火薬船
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著者名:海野十三 

   怪貨物船あらわる!


 北緯二十度、東経百十五度。
 ――というと、そこはちょうど香港(ホンコン)を真南に三百五十キロばかりくだった海面であるが、警備中のわが駆逐艦(くちくかん)松風は、一せきのあやしい中国船が前方を南西へむかって横ぎっていくのを発見した。
「――貨物船。推定トン数五百トン、船尾に“平靖号(へいせいごう)”の三字をみとむ……」
 と、見張兵は、望遠鏡片手に、大声でどなる。
 艦橋には、艦長の姿があらわれた。そしてこれも双眼鏡をぴたりと両眼につけ、蒼茫(そうぼう)とくれゆく海面に黒煙をうしろにながくひきながら、全速力で遠ざかりゆくその怪貨物船にじっと注目した。
「商船旗もだしておりませんし、さっきから観察していますと、多分にあやしむべき点があります」
 副長が、傍から説明をはさんだ。
 艦長は、それを聞いて、双眼鏡をにぎりしめ、ぐっと顎(あご)をむこうへつきだした。
「追え!」
 命令は下ったのだ。
 駆逐艦松風は、まもなく全速力で、怪船のあとをおいかけた。艦首から左右に、雪のような真白な波がたって、さーっと高(たか)く後へとぶ。
 一体あの怪中国船は、どこの港から出てきたのであろうか。どんな荷をつんで、どこへいくつもりなのであろうか。いま怪船のとっている針路からかんがえると、南シナ海をさらに南西へ下っていくところからみて、目的地はマレー半島でもあるのか。
 小さな貨物船は、速力のてんで到底わが駆逐艦の敵ではなかった。ものの十分とたたない間に駆逐艦松風は、怪船においつき、舷と舷とがすれあわんばかりに近づいた。
 駆逐艦のヤードに、さっと信号旗がひるがえった。
“停船せよ!”
 怪貨物船は、この信号を知らぬかおで、そのまま航走をつづけた。甲板(かんぱん)上には、たった一人の船員のすがたも見えない。さっきまでは、そうではなかった。双眼鏡のそこに、たしかに甲板にうごく船員のすがたをみとめたのに。
 停船命令を出したのに、怪船がそれを無視してそのまま航走をつづけるとあっては、わが駆逐艦もだまっているわけにはいかない。副砲は、一せいに怪船の方にむけられた。撃ち方はじめの号令が下れば、貨物船はたちまち蜂のすのようになって、撃沈せられるであろう。雨か風か、わが乗組員は唇をきッとむすんで、怪船から眼をはなさない。
 それがきいたのか、怪船はにわかに速力をおとした。それとともに、甲板のものかげから、ねずみのように船員たちがかおを出しては、また引っこめる。
 岸(きし)少尉を指揮官とする臨検隊(りんけんたい)が、ボートにうちのって、怪貨物船に近づいていった。むこうの方でも、もう観念したものと見え、舷側(げんそく)から一本の繋梯子(けいはしご)がつり下げられた。わがボートはたくみにその下によった。
 岸少尉を先頭に、臨検隊員は、怪船の甲板上におどりあがった。
「帝国海軍は、作戦上の必要により、ここに本船を臨検する」
 中国語に堪能な岸隊長は、船員たちのかおをぐっとにらみつけながら、流暢(りゅうちょう)な言葉で、臨検の挨拶をのべた。
 そのとき、甲板にぞろぞろ出て来た船員たちの中から、半裸の中国人が一人、前にでて、
「臨検はどうぞ御勝手に。その前に、船長がちょっと隊長さんにお目にかかりたいと申して、このむこうの公室(こうしつ)でまっています」
「なに、向うの室へ、船長がこいというのか。なかなか無礼なことをいうね。用があれば、そっちがここへ出(で)て来(こ)いといえ」
「はい、それがちょっと出られない事情がありまして、ぜひにまげて御足労をおねがいしろとのことです」
「出て来られない事情というのは何か。それをいえ」
 岸隊長は、まるで母国語(ぼこくご)のように、中国語でべらべらいいまくる。
 そのとき、かの半裸の中国人は、一歩前に出た。ひそかに岸隊長にはなしをするつもりだったらしいが、隊長の部下がどうしてこれを見おとそうか、剣つき銃をもって、隊長の前に白刄のふすまをきずいた。
「とまれ!」
 もう一歩隊長の方へよってみろ、そのときは芋ざしだぞというはげしいいきおいだ。
「あッ、危ねえ!」
 かの半裸の中国人は、飛鳥(ひちょう)のように後へとびさがったが、そのとき臨検隊の一同は、おやという表情で、その中国人のかおをみつめた。それも道理だ。その中国人が、“あッ、危ねえ!”と、きゅうにあざやかな日本語をしゃべったからである。
「やっ、貴様は何者!」
 岸少尉は、相手をにらみすえた。


   太々(ふてぶて)しい若者


「いや、どうも。びっくりしたとたんに、化(ばけ)の皮(かわ)がはがれるとは、われながら大失敗でありました。はははは」
 と、半裸の若者は、頭をかいてわらう。びっくりした気色(けしき)はさらに見えない。見なおすと、この男、わかいながらなかなか太々しいところが見える。
 だが、こっちは岸隊長以下、すこしも油断はしていなかった。中国人が、急に巻舌(まきじた)の東京弁でしゃべりだしたのには、ちょっとおどろいたが、わけのわからないうちに安心はしない。
「わらうのは後にしろ。貴様は何者か」
 岸隊長も、こんどは日本語でどなりつけた。
「やあ、どうもわが海軍軍人の前でわらってすみませんでした」
 と、かの若者は頭を下げ「私は四国の生れで竹見太郎八(たけみたろうはち)という者です。この貨物船平靖号の水夫(すいふ)をしています」
「ふん、竹見太郎八か、お前、なぜこんな中国船の水夫となってはたらいているのか」
「はい。私はなにも申上げられません。しかし、さっきも申しましたとおり、船長があなたにお目にかかりたいといっていますから、まげて船長の公室(こうしつ)へおいでくださいませんか。これにはいろいろ事情がありまして……」
 水夫竹見は、俄(にわか)にていねいになって、岸隊長をうごかそうとする。その熱心が、彼の顔にはっきりあらわれているので、隊長もその気になって、彼に案内をめいじた。
 このような小さな貨物船に、船長の公室があるというのも笑止千万であるが、ともかくも岸隊長は、隊員の一部をひきつれて、竹見のあとにつづいて公室の入口をくぐった。そこは船橋のすぐ下で、船長室につづいた室だった。
 入ってみて、またおどろいた。
 室内は、こんな貧弱な船に似合わず、絢爛(けんらん)眼をうばう大した装飾がしてあって、まるで中国のお寺にいったような気がする。入口をはいったところには、高級船員らしい七八人の男がきちんと整列していて、隊長岸少尉のかおを見ると、一せいに挙手の礼を行った。
 室の真中に、一つの大きな卓子(テーブル)がある。その前に、一人の肥満した人物が、ふかい椅子に腰をかけている。
「さあ、どうぞこちらへ」
 と、その肥満漢(ひまんかん)は手をのばして、隊長に上席(じょうせき)をすすめた。混じり気のない立派な日本語であった。どうやらこれが船長らしい。だが船長にしろ、椅子にこしをかけたまま、帝国軍人に呼びかけるとは無礼至極であるとおもっていると、かの肥満漢は、
「私は脚が不自由なものでしてナ、お迎えにも出られませんで、御無礼(ごぶれい)をしておりますじゃ。この汽船の船長天虎来(てんこらい)こと淡島虎造(あわしまとらぞう)でござんす」
 と、ていねいに挨拶をしてあたまを下げた。
 脚が不自由だという。見れば、なるほどこの虎船長の両脚は、太腿のところからぷつりと両断されて無い。
 このように脚が不自由だから、岸隊長を公室までまねいたことが一応合点(がってん)がいった。しかしいくら脚が不自由でも、この船長だって出てこられないはずはないのだがと、岸隊長はどこまでも、こまかいところへ気を配りつつ訊問(じんもん)にかかった。
「本船のせきは、日本か中国か」
「もちろん日本でございます」
「日本船なら、なぜ船尾に日章旗を立てないのか」
「おそれ入りますが、これにはいろいろ仔細(しさい)がございまして……」
 と、かの虎船長は一揖(いちゆう)して、きっと形をあらため、かたりだしたところによると、
「――この平靖号は、中国から分捕った貨物船でありまして、払下(はらいさげ)手続をとって手に入れたものであります。この汽船には四十八名の乗組員がおりますが、どれもこれも中国語をよくあやつる。しかしそのうち八名を除いて、のこり四十名はいずれも生粋(きっすい)の日本人でございます。そこに立っております高級船員たちも、どこから見ても中国人ですが、これがみな日本人なんで、商船学校も出た者もおりまするし、予備の海兵も混っております」
 虎船長は、そういって後の船員たちを指した。岸隊長は、あらためて高級船員の面をじっと見まわしたが、なるほど、眼の光だけは炯々(けいけい)として、新東亜建設の大精神にもえていることがはっきりと看取される。
「本船の目的は、どこか。また、なぜこんなに、すっかり中国式になっているのか。日本人らしい装飾も什器も、なんにもないではないか」
 岸隊長は、疑問のてんをついた。
「はい、本船の目的と申しまするのは、日本を飛びだして日本に帰らないということであります。われわれ一同、こせこせした日本人に嫌気(いやけ)がさし、日本人を廃業して中国人になり切り、南シナ海からマレー、インドの方までもこの船一つを資本として、きのうは東に、きょうは西にと、気ままに航海をつづけようというのであります。積荷は、ことごとく中国雑貨と酒です」
 日本人を廃業するんだとは、船長なかなかすごいことをいいだしたものである。そういっておいて、船長はじっと岸少尉の顔色をうかがっていた。


   地方版の記憶から


「日本人を廃業して、ふたたび日本にかえらないというのか。ふん、なるほど」
 岸少尉は、わかいがさすがに思慮ある士官、べつだんいやなかおもせず、船長のおもてを見かえして、
「あれは今から一ヶ月ほど前のことだったか、長崎県の或るさびれた禅寺(ぜんでら)において、土地の人がびっくりしたくらいの盛大な法会(ほうえ)が行われたそうだね」
 と妙なことを岸少尉はしゃべりだした。
「はあ、そうでしたか」
「そうでしたかというところを見ると、貴公(きこう)は知らないと見えるね。――その法会に参加した人数は五十人あまり、法会の模様からさっすると、これは団体的葬儀の略式なるものであったということが分った。その中に一人、容貌魁偉(ようぼうかいい)にして、ももより下、両脚が切断されて無いという人物が混っていたそうだが、そういうはなしを貴公は聞いたことがないか。なんのためのひめたる団体葬儀であろうか。仏の数が五十人あまり、参会者もまた同数の五十人あまりだという。一体だれの葬儀なのであろうか」
 岸少尉のかたるうちに、途中で一度、虎船長は、はっと思った様子だが、少尉がかたりおわるや、からからとうち笑って、
「はっはっはっはっ。世間には、どうもまぎれやすいはなしがあるものですな。両脚のない人間も世間には何百人といるんですぞ。団体葬儀だなんて、それは誰かの早合点(はやがってん)でありましょう」
 と、少尉のいうことを盛んにうちけす。
「はっはっはっ」と、こんどは岸少尉がうちわらって
「こうやって見まわすと、この船の乗組員たちは、どういうものかそろいもそろって、頭の天頂(てっぺん)の附近に二銭銅貨大の禿(はげ)――禿ではない、毛が生えそろわなくてみじかいのだ、それが揃いも揃って目につく。第一貴公のあたまにも、妙なところに山火事のあとみたいなものがあるではないか。さっきいった長崎の禅寺へ、五十人ほどの参会者がそろいもそろって毛髪をそって、納めていったそうだが、ずいぶん世間には、こまかいところまでつじつまのあう不思議なはなしがあるものだねえ」
 これを聞くと、虎船長は、目を白黒。おもわず両手で椅子からとび下りようとしたが、結局それをあきらめて、
「ふふン、ふふふふ。ふふふふ」
 と、妙なわらい方をした。隊員一同も、わらいもできず、くすぐったいかおをして唇をかんでいる。臨検隊員は、少尉の言葉のいみをやっと諒解して、ものめずらしげに一同のかおを端から端へいくどもじろじろとながめやる。向うの一団は、いよいよ顔のやり場にこまっている様子だ。
 そのとき岸少尉は、きッと形を改め、荘重(そうちょう)なこえで、
「臨検は、これで終了した。なお、おわりに四十何人かの生ける亡者どのの健康をしゅくし、そしてその成功をいのってやまぬ。おわり」
 そういって少尉は、隊員をひきつれ、さっさと公室を出ていった。
 少尉たちの靴音が甲板へきえても、虎船長はじめ公室の一同は、その場を石のようにうごかなかった。どこからか、鳴咽(おえつ)のこえがもれた。するとあっちでもこっちでも、すすりなきのこえが起った。拳でなみだをはらっている者もある。感激のなみだだ!
 生ける屍(しかばね)となって、ひめられた或る使命のために壮途につこうという虎船長以下は、はからずも臨検の海軍軍人からげきれいの言葉をうけ、感激のなみだは、あとからあとへと湧きいでて尽きなかったものだ。
「おい、おおくりしよう。わしを抱いてつれていけ」
 虎船長がさけんだ。
 船員たちは、へんじをするよりもはやく、脚のない船長を両脇からいだきあげ、甲板へつれていった。そのとき臨検隊長岸少尉は、舷側におろされた縄梯子(なわばしご)を今手をかけて下りようとしたところだったが、虎船長があらわれたと知って、つかつかと後へ戻り、無言のまましっかとその手をにぎった。そのときである。副隊長の兵曹が、
「あっ、岸隊長。本艦から至急帰還せよとの信号です。別な船が一せき、南方にあらわれました」と、こえをかけた。
 このとき平靖号が、はからずも一つの大失敗をやったことが、後に至って思いだされることとなったが、まだだれも気がつかない。


   ノールウェーの汽船


「あっはっはっ。さすがの海軍さんも、この平靖号にあきれてかえったようだな」
 例の大々(ふてぶて)しい水夫の竹見太郎八は、甲板(かんぱん)のうえにはらをゆすぶってからからとわらう。
「ちえっ、自分のことをたなにあげて、なにをわらうんだよ」
 すぐ横槍が入った。それは、デリックの下(した)にあぐらをかいて、さっきからのさわぎをもうわすれてしまった顔附で、せっせと釣道具の手入れによねんのない丸本慈三(まるもとじぞう)という水夫が、口を出したのである。
「な、なにをッ」
「なにをじゃないぜ。さっきお前は、もうすこしで水兵の銃剣にいもざしになるところじゃった。あぶないあぶない」
 この丸本という水夫は、竹見の相棒だった。年齢のところは、竹見よりもそんなに上でもないのに、まるで親爺(おやじ)のような口をきくくせがあった。この二人の口のやりとりこそ、はなはだらんぼうだが、じつはすこぶるの仲(なか)よしだった。
「なんだ、丸本。貴様は俺がいもざしになるところをだまってみていたのか。友達甲斐(ともだちがい)のないやつだ」
「ははは、なにをいう。お前みたいなむこう見ずのやつは、一ぺんぐらい銃剣でいもざしになっておくのが将来のくすりじゃろう。おしいところで、あの水兵……」
「こら、冗談も休み休みいえ。あの銃剣でいもざしになれば、もう二度とこうして二本足で甲板に立っていられやせんじゃないか」
「そうでもないぞ。あの、われらの虎船長を見ろやい。足は二本ともきれいさっぱりとないが海軍さんを見送るため、ああしてちゃんと甲板に立った。お前だって、いもざしになってもあれくらいのまねはできるじゃろう」
「おお虎船長!」
 と、竹見太郎八は、なにかをおもいだしたらしく、
「そうだ、俺は虎船長に用があったんだ。おい、ちょっといってくるぞ」
 水夫竹見は、軽く甲板を蹴って、船橋へのぼる階段の方へ歩いていった。
 船橋では、虎船長をはじめ、一等運転士や事務長以下の首脳者が、しきりに、はるかの海面を指して、そこに視線をあつめている。
「おお、あの船が、やっと旗を出した」
「なるほど、あれはノールウェーの旗ですな、ノールウェーの船とは、ちかごろめずらしい」
 いま船橋で話題にのぼっているのは、さっきまでこの平靖号を臨検していたわが駆逐艦が、その臨検中に見つけた新しい一隻の怪船のことだった。わが駆逐艦は、その間近かにせまっている。そのとき怪船は、とつぜんノールウェーの国旗を船尾にさっと立てたのである。
「どうもあのノールウェー船はあやしいよ。むこうも貨物船だが、あのスピードのあることといったら、さっきは豆粒ほどだったのが、今はこうして五千メートルぐらいに近づいている」
「ノーマ号と、船名がついていますぜ、一体なにをつんで、どこへいく船なのかなあ」
「きっと軍需品をつんでいるよ、あのかっこうではね。たしかにあやしいことは素人(しろうと)にもそれとわかるのに、ノールウェーでは、海軍さんも手の下(くだ)し様(よう)がないんだろう」
「残念、残念。宣戦布告がしてないと、ずいぶんそんだなあ」
 幹部たちは、ノーマ号と名のるノールウェー船のうえに、すくなからぬ疑惑をもって、ざんねんがったのである。
 はたして、一同が見ているうちに、わが駆逐艦松風は、ノーマ号からはなれ、舳(へさき)をてんじて北の方へ快速力で航行していった。
 ノーマ号も、その後を追って北上するかとおもわれたが、どうしたものか、急に針路をかえ南西に転じた。
「あれっ、こっちと同じ方向へいくぞ!」
 事務長が、目をぱちくりとやった。
「おい、へんだぞ。ノーマ号は、一向前のようなスピードを出さないじゃないか」
 足のない虎船長がさけんだ。
「これじゃ、間もなく本船は、ノーマ号においついてしまいますよ。なにかむこうは、かんがえていることがあるんですな」
 頭のいい一等運転士の坂谷(たかたに)が、早くも前途を見ぬいて、船員の注意をうながした。
 坂谷のいったとおりだった。わが平靖号は、どんどんノーマ号の後に接近していった。
 水夫の竹見は、さっきから船橋の入口に立っていたが、この場の緊張した空気におされて、無言のままだった。
「おや、竹見。なにか用か」
 と、かえって虎船長からとわれて、彼は、はっといきをのんで二三歩前に出た。
「ああ船長。私は、折角ですが、この船から下りたいのであります」
「なにィ……」
 虎船長は、あっけにとられて、竹見の顔をあらためて見なおした。


   信号旗


「なに、もう一度いってみろ」
 船長は虎(とら)の名にふさわしく、眼を炯々(けいけい)とひからせて、水夫竹見をにらみつけた。
「はい。私は本船を下りたくあります」
「な、なにをいうか、本船にのりこむ前に、あれほど誓約したではないか。本船にのったうえからは、本船と身命をともにして、目的に邁進すると。ははあお前は、南シナ海の蒼(あお)い海の色をみて、きゅうに臆病風(おくびょうかぜ)に見まわれたんだな」
 竹見は、目玉をくるくるうごかしつつ、
「臆病風なんて、そんなことは絶対にありません。私は……」
 といっているとき、横から一等運転士の坂谷が
「船長。ノーマ号が、本船に“用談アリ、停船ヲ乞ウ”と信号旗をあげました。いかがいたしましょうか」
「なに、用談アリ、停船ヲ乞ウといってきたか。どれ、向うはどういう様子か」
 船長は、ノーマ号の様子をみるため、一旦双眼鏡を目にあてようとしたが、気がついて水夫竹見太郎八の方を向き、
「お前のはなしは、後でよく聞こう。それまでは下にいってはたらいていろ。じつに厄介(やっかい)なやつだ」
 と、はきだすようにいった。
 ノーマ号は、もうすこしで平靖号と並行しそうな位置まで近づいていた。そしてヤードにはたしかに用談アリ、停船ヲ乞ウの信号が出ていた。甲板を見わたすと、赤い髪に青い眼玉の船員や水夫が、にやにやうすわらいしながら、こっちを見おろしていた。
 虎船長は、うむとうなって、
「用談とは何の事だ。聞きかえしてやれ」
 といった。
 信号旗は、こっちのヤードにも、するするとあがった。
 すると、すぐノーマ号から返事があった。
“飲料水、野菜、果実ノ分譲ヲ乞ウ。高価ヲ以テ購(あがな)ウ”
 それを見て虎船長は、
「駄目だ。本船にも、その貯蔵がすくないから、頒(わ)けてやれない。香港(ホンコン)か新嘉坡(シンガポール)へいって仕入れたらよかろうといってやれ」
 と、命令した。
 その信号は、再び平靖号のヤードに、一連(いちれん)の旗となってひらひらとひるがえった。
 すると、また折かえして、ノーマ号からの返事があった。
“ゼヒ分譲タノム。量ノ如何ヲ問ワズ、本船ニ[#「ニ」は底本では「に」]壊血病(かいけつびょう)多数発生シ、ソノ治療用ニアテルタメナリ”
 ノーマ号は、壊血病患者がたくさん発生しているから、ぜひ野菜や果実をわけてくれという信号なのである。
「壊血病とは、気の毒じゃ」と、虎船長はいって、くびをふった。
「じゃあ、すこしわけてやることにするか」
 と、いって、事務長の方をふりかえった。
「でも、本船の貯蔵量は、ほんとにぎりぎり間に合うだけしかないのですから、どうですかな」
 事務長は、分譲に反対の口ぶりだった。
「うむ、まあ海のうえでは、船のりと船のりとは相身互(あいみたが)いだ。すこしでいいから、なんとか融通してやったらどうじゃ」
 虎船長は、若い日の船乗り生活の追憶からして、相身互いの説もちだした。
 事務長は、だまっていると、傍にいた一等運転士の坂谷が、船長と事務長の間にわって入り、
「じゃあ、こうしてはどうですかなあ。こっちからノーマ号へ出かけていって、むこうのいうがごとくはたして壊血病患者がどんなに多数いるかどうかをたしかめたうえで、野菜や果実をわたしてやったがいいではありませんか」
 坂谷は、なかなかうまいことをいった。
「ああ、それならよかろう。事務長も、賛成じゃろう」
 と虎船長は、事務長の同意を確かめたうえで、飲料水一斗、野菜二貫匁、林檎三十個を、ボートで持たせてやることにして、その指揮を事務長にやらせることにした。
「よろしい、行ってきます」
 事務長は、気がるに立ち上った。
 そのときであった。
「船長。私も、事務長と一緒に、ノーマ号へやってください」
 船橋の入口に立っていた水夫竹見が、いきなり船長の前へとびだしてきた。
「ううっ、竹見か、お前は、行くことならんぞ。下船(げせん)したいなどといい出すふらちなやつだ……」
「ちがいます。私が下船したいといったのは……」
「だまれ、竹見」と船長は、あかくなってどなりつけた。
「わしは船長として貴様にめいずる。只今からのち貴様は本船内で一語も喋(しゃべ)ってはならん。しかと命令したぞ。下へいって、謹慎(きんしん)しておれ」
 船長は竹見に対して、たいへん不機嫌をつのらせるばかりだった。
 一体竹見は、なぜ下船したいなどと、とんでもないことをいいだしたものであろうか?


   意外な人物


 ノーマ号では、飲料水などを、平靖号が頒(わ)けてやってもいいという返事に、いろめきわたった。だが、ノーマ号からボートを下そうといったのに対し、平靖号は、こっちが品物をボートに積んでそっちへいくといって聞かないので、ちょっと当惑をしたらしく、しばらくは、その返事をよこさなかった。
 やがてのことに、やっと応諾(おうだく)の返事が、ノーマ号からあがったので、いよいよ事務長はボートを仕立てて、六人の部下とともに海上に下りた。
 事務長は、みずから舵(かじ)をひいた。
 飲料水と野菜と果実とは、舳にあつめられ、そのうえに大きなカンバスのぬのをかぶせてあった。
 虎船長は、本船をはなれていくボートをじっとみていたが、側をかえりみて、
「おい、一等運転士。あの荷は、ばかに大きいじゃないか。事務長は、もっていく分量を、まちがえたんじゃあるまいな」
「そうですね」と坂谷はくびをかしげて「まさか、事務長が、分量をまちがえることはありませんよ。事務長は、林檎一つさえ、ノーマ号へやりたがらなかったんですからねえ」
「そういえば、そうだが、他人に呉れてやる物は、いやに大きくみえるのが人情なんだろうか」
 船長は、ふしぎそうに、くびを左右へふった。
 そのうちに平靖号のボートは、停船しているノーマ号の舷側についた。縄梯子(なわばしこ)は、すでに水ぎわまで下されていた。
 例のカンバスが、一度とりのぞかれたが、すぐ元のように、品物のうえに被せられた。ノーマ号の船員に、ちょっと見せただけのようであった。
 ボートからは、事務長を先頭に、三人の者が、縄梯子をするするとのぼって、ノーマ号の甲板に上った。
 ノーマ号の、高級船員らしいのが五六人、そこへ集ってきて、なにか協議をはじめた様子である。きっと、壊血病患者がたくさん出たという先方のはなしをたしかめたうえでないと、品物を売りわたすことはできないといっているらしい。
「おやッ、あれはおかしいなあ」
 とつぜん、船長が叫んだ。
「な、なんです。おかしいというのは……」
 一等運転士が船長の顔をみた。
「あれみろ」と船長は、ボートの方をゆびさして「ノーマ号の上にのぼった奴は三名、ボートには、五名のこっているじゃないか。合計して八名。どうもへんだ」
「ははア」
「ははアじゃないよ。君もぼんやりしとるじゃないか。いまボートにのって出懸(でか)けたのは、事務長と六名の漕手(こぎて)だから、みんなで七名だ。ところが今見ると、いつの間にやら八名になっている」
「ははア、するといつの間にかどっかで一名ふえたようですな。これはどうもふしぎだ」
 と、一等運転士は、口では愕(おどろ)いているが、態度では、そんなに愕いていない。彼はすでに、なにごとかをよきしていたようだ。
「ああッ、彼奴だ」と船長が大きなこえを出した。「竹見の奴、いつの間にか、本船をぬけだして、ノーマ号の甲板(かんぱん)に立っていやがる。あいつ、どうも仕様がないやつだなあ」
「えっ、やっぱり竹見でしたか」
「うぬ、船長の命令を聞かないで、わが隊のとうせいをみだすやつは、もうゆるしておけない。かえってきたら、おしいやつだが、ぶったぎってしまう」
 虎船長はついに激怒してしまった。
 その当人、竹見太郎八は、悠々とノーマ号の甲板をぶらぶらと歩いている。事務長が、ノーマ号の高級船員を相手に、強硬に主張をつっぱっているには、一向おかまいなしで、むこうの水夫をつかまえて、手真似ではなしをしている。
「どうだい。これは胡瓜(きゅうり)の缶詰だ。ほら、ここに胡瓜のえが描いてあるだろう。欲しけりゃ、お前たちに呉れてやらねえこともないぜ、あははは」
 集ってきたノーマ号の水夫たちは、竹見の顔色をうかがいながら、ごくりと咽喉(のど)をならした。
「われわれは、その缶詰が欲しい。そのかわり、汝(なんじ)はなにをほっするか」
 と、むこうも手真似だ。
「そうだねえ――」
 と、竹見はいって、ポケットから煙草(たばこ)を一本だして口にくわえ、ぱっと燐寸(マッチ)をつけた。
 すると、ノーマ号の船員たちは、一せいに呀(あ)っとさけんで、真青になった。
 なぜ彼等は、青くなったのであろうか。


   煙草(たばこ)をなぜ嫌う?


 ノーマ号の船員の一人が、水夫竹見のそばへとびこんできたと思うと、いきなり手をのばして、竹見の口から、火のついた煙草をもぎとった。
「あれッ、らんぼうするな。おれに、煙草をすわせないつもりか」
 竹見は、ことばもはげしく、中国語でどなりつけた。そしてすばやくみがまえた。だが、彼の眼光は、どうしたわけか、てつのように冷たくすんで、相手の顔色をじっとうかがっていた。
「いのち知らずの、黄いろい猿め! とんでもない野郎だ!」
 そういったのは、ノーマ号の船員だ。
 彼は、竹見からもぎとった火のついた煙草を、大口あいて、ぱくりと口中(こうちゅう)へ! まるで、はなしにある煙草ずきの蛙のように。
「おや、この煙草どろぼうめ。おれには、煙草をすわせないで、ひったくって食べっちまうとは、呆(あき)れたやつだ」
 水夫竹見が、一本うちこむ。
 が、このときはやく、かのときおそく、かの碧眼(へきがん)の船員は、ぷっと煙草をはきだし、
「あ、あつい!」
 と叫ぶ。そして甲板(かんぱん)へぺたりと落ちた煙草を、足下に踏みにじった。もちろんこのとき、煙草の火はきえていたけれど、
「あははは、ざま見ろ。火のついた煙草を喰って、やけどをしたんだろう。ふふふふ、いい気味だ」
 竹見は、へらず口をたたいて大いに、わらった。
 だが相手の船員たちは、真剣なかおで同僚の足元に視線をあつめる。そして煙草に、火のついていないのをたしかめると、ほっとした面持(おももち)になった。言葉を発する者さえない。
 竹見は、いじわるくにやりとわらって、ポケットに手を入れた。そしてまた新たに一本の煙草をとりだして、唇の間へ、ひょいとくわえた。
 おどろいたのは、ノーマ号の船員たちだ。わっとわめいて、一せいに水夫の竹見におどりかかった。竹見は、
「な、なにをするッ!」
 と、どなったが、もちろん多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)で、とてもかなわないと見えたし、そのうえ、じつはこのとき竹見にもいささか考えがあって、わざと相手のやりほうだいにまかせておいたのだった。
 すると相手は、ますますいい気になって、竹見のポケットに手をさし入れた。なにをするかとみていると、煙草の入った箱とマッチとを、だつりゃくした。そして、その二つの品物を、こわごわ舷側(げんそく)から海中へ、ぽーんとすてたものだ。
 それでもまだ心配だとみえて、舷側からわざわざ海面をみて、この二つの品物がたしかに水びたしになっているのを確かめている者もあった。なぜそんなに煙草とマッチが、きらいなのであろうか。
 このとき、竹見がさけんだ。
「ちえっ、おれをあまく見て、よくもまあ大勢でもって手ごめにしやがったな、それじゃこっちも、胡瓜の缶詰をかえしてもらうよ」
 どうせ相手にはわからないであろうところの中国語でしゃべって、さっき竹見が船員中のおとなしそうな一人にくれてやった胡瓜の缶詰を、すばやくうばいかえした。
 報復手段なのである。どっちもまけてはいない。
「あっ、それはおれが貰った缶詰じゃないか」
 その船員は、びっくりして竹見にとびかかってきたが、彼は相手にならないで、ひらりとからだをかわした。このことは、その相手の船員ばかりでなく、附近に立ち並んでいた彼の同僚に少からぬ失望をあたえたようである。そうでもあろう、そういう野菜ものにうえていた彼等は、あたらきゆうりのお裾分(すそわ)けを失ってしまったのだから。
 船員たちは、たがいに顔を見合わせて、なにか早口にどなり合っていたが、やがて一同は、やっぱり胡瓜の缶詰にみれんがあると見え、竹見の傍へよってきて、ぐるっと取まいた。
「こら、その缶詰を、こっちへかえせ」
「さっきおれたちがもらった缶詰だ。こっちへよこせ」
 竹見から煙草とマッチをうばいとったことなどは知らんかおで、多勢を頼んで水夫竹見に肉薄してくるそのずうずうしさには、あきれるよりほかない。
 竹見は、べつにおどろきもしない。ふふんと鼻のさきでわらうと、とびかかってくる奴の腕を、かるくふりはらって、ぐんぐん前へ出ていく大胆さ。そこで彼は、さっきからこの有象無象(うぞうむぞう)とは別行動をとり、ウィンチにもたれて、こっちをじろじろしていた一人の、たくましい水夫の前にちかづき、
「おい、お前にこれをやるよ」
 と、もんだいの缶詰をさしだした。
 すると相手は、にやりと笑って、竹見のさしだす缶詰をうけとった。


   巨人ハルク


「やい、ハルク、その缶詰は、おれたちのものだ。こっちへよこせ」
 ハルクというのは、その逞(たくま)しい巨人水夫の名のようだ。缶詰にみれんたっぷりの船員たちはハルクの前へおしかけて、うばいかえそうとする。
「……」
 巨人ハルクは、一語も発しないで、近づいてくる船員のかおをじろりじろりとながめまわす。そして缶詰をわざと顔の前でひねくりまわして、ごくりと唾をのんでみせたりする。こいつはかえって気味がわるい。
 いきおいこんだ船員たちは、猫ににらまれたねずみのように、もう一歩も前に出られなくなった。
「やい、ハルク。意地わるをすると、あとで後悔しなければならないぞ」
 ハルクは、どこを風がふくかといったかおであった。
 竹見は、ハルクが、ばかに気に入った。彼はそこでハルクの前へいって、右手をさしのばした。
「ハルクよ。お前は世界一の巨人だぞ!」
「ふふん、それほどでもないよ」
 ハルクがはじめて口をきいた、しかも片言ながら、とにかく広東(カントン)語で……。そして二人は、しっかり握手をしてしまったのである。そこで、さしものめんどうな胡瓜の缶詰事件も、一まず、かたづいた。
 こっちで缶詰事件が起っている間に、平靖号から野菜その他をもってノーマ号へ出掛けた事務長の一行は、とどこおりなく取引をすませた。ノーマ号の船長ノルマンは、金貨でその代金をはらったが、その支払いぶりは、なかなかよかった。よほど金がある船であるのか、それともよほど野菜類にこまっていたものらしい。
「貴船は、これからどこへいかれるのですか」
 平靖号の事務長は、中国人らしい発音で、ノルマンにたずねた。
「本船は、サイゴンをへて、シンガポールに出るつもりだよ」
 ノルマン船長は、たいへんおちついた紳士のように見えた。おそろしくやせぎすで、大きな両眼は、日よけの色眼鏡によって遮蔽(しゃへい)されてあった。
「貴船は貨物船らしいが、なにをつんでおられるのですか」
「鉱石である」
 鉱石である――という返事が、ばかにはやくとびだした。まるでさっきからこれをきかれることを予想して、すぐ出せるように用意しておいた返事のように聞えた。
「鉱石というと、どんな種類の鉱石ですか」
 ノルマン船長のくちびるが、ぎゅッとまがった。
「もう用事はすんだのだ。いそいで帰りたまえ」
 ノルマン船長は、はじめて叱咤(しった)するようにさけんだ。彼の語尾は、かすかにふるえおびていた。
 事務長の質問が、ノルマンの気にさわったらしい。
「ねえ、事務長」
 そのとき、事務長のうしろからこえをかけた者がある。それは一緒にノーマ号へのりつけた一行の中の一名、丸本という水夫だった。
「なんだ」
「本船からの信号でさあ。はやくかえってこいといってますぜ」
 事務長は、うむとくびをふって、
「ああ、いますぐかえると、手旗信号で返事をしてくれ」
「ねえ、事務長」
「なんだ。まだなにかあるのか」
「へえ、もう一つ、厄介(やっかい)なことをいってきました。虎船長から、じきじきの命令でさあ」
 といって、常日ごろ、ばかに年寄りじみたことをいうので、“お爺(じい)”と綽名(あだな)のある丸本水夫だが、すこし当惑(とうわく)の色が見える。
「なんだ、やっかいなことというのは」
「ほら、あの竹(たけ)のことでさあ。さっきわれわれ一行の中に紛(まぎ)れこんでいましたね。彼奴はカンバスの下に野菜と一緒になってかくれていたんですよ。ところが虎船長、大の御立腹(ごりっぷく)ですわい。いまも船からの信号で、竹の手足をしばってつれもどれとの厳命(げんめい)ですぜ。ようがすか」
「ふむ、そうか。竹見……いや竹の手足をしばってつれもどれと、船長の命令か。無理もない、船長の許可なくして船をぬけだすことは、一番の重罪だからな」
「じゃあ、やりますかね」
「なにを?」
「なにをって、竹の手足を縛(しば)ってつれてかえるかということです」
「もちろんだ。なぜそんなことをきくのか」
「だって、彼奴は大力があるうえに、猿のように、はしっこいのですからね。こっちがつかまえると感づくと、この船内をはしりまわって、なかなかつかまえられませんぜ」
「ふーん、それはお前のいうとおりだな」
 と、事務長はうらめしそうなかおになって、本船の方をふりかえった。本船の甲板では、虎船長が、椅子のうえにどっかとすわって、こっちをにらんでいた。


   投(な)げナイフ


「おい、こまったな。お前一つ、骨をおってくれないか」
「えっ」
「お前は竹と仲よしなんだろう。だからお前がむかえば、竹は反抗しないでつかまるだろう」
「ごめんこうむりましょう。そんなことをすれば、わしゃ、ねざめがわるいや。とらえられりゃ、どうせ竹の野郎は、死刑にならないまでも、船底に重禁錮(じゅうきんこ)七日間ぐらいはたしかでしょう」
 丸本は、なかなか承知をしない。
 事務長も、これにはかえす言葉もなかったが、さりとてこんなところにぐずぐずしているわけにもいかない。
「竹の刑罰のことは、おれが保証して、かるくしてやるから、お前(まえ)一つつかまえろ」
「困ったなあ。重禁錮にしない約束、くい物と酒はたっぷり竹にやってくれる約束、それなら引受けますぜ。わしゃ計略(けいりゃく)をもって、竹のやつを縛っちまいまさあ」
「くうものはくい、のむものはのむ囚人なんて聞いたことがないが……仕方がない、おれが虎船長にとりなすから、はやくお前はかかってくれ。おれたちはこっちで、おとなしく控(ひか)えている、しかし加勢をしろと合図(あいず)をすれば、すぐとびかかるから」
「ようがす。じゃあ、いまの約束は、男と男との約束ですぜ。まちがいなしですぜ」
「うん、くどくいわなくてもいい。まちがいなしだ」
 ノルマン船長を前にして、二人は気がねをしながらも、早口の相談一決!
 そこで丸本は、ノーマ号のともの方へ、のこのことでかけていった。それと入れかえに、事務長は、部下を彼のかたわらへよびよせて、いつでも丸本に加勢のできるように用意をした。
 丸本は、どんな計略をもっているのであろうか。彼の歩いていく後から見ると、いつの間にか麻紐(あさひも)で輪をこしらえて、かくし持っている。
「おい竹……おい、竹」
 丸本に呼ばれて、竹見は知らぬが仏で、安心しきってノーマ号の船員の間をかきわけ、前へ出てくる。
「おい竹よ。いま事務長さんから特別手当が出た。ほら、わたすよ。手を出せ」
「なんだ。特別手当だって、いくらくれるのか知らないが、はて、あの事務長め、いつからこんなに気がきくようになったか」
 と、ひょいと手を出すところを、丸本がまっていましたとばかり、麻紐の輪をかけてしまった。
「あっ、おれをどうするのか」
「わるくおもうな、おとなしくしろい。お前を縛ってつれもどれと、虎船長の命令だ」
 竹見は、しばらく目をぱちぱちしていたが、
「いやだい。あんな船へ、だれがかえるものか。お前、おれを売ったな」
「売ったなどと、人聞きのわるいことをいうな。これもお前のためだ。わしは飯(めし)も酒も……」
「いうな、うら切りお爺(じい)め! お前なんぞにふんづかまってたまるかい」
 といってはねのけようとする。そのときばたばたとかけてきたのは、待機中の事務長をはじめ派遣隊の連中だった。この連中にそうがかりになっては、大力の竹見といえどもどうにもならない。
「おーい、ハルク、だまってみていないで、おれをたすけてくれ。おれが捕って本船へつれもどられると、死刑になっちまうんだ」
 それを聞くと、ハルクはウィンチの下からのっそり前に出てきた。彼は、太い筋の入った両腕を、ゆみのようにはって、竹見の加勢をすると見せた。
「よせよせ、ハルク」
 他の船員たちが忠告した。しかしハルクは缶詰をもらったおれいの分だけ、力を出すつもりであった。
 平靖号の船員対ハルクの乱闘のまくは、今にもノーマ号の甲板の上に切っておとされそうになった。
 そのとき竹見は、ハルクの後へ退(さが)っていたが、睨(にら)み合いの相手丸本をいつになくきたない言葉でののしり、
「やい、うら切り者よ。これが受けられるなら受けてみろ」
 というなり、竹見の掌(てのひら)からぴゅーんといきおいよく、一挺のナイフが丸本の方へとんでいった。竹見のなげナイフ。丸本のとめナイフ――といえば、平靖号の名物の一つだ。どっちも神技というべきわざをもっている。だが今は曲技(きょくぎ)くらべではない。丸本は、竹見が自分に殺意を持っていると見て、大立腹(だいりっぷく)だ。ぴゅーととんでくるナイフを、ぴたりと片手でうけとめ、ただちに竹見の心臓をねらってなげかえそうとしたが、そのとき妙な手触(てざわ)りを感じた。見ると、ナイフの柄(え)に、シャツをひきちぎったような布ぎれがむすんであった。
「おや!」
 と叫んだ、丸本はその布ぎれに、なにか字が書いてあるのに気がついた。


   火薬船


 丸本は、はっとおもった。
 どうも、さっきから、竹見のそぶりという奴が、一向(いっこう)腑(ふ)におちない。あれほどの仲良しの竹見から、ナイフを、なげつけられようなどとはまったく想像もしなかったのである。でも、とんでくるナイフは、ぜひ受けとめねばいのちにかかわる。そこで、こっちも手練の早業(はやわざ)で、やっとナイフを受けとめてみると、そのナイフの柄に、布(ぬの)ぎれがついていたのであった。それにはおどろいた。
 いや、愕(おどろ)きは、そればかりではない。その布ぎれには文字がしたためてあった。彼は、すばやくその文字を拾いよみした。
“火ヤク船ダ。オレハノコルヨ”
 彼は、たてつづけに二三度、それをよみかえした。しかし、そのいみを諒解(りょうかい)するには、まだその上、五六度(ど)もよみかえさねばならなかった。そして、その真意がわかったとき、丸木のからだは、昂奮(こうふん)でぶるぶるふるえだした。
「うむ、“火薬船だ、俺は残るよ”そうか、このノーマ号は火薬をつんだ船なのか、それで、竹見のやつが、この船にのこるというのか」
 丸本は、ちらと、竹見の方に、すばやい眼をはしらせた。
“どうだナイフにつけてやった手紙の文句のいみが分るか”
 と、いいたげな竹見の目附であった。
「竹見の奴、このノーマ号が火薬船だから残るというが、火薬船なら、なぜ残らなければならないのか」
 こいつは、ちょっとばかり謎がむずかしい。丸本には、竹見の意中が、どうもよく分らなかった。が、それが分らないといって、ぐずぐずしていられないこの場であった。
 そのとき、丸本のかたをたたいたものがある。それは事務長だった。
「おい、丸よ。なにをぐずぐずしているんだ。はやく、その麻紐(あさひも)を、手元へ引(ひっ)ぱれ」
 そうだ、麻紐の一端が、脱船水夫の竹見の片手を、しっかりと捉えているのだ。竹見はこの船に居残るという。しからば、この紐をはなしてやらなければなるまい。といって、この場合、下手なはなしようをすれば、ノーマ号の船員どもにさとられるから、竹見の後のためによろしくあるまい。日ごろ、和尚(おしょ)さんのようにおちついている丸本水夫も、こうなっては、煙突のうえで、きゅうに目かくしされたように、狼狽(ろうばい)しないではいられない。
 でも、ぐずぐずしてはいられなかった。すすむにしろ、しりぞくにしろ、ここで一秒たりともためらっていることはゆるされないのだ。彼は、ついに決心した。
「こらッ、竹の野郎! もう誰がなんといっても、おれがゆるしちゃおかないぞ。手前(てめえ)の生命は、おれがもらった!」
 すさまじく憤怒(ふんど)の色をあらわし、なかなか芝居に骨がおれる丸本は、竹見の手首を縛った麻紐を、ぐっと手元へ二度三度手繰(たぐ)った。
 すると竹見の身体は、とんとんと前へとびだして、つんのめりそうになった。
「うん、野郎!」
 ハルクが、たくましい腕をのばして、横合(よこあい)から麻紐をぐっと引いた。
 とたんに、麻紐が、ぷつんと切れた。
「あっ」
「うーむ」
 丸本も竹見も、前と後(うしろ)のちがいはあるが、ともにどっと尻餅をついて、ひっくりかえった。巨人ハルクさえが、あやうく足をさらわれそうになった。――麻紐は、なぜ切れたのか。それは丸本の早業だった。手ぐるとみせて、彼は手にしでいたナイフで、麻紐をぷつんと切断したのであった。
 巨人ハルクは、ゴリラの如く、いかった。
「な、生意気な! もう勘弁がならないぞ!」
 と、大木のような両腕をまくりあげて、じりじりと前へ出てくる。
 これを見て、おどろいたのは、丸本よりも平靖号の事務長だった。いや、事務長ばかりでない。その後につきしたがう平靖号の乗組員たちであった。いよいよこれは、ものすごい乱闘になるぞ、そうなると、最早(もはや)生きて本船へかえれないかもしれないと、顔色がかわった。
 丸本も、立ち上って、今はこれまでと、みがまえた。
 巨人ハルク、その後に水夫竹見、そのまた後に、ノーマ号のあらくれ船員どもがずらりと、一くせ二くせもある赤面(あかづら)が並んで、前へおしだしてくる。ノーマ号の甲板(かんぱん)上に、今や乱闘の幕は切っておとされようとしている。
 甲板のうえは、たちまち鼻血で真赤に染まろうとしている。こうなっては、どっちも引くに引かれぬ男の意地、さてもものすごい光景とはなった。


   俺は若い!


「みんな、停(や)めろッ!」
 とつぜん、晴天の雷鳴(らいめい)のように、どなった者がある。
 船長だ。ノーマ号の船長、ノルマンだ。いつの間にか、船長ノルマンは、双方(そうほう)の間へとびだしていた。
「おお」
「うむ、いけねえ」
 双方とも、ぎくりとして、にぎりこぶしのやり場に当惑(とうわく)した。
「こらッ、喧嘩(けんか)したいやつは、こうして呉れるぞ」
 ノルマン船長の足が、つつと前に出たかと思うと、彼の両腕が、さっとうごいた。と思うとたんに、彼の両腕には、すぐ傍にいた平靖号の水夫一名と、ノーマ号の水夫一名とが、同じく襟(えり)がみをとられて、猫の子のように、ばたばたはじめた。このほそっこい船長には、見かけによらない力があった。そのまま船長は、つつッと甲板をはしって、
「えいッ。」
 というと、二人の水夫を、舷からつきおとした。おそるべき力だ。船長は、或る術を心得ているのかもしれない。
 どどーンと、大きな水音(すいおん)がした。
「どうだ。後の奴も、海水の塩辛(しおから)いところを嘗(な)めて来たいか。希望者は、すぐ申出ろ」
 と、威風堂々と、あたりを見まわしたが、そのいきおいのはげしいことといったら、見かけによらぬノルマン船長の怪力を知らない者は、窒息(ちっそく)しそうになったくらいである。
「おい、みんな。帰船だ」
 事務長は、そういって、ノルマン船長に、型ばかりの挙手の礼をおくると、自分はいそいで、舷側に吊った縄梯子(なわばしこ)の方へ歩いていって、足をかけた。
 丸本が、その後につづいた。
 そうして、一同は、大急ぎで縄梯子をおりて、ボートにうちのった。
「漕(こ)げ!」
 事務長は、舵(かじ)をひきながら、命令した。
「竹見の奴は、あのままでいいのですか」
 と、一人の水夫が聞いた。
「うむ――」
 と、事務長は、答えにつまった。
「仕方がないじゃないか。それとも、お前に智恵でもあるか」
 これは丸本の言葉だった。
 水夫は、だまってしまった。
 ボートは、だんだんとノーマ号からはなれていく。事務長は、舵をとりながら、ノーマ号の船上に、脱走水夫竹見のすがたをもとめたが、どこにいるのか、さっぱり分らなかった。ただそこには、ノーマ号の水夫たちが、おもいおもいに、こっちを馬鹿にしきったかおで、見おくっていた。
 まったくのところ、馬鹿にされたようなこのボート派遣であった。
 さて竹見は、一体どうしたのであろうか。彼は、前から退船の意志をもっていた。その理由は、虎船長に具申(ぐしん)したたびに、後にしろとかたづけられてしまったが、彼の真意は、駆逐艦松風の臨検隊員をむかえて、ああ自分も志願して、天晴れ水兵さんになって、軍艦に乗組み、正規の御奉公したいと、急にそういう気にかわったのである。すると、中国船平靖号の一員として、そのままいることが厭(いや)になった。そこへ虎船長には、こっぴどくおこられる。どうにでもしろと、こっちも中(ちゅう)ッ腹(ぱら)になっているところへ、ボートがノーマ号に出かけることになったが、こいつがまた虎船長から、はっきり停(と)められてしまったので、どうせ怒られ序(ついで)だとおもって、脱船をしてしまったのである。
 そういうことはよくない事だった。船長の命令をまもらないのは、わるいことだと、竹見は百も二百も承知していた。しかしながら、彼はわかかった。海へ出て来たのは、生命(いのち)をまとに、おもいきり冒険をするためだった。若い者は、なんでもはやいところむさぼり食(く)いたい。冒険味だってそうだ。平靖号乗組員として参加したのもそうなら、水兵さんになりたいとおもったのもそうである。三転して、ノーマ号へいって、外人のかおを見ないではいられない衝動にかられたのも、やっぱりそれだった。若い者は、気もみじかい。ことに竹見にいたっては、非常に気がみじかい。
 気がみじかいことは、一めんから見れば、たいへんよろしくない。しかし他の一めんから見れば、それほど心が目的物にむかってもえている証拠であって、若い者なればこその特長である。
 気がみじかいという性質を、悪いところへ用いてはよくない。我儘(わがまま)と混同せられるからである。しかし、気がみじかいという性質を、良いところへ用いれば、ずいぶんといい仕事が出来る。今の世に、仕事をしない人間は、無駄であり、邪魔でさえある。気みじかを善用して、どんどん仕事をはこんでいい若い者は、大いにほめてやっていい。そういう気みじかい若者が、少ければ、国家は亡びるのじゃないかと思う。
 とにかく、竹見は、気がみじかく、冒険を慕ってどんどんうごいているうちに、秘密の火薬船ノーマ号のうえに、ただ一人取りのこされてしまったというわけである。


   “死(し)に神(がみ)”船長


 ノーマ号を火薬船だと、観察した竹見の眼力(がんりき)は、なかなかえらいものだった。
 煙草(たばこ)を甲板(かんぱん)で吸うと、船員たちが顔色(かおいろ)をかえた。――たったそれだけのことで、竹見は万事をさとったのである。
(火薬船とは、こいつは有難(ありがた)い!)
 竹見は、思いがけない宝の山をほりあてたように思った。これなら、彼のあこがれている冒険味百パーセントの世界だ。彼は、当分この船で、スリルを満喫(まんきつ)したいとかんがえた。
 それだけではない、竹見をしてこのノーマ号に停まらせた理由があった。
 それは外でもない。この切迫した世界情勢の下において、香港(ホンコン)の南方を、変な国籍の船が火薬を満載して、うろうろしているなんて、どうもただ事ではないとおもったからである。
(ふむ、この火薬船が、どこでなにをやるつもりなのか、これは日本人としてうっかりしていられないぞ!)
 そうおもった彼は、得(え)たりや応(おう)と、ノーマ号でがんばることに決めてしまったのである。ノーマ号が、これからなにをするか、それを監視してやろう。これはきっとおもしろいことになるぞと、ほくそ笑(え)んだのである。
 巨人ハルクを、いちはやく味方につけたことは、竹見のはやわざであった。竹見は、ハルクさえ味方につけておけば、あとはこの船に停(とどま)ることなんて、わけはないものとかんがえていた。なにしろ、中国人水夫はよく働くことは、世界中に知れていることであるから、ハルクの口ぞえで、簡単に船長ノルマンにとりなしてもらえるものと決めていた。
 ところが、事実は、そうかんたんには、いかなかったのである。“死に神”という綽名(あだな)のあるこの秘密の火薬船の船長ノルマンだった。これが一通りや二通りでいくような、そんな他愛のない船長とは、船長がちがうのであった。
「おい、ちょっと、ここへ出てこい!」
 船長ノルマンは、船橋のうえから、甲板へこえかけた。これもちょっとした中国語をつかう。
「へえ、――」
 竹見は、わざと頭脳のにぶそうな声で、返事をした。
「へえじゃないぞ。いそいで、ここへ上ってこい」
 船長の語気は、一語ごとにあらくなっていく。
(船長め、どうしたのかナ)
 竹見は、白刄(はくじん)で頸(くび)すじをなでられたような気味のわるさをかんじた。
「へえ、ただ今」
 とこたえて、竹見は、ハルクに、ちくりと目配(めくば)せした。
 ハルクは、無言のままあごをしゃくった。
(船長のいうとおり、船橋(せんきょう)へのぼれ)
 といっているのである。
 竹見は、にやッとわらって、いそぎ足で、昇降段(しょうこうだん)をのぼった。
 下から、ほッほッという嘆声(たんせい)が聞えた。竹見がましらのように身軽にのぼっていったのを、水夫どもが感心しているらしい。
「へえ、なにか御用ですか」
 と、竹見はぬっとかおを前につきだした。
 船長ノルマンは両腕をくんで、けわしい目つきで、竹見をじっとにらみつけた。
「貴様は、なぜ本船へかえらないのか」
 するどい船長の質問だ。
「へえ、私はもう、あの船へかえりたくないんです」
「なぜ。なぜか、そのわけをいえ」
「かえれば、死刑になりますからね」
「なぜ死刑になる?」
「へえ、それは――」といったが、竹見はちょっとどぎまぎした。
「それはその、仲間をちょいとやって、監禁されていたんでがすよ。死刑になる日まで、どこに待つやつがあるもんですか。丁度いい塩梅(あんばい)に、ボートがこっちへ出るということを聞いたもんで、それにもぐりこみやした」
 竹見は、口から出まかせを、べらべらしゃべりながら、よくまあこうもうまいことが喋(しゃべ)れるものだと、自分ながら感心した。
 船長ノルマンは、苦(に)が虫(むし)をかみつぶしたようなかおをして、聞いていた。そして竹見の言葉がおわっても、そのまま無言で、竹見をにらみつけていた。
 あまりいい気持のものではない。
 二三分たった後のこと、ノルマンは、熱が出た病人のようにからだをぶるぶるとふるわせると、はきだすようにいった。
「うそをつけ、小僧。貴様は日本人じゃないか!」


   手剛(てごわ)いノルマン


 水夫竹見は、肚(はら)のなかで、あっとさけんだ。
“うそをつけ、小僧、貴様は、日本人じゃないか!”
 と、船長ノルマンから、だしぬけに一かつをくらわせられたのである。全く不意打(ふいうち)をくらったので、びっくりした。だが、竹見は、こういうときのしぶとさについては、人後におちない自信があった。
(ふン、なにをぬかすか)
 と、口の中でいっていた。
「どうだ。ちゃんと、当ったろう。当ったら、すなおに、日本人ですと白状(はくじょう)しろ」
 船長ノルマンは、威丈高(いたけだか)になって、竹見をきめつけた。
「日本人だったら、大人(たいじん)は、なにか、わしに呉れるんですかい」
「よくばるな。貴様に何一つ、呉れてやる理由があるか」
「なあんだ。それじゃ、日本人であってもなくても、同じことだ。つまらねえ」
 と、いいすてて、竹見は、船長にくるりとしりをむけて、むこうへいこうとする。
「まて、小僧、まだ話はすんじゃいないのだ」
 船長ノルマンは、ふたたびどなりつけた。
「やれやれ、まだ話が、のこっているのですかい」
 竹見は、わざとつまらなさそうな顔をして、もどってきた。
「貴様は、相当図々(ずうずう)しいやつだ。一たい、誰のゆるしを得て、このノーマ号のうえを歩いているのか」
「わしの気に入ったからですよ」
「なにッ」
「おどろくことはありませんや。船長さん、あなただって、この船が気に入ってればこそ、こうしてノーマ号にのって、船長とかなんとかを引きうけているのでしょう」
 竹見は、おそれ気(げ)もなく、いいはなした。
「ふふン」
 さすがに、船長ノルマンは、おちついたものである。はらを立てないで、鼻さきでちょっとわらったばかりだ。
「とにかく、貴様みたいなわけのわからない小僧には、貴重な本船の食糧を食べさせておくわけにはいかん、日本人ならともかくもだが、中国人などに、用はない」
「……」
「用はないから、貴様をかたづけてやる。わが輩の腕力が、いかに物をいうかについては、貴様もさっき舷(ふなばた)をとびこえて二匹の濡(ぬ)れねこが出来あがったことを知らないわけじゃあるまいね。どうだ」
 船長ノルマンは、さっき二人の水夫を、舷ごえに、海中へなげこんだことをいっているのであろう。
「よわい者を、おどかしっこ無しだ」
「なにを、ぐずぐずいうか」
 船長ノルマンは猿臂(えんぴ)をのばして、水夫竹見の襟髪(えりがみ)をぐっとつかんだ。怪力だ。竹見はそのままひっさげられた。足をばたばたしたが、足の先に、どうしても甲板(かんぱん)がさわらないのであった。それでは、どうすることもできない。
「さあ、どうだ。このまま舷へもっていって、ぽいとすててやろうか」
「なぜすてるのか」
「わかっているじゃないか。
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