浮浪漫語
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著者名:辻潤 

浮浪漫語辻潤●本文中、底本のルビは「(ルビ)」の形式で処理した。●本文中、[※1〜5]は底本からの変更部分に関する入力者注を表す。注はファイルの末尾に置いた。 自分はなによりもまず無精者だ。面倒くさがりやである。常に「無為無作」を夢みている。従ってこれまで自分で進んで自分を表現(文字をかりて)しようとしたことは殆どないといってもいい。まったく今の世の生活には不適当に出来あがっている人間であることを泌々と感じさせられる。よしまた自分を表現しようという欲望が偶々起って来たところで、それは到底、今の社会制度の下では許されそうもないことばかりだ。つまり、今の世の中、少なくとも自分の生活している世の中には言論の自由がないようだ。そう思うと、自分はスグと厭気がさしてくる。それに無理にもそれをシャベらなければならないという程のパッションが起って来ないから、そのまま抑え付けて黙ってしまったことになる。同じ人間でありながら、御相互に思っていることを充分いうことさえ出来ないとはなんという窮屈な世の中だろう。近頃ではあまりいわれないようだが、しとしきり[#「しとしきり」に傍点]「危険思想」という言葉が大分流行した。自分には今もってその言葉のわけがよく呑み込めないでいる。そして、自分の低能を自ら憐れんでいる。 僕は時々出来るなら、国籍をぬいてもらいたいものだと思うことがある。つまり、何処の国の人間にもなりたくないのだ。自分以外になん等のオーソリティなしに暮らしたいのだ。色々な責任から脱却したいのだ――随分、虫の好い考えかも知れない。まずそれが出来るのは乞食か浮浪人になるより仕方がないらしい。だが、聴くところによると、乞食にも色々な集団があって、繩張を争うようなことがあるそうだ。こうなると、無人島へでも一人で移住するより仕方がなくなるかも知れない。そして無人島で「無為無作」を続けることになると、その当然の結果として、餓死してしまうだろう。 だから、自分の生活は俗にいう不徹底極まりない生活である。しかし、考えると所謂徹底ということにどれ程の価値があるかそれさえ自分にはわからない程、自分はグラグラしているのだ。まことにフヤケたダラシのない生き方である。意気地なしの骨頂である。僕のような代物が若し今の労農露西亜に生まれていたとするなら、とうに打ち殺されているにちがいない。それを思うと現代のありがた味をつくずくと眼の醒めたように感じさせられるのである。そして、少しばかり自分の想っていることのいえない位は我慢しなければならないという殊勝な心持にもさせられるのである。 無目的にまったく漂々乎として歩いていると自分がいつの間にか風や水や草や、その他の自然の物象と同化して自分の存在がともすれば怪しくなって来ることはさして珍しいことではない。自分の存在が怪しくなってくる位だから、世間や社会の存在はそれ以前に何処かへ消し飛んでいる。そんな時に、どうかすると「浮浪人の法悦」というようなものを感じさせられる。が、その時は無論、そんなことさえ全然無我夢中である。こうやって、原稿紙という紙の上になにか書きつけようとする時に、やっとその時の心持を思い浮かべて、そんな言葉ででもその時の心持を表わしたらと考えるに過ぎない。 物を書こうという気の起る時には、もう既に自分は甚だしい束縛の囚人である。少なくともそういう意識の下で自分は物を書くのである。だから、書いたり、饒舌(しゃべ)ったりした後ではキット余計な無駄なことをしたように感じる時が多いのだ。従って自分の霊魂はあまり物を書くことを欲してはいないのらしい。それにも拘らず、自分はこれまでに、またこれからも幾度となく物を書くという動作をやるだろう。 浮浪の衝動は静止の不安から起ってくるらしい。その癖、あまり自動的ではない自分がとに角、腰を落ちつけていられなくなるところを見ると、その不安はよほど自分にとって恐ろしいものに相違ない。尤も空想や幻想が頭の中に簇(むら)がり起っている場合、若しくは強烈な官能の悦楽に耽っている場合などはそれを忘れてはいるが、まったくそれ等のものを奪われるか、失うかしてしまった時の自分は必ず激しい焦躁と倦怠とに苛まれて、何処かに動き出さずにはいられなくなるのである。そんな時、忽然として目の前に蜃気楼か、キネマでも現われてくれたなら一時的に救われるようなことにならないとも限らない。だがそんな註文の不可能なことはわかりきッた話である。 金があって道楽に名所旧蹟でも見物して歩くなどという旅行とはまるで雲泥の差である。ただ滅茶苦茶に眼先が変わりさえすればいい。だから歩く処は全然見ず知らずの土地に限る。都会の中でもかまわない。一度も歩いたことのない町や路地を、ウロウロしてさえ一寸フレッシュな気持にさせられる時がある。疲(くた)びれたら休む、腹が空いたら食う、まったくの行き当りバッタリでなければ浮浪の法悦は味わえない。いわば、「身軽片片溪雲影。心朗瑩瑩山月光。馬麥因縁支命足」というような境地にならなければ駄目らしい。そして、更に「大千沙界一筒自由身」になり「無底併呑尽十方」になれば申し分がないのであろう。 「酔生夢死」という言葉がある。僕はこの言葉が大好きである。願わくば刻々念々を酔生夢死の境地をもって始終したい。又「浮遊不知所求。猖狂不知所往」の如きは自分のようなボヘエムにとっては繰り返せば繰り返す程、懐かしみの増して来る言葉である。「酔生夢死」は自分のようなヤクザ者には至極嬉しい言葉である。ところが、実際、却々[※1]それが出来かねるのである。人生そのものに酔っていられるなら、なにもわざわざ酒や阿片の御厄介にならなくてもすみそうなものだ、夢死が出来れば。死の恐怖に襲われる憂いもあるまい。ボオドレエルの詩に「いつでも酔払っていろ。その他のことはどうだっていい、これこそ唯一の問題だ」というのがある。自分はそれを読んだ時に、彼も亦「酔生夢死」の讃美者だなと独りできめたことだ。そして、本人はそれが思うように出来なかった苦しまぎれにあんな詩を作ったにちがいない。たとえ日常生活そのもの、つまり働くことに酔えないまでも、せめて異性になり、酒になり、なんになり、夢中に酔払うことになったら、さぞや幸福なことであろう。僕の周囲には社会運動に酔払っている元気のいい人達が沢山にいる。たとえ必要に迫られて「止むに止まれない」心持からでも、そういう運動に酔うことの出来る人は羨望に価すると思う。更に「大本教」なぞに酔うことが出来たら、益々幸福だろうと思う。 「酔生夢死」は屡々軽侮の意をもって僕のようなヤクザ者の形容詞に用いられてきた。「国に奉仕し」「社会に貢献し」「人類の愛に目ざめ」「意義ある生活を送り」(等)――というような言葉の正反対が、どうやら「酔生夢死」にあたるらしい。 少なくとも、自分はこの世の中に自分の意志で生まれでた[※2]のではないらしい。いくら考えて見てもそうは思われない。しかし、又父母の意志によって生まれてきたものとも思われない。父母は子供を欲しいと思ったかも知れない。しかし、生むにしても自分のようなヤクザ者をわざわざ生みつけようとは思わなかったにちがいない。仏教の説くように、因縁ずくで諦めがつけば世話はないが、僕のような低能児には、そんなことでは却々[※3]あきらめがつきそうもない。生まれてくると、いつの間にか前から連続している世の中の色々な種々相や約束を押し付けられて、否でも応でもその中で生きることを余儀なくせしめられる。自分の意志や判断が、ハッキリ付かない中にいつの間にか、他人の意志を意志として、他人の生活を生活するようにさせられてしまっている。そして、親達は「誰のお蔭で大きくなったのだと思う」といって、恩をきせ、国家はさも、国家のお蔭でお前を教育してやった、知識を授けてやったというような顔をして恩にきせる。なる程、自分が今迄生きてこられたのは、少なくとも自分のような蒲柳の質の生活力の弱いヤクザ人間が生きておられたのはまったく自分以外の人々のお蔭だということは一応わかりはするが、僕は別段、これを自分の意志からお願いした覚えは毛頭ないのである。つまりよってたかって自分を今のような自分に作りあげてくれたまでである。僕は寧ろそれをありがた迷惑だと思い、大きな御世話だと思ったところで、別段、なんの差支えもなさそうである。まして「酔生夢死」を望むような心持にさせたのは全体、何人の仕業なのであろうか? 考えてみるとなんとなくわけがわからなくなってしまうのである。 考えると自分にはこの世の何処を見廻しても安住の場所というものが見当らない――第一これこそ自分の物だとハッキリいえそうなものは一ツもない。強いて理屈をつければ自分の霊魂と自分の身体位なものだと思えるが、それも両親から受け継いだのだと思うとその所有権を父母に主張されても、あまり威張ってそれに反対も出来そうではない。そして自分のこれまでの生長してきた現在の存在を考えて、自分以外の自然や人力に助けられていることがどれ程多いものであるかという風に考えてくると、まったく自分は無一物で他人から自分の所有権を主張されてもそれに対して立派な反対をすることは覚束ない。なんという惨めな存在なのだろう!――と考える度毎に自分はつくづくなさけなくなって来る。 空気と太陽の光線とはどうやら文句もいわれずに黙って頂戴が出来るが、――その他の物でなに一ツ自分の物らしいものは一ツだってありはしない。毎日歩いている地面も人のものであり、雨露を凌ぐ家も勿論、人の物、知識も借り物、衣物も他人の拵えた物――まるで自分の存在は自然や他人の恩恵の真中で辛うじて保たれているとしか思われない。けれど、かほどにまで周囲の恩恵を蒙むッている自分は果して幸福なのであろうか?――ところで、少しも幸福ではないのは何故であろう。一切が他人の恩恵から来る幸福で、決して自分が真に自分から要求して、獲得した幸福ではないからだ。なぜ土地は人の物で自分のものではないか? なぜ家は人の物で自分のものではないのか?――持てる人と持たざる自分とは人として果してどれ程の相異があるのか? なぜ他人が所有権を持って、自分にはそれがないのか――こんなことを漠然と考えてくると、僕はいい知れぬ不安に襲われて、又今更のように、この世に自分の安住の場所のないことを泌々と感じさせられるのである。それはお前に金というものがないからだ、と教えてくれる人がある。金はどうして得られるのか?――と訊ねると、それは働くことによって得られるといわれる。しかし、単に働くことによって、人は果してどれ程の金を獲ることが出来るであろうか?――そして働かないでは、どうして金を獲ることが出来ないであろうか?――働くとは抑々どういうことなのか?―― 自分は考えると頭が混沌として来るので、いつでもそれを有耶無耶に葬ってしまう――そして所定めず目的なしにフラフラと歩き出す――歩いている間、動いている間はいつの間にか甚だ呑気になって、目前の周囲の移り変わりに心を惹きつけられ、気をとられて一切を忘却してしまうのである。そして、人間の姿の一人もいない広々とした野原などを青空と太陽と白雲と山と林と草と樹と水などにとりかこまれて、悠々と歩いていると、それ等の物象がいつの間にか悉く自分の物であるかのような気がしてきて、聊か自分の心が気強くなり、落ちつきを得たように思うのである。つまり先にもいった通り、それ等の物象と同化して、自他の区別がつかなくなるところから、一切が自分の物であるかのようなイリュウジョンを起すことになるのであろうか? 近頃、僕は自分の求めている幸福という物の正体が稍々ほんとう[#「ほんとう」に傍点]にわかってきた様な気がしている。それはなにか? 真理を体得するというようなことか? 自由に生きるということか? 芸術に生きるということか? 巨万の富を得て、物質的に充足した生活をすることか? 知識を出来るだけ多く獲得するということか? 小説でも書いて有名になるということか? 社会運動に従事して、献身的に働くことが出来るということか?――なる程、それ等の慾望もそれぞれに容易に充たされることが出来、それに生き得られたら相応に自分は幸福を感じることが出来るであろう。しかし、自分の真に求めている幸福はそれ等の物が束になって来ても決して充たされないのである。それならばなにか? 一人の女性の全部の愛である。そして、自分もその一人の女性を自分の全部をあげて愛することである。それが出来さえしたら、その他の慾望はなに一ツ充たされないでも、自分は幸福に生き得られると思う。この考えをある友達に打ち明けたらそれは世の中で一番贅沢な要求だそうである。しかし、僕はそのゼイタク[#「ゼイタク」に傍点]を望むのである。それさえ出来れば僕は立ち所[※4]に幸福人になり得ると思う。それが満たされない限り、如何にその他の慾望が満たされても、それは決して自分を満足させることは出来ないと思う。僕はかかる異性を求めて、的のない流浪を続けようと思う。 僕は省みて自分がなに一ツ持たない人間だということを痛切に感じる。名誉も地位も財産も、知識も腕力も美貌も技能もなんにもない男だ――それでもせめて年でも若いなら、未だしも最早不惑の年に手が届きそうになっている。それにも拘らず尚一ツ、若く美しくやさしい女性の愛を(しかも全部の)要求しているのだ。――なる程、無理かも知れない、出来ない相談かも知れない。しかし、僕はそういう女性を見出す迄は頭髪が悉く白くなり、顔面が皺苦茶になり、身体が痩せさらばえるまで、この地上を七転八倒しながら、呻吟(うめ)き苦しみながら、のた[#「のた」に傍点]打ちまわって浮浪しようと思う――恐らく、そのような女性の片鱗をさえ仰ぐことが出来ずに何処かの野末か陋巷に野垂死をすることになるだろう――そうなったら、それまでの話である。死んでから先のことは今から考えても追付かない。 若しそんな女性を発見し得たなら、どんな苛酷な所謂資本主義制度の中ででも、どんな残酷な国家制度? の下でも、どんな不自由な、窮屈な目に遇わされてでも自分はそれ等の一切を耐え忍んで幸福に生き得られると思う。或は自分達の愛の生活が充ち溢れて、まるでそんなことを意識することさえ不可能になるかも知れない。そんなことを考える余裕さえなくなるかも知れない。それが出来ない間は、いくら此の世にユウトピヤが実現されても、真の幸福を感じることは出来ないであろう。三分や四分や五分や六分や七分や、八分や九分の愛では、決して自分は満足することは出来ない。考えると自分という人間は自分の身分不相応な、なんという慾深い人間なのだろう――つまり、この地上では永久に出来そうもない、[※5]不可能な要求を勝手にしながら、そのために強いて自分を苦しめ苛んでいる不幸な妄想者といわれても、自分はそれに対して弁明することは出来そうもないのである。いっそ[#「いっそ」に傍点]真実の狂人になって世界中の女が悉く僕にその全部の愛を濺(そそ)いで生きているのだというような妄想を持ち得たら、自分はどれ程幸福になることが出来るだろう。――こんな空想をするだけでも、自分はなんとなく自分が少々それに接近しかけているのではないかとも考えられるのである。 それさえ出来たら、自分はどうやら世界中の人類を悉く愛し得られるように思う。又、如何なる労作も少しも苦痛でなく、喜んでなし得られるような気がする。一切の物が悉く他人の所有でも、決してそれを羨望するようなこともなくなることと思う。唯だ自分の生活がその女性を愛し、彼女から愛されることをもって始終するのである。それが生活意識の中心になる、アルハになり、オメガになり、神になり、仏になり、天国になり、芸術になり――一切になり切るのである。 つまり、自分の生活はその妄想の充たされない苦しまぎれの生活なのだと思う。酒に溺れ、音楽に慰めを求め、女を買い、知識の世界に遊ぼうとするのは悉くその慾求の変形なのである。そして遂にそれ等の一切は自分の真の慾望を充たしてはくれないのである。しかし僕は絶望はしたくない。その無理な慾求を背負いながら、闇黒な流浪の旅を続けるだけである。そして前にもいったように、精根が尽き果てたら死ぬだけの話である。なんというわがまま[#「わがまま」に傍点]な惨澹たる生活だろう。しかし、その妄想の執着が存する限り僕は生きる力がその執着から湧き出してくることと信じている。 この妄想こそ僕の唯一のイリュウジョンである。それ以外の人生の一切は僕に激しい幻滅を与えないでは置かないのである。たとえ一切は虚無でもかまわない。僕はこの妄想に取り縋って生きて行こうと思う。稀代の色狂人と嗤う人は嗤い給え! 自分の自我は今、その妄想で恐ろしく燃焼している。自分の自我はその妄想を食って生きている。僕はこの妄想に不断の燃料を加えて、愈々益々それを白熱化し絶えず溶岩を虚空に向かって奔出させる物凄いヴォルカノの姿にしてみたいと思っている。 書いている間に「浮浪人の法悦」などはいつの間にか姿を失って、どうやら「色狂人の法悦」になってしまったようである。そして指定の枚数も尽きたようである。筆による自己表現の慾望が近頃萌しかけていることはまず自分としてはいい傾向だと思う。自分はまた更に題でも改めて色々な問題に向かって、自分独自な考えを発表したいと思っている。この漫語は一まずこれで切りあげよう。 (一九二一年五月二十九日)※1=底本「劫々」。『選集』で「なかなか」となって居るのに合せて訂正。※2=底本「生まれてた」を「生まれでた」に訂正。※3=底本「劫々」。『選集』で「なかなか」となって居るのに合せて訂正。※4=底本「立所」。読みにくいので『選集』により訂正。※5=底本「。」を「、」に訂正。底本:「辻潤著作集3 浮浪漫語」オリオン出版社   1970(昭和45)年3月30日初版発行※表現のおかしい箇所は、「辻潤選集 玉川新明編」五月書房、1981(昭和56)年10月11日初版を参照して訂正した。入力:et.vi.of nothing校正:et.vi.of nothingファイル作成:et.vi.of nothing1999年1月24日公開1999年9月6日修正青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです
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