少年探偵長
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著者名:海野十三 

   怪事件の第一ページ


 まさか、その日、この大事件の第一ページであるとは春木(はるき)少年は知らなかった。あとからいろいろ思い出してみると、その日は、運命の大きな力が、春木清(はるききよし)をぐんぐんそこへひっぱりこんだとも思われる。
 ふしぎな偶然(ぐうぜん)の出来事が、ふしぎにいくつも重なって起ったような感じだが、それもみんな、清少年の運命であったにちがいないのだ。
 奇々怪々(ききかいかい)なるその大事件は、第一ページにあたるその日において、ほんのちょっぴり、その切口(きりくち)を見せただけであった。もし春木少年が、そのときにこの事件の大きさ、深さ、ものすごさ、おそろしさを半分ぐらいでも見とおすことができたなら、彼はこの事件に関係することをあきらめたであろう。それほどこの事件は、大じかけの恐怖事件(きょうふじけん)であって、とても少年の身では歯がたたないばかりか、大危険(だいきけん)にまきこまれることは分りきっていたのである。
 まあ、前(まえ)おきのことばは、このくらいにしておいて春木少年がその事件の第一ページの上に、どういう工合(ぐあい)にして、足を踏みこんだか、それについて語ろう。
 その日、春木少年は、この間から学校で仲よしになった同級生の牛丸平太郎(うしまるへいたろう)という身体(からだ)の大きな少年といっしょに、日曜を利用した山登りをやっていたのである。その山登りというのは、芝原水源地(しばはらすいげんち)の奥にあるカンヌキ山の頂上まで登ることであった。
 春木少年が、この町へ来たのは、ほんの一カ月ほど前のことであった。その前、彼は東京にいた。この町は関西の港町だ。
 くわしいことは、いずれ後でのべる時があるから、ここには説明しないが、春木少年は、家の事情によって、とつぜんこの港町の伯母(おば)さんの家へあずけられたのであった。そして清は、近くの雪見(ゆきみ)中学校へ転校入学したのだった。彼は三年生だった。
 一時はずいぶんさびしい思いもしたが、清はこの頃ではすっかりなれてしまった。そして学校にも牛丸君のような愉快な友だちができるし、それから又港町のうしろにつらなっている連山(れんざん)の奥ふかく遊びにいく楽しみを発見して、ひまがあれば山の中を歩きまわった。
 その日、清は、牛丸の平(へい)ちゃんと連立(つれだ)って、おひるごろカンヌキ山の頂上にたどりついた。そこで弁当をたべ、それからそこらにある荒れ寺の境内(けいだい)でさんざん遊び、それから午後三時ごろになって、二人は帰途(きと)についた。
 秋の日は、六時頃にはもうとっぷり暮れるので、午後三時に頂上を出ると、麓(ふもと)へ出て町へはいるときは、町にも港にも灯(ひ)がいっぱいついているはず、すこし山の上で遊びすぎておそくなった。
 そこで二人は、競走をして、山を下りることにした。
 カンヌキ山を下りて、芝原水源地に近くなったところに、渓流(けいりゅう)にうつくしい滝がかっているところがある。この滝の名は、イコマの滝というんだそうだ。文字はたぶん生駒(いこま)の滝(たき)と書くのであろう。
 カンヌキ山から出ている下り道が二つあった。東道と西道だ。この二つの道は、生駒の滝のすこし手前で出会い、いっしょになる。そこで春木少年と牛丸少年は、べつべつの道をとってどっちが早く生駒の滝につくか、その滝の前で出会う約束で、競走をはじめたのだった。
「ぼくは、だんぜん東道の方が早いと思うね。ぼくは東道ときめた」牛丸少年はそういった。
「そうかなあ。じゃあ、ぼくは西道をかけ下りて、君より早く、滝の前についてみせる」
 春木少年は、牛丸が東道をえらんだものだから、やむなく西道を下りることにしたのだった。この決定が、春木少年を例の事件にぶつからせることになった。もしこの時反対に、牛丸少年が西道をえらんだら、牛丸の方が怪事件にぶつかったことであろう。
 二人は、一(い)チ二(に)イ三(さ)ンで、左右へ別れて、山を下りはじめた。
 秋の日は、まだかんかん照っていた。しかしだいぶん低くなっていた。
 春木少年の方は、口笛を吹きながら、手製(てせい)の杖(つえ)をふりまわしつつ、どんどん山を下りていった。すこし心細くないでもなかったが、ときどき山の端(は)からはるか下界(げかい)の海や町が見えるので、そのたびに彼は元気をとりもどした。
 二時間ばかり後に、彼はついに生駒の滝の音が聞える近くにまで来た。
「さあ、ぼくの方が早いか。それとも牛丸君が勝ったか。なにしろ牛丸君は、この土地に生れた少年だから、山の勝手(かって)はよく知っている。だから、ぼくはかなわないや」
 春木の方は、そういうわけで自信がなかった。
 ところが、実際は春木の方が、ずっと先についたのであった。
 牛丸少年の方は、途中(とちゅう)で手間どっていた。というのは、東道では、途中で丸木橋(まるきばし)が落ちていて、そのため彼は大まわりしなくてはならなかった。本当は、東道の方が近道だったのだけれど、思いがけない道路事故のため、牛丸は春木清よりも、三十分もおくれて現場(げんば)につくことになったのだ。
 そして三十分もおくれたことが、二人の少年の運命の上に、たいへんなちがいをもたらした。それは一体どういうことであったか。春木少年は、何事も知らず、生駒の滝の前へついて、
「しめた。ぼくの勝だ。牛丸君は、まだついていないじゃないか」
 と、ひとりごとをいって、あたりを見まわした。滝は、大太鼓(おおだいこ)をたくさん一どきにならすように、どうどうとひびきをあげて落ちている。春木は帽子(ぼうし)をぬいで、汗をぬぐった。紅葉(もみじ)や楓(かえで)がうつくしい。
「おやッ」少年は目をみはった。
 滝をすこし行きすぎた道の上に、誰(だれ)か倒れているのであった。黒い洋服を着た男であった。
(どうしたのだろう)
 様子がへんなので、清はおそるおそる、そのそばに近づいた。すると、いやなものが目にはいった。うつむいて倒れているその洋服男のかたく握りしめた両手が、まっ赤であった。血だ。血だ。
「死んでいるのか?」
 少年が、青くなって、再び瞳(ひとみ)をこらしたときに、洋服男の血まみれの手が少し動いて、土をひっかいた。


   重傷の老人


「あ、あの人は生きているんだ」春木少年は叫んだ。
 叫ぶと、そのあとは、おそろしさも何も忘れて、血染(ちぞ)めの洋服男のそばにかけより、膝(ひざ)をついて、
「もしもし。しっかりなさい。どうしたのですか。どこをやられたのですか」と、呼びかけた。
 そのとき少年は、この血染めの人が、かなりの老人であることを知った。顔に、髭(ひげ)がぼうぼうとはえ、黒い鳥打帽子(とりうちぼうし)がぬげていてむき出しになっている頭髪(とうはつ)は、白毛(しらが)ぞめがしてあって、一見(いっけん)黒いが、その根本のところはまっ白な白毛であった。鳥打帽子がぬげているそばには、茶色のガラスのはまった眼鏡(めがね)が落ちていた。
 老人は、苦しそうに顔をあげて、春木の方へ顔をねじ向けた。が、一目春木を見ただけで、がっくりと顔を地面に落とした。全身の力をあつめて、自分に声をかけた者が何者であるかをたしかめたという風であった。
 老人は、うんうん呻(うな)りはじめた。
「しっかりして下さい。傷はどこですか」
 と、春木はつづいて叫びながら老人を抱(いだ)きおこした。
 分(わか)った。老人の胸はまっ赤であった。地面(じめん)におびただしく血が流れていた。傷は、弾丸(だんがん)によるものだった。左の頸(くび)のつけ根のところから弾丸(たま)がはいって、右の肺の上部を射ぬき、わきの下にぬけている重傷であったが、春木少年には、そこまではっきり見分ける力はなかった。しかし傷口(きずぐち)があることは彼にもよく見えたので、そこを早くしばってあげなくてはならないと思った。
 しばるものがない。繃帯(ほうたい)があればいいんだが、そんなものは持合わせがない。
 どうしようか。そうだ。こうなれば服の下に着ているシャツと、それから手拭(てぬぐい)とを利用するほかない。春木少年は実行家(じっこうか)だったから、そう決心するとまず老人を元のようにねかし、それから急いで服をぬぎすて、縞(しま)のシャツをぬぐと、それをベリベリと破って長いきれをこしらえ、端と端とつなぎあわせた。手拭もひきさいて、それにつないだ。
「これでよし。さあ出来た。おじさん、しっかりなさい。傷口に仮(か)りの繃帯をしてあげますからね」
 そういって春木は、再び老人を抱きおこして、上向(うわむ)きにした。
 老人は口から、赤いものをはき出した。胸をやられているからなのだ。少年は、絶望の心をおさえ、老人をしきりにはげましながら、傷口をぐるぐる巻いてやった。
 その間に、老人は苦しそうにあえぎながら、目をあけたり、しめたりしていたが、少年がしてくれた傷の手当がすんで、しずかに地面にねかされたとき、
「あ、ありがとう。か、神の御子(みこ)よ……」
 と、しわがれた聞きとれないほどの声で、春木少年に感謝した。そのとき老人ののどが、ごろごろと鳴って、口から赤い泡立ったものがだらだらと流れだした。
「ものをいっては、だめです。おじさんは、胸に傷をしているのですからね」老人は、かすかにうなずいた。
「さあ、これからどうしたらいいか。ぼく、山を下りて、誰かを呼んで来ますから、苦しいでしょうが、しばらくがまんしていて下さい」
 そういって春木は、老人のそばから立ち上って、ふもとへ走ろうとしたが、そのとき、老人が一声高く叫んだ。
「お待ち」
「えッ」
「そばへ来てください」
「なんですか。そんなに口をきくと、また血が出ますよ」
 春木は、老人のそばへ膝をついた。
「もう、もう、わしはだめだ。あんたの親切にお礼をしたいから、ぜひ受けて下さい。今、そのお礼の品物を出すから、ちょっと、横を向いて下され」
「お礼なんて、ぼくは、いいですよ。大したことはしないんだから」
「いや、わしはお礼をせずにはいられない。それにこのまま、わしが死んでしまえば、莫大(ばくだい)なる富の所在(ありか)を解(と)く者がいなくなる。ぜひあんたにゆずりたい。あんたは、何という名前かの」
 老人は、苦しそうにあえぎ、赤い泡をふき出しながら、少年に話しかける。その事柄は、真(まこと)か偽(いつわり)かはっきりしないが、とにかく重大なことだ。
「ぼくは、春木清(はるききよし)というのです」
「ハルキ・キヨシ。いい名前だな。ハルキ・キヨシ君に、わしは、わしの生命(いのち)の次に大切にしていたものをゆずる。キヨシ君。すまんがわしをもう一度、うつ向けにしておくれ」
 春木少年は、老人のいうとおりにした。
「キヨシ君。わしがいいというまで、ちょっと横を向いていておくれ」
 老人は、へんなことをいった。しかし少年は、いわれるとおりにした。
 老人は、ふるえる手を、自分の目のところへ持っていった。それから彼は、指先で右の目のところをもんでいた。そのうちに、老人の指先には、白い球(たま)がつまみあげられていた。卵大(たまごだい)ではあるが、卵ではなく、一方に黒い斑点(はんてん)がついていた。
 義眼(ぎがん)であった。老人の右の目にはいっていた入れ目であった。
「さ。これをキヨシ君に進呈(しんてい)する」
 老人は、気味のわるい贈物を、春木少年の方へさしだした。
 なんということであろう。老人は気が変になったのであろうか。
 春木少年は、まさか義眼とも思わず、それを卵か石かと思って受取った。


   もらった義眼(ぎがん)


「これは何ですか。これはどんな値打(ねうち)のあるものですか」
 少年は、老人の義眼を、手のひらの上でころがしてみながら、不審(ふしん)がった。
 そのとき滝のひびきの中に、別の物音がはいって来た。ぶーンと、機械的な音であった。春木少年はまだ気がついていなかったが、老人の方が気がついて、びっくりした。
「おお、キヨシ君。悪い奴(やつ)がこっちへ来る。あんたは、早くそれを持って、洞穴(ほらあな)か、岩かげかに早くかくれるんだ。早く、早く。いそがないと間にあわない。そして、空から絶対にあんたの姿が見られないように、気をつけるんだ。さあ。早く……」
「どうしたんですか。そんなにあわてて……」
「わしを殺そうとした悪者(わるもの)の一派が、ここへやって来るのだ。あんたの姿を見れば、あんたにも危害(きがい)を加えるだろう。よくおぼえているがいい。悪者どもが、ここを去るまでは、あんたは姿を見せてはならない。身体を動かしてはならない。あんたは今、わしからゆずられた大切な品物を持っているということを忘れないように。さ、早くかくれておくれ」
 老人は、気が変になったように、わめきつづける。
 春木少年は、重傷の老人がこの上あんな声を出していたら、死期(しき)を早めるだろうと思った。だから早く老人のいうとおり、岩かげかどっかへかくれるのが、老人のためになると思って、立ち上った。
 が、老人にたずねなくてはならないことが、たくさんあった。
「この卵みたいなものをどうすればいいんですか」
「な、中をあけてみなさい。早くかくれるんだ。だんだん空から近づくあの音が聞えないのか。早く、早く」
 そういわれて春木少年は気がついた。頭の上からおしつけるような、ごうごうたる物音がしている。でも、もう一つ老人に聞いておかねばならないことがあった。
「おじさん。おじさんの名前は、なんというのですか」
「まだ、そこにぐずぐずしているのか」
 重傷の老人は腹立たしそうに叫んだ。
「わしの名はトグラだ」
「トグラですか」
「戸倉八十丸(とぐらやそまる)だ。早くかくれろ。一刻(いっこく)も早く! さもなきゃ、生命(いのち)がない。世界的な宝もうばわれる。早く穴の中へ、とびこめ。あのへんに穴がある。だが、気をつけて……」
 老人の声は、泣き叫んでいるようだ。
 春木は、今はこれ以上、老人をなやませては悪いと思った。そこで、瀕死(ひんし)の老人の指(さ)した方向へ走った。大きな岩が出ていた。滝つぼとは反対の方だ。
 彼が、岩のかげにとびこんだとき、頭上にびっくりするほど大きいものが、まい下(くだ)ってきた。
 ヘリコプターだった。竹とんぼのような形をした大きな水平にまわるプロペラを持ち、そして別にもう一つ小さなプロペラをつけた竹とんぼ式飛行機だった。
 ヘリコプターは、宙に浮いたように前進を停止し、上下に自由に上ったり、下ったりできる飛行機である。だから、滑走場(かっそうじょう)がなくても飛びあがることができ、またせまい屋上(おくじょう)へ下りることもできる。
 そのようなヘリコプターが、夕闇(ゆうやみ)がうすくかかって来た空から、とつぜんまい下りて来たので、春木少年はおどろいた。
 なぜであろう。ヘリコプターが、なに用あってまい下りてくるのであろう。
 戸倉老人が、恐怖していたのは、そのヘリコプターであろうか。
 春木少年は岩かげにしゃがんで、この場の様子(ようす)をうかがった。ヘリコプターは、垂直(すいちょく)に下ってきた。
 と、ぱっとあたりが昼間のように明るくなった。ヘリコプターが探照灯(たんしょうとう)を、地上へ向けて照らしつけたのだ。
「あッ」春木少年は、岩にしがみついた。
 ぎらぎらと、強い光が、春木少年の左の肩を照らしつけた。
 少年は、なんとはなしに危険を感じ、しずかに身体を右の方へ動かして、ヘリコプターの探照灯からのがれようとした。
 しかし探照灯は追いかけて来るようであった。
 春木は、岩にぴったりと寄りそったまま、身体を右の方へ移動していった。
 すると、彼はとつぜん身体の中心を失った。右足で踏んでいた土がくずれ、足を踏みはずしたのだった。そこには草にかくれた穴があった。身体がぐらりと右へ傾(かたむ)く。「あッ」という間もなく、彼の身体は穴の中へ落ちこんだ。両手をのばして、岩をつかもうとしたが、だめだった。
 少年の身体は、深く下に落ちていって、やがて底にたたきつけられた。それは、わりあいにやわらかい土であったが、彼はお尻(しり)をしたたかにぶっつけ、「うン」と呻(うな)り声をあげると、気を失った。
 気を失った少年のそばに、戸倉老人がゆずり渡した疑問の義眼が一つころがっていた。そして義眼の瞳(ひとみ)は、まるで視力があるかのように、上に丸く開いている空を凝視(ぎょうし)していた。


   空中放(はな)れ業(わざ)


 穴の中に落ちこみ、気を失ってしまった春木少年は、その直後に起った地上の大活劇(だいかつげき)を見ることができなかった。
 まったく、彼の思いもかけなかったような活劇の幕が、そのとき切って落されたのであった。
 ヘリコプターから、とつぜん、だだだだッ、だだだだッと、はげしい機関銃が鳴りだした。弾丸(たま)は、戸倉老人の倒れている身辺(しんぺん)へ、雨のように降りそそいだ。弾丸が地上に達して石にあたると、ぴかぴかッと火花が光り、それが夕暮のうす闇の中に、生き物のようにおどった。だが、弾丸は、戸倉老人のまわりに落ちるだけで、老人の身体は突き刺さなかった。
「うわッ、なんだろう」滝つぼの正面の道路の上に、少年の姿があらわれた。春木ではなかった。牛丸少年であった。彼はようやく生駒(いこま)の滝(たき)の前に今ついたのであった。彼にはまだこの場の事態(じたい)がのみこめていなかった。だから身の危険を感じることもなく、道のまん中に棒立ちになって、火花のおどりを、いぶかしく眺(なが)めたのであった。
 が、一瞬ののち、彼は戸倉老人の倒れている姿を認めた。また、つづいて起った銃声のすさまじさによって、はっと身の危険を感じた。
「あ、あぶない」牛丸少年は、身をひるがえすと、かたわらの大きな柿(かき)の木に、するするとのぼった。牛丸は、木登りが得意中の得意だった。だから前後の考えもなく、柿の木なんかによじ登ったのである。それは、彼のために、幸福なことではなかった。
 そのときヘリコプターは、戸倉老人のま上まできた。胴(どう)の底に穴があいて、そこから一本のロープがゆれながら、まい下ってきた。
 すると、ロープを伝わって、一人の男がするすると下りてきた。そのときロープの先は地上についていた。その男は、カーキ色の作業衣(さぎょうい)に身をかためた男だった。その男も倒れている戸倉老人も共に探照灯の光の中にあった。
 老人は、死んでしまったように、動かない。
 牛丸少年は、柿の枝につかまって、この有様をびっくりして眺めている。
 作業衣の男は、ついに地上に足をつけた。ロープを放して、戸倉老人の方へ走りよった。そして膝をついて老人の身体をしらべだした。彼のために、老人は二三度身体を上向きに又下向きにひっくりかえされた。
 しばらくすると、作業衣の男は立上って、手をふって、上のヘリコプターへ、合図(あいず)のようなことをした。ヘリコプターの胴の窓からも、一人の男が上半身を出して、下へ手をふって合図した。
 下の男は、分ったらしく、合図に両手を左右へのばした後で、ロープの端を手にとって、戸倉老人に近づくと、老人の身体をロープでぐるぐる巻きにしばりつけた。
 それから自分は、老人よりもロープの上の方にぶら下った。
 それが合図のように、ロープはぐんぐんヘリコプターの方へ巻きあがっていった。ヘリコプターは、宙に浮いて、じっとしている。この有様を、牛丸少年は、あっけにとられて柿の木の上から見ていた。
 ところが、とつぜん作業衣の男が、片手をはなして、牛丸少年の登っている柿の木を指(さ)した。と、ぱっと強い探照灯の光が牛丸少年の全身を照らしつけた。
「うわッ。たまらん」牛丸平太郎は生れつきものおじをしない楽天家であったが、このときばかりは、もう死ぬかもしれないと思った。彼は目がくらんで、呼吸(いき)をすることができなくなった。彼は懸命に、両手と両足で、柿の木の枝にしがみついていた。目は、全然ものを見分ける力がなくなった。
「柿の木の上で、目はみえず」
 ヘリコプターの音が遠のいていったのが分ったとき、牛丸は、ひとりごとをいった。俳句になるぞと思った。
 このとき、ようやくすこしばかり、ものの形が見えるようになった。
「ひどい目にあわせよった」
 彼は、そろそろと柿の木から、すべり下りていった。
 牛丸少年は、滝の前に、小一時間もうろうろしていた。もうまっくらな中を、あたりを探しまわった。
「おーい。春木君やーい」と、何十ぺんも、友だちの名を呼んでみた。しかしその返事は、彼の耳に聞えなかった。その間に、彼は、倒れていた人のあとへも行ってみた。そこには、血の跡らしいものが黒ずんで地面を染めているのを見た。
「誰だろう、ここに倒れていた人は」
 彼には事情が分らなかった。
 ヘリコプターで救助作業をやったのかもしれないが、しかしその前に、はげしい銃声のようなものを聞いた。それを聞きつけたから、彼はびっくりして柿の木へ登ったのだ。彼は後で考えて、「ぼくは、あのときは、なんてあわてん坊であったろう」と苦笑したことだった。
 いつまでたっても、春木君がやってこないので、一時間ばかりたった後に、牛丸少年は、ひとりで川を下りていった。
 牛丸はなんにもしらなかった、ここにふしぎなことがあった。それは、戸倉老人の身体からはなれてとび散らばっていた老人の帽子も眼鏡も、共にそのあとに残っていなかったことである。
 それにしても、重傷の戸倉老人を拾っていった、ヘリコプターに乗っていた者は、何者であったろうか。
 老人を救助に来た者だとは思われない。もし救助に来た者ならば、老人は春木少年の前であのように恐怖してみせるはずはないのだ。
 すると、あのヘリコプターは、戸倉老人のためには敵手(てきしゅ)にあたる連中が乗っていたものであろうか。
 この生駒の滝を背景とした血なまぐさい謎(なぞ)にみちた一幕(ひとまく)こそ、やがて春木清が少年探偵長として全世界へ話題をなげた奇々怪々なる「黄金(おうごん)メダル事件」へ登場するその第一幕であったのだ。


   穴からの脱出


 岩かげの穴の中に落ちこんだ春木少年は、まだ牛丸君がその附近にいた間に、われにかえることができた。
 彼は、牛丸君が自分を呼ぶ声をたしかにきいた。そこで彼は、穴の中で返事をしたのである。いくども牛丸君の名を呼んで、自分がここにいることを知らせたのである。しかし牛丸君は、ほかの方ばかりを探していて、春木が落ちこんでいる穴の上には近よらなかった。
 そのうちに牛丸は、あきらめて、生駒の滝の前をはなれ、ふもとへ通ずる道をおりていった。
 あとに残されて穴の中にひとりぼっちになった春木のまわりはだんだん暗くなってきた。彼は、お尻をさすりながら、あたりを見まわした。
「あッ、あの球(たま)だ」彼は、そばに戸倉老人の義眼(ぎがん)が落ちているのを見つけると、あわてて拾いあげた。
「何だろう。ふしぎなものだなあ。おやおや、目玉みたいだぞ。こっちをにらんでいる。ああ気味(きみ)がわるい」
 あまり気味がわるいので、彼はそれをポケットの中へしまった。
「さあ、なんとかして、この空(から)っぽの井戸からあがらなくては」
 見ると、空井戸(からいど)の底には、横向きの穴があった。人間がやっとくぐってはいれるほどの穴だった。しかし、気味がわるくて、春木ははいる気がしなかった。彼は立上った。そして上を向いていろいろとしらべてみたが、そこには上からロープもなにも下っていなかった。深さは十四五メートルらしい。
「土の壁が上までやわらかいといいんだがなあ。そしてなにか土を掘るものがあるといいんだが。待てよ、ナイフを持っているからこれで掘ってやろう」
 春木は、空井戸の土壁(つちかべ)に、足場の穴を掘り、それを伝って上へあがることを思いついた。そこで、早速(さっそく)その仕事を始めた。
 それは手間のかかる仕事であったが、少年は根気(こんき)よく土の壁に足場を一段ずつ掘っていって、やがて穴のそとに出ることができた。
「やれ、ありがたい」春木は、そこで大きな溜息(ためいき)を一つして、あたりを見まわした。あたりはまっくらであった。そしてまっ暗闇の中から、滝の音だけがとうとうと鳴りひびき、いっそう気味のわるいものにしていた。
 ただ晴夜(せいや)のこととて、星だけが空にきらきらと明るくかがやいていた。しかし星あかりだけでは、道と道でないところの区別はつかなかった。彼は、山を下りることを朝まで断念(だんねん)するしかないと思った。むりをして下りれば、足をふみすべらして谷底へ落ちるおそれがある。
「しようがない。今夜、滝の音を聞きながら野宿(のじゅく)だ」
 春木は、草の上に尻餅(しりもち)をついた。決心がつけば、野宿もまたおもしろくないこともない。ただ、明日(あした)になって、伯母(おば)たちに叱(しか)られるであろうが、それもしかたなしだ。
 春木は、急に腹が空(す)いているのに気がついた。ポケットをさぐったが、例のへんな球の外になんにもない。みんなたべてしまったのだ。
 そのうちに寒くなって来た。秋も十一月の山の中は、更けると共に気温がぐんぐん下っていくのであった。
「ああ、寒い。これはやり切れない」空腹はがまんできるが寒いのはやり切れない。どうかならないものか。
「あッ、そうだ。ライターを持っていた」
 こういうときの用心に、彼はズボンのポケットに火縄式(ひなわしき)のライターを持っていることを思いだした。そうだ。ライターで火をつけ、枯れ枝をあつめて、どんどんたき火をすればいいのである。少年は元気づいた。
 火縄式のライターは、炭火(すみび)のように火がつくだけで、ろうそくのように焔(ほのお)が出ない。それはよく分っていたが、彼はこの前、火縄の火に、燃えあがりやすい糸くずを近づけて、ふうふう息をふきかけることにより、糸くずをめらめらと燃えあがらせて、焔をつくった経験があった。その経験を今夜いかして使うのだ。
 彼は、服の裏をすこしさいて、糸くずと同様のものをこしらえ、それにライターの火縄の火を燃えあがらせることに成功した。焔はめらめらと、赤い舌をあげて燃えあがった。その焔を、枯れ草のかたまりへ移した。火は大きくなった。こんどは、それを枯れ枝の方へ移した。火勢(かせい)は一段と強くなった。それから先はもう困らなかった。明るい、そしてあたたかい焚火(たきび)が、どんどんと燃えさかった。
 あたたかくなり、明るくなったので、春木少年はすっかり元気になった。附近から枯れ枝をたくさん集めて来た。もう大丈夫だ。
 火にあたっていると、ねむくなりだした。昼間からの疲れが出て来たものらしい。
 しかしここで睡(ねむ)ってしまっては、焚火も消えてしまい、風邪をひくことになるであろうと、彼は気がついた。そこで、なんとかして睡らない工夫をしなくてはならない。彼は考えた。
「そうだ。さっき戸倉のおじさんからもらった球をしらべてみよう」
 それは、この際うってつけの仕事だった。少年はポケットから、例の球を出した。火にかざして、彼ははじめてゆっくりとその品物を見たのだ。
「やッ。これは眼玉だ。気持が悪い」
 彼はぞっと背中が寒くなり、眼玉を手から下へとり落とした。眼玉は、ころころところがって、焚火のそばまでいった。
「待てよ。あれはほんとうの眼玉じゃないらしい。ああ、そうだ。義眼だろう、きっと」
 彼は、自分があわてん坊だったのに気がついて、おかしくなり、ひとりで笑った。
「あ、眼玉があんなところで、焼けそうになっている。たいへん、たいへん」彼はあわてて、もえさしの枝を手にとると、焚火のそばから義眼を拾い出した。
「あちちちちッ」義眼はあつくなっていて、彼の手を焼いた。彼の手から義眼は再び地上に落ちた。すると義眼は、まん中からぱっくりと、二つに割れた。
 それは春木少年のためには、幸運であったといえる。なぜなら、火で焼けでもしなければ、この義眼を開けることは、なかなかむずかしいことであったから、つまりこの義眼は、一種の秘密箱であったのだ。この球を開くには、どんなにしても一週間ぐらい考えなくてはならなかったのだ。少年は幸運にもその球形(きゅうけい)の秘密箱を火のそばで焦がしたがために、秘密箱のからくりは自然に中ではずれ、彼が二度目に手から地面の上へ落とすと、ぱっくりと二つに割れたのである。しかし、これには春木少年はおどろいて、目をぱちくりした。
「おや。中になにかはいっているぞ。ああそうか。あれなんだな。あのおじさんのいったことは嘘(うそ)でないらしい」
 莫大(ばくだい)なる富だ。世界的の宝だ。いったいそれは何であろうか。
 春木少年は、手をのばして、二つに割れた戸倉老人の義眼を手にとって調べた。
「ああ、こんなものがはいっている」
 義眼の中には、絹(きぬ)のようなきれで包んだものがはいっていた。中には、なにかかたいものがある。
 絹のきれをあけると、中から出て来たのは半月形(はんげつけい)の平ったい金属板だった。かなり重い。そして夜目にもぴかぴかと黄いろく光っている。そしてその上には、うすく浮彫(うきぼり)になって、横を向いた人の顔が彫(ほ)りつけてあり、そのまわりには、鎖(くさり)と錨(いかり)がついていた。裏をかえしてみると、そこには妙な文字のようなものが横書(よこがき)になって数行、彫りつけてあった。しかしそれがどこの国の文字だか、見たことのないものだった。古代文字(こだいもんじ)というよりも、むしろ音符号(おんふごう)のようであった。
「金貨の半分みたいだが、こんな大きな金貨があるんだろうか。とにかく妙なものだ。いったいこれは何だろうか」
 と、彼はそのぴかぴか光る二つに割られた黄金のメダルを、ふしぎそうに火にかざして、いくどもいくども見直した。
「字は読めないし、それに半分じゃ、しようがないが、これでもあのおじさんがいったように、これが世界的な莫大な富と関係があるものかなあ」
 せっかくもらったが、これでは春木少年にとってちんぷんかんぷんで、わけが分らなかった。
 さあ、どういうことになるか。
 そのとき、一陣の山風がさっと吹きこんできて、枯葉がまい、焚火の焔が横にふきつけられて、ぱちぱちと鳴った。すると少年のすぐ前で、ぼーッと燃え出したものがある。
「あっ、しまった」
 それは、この半月形の黄金メダルを包んであった絹のきれだった。それには文字(もんじ)が書いてあることがそのとき始めて春木少年の注意をひいたのである。火は、その絹のハンカチーフみたいなものを、ひとなめにして焼きつくそうとしている。少年は、驚いて、火の中へ手をつっこみ、燃える絹のきれをとりだすと、靴でふみつけた。
 火はようやく消えた。
「やれやれ。もちっとで全部焼いてしまうところだった」
 焼け残ったのはその絹のハンカチーフの半分よりすこし小さい部分だった。それにはこまかく日本文字が書いてあった。少年は、その文字を拾って読み出したが、なにしろ半分ばかりが焼けてしまったので、その文字はつながらなかった。
 だが、少年は読めるだけの文字を拾っていた。が、急に彼は顔をこわばらせると、
「ああ、これはたいへんなものだ」と叫んだ。にわかに彼の身体はぶるぶるとふるえだして、とまらなかった。
 なぜであろうか。
 いったいその焼けのこりの絹のきれは、どんなことが書いてあったろうか。そして半月形の黄金のメダルこそ、いかなる秘密を、かくしているのだろうか。
 深山(しんざん)には、にわかに風が出て来た。焚火の火の子が暗い空にまいあがる。


   六天山塞(ろくてんさんさい)


 さて、戸倉老人をさらっていったヘリコプターはどこへ飛び去ったか。
 ヘリコプターは、暮色(ぼしょく)に包まれた山々の上すれすれに、あるときは北へ、あるときは東へ、またあるときは西へと、奇妙な針路をとって、だんだんと、奥山へはいりこんだ。
 約一時間飛んでからそのヘリコプターは、闇の中をしずしずと下降し、やがて、ぴったりと着陸した。
 その場所は、どういう景色のところで、その飛行場はどんな地形になっているのか、それは肉眼(にくがん)では見えなかった。なにしろ、日はとっぷり暮れ、黒白も見わけられぬほどの闇の夜だったから。ただ、銀河ばかりが、ほの明るく、頭上を流れていた。
 このヘリコプターには、精巧なレーダー装置がついていたから、その着陸場を探し求めて、無事に暗夜(あんや)の着陸をやりとげることは、わけのないことだった。レーダー装置は、超短電波を使って、地形をさぐったり、高度を測ったり、目標との距離をだしたりする器械で、夜間には飛行機の目としてたいへん役立つものだ。
 こうしてヘリコプターは無事着陸した。しかもまちがいなく六天山塞へもどって来たのである。
 六天山塞とは、何であるか?
 この山塞について、ここにくわしい話をのべるのは、ひかえよう。それよりも、ヘリコプターのあとについていって、山塞のもようを綴(つづ)った方がいいであろう。
 そのヘリコプターが無事着陸すると、操縦席から青い信号灯がうちふられた。
 すると、ごおーッという音がして、大地が動きだした。ヘリコプターをのせたまま、大地は横にすべっていった。
 それは大仕掛な動く滑走路(かっそうろ)であった。細長い鉄片を組立ててこしらえた幅五メートルの滑走路で、動力によってこれはベルト式運搬機(うんぱんき)のように横にすべって動いていく。そうしてヘリコプターは、山腹(さんぷく)にあけられた大きな洞門(どうもん)の中へ吸いこまれてしまった。
 それから間もなく、動く滑走路は停(とま)った。そしてうしろの洞穴のあたりで、がらがらと鉄扉のしまる音が聞えた。
 その音がしなくなると、とつぜんぱっと眩(まぶ)しい光線がヘリコプターの上から照らしつけた。洞門の中の様子が、その瞬間に、はっきりと見えるようになった。そこは建築したばかりの大工場で、この一棟(ひとむね)へはいった。土くれの匂いなどはなく、芳香を放つ脂(あぶら)の匂いがあった。そして壁も天井も明るく黄いろく塗られて、頑丈(がんじょう)に見えた。ただ床だけは、迷彩(めいさい)をほどこした鋼材(こうざい)の動く滑走路がまん中をつらぬいているので、異様な気分をあおりたてる。
 ばたばたと、ヘリコプターをかこんだ五六名の腕ぷしの強そうな男たちは、ピストルや軽機銃(けいきじゅう)をかまえてヘリコプターの搭乗者(とうじょうしゃ)へ警戒の目を光らせる。彼らの服装は、まちまちであり、背広があったり、作業衣であったりした。
 すると機胴(きどう)の扉があいて、一人の長髪の男が顔をだした。彼は手を振って、
「大丈夫だ。奴(やっこ)さんはもうあばれる力なんかないよ」
 といった。この男は、生駒(いこま)の滝(たき)の前で、縄ばしご伝いにヘリコプターから下りてきて、戸倉老人を拾いあげた男だった。波立二(なみたつじ)といって、この山塞では、にらみのきく人物だった。
 そのとき、奥から中年の男が駆けだしてきて、波立二に声をかけた。
「おい。戸倉はまだ生きているか。心臓の音を聴いてみてくれ」心配そうな顔だった。
「脈はよくありませんよ。でもまだ生きています」
「新しく傷を負わせたのじゃなかろうね。そうだったら、頭目(とうもく)のきげんが悪くなるぜ」
「ふん、木戸(きど)さん、心配なしだよ。おれがそんなへまをやると思いますか。射撃にかけては――」
「そんならいいんだ。担架(たんか)を持ってくるから、そのままにしておいてくれ」
 木戸とよばれた中年の男は、ほっとした面持(おももち)になって、うしろを振返った。担架をかついだ一隊が、停ったエレベーターからぞろぞろとでてくるのが見えた。
 その中に、ひとりいやに背の高い人物が交(まじ)っていた。首が長くて、ほんとに鶴(つる)のようである。顔は凸凹(でこぼこ)がはげしくて岩を見るようで、鼻が三角錐(さんかくすい)のようにとがって前へとびだしている。もうひとつとびだしているのは、太い眉毛(まゆげ)の下の大きな両眼だ。鼻の下には、うすい髭(ひげ)がはえている。かますの乾物のように、やせ細っている彼。そして背広の上に、まっ白の上っぱりを長々と着て、大股(おおまた)ですたすたとやって来、ものもいわずにヘリコプターの上へ登ってはいった。
 彼は、すぐでてきた。そして木戸の前に立って、ものいいたげに相手を見下ろした。
「どうだね、机(つくえ)博士」木戸は、さいそくするように、机博士の小さく見える顔を仰いだ。
「ふむ、頭目の幸運てえものさ。このおれ以外の如何(いか)なる名医にかけても、あの怪我人(けがにん)はあと一時間と生命がもたないね」
 机博士は、表情のない顔で、自信のあることばをいい切った。
「ほう、助かるか」木戸は顔を赤くした。
「ではすぐ手当をしてもらうんだ。頭目は、すぐにも戸倉をひき寄せて、話をしたいんだろうが、いったいこれから何時間後に、それができるかね」
「世間並(せけんなみ)にいえば、三週間だよ」
「君の引受けてくれる時間だけ聞けばいいんだ」
「この机博士が処置をするなら今から六時間後だ。それなら引受ける」
「よし、それで頼む。頭目に報告しておくから」
「今から六時間以内は、どんなことがあってもだめ。一語も聞けないといっておいてくれたまえ。銃弾(たま)は際(きわ)どいところで、心臓を外れているが、肺はめちゃめちゃだ。ものをいえば、血とあぶくがぶくぶく吹きでる。普通ならすでに、この世の者ではないさ。しかし奴さん、うまい工合に傷の箇所(かしょ)に、血どめのガーゼ――ガーゼじゃないが、きれを突込(つっこ)んで、器用にその上を巻いてある。奴さんにとっては、これはうちの頭目以上の幸運だったんだ」
 博士はひとりで喋(しゃべ)った。
「手術はここでするから、医局員でない者はどこかへ行ってもらいたいね」
「え、ここでするのか、机博士」
「そうさ。どうして、この重態の病人を、動かせるものかね。狭くても、しようがないやね」
 と、博士はいった。
「電気の用意ができました」
 部下の合図があった。博士は再びヘリコプターの座席へもぐりこんだ。


   男装(だんそう)の頭目(とうもく)


 それにつづく同じ夜、正確に時刻をいうと、午前二時を五分ばかりまわった時であった。
 この六天山塞(ろくてんさんさい)の指揮権を持っている頭目の四馬剣尺(しばけんじゃく)は重傷の戸倉老人と会見することになった。
 戸倉老人は、車がついている椅子(いす)にしっかりゆわきつけられたまま、四馬頭目の待っている特別室へ運ばれこまれた。そのそばには机博士が、風に吹かれている電柱のようなかっこうで、つきそっていた。
 頭目は、ゆったりと椅子から立ちあがり、カーテンをおし分けて、戸倉老人の方へ歩みよった。
 彼の風体(ふうてい)は、異様であった。
 四馬剣尺は、六尺に近いほどの長身であった。そしてうんと肥(こ)えていたので、横綱にしてもはずかしくないほどの体格だった。彼はそのりっぱな身体を長い裾(すそ)を持った中国服に包んでいた。彼の両手は、長い袖(そで)の中にかくれて見えなかった。
 その中国服には、金色の大きな竜(りゅう)が、美しく刺繍(ししゅう)してあった。見るからに、頭が下るほどのすばらしい模様であった。
 四馬剣尺の顔は見えなかった。
 それは彼が、頭の上に大きな笠形の冠(かんむり)をかぶっていたからで、その冠のまわりのふちからは、黒い紗(しゃ)で作った三重の幕が下りていて、あごの先がほんのちょっぴり見えるだけで、顔はすっかり幕で隠れていた。
「おい、戸倉。今夜は早いところ、話をつけようじゃないか」頭目四馬は、おさえつけるような太い声で戸倉老人にいった。
 戸倉は、青い顔をして、椅子車(いすぐるま)の背に頭をもたせかけ、黙りこくっていた。死んでしまったのか、睡っているのか、彼の眼は、茶色の眼鏡の奥に隠れていて、あいているのか、ふさいでいるのか分らないから、判断のつけようがない。
「おい、返事をしないか。今夜は早く話をつけてやろうと、こっちは好意を示しているのに、返事をしないとは、けしからん」
 そういって四馬は、長い袖をのばすと、戸倉の肩をつかんで揺(ゆす)ぶろうとした。
「おっと待った、頭目」と、とつぜん停めた者がある。机博士であった。彼は、頭目の前へ進みでた。
「頭目。あんたから、わが輩(はい)が預っているこの怪我人は、奇蹟的(きせきてき)に生きているんですぞ。手荒なことをして、この老ぼれが急に死んでしまっても、わが輩は責任をおわんですぞ。一言おことわりしておく次第である」
 机博士は、俳優のように身ぶりも大げさに、戸倉老人が衰弱しきっていることを伝えた。
「ちかごろ君の手術の腕前もにぶったと見える」
「肺臓の半分はめちゃめちゃだった。それを切り取ってそのかわりに一時、人工肺臓を接続してある。当人が、自分の手で人工肺臓を外すと、たちまち死んでしまう。つまり自殺に成功するわけだ。だからこのとおり椅子にしばりつけてあるわけだ。当人があばれん坊だからしばりつけてあるわけではない。以上、責任者として御注意しておきます」
 と、机博士は手を振り足を動かし、ひびのはいったガラスのコップのような戸倉老人の健康状態を説明すると、うやうやしく頭目に一礼して、椅子車のうしろへ下った。
「博士。しかしこの老ぼれは、喋(しゃべ)れないわけじゃなかろう」
「ここへ担ぎこまれたときは、血のあぶくをごぼごぼ口からふきだして、お喋りは不可能だった。が、今手当をしたから、発声はできます。もっとも当人が喋る気にならないと喋らないでしょうが、それはわが輩の仕事の範囲ではない」
 戸倉老人に返事をさせるか、させないかは、頭目、あんたの腕次第だよ――と、いわないばかりだった。
「ふん」頭目は、つんと首をたてた。「わしは知りたいと思ったことを知るだけだ。相手が柿の木であろうと、人間であろうと、太陽であろうと、返事をさせないではおかぬ。それに、このごろわしは気が短くなって、相手がぐずぐずしていると、相手の口の中へ手をつっこんで、舌を動かして喋らせたくなるんだ。すこしらんぼうだが、気が短いんだからしようがない」
 机博士も木戸も、その他の幹部たちも、おたがいの顔を見合した。頭目がそんなことをいうときには頭目はきっとすごいことをやって、部下たちをびっくりさせるのが例だった。その前に、頭目は、しっかりとした計画をたてておく。それからそれに向ってぐんぐん進めるのだった。だから、成功しないことはなかった。らんぼう者のように見えながら、その実はどこまでも心をこまかく使い、抜け目のないことをする頭目だった。部下たちが、頭目に頭が上らないのも、そこに原因があった。
 はたして、その夜のできごとは、後日になって部下たちがたびたび思いださないではいられないほどの、重大な意味を持っていた。その重大なるできごとは、今、彼らの目の前でくりひろげられようとしているのだ。
「おい、戸倉。きさまの生命(いのち)を拾って、ここへ連れてきてやるまでには、三人の生命がぎせいになっているのだぞ。きさまを救うためにきさまを襲撃した二人連れのらんぼう者を撃(う)ち倒(たお)したのは、わしの部下だった。可哀(かわい)そうに自分も撃たれて生命を失った。死ぬ前に、彼は携帯用(けいたいよう)無電機でその場のことをくわしくわしのところへ報告してきた。報告が終ると彼は死んだのだ。いい部下を、きさまのために失ってしまった。わしは、きさまから十分な償いを受けたい」
「私だって、ひどめ目に[#「ひどめ目に」はママ]あっている。おたがいさまだ」
 戸倉老人が、はじめて口をきいた。軽蔑(けいべつ)をこめた語調(ごちょう)だ。
「ふん。なんとでもいうがいい」頭目四馬は軽くうけ流すと、一歩前進した。「そこでわしは取引を完了したい。おい、戸倉。きさまが持っている黄金(おうごん)の三日月(みかづき)を、こっちへ渡してしまえ」
 四馬がずばりと戸倉老人に叩(たた)きつけたことば! それはあの黄金メダルの片われを要求しているのだった。
「なにが欲しいんだか、私にはちんぷんかんぷんだ」
 老人は、いよいよ軽蔑をこめていう。
「こいつが、こいつが……。きさまが黄金の三日月を知らないことがあるか。きさまが持っていることは、ちゃんと種(たね)があがっているんだ。早く渡してしまった方が、とくだぞ」
「わしはそんなものは知らない。もちろん、持ってはいない。いくどきかれても、そういうほかない」
 戸倉老人の語調は、すこし乱れてきた。机博士はうしろで注射薬のアンプルを切る。
「知らないとはいわせない。では、これを見よ」
 四馬は、とつぜん右手で長い左の袖をまくりあげた。左の手首があらわれた。そのおや指とひとさし指との間に支えられて、ぴかりと光る小さな半月形(はんげつがた)のものがあった。例の黄金メダルの片われであった。しかしこれは春木少年が今持っているあの片われとは形がちがっていた。
 つまり、春木少年の持っているのは、片われにちがいないが、半分よりすこし大きく、メダルの中心から角をはかると、百八十度よりも二十度ばかり大きい。今、四馬が指の先につまんで見せたのは、半分より小さいもので扇形(おうぎがた)をしている。
 それを頭目は戸倉の前へつきつけた。
「どうだ。これが見えないか」
「あッそれだ。や、汝(なんじ)が持っていたのか。ちえッ」
 戸倉老人は、かん高い声で叫ぶと、手を延(の)ばそうとした。しかし手足は、椅子車に厳重にしばりつけられてあって、手を延ばすどころではない。彼は残念がって、かッと口をあくと、頭目のさしだしている黄金メダルを目がけて、かみついた。
「おっと、らんぼうしては困る。はっはっはっ」
 頭目は、あやういところで、手を引いた。
「はっはっはっ。これが欲しいんだな。きさまにくれてやらないでもないが、その前に、きさまが持っている他の半分をこっちへだせ。一週間あずかったら、両方とも、きれいにきさまに返してやる。どうだ、いい条件だろうが。うんといえ」
 このとき戸倉は、ぐったりとして、頭を椅子の背につけた。目をむいているのか、目をとじているのか、それは茶色の眼鏡にさえぎられて分らないが、彼の両肩がはげしく息をついているところを見ると、戸倉老人は今なんともいえない悪い気持になって苦しんでいるものと思われる。もちろん、彼は頭目の話しかけに、一度もこたえない。
「黙っていては、わからんじゃないか。わしは早い取引を希望しているのだ。おい、戸倉。きさまが黄金三日月をかくしている場所をわしが知らないとでも思うのかい」
 それを聞いて戸倉老人は、ぎょっと身体をかたくした。
「ははは。今さらあわててもだめだ。わしは気が短い。欲しいものは、さっそく手に入れる。まず、これから外(はず)して……」
 四馬の手が、つと延びた。と思うと、戸倉老人がかけていた茶色の眼鏡が、頭目の手の中にあった。眼鏡をもぎとられた老人の蒼白(そうはく)な顔。両眼は、かたくとじ、唇がわなわなとふるえている。
「ふふふ。きさまがおとなしくしていれば、わしは乱暴をはたらくつもりはない。そこでわしが用のあるのは、きさまが目の穴に入れてある義眼(ぎがん)だ。それを渡してもらおう」
「許さぬ。そんなことは許さぬ。悪魔め」
 老人は大あばれにあばれたいらしいが、手足のいましめは、ぎゅっとおさえつける。
 四馬はそれを冷やかに見下して、
「ええと、きさまの義眼はたしか右の方だったな。おい、みんなきて、戸倉の頭を、椅子の背におしつけていろ」
 木戸や波や、その他の部下が戸倉にとびついて、頭目が命じたとおり、椅子の背におしつけた。戸倉の鳥打帽子がぬげかかった。四馬はその前に進みよって、右手を延ばすと、戸倉の右眼を襲った。


   エックス線のかげ


 頭目の手には、戸倉の義眼(ぎがん)がのっている。
「ふん。これが黄金の三日月の容器(いれもの)とは、考えやがったな。しかしこうなれば、お気の毒さまだ。ありがたく頂戴(ちょうだい)してしまおう。いやまだお礼をいうのは早い。この中から三日月さまをださなくては……」
 頭目は、義眼を両手の指先で支えて、くるくるとひっくりかえしてみた。しかし、義眼のどこをどうすれば開くのか、見当がつかなかった。その開き方は、某人物(ぼうじんぶつ)より一応きいておいたのであるが、どこをききまちがえたか、彼の記憶にあるとおりに、義眼の上下を持って左右にねじってみても、さっぱりあかないのだった。
(ふーン、こいつはまずい)と、頭目は心の中で舌打ちをした。だが、それを今顔色にあらわすことは戸倉に対しても、また部下に対してもおもしろくない。
 が、問題は、それですむものではなかった。早くこれを開いてみる必要があった。
「おい木戸。大きな金槌(かなづち)を持ってこい。急いで持ってこい」
 と、頭目は命令した。
「はい」と返事をして木戸が引込んでから、再び彼がこの部屋にあらわれるまで、ちょっと時間があった。一座は、ここでほっと一息いれた。
 机博士は、戸倉老人の腕に、強心剤(きょうしんざい)の注射を終えると、自分の指先をアルコールのついた脱脂綿で拭(ぬぐ)って、それからぎゅッとくびを延ばして背のびした。
「ねえ、頭目。もう一回、今みたいな手あらなことをなさると、わが輩(はい)はこの人物の生命について責任をおいませんぜ。これで二度目の警告です」
 と、机博士は、しずかにいい放った。これに対して頭目はだまりこくっていた。博士は、肩をすぼめた。
 そこへ木戸がもどってきた。頭の大きな金槌を頭目に渡す。
「これでいいんですかね」
「うん」
 頭目は、卓子(テーブル)の上に義眼をおいた。そして金槌を握った右手をふりかぶって、義眼の上に打ち下ろそうとした。
「頭目。ちょっと待った」
 と、声をかけた者がある。机博士だった。
 頭目はいやな顔をして、博士の方へ首を向けた。
「頭目。金槌で義眼をうち割って、中のものを見ようというんでしょう。しかしそれはまずいなあ。かんじんのものに傷がつくおそれがある」
「じゃあ、どうしたらいいというんだ」
「その黄金三日月とやらは、もちろん、金属でしょう。義眼は樹脂(プラスティック)だ。それならば、その義眼を、ここにあるX(エックス)線装置でもって透視(とうし)すれば、いともかんたんに問題は解決する。なぜといって、X線は、樹脂をらくに透すが、黄金は透さない。だから、中にある黄金三日月が、かげになって、ありありと蛍光板(けいこうばん)の上にあらわれる。どうです。いい方法でしょうがな」
 と、机博士はうしろから携帯用X線装置を持ちだしてきて、頭目の前の卓子の上においた。この装置は、さっき戸倉の胸部(きょうぶ)の骨折(こっせつ)を調べるために使ったものであった。
「これは名案だ。じゃあこれにX線をかけて見せてくれ」
 と、頭目は、あんがいすなおに頼んだ。
「よろしゅうござる」
 博士はそういって、装置からでている長いコードの先のプラグを、電源コンセントにさしこんだ。それからぱちンとスイッチをひねって、目盛盤を調整した。すると光線蔽(おお)いのある三十センチ平方ばかりの四角い幕を美しい蛍光が照らした。この蛍光幕とX線管との間に、博士は手を入れた。すると蛍光幕(けいこうまく)に骸骨(がいこつ)の手首がうつった。博士の手だった。
「さあ用意はよろしい。ここへ義眼をさし入れる。そしてこっちから蛍光幕をのぞくと見えます」
 と、博士は身体を横にひらいて頭目をさしまねいた。
 頭目は、X線装置の前へ進んで、博士からいわれたとおりにした。蛍光幕へ戸倉の義眼のりんかくがうつった。うつったのはその義眼ばかりではない。頭目の右の手首がうつった。どの指かにはめている、幅のひろい指環(ゆびわ)もうつった。
「あッ」頭目は低くさけんで、手を引きあげた。しばらくすると、また義眼をつかんだ手がうつった。その指には、指環がはまっていなかった。頭目は、すばやく左手に持ちかえたのである。
「どうです。見えますか」と、机博士がきいた。
「三日月の形をしたものは見えない」
 頭目が、X線の中で義眼をぐるぐるまわしてみるが、義眼はすっかりすきとおっていて、金メダルの黒いかげはない。
「ああ、その中には、金属片(きんぞくへん)がはいっていないのです」
 と、机博士が横からのぞいてみて、そういった。
「しかし、そんなはずはないんだ」
 頭目は、怒ったような声でいって、手をX線装置からだすと、義眼を卓上においた。
 がーンと、大きな音がして、義眼が金槌で叩きつぶされた。頭目が、かんしゃくをおこして、やっつけたのである。X線装置が検出した結果を信じなかったのだ。破片があたりにとび散った。まわりにいた者は、あッと叫んで、口をおさえた。
 が、その結果は、義眼の中には、なにも隠されていないということが分っただけである。
「ううーむ」と、頭目は呻(うな)った。
 しばらく誰も黙っていた。嵐の前のしずけさだ。
 と、とつぜん頭目が肩をいからして吠(ほ)え立てた。
「やい、戸倉。どこへ隠したのか、黄金メダルの片割(かたわ)れを!」
「わしは知らぬ。いや、たとえ知っておったとしても、お前のようならんぼう者には死んでも話さぬ」
 戸倉老人は、のこる一眼を大きくむいて、四馬をにらみつけた。
「わしが知りたいと思ったことは、かならず知ってみせる。そうか。きさまの義眼というのは、もう一方の眼なんだな」
 というと、頭目は、又もや戸倉にとびかかった。そして彼の指は戸倉の左の眼を襲った。


   猫女(ねこおんな)


「あ、あぶない。待った」
 叫んだのは机博士だ。あぶないと、大きな声。そしてやにわに、頭目の手首をつかんで引きとめた。
「なぜ、とめる?」
「お待ちなさい。戸倉の残る一眼は義眼ではないです。ほんものの眼ですよ。抜き取ろうたって、取れるものですか。やれば、器量をさげるだけですよ。頭目、あんたが器量を下げるのですよ」
 そういわれても、頭目は戸倉老人の頭髪をつかまえて、放そうとはしなかった。
「頭目、よく見てごらんなさい。ほんものの眼だということは、目玉をよく見れば分りますよ。瞳孔(どうこう)も動くし、血管(けっかん)も走っている」
 そういって机は、携帯電灯を戸倉の眼の近くへさしつけた。
 頭目は、戸倉の眼の近くへ顔を持っていった。そしてよく見た。なんどもよく見た。どうやら、こっちは、ほんものの目玉らしい。
 そのときだった。頭目の注意力が、急に戸倉の目玉から放れた。彼は、自分の顔へ、下の方から光があたっているように思ったのである。そのとおりだった。机博士が手にもっている携帯電灯の光の一部が、偶然か、それとも故意か、頭目の顔を蔽(おお)う三重の紗(しゃ)のきれの下からはいってきて、彼の顔を下から照しているのである。
(あッ)
「無礼者(ぶれいもの)!」と頭目が叫ぶのと、机博士の手から携帯電灯が叩(たた)きおとされるのと、同時であった。
 博士は、手をおさえて、うしろへ身をひいた。彼の手から血がぽたりと床に落ちた。
「やあ君の手だったか。それは気がつかなかった。がまんしてくれたまえ」
 頭目が、すぐ遺憾(いかん)の意をあらわしたので、一度に殺気立(さっきだ)ったこの場の空気が、急にやわらいだ。
「おい戸倉。きさまが、しぶといから、こんな悶着(もんちゃく)が起る。早く隠し場所をいってしまえ。この黄金(おうごん)メダルの半分の方はどこに隠して持っている」
 頭目は、どこかにしまっていた黄金メダルの半分を再び左の指でつまんで、戸倉の方へさしつけた。戸倉は、頭目をにらみつけたまま、口を一文字(いちもんじ)につぐんでいる。
「早くいうんだ。早くいえ」そのときだった。
 とつぜん、この部屋のあかりが、一度に消え失せた。鼻をつままれても分らないほどの闇が、一同を包んだ。
 あッと叫ぼうとした折(おり)しも、
「動くと、撃つよ。動くな。あかりをつけると撃つよ。あかりをつけるな」
 と、かん高い女の声が、部屋の一隅から聞えた。
 女は、この部屋にはいなかったはず。みんなはふしぎに思った。女の声は、一同が集っているところの反対側で、頭目の立っていた後方のようである。
「何者だ。名をなのれ」頭目の声が闇の中をつらぬいた。
「よけいな口をきくな。わたしゃ暗闇の中で目がみえるんだから、撃とうと思えば、お前さんの心臓のま上だって、撃ちぬいてみせるよ。わたしゃ――」
 と女が、えらそうなことをいっているとき、部下が固まっているところで、誰かが携帯電灯をぱっとつけた。
 と、間髪(かんぱつ)をいれず、轟然(ごうぜん)と銃声一発。
 携帯電灯は粉微塵(こなみじん)になってとび散った。
「うーむ」どたりと人の倒れる音。
「誰でも、このとおりだよ。わたしのいうことをきかなければ……」
 たしかに、彼女がやった早業(はやわざ)にちがいない。それにしてもその怪しき女は、どこから、この部屋にしのびよったものか。ふしぎというより外ない。電灯が消えると同時に女の声がしたようである。
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