超人間X号
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著者名:海野十三 

超人間X号海野十三   大雷雲(だいらいうん) ねずみ色の雲が、ついに動きだした。 すごいうなり声をあげて、つめたい風が、吹きつけてきた。 ぐんぐんひろがる雲。 万年雪をいただいた連山の峰をめがけて、どどどッとおしよせてくる。 ぴかり。 黒雲の中、雷光(らいこう)が走る。青い竜がのたうちまわっているようだ。 雷雲はのびて、今や、最高峰の三角岳(さんかくだけ)を、一のみにしそうだ。 おりしも雷鳴(らいめい)がおこって、天地もくずれるほどのひびきが、山々を、谷々をゆりうごかす。三角岳の頂上に建っている谷博士(たにはかせ)の研究所の塔(とう)の上に、ぴかぴかと火柱(ひばしら)が立った。 つづいて、ごうごうと大雷鳴が、この山岳地帯の空気をひきさく。 黒雲はついに、全連峰をのみ、大烈風(だいれっぷう)は万年雪をひらひらと吹きとばし、山ばなから岩石をもぎとった。 このとき、谷博士は、研究所の塔の下部にある広い実験室のまん中に、仁王立(におうだ)ちになって、気がおかしくなったように叫んでいる。「雷(らい)よ、もっと落ちよ。もっと鳴れ。稲妻(いなずま)よ。もっとはげしく光れ。この塔を、電撃でうちこわしてもいいぞ。もっとはげしく、もっと強く、この塔に落ちかかれ」 博士は、腕をふり、怒号(どごう)し、塔を見あげ、それから目を転じて、自分の前においてある大きなガラスの箱の中を見すえる。 その大きなガラスの箱は、すごく大きな絶縁碍子(ぜつえんがいし)の台の上にのっている。箱の中には、やはりガラスでできた架台(かだい)があって、その上に、やはりガラスの大皿がのっている。そしてその大皿の中には、ひとつかみの、ぶよぶよした灰色の塊(かたまり)がのっている。どこか人間の脳髄に似ている。海綿を灰色に染め、そしてもっとぶよぶよしたようにも見える。なんともいえない気味のわるい塊である。 しかもその灰色のぶよぶよした塊は、周期的に、ふくれたり、縮んだりしているのであった。まるでそれ自身が、一つの生物であって、しずかに呼吸をしているように見えた。 いったいその気味のわるい塊は、何者であったろうか。 ガラスの箱のまん中に、その気味のわるい塊があり、その塊を左右からはさむようにして、大きな銀の盤のようなものが直立して、この塊を包囲(ほうい)していた。その銀盤は、よく見ると、内がわの曲面いっぱいに、たくさんの光った針が生えていた。 その針と反対のがわには、銀色の棒があって、これが左右ともガラス箱の外につきでていた。そして、ガラス箱の真上十メートルばかりの天井の下の空中にぶらさがっている二つの大きな火花間隙(ひばなかんげき)の球(きゅう)と、それぞれ針金によって、つながれてあった。 この大じかけの装置こそ、谷博士が自分の一生を賭(か)け、すべての財産をかたむけ、三十年間にわたって研究をつづけている人造生物に霊魂(れいこん)をあたえる装置であった。そしてその装置を使って最後に霊魂をあたえるには、三千万ボルトの高圧電気を、外からこの装置に供給してやらねばならなかった。 ところが、三千万ボルトと口ではかんたんにいえるが、ほんとに三千万ボルトの高圧電気を作ることはむずかしかった。どんな発電機も変圧器も真空管も、この高圧電気を出す力はなかった。そこで最後のたのみは、雷を利用することだった。 雷は、空中に発生する高圧電気であって、だいたい一千万ボルト程度のものが多い。しかし、時には三千万ボルトを越える高圧のものも発生すると思われる。そこで谷博士は、その偶然の大雷の高圧電気を利用する計画をたてて、この三角岳の頂上に、研究所を建てたのであった。 博士は、そのまえに、人造生物を用意した。これは、博士が研究の結果、特別につくった人造細胞をよせあつめ、それを特別な配列にしてここに生物を作りあげたものであった。その生物は、たしかに生きていた。例のガラスの箱の中においた、ガラスの皿の上にうごめいているのが、その人造生物だった。たしかにその生物は呼吸をしている。また心臓と同じはたらきを持った内臓によって、血液を全身へ循環(じゅんかん)させている。 まだそのほかに、人間や他の動物にはない特殊な臓器をもっていた。それは博士が「電臓(でんぞう)」と名づけているものである。この電臓は、その生物の体内にあって、強烈なる電気を発生し、またその電気を体内で放電させる。つまり特殊の電気をあつかう内臓なのだ。 ところが、この電臓を作ることはできたが、しかし働いてくれないのだ。これを働かすには、さっきのべたとおり三千万ボルトの高圧を、電臓の中の二点間にとおすことが必要なのである。そしてそれが、この人造生物にたいする最後の仕上げなのであった。「もし、それに成功して、電臓が動きだしたら、えらいことになるぞ」 と、谷博士は、大きな希望によろこびの色を浮かべるとともに、一面には、測り知られない不安におびやかされて、ときどき眉(まゆ)の間にしわをよせるのだった。 それは、もし、この電臓が働きだしたら、この人造生物は、一つの霊魂をしっかりと持つばかりではなく、その智能の力は人間よりもずっとすぐれた程度になるからだ。つまり、あの人造生物の電臓が働きだしたら、人間よりもえらい生物が、ここにできあがることになるのだ。 超人(ちょうじん)X号! これこそ、谷博士が、試作生物にあたえた名まえであった。「超人X号」は、今ちょうど気をうしなって人事不省(じんじふせい)になっているようなものであった。もしこの超人に活(かつ)をいれて、彼をさますことができたとしたら、「超人X号」は、ここに始めてこの世に誕生するわけになる。 もしこの超人を、三千万ボルトの電気によって覚醒(かくせい)させることができなかったら、それで谷博士の試作人造生物X号は、ついに失敗の作となるわけだ。 はたして生まれるか「超人X号」! それとも、そのようなおそるべき生物は、ついに闇から闇へ葬(ほうむ)られるか? その、どっちにきまるか。 頭上にごうごうどすんどすんと天地をゆすぶる雷鳴を聞きながら、腕組みをした悪鬼(あっき)のごとき形相(ぎょうそう)の谷博士が、まばたきもせず、ガラス箱の中の人造生物をみつめている光景のすさまじさ。さて、これからどうなるか。   研究塔下の怪奇 これまでに、谷博士は、このような実験に、たびたび失敗している。 七、八、九の三カ月は、とくに雷の多く来る季節である。しかしこの雷は、いつもこの研究所の塔の上を通って落雷してくれるとはかぎらない。また、これがおあつらえ向きに、研究所の上を通ってくれるときでも、それが博士の熱望している三千万ボルトを越す超高圧の雷でない場合ばかりであった。それで、これまでの実験はことごとく失敗に終ったのだ。「この種の実験は、気ながに待たなくてはならない。急ぐな。あせるな」 博士は、自分自身に、そういって聞かせるのであった。それにしても、待つことのあまりに長すぎるため、博士はだんだんあせってくるのだった。「きょうこそは。きょうこそは。三千万ボルトを越える雷よ。わが塔上に落ちよ」 博士のとなえることばが、呪文(じゅもん)のようにひびく。 もし待望の三千万ボルトを越える超高圧の空中電気がこの塔に落ちたら、この研究所の大広間の天井につってある二つの大きな球形(きゅうけい)の放電間隙(ほうでんかんげき)に、ぴちりと火花がとぶはずであった。 雷鳴は、いよいよはげしくなる。 塔は、大地震にあったように揺(ゆ)れる。 そのときだった。 ぴちん。ぴちぴちん。 空気を破るするどい音。ああ、ついに火花間隙に電光がとんだ。 いよいよ超高圧の雷雲が、塔の上へおしよせたのだ。「今だ」 博士は、足もとに出ているペタル式の開閉器を力いっぱい踏みつけた。 と、その瞬間に、ガラス箱の中が、紫の色目もあざやかな光芒(こうぼう)でみたされた。皿の上の人造生物を、左右両脇より包んでいるように見える曲面盤(きょくめんばん)の無数の針の先からは、ちかちかと目に痛いほどの輝いた細い光りが出て、それが上下左右にふるえながら、皿の上の人造生物をつきさすように見えた。 すると皿の上の例のぶよぶよした人造生物は、ぷうッとふくらみはじめた。みるみる球(きゅう)のようにふくれあがり、そしてそれが両がわの曲面盤のとがった針にふれたかと見えたとき、とつぜんぴかりと一大閃光(いちだいせんこう)が出て、この大広間を太陽のそばに追いやったほどの明かるさ、まぶしさに照らしつけた。「あッ」 博士は、思わず両手で目を蔽(おお)ったが、それはもうまにあわなかった。博士は一瞬間に目が見えなくなってしまった。そして異様(いよう)な痛みが博士の全長を包んだ。博士は、苦痛のうめき声とともに、その場にどんと倒れた。 そのあとに、ものすごい破壊音(はかいおん)がつづいた。破壊音のするたびに、何物かの破片(はへん)が、博士のところへとんできた。その合間に、砂のようなものが、滝のように降ってきた。博士ははげしい苦痛に、やっとたえながら、それらのことをおぼえていた。 だが、それはながくつづかなかった。 まもなく、第二のかなりの大きな爆発みたいなことが室内におこり、博士のからだは嵐の中の紙片(かみきれ)のように吹きとばされ、はてはどすんと何物かに突きあたり、そのときに頭のうしろをうちつけ、うんと一声発して、気絶(きぜつ)してしまった。 そのあとのことを、谷博士は知ることができなかった。 博士のほかに、人が住んでいないこの研究所は、それから無人のまま放置された。しかし博士の気絶のあと、この構内ではいろいろなものが動きだして、奇妙な光景をあらわしたのであった。 この大広間の二回にわたる爆発により、室内中には黄いろい煙がもうもうとたちこめていて、その中ではすべての物の形を見わけることができなかった。 だが、その黄いろい煙の中で、いろいろなものが動いていることは、怪(あや)しい音響によっても察することができたし、またときどき煙の中から異様なものが姿をあらわすので、それとわかった。その中でも、もっとも奇怪をきわめたものは、何者かが発する声であった。それはだれでも一度聞いたら、もう永遠に忘れることがないだろうと思われるほどの、気味のわるいしゃがれ声であった。それは、死体となって一度土中にうずめられた人間が、その後になってとつぜん生きかえり、自分で棺桶(かんおけ)だけはやぶりはしたものの、重い墓石をもちあげかねて、泣きうらんでいるような、それはそれはいやな声だった。「ああ、寒い、寒い。寒くて、死にそうだ」 そのいやなしゃがれ声がつぶやいた。   しゃがれ声の主「おお寒む。おお寒む。どこかはいるところがないだろうか」 しゃがれたうえに、ぶるぶるとふるえている声だった。一体だれがしゃべっているのであろうか。「おお、見つけたぞ。あれがいい。おあつらえむきだ」 その怪しい声が、ほっと安心の吐息(といき)をもらした。 しばらくすると、煙の中で、かんかんと、金属をたたくような音がし、それから次には、ぎりぎりごしごしと、金属をひき切るような音がした。「だめだ。はいれやしない」 大きな音がして、煙の中から、鋼鉄製(こうてつせい)の首がとんできて、壁にあたり、がらがらところげまわった。そのあとから、またもう一つ、同じような鋼鉄製の首がとんできて、それは壁のやぶれ穴から、外へとびだしていって、外でにぎやかな音をたてた。「一つぐらいは、はいりこめるのがあってもいいのに……」 怪しい声は、ぶつぶつ不平をならべたてた。 と、また煙の中から、黒光(くろびか)りのするものがとんできた。鋼鉄の腕だった。鋼鉄の足だった。それから鋼鉄の胴中(どうなか)だった。それらのものは、ひきつづいて、ぽんぽん放りだされた。壁にあたってはねかえるのがある。天井(てんじょう)にぶつかって、また下へどすんと落ちるものがある。つづいてまた、鋼鉄の首が、砲弾のようにとび、ごろごろところげまわる。「あ、あった。これなら、はいれるぞ。ありがたい……」 しゃがれ声が、ほんとにうれしそうにいった。 がっちゃん、がっちゃん、がっちゃん。 煙の中で、町の鍛冶屋(かじや)のような音が聞こえはじめた。かーん、かーんと鋲(びょう)をうつような音もする。つづいて、ぎりぎりぎり、ぎりぎりぎりと、ワイヤ綱(づな)が歯ぎしりをかむような音もする。 そうこうするうちに、煙がかなりうすくなって、音をたてているものの形が、おぼろげながら分かるようになった。それは室内の煙が壁の大きな穴から、だんだんと外に出ていったためである。 煙の中に、大きく動いている、人間の形をした者があった。 それは谷博士ではなかった。博士は向こうの壁ぎわに、長く伸びて床の上に倒れていて、すこしも動かない。 煙の中で動いている者は、博士よりもずっと大きな体格をもっていた。大きな円筒形(えんとうけい)の頭、がっちりした幅の広い肩、煙突(えんとつ)を二つに折ったような腕――それが、のっそりと煙の中からあらわれたところを見ると、なんとそれはグロテスクな恰好(かっこう)をした機械人間(ロボット)であった。 鋼鉄製の機械人間が、のっそりと煙をかきわけて、陽(ひ)のさしこむ壁の大穴のところまで出て来たのだ。 いつのまにか雷雲はさり、けろりかんと午後一時の陽がさしこんでいる。 室内は、ますます明かるく照らしだされた。室内は、おそろしく乱れている。足の踏み場もないほど、こわれた物の破片で、いっぱいであった。 天井に、大きな放電間隙(ほうでんかんげき)の球が二つ、前と同じ姿でぶらさがっているが、それから下へ出ていた二本の針金は、どこかへ吹きとんでしまってない。 その下に、六本のいかめしいプッシング碍子(がいし)の台の上にのっていたガラスの箱は、碍子を残しただけで、あとかたもない。 曲面盤(きょくめんばん)もなければ、ガラスの皿もない。そのガラスの皿の上にのっていたぶよぶよした灰色の塊(かたまり)――谷博士の作った「人造生物(じんぞうせいぶつ)」も、どこへ行ったか、見えなかった。そしてあたり一面に、ガラスや金属やコンクリートの破片が乱れ散っていた。「ああ、あたたかくなったと思ったら、こんどは非常にねむくなった。ねむい、ねむい」 しゃがれた声が、壁ぎわから聞こえて来た。博士がいったのではない。「ああ、ねむい。しばらくねむることにしよう。どこか、ねむるのに、いい場所はないだろうか」 壁の穴のそばに立っていたグロテスクな機械人間(ロボット)が、がっちゃん、がっちゃんと動きだした。するとその中から、ねむがっているしゃがれ声が聞こえたのであった。 それは、あたかも、機械人間が魂(たましい)をもって生きていて、そのようにつぶやいているように見えた。 怪しい機械人間だ。 がんらい、機械人間というものは、人間からの命令を受けて、ごくかんたんな機械的な仕事をするだけの人間の形をした機械だった。この場合のように、人間と同じに、感想をのべたり、生活上のことを希望したりするのは、ふつうでは、ありえないことだった。「どこか、いい場所がありそうなものだ。どれ、探してみようか」 怪しい機械人間は、そういいながら、がっちゃん、がっちゃんと金属の太い足をひきずって、室の一隅(いちぐう)にあった階段を、上へと登っていった。   博士よみがえる それから一時間ばかりたった後のことであった。 登山姿に身をかためた五人の少年が、三角岳(さんかくだけ)の頂上へのぼりついた。「やあ、すごい、すごい」「すごいねえ、戸山(とやま)君。やっぱり、塔はくずれているよ。ほら建物もあんなに大穴があいているよ」「ほんとだ。あのとき、塔も建物も、火の柱に包まれてしまったからね、もっとひどくやられたんだろうと思ったが、ここまで来てみると、それほどでもないね」「いや、かなりひどく破壊(はかい)しているよ。塔なんか、半分ぐらい、どこかへとんじまっているよ。それに建物が、めちゃめちゃだ。ほら、こっちがわにも大穴があいているよ。落雷と同時に、中で爆発をおこしたものかもしれない」「中に住んでいる人は、どうしたろうね」「どうなったかなあ、塔や建物がこんなにひどく破壊しているんだから、中に住んでいた人たちは、もちろん死んじまったろう」「死んじまったって。そんならたいへんだ。みんなで中へはいって、調べてみようじゃないか。そして、もしかしてだれか生きていたら、その人はきっと重傷をしているよ。ぼくたちの手で、すぐ手あてをしてやろうよ」「うん。それがいい。じゃあ、あの建物の中にはいってみよう」「よし。さあ行こう」 五人の少年たちは、研究所のこわれた戸口から、中へはいっていった。「あっ、たいへんだ。中が、めちゃめちゃにこわれているよ」「どうしたんだろうねえ。この建物は、なにをするところなの」「なんとか研究所というんだから、なにか研究をするんだろう」「ここは、有名な谷博士の人造生物研究所だよ。ぼくはおとうさんから聞いて知っているんだ」 戸山という少年がいった。戸山は、この少年団のリーダー格であった。あとの四人の少年もみんな同級生であった。きょうはいいお天気であったので、三角岳登山を試みたのであったが、途中で雷に出あい、洞穴(どうけつ)の中にとびこんで雷鳴(らいめい)のやむのを待った。そのうちに雷鳴ははげしくなり、前方に見えるここの塔の上に落雷したのを見た。 やがて雷雲が行きすぎたので、五人の少年たちは、目的地である三角岳の頂上まで登って来ようというので、ここまで登って来たわけ。するとこの研究所の建物がひどくこわれているので、それにおどろいて、中へはいったわけであった。「あ、人がたおれている」「ええッ」「あそこだよ。白い実験着を着ている人が、たおれているじゃないか。壁のきわだよ」「ああ、たおれている」 五人の少年たちは、谷博士を見つけた。そばへかけよってみると、博士は顔面や腕に傷をこしらえ、死んだようになっている。呼びおこしても、意識がない。戸山は、博士の鼻の穴へ手を近づけた。博士はかすかに呼吸をしているようだ。そこで彼は耳を博士の胸におしつけてみた。博士の心臓はたしかに打っている。しかし微弱(びじゃく)である。「この人は、気をうしなっているんだよ」 戸山は、結論をつけて、みんなに話した。「じゃあ、活(かつ)をいれてみようか」 井上(いのうえ)少年がいった。彼は、柔道を習っていて、活の入れかたを知っていた。「それよりも、葡萄酒(ぶどうしゅ)をのませた方がいいんじゃないか」 羽黒(はぐろ)少年は救護係(きゅうごがかり)であったから、自分がリュックの中に持って来ている、気つけ用の葡萄酒のことをいった。「気をうしなっているんだから、活の方がいいよ。気がついたら、こんどは葡萄酒をのませる順番になる。井上君、ちょっと活をいれてごらん。あとの者は、みんなてつだって、この人を起こすんだ」 四人の少年が、博士の上半身を起こした。すると井上がうしろへまわって、博士の脊骨(せぼね)をかぞえたうえで、急所をどんと突いた。 だめだった。博士は、あいかわらず、ぐったりしたままだ。「だめかい」 と、みんなは心配そうに、井上にたずねた。「まだ、分からない。もう四五へんくりかえしてみよう」 井上は、まだ希望をすててはいなかった。えいッ。またもう一つ活をいれた。 と、うーんと博士はうなった。そしてにわかに大きな呼吸をしはじめた。顔色が、目に見えてよくなった。顔をしかめる。痛みが博士を苦しめているらしい。「あ、生きかえったらしいぞ」「さあ、葡萄酒の番だ」「よし、ぼくが、のませてやる」 羽黒は、リュックを背中からおろして、さっそく水筒(すいとう)の中に入れている葡萄酒をとりだし、ニュウムのコップについで、博士の口の中へ流しこんだ。 博士は、ごほんごほんとむせた。羽黒はもう二はいのませた。「ああッ、ありがとう。どなたか知らないが、私を介抱(かいほう)してくだすって、ありがとう」 博士は元気になって、礼をいった。その博士は、目をあいているが、手さぐりであたまをなでまわす。「おじさんは、目が見えないのですか」 戸山が、たずねた。「目が見えない? そうです。今は目が見えない。さっき実験をやっているとき、目をやられて、見えなくなったのです。困った。まったく困った」「おじさんはだれですか」「私はこの研究所の主人(あるじ)で、谷です。君たちは少年らしいが、どうしてここへ来ましたか。いや、それよりも、もっと早く知りたい重大なことがある。この部屋は、どうなっていますか。器械や実験台などは、ちゃんとしていますか」 谷博士の質問にたいして、少年たちは気のどくそうに、かわるがわる室内の様子を話してやった。 博士の顔は、赤くなり、青くなりした。眉(まゆ)の間には、ふかいしわがよった。「えッ。ガラス箱なんか、どこにも見えませんか。ガラスの皿もですか。その皿の上にのっていた灰色のぶよぶよした海綿(かいめん)のようなものも見えませんか。よく探してみてください。そのぶよぶよした海綿みたいなものを、どうか見つけてください。それが見つからないと、ああ、たいへんなことになってしまう」「そんなものは、どこにも見えませんよ」「ほんとですか。ああ、目が見えたら、もっとよく探すのだが……」「そのぶよぶよした海綿みたいなものというのは、いったいなんですか」「それは……それは、私が研究してこしらえた、ある大切な標本(ひょうほん)なのです」「標本ですか」「そうです。その標本は、生きているはずなんだが、ひょっとすると、死んでしまったかもしれない」「動物ですか」「さあ、動物といった方がいいかどうか――」 そういっているとき、がっちゃん、がちゃんと音がして、階段の上からおりて来る者があった。 少年たちは、その方をふりかえって、思わず「あッ」といって、逃げ腰になった。 階段をおりて来たのは、ものすごい顔かたちをした機械人間(ロボット)であった。「おや、機械人間が、ひとりでこっちへ歩いて来るぞ。これは奇妙(きみょう)だ」 盲目の谷博士は、首をかしげた。博士はたくさんの機械人間を、この建物の中で使っていた。それを機械人間何号と呼んでいた。その機械人間たちは、博士が、特別のかんたんなことばをつづりあわせた命令によってのみ動くのであった。ところが今、階段から、がちゃんがちゃんと、機械人間がひとりでおりて来たので、博士は怪(あや)しんだのだ。 その怪しい機械人間は、なぜひとりでおりて来たか。 盲目の谷博士と、怪しい機械人間は、どんな応対をするであろうか。 この奇怪な山頂の研究所にはいりこんだ五少年は、これからどんな運命をむかえようとするか。 気味のわるいしゃがれ声を出す者は、いったい何者であろうか。   少年の協力(きょうりょく) がっちゃん、がっちゃん、がっちゃん。異様(いよう)な顔をした機械人間(ロボット)は、階段をおりきると、谷博士と五人の少年がかたまっているところへ、金属音(きんぞくおん)の足音をひびかせながら近づいた。 少年たちは、目を丸くして、このふしぎな機械人間の運動ぶりを見まもっている。少年たちは、科学雑誌やものがたりで、こういう機械人間のことを読んで知っていて、いつかその本物を見たいとねがっていた。ところが今、はからずもこの研究所の塔の中でお目にかかったものだから、少年たちは、ものめずらしさに機械人間の運動にすいつけられていた。(すごいなあ!)(よく動くねえ。人間がからだを動かすのと同じことだ。どんなしかけになっているのかしらん)(こういう機械人間を一台買って持っていると、いろいろおもしろいことをやれるんだがなあ) 少年たちの頭の中には、思い思いの感想がわきあがっていた。 ところが谷博士の方は、少年たちのように明かるく機械人間(ロボット)をながめてはいなかった。もっとも博士は視力(しりょく)をうしなっているので、見えるはずはなかったが、しかし博士は、見えない目を見はり、両方の耳たぶに手をあてがって、機械人間の発する足音や、動きまわる気配(けはい)に、全身の注意力をあつめて、何事かを知ろうとあせっている様子だった。 博士の顔は蒼白(そうはく)。ひたいには脂汗(あぶらあせ)がねっとり浮かんでいる。耳たぶのうしろにかざした博士の手が、ぶるぶるとふるえている。いや、耳たぶもふるえている。博士のからだ全体がふるえている。博士の息は、だんだんにあらくなっていく。唇がわなわなふるえる。「……たしかに、わしの作った機械人間にちがいない。だが、ふしぎだ。何者がその機械人間を動かしているのか。制御台(せいぎょだい)のところへ行ってみれば、分かるんだが、ああ、わしは目が見えない」 谷博士は、前に立っている機械人間を、自分の作製したものであると認めたのであった。が、それにつづいて起こった疑問は、目の見えない博士をどんなにいらだたせたかしれない。 博士が、ものをいったので、戸山少年はわれにかえって、博士のそばに寄りそった。「この機械人間はおじさんがこしらえたのですか。おじさんはえらい技術者なんですね」「おお、君。わしのため力を貸してくれんか」 博士は、戸山のほめことばに答えず、急に気がついたように少年にそういって、手さぐりで少年の肩をつかんだ。「ああ、いいです。ぼくたち、よろこんでおじさんのために働いていいですよ。そのかわり、あとで、もっとくわしく機械人間(ロボット)の話をしてください。そしてぼくたちにも、機械人間を貸してください」「それは、わけないことじゃが――ああ、今はそれどころではない。ただ今、わしの目の前においてふしぎなことが起こっている。そのふしぎの正体を急いでつきとめなくてはならない。君――なんという名まえかね、少年君」「ぼくは、戸山です」「おお、戸山君か。戸山君、わしを機械人間の制御台のところへ早くつれていってくれ。おねがいする」「いいですとも。その制御台というものは、どこにあるのですか」「この部屋の……この部屋の階段の右手に、奥にひっこんだ戸棚(とだな)がある。そのまん中あたりに立っている横幅(よこはば)二メートル、高さも二メートルの機械で、正面のパネルは藍色(あいいろ)に塗ってある。それが制御台だ」「ああ、それは、めちゃめちゃにこわれています。まん中と、そのすこし上とに、砲弾(ほうだん)がぶつかったほどの大穴があいて、内部の部品や配線がめちゃくちゃになっているのが見えます。あんなにこわれていてはとても働きませんね」「うーん、それはたいへんだ。だれがこわしたのかしら。するといよいよおかしいぞ。機械人間(ロボット)は、ひとりで上に動きだすはずはないのだ。いや、待てよ。地階(ちかい)の倉庫(そうこ)に、古い型の制御台が一つしまってあった。あれをだれかが使って、機械人間をあやつっているのかな」「それなら地階へいってみましょうか」「おお。すぐつれていってくれたまえ。ここから見えるはずの階段のわきから、地階へおりる階段があるから、それをおりるんだ」「はい。分かりました。おい羽黒君、井上君。手を貸してくれ。おじさんを両方から支(ささ)えてあげるのだ。……おお、よし。おじさん、さあ歩いてください」「ありがとう」 一同は歩きだした。 がっちゃん、がっちゃん、がっちゃん。「あ、あの音は……」 博士は、さっと顔色をかえて立ちどまる。「おじさん。あの機械人間が、ぼくたちのうしろからついて来ますよ」「うーむ、ふしぎだ。今まで、あれ[#「あれ」に傍点]はどこにどうしていたのかしらん」「ぼくらの前に立って、おじさんの話をじっと聞いていたようですよ」「なに、わたしたちの話を聞いていたというのか、あの機械人間が……」 博士は途中でことばをのんで、少年たちに腕をとられたまま、へたへたと尻餅(しりもち)をついた。   旧式(きゅうしき)の制御台(せいぎょだい) 少年たちは、この谷博士が非常に神経過敏症(しんけいかびんしょう)におちいっているのだと思った。 だから少年たちは、博士を左右から抱(だ)きあげ、いろいろとはげましてようやく博士を立ちあがらせた。 それから一同は、また歩きだして、地階へのおり口の方へ向かった。 機械人間は、あいかわらず、やかましい音をたてて一同のうしろからくっついて来る。 はじめは、おもしろがっていた少年たちも、なんだか気味がわるくなってきた。 博士は、歯をくいしばって、地階へ早くおりたいものと、足を床(ゆか)にひきずりながら進んでいく。見るもいたましい姿だった。 階段をおりていった。 幅のひろい階段は螺旋型(らせんけい)にぐるぐるまわっている。 地階へおりることができた。天井の高い広間がつづいていて、各室は明るく照明されていた。しかし、さっきの爆発は、この地階にもある程度の損害をあたえていた。それは、見とおしのできる通路のところへ、部品や鉄枠(てつわく)などが、乱雑(らんざつ)に散らばっているのでそれと分かる。 博士が心配すると思って、少年たちは、壁にぼっかりあいた穴や、こわれた戸棚(とだな)を見ても、あまり大きなおどろきの声を出さないことにした。 目の見えない博士のいうとおりに、地階の中をあっちに歩き、こっちに歩きして、ついに探しているものの前に出ることができた。「ああ、この機械にちがいないです。『遠距離(えんきょり)制御台RC一号』というネーム・プレートがうちつけてありますよ」 戸山が、博士にいった。「おお、それじゃ、で、どうじゃな、機械はこわれているかね」「べつにこわれているようにも見えません」「機械は動いているのかね」「さあ、どうでしょう。機械が動いているかどうか、どこで見わけるのですか」「パネルに赤い監視灯(かんしとう)がついていれば、機械に電気がはいっているのだ。それから計器の針を見て――」「ちょっと待ってください。監視灯は消えています」「消えているか。機械の中に、どこかに電灯がついていないかね」「なんにもついていません。この機械に電気は来てないようですよ。あ! そのはずです。電源(でんけん)の線がはずされています」「ふーん。それではこの旧式の制御台も動いていないのだ。待てよ、わしが来る前に、スイッチを切ったのかもしれん。君、戸山君。パネルに手をあててごらん。あたたかいかね、つめたいかね」「つめたいですよ。氷のように冷(ひ)えています」「え、つめたいか。するとこのところ、この制御台を使わなかったのだ。はてな。するといよいよわけが分からなくなったぞ。これはひょっとしたら……」 博士は戸山の手をぐっと力を入れて握り、「君たちは、気をつけなくてはならない。もしも何か怪(あや)しいことを見たら、すぐわしに知らせるのだよ。だが……だが、まさか、まさか……」「なにをいっているのか、さっぱり分からない。おもしろくない。ほかの場所へいってみよう」 気味のわるい声がひびいた。「え、なんといった。今、ものをいったのはだれだ」「私だ。なにか用かね」「君はだれだ」「私かい。私は私だが、私はいったい何者だろうかね。とにかくあっちへ行こう」 がっちゃん、がっちゃんと、機械人間は、妙なことばを残して、奥の方へ歩みさった。「だれだい、君は。ちょっと待ちたまえ」「おじさん。今おじさんと話をしていたのは機械人間ですよ。奥の方へ行ってしまいました」 戸山は、そういって、博士に教えた。「やっぱり、そうだったか。ふーん、あんな口をきくなんて、とんでもない話だ。奥へ行ったか。それはいかん。奥には大切なものや危険なものがあるんだ。とりわけダイナマイトの箱が積んである。あれをあいつに一撃されようものなら、この研究所の塔(とう)は爆風(ばくふう)のためにすっ飛んでしまうだろう。君たち、早くわしをあいつの行った方へつれていってくれ」   ダイナマイトの箱 ダイナマイトの箱が積んであるという。 それはたいへんだ。鉄の拳(こぶし)を持っている強力(ごうりき)の機械人間が、もしあやまって、そのダイナマイトの箱をぽかんと一撃したら、たちまち大爆発が起こって、建物も人間も岩盤(がんばん)さえ吹きとんでしまうであろう。(なんだってこのおじさんは、ダイナマイトの箱なんか、たくわえているのだろう) と、少年たちは、へんに思いながらも、博士をたすけて、地階の奥へ連れていった。「ああ、そこに機械人間がいます」 井上少年が叫んだ。「え、機械人間がいたか。なにをしている」 博士が、見えない目を大きくひらいて、緊張(きんちょう)する。「一生けんめいに、機械や何かを見ていますよ。あッ、箱を見つけました。たいへんだ。ダイナマイトと書いてある箱ですよ」「ううむ。とうとう見つけたか。困った。手あらくあつかわないようにしてもらいたいものだが、……あッ、そうだ。さっきのふるい制御台を使って、あの機械人間を取りおさえてしまわねばならない。戸山君たち、さっき調べた旧式の制御台のところへ、もう一度わしを連れていってくれたまえ」 少年たちは、博士のいうとおりにした。しかしその博士が、ますます狼狽(ろうばい)の色を見せてさわぎたてるので、だんだん心細くなってきた。ことにだれが見ても古ぼけて旧式の制御台を、博士がたよりにしているのが、少年たちを一そう心細くさせた。 旧式の制御台のところへ博士を連れてくると、博士は目が見えないことを忘れたように、機械を手さぐりして、電源につないだり、スイッチを入れたり調整をしたりした。「計器を見てくれたまえ。一番上に並んでいる計器の右から三番めの四角い箱型の計器を見てくれたまえ。その針は、どこを指(さ)しているか」「百五十あたりを指していますよ」「百五十か。すると百五十ワットだ。これだけ出力があるなら、十分に機械人間を制御できる。さあ、見ておれ。おい君、今わしが仕事をはじめる。君たちは、機械人間のところへ行って、あいつがどうなるか、見ていてくれ。あいつが、しずかに立ちどまって、死んだように動かなくなるはずだ。そうなったら、すぐわしに報告してくれ。よいか」 そういって博士は、制御台のパネルについている一つのスイッチを入れ、それから舵輪(だりん)のような形のハンドルを握って、ぐるぐると廻しはじめた。「どうじゃな。まだか。これでもか」 博士は、蒼白(そうはく)な顔に、ねっとりと脂汗(あぶらあせ)をうかばせて、しきりに機械人間の制御を試(こころ)みている様子。 がっちゃん、がっちゃん、がっちゃん。 にぎやかな足音をたてて、奥から機械人間が出て来た。手にはダイナマイトの箱をぶらさげている。少年たちは、それを見て胆(きも)をつぶした。あぶない。いつ爆発するやら、たいへんだ。どうしたらいいのか。少年たちはおどろきのあまり、呼吸が苦しくなり、口もきけなかった。 何も見えない谷博士ばかりは、熱心に制御台の前でハンドルを廻しつづけている。 が、博士にも、機械人間の足音が耳にはいった。「おや、まだとまらない。ふん、こっちへ歩いて来たな。もう機械人間はここらで停止しなければならないんだが、はてな……」 すると、博士の耳のそばで、気味のわるい声がした。「さっきから、からだの中が、もぞもぞとこそばゆくてならないと思ったら、君がこの旧式の制御器で、制御電波(せいぎょでんぱ)を出しているんだね」「だれだ。そういう君は何者だ」「私だよ。さっきも君が聞いてくれたね。わけのわからない私だよ。この足音を聞いたら、分かるだろう」 機械人間は、がっちゃんがっちゃんと荒々しく足ぶみをしてみせたが、そのときあいている方の左手をのばしたて、がーんと制御台のパネルを叩(たた)きやぶった。「うわーッ」 博士はとびのいて、その場にころぶ。「こんどはどこへ行こうか。ここはもう興味をひくものがない」 機械人間は、笑うでもなく怒るでもなく、ひややかにそういって、ひとりずんずんと階段をのぼっていった。 井上と羽黒の二人は、勇気をふるいおこして、怪しい機械人間のあとを追いかけた。 怪物は、階段をあがると、例の全壊(ぜんかい)に近い大広間の壁の大穴をくぐって、外にでていった。そしてどんどんと早足になって、山道を下の方へとぶように行ってしまった。 やがて怪人の姿は、雨あがりの木のまにかくれて見えなくなった。   巨人(きょじん)ダム 三角岳(さんかくだけ)をくだっていったところに、有名な巨大なダムがあった。 このダムは、山峡(さんきょう)につくった人工の池をせきとめている。それは巨大な鉄筋(てっきん)コンクリートで築(きず)いた垣(かき)であった。水をせきとめるための巨大な壁であった。 三角岳の大ダムと呼ばれていた。 このダムによって、せきとめた水が、高いところから下に落ちるとき水力発電するのだった。水はこの広い山岳地帯(さんがくちたい)を縫(ぬ)って麓(ふもと)へ流れるまでに十ケ所でせきとめられ、そこに一つずつ発電所がある。つまり連続して、十ケ所で水力発電をするのだった。 この大じかけな発電系に、水を一年中いつでも十分に送れるように、この三角岳の大ダムはものすごく多量の水をたくわえている。 この大ダムは、日本一の巨大なものであった。しかしこのダム工事は、建設のとき非常に急がされたので、少々失敗したところがあった。そんなことがなければ、このダムは今より三割も多くの水を、たくわえることができたであろう。 この大ダムの西の端に、一つの建物がある。ここには、ダムの水位(すいい)を測定(そくてい)する人たちが詰めている。そのほかに、ダムを見まわる監視員(かんしいん)も、この建物を足がかりとして出はいりしている。 だが、いつもの日は、この建物の中にいるのは五六人にすぎなかった。平常(へいじょう)は、大した用事もないから大ぜいの人がいる必要はないのであった。 きょうも測定当直(とうちょく)の古山(ふるやま)氏ほか二人と、巡視(じゅんし)がすんで休憩中(きゅうけいちゅう)の大池(おおいけ)さんと江川(えがわ)さんの五人が、退屈(たいくつ)しきった顔で、時間のたつのを待っていた。そこへ、のっそりとはいって来た異様(いよう)な姿をした人物があった。 それこそ、例の怪(あや)しい機械人間であった。 がっちゃんがっちゃんの足音に、所員たちはすぐ気がついた。ふりかえってみて、相手の異様な姿に一同は胆(きも)をつぶした。(機械人間みたいだが、どうしてここへひとりではいって来たのかしら) と、一同はふしぎに思いながら、気味(きみ)のわるさにすぐには声が出なかった。 機械人間は、片手にダイナマイトの箱をぶらさげ室内をぐるぐる見まわしていたが、壁に張りつけてあるダムの断面図(だんめんず)に目をつけると、そばへ寄ってまるで生きている人間の技師のように、しげしげと図面(ずめん)に見いった。「もしもし。君は、ことわりなしに、ここへはいって来たね。早く出ていきたまえ」 ついに大池が勇(いさま)しく立ちあがって、機械人間のそばへ寄り、しかりつけた。 すると機械人間は、彼の方へ、樽(たる)のように大きい首をふりむけて、「このダムの設計は、はなはだまずいね。このへんにちょっと亀裂(きれつ)でもはいろうものなら、ダム全体がたちまちくずれてしまう。あぶない、あぶない」 と、機械人間は、笛を吹くような気味のわるい声でこのダムの設計のまずいことを指摘(してき)した。 すると大池が怒った。「よしてくれ。人間でもない、へんな恰好(かっこう)をした鉄の化物(ばけもの)のくせに、人間さまのやったことにけちをつけるなんて、なまいきだぞ」「そうだ、そうだ。分かりもしないくせに、なまいきなことをいうな。さあ、出て行け」 江川も立って来て、機械人間をしかりとばした。「私なら、こんな設計はしない。ここのところは、こうしなくてはならない」 機械人間は、机の上から赤鉛筆をとると、壁にはってある設計図の上に赤線をひいて、元(もと)の設計を訂正(ていせい)していった。「よせ。よけいなおせっかいはよして、早く出て行け。出なけりゃ外へほうりだすぞ」 江川が機械人間の手から赤鉛筆をもぎとった。大池は機械人間を突きとばした。 機械人間は、びくともしなかった。大池の方が腕を痛めて、痛そうにさすっていた。「私のいうことは正しい。うそと思うなら、私について来なさい。私は、ダム建設の失敗箇所(しっぱいかしょ)へダイナマイトをあててみる。それでこのダムがひっくりかえったら、私のいったことは正しいのだ。来たまえ、諸君」「きさまは化物であるうえに、気も変になっているんだな。いったいだれがこの機械人間をあやつっているのだろう」「早く来たまえ。このダムはかんたんにくずされるのだ」「はははは。何をいうんだ。おどかすな。見に行ってやることはないよ」「ちょっと大池君。あの化物が手に持っている箱には、ダイナマイトと書いてあるぜ。本物のダイナマイトを持っているんなら、たいへんだぜ」「なあに、よしや本物のダイナマイトであろうとも、ダムがひっくりかえるなんてことはないさ。とにかくあの化物を遠くへ追いはらう必要がある――」 といっていたとき、とつぜん天地はくずれんばかりに振動し、それにつづいて腹の底にこたえる気味のわるいごうごうの響(ひび)き。「おやッ」 と大池と江川が顔を見あわせたとき、二人の少年がかけこんで来た。「たいへんですよ。機械人間が今、ダイナマイトの箱をダムに叩きつけたんです。ダムは決潰(けっかい)して、ものすごい水が下へ大洪水(だいこうずい)のようになって落ちていきます。たいへん、たいへん。早く出て来てください」 たいへんだ。あの怪しい機械人間は、あっさりダイナマイトをダムにぶっつけて、巨人ダムをひっくりかえしてしまったらしい。二人の所員は、その場に腰をぬかしてしまった。   怪物(かいぶつ)の行方(ゆくえ)「あッ、たいへんだ。早く、ふもとの村へ危険を知らせるんだ」「どこへ一番はじめに、電話をかけますか」「どこでも早くかけろ」「じゃあ、第二発電所を呼びだしますか」「だめだ。もうあのおそろしい水は、第二発電所へぶつかって、おしつぶしているだろう。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)だ。もっと下へ電話で危険をしらせろ」「じゃあ、どこへかけりゃいいんですか。はっきりいってください」「おれはよく考えられないんだ。君、いいように考えて電話をかけてくれ」「困ったなあ」「あッ、だれか鐘をならしているぞ。そうだ。のろしをあげろ」「もしもし、ここも危険ですよ。水に洗われて、土台にひびがはいって来ました。ぐずぐずしていると、家もろとも洪水(こうずい)の中に落ちこみます。早くにげなさい。早く、早く」「ええッ、ほんとかい。それはたいへんだ」「おーい、おまえさんもにげなさい。命をおとしてもいいのかい」「にげるけれど、猫がいないから探しているんだ」 混乱のうちに、めりめり音がして、庁舎(ちょうしゃ)がさけだした。 このとき、最後の避難者(ひなんしゃ)がにげだした。彼が戸口から出て、ダムの破壊箇所(はかいかしょ)と反対の方向へ、二三歩走ったと思うと、庁舎は大きな音をたてて、決潰(けっかい)ダムの下のさかまく泥水(どろみず)の中へ、がらがらと落ちていった。「ああ、助かってよかったよ。ねえ、ミイ公(こう)や」 その最後の避難者の腕に、まっ白な猫の子がだかれていた。 ものすごい決潰と、恐ろしい大濁流とに、人々はすっかりおびえきっていて、もっと早くしなくてはならないことを忘れていた。、やっとそれに気がついた者があった。「ああ、あそこに立っている。あいつだ。ダムをこんなにこわしたのは……」 そういったのは、例の五人の少年の中のひとりである戸山君だった。彼の指さす方角に岩山があって、その岩山に腰をかけて、こっちを見おろしている怪物があった。それこそ例の機械人間であった。「あ、あいつだ。あいつが、この大椿事(だいちんじ)をおこしたんだ。あいつを捕(とら)えろ」「警察へ電話をかけて、犯人がここにいるからといって、早く知らせるんだ」「だめだよ。電話どころか、庁舎も下の方へ流れていってしまった」「おお、そうだったな。それじゃあ、みんなであの怪しいやつを追いかけよう。棒でもなんでもいいから、護身用(ごしんよう)の何かを持ってあいつを追いかけるんだ」「よしきた。おれが叩(たた)きのめしてやる」 おいおいそこへ集まって来た木こり[#「こり」に傍点]や炭やきや、用事があってそこを通りかかっていた村人も加わり、怪しい機械人間を追いかけていった。が、彼らはまもなく、青くなってにげかえって来た。「ああこわかった。あれは、ただの人間じゃないじゃないか。すごい化物だ」「もうすこしで、おれは腰をぬかすところだった。おどろいたね、みそ樽(だる)ほどもある岩を、まるでまりをなげるように、おれたちになげつけるんだからなあ。おそろしい大力だ。あんなものがあたりや、こっちのからだは、いちご[#「いちご」に傍点]をつぶしたように、おしまいになる」「なんだい、あの化物の正体(しょうたい)は」「さあ、なんだろうなあ。まっ黒だから、お不動(ふどう)さまの生まれかわりのようだが、お不動さまなら、まさか人間を殺そうとはなさるまい。あれは黒い鬼(おに)のようなものだ」「黒鬼(くろおに)か。赤鬼や青鬼の話は聞いたことがあるが、黒鬼にお目にかかったのは、今がはじめてだ。しかし、待てよ。鬼にしては、あいつは角(つの)が生(は)えていなかったようだぞ」「いや、生えていたよ、たしかに……」 村人たちのさわぎは、だんだん大きくなっていく。 そのうちに、ふもとの村から、特別にえらんだ警官隊がのりこんで来た。この警官たちはこわれたダムの警戒にあたるつもりで来たが、犯人が意外なる大力無双(だいりきむそう)の怪物であると分かり、それから山中に出没(しゅつぼつ)するという報告を受けたので、「それでは」と怪物狩(かいぶつが)りの方へ、大部分の警官が動きだした。 もちろん、とてもそれだけの人数の警官ではたりそうもないので、ふもと村へ応援隊をすこしも早くよこしてくれるように申しいれた。 山狩(やまが)りは、ますます大がかりになっていった。しかしかんじんの怪しい機械人間は、どこへ行ったものか、その夜の閣(やみ)とともに姿を消してしまった。   柿(かき)ガ岡病院(おかびょういん) 目が見えなくなったうえに、怪しい機械人間の出現(しゅつげん)で、すっかり神経をいためてしまった谷博士は、五人の少年の協力によって、警察署の保護をうけることになった。 三日ほどすると、すこし博士の気もしずまったので、かけつけた博士の友人たちのすすめもあって、博士は東京へ行くことになった。東京へいって、入院をして、目と神経(しんけい)とをなおすことになったのだ。「わしの東京行きは、ぜったい秘密にしてくれたまえ。そうでないと、わしはこのうえ、どんな目にあうかもしれない。殺されるかもしれないのだ」 と、博士はひとりで恐怖(きょうふ)していた。 友人たちは、博士に、そのわけをたずねてみたが、博士はそのわけをしゃべらなかった。「今は聞いてくれるな。しかし、わしは根(ね)も葉(は)もないことをおそれているのではない。わしを信じてくれ。そしてわしを完全に保護してくれたまえ」 博士は、からだをぶるぶるふるわせながら、そういって、同じことをくりかえし、いうのであった。友人たちもそれ以上、この病人からわけを聞きただすことをさしひかえた。 こうして博士は、東京の西郊(せいこう)にある柿ガ岡病院にはいった。ここは多摩川(たまがわ)に近い丘の上にあるしずかな病院であった。この病院は、土地が療養(りょうよう)にたいへんいい場所であるうえに、すぐれた物理療法(ぶつりりょうほう)の機械があって、東京において、もっとも進歩した病院の一つであった。 院長は大宮山博士(おおみややまはかせ)だった。 谷博士は、じつは大宮山博士をいつも攻撃していたし、大宮山博士もまた、谷博士には反対の態度をとっていた。ただし、それは学問の上のことだけであって、友人と友人とのあいだがらは、たいへんおだやかであり、たがいの人格も信用していた。だから、谷博士は、自分の視力(しりょく)がやられ、神経もいたんでいるとさとると、みずからすすんで大宮山博士が院長になって経営しているこの柿ガ岡病院にはいる決心をしたのであった。知らない人は、ふしぎなことに思ったにちがいない。 院長たちの手あつい治療によって、谷博士はだんだん快方(かいほう)に向かった。 しかしよくなるのは神経病の方だけであって、視力の方はまだ一向はっきりしなかった。博士はいつも繃帯(ほうたい)でもって、両の目をぐるぐる巻いていた。「ぼくの目は、もうだめかね」 谷博士がたずねたことがある。「いや、だめだとはきまっておらん。今の療法をもうすこしつづけたい。それが、効果がないとはっきり分かったら、また別の方法でやってみる」「いよいよ目がだめなら、ぼくは人工眼(じんこうがん)をいれてみるつもりだ」「人工眼か? 君の発明したものだね。まあ、それはずっと後のことにしてくれ。君はぼくの病院の患者なんだから、よけいな気をつかわないで、ぼくたちに治療(ちりょう)をまかしておいてくれるといい」「うん、それは分かっているんだ」 谷博士は、そのあとでしばらく口をもごもごさせて、いいにくそうにしていたが、やがて低い声でつぶやいた。「……あの恐ろしいやつの存在を、一日も早くつきとめたいのだ。ぐずぐずしていると、こっちが目が見えないのにつけこんで、あの恐ろしいやつが、わしを殺してしまうかもしれない」 この低きつぶやきの声も、院長たちの耳に聞こえた。院長は、聞こえても、聞こえないふりをしていた。それは谷博士の神経病がまだ完全によくなっていないと思ったからだ。病気から出ている恐怖心(きょうふしん)だと思っていたのだ。 院長の考えが正しいのか、それとも谷博士の戦慄(せんりつ)にほんとの根拠(こんきょ)があるのか。 その谷博士のところへ、ある日曜日の朝、にぎやかな面会人が来た。それは、例の五人の少年たちであった。 院長から許可が出たので、面会人の少年たちは、一人の看護婦にみちびかれて、谷博士がやすんでいる丘の上へ行った。博士は車のついた籐椅子(とういす)に乗って、すずしい木かげでやすんでいた。附添(つきそい)の看護婦が、博士のために、本を読んでいたようだ。少年たちは、繃帯を目のまわりに鉢巻(はちま)きのようにして巻いた、いたいたしい博士のまわりにあつまり、かわるがわるなぐさめのことばをのべた。 博士はたいへんよろこんで、いちいち少年の手をにぎって振った。 看護婦が少年たちに博士のことを頼んで向こうへ行ってしまうと、博士はあたりをはばかるような声で、少年たちにたずねた。「もう例の事件がおこってから十三日めになるが、犯人はつかまったかね」「いえ、まだです」「いま、どこにいるんだか、分かっているの」「国境(くにざかい)あたりまでは、追っていったんですが、そこで見うしなって、そのあと、どこへ行ったか、あの怪しい機械人間の行方は分からないのだそうです」「それは困ったな。すると、ゆだんはならないぞ」「ぼくたちも、なんとかしてあの怪物をつかまえたいと思って、五人集まって探偵をしているんですが、まだなんの手がかりもないです」「それはけっこうなことだが、諸君はあの怪物とたたかうのはやめなさい。たいへん危険だからね」「危険はかくごしています。とにかくあんな悪いやつは、そのままにしておけませんからねえ」「だが、君たちは、とてもあの怪物とは太刀(たち)うちができないだろう。いや、君たち少年ばかりではない。どんなかしこい大人でも、あれには手こずるだろう。もしもわしの予感があたっていれば、あれは、超人間(ちょうにんげん)なんだ。超人間、つまり人間よりもずっとかしこい生物(せいぶつ)なのだ。わしは、あれのために、ひそかに名まえを用意しておいた。“超人間X号”というのがその名まえだ。超人間だから、君たちがいく人かかっていっても、あべこべにやっつけられる。だから、手をひいたがいい」 博士は、あの怪物が、どうやら超人間X号であるらしいことをものがたり、そして話したあとで、ぞッと身ぶるいした。 五人の少年たちも、この話を聞いて、急に不安な気持ちになった。   死刑台(しけいだい)の怪影(かいえい)「先生。その超人間X号というのは、いったい何者かんですか、どうしてそんな怪物が、この世の中にすんでいるのですか」 戸山少年は、谷博士にたずねた。「じつは、超人間X号をこしらえたのは、わしなんだ。わしが研究所で作りあげた人工の生物なんだ。それは電気臓器(でんきぞうき)を中心にして生きている、半斤(はんぎん)のパンほどの大きさのものなんだ。この電気臓器をつくることについて、わしは長いあいだ研究をかさねた。そして完成したのは、この春のことだった。あらゆる高等生物は、親のからだから生まれてくるが、超人間X号は、わしの手で作ったのだ。ちょうどラジオの受信機を組みたてるようにね。分かるね、わしの話が……」 博士のことばに、少年たちはたがいに顔を見あわせた。分かるようでもあり、あまりふしぎで、よく分かりかねるところもあった。そのことを博士にいうと、博士はうなずき、「そうであろう。わしの話は、よほどの専門家にも分かりかねるところがあるんだ。だから君たちにも分からないのはむりでない。しかし、わしが生物を人造(じんそう)することに成功したということを、まず信じてくれれば、これで話の要点は分かったことになるんだ」と、博士は熱心に語った。「さて、わしは、金属材料(きんぞくざいりょう)ではなく、人工細胞(じんこうさいぼう)を使って、電気臓器を作りあげた。これは脳髄(のうずい)だ。その他のあらゆる臓器を一つところに集め、そして人間の臓器よりもずっとよく働くように設計してある。それはうまくできあがった。しかし困ったことに、それは生きてはいたが、まるで気絶(きぜつ)している人間同様に、意識というものがなかった。それでは困る。せっかく作った電臓(てんぞう)が、いつまでも気絶状態をつづけていては役に立たない。そこで、どうしたら、この電臓の意識を呼びさますことができるか、それを考えたのだ。分かるかね、ここらの話が……」 博士は、見えない顔を左右に動かして、少年たちの様子をうかがうのであった。「ぼんやり分かりますよ」 少年は、正直(しょうじき)に返答した。「ほう。ぼんやりでも、分かってくれると、わしはうれしい。……そこでわしは、電臓に意識をつけるために電撃(でんげき)をあたえた。三角岳(さんかくだけ)へおしよせてくる大雷雲(だいらいうん)を利用して、あの電臓へ、つよい電気の刺戟(しげき)を加えたんだ。これが成功するか失敗するか、どっちとも分かっていなかった。しかしわしは、大胆(だいたん)にその実験をやってのけたのだ」 博士のことばは、だんだん熱して来た。「ところが、意外にも、研究所の中に大爆発(だいばくはつ)が起こった。ひどい爆発だった。まったく予期(よき)しない爆発だ。わしは一大閃光(いちだいせんこう)のために、いきなり目をやられた。わしの脳は、千万本の針をつっこまれたように、きりきりきりと痛んだ。ああ……ううーむ」 ここまで語って来た博士は、いきなりその場にもだえて、椅子から下へころがり落ちた。 さあ、たいへんである。少年たちは、博士を助けおこす組と、医局へ走る組とに分かれて一生けんめいにやった。 大宮山院長がかけつけて、博士を担架(たんか)でしずかに病室へ移すよう命じた。そして当分のうち絶対(ぜったい)に面会謝絶(めんかいしゃぜつ)を申しわたした。 少年たちは、だからもうそれ以上博士から奇怪(きかい)な超人間X号の話を聞くことができなかった。そして割りきれない胸をいだいて、病院を引きあげたのであった。 いよいよ怪(あや)しいかぎりの超人間X号は、今いずこにひそんでいるのだろうか。ダム爆破(ばくは)以来、ここに十三日になるが、彼の所在(しょざい)はさっぱり知られていないのだった。 ところが、その日の夜、三角岳の南方四十キロばかりの地点にある九鬼刑務所(くきけいむしょ)で、死刑執行中(しけいしっこうちゅう)に、怪しい影がさしたという事件があった。 死刑は絞首台(こうしゅだい)を使うことになっていた。 死刑囚は、毒殺(どくさつ)で八人を殺したという罪状(ざいじょう)を持つ火辻軍平(ひつじぐんぺい)という三十歳の男であった。 この死刑に立ちあった者は、三人であった、一人は執行官、もう一人はその下でじっさいの仕事、つまり死刑囚の首に綱(つな)をかけたり、死んだあとは死骸(しがい)をひきおろしたりする執行補助官、もう一人は教誨師(きょうかいし)であった。 すでに用意は終り、死刑囚火辻は絞首台の上にのぼり、補助官によって首に綱の輪がかけられていた。それに向かって、十メートルはなれて、執行官と教誨師が並んで所定の席についていた。おりから東の空からのぼりはじめた月が明かるく、この死刑場を照らした。塀(へい)のそとにすだく虫の声も悲しく、凄惨(せいさん)な光景であった。 立ちあいの執行官は時計を見ながら、命令の時間になるのをまっていた。もう残すところ一分あまりであった。 執行官は、さっきから補助官の姿が見えないので、どこにいるのかと軽い疑問を持っていた。死刑の時刻は、あと三十秒ほどにせまった。 そのときであった。目かくしされ首に綱をつけ、しずかに塀をうしろにして、立っている死刑囚のそのうしろの塀に横あいから近づく一つの人影(ひとかげ)をうつした。「あッ、あの人影は……」 教誨師が、低い声で叫んだ。   阿弥陀堂(あみだどう) 執行官もその人影を見た。頭部のたいへん大きな、肩はばの広い、大きな人影であった。(だれだろう、死刑囚のそばへ近づくのは) 執行官は迷った。死刑執行をすこし待って、あの怪影をしらべ、もしも、死刑に関係のない者だったら、追っぱらうべきであろうか。それとも、このまま死刑を執行してしまうべきであろうか。 それにしても、補助官は、どこになにをしているのであろうか。 執行官は、やっぱり時刻が来たときに死刑を執行した。彼が、死刑囚の足をささえている台をはずしたのである。その瞬間、死刑囚のからだはすうーッと下に落ち、そして途中でとまって、ぶらんとさがった。 怪影はそれまで見えていたが、死刑と同時に、ぱッとうしろへさがって、小屋のかげに消えた。 それからあとは何事もなかった。 絞首にきめられてある時間がたった。 執行官は、手はずのとおり、死刑囚の死体をおろすように信号を送った。 すると宙ぶらりんになっていた死体は、すーッと下へおりていって、やがて穴の中に見えなくなってしまった。(なあんだ、補助官は、やっぱり死刑台の地下室に待っていたのか) 執行官は安心した。 執行官と教誨師(きょうかいし)は、そこで顔を見あわせたが、さっき死刑囚に近づいた奇妙な影については、どっちも何にもいわなかった。そんなことをいうと、いかにも自分が死刑執行に立ちあって、心をみだしているように、相手に思われるのがいやだったからである。 二人は、連れだって、死刑台の下の地下室へおりていった。 そこにはいつものとおり、補助官が死んだ死刑囚の首から、絞首綱をはずしていた。「大丈夫かね」 執行官は、補助官に声をかけた。「はい。うまくいきました。異状なしです」 と、補助官はまったくふだんの調子でこたえた。何か異状か、怪しい人物を見かけたことでも訴(うった)えられるつもりでいた執行官はひょうしぬけがした。「君は、さっきこの死刑囚のそばへ行ったのか。
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