルを握った膏薬(こうやく)ばりの手!
 その手は、まぎれもなくあの老夫人、乗客ケント老夫人の手だった。
 いや、姿は老夫人であったけれど、その鼻の下には、赤ぐろい髭がはえていた。大きな膏薬がはがれて、その下からあらわれたのである。
 変装だった。
「一たい、き、貴様は何者だ!」
 ダン艇長は、さすがに勇気があった。
「なんだ。おれの名前を聞きたいというのか。ふふん頭のわるいやつだ」
 と老夫人にばけていた男は、にくいほど落ちつきはらって、無電室にはいり後の扉(ドア)をしめた。そしてピストルを、ぐっとダン艇長の鼻さきにつきつけ、
「写真電送をうけるのが、も少し早かったら、君は、おれのりっぱな肖像を、手に入れたことだろう。いや、そうなっては、こっちが都合が悪かったんだ。いや、きわどいところだったよ。あっはっはっ」
「なに! じゃ貴様は、例の二人組の共産党員の片われ?」
「ほほう、いまになって、やっと気がついたのか。名のりばえもしないが、君がしきりに探していた共産党太平洋委員長のケレンコというのは、おれのことだ。忘れないように、よく顔をおぼえておくがいい」
 彼は、頭からすぽりと、かぶっていた頭巾(ずきん)をかなぐりすてた。
「あ、ケレンコ! うーん、貴様がそうだったのか!」
 ダン艇長は、ぶるぶると身ぶるいしながらも、ケレンコ委員長のむきだしの面構(つらがまえ)を見た。
 大きな高い鼻、太い口髭、とびだした眉、その下にぎろりと光る狼のような目!
 勝ちほこるケレンコ委員長のにくにくしいうす笑!


   仮面をぬいだ悪魔


「おい、立て!」
 ケレンコはどなった。
「聞えないのか。立てというのに」
 ケレンコは、ピストルを握りなおして艇長につきつけた。
 艇長は、いわれるままに、するほかはなかった。
「こんどは、両手をあげるんだ」
 ケレンコがつづけざまにいうので、
「貴様は、この艇長の自由をしばって、どうしようというのか」
「どうしようと、おれの勝手だ。文句をいわずに手をあげろ、四の五のいうと命がないぞ」
「なに、命がない? 馬鹿をいうな。艇長を殺すことは、貴様も一しょに死ぬことだぞ。艇長がいなくなって、このサウス・クリパー号が安全に飛行できると思うか。それに――」
「それにどうした」
「わが艇員は、貴様のような無法者をそのままにしておかないだろう。無電監視所が変事(へんじ)をききつけて、いまに救援隊がかけつけて来る」
「うふふふ。何をほざく。貴様のうしろを見ろ、無電装置が、ピストルの弾で、こわされているのに気がつかないのか。そんなことに、手ぬかりのあるケレンコ様か」
「え――」
 艇長がふりかえってみた。はたして無電装置の真空管が、むざんにも撃ちぬかれて、こわれていた。
(ああ、艇員たちは、一たい何をしているのだ。艇内が、エンジンの音でやかましいといっても、あのピストルの音が聞えないはずがない)
 そのとき、とつぜん扉の向こうにはげしい銃声がきこえた。
「あ、あれは――」
 艇長がおもわずさけんだ。
「ほう、やっているぞ。艇長さん。あれが耳にはいったかね」
 ケレンコ委員長は、にやりと笑って、艇長の方を見た。
「なんです。あの銃声?」
「うふ、そんなに知りたいのかね、まあお待ち。いいものを見せてあげよう」
 委員長ケレンコは落ちついたもので、ピストルをゆだんなく艇長の胸につきつけながら、左手で扉をどんどんとたたいておしあけた。
 と同時に、扉のかなたで「あっ」というおどろきのこえがした。大勢の艇員を向こうにまわして、にらみあっている一人の大男! その男が顔をくるっとダン艇長の方へまわしたのを見ると、おお、酔っぱらいの暴漢リキーであったではないか。
「あ、リキー」
「そうだ。リキーだよ。艇長さんは、よくおぼえていたね」
「あの酔っぱらいを忘れるやつがあるか」
「そうだ。誰も知っているよ。しかしリキーというのは、およそ彼に似あわしからぬ名だ。おい、ダン艇長さんとやら。あの手におえない男の本名を教えてやろうかね」
「え、なんだって」
「そうおどろかないでもよい。おれの片腕として有名な男。潜水将校リーロフという名を、きいたことがありはしないかね」
「うーむ、リーロフがあの男か!」
 さすがのダン艇長も、そのばけかたのうまさに、どぎもをぬかれたようだった。
 おそろしいおたずね者二人が、いよいよ仮面をぬいで、おもいがけないところからとびだしたのだ。潜水将校リーロフは、ソビエト連邦にその人ありと、外国にまで名のきこえた大技術者だ。ケレンコの方は、いまは太平洋委員長という役にはなっているが、彼は、現代の世界を根こそぎひっくりかえして共産主義の世界にし、あわよくばソ連の独裁官スターリンの地位をうばって、全世界を自分の手ににぎろうとしている、とさえいわれている人物だった。


   悪魔の虜


「さあ、お客さんたちも、艇員どもも、これで様子は万事のみこめたろう。うわっはっはっ」
 酔っぱらいのリキー――ではない潜水将校リーロフは、ピストル両手に、すっかり勝ちほこって、仁王さまのような顔をほころばせてあざ笑った。
「いいかね。これから、ケレンコとおれとが、ダン艇長にかわってこのサウス・クリパー号の指揮権を握ったんだぞ。不服のある奴は、遠慮なくおれの前へ出てこい」
 大男のリーロフは、両手のピストルを、これ見よがしにふりまわしながら、人々をにらみつけた。
 この恐しいけんまくの前に、誰一人あらわれる者もなかった。
 それにしても、気がかりなのは、日東の熱血児太刀川時夫のことではないか。どうしたのか、彼は先ほどからちっとも姿を見せないのだ。一たい何をしているのだ。彼もまた、ケレンコとリーロフの勢いにのまれてしまったのであろうか。
 いまや大飛行艇サウス・クリパー号は、おそるべき共産党員のため、すっかり占領されてしまったようである。
「おい、ダン先生」
 ケレンコはいった。
「これで写真電送の器械も役にたたなくなったし、無電装置もこわれて、外との無電連絡は一さいだめになった。そこでこんどは、この艇の操縦室へ行く番となった。さあ案内しろ」
「私がか」
「そうだ。君は人質なんだ」
 ダン艇長はいわれる通りにするほかはなかった。
 艇内にある武器は、潜水将校リーロフがすっかりおさえてしまった。艇員たちが、ひそかにポケットにかくしもったピストルも、みなリーロフにまきあげられてしまったうえ、頤(あご)がはずれそうなほどつよく頬をぶんなぐられた。乗客たちも、一応しらべられたが、この方は、ほとんど武器を持っていなかった。
「おや、四十九番と五十番との席があいているじゃないか。ここの二人の客はどこへいった」
 とつぜん大男のリーロフが、眼をむいた。
「さあ。存じませんねえ」
 リーロフのお伴をしている艇員が、首をふった。
「じゃ、乗客名簿を出せ。四十九番と五十番とは誰と誰か」
 リーロフは艇員の手から名簿をひったくり、太い指さきで番号をたどった。
「うむ、四十九番は石福海。五十番は太刀川時夫。ははあ、そうか。あいつは日本人だったのか。ふふん、うまく逃げたつもりらしいが、なあに今にみろ。素裸(すはだか)にひきむいて、あらしの大海原へおっぽりだしてやるから」
 リーロフは、ゴリラのように歯をむいてつぶやいた。
 一方、ケレンコ委員長は、ダン艇長をひったてて、操縦室へのりこんだ。
 操縦室は、一面に計器がならんでいた。そしていろいろな操縦桿やハンドルがとりつけてあった。そこには五人の艇員が座席について、熱心に計器のうえを見ながら、操縦をしたりエンジンの運転状態を見たり、航路を記録したり、いそがしそうにたち働いていた。
 だが、ケレンコがはいっていったとき、五人の操縦員の顔は、いずれも紙のように白かった。彼等はすでに、艇内におこった大事件を知っていたのである。
「おい、皆。わがはいが、ただ今からダン艇長にかわって、この飛行艇の指揮をとることになった。わがはいの、いうことをきかない者は、たちどころに射殺する。いいかね、命のおしい奴は、命令にしたがえ」
 それを聞くと、五人の操縦員は、いいあわせたように、ぶるぶると体をふるわせた。


   無茶な命令


「そこでわがはいは、本艇の航路をしめす。地図を出せ」
 ケレンコはいった。
「地図は、ここにある」
 ダン艇長が、壁を指さした。航空用の世界地図が、はりつけてあった。そのうえには、赤や青やの鉛筆で、これまで通ってきた航路やなにかがしるされていた。
「ふん、これか。なるほど本艇はいま、ここにいるのだな。しめた。マニラからよほど北にそれているのだな」
「外はひどい暴風雨です。だから北へ避けているのです」
 操縦長スミスが、ひきつったような声でこたえた。
「本艇の針路を、もうすこし北へまげろ。もう二十度北へ」
「え、もう二十度も北へですって」
 操縦長スミスはおどろきの声をはなち、
「それじゃあんまりです。マニラへはいよいよ遠ざかり、太平洋のまん中へとびこんでゆくことになります」
「わかっている。いいから、わがはいの、いうようにするんだ。君は命令にそむく気じゃあるまいな」
「でも、そっちへ行けば、マニラへひきかえすだけの燃料がありません。海の中におちてしまっていいのですか」
「だまって、わがはいの、いうとおりにしろ。それから、スピードをあげるんだ。いまは毎時二百キロしかでていないようだが、それを三百五十キロにあげろ」
 ケレンコは、どうするつもりか、途方もないことをいい出した。
「え、三百五十キロ? この暴風雨の中に、三百五十キロ出せとおっしゃるのですか。そ、そんなことはできません。そんなことをすると、飛行艇のスピードと暴風の力とがかみあって、艇がこわれてしまいます」
 スミス操縦長は、きっぱりとケレンコの命令をことわった。
「なに、できないって」
 ケレンコの眼が、ぎらぎら光った。
「よし、できないというのなら、貴様に用はない。覚悟しろ」
 パーン!
「あ!」
 スミス操縦長の頬をかすめて、銃弾はとんだ。その銃弾は銀色をした壁をうちぬき、艇外にとび出した。とたんに、その穴から、しゅうしゅうと、はげしい風がながれこんできた。
 スミス操縦長の頬からは、鮮血がぽたぽたとながれおちる。かれは決心したもののごとく、また計器をにらみながら一心に操縦桿をひく。彼もアメリカ魂をもつ勇士の一人だったのである。
「もう一度いう。針路を北へもう二十度。そしてスピードを三百五十に!」
 ケレンコは、スミス操縦長に噛みつきそうな形相でさけんだ。
「わ、わかりました。そのとおりやります!」
 スミスは、唇をぶるぶるとふるわせながら、きっぱりこたえた。
「ああ!」
 ダン艇長は、その横で、絶望のため息をついた。
(これでは陸地へは、だんだん遠ざかる。そしてもしこの飛行艇がこわれたら)
 艇員の身の上を、そしてまたあずかっている乗客たちのことを心配して、艇長の胸のうちは煮えくりかえるようであった。
 助けをもとめたいにも、無電はこわれてしまった。それに他の飛行機か汽船でも通っていればいいが、こんな暴風雨地帯を誰がこのんで通っているものか。たとえ通りかかっていたにしろ、暴風雨警報をきいて、すばやく安全地帯へにげてしまったろう。
(神よ、われ等に救いをたれたまえ!)
 ダン艇長は、心の中に、神の名をよんだ。
 艇内は、にわかにエンジンの音が高くなった。それはまるで金鎚で空缶をたたくようなやかましい音だった。今にも艇が、どかんと爆破するのではないか、とおもわれるようなものすごい音であった。――スミス操縦長は、ついにケレンコの命令どおりに、暴風雨中に三百五十キロの高スピードを出したのだった。
「ああ、これでいい。こりゃ、愉快だ!」
 どういうつもりか、計器の針をながめて、ひとりよろこんでいるのは、おそるべき委員長ケレンコであった。
 他の者は、誰の顔も血の気がなかった。
 しゅうしゅうと風が穴から、はげしくふきこむ。
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