主のつとめ
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著者名:北村透谷 

「汝ら只ヱホバをかしこみ心をつくして誠にこれにつかへよ」
(撒母耳前書(さむえるぜんしよ)第十二章二十四節)(七月分日課)
 この月の日課なる馬太伝(マタイでん)の中(うち)には神の王国に就きて重要なる教へ多くあり。主(しゆ)のつとめは実に栄(さかえ)あるものにして、之を守るものは、尤も福(さいはひ)にして尤も恩(めぐみ)あるものとす。主のつとめには種々(くさ/″\)の類(たぐひ)あり、或は難く或は易し、或は己れの利益に適(かな)ひ、或は然らず、基督(キリスト)我等に語りて曰く、「凡(すべ)て労(つかれ)たる者また重(おもき)を負(おへ)る者は我に来れ我なんぢらを息(やす)ません、我は心柔和にして謙遜者(へりくだるもの)なれば我軛(わがくびき)を負て我に学(ならへ)なんぢら心に平安(やすき)を獲(う)べし、蓋(そは)わが軛は易(やすく)わが荷は軽(かろ)ければ也」(馬太伝十一章、二十八節より三十節)。
 主は爰(こゝ)に、難くして且つ酷(むご)き多くの他の主(しゆ)に就けるものを招き玉ふ。彼等は重きを負ふて長途を行きたれば痛く疲れてあり。我儕(われら)の主は、わが軛は易くわが荷は軽(かろ)しと宣(のたま)ひて、そのつとめの易く、その荷の軽く、その我儕に為さしむるところの極めて簡易なるを示したまへり。
 人の世に処する、必らず何事の職司(しよくし)を有せずんばあらず、或は命を官に受け、或は業(わざ)に民に就く。その或る者は労少なくして酬(むくい)多く、而して其の功も亦た多し、斯(かく)の如きものに対しては、志願者の数も自(おのづか)ら多からざるを得ず。然るにその或るものは、労多くして得(とく)少なく、之に加ふるに社会に対するの名もあることなし。斯の如き職業に就くものは、他の優等の職業に従ふこと能はざるが故に、止(や)むなく之れを守るものなり。或る職業には、すべてのものに於て欠乏を見ることなし、出(いづ)るに車あり、入るに家あり、衣食亦た自ら適するに足るものあり、旅するに費(ついえ)あり、病むときに医あり、何不自由もなく世を渡り、而して又た日暮れ途(みち)尽(つ)くるに及びては年金なるものありて以て晩年を閑遊するに足る。然るに他の職業にては、辛ふじて自(みづか)ら給するに足るものあるのみ、而して適(たまた)ま病魔に犯さるゝ事あらば、誰ありて之を看護するものもなし。斯の如きものは即ちイスラヱルの子孫が埃及(エジプト)にありてなしたる主に対するつとめなり、この事に就きては吾人之を出埃及記(しゆつエジプトき)に録(しる)さるゝを読めり。彼等は実に奴隷の悲境に沈みて、殆ど堪ふべからざる程の過度の労力を負はせられたるなり。罪の奴隷なるものあり、蓋(けだ)しイスラヱル人の埃及にありて受けたる苦痛に過ぐるものは、この罪の奴隷なるべし、羅馬書(ロマしよ)六章二十三節に曰く、「罪の価は死なり」と。
 イスラヱルの子供等が斯(こ)の悲境に沈淪してありし時、神はモーセを遣はして彼等を囚禁より放ちて、カナンの陸に至らしめたり。これと同じく我等が罪の奴隷となりて悲しむべき境遇に陥る時に、神は其の独子(ひとりご)イエス・キリストを遣はして我等を罪の囚禁より救ひ出して、永生(かぎりなきいのち)をもつべきこのつとめに導きたまふなり。「また受造者(つくられしもの)みづから敗壊(やぶれ)の奴(しもべ)たることを脱れ神の諸子(こたち)の栄(さかえ)なる自由に入(いら)んことを許(ゆるさ)れんとの望を有(たもた)されたり」(羅馬書第八章二十一節)とあるは即ち是(これ)なり。職司(つとめ)の種類の中(うち)には、主につけるものにあらずして、その表面は極めて格好に且つ怡楽(たのし)きものなるに似たれど、終りには、死を意味するものあり。険を冒し奇を競ふ世の中(なか)には、利益と名誉とを修(をさ)むるの途甚だ多し、而して尤も利益あり、尤も成功ありと見ゆるものは人を害し人を傷(そこな)ふ的(てき)の物品の製造なり。斯(かく)の如く一時の利益の為に労役する人々は遂には、肉と、霊とを合せて之を死に付すものと言はざる可からず。
 彼等は実に彼等自身を賈(こ)に売り付すものなり、その最後に得るところは悉(こと/″\)く空なり、ひとり空なるのみならず、罪の重荷あり、罪の終なる死あり、豈に悲まざるべけんや。
 主のつとめは何事にも自由に従事するを許せり、その生命(いのち)の為なり、永久の為なり、而してこのつとめに入るものゝ為にはすべて必要なるものは自(おのづ)からに備へられてあるなり、食物も、衣服も、家屋も、是等の必要品に於て必らず自(おのづか)ら給せらるゝところあるべし、之に加ふるに、主は常に彼と共にありて、勇気を与へ、力を与へ、而して最後には渠(かれ)と共に永遠の栄に入らしめたるなり。然れども我儕は主のつとめを為すに於て、主に対する愛と、我等の心の真とを以てせざるべからず。然らざればすべての事、何の益もあるべからず。
 諸君の事(つか)ふるところ如何
「汝らの事(つか)ふべき者を今日(こんにち)選べ」(約書亜記(よしゆあき)二十四、十五)
(明治二十六年七月)



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