哀詞序
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著者名:北村透谷 

 歓楽は長く留り難く、悲音は尽くる時を知らず。よろこびは春の華の如く時に順(したが)つて散れども、かなしみは永久の皷吹をなして人の胸をとゞろかす、会ふ時のよろこびは別るゝ時のかなしみを償ふべからず。はたまた会ふ時の心は別るゝ時の心の万分の一にだも長からず。生を享(う)け、人間(じんかん)に出でゝ、心を労して荊棘(けいきよく)を過(すぐ)る、或は故なきに敵となり、或は故なきに味方となり、恩怨両(ふた)つながら暴雨の前の蛛網(ちゆまう)に似て、徒(いたづ)らに啻(た)だ毛髪の細き縁を結ぶ、夕に笑ひしに因て朝に泣くの果を見つ、朝に泣きしに因つて更に又た夕に笑はんとす、斯の如きは憫(あは)れむべし、斯の如きは悲しむべし、斯の如きは厭(いと)ふべし、我れつら/\世相を観ずるに、誰か亦た斯の如くならざらむ。娼婦の涕は紅涙と賞(たゝ)へられ、狼心の偽捨は慈悲と称(とな)へらる。友と呼び愛人といふも、はしたなきもつれに脆(もろ)くも水と冷ゆるは世の習ひなり、鷺を白しと云ひ、鴉を黒しといふも唯だ目にみゆるところを言ふのみ、人の心を尋ぬれば、よしなきことを諍ひては瞋恚(しんい)の焔(ほむら)を懐にもやし、露ほどの恨みも長(とこ)しへに解くることなく人を毀(そこな)はんと思ふ。右に行くものゝ袂は左に往くものゝ手に把られ、左に行くものも亦た右に往くものに支へらる。鴿(はと)の面をもてる者に蛇の心あり、美はしき果実に怖ろしき毒を含めることあり、洞に近(ちかづ)けば※蛇(げんじや)[#「虫+元」、162-下-19]蟄(ちつ)し、林に入れば猛獣遊ぶ。二世といふ縁に二世あるは少なく、三世といふに三世あるも亦尠(すく)なし、まことの心にて契る誓ひは稀にして、唯だ目前の情と慾とに動くも亦たはかなき至りなり、讐と恩とに於て亦た斯の如し。必らず酬(むく)ふべしと思ふ程ならば、酬はずして自(おのづ)から酬ゆるものを。必らず忘れじといふ恩ならば、忘るゝとも自から忘るまじきを。讐には手をもて酬ひんと思ふこと多く、恩には口をもて報ずること多し。敵と味方に於いて亦た斯の如し。一時の利の為めに味方となるものは、又た一時の害の為めに離るゝを易しとす。一時の害の為めに敵となるものは、又た一時の利の為めに味方となるを易しとす。西風には東に飛び、東風には西に揚(あ)がるは紙鳶(たこ)なり、人の心も大方は斯くの如し。風の西に吹くを能く見るものを達識者と呼び、風の東に転ずるを看破するものあれば、卓見家と称(と)なへんとす。勇者はその風に御して高く飛び、智者はその風を袋に蓄はへて後の用を為す。運よくして思ふこと図に当りなば傲然(がうぜん)として人を凌(しの)ぎ、運あしくして躬(み)蹙(きはま)りなば憂悶して天を恨む。凌がるゝ人は凌ぐ人よりも真に愚かなりや、恨まるゝ天は恨む人の心を測り得べきや。斯の如きは世なり。斯の如きは人間なり。深く心を人世に置くもの、安(いづ)くんぞ憂なきを得ん。安くんぞ悲なきを得ん。甘露を雨(ふ)らす法の道も、世を滋(うる)ほすこと遅く、仁義の教も人の心をいかにせむ。天地の間に我が心を寄するものを求めて得ざれば、我が心は涸れなむ。
 我はあからさまに我が心を曰ふ、物に感ずること深くして、悲に沈むこと常ならざるを。我は明然(あきらか)に我が情を曰ふ、美しきものに意を傾くること人に過ぎて多きを。然はあれども、わが美くしと思ふは人の美くしと思ふものにあらず、わが物に感ずるは世間の衆生が感ずる如きにあらず。物を通じて心に徹せざれば、自ら休むことを知らず。形を鑿(うが)ちて精に入らざれば、自ら甘んずること難し。人われを呼びて万有的趣味の賊となせど、われは既に万有造化の美に感ずるの時を失へり。多くの絵画は我を欺けり、名匠の手に成るものと雖、多く我を感ぜしむる能はず。絵画既に然り、この不思議なる造化も、然り、造化も唯だ自然に成りたる絵画のみ。われは世の俗韻俗調の詩人が徒らに天地の美を玩弄(ぐわんろう)するを悪(にく)むこと甚だし。然れども自ら顧みる時は、何が故に我のみは天地の美に動かさるゝことの少なきかを怪しまずんばあらず。動かさるゝこと少なきにあらず、多く動かされて多く自ら欺きたればなり。我は再び言ふ、われは美くしきものに意を傾くること人に過ぎて多きを。花のあしたを山に迷ひ、月のゆふべを野にくらすなど、人には狂へりと言はるゝも自から悟ることを知らず、人には愚なりと言はるゝとも自から賢からんことを冀(ねが)はず。或時は蝶の夢の覚め易きを恨み、またある時は虫の音の夜を長うするを悲しむ。この恨み、この悲しみを何が故の恨み、何が故の悲しみぞと問ふも、蝶の夢は夢なればこそ覚め、虫の音は秋なればこそ悲しきなれ、と答ふるの外に答なきに同じ。嗚呼(あゝ)天地味ひなきこと久し、花にあこがるゝもの誰ぞ、月に嘯(うそぶ)くもの誰ぞ、人世の冉々(ぜん/\)として減毀(げんき)するを嗟(さ)し、惆(ちう)として命運の私(わたくし)しがたきを慨す。
 身は学舎にあり、中宵枕を排して、燈を剪(き)りて亡友の為に哀詞を綴る。筆動くこと極めて遅く、涕零(お)つること甚だ多し。相距(あひへだゝ)ること二十余日、天と地の間に於てこの距離は幾何(いくばく)ぞ。(哀詞本文は未だ稿を完(まつた)うせず)
(明治二十六年九月)



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