三日幻境
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著者名:北村透谷 

     (上)

 人生何すれぞ常に忙促たる、半生の過夢算(かぞ)ふるに遑(いとま)なし。悲しいかな、我も亦た浮萍を追ひ迷雲を尋ねて、この夕徒(いたづ)らに往事を追懐するの身となれり。
 常に惟(おも)ふ、志を行はんとするものは必らずしも終生を労役するに及ばず。詩壇の正直男(ゴールドスミス)この情(こゝろ)を賦して言へることあり。
I still had hopes, my long vexation past,
Hero to return――and die at home at last.
 浮世に背き微志を蓄へてより、世路酷(はなは)だ峭嶢(せうげう)、烈々たる炎暑、凄々(せい/\)たる冬日、いつはつべしとも知らぬ旅路の空をうち眺めて、屡(しば/\)、正直男と共に故郷なつかしく袖を涙にひぢしことあり。
 われは函嶺(かんれい)の東、山水の威霊少なからぬところに産(うま)れたれば、我が故郷はと問はゞそこと答ふるに躊躇(ためら)はねども、往時の産業は破れ、知己親縁の風流雲散せざるはなく、快く疇昔(そのかみ)を語るべき古老の存するなし。山水もはた昔時に異なりて、豪族の擅横(せんわう)をつらにくしとも思(おもは)ずうなじを垂るゝは、流石(さすが)に名山大川の威霊も半(なかば)死せしやと覚(おぼえ)て面白からず。「追懐(レコレクシヨン)」のみは其地を我故郷とうなづけど、「希望(ホープ)」は我に他(ほか)の故郷を強ゆる如し。
 回顧すれば七歳のむかし、我が早稲田にありし頃、我を迷はせし一幻境ありけり。軽々しくも夙少(わか)くして政海の知己を得つ、交りを当年の健児に結びて、欝勃(うつぼつ)沈憂のあまり月を弄(ろう)し、花を折り、遂には書を抛(な)げ筆を投じて、一二の同盟と共に世塵を避けて、一切物外の人とならんと企てき。今にして思へば政海の波浪は自(おのづ)から高く自から卑(ひく)く、虚名を貪り俗情に蹤(お)はるゝの人には棹(さを)を役(つか)ひ、橈(かい)を用ゆるのおもしろみあるべきも、わが如く一片の頑骨に動止を制し能はざるものゝ漂ふべきところならず。然(さ)れども我は実にこの波浪に漂蕩(へうたう)して、悲憤慷慨の壮士と共に我が血涙を絞りたりしなり。醜悪なる社界を罵蹴して一蹶(いつけつ)青山に入り、怪しげなる草廬(さうろ)を結びて、空しく俗骨をして畸人の名に敬して心には遠(とほざ)けしめたるなり。この時に我が為めにこの幻境を備へ、わが為にこの幻境の同住をなせしものは、相州の一孤客大矢蒼海なり。
 はじめてこの幻境に入りし時、蒼海は一田家に寄寓せり、再び往きし時に、彼は一畸人の家に寓せり、我を駐(とゞ)めて共に居らしめ、我を酔はしむるに濁酒あり、我を歌はしむるに破琴(やぶれごと)あり、縦(ほしいまゝ)に我を泣かしめ、縦に我を笑はしめ、我(わが)素性(そせい)を枉(ま)げしめず、我をして我疎狂を知るは独り彼のみ、との歎を発せしめぬ。おもむろに庭樹を瞰(なが)めて奇句を吐かんとするものは此家の老畸人、剣を撫(なで)し時事を慨(うれ)ふるものは蒼海、天を仰ぎ流星を数ふるものは我れ、この三箇(みたり)一室に同臥同起して、玉兎(ぎよくと)幾度(いくたび)か罅(か)け、幾度か満ちし。
 三たび我が行きし時に、蒼海は幾多の少年壮士を率ゐて朝鮮の挙に与(あづか)らんとし、老畸人も亦た各国の点取(てんしゆ)に雷名を轟かしたる秀逸の吟咏を廃して、自村の興廃に関るべき大事に眉をひそむるを見たり。この時に至りて我は既に政界の醜状を悪(に)くむの念漸く専らにして、利剣を把(と)つて義友と事を共にするの志よりも、静かに白雲を趁(お)ふて千峰万峰を攀(よ)づるの談興に耽(ふけ)るの思望大(おほい)なりければ、義友を失ふの悲しみは胸に余りしかども、私(ひそ)かに我が去就を紛々たる政界の外(ほか)に置かんとは定めぬ。この第三回の行(かう)、われは髪を剃り□(つゑ)を曳きて古人の跡を蹈み、自(みづ)から意向を定めてありしかば義友も遂に我に迫らず、遂に大坂の義獄に与(あづか)らざりしも、我が懐疑の所見朋友を失ひしによりて大に増進し、この後幾多の苦獄を経歴したるは又た是非もなし。
 狂ひに狂ひし頑癖も稍(やゝ)静まりて、茲年(ことし)人間生活の五合目の中阪にたゆたひつゝ、そゞろに旧事を追想し、帰心矢の如しと言ひたげなるこの幻境に再遊の心は、この春松島に遊びし時より衷裡(ちゆうり)を離れず。幸にして大坂の事ありてより消息絶えて久しき蒼海も、獄を出でゝ近里に棲(す)めば、書を飛ばして三個(みたり)同遊せんことを慫(すゝ)むるに、来月まで待つべしとの来書なり。我は一日を千秋と数へて今日まで待ちつるものを、今更に閑暇を得ながら行くべきところに行かぬは、あさはかな心の虫の焦(いら)つを抑へかねて、一書を急飛し、飄然(へうぜん)家を出でゝ彼幻境(かのげんきやう)に向ひたるは去月二十七日。
 この境(きやう)、都を距(へだつ)ること遠からず、むかし行きたる時には幾度(いくたび)か鞋(わらぢ)の紐をゆひほどきしけるが、今は汽笛一声新宿を発して、名にしおふ玉川の砧(きぬた)の音も耳には入らで、旅人の行きなやむてふ小仏の峰に近きところより右に折れて、数里の山径(やまみち)もむかしにあらで腕車(わんしや)のかけ声すさまじく、月のなき桑野原、七年の夢を現(うつゝ)にくりかへして、幻境に着きたる頃は夜も既に十時と聞きて驚ろきたり。この幻境の名は川口村字(あざ)森下(もりした)、訪ふ人あらば俳号龍子(りゆうし)と尋ねて、我が老畸人を音づれよかし。
 龍子は当年六十五歳、元と豪族に生れしが少(わか)うして各地に飄遊し、好むところに従ひて義太夫語りとなり、江都(えど)に数多き太夫の中(うち)にも寄席に出でゝは常に二枚目を語りしとぞ。然(さ)れども彼は元来一個(ひとり)の侠骨男子、芸人の卑下なる根性を有(も)たぬが自慢なれば、あたらしき才芸を自ら埋没して、中年家に帰り父祖の産を継ぎたりしかど、生得の奇骨は鋤犂(じより)に用ゆべきにあらず、再三再四家を出でゝ豪侠を以て自から任じ、業は学ばずして頭領株の一人となり、墨つぼ取つては其道の達人を驚かしめ、風流の遊塲(あそびば)に立ちては幾多の佳人を悩殺して今に懺悔(ざんげ)の種を残し、或時は剣(つるぎ)を挺して武人の暴横に当り、危道を蹈み死地に陥りしこと数を知らず。然(さ)れども我が知りてよりの彼は、沈静なる硬漢、風流なる田人、園芸をわきまへ、俳道に明らかに、義太夫の節に巧みに、刀剣の鑑定にぬきんで、村内の葛藤を調理するに威権ある二十貫男、むかし三段目の角力(すまふ)を悩ませし腕力たしかに見えたり。
 わが幻境は彼あるによりて幻境なりしなり。わが再遊を試みたるも寔(まこと)に彼を見んが為なりしなり。我性尤も侠骨を愛す。而して今日の社界まことの侠骨を容るゝの地なくして、剽軽(へうけい)なる壮士のみ時を得顔に跳躍せり。昨日の一壮士、奇運に遭会し代議士の栄誉を荷ひて議場に登るや、酒肉足りて脾下(ひか)見苦しく肥ゆるもの多し、われは此輩に会ふ毎に嘔吐を催ふすの感あり。世に知られず人に重んぜられざるも胸中に万里の風月を蓄へ、綽々(しやく/\)余生を養ふ、この老侠骨に会はんとする我が得意は、いかばかりなりしぞ。
 車を下(を)り閉せし雨戸を叩(たゝ)かんとするに、むかしながらの老婆の声はしはぶきと共に耳朶(じだ)をうちぬ。次いで少婦(せうふ)の高声を聞きぬ。わが手は戸に触れて音なふ声と共に、中には早や珍客の来遊におどろける言葉を洩らせるものあり。わが音(おん)むかしに変らぬか、なつかしきものは往日(わうじつ)の知音(ちいん)なり。戸は開かれて我は迎へ入れられしが、老畸人の面(おもて)を見ず、之を問へば八王子にありと言ふ、八王子ならば車を駆つて過(よ)ぎり来(き)しものを、この時われは呆然として為すところを知らず。
 埋火(うづみび)をかき起して炉辺(ろへん)再びにぎはしく、少婦は我と車夫との為に新飯を炊(かし)ぎ、老婆は寝衣(しんい)のまゝに我が傍にありて、一枚の渋団扇(しぶうちは)に清風をあほりつゝ、我が七年の浮沈を問へり。ふところに収めたる当世風の花簪(はなかんざし)、一世一代の見立(みたて)にて、安物ながらも江戸の土産(みやげ)と、汗を拭きふき銀座の店にて購(か)ひたるものを取出して、昔日(むかし)の少娘(こむすめ)のその時五六歳なりしものゝ名を呼べば、早や寝床に入れりと言ふ、枉(ま)げてその顔見せてよと乞へば、やがて出で来りて一礼す。驚かるゝまでに変りて、その名にしれし年の数もかさなりて、今は十三歳と聞けばなつかしき山百合(やまゆり)の、いま幾年(いくとせ)たゝば人目にかゝらむなど戯れける中(うち)に、老婆は他(ほか)の小娘の、むかしの少娘のとしばへなるものを抱(いだ)き来りて我を驚ろかせぬ。その名をぬひと呼ぶと聞きて、行先(ゆくさき)人の妻となりてたちぬひの業に家を修むる吉瑞(きちずゐ)ありと打ち笑ひぬ。時も移りて我は老婆と少娘との紙帳(しちやう)に入りて一宵(いつせう)を過ごしぬ。この夜は七年の刺(とげ)多き浮世の旅路を忘却し、安らかなる眠りに入りて楽しかりけり。
 明くれば早暁(さうげう)、老鶯の声を尋ねて欝叢たる藪林(そうりん)に分け入り、旧日の「我(われ)」に帰りて夢幻境中の詩人となり、既往と将来とを思ひめぐらして、神気甚だ爽快なり。老婆は後庭(こうてい)に植ゑたる百合数株、惜気もなく堀りとりて我が朝餉(あさげ)の膳に供し、その花をば古びたる花瓶に活(い)けて、我が前に置据ゑぬ。人を市(いち)に遣りて老畸人に我が来遊を告げしめ、われに許して彼が秘蔵の文庫に入りて、其終生の秘書なる義太夫本を雑抽(ざふちう)せしめたり。午(ひる)になれど老人未だ帰らず、我は人を待つ身のつらさを好まねば、少娘と其が兄なる少年とを携へて、網代(あじろ)と呼べる仙境に蹈入れり。網代は山間の一温泉塲なり、むかし蒼海と手を携へて爰(こゝ)に遊びし事あり、巌に滴(したゝ)る涓水(けんすゐ)に鉱気ありければ、これを浴室にうつし、薪火(しんくわ)をもて暖めつゝ、近郷近里の老若男女、春冬の閑時候に来り遊ぶの便に供せり。一条(ひとすぢ)の山径(やまみち)草深くして、昨夕(ゆうべ)の露なほ葉上(はのうへ)にのこり、□(かゝ)ぐる裳(もすそ)も湿(ぬ)れがちに、峡々(はざま/\)を越えて行けば、昔遊(むかしあそび)の跡歴々として尋ぬべし。老鶯に送迎せられ、渓水に耳奪はれ、やがて砧の音と欺かれて、とある一軒(ひとむね)の後ろに出づれば、仙界の老田爺が棒打とか呼べることをなすにてありけり。こゝは網代の村端(むらはづれ)にて、これより渓澗(けいかん)に沿ひ山一つ登れば、昔し遊びし浴亭、森粛(しんしゆく)たる叢竹の間にあらはれぬ。この行甚だ楽しからず、蒼海約して未だ来らず、老侠客の面(かほ)未だ見(みえ)ず、加(くはふ)るに魚なく肉なく、徒らに浴室内に老女の喧囂(けんがう)を聞くのみ。肱(ひぢ)を曲げて一睡を貪(むさ)ぼると思ふ間(ま)に、夕陽已(すで)に西山(せいざん)に傾むきたれば、晩蝉(ばんせん)の声に別れてこの桃源を出で、元の山路に拠(よ)らで他の草径(くさみち)をたどり、我幻境にかへりけり、この時弦月漸く明らかに、妙想胸に躍り、歩々天外に入るかと覚えたり。
 楼上には我を待つ畸人あり、楼下には晩餐(ばんさん)の用意にいそがしき老母あり、弦月は我幻境を照らして朦朧(もうろう)たる好風景、得(え)も言はれず。階を登れば老侠客莞爾(くわんじ)として我を迎へ、相見て未だ一語を交(か)はさゞるに、満堂一種の清気盈(み)てり。相見ざる事七年、相見る時に驟(には)かに口を開き難し、斯般(このはん)の趣味、人に語り易からず。始めは問答多からず、相対して相笑ふのみなりしが、漸く談じ漸く語りて、我は別後の苦戦を説き起しぬ。
 この過去の七年、我が為には一種の牢獄にてありしなり。我は友を持つこと多からざりしに、その友は国事の罪をもつて我を離れ、我も亦た孤□(こけい)為すところを失ひて、浮世の迷巷に蹈み迷ひけり。大俗の大雅に双(くら)ぶべきや否やは知らねど、我は憤慨のあまりに書を売り筆を折りて、大俗をもつて一生を送らんと思ひ定めたりし事あり、一転して再び大雅を修めんとしたる時に、産破れ、家廃(すた)れて、我が痩腕をもて活計の道に奔走するの止むを得ざるに至りし事もあり。わが頑骨を愛して我が犠牲となりし者の為に、半知己の友人を過(あやま)ちたりし事もあり。修道の一念甚だ危ふく、あはや餓鬼道に迷ひ入らんとせし事もあり、天地の間に生れたるこの身を訝(いぶ)かりて、自殺を企てし事も幾回なりしか、是等の事、今や我が日頃無口の唇頭(しんとう)を洩れて、この老知己に対する懺悔となり、刻(とき)のうつるも知らで語りき。
 しばらくありて老婆は酒を暖め来りて、飲まずと言ふ我に一杯を強ひ、これより談話一転して我幻境の往事(わうじ)に入れり。淡泊洗ふが如き孤剣の快男児(蒼海)この席の談笑を共にせざるこそ終生の恨なり。少婦(せうふ)も出で来り、当時の主人なる無口男も席に進みて、或は旧時の田花の今は已に寡婦になりしを語り、或は近家の興廃浮沈に説き及び、或は我が棲(す)むところを問ひなどしつ、この夜の興味は抹(まつ)すべからざる我生涯の幻夢なるべし。就中(なかんづく)、老母は我が元来の虚弱にて学道(まなびのみち)に底なき湖(うみ)を渡るを危ぶみて、涙を浮べて我が健全を祈るなど、都に多き知己にも増して我が上を思ふの真情、ありがたしとも尊(た)ふとしとも言はん方なし。
 この夜の紙帳(しちやう)は広くして、我と老侠客と枕を並べて臥せり、屋外の流水、夜の沈むに従ひて音高く、わが遊魂を巻きて、なほ深きいづれかの幻境に流し行きて、われをして睡魔の奴(ど)とならしめず。翁も亦(ま)たねがへりの数に夢幾度(いくたび)かとぎれけむ、むく/\と起きて我を呼び、これより談話俳道の事、戯曲の事に闌(たけなは)にして、いつ眠(ね)るべしとも知られず。われは眠(ねむ)りの成らぬを水の罪(とが)に帰して、
七年を夢に入れとや水の音
と吟(よ)みけるに、翁はこれを何とか読み変へて見たり。翁未だ壮年の勇気を喪(うしな)はざれど、生年限りあれば、かねて存命に石碑を建つるの志あり、我が来るを待ちて文を属(しよく)せしめんとの意を陳(のべ)ければ、我は快よく之を諾しぬ、又た彼の多年苦心して集めし義太夫本、我を得て沈滅の憂ひなきを喜び、其没後には悉皆(しつかい)我に贈らんと言ひければ、我は其好意に感泣しぬ。翁の秀逸一二を挙ぐれば、
夢いくつさまして来しぞほとゝぎす
こゝに寝む花の吹雪に埋(うづ)むまで
なほ名吟の数多くあり、我他日、翁の為に輯集(しふ/\)の労を取らんことを期す。この夜、翁の請に応じて即吟、白扇に題したる我句は、
越えて来て又一峰(ひとみね)や月のあと
 暁天の白むまで眠り得ず、翌朝日闌(た)けて起き出でたるは、いつの間にか明方の熟睡に入りたりしと覚ゆ。蒼海遂に来らねば、老侠と我と車を双(なら)べて我幻境の門を出づ、この時老婆は呉々も我再遊の前(さき)の如く長からざるべきを請ふに、この秋再びと契りて別れたり。行くところは高雄山。同伴(つれ)はおもしろし、別して月も宵にはあるべし、この夜の清興を思へば、涼風盈(み)ちて車上にあり。

     (下)

 むかしわれ蒼海と同(とも)に彼幻境に隠れしころ、山に入りて炭焼、薪木樵(たきゞこり)の業(わざ)を助くるをこよなき漫興となせしが、又た或時は彼家(かのいへ)の老婆に破衣(やれぎぬ)を借りて、身をやつしつ炭売車(すみうりぐるま)の後(あと)に尾(つ)きて、この市(まち)に出づるをも楽しみき。
 斯(かゝ)る無邪気の労力をもて我はわが胸中に蟠(わだかま)りたる不平を抑へつ、疲れて帰る夜の麦飯(むぎめし)の味、今に忘れず、老畸人わが往事を説きて大に笑ふ時、われは頭を垂れて冥想す。昔日(せきじつ)のわが不平、幽鬼の如くにわが背後(うしろ)に立ちて呵々(かゝ)とうち笑ふ。遮莫(さもあらばあれ)、わがルーソー、ボルテイアの輩(はい)に欺かれ了らず、又た新聞紙々面大の小天地に□翔(かうしやう)して、局促たる政治界の傀儡子(くわいらいし)となり畢(をは)ることもなく、己(おの)が夙昔(しゆくせき)の不平は転じて限りなき満足となり、此満足したる眼(まなこ)を以(も)て蛙飛ぶ古池を眺(ながむ)る身となりしこそ、幸ひなれ。
 余は八王子に一泊するを好まざりしと雖(いへども)、老人の意見枉(ま)げ難く止むことを得ずして、俗気都にも増せる市塵(しぢん)の中(うち)に一夜を過せり。明くれば早暁覊亭(きてい)を出で、馬車に投じて高雄山に向ふ、この時のわが口占(くちずさみ)は、
すゞ風や高雄まうでの朝まだち
 路に梭(をさ)の音(おと)の高く聞ゆる家ありければ眼(まなこ)を転じて見るに、花の如き少女(むすめ)ありて杼(ひ)を用ゆること甚だ忙(せ)はし、わが蓬莱曲の露姫が事を思ひ出でゝなつかしければ、能く其面(おもて)を見んとするに、馬車は行き過ぎてその事かなはず、彼少女が□の外におもしろき花の咲けるに心づきて、其名を問へば、鋸草(のこぎりさう)なりと言(いふ)に、少女の風流思ひやられて、句一つ読みたれども難あれば載せず。
 琵琶滝より流れ落つる水のほとりの茶亭にて馬車に別れ、これより登り三十八丁、といふも霊山の路は遠からず。道すがら巣林子の曲を評しあひ、治兵衛梅川などわが老畸人の得意の節おもしろく間拍子とるに歩行(かち)も苦しからず、蛇(じや)の滝をも一見せばやと思しが、そこへも下(おり)ず巌角に憩(いこひ)て、清々冷々の玄風(げんぷう)を迎へ、体(たい)静(しづか)に心閑(のどか)にして、冥思を自然の絶奥(ぜつおく)に馳せて、聊(いさゝ)か平生の煩羅を洗ふ。幽山に登(のぼる)の興は登(のぼり)つきたる時にあらず、荒榛(くわうしん)を披(ひら)き、峭※(せうがく)[#「山+咢」、98-下-12]を陟(わた)る間にあるなり、栄達は羨(うらや)むべきにあらず、栄達を得るに至るまでの盤紆(はんう)こそ、まことに欽(きん)すべきものなるべし。
 頂上にのぼり尽きたるは真午(まひる)の頃かとぞ覚えし、憩所(やすみどころ)の涼台(すゞみだい)を借り得て、老畸人と共に縦(ほしい)まゝに睡魔を飽かせ、山鶯(うぐひす)の声に驚かさるゝまでは天狗と羽(は)を并べて、象外(しやうぐわい)に遊ぶの夢に余念なかりき。
この山に鶯の春いつまでぞ
 とはわがねぼけながらの句なり。老畸人も亦たむかしの豪遊の夢をや繰り返しけむ、くさめ一つして起き上(あがり)たれば、冷水(ひやみづ)に喉(のんど)を湿(う)るほし、眺めあかぬ玄境にいとま乞して山を降れり。
 琵琶滝を過ぎ、かねて聞く狂人の様(さま)を一見し、かつは己れも平生の風狂を療治せばやの願ありければ、折れて其処(そのところ)に下(くだ)るに、聞きしに違はず男女の狂人の態(さま)、見るもなか/\に凄(すご)くあはれなり。そが中(なか)には家を理(り)するの良妻もあるべく、業(わざ)に励むの良工もあるべし、恋のもつれに乱れ髪の少女(をとめ)もあらむ、逆想に凝(こ)りて世を忘れたる小ハムレットもあらむ。
 われを見ていづれより来ませしぞと問ひかけたる少年こそは、狂ひて未だ日浅き田里(でんり)の秀才と覚えたり、世間真面目の人、真面目の言を吐かず、却(かへ)つてこの狂秀才の言語、尤も真意を吐露すらし。われは極めて狂人に同情を有するものなり、かつて狂者それがしの枕頭にあること三日、己れも之に感染するばかりになりて堪(た)へがたかりし事ありしが、今も我は狂人と共に長く留まる事能はず。琵琶滝はさすがに霊瀑なり、神々しきこと比類多からず、高巌(かうがん)三面を囲んで昼なほ暗らく、深々(しん/\)として鬼洞に入るの思ひあり、いかなる神人ぞ、この上に盤桓(ばんくわん)してこの琵琶の音(ね)をなすや、こゝに来てこの瀑にうたれて世に立ち帰る人の多きも、理(ことわり)とこそ覚ゆるなれ、われは迷信とのみ言ひて笑ふこと能はず。
 こゝを立ち去りてなほ降(くだ)るに、ひぐらしの声涼しく聞えたれば、
日ぐらしの声の底から岩清水
 この夜は山麓の覊亭に一泊し、あくる朝連立(つれだつ)て蒼海を其居村に訪ひ、三個(みたり)再び百草園(もぐさゑん)に遊びたることあれど、記行文書きて己れの遊興を得意顔に書き立つること平生好まぬところなれば、こゝにて筆を擱(かく)しぬ。
(明治二十五年八月)



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