恐竜島
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著者名:海野十三 

   ふしぎな運命(うんめい)


 人間は、それぞれに宿命(しゅくめい)というものをせおっている。つまり、生まれてから死ぬまでのあいだに、その人間はどれどれの事件にぶつかるか、それがちゃんと、はじめからきまっているのだ。
 運命はふしぎだ。
 その運命のために、われわれは、思いがけないことにぶつかる。夢にも思わなかった目にあう。そしてたいへんおどろく。
 自分の宿命を、すっかり見通している人間なんて、まずないであろう。それが分っていれば、おどろくこともないわけだ。
 宿命が分らないから、われわれは死ぬまでに、たびたびおどろかされる。そしてそのたびに、自分の上におちて来た運命のふしぎさに、ため息する。
 わが玉太郎(たまたろう)少年が、恐竜島(きょうりゅうとう)に足跡(あしあと)をつけるようなことになったのも、ふしぎな運命のしわざである。
 そしていよいよそういう奇怪な運命の舞台にのぼるまえには、かならずふしぎなきっかけがあるものだ。それはひじょうに神秘(しんぴ)な力をもっていて、ほんのちょっとした力でもってすごい爆発をおこし、御本人を運命の舞台へ、ドーンとほうりあげるのだ。
 読者よ。わが玉太郎少年が、あやしき運命のために、どんな風に流されていくか、まずそのことについて御注目をねがいたい。


   モンパパ号の船客


 玉太郎が船客として乗っていたその汽船は、フランスに籍のあるモンパパ号という千二百トンばかりの貨物船(かもつせん)だった。
 貨物船とはいうものの、船客も乗せるようになっていた。さすがに一等船室というのはないが、二等船客を十二名、三等船客を四十名、合計五十二名の船客を乗せる設備をもっていた。四等船客はない。
 ところが船室は満員とはならなかった。いや、がらあきだったといった方がよいかもしれない。二等船客はたった三名だった。その一人がポール・ラツール氏といって、フランスの新聞ル・マルタン紙の社会部記者だった。
 玉太郎は三等船客の一人だったが、三等船客も四十名の定員のところ、たった十名しか乗っていなかった。
 要するに、このようなぼろ貨物船に乗って、太平洋をのろくさとわたる船客のことだから、あまりふところの温くない連中か、あるいは特別の事情のある人々にかぎられているようなものだった。
 小島玉太郎の場合は、夏休みをさいわいに、豪州(ごうしゅう)を見てこようと思い、かせぎためた貯金を全部ひきだして、この旅行にあてたわけであった。ふつうなら四等船客の切符にもたりない金額で、このモンパパ号の切符が買えるという話を聞きこんで、たいへんとくをするような気がしてこの切符を買うことになったのと、もう一つの理由は、この汽船が、ふつうの汽船とはちがって、サンフランシスコを出て目的地の豪州のシドニー港に入るまでに、ただ一回ラボールに寄港するだけで、ほとんど直航に近いことである。そのために船脚(せんきゃく)はおそいが、方々へ寄港する他の汽船よりもこのモンパパ号の方が結局二日ばかり早く目的地へつくことになっていた。玉太郎には、二日をかせぐことが、たいへんありがたかったのである。
 が、玉太郎のこの計画が、結果において破れてしまったことは気の毒であった。
 しかし神ならぬ身の知るよしもがなで、出発前の玉太郎にはそれを予測(よそく)する力のなかったのもいたし方のないことだ。
 玉太郎とラツール記者とは、乗船のその翌日に早くもなかよしになってしまった。
 そのきっかけは、玉太郎の愛犬(あいけん)ポチが、トランクの中からとび出して(じつはこのポチの航海切符は買ってなかった。だからやかましくいうと、ポチは密航(みっこう)していることになる)玉太郎におわれて通路をあちこちと逃げまわり、ついにラツール氏の船室にとびこんだ事件にはじまる。
 ラツール氏は、なんでも気のつく人間だったから、たちまちポチの密航犬なることを見やぶった。玉太郎も正直にそのことをうちあけた。
 そこでラツール氏は、このままにしておいてはよろしくないというので、自ら事務長にかけあって、この所有者不明の……そういうことにして……密航犬を、発見者であるラツール氏自身がかうこと、そしてこの犬の食費として十ドルを支払うことを承知させた。そこでポチは、息苦しい破れトランクの中にあえいでいる必要がなくなって、大いばりで船中や甲板(かんぱん)をはしりまわることができるようになった。玉太郎のよろこびは、ポチ以上であったことはいうまでもない。
 ラツール記者は、結局十ドルだけ損をしたことになる。しかしそれは、十ドル支払った当(とう)ざのことであって、やがて彼はその十ドルが自分の生命を買った金であったことに気がつく日が来るはずである。たった十ドルで生命が買えるなんて、ラツール氏はなんといういい買物をしたことであろう。しかしこのことも、そのときラツール氏はまだ気がついていなかった。
 大きな自然のふところにいだかれて、原始人(げんしじん)のような素朴(そぼく)な生活がつづいた。あるときは油を流したようをしずかな青い海の上を、モンパパ号は大いばりで進んでいった。またあるときは、ひくい暗雲(あんうん)の下に、帆柱のうえにまでとどく荒れ狂う怒濤(どとう)をかぶりながら、もみくちゃになってただようこともあった。
 朝やけの美しい空に、自然児(しぜんじ)としてのほこりを感ずることもあったし、夕映えのけんらんたる色どりの空をあおいで、神の国をおもい、古今(ここん)を通じて流れるはるかな時間をわが短い生命にくらべて、涙することもあった。
 航路は三日以後は熱帯(ねったい)に入り、それからのちはほとんど赤道にそうようにして、西へ西へと船脚をはやめていたのだ。
 とつぜんおそろしい破局(はきょく)がやってきたのは、サンフランシスコ出港後第十三日目のことであった。たぶん明日あたり、ニューアイルランドの島影が見えはじめるはずだった。それが見えれば、本船は、その尖端(せんたん)のカビエンの町を左に見つつ南方へ針路をまげ、そして島ぞいにラボール港まで下っていくことになっていたのだ。
 いや、カビエンもラボールの話も、今はむだである。わがモンパパ号は、カビエンもラボールも、どっちの町も見はしなかったのだ。それどころか、ニューアイルランドの島かげさえ、ついに見ることがなかったのだ。
 おそろしい破局が、それよりも以前に来たのである。モンパパ号は、深夜(しんや)の海に一大音響をあげて爆沈(ばくちん)しさったのである。
 そのときのことを、すこしぬきだして、次に記しおく。


   愛犬(あいけん)の行方(ゆくえ)


 玉太郎は、ふと目がさめた。
 おそろしい夢にうなされていたのだ。自分のうめき声に気がついて、目ざめた。身は三等船室のベットの上に、パンツ一つの赤はだかで横になっていることを発見して、彼は安心したが、胸ははげしく動悸(どうき)をうっていた。
 附近には、同じ三等船客が眠っていた。彼らは玉太郎のうめき声に気がついた者もあるはずだったが、誰も親切心を持っていなかったと見え、この少年を呼び起してやる者がなかった。もっとも玉太郎は、そういうことを、ちっとも気にしていなかったが……。
 それよりも、目ざめた玉太郎がすぐ感じた不安があった。それはいつも自分のベットの下に寝ている愛犬ポチの気配がしなかったことだ。彼はむっくり起きあがると、ベットの下をのぞいた。
 ポチはいなかった。
 やっぱりそうだった。ふしぎなことだ。玉太郎が寝ている間は、ほとんどそばをはなれたことのないポチが、なぜ今夜にかぎつて無断(むだん)で出かけてしまったんだろう。
「ポチ……。ポチ……」
 玉太郎は、あたりへえんりょしながら、犬の名を呼んだ。
「しいッ」「ちょッ。しいッ」
 たちまち、他のベットからしかられてしまった。
 玉太郎は、ベットの上に半身(はんしん)を起した。そのときだった。彼はポチのほえる声を、たしかに耳にしたと思った。しかしそれは、遠くの方で聞えた。どこであるか分らない。この船室でないことだけはたしかであった。
 玉太郎は、いそいではね起きた。そしてすばやく上衣(うわぎ)とパンツをつけ、素足(すあし)でベットの靴をさぐって、はいた。
 それから枕許(まくらもと)から携帯電灯(けいたいでんとう)と水兵ナイフをとって、ナイフは、その紐(ひも)を首にかけた。そして足ばやにこの部屋をでていった。
 戸口のカーテンを分けて出ようとしたとき、またもやポチのほえるのを聞いた。どうやら二等船室の方らしい。いやなほえ方だ。強敵(きょうてき)におそわれ、身体がすくんでしまってもがいているような声だった。玉太郎は、一刻(いっこく)も早くポチを救ってやらねばならないと思い、せまい通路を走って、二等船室の方へとびこんでいった。犬の姿は、なかった。
 と、船室の戸がひらいて、そこから顔を出した者があった。
 ラツール記者だった。
「おや、玉太郎君かい。どうしたんだ」とむこうから声をかけた。
 玉太郎は、そばへかけよると自分の寝台(しんだい)の下からポチが見えなくなって、どこやらで、いやなほえ方をしていることを手みじかに語った。
「ふーン、なるほど。僕もポチの声で目がさめたんだ。この戸口の外でへんな声でほえるもんだから。僕はベットの上からしかった。しかし泣きやまないから、今下へおりて、この戸をあけたわけだが……ポチの姿は見えないね。どこへいったろう」
 そういっているとき、またもやポチの声が遠くで聞えた。いよいよ苦しそうなほえ方であった。それはどうやら甲板(かんぱん)の上らしい。
「あっ、甲板へ行ってほえていますよ」
「うむ。どうしたというんだろう。幽霊をおっかけているわけでもあるまいが、とにかく何か変ったことがあるに違いない。行ってみよう」
 そのとき、ポチはまたもや、いやな声でほえた。
 それを聞くと玉太郎はたまらなくなって、かけだした。そしてひとりで甲板へ……。
 甲板は、まっくらだった。
「ポチ。……ポチ」玉太郎は、犬の名をよんだ。
 いつもなら、すぐ尾をふりながら玉太郎の方へとんで来るはずのポチが、ううーッ、ううーッと闇のかなたでうなるだけで、こっちへもどってくる気配(けはい)はなかった。
「ポチ。どうしたんだい」
 玉太郎は携帯電灯をつけて足もとを注意しながら、愛犬のうなっている方角をめがけて走った。それは船首の方であった。甲板がゆるやかな傾斜(けいしゃ)で、上り坂になっていた。
 ポチはいた。
 舳(へさき)の、旗をたてる竿(さお)が立っているが、その下が、甲板よりも、ずっと高くなって、台のようになっている、がその上にポチは、変なかっこうで、海上へむかってほえていた。しかし玉太郎が近づくと、にわかに態度をあらためて、尾をふりながら、上から玉太郎の高くあげた手をなめようとした。しかし台は高く、ポチはそれをなめることができなかった。
「あ、ここにいたね」うしろから声をかけて、ラツール氏が近づいた。
「ほう。そんな高いところへ上って。何をしているんだ」
「海の上を見てほえていたんですが、今おとなしくなりました」
「海の上? 何もいないようだが……」
 と、とつぜんポチが台の上におどり上って、いやな声でほえだした。
 その直後だった。玉太郎のふんでいた甲板が、ぐらぐらッと地震のようにゆれだしたと思う間もなく、彼は目もくらむようなまぶしい光の中につつまれた。と、ドドドーンとすごい大音響が聞え、甲板がすうーっと盛りあがった。
 あ、あぶない! といったつもりだったが、そのあとのことはよくおぼえていなかった。
 後から考えるのに、このときモンパパ号は突如(とつじょ)として大爆発を起し、船体は粉砕し、一団の火光になって四方へとびちったのであった。わずか数秒間のすこぶる豪勢(ごうせい)な火の見世物として、附近の魚類をおどろかしたのを最後に、貨物船モンパパ号の形はうせ、空中から落ちくる船体の破片も、漂流(ひょうりゅう)する屍体(したい)も、みんなまっくろな夜空と海にのまれてしまったのである。
 SOSの無電符号(むでんふごう)一つ、うつひまがなかった。だからモンパパ号の遭難(そうなん)に気がついた第三者はいなかった。


   漂流(ひょうりゅう)


 玉太郎は、ふと気がついた。
 ポチの声が聞えるのだ。
「ポチ」と、犬の名をよんだときに、玉太郎はがぶりと潮(しお)をのんだ。息が出来なくなった。夢中で水をかいた。
 海の中にいることがわかった。体がふわりと浮きあがる。
「あ、痛(いた)……」
 頭をごつんとぶっつけた。木片(もくへん)であった。犬がすぐそばで吠(ほ)えつづけた。玉太郎は完全に正気にかえった。
 海の上に漂(ただよ)っていることに気がついた。しかしどうして自分が海中へとびこんだのか、そのわけをさとるまでにはしばらく時間がかかった。
 犬は、たしかにポチだった。まっくらな海のこととてポチの顔は見えなかったが、こっちへ泳ぎよってきて、木片のうえへはいあがると、またわんわんと吠えた。
 玉太郎もその木片に両手ですがりついたが、それはどうやら扉らしかった。
 玉太郎は、ポチにならってその上へはいあがろうとしたが、扉は一方へぐっとかたむき、そしてやがて水の中へ扉はしずんだ。ポチは、ふたたび海の中におちて泳がねばならなかった。玉太郎は、その扉の上にはいあがることをあきらめた。
 扉は、間もなく元のように浮きあがった。ポチも心得てそのうえにはいあがった。玉太郎は扉につかまったまま、流れていく覚悟(かくご)をした。
 ようやくすこし、心によゆうができた。
「いったい、どうしたのかしらん」
 玉太郎は、しいて記憶をよびおこそうと努力した。
「そうそう、舳(へさき)のところにいたまでは覚(おぼ)えている。と、とつぜんあたりが火になって……その前に甲板がぐらぐらとゆれ……大音響がして、そのあと……そのあとは覚えていない。その次は……こうして海の中にいた。そうか。船から放りだされたんだ。船はどこへいったろう」
 玉太郎はあたりを一生けんめい見まわした。しかし汽船の灯火は一つも見えなかった。
「僕とポチを海の中へつきおとしたまま、モンパパ号は、どんどん先へ行ってしまったんだな」
 玉太郎は、そう考えた。
 そう考えるのもむりではなかった。モンパパ号はあまりにも完ぜんに爆破粉砕(ばくはふんさい)したので、そのころ海上には破片一つも見えてはいず、海上はまっくらで、墓場(はかば)のように静かであった。ただ、ときどき波が浮かぶ扉にあたってばさりと音をたてることと、頭上には美しく無数の星がきらめいていて、玉太郎とポチをながめているように見えるだけであった。
「そうだ。ラツールさんも、あのときいっしょに居たっけ、ラツールさんはどうしたかしらん。まさかあの人が僕たちを海へつきおとしたんじゃないだろうに……」
 分らない。見当(けんとう)がつかない。モンパパ号がとつぜん大砲をうったため、自分たちはそれがためにはねとばされたのかな……とも考えたが、しかしモンパパ号は大砲をすえていなかったことは明らかだったから、これは考えちがいだ。やっぱり分らない。わけが分らない。
 玉太郎の両手がだんだん疲れてきた。また始めはなんともなかった海水が、いやに冷いものに感じられるようになった。熱帯の海だというのに、ふしぎなことだった。
 もうどうにも両手が痛くなって、扉にすがっていられなくなった。片手ずつにしてみた。しかしかえって疲れていけなかった。潮をがぶりがぶりとのんだ。つい、ずぶずぶと沈んでしまって、あわてるからだ。そのたびにポチがさわいだ。
「これはいけない。海に負けてはいけない。夜が明けるまでは、この扉をはなしてはだめだ」
 工夫はないかと考えた。
 やっと思いついたことがある。首にかけていたナイフの紐(ひも)を利用することだった。首から紐をはずして、扉のふちに割れているところがあるので、そこへ紐を通してくくりつけた。それから紐のあまりを、一方の手首にまきつけて端(はじ)をむすんだ。
 これはいいことだった。紐の力で、浮かぶ扉にぶらさがっているわけであった。手の筋肉は疲れないですんだ。そのかわり紐が手首をしめすぎて、少し痛くなった。玉太郎は考えて、紐と手首の間に、シャツの端をおしこんで、痛みをとめた。
 睡(ねむ)くなった。睡くてどうにもやり切れなくなった。ポチがしずかなのも、ポチも睡くなって睡っているのかもしれない。
 ずぶりと水の中に頭をつっこんで、はっと、睡りからさめることもあった。
“睡っちゃいけない。睡ると死ぬぞ”
 そんな声が聞えたような気がした。玉太郎は自分の頭を扉にぶっつけた。睡りをさますためであった。玉太郎の額からは、血がたらたらと流れだした。しかし彼はいつともしらず睡りこけていた。
 何十回目かは知らないけれど、あるとき玉太郎がはっと睡りからさめてみると、あたりは明るくなっていた。
 朝日が東の海の上からだんだん昇って来たらしい。夜明けだ。ついに夜明けだ。玉太郎は元気をとりもどした。
 ポチも目がさめたと見え、くんくん鼻をならしながら、玉太郎の方へよって来て、手をなめた。
 力とすがる扉は、思いの外、大きかった。これなら、うまくはいのぼると、その上に体をやすめることができないわけはないと気がついた。玉太郎は手首から紐をといて、一たん体を自由にした上で、用心ぶかく扉の上にはいあがった。浮かぶ扉は、昨夜のように深くは沈まず、玉太郎の体を上にのせた。ポチは大喜びで、玉太郎の顔をぺろぺろなめまわした。
 体がらくになったために、玉太郎は又しばらく睡った。
 どこかで、人の声がする。遠くから、人をよんでいる声だ。ポチがわんわんほえたてる。玉太郎はおどろいて目をさまし、むっくりと扉筏(とびらいかだ)の上におきあがったが、とたんに体がぐらりとかたむき、もうすこしで彼もポチも海の中に落ちるところだった。
 ポチが吠えたてる方角を見ると、玉太郎の扉筏よりもやや南よりに、やはり筏の上に一人の人間が立って、こっちへむかってしきりに白い布片(ぬのきれ)をふっていた。距離は二三百メートルあった。
 玉太郎は眸(ひとみ)をさだめて、その漂流者を見た。
「あ、ラツールさんらしい」
 玉太郎は、それから急いでいろいろな方法によって通信を試(こころ)みた。その結果、やっぱりラツール氏だと分った。そのときのうれしさは何にたとえようもない。地獄(じごく)で仏(ほとけ)とはこのことであろう。
 この二組は同じ海流の上に乗って、同じ方向に流されていたのである。
 玉太郎は、どうにかして早くラツール氏といっしょになりたいと思った。しかしその間にはかなりの距離があり、そして身体は疲れきっていた。とてもその距離を泳ぎきることは、玉太郎には出来なかったし、ラツール氏にしてもどうように出来ないことだろうと思い、失望した。
 どこまで、海流がこの二組を同じ方向へ流してくれるか安心はならなかった。
 三百六十度、どこを見まわしても海と空と積乱雲(せきらんうん)の群像(ぐんぞう)ばかりで、船影(ふなかげ)はおろか、島影一つ見えない。
 熱帯の太陽は積乱雲の上をぬけると、にわかにじりじりと暑さをくわえて肌を焼きつける。ふしぎに生命をひろって一夜は明けはなれたが、これから先、いつまでつづく命やら。玉太郎は水筒(すいとう)一つ、缶詰一つもちあわせていない。前途を考えると。暗澹(あんたん)たるものであった。


   熱帯の太陽


 腹もへった。
 のどもかわいて、からからだ。
 だが、それよりも、もっとこらえ切れないのは暑さだ。
「かげがほしいね。何かかげをつくるようなものはないかしら」
 玉太郎は、自分のまわりを見まわした。
 もちろん帆布(ほぎれ)もない。板片(いたぎれ)もない。
 だが、なんとかしてかげをつくりたい。どうすればいいだろうかと、玉太郎は一生けんめいに考えた。
 そのうちに、彼は一つの工夫を考えついた。それは、今筏(いかだ)にしている扉の一部に、うすい板を使っているところがある。それを小刀で切りぬけば板片ができる。それでかげをつくろうと思った。
 彼はすぐ仕事にかかった。ジャック・ナイフを腰にさげていて、いいことをしたと思った。仕事にかかると、ポチがとんで来て、じゃれつく。
 扉は格子型(こうしがた)になっている。だから周囲と、中央を通る縦横(たてよこ)には、厚い木材を使ってあるが、それらにはさまれた四カ所には、うすい板が張ってある。ナイフでごしごしと切っていった。
 やがてようやく四枚の板片がとれた。
 ここまでは出来た。が、これから先はどうするか。
 柱になる棒と、この四枚の板片を柱にむすびつける綱か紐がほしい。
 紐はあった。ナイフについている。
 柱になる棒だ。それさえ手に入ればいいのだ。
 玉太郎は、身のまわりを見まわした。が、そんなものはない。
 海面を見た。しかしそんなものは見あたらない。
 彼はがっかりした。
 それからしばらくたって、彼は何となく筏の端から、うす青い海面を眺めていると、彼をおどりあがって喜ばせるものが目にはいった。棒らしいものがある。それは水面下にかくれていたので、今まで気がつかなかったのだが、一種の棒である。
 この筏になっている扉の蝶番(ちょうつがい)のあるところは、もとネジで柱にとめてあった。その柱が木ネジといっしょに扉の方へひきむしられて、ひんまがったまま水中につかつているのだった。
 これが大きな柱だったり、鉄材に木ネジでとめてあるのだったりすれは、木ネジの方が折れてはなれてしまったことであろうが、その船は、ちゃちな艤装(ぎそう)のために、鉄材と扉の間にすきが出来、厚さ三四センチのうすい板の柱のように間につめこんであったのだ。だからこの板は、扉といっしょにはなれるのだ。
 玉太郎は、水中に手を入れ、この板柱をはずして筏の上にあげた。長さは二メートルはある。手頃(てごろ)の柱だ。
 こうして材料はそろった。
 玉太郎は、これらのものを使って、筏のまん中に、板の帆をもった柱をたてた。涼(すず)しいかげができた。
「ポチもここへこい。ああ、ここにおれば楽だ」
 玉太郎は、かげにはいって、生きかえったように思った。
 書けば、これだけのかんたんな仕事であったが、これだけのことに、たっぷり二時間もかかった。
 涼しくはなったが、いよいよ腹はへってきて、やり切れない。のどもかわく。
「ラツールさんも困っていることだろう」
 彼はラツールさんに同情をして、その筏の方を見た。
「おや、ラツールさんも、かげをこしらえたよ。ふーン、あの筏は、だいぶんこっちへ近くなって来たが……」
 ラツールの筏の上には、白い布(きれ)が柱の上に張られた。それは帆として働いている。ラツールのところには、なかなか布があるらしい。見ているうちに、また新しい帆が一つ張られた。
 それがすむと、ラツールは、筏の上から、しきりに手まねをして、こっちへ何かを通信しはじめた。
 それは何事だか分らなかったが、いくどもくりかえしているうちに、意味がわかりかけた。
“おーい、元気を出せ。僕はこの帆を使って、この筏を、そっちへよせる考えだ”
 ありがたい。二人とも別々に海流の上にのって、どこまでも別れ別れに流されていく外ないのかと思っていたのにラツールの努力によって、二人は筏を一つに合わせることができそうだ。ああ、ありがたい。
 玉太郎は、ラツールにお礼の意味でもって、それからしばらくポチにほえさせた。
 ラツール氏は手をふって喜んでいる。


   筏(いかだ)の補強(ほきょう)


 ラツール氏の筏は、どんどん近づいた。
 氏はヨットをやったことがあると見え、帆(ほ)の張りかたも筏のあやつり方も、なかなか上手であった。
 氏の筏が、あと二十メートルばかりに近づいたとき、玉太郎はポチに泳いでわたるようにいいつけた。
 ポチは待っていましたとばかり、ざんぶと海中にとびこんだ。そしてあざやかに泳いで渡った。
 ラツール氏とポチとはだきあって喜んだ。それからポチは、何かたべものをもらったらしい。舌なめずりをしていた。
 それからしばらくして、ポチはまたざんぶりと海へととびこんで、玉太郎の方へもどって来た。
 筏の上にポチがあがったところを見ると、細い紐が背中にむすびつけてあった。この紐はどうするのかしらんと、玉太郎がラツールの方を見ると、
「その紐を、どんどんそっちに引張ってくれ」と叫んだ。
 玉太郎はそのとおりにした。紐は長かった。二十メートルどころではなかった。一つの紐の先に、次の太い紐が結んであった。それがおわりになるころ、また次の繃帯(ほうたい)らしい細長い布片がつないであった。そして最後には、りっぱな丈夫なロープが水の中から筏の上へあがって来た。どこまでつながっているのかと、玉太郎は一生けんめい、うんうんとうなりながらロープを手許(てもと)へたぐった。
「やあ、ごきげんいかがですな、玉太郎の王子さま」
 という声に、おどろいて顔をあげると、もうそのときには、手のとどきそうなところにラツールの筏が近づいていた。玉太郎はロープといっしょに、ラツール氏の筏をどんどん引張っていたわけだ。
 ラツールは、愉快そうに笑った。そして筏をどしんとつけた。
 二人は手をにぎりあって喜んだ。
 が、このままでは、ゆっくり手をにぎりあっていることも許されない。
「早いところ、筏は一つに組みなおすことが必要だ」
「やりましょう」
 玉太郎は、腹のすいていることも、のどのかわいていることも忘れて、ラツール氏と共に筏の組みなおしをやった。
 ラツールの方は、いろんな木を集めていた。また箱をいくつか持っていた。本もののカンバスもあった。どこにさがっていたものか、紅(あか)のカーテンの焼けこげだらけの布もあった。これらのものをラツールはみんな海からひろいあげたのだといった。彼は、ロープの先に、鍵のように曲った金具をむすびつけ、それを漂流物に投げつけては、手もとへひきよせたのだという。
「なんか食べものは漂流していなかったかしらん」
「ああ、それはほんのすこしばかりしか手に入らなかった。おお、そうか。君は腹ぺこなんだね」
「早くいえば、そうです」
「なんだ、えんりょせずに早くいえばいいのに。よし、ごちそうするよ、待っていたまえ」
「いや、筏の組みかえがすんでからで、いいんです」
「そうかね。じゃあ筏の方を急ごう。なんだかあそこに、いやな雲が見えるからね、仕事は急いだ方がいいんだ」
 ラツールのさす南西の方角の空が、いやに暗かった。黒い雲が重々しくより集まっている。熱帯に特有のスコールの雲だろう。
 そのうちに筏の方は出来あがった。
 前よりは大して広くはない。しかし支棒(ささえぼう)がしっかりはいったり、板が二重三重になり、筏はずっと堅牢(けんろう)に、そして浮力もました。大きなかげもできた。
「よろしい、そこで休もう。お茶の時間を開くことにしよう」
 それを聞いただけで、玉太郎の腹がぐーぐー鳴った。のども、いやになるほど鳴った。
 ラツールはその缶を二人のあいだにおいた。
「どれでも気にいったのをたべたまえ。すこし塩味(しおあじ)がつきすぎているものがあるかもしれないがね。それから、君がたくさんたべすぎても叱(しか)らないよ」
 ラツールは笑って缶の中をさした。
 玉太郎がのぞくと、空缶(あきかん)の中には、りんごとオレンジが四つ五つ、肉の缶詰のあいたのが二つばかり、それに骨のついた焼肉(やきにく)がころがっていた。すばらしいごちそうだ。
「ポチにたべさせるものはないでしょうか」
 玉太郎がたずねた。
「ああ、ポチならあっちでよろしくやっているよ。あれを見たまえ」
 ラツールのさす方を見れば、なるほどポチが帆の向こうがわで、ひしゃけた缶の中に頭をつっこんで、しきりにたべていた。


   暴風雨(あらし)来(きた)る


 ラツールが苦心をして拾いあげた食料品を、玉太郎は世界一のごちそうだと思いながら、思わずたべすごした。
「どうだ、塩味がききすぎていたろう」
「いや、そんなことは分りませんでしたよ」
 みんな海水につかっていたのだ。缶詰も、穴があいて浮んでいたのだ。しかし腹のへりすぎた玉太郎には、そんなことはすこしも苦にならなかった。
「もっとたべていいよ。そのうちには、どこかの船に行きあって、助けられるだろうから」
「もう十分たべました」
 ポチは、まだ缶の中に頭をつっこんだきりである。尻尾(しっぽ)がいそがしそうにゆれている、がつがつたべているのだ。
「十分に腹をこしらえておいた方がいいよ。これから一荒(ひとあ)れ来るからねえ」ラツールが空を見上げた。玉太郎もそれについてあおむいた。
 さっきの黒雲は、いつの間にか、翼(つばさ)を大きくひろげていた。南西の方向は、雲と海面との境界線が見えない。すっかり黒くぬりつぶされている。すうーっと日がかげった。黒雲はもう頭の上まで来ているのだ。
 突風(とっぷう)が、帆をゆすぶった。帆柱(ほばしら)がぎいぎいと悲鳴をあげた。
 筏は急にゆれはじめた。波頭(はとう)がのこぎりの歯のようにたってきた。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ。大粒の雨が、玉太郎の頬をうった。と思うまもなく、車軸(しゃじく)を流すような豪雨(ごうう)となった。
 太い雨だ。滝つぼの下にいるようだ。あたりはまっくらに閉じこめられて、十メートル位から先の方はまったく見えなくなった。
 雨と浪(なみ)とが、上と下からかみあっているのだ。そこへ横合から風があばれこんでくる。ものすごいことになった。
 帆柱は、一たまりもなくへしおれた。帆は吹きとばされた。
 筏はばらばらになりそうだ。ラツールは玉太郎をはげましながら、筏の材料をむすびつけてある綱をしめなおし、なおその上に、あるものはみんな利用して筏の各部をしばりつけた。
 ポチは体が小さいので、いくたびか海の中へ吹きとばされそうになった。玉太郎はポチを、おれのこっった帆柱の根元に、綱でもってしばりつけた。大波が筏をのむたびに、ポチは波の下にかくれ、やがて潮(しお)がひくと、ポチは顔をだしてきゃんきゃんと泣いた。
 風雨は、だんだんひどくなった。
 山なす怒濤(どとう)は、筏をいくどとなくひっくりかえそうとした。あるときは奈落(ならく)の底につきおとされた。次のしゅん間には、高く波頭の上につきあげられた。
 刃物(はもの)のような風がぴゅうぴゅうと吹きつける。めりめりと音がしたと思ったら、筏の一部がかんたんにわれて、あっと思うまもなく荒浪(あらなみ)にもっていかれてしまった。
 もう誰も生きた心地がない。風と雨とにたたかれ怒濤にもてあそばれ、おまけに冬のような寒気がおとずれ、手足がきかなくなり、凍(こご)え死(じに)をしそうになった。
 天地はまっくらで、方角もわからなければ、太陽も地球もどこへ行ってしまったのかけんとうがつかない。ラツールと玉太郎とは、もう万事(ばんじ)あきらめ、たがいにしっかり抱きあい、ポチも二人のあいだへ入れて、最期(さいご)はいつ来るかと、それを待った。
 それから、かなりの時間がたった。
 もういけない、こんどの波で筏はばらばらになるだろう、この次は海のそこへつきおとされるであろうなどと気をつかっているうちに、両人ともすっかり疲労(ひろう)して、そのままぶったおれ、意識を失ってしまった。
 気がついたときは、風もしずまり、波もひくくなり、そして空は明るさを回復し、雲の間から薄日(うすび)がもれていた。
「おお、助かったらしい」一番先に気がついたのは玉太郎であった。すぐラツールをゆりおこした。
「ラツールさん。嵐はすみましたよ」
「ううーン」ラツールは目を開いた。そして玉太郎の顔をふしぎそうに眺めていたが、
「やあ、君か。きたない面の天使があればあるものだと感心していたら何のことだ、玉太郎君か。天国じゃなくて、ここはやっぱり筏の上なんだね」と、にこにこしながら半身をおこした。
 ポチもおきあがって、ぶるぶる身体についている水をふるったので、それが玉太郎の顔にまともにあたった。
「ポチ公。おぎょうぎが悪いぞ。ぺッ、ぺッ」
 玉太郎は顔をしかめた。ラツールは大きな声で笑った。玉太郎も笑った。生命を拾った喜びは大きい。


   恐(おそ)ろしい丘影(おかかげ)


 雲がどんどん流れさって、太陽が顔を出した。
 太陽の高さから考えると、嵐は五時間ぐらい続いたことになる。
「いったい、どこなんでしょう」玉太郎がきいた。
「さっぱり方角が分らない。太陽が、もうすこしどっちかへかたむいてくれると、見当がつくんだが、なにしろ太陽は今、頭のま上にかがやいているからね」
 赤道直下(せきどうちょっか)だから正午には太陽は頭のま上にあるのだ。筏の上に立つと影法師(かげぼうし)が見えない。よく探して見れば、影法師は足の下にあるのだ。
「どっちを見ても空と海ばかり……おや、島じゃないでしょうか[#「ないでしょうか」は底本では「ないでょうか」]、あれは……」
 玉太郎は、筏のまわりをぐるっと見まわしているうちに雲の下に、うす鼠色(ねずみいろ)の長いものが横たわっているのを見つけた。
「あれかい。あれは雲じゃないかなあ、僕もさっきから見ているんだが……」
「島ですよ。山の形が見える」
 雲はどんどん動いていったので、やがて島であることがはっきりした。二人の喜びは大きかった。筏の上で、おどりあがって喜んだ。筏の上には食料品が、もうほとんどなかった。水もない。だからあの島へ上陸することが出来れば、なにか腹のふくれるものと、そしてうまい水とにありつくことが出来るだろう。
「また帆をはろうや」ラツールがそれをいいだしたので、玉太郎もさんせいして、すぐさま残りの材料をあつめて二度目の帆を張り出した。
 島との距離は、あんがい近い。海上三キロぐらいだ。はじめはそうとう大きい島だと思ったのが、空がすっかり晴れてみると、小さな島であることが分った。
 風が残っていたので、帆が出来ると、筏はかるく走りだした。それに、やはり潮流(ちょうりゅう)が、その方へ流れていると見え、筏をどんどん島の方へ近づけていった。
 だが、いよいよ島の近くに達(たっ)するまでには四五時間かかった。太陽はすでに西の海に沈み、空は美しく夕焼している。その頃になって、島の上に生(は)えている椰子(やし)の木が、はっきりと見えるようになった。
「明るいうちに、島へつきたいものだね」
「こぎましょうか」
「こぐったって、橈(かい)もなんにもない」
 風と海流の力によるしかない。
「家らしいものは見えないね。煙もあがっていない」
 島の方をながめながら、ラツールは失望のていである。
「無人島(むじんとう)でしょうか」
「どうもそうらしいね」
「人食(ひとく)い人種がいるよりは、無人島の方がいいでしょう」
「それはそうだが、くいものがないとやり切れんからね」
 二人は、日が暮れるのも忘れて、夢中になって島をながめつくした。
「ほう、無人島でもないようだ」ラツールが、声をはりあげた。
「人がいますか」
「いや、そんなものは見えない。しかし島の左のはしのところを見てごらん。舟(ふな)つき場(ば)らしい石垣が見えるじゃないか」
 島は中央に、山とまではいかないが高い丘がとび出していて、それが方々にとんがっている。そのまわりは一面に深い密林だ。椰子もあるし、マングローブ(榕樹(ようじゅ))も見える。その間に、ところどころ白い砂浜(すなはま)がのぞいている。ラツールが発見した石垣は、ずっと左の方にあり、なんだかそこが、密林の入口になっているようでもある。正確なことは上陸してみれば、すぐ分るであろう。
「もうあの島には、人が住まなくなったのでしょうか」
「それにしては、あの石垣がもったいない話だ」
 夕焼の空は、赤から真紅(まっか)に、真紅から緋(ひ)に、そして紫へと色をかえていった。それまでは見えなかったちぎれ雲が生あるもののようにあやしい色にはえ、大空から下に向って威嚇(いかく)をこころみる。
 島の丘の背が、赤褐色(せっかっしょく)に染って、うすきみわるい光をおびはじめた。
「おやあ、これはちょっとへんだぞ」ラツールがさけんだ
「どうしたんですか」
「この島は、恐竜島(きょうりゅうとう)じゃないかなあ。たしかにそうだ。あのおかを見ろ。恐竜の背中のようじゃないか。気味のわるいあの色を見ろ。もしあれが恐竜島だったら、われわれは急いで島から放れなくてはならない」
 ラツールは、ふしぎなことをいいだした。彼の恐れる恐竜島とは何であろうか。


   水夫(すいふ)ヤンの写生画(しゃせいが)


「恐竜島ですって。恐竜島というのは、そんなに恐ろしい島なの。ねえ、ラツールさん」
 玉太郎は筏の上にのびあがり、顔をしかめて島影(しまかげ)を見たり、ラツールの方をふりかえったり。せっかく島に上陸できると思った喜びが、ひょっとしたら消えてしまいそうであるので、だんだん心細さがます。
「はははは。まだ、あの島が恐竜島だときまったわけじゃないんだから、今からそんなにこわがるには及ばない」
 ラツールは笑った。だが、彼が笑ったのは、玉太郎をあまり恐怖させまいがためだった。だから彼の顔からは、すぐさま笑いのかげがひっこんで、顔付(かおつき)がかたくなった。彼は島の上へするどい視線(しせん)をはしらせつづけている。
「分らない、分らない。恐竜島のように思われるところもあるが、またそうでもないようにも思われる。まん中に背中をつき出している高い丘の形は、たしかに、この前見た水夫ヤンの写生図に出ていた図そっくりだ。しかし丘のふもとをとりまく密林や海岸の形がちがっている。あんなに密林がつづいていなかったからなあ。海岸から丘までが、ひろびろと開いていた。あんな石垣も、水夫ヤンの図には出ていなかったがなあ」
 ラツールは、ひとりごとをいうのに、だんだん熱心となって、そばに玉太郎がいることに気がつかないようであった。
「あれは恐竜島か、それともちがうのか。いったいどっちなんだ。ふん、おれの頭は熱帯ぼけの上に漂流ぼけがしていると見える。どっちかにきめなきゃ、これからやることがきまりゃしない。どっちかなあ、どっちかなあ……ええい、こんなに心の迷うときには、金貨うらないで行けだ。はてな、その金貨だが、持ってきたかどうか……」
 ラツールは、ズボンのポケットへ手をつっこんだ。しばらくいそがしく中をさぐっていたが、やがて彼の顔に明るい色が浮んだ。
「やっぱり、大事に、身につけていたよ」
 彼の指にぴかりと光るものが、つままれていた。百フランの古い金貨だった。それを彼は指先でちーんとはじきあげた。金貨は、彼の頭よりもすこし高いところまであがって、きらきらと光ったが、やがて彼のてのひらへ落ちて来た。そのとき筏がぐらりとかたむいた。大きなうねりがぶつかったためだ。
「ほウ」
 ラツールは、金貨をうけとめ、手をにぎった。彼はそっと手を開いた。すると金貨は、てのひらの上にはのっていなかった。中指とくすり指との間にはさまっていた。これでは金貨の表が出たことにもならないし、また裏が出たことにもならない。せっかくの金貨のうらないは、イエスともノウともこたえなかったことになるのだ。
「ちぇッ。運命の神様にも、おれたちの前途(ぜんと)がどうなるかおわかりにならないと見える」
 彼は苦(に)が笑いをして、金貨をポケットへしまいこんだ。
 玉太郎は、さっきからのありさまをだまって見つめていたが、このとき口を開いた。
「ラツールさん。上陸しないの、それともするの」
「だんぜん上陸だ。運命は上陸してから、どっちかにきまるんだとさ。かまやしない。それまではのんきにやろうや。どうせこのまま海上に漂流していりゃ、飢(う)え死(じに)するのがおちだろうから、恐竜島でもなんでもかまやしない、三日でも四日でも、腹一ぱいくって、太平楽(たいへいらく)を並べようや」
 かまやしないを二度もくりかえして、ラツールはすっかり笑顔になった。そして帆綱(ほづな)をぐいとひっぱった。帆は海風をいっぱいにはらんだ。風はまともに島へむけて吹いている。がらっととりこし苦労とうれいとを捨てたラツールのフランス人らしい性格に、玉太郎は強い感動をうけた。そこで玉太郎は、ラツールのわきへ行ってあぐらをかくと、口笛を吹きだした。彼の好きな「乾盃(かんぱい)の歌」だ。するとラツールも笑って、口笛にあわせて空缶(あきかん)のお尻を木片でにぎやかにたたきだした。
 ポチも、二人のところへとんでくると、うれしそうに尾をふって、じゃれだした。
 焼けつくような陽(ひ)が、近づく謎の島の椰子(やし)の林に、ゆうゆうとかげろうをたてている。


   上陸に成功


 筏は、海岸に近づいた。
 海底はうんと浅くなって、うす青いきれいな水を通して珊瑚礁(さんごしょう)が、大きなじゅうたんをしきつめたように見える。その間に、小魚が元気よく泳いでいる。
「きれいな魚がいますよ。ラツールさん。あっ、まっ赤(か)なのがいる。紫色のも、赤と青の縞(しま)になっているのも……」
「君は、この魚を標本(ひょうほん)にもってかえりたいだろう」
「そうですとも。ぜひもって帰りたいですね、全部の種類を集めてね、大きな箱に入れて……」
「さあ、それはいずれ後でゆっくり考える時間があるよ。今は、さしあたり、救助船へ信号する用意と、次は食べるものと飲むものを手に入れなければいかん。その魚の標本箱に、われわれの白骨(はっこつ)までそえてやるんじゃ、君もおもしろくなかろうからね」
「わかりました。魚なんかに見とれていないで、早く上陸しましょう」
「おっと、まった。まずこの筏を海岸の砂の上へひっぱりあげることだ。このおんぼろ筏でも、われわれが今持っている最大の交通機関であり、住みなれたいえだからね」
「竿(さお)かなんかあるといいんだが。ありませんねえ。筏の底が、リーフにくっついてしまって、これ以上、海岸の方へ動きませんよ」
「よろしい。ぼくが綱を持ってあがって、ひっぱりあげよう」
「やりましょう」
 空腹も、のどのかわきも忘れて、二人は海の中へ下りた。浅いと思っていたが、かなり深い。ラツールの乳の下まである。玉太郎はもうすこしで、顎(あご)に水がつく。
「痛い」
 玉太郎が顔をしかめた。彼は足の裏を、貝がらで切った。靴を大切にしようと思って、はだしになって下りたのが失敗のもとだった。
「うっかりしていた。もちろん、こういう場合は、足に何かはいていなくては危険だよ。さあもう一度筏の上へあがって、足の傷を手あてしてから上陸することにしよう」
 つまらないところで、上陸は手間どった。しかしラツールの行きとどいた注意によって、玉太郎は、あとでもっとつらい苦しみをするのを救われたのだ。それは、足の裏を切ったまま砂浜にあがると、その切目(きれめ)の中に小さい砂がはいりこんで、やがて激痛(げきつう)をおこすことになる。さらにその後になると、傷口からばい菌がはいって化膿(かのう)し、全く歩けなくなってしまう、熱帯地方では、傷の手当は特に念入りにしておかないと、あとでたいへんなことになるのだ。ラツールも、もう一度筏の上にはいのぼり、それから彼はあたりをさがしまわったあげく、ナイフで、カンバスに黒いタールがついているところを裂(さ)き、そのタールのついているところを玉太郎の傷口にあてた。そしてその上を、かわいたきれでしっかりとしばった。上陸するときは、この傷が海水につかるのをきらい、玉太郎を頭の上にかつぎあげて海をわたり、やがて海岸のかわいた上に、そっと玉太郎をおいた。
 ラツールの全身には玉なす汗が、玉太郎の目からは玉のような涙がぽろぽろとこぼれおちた。
「君は、感傷家(かんしょうか)でありすぎる。もっと神経をふとくしていることだね。ことに、こんな熱帯の孤島では、ビール樽(だる)にでもなったつもりで、のんびりやることだ」
 そういって玉太郎の両肩にかるく手をおいた。
「さあ、そこでさっきの仕事を大急ぎでやってしまうんだ。そこから枯草のるいをうんと集めてきて、山のように積みあげるんだ。もし今にも沖合(おきあい)に船影が見えたら、さっそくその枯草の山に火をつけて、救難信号(きゅうなんしんごう)にするんだ」
「はい。やりましょう」
 二人はさっそくこの仕事にかかった。榕樹(ようじゅ)は海の中にまで根をはり、枝をしげらせていた。椰子は白い砂浜の境界線のところまでのりだしていた。椰子の木の下には、枯葉がいくらでもあった。
 その枯葉をかつぎ出して、砂浜の上に積(つ)んでいった。よほど古い枯葉でないと、自由にならなかった。なにしろ椰子の葉は五メートル位のものは小さい方であったから、その新しい枯葉は小さく裂くことができないから、とても一人では運搬(うんぱん)ができなかった。古い枯葉なら、手でもって、ぽきんぽきんと折れた。
「ああ、のどが乾いた。水がのみたいなあ」
 玉太郎がいった。
「今に、うんと飲ませる。その前にこの仕事を完成しておかねばならない。だって、命の救い船は、いつ沖合にあらわれるかしれないからね。しばらく我慢するんだ」
 ラツールは、一刻も早く枯草積みをやりあげたい考えで玉太郎を激励し、きびしいことをいった。
 玉太郎は、ひりひりと焼けつきそうなのどを気にしながら、ふらふらとした足取で仕事をつづけた。
「うわッはっはっはっ。うわッはっはっはっ」
 とつぜんラツールが、かかえていた椰子の枯草を前にほうりだして、大きな声をたてて笑いだした。玉太郎はおどろいてふりかえった。戦慄(せんりつ)が、せすじを流れた、頼みに思った一人の仲間が、とつぜん[#「とつぜん」は底本では「とくぜつ」]気がへんになったとしたら、玉太郎の運命はいったいどうなるのであろうと、気が気でない。


   椰子(やし)の実の水


「うわッはっはっはっ。うわッはっはっはっ」
 ラツールの笑いは、まだやまない。
「どうしたんです。ラツールさん。しっかりして下さい」
「大丈夫だ、玉ちゃん。うわッはっはっはっはっ」
 ほんとうに気がへんになっているのでもなさそうなので玉太郎はすこし安心したが、しかしその気味のわるさはすっかり消えたわけではない。
「ラツールさん。気をおちつけて下さい、どうしたんです」
「むだなんだ。こんなことをしても、むだなのさ」
 やっと笑いやんだラツールが、笑いこけてほほをぬらした涙を、手の甲(こう)でぬぐいながら、そういった。
「何がむだなんです」
「これさ。こうして枯草をつみあげても、だめなんだ。すぐ役に立たないんだ。だって、そうだろう。枯草の山ができても、それに火をつけることができない。ぼくは一本のマッチもライターも持っていないじゃないか。うわッはっはっはっ」
「ああ、そうか。これはおかしいですね」
 玉太郎も、はじめて気持よく笑った。いつもマッチやライターが手近にある生活になれていたので、この絶海(ぜっかい)の孤島(ことう)に漂着(ひょうちゃく)しても、そんなものすぐそばにあるようなさっかくをおこしたのだ。
「第一の仕事がだめなら、第二の仕事にかかろうや。この方はかんたんに成功するよ。ねえ玉ちゃん。腹いっぱい水を飲みたいだろう」
「ええ。そうです。その水です」
「水はそのへんに落ちているはずだ。どれどれ、いいのをえらんであげよう」
 玉太郎は、ラツールがまた気がへんになったのではないかと思った。なぜといって、見わたしたところ、そこには川も流れていないし、海には水がうんとあるが、これは塩からくて飲めやしない。井戸も見あたらない。
 ラツールは林の中にわけいって、ごそごそさがしものをしている。足でぽかんとけとばしているのは、丸味(まるみ)をおびた椰子の実であった。
「これならいいだろう。まだすこし青いから、最近おちたものにちがいない」
 ラツールはその実をかかえてきて、玉太郎から借りたナイフで皮をさいた。皮はそんなにかたくない。中心のところに、チョコレート色のまん丸い球がおさまっていた。彼は、そこで実をかかえて、実のへたに近い方に穴を二つあけた。そこはすぐ穴があくようになっているのである。
 それがすむと、ラツールは椰子の実をかたむけた。すると、穴からどくんどくんと光をおびたきれいな水かこぼれ落ちた。彼は、それをちょっとなめて首を前後にふった。
「これなら我慢ができるだろう。この椰子の水は、すこしくさいが、毒じゃないから、安心して腹いっぱい飲みたまえ。あまくて、とてもおいしいよ」
 そういってラツールは、椰子の実を玉太郎に手わたした。
 玉太郎はそれをうけとって、椰子の水がしとしとと流れだしてくる穴に唇をつけて、すった。
(うまい!)
 玉太郎は心の中で、せいいっぱいの声でさけんだ。ごくりごくりと、夢中ですすった。うまい、じつにうまい。あまくて、つめたくて、腸(はらわた)にしみわたる。世の中にこんなうまいものがあったことをはじめてしった喜びに、玉太郎はその場で死んでもいいと思ったほどだ。
「どうだ、いけるだろう」
 ラツールは、もう一つの椰子の実をさきながら、玉太郎にきいた。玉太郎は、かすかにうなずいただけで、椰子の実からくちびるをはなしはしなかった。
 だが、ようやくのどのかわきがとまる頃になって、玉太郎は椰子の水が特有ななまぐさいにおいを持っていることに気がついた。それは、かなりきついにおいであった。でも玉太郎はくちびるをはなさなかった。ついに最後の一滴まで飲みほした。
「ああ、うまかった。じつに、うまかった」
 玉太郎は胸をたたいて、はればれとした笑顔になった。ラツールの方を見ると、ラツール先生は、両眼をつぶって夢中になって椰子の実の穴から水をすすっていた。水がぽたぽた地上にたれている。
 それを見ると、玉太郎はポチのことを思い出した。ポチものどがかわいたであろう。水がのみたかろう。ポチにももらってやりましょう。あたりを見たが、ポチの姿は見えなかった。
「ポチ。ポチ」
 玉太郎は愛犬の名を呼び、口笛をくりかえし吹いた。だが、どうしたわけか、ポチは姿をあらわさなかった。玉太郎は、モンパパ号の上でも、椿事(ちんじ)の前にポチの姿が見えなくなったことを思い出して、不安な気持におそわれた。


   密林(みつりん)の奥(おく)


「また。ポチがいなくなったって。なあに、だいじょうぶ。硝石(しょうせき)なんか積んでいたモンパパ号とちがって、これは島なんだから、爆発する心配なんか、ありゃしないよ」
 ラツールは、なまぐさいおくびをはきながら、そういって、空(から)になった椰子の実を足もとにどすんとすてた。
 なるほど、そうであろう。しかしこの広くない島にしろポチは何にひかれて単身(たんしん)もぐりこんでしまったのであろうか。
「さあ、そこで第三の仕事にうつろう」
「こんどは何をするんですか」
「火がなくて、沖合(おきあい)へのろしもあげられないとなれば、いやでもとうぶんこの島にこもっている外ない。そうなれば食事のことを考えなければならない。何か空腹(くうふく)をみたすような果物かなんかをさがしに行こう」
「ああ、それはさんせいです」
「多分この密林の中へはいって行けば、バナナかパパイアの木が見つかるだろう」
「ラツールさんは、なかなか熱帯のことに、くわしいですね。熱帯生活をなさったことがあるんですか」
 玉太郎は、ラツールがどんな返事をするかと待った。
「熱帯生活は、こんどが始めてさ。しかしね、二三年前に熱帯のことに興味をおぼえて、かなり本を読みあさったことがある。そのときの知識を今ぼつぼつと思い出しているところだ」
「そうですか。どうして熱帯生活に興味をおぼえたんですか」
「それは君、例の水夫ヤンの――」
 と、ラツールがいいかけたとき、どこかで犬のはげしくほえたてる声が聞えた。ポチだ。ポチにちがいない。
 二人は同時に木蔭(こかげ)から立ち上った。そしてたがいに顔を見合わした。
「どこでしょう。あ、やっぱりこの林の奥らしい」
「どうしたんだろう。玉ちゃん、行ってみよう。しかし何か武器がほしい」
 ラツールは、筏(いかだ)の折れたマストに気がついて、そのぼうを玉太郎と二人で、一本ずつ持った。そして林の中へかけこんだ。
 が、二人は間もなく、走るのをやめなければならなかった。というのは密林の中は、もうれつにむんむんとむし暑かった。汗は滝のようにわき出るし、心臓はその上に砂袋をおいたように重くなり、呼吸をするのも苦しくなった。そのうえに、玉太郎の頭のてっぺんまでをかくしそうな雑草がしげっていて、もちろん道などはない。
 ポチはこの草の下をくぐって、方角が分らなかったのではなかろうかと思ったが、それだけではないらしく、あいかわらずわんわんとはげしくほえ立てている。
 玉太郎は両手を口の前でかこって、メガホンにし、ポチを呼ぼうとした。
「おっと、ポチを呼ぶのは待ちたまえ」
「ええ、やめましょう。でもなぜですか」
「犬が吠えているところを見ると、あやしい奴(やつ)を見つけたのかもしれない。今君が大声でポチを呼ぶと、あやしい奴がかくれてしまうかもしれない。そしてぼくたちが近よったとき、ふい打ちにおそいかかるかもしれない。それはぼくたちにとって不利だからねえ」
 ラツールのいうことはもっともだった。
「だから、ポチにはすまないが、しばらくほっておいて、犬の吠えているところへ、そっと近づこうや」
「いいですね。こっちですよ」
 二人は、息ぐるしいのをがまんして、雑草の下を腰をひくくしてほえている方へ近づいていった。その間に、蟻(あり)、蠅(はえ)、蚊(か)のすごいやつが、たえず二人の皮膚を襲撃した。
 やがて密林がきれた。目の前が急にひらいて、沼の前に出た。むこう岸に褐色(かっしょく)の崖(がけ)が見えている。そこから上へ、例の丘陵(きゅうりょう)がのびあがっているのだ。
 ポチの声はしているが、それに近づいたようには聞こえない。
「どこでほえているのかなあ」玉太郎は首をかしげた。
「まるで地面(じめん)の下でほえているように聞える」
「地面の下なら、あんなにはっきり聞えないはずだ。どこかくぼんだ穴の中におちこんでほえているのじゃなかろうか」
「ほえているのは、こっちの方角だが、どこなんでしょう」
 玉太郎は沼のむこう岸をさした。
 そのときだった。とつぜん大地がぐらぐらっとゆれはじめた。
「あっ、地震だ。大地震だ」
 二人はびっくりしてたがいにだきついた。鳴動(めいどう)はだんだんはげしくなっていく。沼の水面にふしぎな波紋がおこった。が、そんなことには二人とも気がつかないで、しっかりだきあっている。


   赤黒(あかぐろ)い島


 その地震は、三十秒ぐらいつづいて終った。ほっとするまもなく、また地震が襲来(しゅうらい)した。
「あッ、また地震だ」
「いやだねえ、地震というやつは……」
 ラツールは地震が大きらいであった。玉太郎としっかりだきあって、目をとじ、神様にお祈りをささげた。
 そのような地震が前後四五回もつづいた。そしてそのあとは起らなかった。いずれも短い地震で、三十分間つづいたのはその長い方だった。
 地震とともに、沼の水面に波紋が起ったことは前にのべたとおりだが、二度目の地震のときは、その波紋の中心にあたるところの水面が、ぬーッともちあがった。
 いや、水面がもちあがるはずはない。水の中にもぐっていたものが浮きあがったのであろうが、その色は赤黒く、大きさは疊三枚ぐらいもあり、それがこんもりとふくれあがって河馬(かば)の背中のようであったが、河馬ではなかった。
 というわけは、その茶褐色(ちゃかっしょく)の楕円形(だえんけい)の島みたいなものの横腹に、とつぜん窓のようなものがあいたからである。その窓みたいなものが、密林のしげみをもれる太陽の光線をうけて、ぴかりと光った。
 それは一しゅんかん、探照灯(たんしょうとう)の反射鏡のように見えた。それからまた巨大なる眼のようにも見えたが、まさか……
 が、とつぜんその赤黒い島は、水面下にもぐってしまった。その早さったらなかった。電光石火(でんこうせっか)のごとしというたとえがあるが、まさにそれであった。
 それのあとに新しい波紋がひろがり、それからじんじんゆさゆさと、次の地震が起ったのであった。
 いったい沼のまん中で浮き沈みした赤黒い島みたいなものは、何であったろうか。
 玉太郎もラツールも、目をつぶってだきあっていたから、この重大なる沼の怪事(かいじ)をついに見落としてしまった。このことは二人にとって大損失(だいそんしつ)だった。
 地震がもう起らなくなったので、二人はようやく手をといて、立ち上った。
「いやなところだね。赤道(せきどう)の附近には火山脈(かざんみゃく)が通っているんだが、この島もその一つなのかなあ」
 ラツールは首をひねった。
「しかしラツールさん。地震にしては、へんなところがありますねえ」
 玉太郎がいった。

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