幼き日
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著者名:島崎藤村 

        一

 私の子供が初めて小學校へ通ふやうに成つた其翌日から、私は斯の手紙を書き始めます。昨日の朝、吾家では子供の爲に赤の御飯を祝ひました。輝く燈火の影に夜更しすることの多い都會の生活の中でも、子供ばかりは夜も早く寢、朝も早く起きますから、弟の方も兄と一緒に早く床を離れました。兄は八歳(やつつ)、弟は六歳(むつつ)に成ります。お人好しの兄に比べると弟はなか/\きかない氣で、玩具でも何でも同じ物が二つなければ承知しないといふ風です。ところが其朝に限つて、兄の方には新しい鞄や、帽子や、其他學校用のものが買つて宛行(あてが)はれてあるに引きかへ、弟のためには子供持の雨傘と、麻裏草履としか有りません。弟は地團駄(ぢだんだ)踏んで、ぐづり始めました。兄と一緒に朝の膳に對つても、兄が晴々しい顏附で赤の御飯をやつて居る側で、弟は元氣もなく、不平らしく萎れて、不承々々に箸を執り始めました。そのうちに不圖(ふと)思ひ附いたやうに、食事中自分の膳を離れて、例の新しい雨傘を取りに立つて行きました。それを大事さうに自分の膳の側に置いて、それから復た食ひ始めました。家のものが皆な可哀さうに思つて笑ふと、弟は自分の爲たことを嘲り笑はれたと思つたかして、やがてその雨傘を元の場所へ仕舞に行つて、今度は好きな御馳走も食はずに泣き續けました。
 學校までは二三町あります。そこへ通ふ子供は馬車や自轉車などのはげしく通る廣い道路を越して、町を折れ曲つて行くのです。昨日の朝は家のものが一人隨(つ)いて、近所の子供や親達と一緒に學校へ行きました。今朝は送りにだけ行つて、試みに獨りで歸らせることにしました。
『兄さんは最早(もう)解つたやうな顏をして居ました。獨りで歸つて被入(いら)つしやいツて言ひましたら、ウンなんて――』
 隨いて行つた娘は斯樣(こん)なことを言つて學校の方に居る子供の噂さで持切つて居ました。昨日學校の教場で家のものの姿が見えなく成つたと言つて泣いたといふ話などもして笑ひました。
 斯の兄の方の子供は、性來弱々しく、幾度か醫者の手を煩はした程で、今日のやうに壯健(ぢやうぶ)らしく成らうとは思ひもよりませんでした。皆なの丹精一つで漸く學校へ通ふまでに漕附けたのです。それを思ふと斯兒は朝晩保護の役目を引受けて呉れた親類の姉さん達や下婢(をんな)に餘程(よつぽど)御禮を言はねば成りません。學校の終る頃には、家のものは皆な言ひ合せたやうに門口に出て、獨りで歸つて來る子供を待受けました。
『ア、兄さんが歸つて來た、歸つて來た。』と一人が言ふと、近所の人も往來に出て眺めて、
『まるで、鞄が歩いて來るやうだ。』と申しました。
 學校歸りの子供は鞄を肩に掛け、草履袋を手に提げ、新しい帽子の徽章を光らせながら、半ば夢のやうに家の内へ馳込(かけこ)みました。
 地方に居て絶えず私や私の子供のために心配して居て下さる貴女に、私は斯のことを書き送りたいと思ひます。貴女が着物を作つて送つて下すつたりした一番年少(した)の女の兒も、今では漁村の乳母の家で、どうにか斯うにか歩行の出來るまでに成人したことを申上げたいと思ひます。
 貴女もやがて二人の子の親とか。左樣(さう)言へば、四五日前に私はめづらしい蜜蜂が斯の町中の軒先へ飛んで來たのを見かけました。あの黒い、背だけ黄色な、大きな蜂の姿を斯ういふ花の少い場所で見かけるとは實にめづらしいことです。それを見るにつけても、貴女が今住む地方の都會の空氣や、貴女がお母さんの家の方の白壁、石垣、林檎畠や、それから私が自分の少年の時を送つた山の中の日あたりなどを想ひ起させます。人の幼少な頃――貴女は自分の子供等を見て、その爲すさまを眺めて、それを身に思ひ比べた時、奈樣(どん)な感じを起しますか。すくなくも私達の眼前(めのまへ)に、それが幼稚な形にもせよ、既に種々雜多なことが繰返されて居るでは有りませんか。
 私達が子供の時分、相手にするものは多く婦人です。私達は女の手から手へと渡されたのです。それを私は今、貴女に書き送らうと思ひ立ちました。斯の手紙は主に少年の眼に映じた婦人のことを書かうと思ふのですから。

        二

 私の側に今居る兄弟の子供が八歳と六歳になることは貴女に申上げました。彼等幼少(をさな)いものを眼前(めのまへ)に見る度に、自分等の少年の時と同じやうなことが矢張この子供等にも起りつゝあるだらうか。丁度自分等も斯樣な風であつたらうか。左樣思つて私は獨りで微笑むことが有ります。
 私が今住む場所は町の中ですから、夕方になると近所の子供が狹い往來に集ります。路地々々の子供まで飛出して來て馳け□る。時には肴屋の亭主が煩(うるさ)がつて往來へ水を撒いて歩いても、そんなことでは納まらない程の騷ぎを始める。吾家(うち)の子供も一緒に成つて日の暮れるのも知らずに遊び□ります。夕飯に呼び込まれる頃は、家の内は薄暗い。屋外(そと)から入つて來た弟の方は燈火(あかり)の下に立つて、
『もう晩かい。』
 と尋ねるのが癖です。
 早く夕飯の濟んだ黄昏時(たそがれどき)のことでした。私は二人の子供を連れて町の方へ歩きに行つたことが有りました。夕空に飛びかふ小さい黒い影を見て、あれは何かと兄の方が尋ねますから、蝙蝠(かうもり)だと教へますと、子供等はめづらしさうに眼を見張りました、瓦斯(ガス)や電燈の點いた町の空に不恰好な翼をひろげたものの方を眺めて居りました。斯の子供等の眼に映るやうな都會の賑やかな灯――左樣いふ類(たぐひ)の光輝(かゞやき)は私の幼少(ちひさ)い頃には全く知らないものでした。夕方と言へば、私は遠い山の彼方に燃えるチラ/\した幽(かす)かな不思議な火などを望みました。それは狐火だといふことでした。夜鷹と言つて、夕方から飛出す鴉ほどの大きさの醜い鳥が、よく私達の頭の上を飛び□りました。それが私の子供の時を送つた故郷の方の空でした。
 私は自分の少年時代のことを御話する序(ついで)に、眼前(めのまへ)に居る子供等のことも貴方に書き送らうと思ひます。私達が忘れて居て、平素(ふだん)思出したことも無いやうなことまで胸に浮ばせるのは、この子供等です。遠く過去つた記憶を辿つて見ると、私達の世界は朦朧としたもので、五歳(いつつ)の時には斯ういふことが有つた、六歳(むつつ)の時には彼樣(あゝ)いふことが有つた、とは言へないやうな氣もします。種々な相違した時のことが雜然(ごちや/\)一緒に成つて浮び揚つて來ます。そのくせ、極く小さな事で、忘れないで居るやうなことは、それが昨日あつたと言ふよりはつい今日あつたことのやうに、明瞭(はつきり)と、しかも微細な點まで、實に活々と感ぜられるのですが……
 ある日の夕方も、私は弟の方の子供の手を引きながら散歩に出掛けました。斯の兒はナカ/\理窟屋で、子供のやうな顏附をして居ないといふところから、家に居る姉さん達から『こどな』といふ綽名(あだな)を頂戴して居ます。大人と子供の混血兒(あひのこ)といふ意味です。種々な問を起したがる年頃で、それは何處から覺えて來るともなく、『隨分滑稽だ』とか、『一體全體、譯は何だい』とか、柄にも無いやうな口眞似をしては皆なを笑はせる。往來を歩いて居ても、直に物が眼につくといふ風です。
『ア、一本の脚の人が彼樣(あん)なところを歩いてら。』
 と二本の杖に身を支へながら行く人の後姿を見つけて、それを私に指して見せました。
 電車通りの向側には、よく玩具を買ひに行く店があります。子供はその店の方へ行けと言つて、駄々をこねて聞入れませんから、私も持餘して、
『買つて、買つてツて……買つてばかり居るぢやないか。そんなに父さんは金錢(おあし)がありやしないよ。』
 漸くのことで子供を言ひ賺(すか)しまして、それから橋の畔(たもと)の方へ連れて行きました。そこに煙草と菓子とを賣る小さな店があります。小さな硝子張(ガラスばり)の箱に鯛などの形した干菓子の入つたのが有りましたから、それを二箱買つて、一つを子供の手に握らせると、それで機嫌が直つて、私の行く方へ隨いて來ました。軟かな五月の空氣の中で、しばらく私は町の角に佇立(たゝず)んで、暮れ行く空を眺めて居りました。
『父さん、何してるの――あの電燈(でんき)を勘定してるの。』
『アヽ。』
『そんなこと、ツマラないや。』
 子供に引張られて、復た私は歩き□りました。
『最早(もう)御飯だ。早くお家へ歸らう。』
 と言つて、吾家近くまで子供を連れて歸りかけた頃、何を斯の兒は思ひついたか、しきりに御飯と御膳の相違(ちがひ)を比べ始めました。父のが御膳で、自分のが御飯だとも言つて見るやうでした。
『御飯と御膳と違ふのかい。』
 と私が笑ひますと、子供は可羞(はづか)しさうにして笑つて、
『知らない。』
 と言ひ放ちながら、急に家の方へ馳出(かけだ)して行つて了ひました。
 恐らく斯の兒の強情なところは私の血から傳はつたものでせう。しかし私は斯の兒ほど泣き易くはありませんでした。丁度弟の方の子供ぐらゐな年頃のことでした。ある晩、私は遊友達の問屋の子息(むすこ)と喧嘩して、遲くなつて家の方へ歸つて行きました。叱られるなといふことを豫期しながら。果して、家の門を入つて田舍風な小障子のはまつた出入口のところまで行くと、私が問屋の子息を泣かせたことは早や家の方へ知れて居りました。やかましい問屋のお婆さんがそれを言附けに捩込(ねぢこ)んで來たといふことでした。で、私は懲らしめの爲に、そのまゝ庭に立たせられました。薄暗い庭から見ると、玄關の方も裏口の方も皆な戸が閉つて、唯小障子の明いたところだけ燈火(あかり)が射して居る。私は夏梨の樹の下に獨りで震へながら、家のものが皆な爐邊(ろばた)に集つて食事するのを眺めました。日頃默つて居る兄の顏などは、私の仕たことに就いて非常に腹でも立てたやうに、餘計に畏(おそろ)しく見えました。其晩に限つて、誰も救ひに來て呉れるものが有りません。斯の刑罰は子供心にも甘んじて受けなければ成らないやうなものでした。私は皆なの夕飯の終る頃まで、心細く立ち續けました。
 斯ういふ時に、私の側へ來て言ひ宥(なだ)めたり、皆なに御詫をして呉れたりしたのは、お牧といふ下婢(をんな)です。目上の兄達が奧の方へ行つた後で、お牧は私の膳を爐邊へ持つて來て勸めて呉れましたが、到頭其晩は食ひませんでした。
 私の生れた家では、子供に一人づゝ下婢を附けて養ふ習慣でして、多くは出入のものの娘から取りました。私に附いたお牧は髮結の家の娘でした。理髮店といふものは未だ私の故郷には無かつた頃ですから、お牧の父親が髮結の道具――あの引出の幾つも附いた、鬢着油などのにほひのする、古い汚れた箱を携(さ)げてよく吾家(うち)へ出入したことや、それから彼(あ)の穢い髮結が背後(うしろ)に立つて父の腮(あご)などをゴシ/\とやつたことは、未だに私の眼に着いて居ます。お牧の父親と言へば土地でも有名な穢い男でした。その娘に養はれると言つて、よく私は他(ひと)から調戲(からか)はれたものです。でも、お牧は乳を呑ませないといふばかりで、其他のことは殆ど乳母同樣に私を見て呉れました。
 母や祖母などは別として、先づ私の幼い記憶に上つて來るのは斯の女です。私は斯の女の手に抱かれて、奈樣(どん)な百姓の娘が歌ふやうな唄を歌つて聞かされたか、そんなことはよく覺えて居りません。お牧は朴葉飯(ほゝばめし)といふものを造(こしら)へて、庭にあつた廣い朴の木の葉に鹽握飯(しほむすび)を包んで、それを私に呉れたものです。あの氣(いき)の出るやうな、甘(うま)い握飯の味は何時までも忘れられません。青い朴葉の香氣(かをり)も今だに私の鼻の先にあるやうな氣がします。お牧は又、紫蘇(しそ)の葉の漬けたのを筍(たけのこ)の皮に入れて呉れました。私はその三角に包んだ筍の皮が梅酸(うめず)の色に染まるのを樂みにして、よく吸ひました。
『姉さん、何か。姉さん何か。』
 と言つて、私の子供は朝から晩まで娘達に菓子をねだつて居ります。どうかすると兄弟とも白い砂糖などを菓子の代りに分けて貰つて居ます。それを見て、私は自分の幼少(ちひさ)い時分に、黒砂糖の塊を舐めたことを思出しました。
 私がお牧の背中に負(おぶ)さつて、暗い夜道を通り、寺の境内まで村芝居を見に行つたことは、彼女の記憶から離せないものの一つです。顏見世の晩で、長い柄のついた燭臺に照らして見せる異樣な人の顏、異樣な鬘(かづら)、異樣な衣裳、それを私はお牧の背中から眺めました。初めて見た芝居は、私の眼には唯ところ/″\光つて映つて來るやうなものでした。丁度、眞闇(まつくら)なところに動(ゆら)ぐ不思議な人形でも見るやうに。
 これほど親しいお牧では有りましたが、しかし彼女の皹(あかぎれ)の切れた指の皮の裂けたやうな手を食事の時に見るほど、可厭(いと)はしいものも有りませんでした。お牧の指が茶碗の縁に觸ると、もう私は食へませんでした。子供の潔癖は、特に私には酷(はなはだ)しかつたのです。お牧ばかりでは有りません。私の直ぐ上は銀さんといふ兄貴で、この銀さんが洗手盥(てうづだらひ)を使つた後では私は面(かほ)も洗へませんでした。銀さんは又、わざ/\私を嫌がらせようとして、面白半分に盥の中へ唾を吐いて見せたりなどしたものでした。
 私の生れた家には太助といふ年をとつた家僕も居りました。この正直な、働くことの好きな、獨身者(ひとりもの)の老爺(ぢいさん)は、まるで自分の子か孫のやうに私を思つて呉れました。恐らく太助が私を愛して居たことは、お牧の比では無かつたのでせう。不思議にも、それほど思つて呉れた老爺と、朝晩抱いたり負(おぶ)つたりして呉れたお牧と、何方(どちら)を今でも思出すかといふに、矢張私はお牧の方に言ひ難いなつかしみを感じます。でも私は太助が好きでした。爐邊は廣くて、いつも老爺の坐る場所は上(あが)り端(はな)の方と定(きま)つて居りましたが、そこへ軟かい藁を小屋から運んで來まして、夜遲くまで私の穿く草履などを手造りにして呉れたのも、この太助です。それから大きな百姓らしい手で薪を縛る繩などをゴシ/\と綯(な)ひながら、種々なお伽話や、狢(むじな)の化けて來た話や、畠の野菜を材料(たね)にした謎などを造つて、私に聞かせるのを樂みにしたのも、この太助です。それを聞いて居るうちに私は眠くなつて、老爺の側で寢て了ふことも有りました。
 太助の働く小屋は裏の竹藪の前にありました。可成(かなり)廣い屋敷の内でしたから、そこまで行くには私は梨、林檎などの植ゑてある畠の間を通り、味噌藏の前を過ぎ、お牧がよく水汲に行く大きな井戸について石段を降りますと、その下の方に暗い米藏が有りまして、それに續いて松薪だの松葉の焚附だのを積重ねた小屋が有りました。太助は裏山の方から獨りで左樣いふものを運んで來るのでした。その小屋の内で、一日薪を割る音をさせて居ることも有りました。
 小屋に面して古い池が有りました。棚の上の葡萄の葉は青く淀んだ水に映つて居りました。石垣のところには雪下(ゆきのした)などがあの目(ま)ばたきするやうな白い小さな花を見せて居りました。そこは一方の裏木戸へ續いて、その外に稻荷が祭つてあります。栗の樹が立つて居ます。栗の花が枝から垂下る時分には、銀さんが他の大きな子供と一緒にあの枝から栗蟲を捕つて來たものですが、それを踏み潰すと、緑色の血が流れます。栗蟲の身(からだ)から、銀さん達は強い糸の材料を取つて、魚を釣る道具に造りました。その原料を酢に浸して、小屋の前で細長い糸に引延して乾すところを、私はよく立つて見て居りました。栗の殼(いが)が又、大きく口を開(あ)く頃に成りますと、毎朝私達は裏の方へ馳附(かけつ)けて行つたものです。そして風に落された栗を拾はうとして、樹の下を探し□つたものです。それを人の知らない中に集めて置いて、小屋の前で私に燒いて呉れたり、母屋(おもや)の爐邊の方まで見せに持つて來て呉れたりしたのも、太助でした。
 何かにつけて私はイヂの汚ないやうなことばかり覺えて居ります。けれども、ずつと年をとつた人と同じやうに、少年の私にはそれが一番樂しい欲でした。斯樣なことを私は最初に貴女に御話するからと言つて、それを不作法とも感じません。種々な幼少(をさな)い記憶がそれに繋がつて浮び揚つて來ることは、爭へないのですから。序(ついで)に、太助が小屋から里芋の子を母屋の方へ運んで行きますと、お牧がそれに蕎麥粉を混ぜて、爐の大鍋で煮て、あの皹(あかぎれ)の切れた手で芋燒餅といふものを造(こしら)へて呉れたことも書いて置きませう。芋燒餅は、私の故郷では、樂しい晩秋の朝の食物(くひもの)の一つです。私は冷い大根おろしを附けて、燒きたての熱い蕎麥餅を皆なと一緒に爐邊で食ふのが樂みでした。口をフウ/\言はせて食つて居るうちに、その中から白い芋の子が出て來る時などは、殊に嬉しく思ひました。

        三

 昨日(きのふ)、一昨日(をとゝひ)はこの町にある榊神社の祭禮で、近年にない賑ひでした。町々には山車(だし)、踊屋臺などが造られ、手古舞(てこまひ)まで出るといふ噂のあつた程で、鼻の先の金色に光る獅子の後へは同じ模樣の衣裳を着けた人達が幾十人となく隨いて、手に/\扇を動かし乍ら、初夏の日のあたつた中を揃つて通りました。それ獅子が來た、御輿が來たと言つて、子供等は提灯の下つた家の門を出たり入つたりしました。
『御祭で、どんなに嬉しいのか知れません――』
 と姉さん達は斯の子供等のことを言ひましたが、兄の方は肩に掛けた襷の鈴を鳴らして歸つて來て、後鉢卷などにして貰ひ、黄色い團扇(うちは)を額のところに差して、復た町の方へ飛び出して行くといふ風でした。提灯に蝋燭の火が映る頃から、二人とも足袋跣足(たびはだし)にまで成つて、萬燈(まんどう)を振つて騷ぎ□りました。
 私も祭らしい日を送りました。町に響く太鼓、舁(かつ)がれて通る俵天王(たるてんわう)、屋臺の上の馬鹿囃(ばかばやし)、野蠻な感じのする舞――すべて、子供の世界の方へ私の心を連れて行くやうな物ばかりでした……
 毎年のやうに私は出して着る袷が二枚あります。母の手織にしたもので、形見として殘つて居るのは最早それだけです。私は十五年の餘も大切に保存して居ります。それが又、私の持つて居る着物の中で、一番着心地の好い着物なのです。短い袷時に、私はそれを取出すのを樂みにして居りますが、それを着た時は妙に安心して居られるやうな氣もします。その中一枚はあまり見苦しく成つたと言はれて、今年からは寢衣(ねまき)にして着ることにしました。
 私の母は斯うした手織縞をよく丹精したものです。私が子供の時分に着た着物は大概母の織つたものでした。私の生れた家は舊本陣と言つて、街道筋にあつて、ずつと昔は大名などを泊めたのですから、玄關も廣く、その一段上に板の間がありました。そこから廣い部屋々々に續いて居ました。その板の間の片隅に機(はた)が置いてありました。私が表の方から古い大きな門を入つて玄關前の庭に遊んで居りますと、母が障子の影に腰掛けて錯々(せつせ)と梭(をさ)の音をさせたものでした。
 頬の紅い、左の眼の上に黒子(ほくろ)のあつた母のことを言へば、白い髮を切下げて居た祖母(ばゝ)のことも御話しなければ成りません。祖母は相應に名のある家から嫁(とつ)いで來た人で、年はとつても未だシツカリして居りました。尤も私の覺えてからは腰は最早すこし曲つて居りましたが。一體、私は七人の姉弟(きやうだい)のうちで一番の末の弟で、私の直ぐ上が銀さん、それから上に二人姉があつたさうですが、斯の人達は幼少(ちひさ)くて亡くなりましたさうです。その上に兄が二人あつて、一人は母の生家(さと)の方へ養子に參りました。一番年長(うへ)が姉です。姉は私がまだ極く幼少い時に嫁に行きましたから、殆んど吾家(うち)に居たことは覺えません。長兄の結婚は漸く私が物心づく頃でした。嫂(あによめ)を迎へてから、爐邊は一層賑かで、食事の度に集つて見ると可成大きな家族でした。その頃から私は祖母に隨いて、毎晩隱居所の方へ泊りに行くやうに成りました。そこは井戸に近い二階建の離れ家で、階下(した)は物置やら味噌藏やらに成つて居ました。暗いところを行くのですから、私は祖母と一緒に提灯つけて通ひました。
 私の家では、生活(くらし)に要る物は大概は手造りにしました。野菜を貯へ、果實(このみ)を貯へることなどは、殆んど年中行事のやうに成つて居ました。母は若い嫂を相手にして、小梨の汁などで糸をよく染めました。茶も家で造りました。茶摘といへば日頃出入の家の婆さんまで頼まれて來て、若葉をホイロに掛けて揉む時には男も一緒に手傳ひました。玄關前の庭の横手には古い椿の樹がありましたが、その實から油をも絞りました。私は母や嫂の織つた着物を着、太助の造つた草履を穿いて、少年の時を送つたのです。
 例のお牧に連れられて、映し繪を見に行つた晩のことでした。旅の見世物師が來て、安達(あだち)が原(はら)だの、鍋島の猫騷動などを映して見せ、それでいくらかの木戸錢を取りました。障子に映つた鬼婆、振揚げた出刃庖丁、後ろ手にくくし上げられた娘、それから老女に化けた怪しい猫の幻影(まぼろし)などは、夢のやうな恐怖を誘ひました。家へ戻つて行つても、私は安心しませんでした。
『祖母樣(ばゝさま)、お前さまは眞實(ほんたう)の祖母樣かなし……一寸背後(うしろ)を向いて見さつせれ……』
『これ、何を馬鹿言ふぞや。』
 母や嫂は側に居て笑ひました。その頃から私は『人浚(ひとさら)ひ』に浚はれて行くといふ恐怖なども感じて、祖母と二人ぎり寂しい隱居所の方へ行く時には、寢床の中に小さくなつて寢たことも有りました。お化より何より、『人浚ひ』が私には一番恐しかつた。それは夜鷹の鳴く日暮方にでも通るもので、一度浚はれたら、兩親の許へ歸つて來ることが出來ないやうにも思はれました。
 すこし見慣れないものが有ると、私は子供心に眼をとめて見ました。そして不思議な恐怖に襲はれることが有りました。太助がよく働いて居た木小屋の前を通り拔けて、一方の裏木戸の外へ出ますと、そこには稻荷が祭つてあります。葉の尖つた柊(ひゝらぎ)、暗い杉、巴丹杏(はたんきやう)などが其邊に茂つて居まして、木戸の横手にある石垣の隅には見上げるほど高い枳殼(からたち)が立つて居ました。あの棘の出た幹の上の方に、ある日私は大きな黒い毛蟲の蝶を見つけました。田舍で荒く育つた私の眼にも、その蝶ばかりは薄氣味の惡いほど大きかつた。そして毒々しい黒い翅を震はせて居ました。私は小石を拾つて投げつけようとしましたが、恐ろしくなつて、そのまゝ母屋の方へ逃げて歸つたことが有りました。
 斯の手紙を書きかけて置いて、私は兄弟の子供を連れながら河岸の方まで歩きに行つて來ました。榊神社の境内まで行くと、兄の方はぷいと腹を立てゝ家の方へ歸つて了ひましたから、私は弟の方だけ連れて、河岸へ出ました。船宿などのゴチヤ/\並んで居るところです。投網(とあみ)も乾してあります。そこで私は小船を借り一人の子供を乘せて水の上を漕ぎ□つたこともあります。河岸へ行く度に、子供はそれを言出して、復た船に乘りたいと強請(ねだ)りましたが、今日は止さして、一緒に柳並木の下を歩きました。ふと私は十二三ばかりの獅子を冠つた男の兒が本所の方へ歸つて行くのに出逢ひました。
『オイ、そこンところで一つ遣つて見て呉れないか。』
 私は呼び留めまして、袂から二錢銅貨を二つ取出して渡しました。
『御覽、角兵衞だよ。』
 と小聲で言つて聞かせますと、子供も石の柵に倚凭(よりかゝ)つて眺めました。
 人通りの少い靜かな柳のかげで、雪袴(ゆきばかま)のやうなものを穿いた少年が柔軟(やはらか)な身體を種々に動かして見せた。兩足で首を挾む、逆(さかさ)に蜻※返(とんぼがへ)[#「虫+廷」、381-1]りする、自由自在にやりました。少年は細い瘠せた、曲藝の爲に成長(しとな)れないやうな身體をして居ました。
『お錢(あし)を持ちながら遣るのかい。そこに置いたら可いぢやないか。私が見てるから大丈夫だ。』
 と私が言ふと、少年はそれも左樣だといふ顏附で笑つて、手に一ぱい握り締めて居た銅貨を柳の根元のところに置いて、復た一つ二つ藝を遣りました。身體の中心を兩手だけで支へて、土の上を動き□りなぞして見せました。
 斯ういふ少年に稼がせて世渡りするらしい日に燒けた女がそこへ通りかゝりました。間もなく少年は掌の土を拂ひ、赤い布で頭の上の小さな獅子を包んで、その女の後を追ひました。
『兄さんも來れば可いのに、お獅子が見られるのに。』
『ネ、角兵衞見たつて、左樣言つてやりませう。』
 私は弟の方の手を引いて歸りました。
 家の門口まで行くと、兄の方が飛んで來て、獅子を見せなかつた不平を頻りに並べました。弟は又、身振手眞似をして兄を羨ましがらせました。
『ア、好いナア。』
『來れば可いぢやないか。』
『何故兄さんは一緒に行かなかつたの。お獅子が見られたのに。』
『父さん、そのかはり蜜豆買つて――』
『蜜豆なんか止せ。』
 私は子供を連れて家へ入り、茨城の方から貰つたばかりの粽(ちまき)を分けて呉れました。青い柔かな笹の葉で面白く包んであつて、越後粽の三角なのとも異り、私の故郷の方で造るのとも違ひました。子供の甘さうに食つて居る傍で、私はその笹の葉を笛のやうに鳴らして聞かせました。
 今笑つて居る、直に復たぐづり出す、一度泣出したら地團太(ぢだんだ)踏むやら姉さん達に掻附くやら、容易には納まらないのが弟の方の子供です。何故子供といふものは、もつと自然に育てられないのかしら――何故斯う威かしたり欺したり時には殘酷な目にまで逢はせなければ育てられないのかしら――私は時々そんなことを思ひます。頭の一つもブン擲らずに濟ませるものなら、成るべく私はそんな眞似もしたくない。左樣思つて控へて居りますと、『貴方がたの父さんは御砂糖だと見えますネ』などと人々には笑はれる。終(しまひ)には世話するものまで泣いて了ふ。見るに見兼ねて、何時でも私がそこへ出なければ成らないやうなことに成ります。どうかすると私は憤怒の情に驅られて、子供を叱責する前に、激しく自分の唇を噛むことも有ります。憐むべき Domestic Animal……なにしろ弟の方の子供は丁度今が荒々しい、手に負へない盛りですから……
 どれ、私の生れた家の方へ貴女の想像を誘つて行つて、舊い屋敷をお目に掛けませう。
 母がよく腰掛けた機(はた)の置いてある板の間は、一方は爐邊へ續き、一方は父の書院の方へ續くやうに成つて居ました。斯の板の間に續いて、細長い廂風(ひさしふう)の座敷がありまして、それで三間(みま)ばかりの廣い部屋をぐるりと取圍(とりま)くやうに出來て居りました。斯の部屋々々は以前本陣と言つた頃に役に立つたので、私の覺えてからは、奧の部屋などは特別の客でもある時より外に使はない位でした。別に上段の間といふのが有りました。そこは一段高く設けた奧深い部屋で、白い縁(へり)の疊などが敷いてあり、昔大名の寢泊りしたところとかで、私が子供の時分には唯床の間に古い鏡や掛物が掛けてあるばかりでした。父はそこを神殿のやうにして、毎朝神樣を拜みましたから、私も眼が覺めると母に連れられて御辭儀に行つたものです。それほど父は嚴格な、神信心な人でした。髮なども長くして、それを紫の紐で束ねて、後の方へ垂れて居ました。上段の間を隔てゝ、寛(くつろ)ぎの間といふのも有つて、そこが兄の居間に成つて居りました。村の旦那衆はよくそこへ話しに集りました。仲の間は明るい光線の射し込む部屋で、母や嫂が針仕事をひろげたところでした。障子を明けると、細長い坪庭を隔てゝ石垣の下に叔母の家の板屋根などが見え、ずつと向ふの方には遠い山々、展けた谷、見霞むやうな廣々とした平野までも望みました。丁度私の田舍は高い山の端(はづれ)で、一段づゝ石垣を築いて、その上に村落を造つたやうな位置にあります。私の家はその中央(なかほど)にありました。叔母の家といふはお霜婆(ばあ)といふ女に貸してありましたが、心易く私の家へ出入した人でした。そこから通つて來るには是非とも坂道の往來を上らなければなりませんでした。
 お霜婆はてか/\した禿を薄い髮の毛で隱して居るやうな女でした。若い女中を一人使つて、女ばかりで暮して居ました。どうして斯樣な人が叔母の家を借りて居たのか、皆目(かいもく)私には解りませんでしたが、兎(と)に角(かく)村の旦那衆がよく集るところではありました。お霜婆は私を可愛がつて呉れましたから、私も遊びに行き/\しまして、半ば自分の家のやうに心易く思つた位でした。旅の飴屋が唐人笛などを吹いて通ると、必(きつ)とそれを呼んで、棒の先にシヤブるやうにした水飴を私に買つて呉れたのも、斯の婆さんでした。しかしお霜婆の可愛がりやうは、太助やお牧などと違つて、どこか煩(うるさ)いやうなところが有りました。どうして、ナカ/\御世辭ものでした。
 斯のお霜婆に就いて、私は片意地な性質を顯はしました。お霜婆の家でも毎年蠶を飼ひましたが、ある時私は婆さんの大切にして居る蠶に煙草の脂(やに)を嘗(な)めさせました。斯の惡戲(いたづら)は非常に婆さんを怒らせました。その時から私は婆さんと仲違(なかたが)ひして、婆さんの家の前は除(よ)けて通り、婆さんが家へ來て言葉を掛ける時でも私は口も利かなく成つて了ひました。子供ながらに私はそれを六十日の餘も續けました。
 そのうちに村の祭が來ました。私は銀さんとお揃ひで黒い半被(はつぴ)を造つて貰ひました。背中に家の紋を白く見せたものでした。火の用心の腰巾着もぶら下げました。折角(せつかく)祭の仕度が出來た、仲直りがてらお霜婆に見せて來るが好からう、と兄が言つて、嫌がる私を無理やりに背中に乘せ婆さんの家へ舁(かつ)ぎ込みました。兄に置いて行かれた後で、婆さんが何と言つても私は聞入れませんでした。私は足をバタ/\させて泣きました。婆さんも手の着けやうが無いといふ風で、一層腹を立てまして、復た私を無理やりに背中に乘せ、家の方へ送り返しに來ました。
 斯樣な風で、容易に私の心は解けませんでした。到頭お霜婆の方から私の好きな羊羹を持つて仲直りに來ました。其時私は裏の井戸のところに立つてお牧が水を汲むのを見て居りましたが、お霜婆の仲直りに來たことを聞いて、お牧に隨いて母屋の方へ行きました。斯の婆さんと以前のやうに口を利くやうに成る迄には、大分私には骨が折れました。

        四

『もし/\龜よ、龜さんよ、
世界のうちにお前ほど、
歩みの遲鈍(のろ)いものは無い――』
 無邪氣な唱歌が私の周圍(まはり)に起りました。私は二人の子供を側へ呼びまして、
『さあ、お前達は二人とも龜だよ。父さんが兎に成るから。』
『父さんが兎?』と兄の子供は念を押すやうに私の顏を覗き込みました。
『アヽ、龜と兎と馳けくらべをしよう。いゝかい、お前達は龜だから、そこいらを歩いて居なくちやいけない。』
 お伽話の世界の方へ直に子供等は入つて行きました。二人とも龜にでも成つた氣で、揃つて手を振りながら部屋の内を歩き□りました。
『龜さんはもう出掛けたか。どうせ晩まで掛るだらう……』
 と私は子供等に聞えるやうに言つて、『こゝらで一寸、一眠りやるか……』
 私が横に成つて、グウ/\鼾をかく眞似をすると、子供等は驚喜したやうに笑ひ乍ら、私の周圍(まはり)を□つて居りました。そのうちに、私は半ば身を起して、大欠(おほあく)びしたり兩手を延ばしたりして、眠から覺めたやうに四邊(あたり)を見□しました。
『ヤ、これは寢過ぎた……』
 と私は失策(しくじ)つたやうに言へば、子供等は眼を圓くして、急いで床の間の隅に隱れました。私は龜の在所(ありか)を尋ね顏に、わざ/\箪笥の方へ行つて見たり、長火鉢の側を□つたりしました。
『兎さん、こゝよ。』
 と子供等が手を打つのを、私は聞えない振をして、幾□りか□りながら漸くのことで龜の隱れて居るところへ行きました。其時、子供等は勝誇つたやうな聲を揚げて、喜び騷ぎました。
 どうかすると私は斯樣な串談(じやうだん)をして、子供を相手に遊び戲れます。斯ういふ私を生んだ父は奈樣(どん)な人であつたかと言へば、それは嚴格で、父の膝などに乘せられたといふ覺えの無い位の人でした。父は家族のものに對して絶對の主權者で、私等に對しては又、熱心な教育者でした。私は父の書いた三字經を習ひ、村の學校へ通ふやうに成つてからは、大學や論語の素讀を父から受けました。あの後藤點の栗色の表紙の本を抱いて、おづ/\と父の前に出たものです。
 父の書院は表庭の隅に面して、古い枝ぶりの好い松の樹が直ぐ障子の外に見られるやうな部屋でした。赤い毛氈(まうせん)を掛けた机の上には何時でも父の好きな書籍が載せてありましたが、時には和算の道具などの置いてあるのを見かけたことも有ります。父はよく肩が凝ると言ふ方でして、銀さんと私とが叩かせられたものですが、肩一つ叩くにも只は叩かせませんでした。歴代の年號などを暗誦させました。終(しまひ)には銀さんも私も逃げてばかり居たものですから、金米糖(こんぺいたう)を褒美に呉れるから叩けとか、按摩賃を五厘づゝ遣るから頼むとか言ひました。
『享保、元祿……』
 私達は父の肩につかまつて、御經でもあげるやうに暗誦しました。
 何ぞといふと父が私達に話して聞かせることは、人倫五常の道でした。私は子供心にも父を敬ひ、畏れました。しかし父の側に居ることは窮屈で堪りませんでした。それに父が持病の癇(かん)でも起る時には、夜眠られないと言つて、紙を展げて、遲くまで獨りで物を書きました。その蝋燭を持たせられるのが私でしたが、私は唯眠くて成りませんでした。
 斯うした嚴格な父の書院を離れて、仲の間の方へ行きますと、そこには母や嫂が針仕事をひろげて居ります。私は武者繪の敷寫しなどをして、勝手に時を送りました。母達の側には別に小机が置いてあつて、隣の家の娘がそこで手習ひをしました。お文(ぶん)さんと言つて、私と同年で、父から讀書(よみかき)を受ける爲に毎日通つて來たのです。父を『お師匠樣』と呼んだのは斯の娘(こ)ばかりでなく、村中の重立つた家の子はあらかた父の弟子でした。中には隣村から通つて來るものも有りました。
 私は今、町の湯から歸つて、斯の手紙のつゞきを貴女に書いて居ります。八歳(やつつ)ばかりに成る近所の女の兒が二人來て、軍艦や電車の形を餘念なく描いて居る私の子供の側で、『あねさま』などを出して遊んで居ります。そのさまを眺めると、私が隣の家の娘と遊んだのは丁度そんな幼少(をさな)い年頃であつたことを思出します。
 お文さんの許(ところ)は極く懇意で、私の家とは互に近く往來(ゆきゝ)しました。風呂でも立つと言へば、互に提灯つけて通ふほどの間柄でした。相接した裏木戸傳ひに、隣の裏庭へ出ると、そこは暗い酒藏の前で、大きな造酒の樽の陰には男達が出入して働いて居たものです。新酒の造られる頃、私は銀さんと一緒によく重箱を持つて、『ウムシ』を分けて貰ひに通ひました。この隣の『ウムシ』、それから吾家で太助が造る燒米などは、私が少年の頃の好物でした。私は又お文さんと一緒に、庭の美濃柿の熟したのを母から分けて貰ひ、それに麥香煎(むぎこがし)を添へ、玄關のところに腰掛けて食ふのを樂みとしました。
 貴女は『オバコ』といふ草などを採つて遊んだことが有りますか。お文さんはあの葉の纖維に糸を通して、機を織る子供らしい眞似をしたものです。私が裏の稻荷側(いなりわき)の巴旦杏(はたんきやう)の樹などに上つて居ると、お文さんはその下へ來てあの葉を探しに草叢の間を歩き□りました。斑鳩(いかる)が來て鋭い聲で鳴いた竹藪の横は、私達がよく遊び□つた場所です。そこで榎(えのき)の實を集めるばかりでなく、時には橿鳥(かしどり)の落して行つた青い斑(ふ)の入つた羽を拾ひました。
 私が祖母と二人で毎晩泊りに行く隱居所に對ひ合つて、土藏がありました。暗い金網戸の閉つた石段の上は、母が器物(うつはもの)を取出しに行つて、錠前をガチヤ/\言はせたところです。私は母に連れられて、土藏の二階に昇り、父の藏書を見たこともあります。古い本箱が幾つも/\積み重ねてありました。斯の土藏の下には年をとつた柔和な蛇が住んで居ました。太助などは『主(ぬし)』だと言つて、誰にも手を着けさせずに大事にした置きました。その『主』が頭を出して晝寢をして居る白壁の側、土藏の前にある柿の樹の下あたりは、矢張私達の遊び場所でした。甘い香のする柿の花が咲くから、青い蔕(へた)の附いた空(むだ)な實が落ちるまで、私達少年の心は何を見ても退屈しませんでした。
 お牧は井戸から水を擔いで土藏について石段を上つて來ます。斯の柿の樹のあるところから、更に石段を上つて母屋の勝手口へ行くまでが、彼女の水汲に通ふ路でした。その邊は舊本陣時代の屋敷跡といふことでしたが、私が覺えた頃は既に桑畠で、林檎や桐などが畠の間に植ゑてありました。隣の石垣の上には高い壁が日に映つて見えました。それがお文さんの家でした。
 私達が子供の時分には、妙に暗い世界が横たはつて居りました。多勢村のものが寄集まつて一人の眼隱した男を取圍(とりま)いて居る光景(ありさま)を一寸想像して見て下さい。激昂した衆人の祈祷の中で、その男の手にした幣帛(ぬさ)が次第に震へて來ることを想像して見て下さい。其時は早やある狐の乘移つたといふ時で、非常に權威ありげな聲で、神の御告といふものを傳へます。どうかすると斯の狐の乘移つた人は遠い森を指して飛び走つて行くことも有りました。私は又、村の小學校で、狐がついたといふ生徒の一人を目撃しました。その少年は顏色も變り手足を震はして居ました……
 斯ういふ不思議なことが別に怪まれずにあるやうな、迷信の深い空氣の中で、私は子供の時を送つたのです。何等かの自然の現象で一寸解釋のつきかねるやうなことは、知らない生物(いきもの)の世界の方へそれを押しつけてありました。山には狼の話が殘り、畠には狢(むじな)や狸が顯はれ、暗くなれば夜鷹だの狐だのの鳴聲のするのが私の故郷でした。それほど私達の幼少(をさな)い時の生活は禽獸(とりけもの)の世界と接近したものでした。蜂の種類も多くありました。殊に地蜂と言つて、五層も六層も土の中に巣を造るのは、土地で賞美される食料の一つでした。兄達は蛙を捉へて來て、その皮を剥ぎ、逆さに棒に差し、地蜂の親の餌を探しに來るのを待受けたものです。蛙の肉に附けて置いた紙の片(きれ)で、それを咬(くは)へて飛んで行く蜂の行方を眺めると、巣の在所(ありか)が知れました。小鳥の種類の豐富なことも故郷の山林の特色です。黐(もち)や網で捕れる鶫(つぐみ)、鶸(ひは)の類はおびたゞしい數でした。雀などは小鳥の部にも數へられないほどです。子供ですら馬の尻尾の毛で雀の羂(わな)を造ることを知つて居ました。
 私達は、同じ年頃の子供ばかりで遊ぶ時には、まだそれほど遠く行きませんでした。でも裏の田圃道に出て、高い樹木の上の方に小鳥の囀るのを聞くのは樂みでした。田圃側(わき)には『スイコギ』の葉を垂れたのが有りました。それを採つて、鹽もつけずに食ひました。村の學校のあつた小山の下のところには細い谷川が流れて居ます。そこへ私はお牧から借りた笊(ざる)を持つて行つて鰍(かじか)をすくつたことも有ります。お文さんも腕まくり、裾からげで、子供らしい淡紅色(ときいろ)の腰卷まで出して、石の間に隱れて居る鰍を追ひました。
 何時の間にか私は斯の隣の家の娘と二人ぎり隱れるやうな場所を探すやうに成りました。私達は桑畠の間にある林檎の樹の下を歩き又は玄關から細長い廂風(ひさしふう)の小座敷を通り拔けて、上段の間の横手に坪庭の梨の見えるところへ行きました。すると極りで、若い嫂が私達を探しに來ました。
 お牧、お霜婆、斯の手紙には私は主に少年の眼に映じた婦人のことを貴女に書く積りですから、その順序として幼少(をさな)い隣の家の娘のことを御話するのです。有體(ありてい)に言へば、私は女といふものに初めて子供らしい情熱を感じました。私はお文さんを堅く抱締めたこともあります。斯の子供らしさは、近所の他の家の娘にも起りました。私は三日ばかり激しい情熱に苦められたことを覺えて居ます。尤もその娘のことは直と忘れて了ひましたが……
 ある日、私はお文さんに誘はれて隣の家へ遊びに行きました。酒屋の香氣(にほひ)のする庭を通り拔けて、藏造りになつた二階の部屋へ上つて見ました。隣とはよく往來(ゆきゝ)をしましたが、そんなに奧の方まで連れられて行つたのは私には初めてです。丁度そこへお文さんの兄さんの道さんがやつて來ました。道さんはお文さんや私より二ツ三ツ年長(うへ)の少年で、村の學校でも評判な好く出來る生徒でした。
 其日まで私は夢中でお文さんと遊んで居て、第三者といふものの有ることを知りませんでした。お文さんの部屋で、道さんと一緒に成つて見て、それが解つて來ました。私は唯道さんに見られたといふだけで、何となく少年らしい羞恥を感じました。それきり私はお文さんを離れて、今度は道さんだの、それから他の男の兒と遊ぶやうに成りました。
 お文さんは相變らず吾家(うち)へ手習に通ひました。しかし私が道さん達の仲間入をするやうに成つてからは、以前のやうに彼女と親しくしませんでした。
 御承知の通り、狹い田舍では大抵の家が遠い親類の形に成つて居ます。左樣いふ家の一つに、丁度お文さんと同い年ぐらゐな娘がありました。惡戲(いたづら)好きな學校の朋輩は、その娘の名と私の名とを並べて書いて見たり、課業を終つて思ひ/\に歸つて行く頃には、杉の樹のあるお寺の坂の上あたりから、大きな聲で呼ばつたりしたものです。
 それを聞くと私は、
『糞を喰(くら)へ。』
 といふ風で、吾家を指して歸りました。
 それから九歳(こゝのつ)の秋に東京へ遊學に出掛けるまで、私の好きなことは山家の子供らしい荒くれた遊びでした。次第に私は遠く行くやうに成つて、男の友達と一緒に深い澤の方まで虎杖(いたどり)の莖などを折りに行き、『カルサン』といふ勞働の袴を着けた太助の後に隨いて、松薪(まつまき)の切倒してある寂しい山林の中を歩き□り、路傍(みちばた)に『酸(す)い葉(ば)』でも見つけると、それを生でムシヤ/\食ひました。太助とは、山の神の祠(ほこら)のあるところへ餅を供へにも行つたことが有ります。都會の子供などと違ひ、玩具も左樣(さう)自由に手に入りません。私は竹と半紙で『するめ紙鳶(だこ)』を手造りにすることを覺えました。それを村はづれの岡の上へ持つて行つて、他の子供と競爭で揚げました。『シヨクノ』――東京の言葉でいふ『ネツキ』は、最も私の心を樂ませた遊びです。木は不自由しない村ですから、私は太助の鉈序(なたついで)に、強さうな木の尖端(さき)を鋭く削つて貰ひました。どうかすると霜枯れた田圃側には、多勢村の少年が群がつて、斯の『シヨクノ』を土の中に打込んで遊びました。私の父はヤカマしいので、斯ういふ遊びに勝つても、表から公然と擔ぎ込む譯に行きません。左樣いふ時に、都合の好いのはお霜婆の家でした。
 銀さんと私とがいよ/\上京と定(き)まつた頃は、母の織る機がいそがしさうに響きました。母は私の爲にヨソイキの角帶を織りました。なにしろ私はまだ田舍の小學校で僅か學んだばかりで、小さな旅の鞄に金米糖を入れて呉れるからと言はれて、それを樂みに遊學の日を待つほどの少年でした。

        五

 旦那樣はじめ、お子樣がた御變りもなき由、殊に此節は幼い二人を相手に樂しい日を送つて居らるゝとか。先頃子供の許(ところ)へ贈つて下すつた御地の青い林檎は斯のあたりの店頭(みせさき)にあるものと異なり樹から□(も)ぎ取つたばかりのやうな新鮮を味ひました。御蔭で子供も次第に成人して參ります。函館の老爺(ぢゝ)上京の節も、孫達の顏を眺めて、稀(たま)に出て來て見ると大した違ひだと申した位です。私がたはむれに弟の方の子供を抱き上げて見て、更に兄の方を抱き上げながら大分重くなつたと申しましたら、兄の子供はさも嬉しさうに首をすくめて笑ひました。
『重くなつたと言はれるのが、そんなに嬉しいの?』
 と側に居る娘も笑ひながら言ひました。
 毎日長い黐竿(もちざを)を持つて町の空へ來る蜻※(とんぼ)[#「虫+廷」、391-8]を追ひ□して居た兄の子供も、復た/\夏休み前と同じやうに鞄を肩に掛けて、學校へ通ふやうに成りました。近所の毛筆屋(ふでや)の子で眼のパツチリとした同級生が毎朝誘ひ合せては出掛けますが、ある夕方、その子が遊びに來て門口から私の家を覗きました。瓦斯(ガス)とか電燈とかで明るい屋並の中に、吾家(うち)ではまだ洋燈(ランプ)を用ひて居ます。
『洋燈を點けてるのかい――隨分舊弊だねえ。』
 とその八つに成る毛筆屋の子が申しました。流石(さすが)都會に育つ子供はマセた口の利きやうをすると思ひました。
 八月の末から九月の初へかけて毎年のやうに降る大雨が今年は一時にやつて來て、乾き切つた町々を濡らしました。隅田川も濁つて灰汁(あく)を流したやうに成りました。狹い町中とは言ひながら、早や秋の蟲が縁の下の方でしきりに鳴きます。冷々(ひや/\)とした部屋の空氣の中でその鳴聲を聞きながら、毛筆屋の子に笑はれた洋燈の下で、私は斯の手紙を書き續けます。
 少年の私が銀さんと一緒に東京へ遊學することに成りました時は、銀さんが數へ年の十二、私が九つでした。まだ他にお文さんの二番目の兄さんも眼の療治のために同行することに成りました。
 その日も近づいた頃、銀さんは裏の梨の樹の下あたりに腰掛けて、兄貴に東京行の頭を刈つて貰ひました。村には理髮店といふものも無い時でしたから、兄貴が襷掛で、掛る布も風呂敷か何かで間に合せて、銀さんの髮を短く剪(はさ)みました。私の方はまだ一向な子供でしたから、髮も長く垂下げたまゝで可からうと言はれました。私はそツと家を拔け、子供心にも別れを告げるつもりで、裏道づたひにお牧の家をさして歩いてまゐりました。私は人に見つからないやうにと、何(ど)の位(くらゐ)苦心して竹藪の側や田圃中の細い道なぞを通つたか知れません。何故といふに、村で一番不潔な男を親に持つたそのお牧の手に養はれたといふことは、絶えず私が他(ひと)から調戲(からか)はれる材料に成つて居ましたから。私は調戲はれると言ふよりは嬲(なぶ)られるやうな氣がして、その度に堪へ難い侮辱(はづかしめ)を感じて居りました。で、隱れるやうにしてお牧の家まで歩きました。丁度お牧の父親も家に居る時で、例の油染みた髮結の道具などが爐邊に置いてあつたかと覺えて居ます。お牧の家の人達は非常に喜びまして、私のために鍋で茶飯を煮(た)いて呉れました。私が茄子(なす)が好きだからと言つて、皮のまゝ輪切にしたやつを味噌汁にして呉れました。その貧しい爐邊で味つた粗末な『おみおつけ』は、私に取つて一生忘れられないものです。それから三十年あまりの今日まで、どうかして私は彼樣(あゝ)いふ味噌汁を今一度吸ひたいと思つて、幾度同じやうに造らせて見るか解りませんが、二度と彼の味を思出させるやうなのには遭遇(であ)ひません。
 片田舍のことですから、私達が東京へ發つ前には毎晩のやうに親しい家々から客に呼ばれました。私は銀さんと一緒にお文さんの家へも呼ばれて行つて、鷄肉(とり)の汁(つゆ)で味をつけた押飯(あふはん)(?)の馳走に成りました。何かにつけて田舍風の饗應を取替(とりかは)すといふことは、殊に私の村では昔から多い習慣のやうに成つて居ました。
 出發の前の朝、祖母は私達を爐邊に据ゑまして、食事しながら種々なことを言つて聞かせました。今朝は言ふ、そのかはり明日の朝は何事(なんに)も言はない、そんなことを言つて、長いこと私達を側に坐らせて置いて、別離(わかれ)の涙を流しました。其晩、私は父の書院へも呼び附けられて、五六枚ほど短册に書いたものを餞別として貰ひました。それは私が座右の銘にするやうにと言つて呉れたので、日頃少年の私をつかまへて口の酸くなるほど言つて聞かせた教訓を一つ/\文字に表はして書いたものでした。私はその全部を記憶しませんが、父があの几帳面な書體で認めた短册の中には、あり/\と眼に浮んで來るのもあります。
『行ひは必ず篤敬。云々。』
 兄に引連れられて、翌日私達三人の少年は故郷の山村を發ちました。坂になつた驛路の名殘の兩側には、それぞれ屋號のある親しい家々が並んで居ます。私達は一軒々々田舍風な挨拶をするために立寄りました。日頃洗濯や餅つきの手傳ひなどに來る婆さんとか、又は出入の百姓とかの人達までいづれも門に出、石垣の上に立ちして、私達を見送つて呉れました。九月の日のあたつた村はづれまで送つて來て呉れる人もありました。暗い杉の木立の側を通り、澤を越して行きますと、字(あざ)峠と言つて一部落を成したところがあります。その邊まで私達に附いて來て名殘を惜む人もありました。お頭(かしら)の家のある峠を離れて、私達は旅らしい山道に上りました。
 その頃は京濱間より外に鐵道といふものも無く、私達の故郷から東京まで行くには一週間も要(かゝ)るほど不便な時でした。それに大きな谷の底のやうな斯の山間(やまあひ)を出て、馬車にでも乘れるといふ處まで行かうとするのには、是非とも高い峠を二つだけは越さなければ成りませんでした。
 全く方角も解らなく成つて了つたやうな、知らない道を三日も四日も歩いた後で、私は銀さん達と一緒に左樣いふ峠のしかも險しい石塊(いしころ)の多い山道にさし掛りました。私は風呂敷包を襷にして背中に負(しよ)ひ、洋傘(かうもり)を杖につき、喘(あへ)ぎ喘ぎその坂を攀ぢ登りましたが、次第に歩き疲れて、お文さんの兄さんや銀さんから見ると餘程後れるやうに成りました。日は暮れかけて、山の中は薄暗く見えるやうに成つて來ました。
『金米糖を呉れなけりや、歩けない。』
『呉れるから、歩け。』
 私は兄と斯樣な押問答をして、路傍(みちばた)の石に腰掛けては休み/\、復た出掛けました。そのうちに金米糖どころでは無くなつて來ました。私には歩けなく成りました。何となくお腹まで痛く成つて來ました。私は洋傘をそこへ投出して動かずに居たこともあります。すると兄が私の傍へ來て、私の帶へ手拭を結はへ附けまして、それで私を引き立てました。
 斯の骨の折れる山道を越して、漸(やつと)のことで峠の下まで歩いて行きますと、澤深い温泉宿のやうな家々の灯が私の眼に嬉しく映りました。そこが中仙道の沓掛(くつかけ)であつたかと覺えて居ます。
 何處から馬車に乘つたかといふことも、ハツキリとは記憶しません。唯、前の方へ突進する馬車と……時々馬丁(べつたう)の吹き鳴らす喇叭(らつぱ)と馬を勵ます聲と……激しく動搖(ゆす)れる私達の身體とがあるばかりでした。
 狹い車の上で復た日が暮れました。暗い夜の道を後に殘しては私達は乘りつゞけに乘つて行きました。斯の馬車の旅で私達は一人の女の客とも道連に成りました。矢張東京まで行く客で、故郷に殘して置いて來た私の母などよりはずつと若い人でしたが、私達の村にでも居さうな、田舍風な婦人ではありました。旅の包の中から菓子を取出して、それを紙包にして私に呉れたりなどしました。終(しまひ)には私も斯の小母さんのやうな人に慣れて、その膝の上に抱かれました。そして馬車に搖られて眠く成つて來ると、そのまゝ寢て了つたことも有りました。
『追剥だ。追剥だ。』
 といふ聲を聞きつけて、急に私は眼を覺ましました。馬車が何處を通るのか、皆目それは私には解りませんでしたが、闇に振る馬丁(べつたう)の烈しい鞭の音と、尋常(たゞ)ならぬ車の上の人達の樣子とで、賊といふことだけは知れました。馬車が疾驅してその場所を通過ぎた後で、氣の荒い馬丁は手綱をゆるめて、賊が馬の脚へ來て掛らうとしたとか、斯の邊の夜道は物騷だとか、確かに自分の一鞭は手答へがあつたとか、兄達に話し聞かせて笑ひました。復た馬車は暗黒(やみ)の中を衝いて進みましたが、それが夜道へ響けて可恐(おそろ)しい音をさせました。
 夜が明けてから、私達は田舍町の中を乘つて通りました。高い竹梯子の上で宙乘をする消防夫の姿が馬車の上から見えました。そこは上州の松井田でした。
 烏川を越した時の記憶は未だによく殘つて居ます。私達は馬車を降りまして、皆な歩いて渡りました。あの邊の廣濶(ひろ/″\)とした白い光つた空は、まだ私の眼にあります。客だけ下して置いて、河原から水の中へ引き入れた馬車の音を、まだ私は聞くことが出來るやうな氣がして居ます。
 斯の旅はすつかりで矢張七日ほどかゝりました。私は馬車に乘つたまゝ半分夢のやうに東京へ入りました。その馬車が着いたところは萬世橋でしたが、あの頃の廣小路のさまは殆んど尋ねることも出來ないほど變つて了ひました。今でも寄席や旅人宿は殘つて居ます。あの並びに馬車の着くところが有りまして、その前の並木の陰で私達は車から下りたかと思ひます。

        六

 落着く先は姉の家でした。長兄に引連れられて山の中から出て來た私達兄弟の少年は、はじめて大きな都會の空氣に觸れ、日頃故郷の方でよく噂の出る姉とも一緒に成ることが出來たのです。前にも御話しました通り、姉は私が覺えの無いほど極く幼少(ちひさ)な時分に嫁入した人でした。
 田舍者が多勢で押掛けて來た姉の家は、銀座の裏側にあたる閑靜な町の角にあつて、灰色な圓柱の並んだ、古風な煉瓦造りの一つでした。二階には四間ばかりの部屋がありました。その一室(ひとま)の硝子窓(ガラスまど)から町の裏側の屋根だの物干だのの見えるところが私達兄弟の勉強部屋によからうと言はれて、そこで私は銀さんと一緒に新規な机を並べ、夜はその部屋で二人枕を並べて寢ました。田舍に居た頃とは違ひ、こゝでは茶の出る時間も午後と定つて居て、甥と一緒に茶うけの豆せんべいなどを買ひに行き、廣い爐邊でノンキに食事をしつけたものが今度は姉の家の祖母(おばあ)さんや姉夫婦の側にかしこまつて、銀さんと御取膳で食ふことに成りました。
『どうだ、是がオサシミだ。』
 と姉に言はれて、私は初めてオサシミといふものを口に入れて見たことを覺えて居ます。姉が馳走振に取つて呉れた新鮮な魚肉よりも、故郷の方で食べ慣れた鹽辛い鮭の方が私の口に適(あ)ひました。一年に一度づゝ年取の晩の膳についた鹽鰤(しほぶり)の味などは私には忘れられないものでした。
 その頃の姉はまだ若く見える人で、物の言ひ方なども、ハキ/\として居て、私の知らないことは深切に教へて呉れ、萬事につけて私をいたはつて呉れました。斯の愛情は少年の私には難有いものでした。私の故郷の習慣で、他の朋輩を呼ぶには『わりや』と言ひ、自分のことは奈樣(どん)な目上の人の前でも、『おれ』でしたが、その時都會の少年のやうに言葉遣ひを習ひ、『君』とか『僕』とかいふ言葉も姉からをそはりました。
 姉が私の爲に種々と注意をして呉れたことは、次の一例を御話しただけで解らうと思ひます。子供の時分に私はよく鼻液(はな)が出ました。それを兩方の袖口で拭きましたから何時でも私の着物には鼻液が干乾(ひから)び着いて光つて居りました。そればかりでなく、着物の胸のあたりをも汚したものです。姉はそれを見て取つて、私が食事の時に茶碗を胸に當てることは止せと言ひましたが、自然とついた癖は直さうと思つても容易に直りませんでした。何時の間にか私の茶碗は胸のところに當つて居ました。そこで姉は一計を案出しました。四角に切つた鐵葉(ブリキ)の片(きれ)に紐を着けまして、食事の度に私に掛けさせることにしたのです。
『御飯!』
 といふ聲を聞くと、私は客があるか無いかを第一に思ひました。姉の家の人達は兎も角も、知らない客の前でブリキを自分の首に掛けるほどキマリの惡いことは有りませんでした。全く、ブリキの前垂には私も弱らせられました。でもその御蔭で、カチリと茶碗の音がする度に自分でも氣が着いて、着物を汚す癖は直つて行きました。
 姉の夫といふは背の隆い、立派な威嚴のある人でした。國から出て來て、一時は大藏省の官吏にも成りました。斯の人と兄とは極く親しい間柄で、私のことも親身の弟のやうに見て呉れ、私のために數寄屋河岸にある小學校を選んで呉れました。斯の人は又、鷹揚に腮(あご)を撫でながら私を前に置いて論語の素讀を授けて呉れたり、閑暇(ひま)な時には東京の町々だの公園だのを見せに連れて歩いて呉れました。私は未だに斯の人が當時流行(はや)つた獵虎(らつこ)の帽子を冠つた紳士らしい風采を覺えて居ます。それから觀兵式の日に連れられて行つて、初めて樽柿といふものを買つて宛行(あてが)はれたことなどを覺えて居ます。その頃のことを思出すと海の見える座敷で海苔の香氣(にほひ)を嗅いだことが私の幼い記憶に浮び揚つて來ます。なんでも其日は姉の家のものが皆な揃つて外出して、私はめづらしい處で一緒に食事をしたやうに思ひますが、それが品川邊の料理屋であつたか何處であつたかは、よく覺えません。唯海苔の香氣の記憶だけ、しかも鼻の先へ匂つて來るやうに殘つて居ます。そんな風にして私は諸方(はう/″\)へ連れられて行きました。
 姉夫婦の傍には私は一年あまりしか居りませんでしたが、しかしその間に受けた愛情は少年の私の心に深く刻み着けられました。それからずつと後に成つて、姉の夫の身の上には種々な變化が起り、その行ひには烈しい非難を受けるやうな事もありました。さういふ中でも、猶私が周圍の人のやうには姉の夫を考へて居なかつたといふは、全く斯の少年の時に受けた温い深切の爲で――丁度、それが一點の燈火(ともしび)の如くに私の心の奧に燃えて居たからであります。
 素朴な私の田舍の家と違ひ、姉の家にはまた別の空氣がありました。そこの祖母(おばあ)さんは名古屋風の趣味を持つた人で、綺麗に片附けた下座敷へ琴を取出して時々なぐさみに掻鳴しました。甥は私よりは三つも下の少年でしたが、謠曲(うたひ)の文句などを諳記して居て、斯の祖母さんの側でよく歌ひました。

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