「罪と罰」の殺人罪
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著者名:北村透谷 

 不知庵主人(フチアンシユジン)の譯(やく)に成(な)りし罪(つみ)と罰(ばつ)に對(たい)する批評(ひゝやう)仲々(なか/\)に盛(さかん)なりとは聞(きゝ)けるが、病氣(びやうき)其他(そのた)の事(こと)ありて余(よ)が今日(こんにち)までに見(み)たるは僅(わづか)に四五種(しごしゆ)のみ、而(しか)して其中(そのうち)にも學海先生(ガクカイセンセイ)が國民(こくみん)の友(とも)に掲(かゝ)げられし評文(ひようぶん)は特(こと)に見目立(みめた)ちて見(み)えぬ。余(よ)は平生(へいぜい)學海居士(ガクカイコジ)が儒家(じゆか)らしき文氣(ぶんき)と馬琴(バキン)を承(う)けたる健筆(けんひつ)に欽羨(きんせん)するものなるが、罪(つみ)と罰(ばつ)に對(たい)する居士(コジ)の評文(ひようぶん)の餘(あま)りに居士(コジ)を代表(だいひよう)する事(こと)の多(おほ)きには聊(いさゝ)か當惑(とうわく)するところなき能(あた)はざりし。
 居士(コジ)は、人命犯(じんめいはん)には必(かな)らず萬已むを得ざる原因ある事(こと)を言(い)ひ、財主(ざいしゆ)の老婆(ろうば)が、貪慾(どんよく)を憤(いきど)ふるのみの一事(いちじ)にして忽(たちま)ち殺意(さつい)を生(せう)ずるは殺人犯の原因としては甚だ淺薄なりと言(い)ひ、而(しか)して自(みづか)ら辨(べん)じて言(い)はるゝは、作者(さくしや)の趣意(しゆい)は、殺人犯(さつじんはん)を犯(おかし)たる人物(じんぶつ)は、その犯後(はんご)いかなる思想(しそう)を抱(いだ)くやらんと心(こゝろ)を用(もち)ひて推測(おしはか)り精微(せいび)の情(じよう)を寫(うつ)して己が才力を著はさんとするのみと。再(ふたゝ)び曰(いは)く、その原因の如きはもとより心を置くにあらずと。末段(まつだん)更(さら)に、財主(ざいしゆ)の妹(いもうと)を殺(ころ)したる一條(いちじよう)を難(なん)じて「その氣質(きしつ)はかねて聞(きゝ)たる正直質樸(せうじきしつぼく)のものたるに、これをも殺したるはいかにぞや………さてはのち我(われ)にかへりて大にこれを痛み悔ゆべきに、」云々と言(い)はれたり。
 余(よ)は學海居士(ガクカイコジ)の批評(ひゝよう)に對(たい)して無用(むよう)の辨(べん)を費(つい)やさんとするものにあらず、右(みぎ)に引(ひ)きたるは、居士(コジ)の批評法(ひゝやうほふ)の如何(いか)に儒教的(じゆけふてき)なるや、いかに勸善懲惡的(くわんぜんてふあくてき)なるやを示(しめ)さんとしたるのみ、居士(コジ)には居士(コジ)の定見(ていけん)あり、そを評論(ひやうろん)せんは一朝(てふ)一夕(せき)の業(わざ)にはあらじ。
 余は「罪と罰」第一卷(くわん)を通讀(つうどく)すること前後(ぜんご)二囘(くわい)せしが、その通讀(つうどく)の際(さい)極(きは)めて面白(おもしろ)しと思(おも)ひたるは、殺人罪(さつじんざい)の原因(げんいん)のいかにも綿密(めんみつ)に精微(せいび)に畫出(くわくしゆつ)せられたる事(こと)なり、もし或(ある)兇漢(けふかん)ありて或(ある)貞婦(ていふ)を殺(ころ)し、而(しか)して後(のち)に或(ある)義士(ぎし)の一撃(いちげき)に斃(たほ)れたりと書(か)かば事理分明(じりぶんめい)にして面白(おもしろ)かるべしと雖(いへども)、罪(つみ)と罰(ばつ)の殺人罪(さつじんざい)は、この規矩(きく)には外(はづ)れながら、なほ幾倍(いくばい)の面白味(おもしろみ)を備(そな)へてあるなり。
 一醉漢(すいかん)ありて酒毒(しゆどく)の爲(ため)に神經(しんけい)を錯亂(さくらん)せられ、これが爲(ため)に自殺(じさつ)するに至(いた)りたる事(こと)ある時(とき)は、彼は酒故に自殺したりと言(い)ふを躊躇(ちうちよ)せざるべし、酒は即ち自殺の原因なり。一頑漢(ぐわんかん)ありて、社會の制裁と運命の自然なる威力に從順なる事能はず、これが爲(ため)に人(ひと)には擯(しりぞ)けられ、世(よ)には捨(す)てられ、事業を愚弄し、人間をくだらぬものとし、階級秩序の如きをうるさきものとし、誠愛誠實を無益のものと思ひ、無暗に人を疑ひ、矢鱈に天を恨み、その極(きよく)遂(つい)に精神(せいしん)の和(やわらぎ)を破(やぶ)りて行(おこな)ふべからざる事(こと)を行(おこな)ひ自(みづか)ら知(し)らざる程(ほど)の惡事(あくじ)を爲遂(しと)ぐる事(こと)あらば、其(その)惡事(あくじ)例(たと)へば殺人罪(さつじんざい)の如(ごと)き惡事(あくじ)は意味(いみ)もなく、原因(げんいん)も無(な)きものと云(い)ふを得(う)べきや、之(これ)を心理的(しんりてき)に解剖(かいぼう)して仔細(しさい)に其(その)罪惡(ざいあく)の成立(なりたち)に至(いたる)までの道程(みちのり)を描(ゑが)きたる一書(いつしよ)を淺薄(せんはく)なりとして斥(しりぞ)くる事(こと)を得(う)べきや。
 殺人罪(さつじんざい)は必(かな)らずしも或見ゆべき原因によりて成立つものにあらざるなり、必(かな)らずしも酬報(しゆうほう)の理論(りろん)若(もし)くは勸善懲惡(くわんぜんてふあく)の算法(さんほう)より割出(わりだ)し得(う)るものにあらざるなり、我(わ)が「罪と罰」一卷(くわん)に見(み)るところのもの全篇(ぜんへん)悉く慘憺たる血くさき殺戮の跡を印するを認むるなり、見(み)よ飮酒(いんしゆ)は彼(かの)非職官吏(ひしよくくわんり)を殺(ころ)しつゝあるにあらずや非職官吏(ひしよくくわんり)の放蕩懶惰(はうとうらんだ)は其(その)愛(あい)らしき妻(つま)を殺(ころ)しつゝあるにあらずや其(その)無邪氣(むじやき)の娘(むすめ)を殺(ころ)しつゝあるにあらずや、婬賣と名け肺病と名け、※[#「りっしんべん+隋」、109-下-4]慢と名つくるもの、これ實に精神的に死してあるなり殺してあるなり、悲哀懊惱の幽暗なる事は「死」の幽暗なるよりも多きなり。讀者(とくしや)余(よ)が言(げん)を信(しん)ぜずば罪と罰に就(つ)きて、更(さら)に其他(そのた)の記事(きじ)を精讀(せいどく)せられよ、思(おも)ひ盖(けだ)し半(なかば)に過(す)ぎんか。
 余が前號(ぜんごう)の批評(ひゝよう)にも云(い)ひし如(ごと)く罪と罰とは最暗黒(さいあんこく)の露國(ロコク)を寫(うつ)したるものにてあるからに馬琴(バキン)の想像的侠勇談(そうぞうてきけふゆうだん)にある如(ごと)く或(ある)復讎(ふくしゆう)或(あるは)忠孝等(ちゆうこうとう)の故(ゆえ)を以(も)て殺人罪(さつじんざい)を犯(おか)さしめたるものにあらざること分明(ぶんめい)なり。最暗黒(さいあんこく)の社會(しやくわい)にいかにおそろしき魔力の潛むありて學問(がくもん)はあり分別(ふんべつ)ある腦膸(のうずい)の中(なか)に、學問(がくもん)なく分別(ふんべつ)なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためろ)ふべきほどの惡事(あくじ)をたくらましめたるかを現(あら)はすは蓋(けだ)しこの書(しよ)の主眼(しゆがん)なり。而(しか)して斯(かく)の如(ごと)く偶然の機會よりして偶然の殺戮を見得るが故に、一見(けん)して淺薄(せんはく)にして原因(げんいん)もなきものゝ種(たね)なる、この書(しよ)の眞價(しんか)は實(じつ)に右(みぎ)に述(の)べたる魔力(まりよく)の所業(しよげふ)を妙寫(みようしや)したるに於(おい)て存するのみ。もしこの評眼(ひようがん)をもちて財主の妹を財主と共に虐殺したる一節を讀(よ)まば、作者(さくしや)の用意(ようい)の如何に非凡(ひぼん)なるかを見(み)るに惑(まど)はぬなるべし。
 作者(さくしや)は何(なん)が故(ゆえ)にラスコーリニコフが氣鬱病(きうつびやう)に罹(かゝ)りたるやを語(かた)らず開卷(かいかん)第一に其(その)下宿住居(げしゆくじゆうきよ)を點出(てんしつ)せり、これらをも原因(げんいん)ある病氣(びやうき)と言(いひ)て斥(しりぞ)けたらんには、この書(しよ)の妙所(みやうしよ)は終(つい)にいづれにか存(そん)せんや。何(なん)が故(ゆえ)に私宅教授(したくけふじゆ)の口がありても錢取道(ぜにとるみち)を考(かんが)へず、下宿屋(げしゆくや)の婢(ひ)に、何(なに)を爲(し)て居(ゐ)ると問(と)はれて考(かんが)へる事(こと)を爲(し)て居(ゐ)ると驚(おどろ)かしたるや。何(なん)が故(ゆへ)に、婬賣(いんばい)女に罪(つみ)を行(おこな)ふ資本(しほん)と知(し)りながら、香水料(こうすいりよう)の慈惠(じけい)を爲(な)せしや、何(なん)が故(ゆへ)に少娘(むすめ)を困厄(こんやく)せしめし惡漢(あくかん)をうちひしぐなどの正義(せいぎ)ありて、而(しか)して己(おの)れ自(みづか)ら人(ひと)を殺(ころ)すほどの惡事(あくじ)を爲(な)せしや、何(なん)が故(ゆへ)に極(きは)めて正直(せうじき)なる心(こゝろ)を以(もつ)て、極(きは)めて愛情(あいじよう)にひかさるべき性情(せいじよう)を以(も)て而(しか)して母(はゝ)と妹(いもと)の愛情(あいじよう)を冷笑(れいしよう)するに至(いた)りしや、何(なん)が故(ゆえ)に一人(にん)の益(えき)なきものを殺(ころ)して多人數(たにんず)を益(えき)する事(こと)を得(え)ば惡(あ)しき事(こと)なしといふ立派(りつぱ)なる理論(りろん)をもちながら流用(りうよう)する事(こと)覺束(おぼつか)なき裝飾品(そうしよくひん)數個(すこ)を奪(うば)ひしのみにして立去(たちさ)るに至(いた)りしか、何(なん)が故(ゆえ)にこの裝飾品(そうしよくひん)を奪(うば)ふは單(たん)に斬取強盜(きりどりごうとう)の所爲(しよい)にして苟(いやし)くも理論(りろん)を搆(かま)へたる大學生(だいがくせい)の爲(な)すべからざるところなるを忘(わす)れしか、是等の凡ての撞着、是等の凡ての調子はづれ、是等の凡ての錯亂、は即(すなは)ち作者(さくしや)が精神(せいしん)を籠(こ)めて脚色(きやくしよく)したるもの、而(しか)して其(その)殺人罪(さつじんざい)を犯(おか)すに至(いた)りたるも、實(じつ)に是(こ)れ、この錯亂(さくらん)、この調子(てふし)はづれ、この撞着(どうちやく)より起(おこ)りしにあらずんばあらず。而して斯(か)くこの書(しよ)の主人公(しゆじんこう)を働(はたら)かせしものは即ち無形の社會而已なること云を須たず。
 運命(うんめい)人間(にんげん)の形(かたち)を刻(きざ)めり、境遇(けふぐう)人間(にんげん)の姿(すがた)を作(つく)れり、不可見の苦繩人間の手足を縛せり、不可聞の魔語人間の耳朶を穿てり、信仰(しんこう)なきの人(ひと)、自立(じりつ)なきの人(ひと)、寛裕(かんゆう)なきの人(ひと)、往々(おう/\)にして極めて愍(あは)れむべき悲觀(ひかん)に陷(おちい)ることあるなり、之(これ)に加(くわ)ふるに頑愚の迷信あり、誤謬の理論あり、惑溺の癡心あり、無憑の恐怖あり、盲目の驕慢あり、涯なき天と底なき地の間に
What a poor wretched creature as I am,
Creeping between heaven and earth.
と絶叫(ぜつけふ)するもの、豈(あに)ハムレツトのみならんや。
 來島(クルシマ)某、津田(ツダ)某、等(とう)のいかに憐(あは)れむべき最後(さいご)を爲(な)したるやを知(し)るものは、罪と罰の殺人(さつじん)の原因(げんいん)を淺薄(せんはく)なりと笑(わら)ひて斥(しりぞ)くるやうの事(こと)なかるべし、利慾よりならず、名譽よりならず、迷信よりならず、而(しか)して別(べつ)に或(ある)誤謬(ごびゆう)の存(そん)するあるにもあらずしてこの殺人(さつじん)の罪(つみ)を犯(おか)す、世に普通なるにあらずして、しかも普通なる理由によつてなり、これを寫(うつ)す極(きは)めて難(かた)し、これを讀(よ)むものも亦(ま)た其(その)心(こゝろ)して讀(よま)ざる可(べ)からず、涙香(ルイコウ)子探偵小説(たんていせうせつ)の如(ごと)く俗(ぞく)を喜(よろこ)ばすものにてなき由を承知(しようち)して一讀(どく)せば自(みづか)ら妙味(みようみ)を發見(はつけん)すべきなり、余はこの書(しよ)を讀者(どくしや)に推薦(すいせん)するを憚(はばか)らず、學海居士(ガクカイコジ)の評文(ひようぶん)の目(め)に付(つ)きたるも之(これ)を以(もつ)てなり。(夜(よ)晩(おそ)く時(とき)少(すく)なく文意(ぶんい)悉(つく)さず之(これ)を諒(りよう)せよ)
(明治二十六年一月十四日「女學雜誌」甲の卷、第三三六號)



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