金属人間
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著者名:海野十三 

   こんな文章


 およそ世の中には、人にまだ知られていない、ふしぎなことがずいぶんたくさんあるのだ。
 いや、ほんとうは、今の人々に話をして、ふしぎがられる話の方が、ふしぎがられない話よりもずっとずっと多いのだ。それは九十九対一よりも、もっととびはなれた比であろうと思う。
 つまり、世の中は、ふしぎなことだらけなのだ。しかし、そう感じないのは、みなさんがたがどこにそんなふしぎなことがあるか知らないからだ。また、じっさいそのふしぎなものに行きあっていても、それがふしぎなものであることに、気がつかない場合が多い。
 それからもうひとつ――。
 人間の力では、どうにもならないことがある。それは運命ということばで、いいあらわされる。この運命というやつが、じつにふざけた先生である。運命に見こまれてしまうと、お金のない人が大金持になったり、またはその反対のことが起こったり、いや、そんなことよりも、もっともっと意外なことが起こるのだ。
 宝くじの一等があたる確からしさを、いわゆる確率(かくりつ)の法則(ほうそく)によって計算することができる。その法則によって出てきたところの「宝くじの一等があたる確からしさ」の率は、万人に平等である。その当せん率のあまりにも低いことを知って、万人は宝くじを買うことをやめるはずになっている。その確率の法則を作った学者や、それを信奉(しんぽう)する後続(こうぞく)の学究学徒(がっきゅうがくと)の推論(すいろん)によれば……。
 だが、事実はそうでなくて、宝くじがさかんに売れている。それはなぜであろうか。それは、とにかく事実一等にあたって二十万円とか百万円とかの賞金をつかむ人が、毎回十人とか二十人とか、ちゃんと実在(じつざい)するので、自分もそのひとりになれないこともないのだと、さてこそ宝くじを買いこむのである。
 その人たちの感じでは、当せん率は、確率の法則が算定してくれる率よりも、何百倍か何千倍か、ずっと多いように感ずる。これはいったいなぜであろうか。
 一言でいうと、世の中の人々は、確率論をまもる学者よりは、ずっと正しく、運命を理解しているからだ。すなわち運命がおどけ者であるということを、わきまえているのである。とうぜんとっぴょうしもない出来事をおこさせるおどけ者の運命は、案外わたくしたちの身近に、うろうろしているのだ。奇蹟(きせき)といわれるものは、案外たびたび起こるもので、わたくの感じでは、一カ月にいっぺんずつぐらいの割合で、奇蹟がおこっているのでないかと思う。
 ふしぎと運命と、そしてひんぱんに起こる奇蹟とに「世の人々よ、どうぞ気をおつけなさい」と呼びかけたい。
   一月十日
金属Qを創造する見込みのつきたる日しるす理学博士 針目左馬太(はりめさまた)

   次の語り手


 右にかかげた日記ふうの感想文は、その署名によって明らかなとおり、針目博士(はりめはくし)がしたためたものである。
 これは博士の書斎にある書類棚(しょるいだな)の、原稿袋の中に保存せられていたもので、後日(ごじつ)これを発見した人々の間に問題となった一文である。
 みなさんは、針目左馬太博士のことについて、今はもうよくご存じであろうから、べつに説明をくわえる必要はない。だが、この事件の起こった当時においては、この若き天才博士のことを、世の人々はほとんど知らなかったのである。
 博士は、わずか二十三歳のときに博士号をとっている。その論文は「重力(じゅりょく)の電気的性質、特に細胞分子間(さいぼうぶんしかん)におけるその研究」というのであった。これは劃期的(かっきてき)な論文であったが、またあまりにとっぴすぎるというので、にがい顔をした論文審査委員もあった。しかしけっきょく、これまでにこれだけのすぐれた綿密(めんみつ)な境地(きょうち)を開いた学者はいなかったので、この博士論文は通過した。そのかわり、審査に一年以上を要したのであった。
 その間に針目博士――いや、まだ博士にはなっていない針目左馬太学士(はりめさまたがくし)は、大学の研究室を去って、みずから針目研究室を自分の家につくり、ひたむきな研究に没頭(ぼっとう)した。
 さいわいにも、針目博士の家は、曾祖父(そうそふ)の代からずっと医学者がつづいており、曾祖父の針目逸斎(いっさい)、祖父の針目寛斎(かんさい)、父の針目豹馬(ひょうま)と、みんな医学者であり、そして邸内に、古めかしい煉瓦建(れんがだて)ではあるが、ひじょうにりっぱな研究室や標本室、図書室、実験室、手術室などがひとかたまりになった別棟(べつむね)の建物があったのである。当主(とうしゅ)である彼、左馬太青年がそこを仕事場にえらんだことは、しごく自然であった。
 不幸なことに――他人が見たら――かれは、もっか身よりもなく、ただひとりであった。両親と弟妹(ていまい)の四人は、戦争中に疎開先(そかいさき)で戦災(せんさい)にあって死に、東京で大学院学生兼助手をして残っていた、かれ左馬太だけが生き残っているのである。そういう気の毒なさびしい身の上であったが、かれ自身はいっこう気にかけていないように見え、その広い邸宅に、四人の雇人(やといにん)とともに生活していた。
 博士論文が通過するまでの約一年間に、かれがまとめあげた研究論文は五つ六つあった。その中に、特にここでごひろうしておきたいのは「細胞内における分子配列と、生命誕生の可能性、ならびにその新確率論(しんかくりつろん)による算定(さんてい)について」というのであった。
 この論文といい、また博士論文に提出したあの論文といい、かれが研究の方向を、細胞の分子に置いていることが、これによってうかがわれる。こういう研究の領域(りょういき)は、わが国はもちろん、世界においても今までに手がつけられたことがなく、じつに研学(けんがく)の青年針目左馬太によってはじめて、メスを入れられたところのものであった。
 しかもかれは、すこぶる大胆にも「生命の誕生」という問題を取り上げているのだった。はたしてかれの論文が正しいかどうかは別の問題として、かれはつぎのようなことを結論している。
(――細胞内における分子が相互にケンシテイションをひき起こし、そのけっか仮歪(かわい)のポテンシャルを得たとすると、これは生命誕生の可能性を持ったことになる)云々。
 これが重大なる結論なのである。生命が誕生する可能性をもつ条件が、要約せられているのである。
 しかし、ケンシテイションとはどんな現象なのか、仮歪(かわい)のポテンシャルとはどんな性質のものか、それについてはこの論文を読んだ者はひじょうな難解(なんかい)におちいる。だが針目青年には、これがよくわかっていて、論文中いたるところにこれを駆使(くし)している。思うに、この二つの専門語を知るためには、これよりもまえに書いた、彼の他の論文を読破(どくは)しなければならないのであろう。
 それはともかく、かれの研究は生命誕生の可能性にまで達していると思われる。これはこれまでの生物学者も医学者も、まったくふれることのできなかった難問題である。それを二十歳を越えたばかりの白面(はくめん)の青年学徒が、みごとに手玉にとっているのであるから、なんといってよいか、じつに原子力行使(げんしりょくこうし)につぐ劃期的な文明開拓だといわなければならない。もっとも、世の多くの頑迷(がんめい)な学者たちは、にわかにこの青年学徒のしめすところの結論を信用しないであろうけれど……。そして読者諸君はこれからくりひろげられる物語の事実により、はたしてかれの研究が本ものか、それとも欠陥(けっかん)があるかを判定されればよいのである。
 さてここで、さきにかかげた博士の日記ふうの随筆にもどるが、その内容は、さほど奇抜(きばつ)すぎるというものではない。あそこに述べられたような感じは、われわれとても、ふだんふと心の中にいだくことがある。
 じつは、右の内容について、大いに気にしなければならぬことがあるのであるが、ここにはふれないでおく、それはいずれ先へ行ってから、いやでもむきになって掘りかえさなければならない時がくるのであるから。
 ただ、ここにはその文章の最後のところに書いてある一文について、読者の注意をうながしておきたいのだ。
 すなわち、こうである。
(一月十日、金属Qを創造(そうぞう)する見込(みこ)みのつきたる日しるす)
 とある。
 おかしいとは思われないか。これまでずっと細胞分子の問題や、それに関連しての生命誕生のことなどばかりを取りあげていた針目博士が、こんどは急にがらりと目先をかえて、金属の製造研究に没頭していることである。
 金属製造――と書いては、いけないかもしれない。博士は“金属Qを創造”としたためている。製造と創造とは、なるほどすこしく意味がちがう。しかし創造ということには製造することがふくまれているのだ。はじめて製造することが創造なのである。してみれば、ぞくっぽく金属製造といってもさしつかえないであろう。
 いや、金属というものは、精錬(せいれん)され、あるいは別のものに化成され、または合金(ごうきん)にされることはあるが、金属そのものを製造することはない――というひともあろう。つまり金属である銅とか鉄とかは、はじめからそういう形でこの地球に存在しているのであって、銅とか鉄などが製造または創造されるというのはおかしい。そういう抗議が出そうな気配(けはい)がする。
 しかし、たしかに針目博士は“金属を創造する”と書いてあるのだ。ウラニュウムをぶちこわしてカルシュウムを製造または創造するとはいわないであろうか。
 いや、それは潔癖(けっぺき)にいうと、製造ではないし、もちろん創造ではない。アダムのからだから肋骨(ろっこつ)を一本取り去ったとき、その直後のアダムのことを、前のアダムから製造したといわないのと同様である。
 そうなると、針目博士が使用した“金属の創造”というのは、いったいどんな意味なのか、深い謎のベールに包まれているように感ずる。――まあ、そのことは、今は大目に見のがすこととして、“金属Q”というものはいったい何だと、ちょっと考えてみなければなるまい。
 Qなどという記号の元素は、九十二または九十三の元素表(げんそひょう)の中にまったく見出されない。そうすると、金属Qなるものは、それ以外の新元素かもしれないと考えられる。これは誰でもそう考えるだろう。
 つまり針目博士は、新金属Qをはじめて作りだす研究をやっていたものであるとするのである。元素表はもういっぱいであるのに、新元素があってたまるものかとも考えたくなる。どんな奇抜な方法によって、新元素を作り出したつもりでも、けっきょくは元素表にある元素の一つであるか、あるいはその同位元素であるというところに、収斂(しゅうれん)してしまうのがおちであろう。
 だが、ここにもう一度よく考えてみなければならないことがある。
 それは、われわれのような俗人(ぞくじん)が論ずるから右のようになるが、しかし非凡(ひぼん)なる頭脳(ずのう)と深遠(しんえん)なる学識(がくしき)をそなえた針目博士自身としては、新しい金属の創造などということは、けっして不可能なことではないと思われるのではあるまいか。そのへんのことは、われわれのうかがい知ることのできない領域(りょういき)だと、一時しておこう。
 そこでもう一度、本筋へもどって考える。なぜ針目博士は、あのすばらしい生命誕生の研究をやりっぱなしにして、新金属などの創造にくらがえをしたのであろうか。惜(お)しいではないか。
 さあ、この答は、まったくむずかしい。博士は金属製造ということに、よほど強い魅力(みりょく)を感じたのであるかもしれない。だが、金属製造などということが、生命誕生の研究いじょうにそんなに魅力があるとは思われないではないか。けっきょく察しられることは、二つである。かの生命誕生の研究がまったく行きづまってしまい、研究の方向をかえなくてはならなかったものか。それともひじょうに特別な場合として、金属製造という研究の命題が、特に博士をすっかりひきつけてしまうほどの、ある出来事があったのではなかろうか。
 たぶん、あとの方があたっていると思う。なぜといって、前の方のように、あれだけ研究をつんだ生命誕生の研究が、一夜でばったり行きづまるようなことは、まずもって考えられないからである。
 そうなると、博士をきゅうに金属Q製造の方へひきつける動機となった、そのある出来事なるものはいったい何であったか、はなはだ興味をひかれる。――とにかくこの問題は、じつはまだ解(と)けていない。それで、それはそれとして、針目博士がとつぜんわれわれの前へ脚光(きゃっこう)をあびてあらわれた、そのお目見得(めみえ)の事件について、これから述べようと思う。
 それは恐ろしいなぞにみちた殺人事件であった。針目博士邸において、お手伝いさん谷間三根子(たにまみねこ)が密室においてのどを切られて死んでいた事件である。
 申しおくれたが、わたしは探偵蜂矢十六(はちやじゅうろく)という者である。


   密室の事件


 この血みどろな事件を、あまりどぎつく記すことは、さしひかえたい。これはそういう血みどろなところをもって読者をねらうスリラー小説、もしくはグロ探偵小説とは立場を異(こと)にしているのであるから……
 どのようにして谷間三根子(たにまみねこ)が死んでいたか。そして、そこはどんなぐあいに外からの侵入(しんにゅう)をゆるさない密室であったか――を、まずのべたいと思う。
 谷間三根子はお手伝いさんであった。としは二十三歳であった。お三根(みね)さんと呼ばれていたから、これからはお三根と書こう。
 お三根は、ほかのお手伝いさんとはちがい、ひとりだけ針目博士の研究所である煉瓦建(れんがだて)の建物の中に部屋をあたえられて住んでいた。もっともそれは主家(おもや)から廊下(ろうか)がのびてきているとっつきの部屋であった。
 お三根がそこにいるわけは、博士が仕事をしているとき、きゅうに雑用ができた場合に、すぐさまとんで行けるためだった。
 博士は主家に寝室があったが、研究は徹夜でつづけられることもすくなくなかったし、またそのまま研究室の長いすで寝てしまうこともあったから、どっちかというと、博士はいつも研究室の屋根の下で暮らしていたといったほうがよいであろう。
 さてそのお三根は、三月一日の朝、いつまでたっても起きてくるようすがないので、朋輩(ほうばい)の者どもがふしんに思い、お三根の部屋のまえに集まって、入口のドアをわれるようにたたきつづけた。
 だが、お三根はやっぱり起きてこなかったし、部屋の中で返事もしない。そこで一同は、いちおう主人の博士のゆるしを乞(こ)うたうえで、力をあわせてそのドアをぶちこわしにかかった。
 ドアには、内側からかぎがかかっていたので、このドアにみんなが力をあわせてからだをぶっつけてこわすしか、いい方法がなかったのだ。貞造(ていぞう)という男と、お松とおしげというふたりのお手伝いさんの三人が、このドアにぶつかったのだ。しかしなれない仕事のこととて、はじめはうまくいかず、からだが痛くなるばかりなので一息ついて休んだ。
「だめだねえ」
「だって、錠(じょう)をこわすのはなんだかもったいないようでね、力がはいらないよ」
「それどころじゃない。早くあけてみないととんだことになるぞ。お三根どんは死んでいるんじゃないかね」
「まさかね。あんな元気のいい人が、心臓まひでもあるまいよ」
「さあ、もう一度力を出して、やってしまおう。こんどは何としてでも錠をこわしてしまうんだよ」
 三人は、ふたたびドアの方へよってきて身がまえた。
 と、そのとき部屋の中で、がちゃんとガラスがこわれるような音がした。
「あれッ、中で音がしたよ」
「お三根さん、起きているんだよ。ひとが悪いわね」
 そこで彼らは、かわるがわるお三根の名を呼んだ。だが、そのこたえはなかった。
「誰か中にいるんだよ。おお、こわい」
「ネズミじゃないかしら」
「ネズミがあんな大きな音をたてて、ガラスをこわすもんですか」
「とにかく、これはただごとじゃないよ。わしらだけであけるのはやめて、お巡(まわ)りさんにきてもらったうえでのことにしようや」
 男の貞造が、そういって尻(しり)ごみをしたので、お松とおしげもきゅうに、こわさが増(ま)して、もう力を出す気がなくなった。
 そこでもう一度、奥の主人にことわったうえ、おしげが交番へ警官を呼びにいった。
 やがて若い警官の田口さんというのがきてくれた。そこでこんどは四人が力をあわせて、ドアにぶつかった。
 四、五回ぶつかると、錠(じょう)がこわれて、重いドアは風を起こして、さっと内側に開いた。
「ああッ……」
「こわい!」
 ねまきを着たお三根が、入口からすぐ見える部屋のまん中に、あけにそまって倒れていた。
 その部屋は、あとでたたみの間になおした部屋であったが、広さは十二畳もあった。お三根の寝床は左の壁ぎわにしいてあったが、お三根の死体はその中にはなく、たたみの上にあったのだ。
 寝床は、この中で寝ていたお三根が何かの理由があって、ふとんをはねのけてはいだしたものと察せられた。
 お三根は、左の頸動脈(けいどうみゃく)を切られたのが致命傷(ちめいしょう)であることがわかった。なお、お三根の両手両腕と顔から腕へかけたところに、たくさんの切りきずがあったが、それはたいして深くない傷ばかりであった。
 お三根を殺傷(さっしょう)した凶器(きょうき)は、なんであるかわからないが、なかなか切(き)れ味(あじ)のいい刃物(はもの)であるらしく、頸動脈はずばりと一気に切断されていた。
 死斑(しはん)と硬直から推測して、お三根の死は今暁(こんぎょう)の午前一時から二時の間だと思われた。
 警官の通報が本署へとんだので、検察局からは長戸検事の一行がかけつけた。
「……で、この部屋に死者のほかに誰かいたのかね。つまり午前九時に、この電灯のかさがこわれる音を、この雇人たちがたしかに耳にしたというが、このかさをこわした者は発見されたのかね」
 検事が、たずねた。
「いえ。わたしたちが入りましたとき、部屋の中をよく探しましたが、誰もいなかったのです。この婦人の死体だけでありました。凶器も見あたりません。部屋としてはそこは完全に密室なのです。そとから犯人の侵入(しんにゅう)した形跡(けいせき)がないのです。ふしぎですなあ。まさかこれは自殺じゃないでしょう」
 と田口警官はいった。
「自殺ではない。たしかに他殺事件だ。とにかくこれは容易(ようい)ならぬ事件だ」
 長戸検事は顔をしかめた。
 いったいお三根は誰に、どうして殺されたのか。凶器(きょうき)はどこにあるのか。おなじ屋根の下に一生けんめい研究をつづけている針目博士に、この事件は関係が有るのかないのか。謎はいつとかれるのであろうか。


   白昼(はくちゅう)の怪(かい)


 長戸検事の面上に、ゆううつな影がひろがっていく。まったく奇怪(きかい)な事件だ。
 室内には、犯人のすがたが見つからない!
 そしてこの部屋は密室で、出入りをすることができないようにしまりがしてあった。
 凶器もまだ発見されない!
 しかもあのとおり、若い婦人が頸動脈をみごとに斬られて絶命(ぜつめい)している!
 けっして自殺事件ではない!
 理屈(りくつ)にあわない事件だ。奇怪な事件だ。
 いや、理屈にあわないとはいいきれない。いま一時、この場のようすが理屈にあわないように見えるだけで、ほんとうは、これで完全に理屈にあっているのにちがいない。ただ、その正しい理屈が、まだ発見されていないのだ。とけていないのだ。
 この一見、理屈にあわない事件の謎を、どうといたらいいのか。
 長戸検事が、次第にゆううつな顔つきになっていくのもむりはない。
「もう一度、この部屋をねん入りに捜査(そうさ)してくれたまえ。兇器(きょうき)、指紋(しもん)、証拠物件(しょうこぶっけん)、死者の特別の事情に関する物件など、よくさがしてくれたまえ」
 検事は、連れてきた川内警部(かわうちけいぶ)をはじめ、部下たちにそういって捜査を再開させた。
「田口君、この家の主人には会見したのかね」
 検事はそういって、一番はじめにこの邸(やしき)へかけつけた警官にたずねた。
「いいえ、まだです」
「それは、どうして……」
 検事は、合点(がてん)がいかないという。
「私は、ここへくる早々(そうそう)、この邸の雇人をつうじて会いたいと申しこんだのです。しかしその返事があって“今いそがしいから会えない。邸内は捜査ご自由”ということなんで、そのまま仕事を進めていました」
「なるほど。しかしそれは変っている人だなあ」
「それは検事さん。針目博士といえば、変り者として、この近所ではひびいているのです」
 長戸検事はあとのことばを、田口警官の顔の近くへ口をよせていった。
「きみは、これからその主人に会って、検事がお会いしたいといっていると、会見を申しこんでくれたまえ」
「はい」
 田口警官は、この部屋を出ていった。
 長戸検事は、そのあとで室内をぐるぐる見まわしていたが、やがてかれの目は一点にとまった。それはこの部屋のまん中に、天じょうからさがっている電灯(でんとう)のガラスのかさであった。
 検事は歩きだして、そのまま下までいった。かさは検事の頭よりわずかに高かった。
「かけている。かさがかけている。新しいきずだ」
「ああ、そのガラスの破片(はへん)なら、ここにこれだけ落ちていました」
 と、検事の部下の巡査部長の木村が、紙片に包んであったものをひろげて見せた。
「その破片は、このかさにあうかしらん」
「はい。ぴったりあいます。さっきためしてみました」
 検事は、まんぞくそうにうなずいた。
「この入口のドアをこわす前に、この室内でガラスのこわれる音がしたと、この家の人たちは証言しているが、そのときこわれたのは、この電灯のかさなんだ。すると、被害者ではない他の生きている人間が、そのときこの室内にいたことになる。おそらくそれが犯人であろう」
 検事は、ここまでは明快な判断をくだした。しかしそのところでかれは、はたとつまった。
「……しかるに、この部屋をひらいて中をしらべてみたが、被害者いがいに人間のすがたはなかったのだ。おかしい。……犯人はどうしてもあのとき、この部屋の中にいたにちがいないのに、なぜすがたを見せないんだろう」
 検事は、しきりに小首(こくび)をかしげている。
「検事さん。この部屋は密室と見せかけて、じつはどこかに秘密の出入口があるのではないでしょうか」
 と、木村巡査部長はいった。
「そこから犯人は、いち早く逃げだしたという考えだね。そうなれば、早くその秘密の出入口を見つけてもらいたいものだ」
「いま一生けんめいに心あたりをさがしているんですが、まだ見つかりません。この家の主人が出てきたら、といただしていただくんですね。主人ならかならず知っているはずですから」
「なるほど」
「検事さん。ここの主人は、どうもくさいですよ。わたしは第六感でそう感じているんですが……」
 といっているとき、とつぜん室内で大きな声がした。
「あっ、やられたッ。誰か手をかしてくれ。足を斬られた」
 その叫び声は、ふとった川内警部の声だった。警部は部屋の一隅(いちぐう)にしりもちをつき、右足をおさえている。かれの顔には血の色がなかった。どうしたのだろう。誰に斬られたというのであろうか。


   二重負傷事件


 川内警部の両手は、鮮血(せんけつ)でまっ赤だった。
 後からわかったことであるが、警部の傷はかれの右足のすこし上にある動脈(どうみゃく)が、するどい刃物(はもの)で、すぱりと斬(き)られているのだった。だから鮮血がふんすいのようにとびだしたわけである。
 検事たちがかけつけて、みんなで応急手当をくわえた。
「どうしたんだ。どうしてそんなけがをしたのかね」
 検事はきいた。
「さあ、それがどうもわからんのですよ」
 警部は顔をしかめて言った。
「こんなひどいけがを自分でする者はありませんよ。たしかに斬られたと思ったんですが……ところが、自分のまわりを見まわしても、誰も下手人(げしゅにん)らしい者がいない」
「じゃあ、やっぱり、けがだろう」
「けがじゃないですよ、検事さん」
 と警部は承知しない。
「斬られたときはちゃんとわかりました。足へ何だかかたいものがあたり、それから火をおしつけたような熱さというか痛みというか、それを感じました。わたしはちょうど押入(おしい)れをあけて、中にあった木の箱を持ちあげていたので、すぐには足の方が見られなかったんです。箱をそこへおいて、そこから足の方を見て、ズボンをまくってみるとこれなんです。ズボンも、こんなにさけています。しかしこれは刃物がズボンの中から外へ向けていますね。外から刃物があたったんじゃないです」
 さすがに警部だけあって、目のつけどころが正しい。しかしかれの足を斬ったという凶器はいったいどこにあるのか。
「その傷をこしらえた刃物(はもの)は見つかったかね」
 検事がきいた。
「それがそれが……見つからないんです。おかしいですなあ」
「よく探してみたまえ。みんなも、手わけをしてさがしてみるんだ」
 検事の命令で、捜査係官は警部のまわりを一生けんめいにしらべた。押入れ、ふとんの中、ふとんの下、かもい、床の間、つんである品物のかげ――みんなしらべてみたが、ナイフ一ちょう出てこなかった。
「へんだなあ。なんにもないがねえ」
「そんなに深い傷をこしらえるほどの品物もないしねえ……」
 まったくふしぎなことである。
 そのとき田口巡査が入ってきて、このありさまを見るとびっくりして、警部のそばへよってきた。
「どうなすったんですか」
「足を斬られたらしいんだが、その斬った兇器(きょうき)が見あたらないんだ」
「おお、田口君。きみはいったいどうしたんだ」
 検事が、とんきょうな声を出した。
「どうしたとは、何が……」
 田口はけげんな面持(おもも)ちである。
「きみの顔から血が垂(た)れている。痛くないのか。ほら、右のほおだ」
「えっ」
 田口はおどろいて、手をほおにあてた。その手にはべっとり血がついていた。同僚(どうりょう)たちは、みんな見た。田口の顔の半分がまっ赤にそまったのを。
 川内警部の負傷といい、今また田口の負傷といい、まるでいいあわせたように、同じ時に同じような傷ができるとは、どうしたわけであろうか。
「やっぱり、そうだ。するどい刃物でやられている。きみは、自分のほおを斬られたのに、そのとき気がつかなかったのかい」
「さっぱり気がつきませんでした」
「のんきだねえ、きみは……」
 検事があきれ顔でそういったので、同僚たちも思わず笑った。
「今になって、ぴりぴりしますがねえ」
「いったい、どこで斬られたのかね」
「さあ、それが気がつきませんで……いやそうそう、思いだしました。さっき針目博士の室の戸口をはなれて廊下をこっちへ歩いてくるとちゅう、なんだか向うから飛んできたものがあるように思って、わたしはひょいと首を動かしてそれをよけたんですがね。しかし、なにも飛んでくる物を見なかったんです。ぱっと光ったような気がしたんですが、それだけのことです」
「きみは、どっちへ首をまげたのかい」
「左へ首をまげました」
「なるほど。首をまげなかったら、きみももっと深く顔に傷をこしらえていたかも知れないね。生命(いのち)びろいをしたのかもしれないぞ」
 検事にそういわれて、田口巡査は首をちぢめた。
「しかしわたしは何者によって、こんなに斬られたんでしょうか」
「田口君。それは今一足おさきに斬られた川内警部も、おなじように首をひねっているんだ。これは大きな謎だ。だが、その謎は、この邸内(ていない)にあることだけはたしかだ」
 と、長戸検事は重大なる決意を見せて、あたりを見まわした。


   飛ぶ兇器(きょうき)か


 ふたりの係官の負傷の手当はすんだ
 川内警部はかなり出血したが、この家のお松とおしげが持ってきたブドー酒をのんだあと、すっかり元気をとりもどした。
「ああ、検事さん。かんじんの用むきを忘れていましたが、さっき針目の室まで行って博士に会い、あなたが会いたいといっていられることをつたえようとしたんですが、博士は入口のドアをあけもせず、“会ってもいいが、いま仕事で手がはなせないから、あとにしてくれ。あとからわたしの方で行くから”といって、さっぱりこっちの申し入れを聞き入れないんです」
「なるほど」
「わたしはいろいろ、ドアをへだててくりかえしいってみたんですが、博士はがんとして応じません。ろくに返事もしないのですからねえ、係官を侮辱(ぶじょく)していますよ」
 田口警官は、ふんがいのようすであった。
「向うでいま会いたがらないのなら、会わないでもいいさ」
 と検事はさすがにおちついていた。
「しかしこの怪事件について、博士はじぶんの上に疑惑(ぎわく)の黒雲(こくうん)を、呼びよせるようなことをしている」
「ねえ、長戸(ながと)さん」
 と川内警部(かわうちけいぶ)がいった。
「わしはこの邸(やしき)にはふつうでない空気がただよっているし、そしてふつうでないからくりがあるように思うんですがな……。で、例のするどい刃物を、何か音のしない弓かなんかで飛ばすような仕掛けがあるのではないでしょうか。博士というやつは、いろいろなからくりを作るのがじょうずですからね」
「きみの足首を斬った犯人が姿を見せないので、きみはからくり説へ転向したというわけか」
 検事はやや苦笑した。
「どこか天じょう穴があるとか、壁の下の方に穴があるとかして、そこからぴゅーッと刃物のついた矢をうちだすのじゃないですかな。この家の博士なら、それくらいの仕掛けはできないこともありますまい」
「刃物を矢につけて飛ばすとは、きみも考えたものだ。しかしその刃物も、見あたらないじゃないか」
「いや、まだわれわれの探しかたがたりないのですよ。兇器がなくて、ぼくや田口がこんな傷をおうわけはないですからね」
 そういっているところへ、戸口からのっそりとこの室内へはいってきた者があった。
 近眼鏡(きんがんきょう)をかけた三十あまりの人物だった。あおい顔、ヨモギのような長髪(ちょうはつ)がばさばさとゆれている。下にはグリーンの背広服を着ているが、その上に薬品で焼け焦げのあるきたならしい白い実験衣(じっけんい)をひっかけている。
 紫色の大きなくちびるをぐっとへの字にむすんで、お三根(みね)の死体をじろりと見たが、べつにおどろいたようでもなく、かれは視線を係官の方へうつす。
「ぼくが針目です。ぼくに会いたいといっていられたのはどなたですか」
 検事はさっきからこの家の主人公である針目博士か入ってきたことを知っていたが、博士がどんな挙動(きょどう)をするかをしばらく見定めたいと思ったので、今まで知らぬ顔をしていたのである。
「ああ、それはわたしです。わたしが会見を申しこんだのです。検事局の長戸検事です」
 検事ははじめて声をかけた。
「検事! ふーン。お三根(みね)の死因はわかりましたか」
 博士はひややかに聞く。
「わかりました。頸動脈(けいどうみゃく)をするどい刃物(はもの)で斬られて、出血多量で死んだと思います」
「自殺ですか。それとも……」
「自殺する原因があったでしょうか」
 検事は、ちょっとしたことばのはしにも、職業意識をはたらかして、突っこむものだ。
「知らんですなあ」
 博士は、両手をうしろに組んで、ぶっきらぼうにものをいう。
「わたしどもは、他殺事件だと考えています」
「他殺? ふーン。下手人は誰でしたか」
 博士はおなじ調子できく。
「さあ、それがもうわかっていれば、われわれもこんな顔をしていないのですが……」
 と検事はちょっと皮肉めいたことばをもらし、
「真犯人をつきとめるためには、ぜひとも、あなたのお力ぞえを得なくてはならないと思いまして、会見をお願いしたわけです」
「ぼくは、何もあなたがたの参考になるようなことを持っていないのです。生き残った者に聞いてごらんになるほうがいいでしょう」
「それはもうしらべずみです。あとはあなたにおたずねすることが残っているだけです」
「ああ、そうですか。それなら何でもお聞きなさい」


   あざ笑う博士


 そこで検事は、型のとおりに昨夜お三根が殺される前後の時刻において、博士はどんなことをしていたか、叫び声を聞かなかったか。格闘の物音を耳にしなかったか。犯人と思われる者のすがたを見、または足音を聞かなかったか。それから最初にこの事件に気がついたのは何時ごろだったか、などについて訊問(じんもん)していった。
 これに対する博士の答えは、かんたんであり、そして明瞭(めいりょう)であった。
 それによると、博士は昨夕(さくゆう)いらい、徹夜実験をつづけていたこと。犯行の音も聞かず、犯人のすがたも見なかったこと。そして博士はその徹夜のうち、二度ばかり実験室を出てかわやへいっただけで、他は実験室ばかりにいたことを述べた。
 検事は、博士のことばについて、いろいろとものたりなさを感じた。あれだけの殺人が、十間(けん)ほどはなれているにしても、同じ屋根の下で行なわれたのに、被害者の声も耳にしなかったというのはおかしく思われた。
「じゃあ、誰がお三根を殺したと思われますか。ご意見を参考までにお聞きしたいのですが」
「知らんです。人の私行(しこう)については興味を持っていません」
「まさかあなたがその下手人ではありますまいね」
 検事のこのことばは、はじめてこの無神経な冷血動物(れいけつどうぶつ)のような博士を、とびあがらせる力があった。
「な、何ですって。ぼくが殺したというのですか。どこにぼくがこの女を殺さねばならない必要があるのです。さあ、それをいいたまえ、早く……」
 長身の博士が、髪をふりみだして、両手をひろげて検事の方へせまったかっこうは、とてもものすごいものだった。
 長戸検事はたじたじとうしろへ二、三歩さがってから、博士をおしもどすように手をふった。
「なぜそんなに興奮なさるんですか。わたしとしては、今の質問にイエスとかノウとか、かんたんにお答えくださればそれでよかったんです」
「失敬な……」
 と博士はやせた肩を波うたせて、ふうふう息を切っていたが、
「もちろん、ぼくはこんな女を殺したおぼえはない」
「この邸にはみょうな仕掛けがあるといっている者があるんですがね、お心あたりはありませんか。たとえば、するどい刃物を矢のさきにとりつけたものを、弓につがえて飛ばせる。そして人間に斬りけるという……」
「はっはっはっ」博士は笑いだした。
「きみはずいぶんでたらめなことを聞くですなあ。それはおとぎばなしにある話ですか」
「いや、大まじめで、あなたのご意見をうかがっているのです。……そしてその恐るべき兇器(きょうき)は人目にもはいらない速さで、遠くへ飛んでいってしまう……」
「おとぎばなしならもうたくさんだ。ぼくはいそがしいからだだ。もうこれぐらいにしてくれたまえ」
「お待ちなさい」
 検事は手を前に出して博士を引き止めた。
「お三根さんがそのような兇器(きょうき)で殺されたばかりでなく、きょうここへきたわれわれの仲間がふたりまで、その同じ凶器によって重傷を負(お)っているのです。これでもおとぎばなしでしょうか」
「本当ですか」
 博士は、はじめて真剣な顔つきになった。
「本当ですとも。川内警部と田口巡査のあの傷を見てやってください」
「ああなるほど。それでその矢はどこにあるんですか」
「それがあるなら、事件はかんたんになります。それがどこにも見えないから、われわれは苦労しているのです。あなたにうかがえば、その恐るべき兇器のからくりがわかるだろうと思って、おたずねしているわけです」
「そんなことをぼくに聞いてもわかる道理(どうり)がない。捜査するのはあなたたちの仕事でしょう。徹底的にさがしたらいいでしょう。かまいませんから、邸内どこでもおさがしなさい」
「そういってくださると、まことにありがたいですが、どうぞそれをお忘れなく――」
 と検事はほくそ笑(え)んで、
「では、あなたの実験室も拝見したいですし、それからこの天じょう裏をはいまわってさがさせていただきたい」
「天じょう裏はいいが、ぼくの研究室をさがすことはおことわりする」
「今のお約束のことばとちがいますね。それはこまる。そしてあなたに不利ですぞ」
「……」
「研究室をさがすために強権(きょうけん)を使うこともできますが、なるべくならば――」
「よろしい。案内しましょう。しかしはじめにことわっておくが、後できみたちが後悔したって知りませんよ」
 博士は何事かを考え、気味のわるいことばをはなった。さて博士の研究室の中に、何があるのか。


   待っていた奇々怪々(ききかいかい)


 係官の一行は、うすぐらい廊下を奥の方へと進んでいった。
 先頭には、かなりきげんのわるそうな針目博士が肩をゆすぶって歩いている。そのすぐうしろに右頬を斬られ大きなガーゼをあてて、ばんそうこうで十字にとめた田口巡査がついていく。もしも博士が逃げだすようすを見せたら、そのときはすぐうしろからとびついて、その場にねじ伏(ふ)せる覚悟をしている田口巡査だった。
 それから少し歩幅(ほはば)をおいて、長戸検事を先に、残り係官一行が五、六名つきしたがっている。
 検事の顔色は青黒い。細く見ひらいたまぶたのうしろに、眼球(がんきゅう)がたえずぐるぐる動いている。
 それはかれが気持わるく悩んでいることを意味する。
(手がかりらしいものは、なんにもない。犯行だけが、二つ、いや三つもある。こんなことではこの事件はいつとけるかわからない。ぼやぼやするなよ、長戸検事)
 そんな声が、検事の頭の中でどなり散らしている。これまで彼が現場へのぞめば、事件解決のかぎとなる証拠物(しょうこぶつ)を、たちどころに二つや三つは見つけたものである。そして犯人はすぐさま図星(ずぼし)をさされるか、そうでないとしても、犯人のおおよその輪廓(りんかく)はきめられたものである。
 しかるに、こんどの場合にかぎり、そうではなく、さっぱり犯人の見当がつかないのである。そればかりか、事件そのものの性質がよくのみこめないのだ。
 が、そんなことで考えこんで、多くの時間をつぶすわけにはいかない。事件の性質がどうあろうと、お三根はむごたらしく斬殺(きりころ)されて冷たいむくろとなって隣室によこたわっているんだし、部下の川内警部は足を斬られて、げんに足をひいてうしろからついてくる。田口巡査はほおを切られて、あのとおり、かっこうのわるいガーゼを顔にはりつけているのだ。検事はいよいよくさらないでいられなかった。
 だから検事としては、このうえは、あやしい針目博士の研究室の中を徹底的に家探しをして、犯人としての、のっぴきならぬ証拠物件を手に入れたいものと熱望していた。
 かぎをまわす音が検事の胸をえぐった。
 気がつくと、針目博士が研究室のドアの錠(じょう)をはずし、そこを開いた。そして博士はゆっくりと部屋の中へすがたを消した。検事は全身がかっとあつくなるのをおぼえた。取りおさえるか逃がすか、それはこれからの室内捜査のけっかできまる。
「なぜ、すぐはいらんのだ。しりごみしていてどうする」
 検事は、入口のところに足をとめてしまった田口巡査を、低い声で叱(しか)りつけた。しかし検事は冷汗(ひやあせ)をもよおした。ぐずぐずしている自分の方を、もっときびしく叱りつけたいことに気がついたからである。
 田口巡査は、はっとおどろいて、ウサギのようにぴょんとひとはねすると、研究室の中へとびこんだ。とたんにかれは、
「あっ」
 という叫び声を発した。
 長戸検事の顔は、いっそう青ざめた。そしていそいで部下のあとを追って中へはいった。
「うむ」
 検事はうなった。あやうく大きな叫び声が出そうになったのを、一生けんめいに、のどから下へおしこんだ。
 かれらはいったいなにを見たのであろうか。
 それはなんともいいようのない奇妙な光景であった。窓のないこの部屋の四つの壁は、隣室(りんしつ)につうずる二つのドアをのぞいたほかは、ぜんぶが横に長い棚(たな)になっていた。下は床のすこし上からはじまって、上は高い天じょうにまでとどいて、ぜんぶで十段いじょうになろう。
 そしてこの棚の上に、厚いガラスでできた角型(かくがた)のガラス槽(そう)が、一定のあいだをおいてずらりとならんでいるのだったが、その数は、すくなくとも四、五百個はあり、壮観(そうかん)だった。
 しかもこのガラス槽の中には、それぞれ活発に動いている生物がはいっていた。検事が最初に目をとどめたガラス槽の中には、頭のない大きなガマが、ごそごそはいまわっていた。もっともそのガマは、背中にマッチ箱ぐらいの大きさの、透明な箱を背おっていた。その箱の中には、指さきほどの灰白色のぐにゃぐにゃしたものがはいっていたが、検事はそこまで観察するよゆうがなく、ただふしぎな頭のない大きなガマがガラス槽の中で、あばれまわっているのにびっくりしたのであった。
 検事は、おどろきの目を、つぎつぎのガラス槽に走らせた。その結果、かれのおどろきはますますはげしくなるばかりだった。かれはもうひとつのガラス槽の中において、たしかに木製(もくせい)おもちゃにちがいない人形が、やはり透明な小箱を背おってあるきまわっているのを見た。
 それはゼンマイ仕掛けの人形とはちがい、どう見ても昆虫(こんちゅう)のような生きものに思えた。
 つぎのガラス槽の中では、やはり頭のないネズミが、透明の小箱を背おって、人間のように直立し、のそりのそりと中を散歩しているのを見た。またそのお隣のガラス槽(そう)の中では、一本足のコマが、ゆるくまわりながら、トカゲのように、あっちへふらふら、こっちへちょろちょろと走りまわっているのを見た。なんという奇怪な生物の展覧会場であろう。
 いや、展覧会場ではない、これは針目博士が、他人にのぞかせることをきらっている密室のひとつなのであるから、極秘(ごくひ)の生きている標本室(ひょうほんしつ)といった方がいいのだろう。
 検事はこのふしぎな生きものの世界へとびこんで、あまりの奇怪さに自分の頭がへんになるのをおぼえた。それから後、かれは一言も発しないで銅像のように立ちつづけた。するとその部屋が急に遠くへ離れてしまったような気がした。音さえ、遠くへ行ってしまった。かれは自分が卒倒(そっとう)の一歩手前にあることをさとった。が、どうすることもできなかった。


   博士、怪物を説(と)く


 長戸検事(ながとけんじ)が気がついてみると、かれはいつのまにか長いすによこたわっていた。そばでがやがやと人ごえがする。
「これをお飲みなさい。元気が出ますから」
 検事の鼻さきに、ぷーんと強い洋酒のにおいがした。こはく色の液体のはいったコップがかれの目の前につきつけられている。血色(けっしょく)のいい手がそのコップをにぎっている。誰だろうかと検事がその声の主をあおいでみるとそれは針目博士(はりめはくし)だった。そしてそのまわりに、検事の部下たちの頭がいくつもかさなりあっていた。長戸検事は、びっしょりと冷汗(ひやあせ)をかいた。
「いや、もう大丈夫です」
「やせがまんをいわずと、これをお飲みなさい」
「いや、ほんとにもう大丈夫だ」
 検事は、強く洋酒のコップをしりぞけて、長いすからきまりわるく立ちあがった。
「だからぼくは、あらかじめご注意をしておいたのです。こんな見なれない動物をごらんになって、気持が悪くなったのでしょう」
「いや、そうじゃない。じつは昨夜からかぜをひいて気持がわるかったのだ。この部屋へはいったとき、異様(いよう)なにおいがして、頭がふらふらとしたのだ。心配はいらんです」
 検事は強く弁明をした。かれは強引(ごういん)にうそをついた。このうそを、ほんとうだと自分自身に信ぜしめたいと願った。けっして、この奇妙な標本を見て気持がわるくなったのではないと思いたかった。そうでないと、これから先、この奇妙な標本と取っ組んで、事件の真相をしらべあげることはできなかろう。かれは、つらいやせがまんをはったのである。
 かれの配下たちの中にも、ふたりばかり脳貧血(のうひんけつ)を起こした者があった。それはもっともだ。誰だって、こんな奇妙な標本に向かいあって五分間もそれを見つめていれば、脳貧血を起こすことはうけあいだ。
 脳貧血を起こさない連中の筆頭には、川内警部がいた。かれは顔をまっかにして、憤激(ふんげき)している。どなり散らしたいのを、一生けんめいにがまんしているという顔つきで、針目博士の一挙一動からすこしも目をはなさず、ぐっとにらみつけていた。
「針目博士。この動物はなぜここに集めてあるのですか」
 長戸検事は職権(しょっけん)をふたたびふるいはじめた。
「ぼくの研究に必要があるからです」
「博士の研究とは、どういう研究ですか」
「そうですね。それはお話しても、とてもあなたがたには理解ができないですね」
 針目博士は、回答をつっぱねた。
「理解できるかできないかは問題がいです。説明してください」
「じゃあ申しましょう。これはぼくが本筋の研究にかかるについて、その準備のため作った標本です。つまり本筋の研究そのものじゃないのですよ。いいですね」
 と、博士はねんをおして、
「そこでこの標本をごらんになればわかるでしょうが、この動物たちは、自分が持って生まれた脳髄(のうずい)を持っていないのです。そうでしょう。みんな頭部を斬り取られています。そしてかれらは他の動物の脳髄をもらって、それをかわりに取りつけています。あの透明な小箱の中にあるのは他の動物の脳髄なのです。それを取りつけて、生きているのです。おわかりですか」
「よくわかります」
 長戸検事は、反抗するような声で、そういった。ほんとうは、かれには何のことだか、よくのみこめなかったのだけれども。
「ほう。これがよくおわかりですか。いや、それはけっこうです」
 針目博士は、目をまるくした。皮肉でもないらしい。
「これなどは、おもちゃの人形に、ニワトリの脳髄を植えたものですよ。もちろん人形の手足その他へは神経にそうとうする電気回路をはりまわしてありますから、そのニワトリの脳髄の働きによって、この人形は手足を働かすことができるのです。気をつけてごらんなさればわかりますが、この人形の歩きかたや、首のふりかたなどは、ニワトリの動作によく似ているでしょう」
「そのとおりですね」
 そう答えた検事の服のそでを、うしろからそっと引いた者がある。そしてつづいて、検事の耳にささやく声があった。それは川内警部であった。
「この標本や博士の研究は、こんどの殺人傷害事件(さつじんしょうがいじけん)には関係ないようではありませんか。それよりも、早く奥の部屋をしらべたいと思いますが、いかがですか」
 そういわれて、検事も警部のいう通りだと思った。そこで一行は奥へ進むこととなった。


   大きな引出(ひきだし)


 この部屋から奥へ通ずるドアが二つあった。左手についているのは、物置へ通ずるもので、これはあとで捜査(そうさ)することとなった。
 まっ正面のドアのむこうに、博士の一番よく使うひろい実験室があった。一行はドアを開いてその部屋へ通った。
 それは十坪ほどあるひろい洋間だった。
 ざつぜんと器械台がならび、その上にいろいろな器械や器具がのっている。まわりの壁は戸棚と本棚とで占領されている。天じょうは高く、はじめは白かった壁であろうが、灰色になっており、大きな裂(さ)け目(め)がついている。
 まえの部屋もそうであったが、この部屋にも窓というものがない。天じょうの上の古風なシャンデリアと、四方の壁間にとりつけられた、間接照明灯(かんせつしょうめいとう)が、影のない明かるい照明をしている。
「この部屋は、何のためにあるのですか」
 検事が針目博士に質問した。ここには、まえの部屋で見たような、奇怪な標本が目にうつらないので、検事はいささか元気をもりかえしたかたちであった。
「ごらんになるとおり、ぼくが実験に使う部屋です」
「どういう実験をしますか」
「どういう実験といって――」
 と博士は笑いだした。
「いろんな実験です。数百種も、数千種も、いろいろな実験をこの部屋ですることができます。みんな述(の)べきれません」
「その一つ二つをいってみてください」
 検事はあいかわらずがんばる。
「そうですね。細胞の電気的反応をしらべる実験を、このへんにある装置をつかってやります。もうひとつですね。ここにあるのは生命をもった頭脳から放射される一種の電磁波を検出する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対して検出しやすいように、組み立てたものであります。これぐらいにしておきましょう。おわかりになりましたか」
「今のところ、それだけうかがえばよろしいです。それでは室内をいちおう捜査しますから、さようにご承知ねがいたい」
「職権をもってなさるのですから、とめることはしません。しかしたくさんの精密器械があるのですから、そういうものには手をつけないでください。万一手をつける場合は、ぼくを呼んでください。いっしょに手を貸して、こわさないようにごらんに入れますから」
「参考として、聞いておきます」
「参考として聞いておく? ふん、あなたがたに警告しておきますが、この部屋の精密器械に対して、ぼくの立ち合いなしに動かして、もしもそれをこわしたときには、ぼくは承知しませんよ。場合によって、あなたがたをこの部屋から一歩も外に出さないかもしれませんぞ」
 針目博士は、にわかにふきげんとなって、きびしい反抗の態度をしめした。そしてかれは、すみにすえてある大机の向うへ行って、どこかこわれているらしい回転いすの上に、大きな音をたてて腰をかけた。そしてタカのような目つきになって、検事たちの方へ気をくばった。
 検事は、こんな場合にはよくなれているので、相手がかんかんになればなるほどこっちは落ちつきを深めていった。そして部下たちに、この部屋をじゅうぶんに捜索し、れいの事件に関係ありと思われる証拠物件があったら、さっそく検事を呼ぶようにと命令した。
 それから捜査がはじまった。一同は、これまであつかいなれない器械器具るいだけに、どうしらべてよいのやら、こまっているようであった。しかしこころえ顔の係官たちは、床の上にはらばいになって器械台の下をのぞきこんだり、戸棚の引出(ひきだし)をぬきだしたりして、どんどん仕事を進めていった。
 だが、思うようなものはすぐには見つからなかった。
 この部屋の、博士がいま腰をおろしているのと、ちょうど対角線上の隅(すみ)にあたるところに、一部に黒いカーテンがおりていた。それを開いて中へ入った川内警部は、そこにもやはり大きな引出が、三段十二個になってならんでいるのを発見した。その引出は、そうとう大きかった。しかしかぎもかかっていなかった。引出にはそれぞれ番号札がついていた。
 警部が、その引出のひとつに手をかけたとき、誰も気がつかなかったが、針目博士の口のあたりには、あやしいうす笑いがうかんだのであった。もちろん川内警部は、それに気がつくはずもなく、引出のとってに力をいれて、ぐっと引きだした。
「おや、これは何だ!」
 警部は、すっとんきょうな声をあげた。彼の顔からすっかり血の気が引いてしまった。
 見よ、その半びらきになった引出の中には、黄いろくなった人間の足が二本ならんでいた、いや、足だけではない。裸体(らたい)のままの死骸(しがい)がそこにはいっているにちがいなかった。
 事件はいよいよ奇怪な段階に突入した。いったいこれは何者の死体なのであろう。針目博士の身辺にいよいよ疑問の影がこい。


   警部じれる


「おう、ここにも死骸(しがい)がかくしてある」
 警部のそばにいた若い巡査が、おどろきの声をあげた。
 針目博士は、しらぬ顔をして、回転いすに腰をかけている。
 警部は、その死骸いりの大きな引出をひっぱり出した。消毒薬くさいカンバスにおおわれて若い男の死体がはいっていた。しかしその男の頭蓋骨は切りとられていて、その中にあるはずの脳髄もなく、中はからっぽであった。
 警部は、この死体が、学術研究の死体であることに気がついた。
 ねんのために、おなじような他の引出をかたっぱしからひっぱり出してみた。するとほかに、男の死体が一つ、女の死体が二つ、はいっていることがわかった。
「この死体は、どうして手にいれましたか」
 川内警部は、やっぱりそのことを針目博士にたずねた。
「研究用に買い入れたんです。証書もあるが見ますか」
「ええ、見せていただきましょう」
 警部はけっきょくその死体譲渡書(したいゆずりわたししょ)が、正しい手つづきをふんであることをたしかめた。
 死体がこの部屋に四つある。そのうえに、もう一つなまなましい死体を、博士はほしく思ったのであろうか。
 警部は、針目博士がいよいよゆだんのならない人物に見えてきた。このうえは、こんどの事件に直接関係のある証拠をさがしだして、なにがなんでも博士を拘引(こういん)したいと思った。
「針目さん。あなたのお使いになっている部屋は、まだありますか」
 長戸検事が、タバコのすいがらを指さきでもみ消して、博士にたずねた。
「あとは、第二研究室と倉庫と寝室の三つです。やっぱり見るとおっしゃるんでしょう」
「そうです、見せていただきますよ」
「どうしても見るんですか」
 博士の顔がくるしそうにまがった。
「見せろというなら見せますが、あなたがたがこの室や標本室でやったように、室内の物品に無断(むだん)で手をつけるのは困るのです。じつは第二研究室では、ぼくでさえ、非常に注意して、足音をしのび、せきばらいをつつしみ、はく呼吸(いき)もこころしているのです」
「それはなぜです。なぜ、そんなことをする必要があるのですか」
 長戸検事が、口をはさんだ。
 すると博士は、吐息(といき)とともに、遠いところをながめるような目つきになって、
「おそらく今、世界でいちばん貴重(きちょう)な物が、そこに生まれようとしているのです。荘厳(そうごん)と神秘(しんぴ)とにつつまれたその部屋です。あなたがたは、もしその荘厳神秘の中にひたっている主(あるじ)を、すこしでも、みだすようなことがあれば、あなたがたはとりもなおさず、地球文明の破壊者(はかいしゃ)、ゆるすべからざる敵でありますぞ」
 それを聞いていた川内警部は、口のあたりをあなどりの笑(え)みにゆがめて、
(ふん、邪宗教(じゃしゅうきょう)の連中が、いつも使うおどかしの一手だ、なにが神秘(しんぴ)だ。わらわせる)
 と、心の中でけいべつした。
「なんです、生まれ出ようとしている荘厳神秘のあるじというのは……」
 検事は、顔をしかめて、博士を追う。
「生命と思考力とをもった特別の細胞が、人間の手でつくられようとしているのだ。もしこれに成功すれば、人間は神の子を作ることができる」
 博士は、わけのわからないことをつぶやく。
「カエルの脳髄(のうずい)を切りとって、それを他の動物にうつしうえることですか」
 検事は、一世一代の生命科学の質問をこころみる。
「そんなことはいぜんから行われている。ぼくが研究していることは、すでに存在する生命を、他のものに移し植えることではない。生命を新しくこしらえることだ。生命の創造だ。細胞の分裂による生命の誕生とはちがうのだ。それは神が、神の子をつくりたもうのだ。それではない、この場合は、人間の意志のもと、人間の設計によって、新しい生命を創造するのだ。ローマの詩人科学者ルリレチウスの予言したことは、二千年を経(へ)たいま、わが手によって実現されるのだ。自然科学の革命、世界宗教の頓挫(とんざ)、人間のにぎる力のおどろくべき拡大……」
 川内警部は、にがり切って長戸検事のそでをひいた。
「検事さん、あれは気が変ですよ。ちんぷんかんぷんのねごとはやめさせて、となりの部屋部屋を、どんどん洗ってみようじゃありませんか。さもないと、この事件はさっぱり片づきませんよ。迷宮入(めいきゅうい)りはもういやですからね」
 そういわれて、長戸検事も警部の意見にしたがう気になった。さっぱりわけのわからない博士のうわごとに、頭痛のするのをこらえているのは、ばかな話だと思った。
 検事は、つぎの部屋を見るから案内するようにと、博士にいった。博士は、いすからのそりと立ち上がった。
 どんな光景が、つぎの部屋に待っていることか。


   三重(さんじゅう)のドア


 第二研究室へはいりこむのは、たいへんめんどうであった。
 ドアだけでも、三重になっていた。

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