人生に相渉るとは何の謂ぞ
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著者名:北村透谷 

 繊巧細弱なる文学は端なく江湖の嫌厭を招きて、異(あや)しきまでに反動の勢力を現はし来りぬ。愛山生が徳川時代の文豪の遺風を襲ひて、「史論」と名(なづ)くる鉄槌を揮(ふる)ふことになりたるも、其の一現象と見るべし。民友社をして愛山生を起たしめたるも、江湖をして愛山生を迎へしめたるも、この反動の勢力の欝悖(うつぼつ)したる余りなるべし。
 反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は「史論」と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす。反動をして反動の勢を縦(ほしいまゝ)にせしむるは余も異存なし、唯だ反動を載せて、他の反動を起さしむるまで遠く走らんとするを見る時に、反動より反動に漂ふの運命を我が文学に与ふるを悲しまざる能はず。愛山生は、文章即ち事業なる事を認めて、「頼襄論」の冒頭に宣言せり。何が故に事業なりや。愛山生は之を解いて曰く、 第一 為す所あるが為なり。 第二 世を益するが故なり。 第三 人世に相渉るが故なりと。
 而して彼は又た文章の事業たるを得ざる条件を挙げて曰く、 第一 空(くう)を撃つ剣の如きもの。 第二 空の空なるもの。 第三 華辞妙文の人生に相渉らざるもの。而して彼は此冒頭を結びて曰く「文章は事業なるが故に崇(あが)むべし、吾人が頼襄を論ずる、即ち渠(かれ)の事業を論ずるなり」と。
 大丈夫の一世に立つや、必らず一の抱く所なくんばあらず、然れども抱く所のもの、必らずしも見るべきの功蹟を建立(こんりふ)するにはあらず。建築家の役々として其業に従ふや、幾多の歳月を費して後、確かに巍乎(ぎこ)たる楼閣を起すの算あり。然れども人間の霊魂を建築せんとするの技師に至りては、其費やすところの労力は直(たゞ)ちに有形の楼閣となりて、ニコライの高塔の如く衆目を引くべきにあらず。衆目衆耳の聳動(しようどう)することなき事業にして、或は大に世界を震ふことあるなり。
 天下に極めて無言なる者あり、山岳之なり、然れども彼は絶大の雄弁家なり、若(も)し言の有無を以て弁の有無を争はゞ、凡(すべ)ての自然は極めて憫(あは)れむべき唖児(あじ)なるべし。然れども常に無言にして常に雄弁なるは、自然に加ふるものなきなり。人間に若し自然の如く無言なるものあらば、愛山生一派の論士は其の傍に来りて、爾(なんぢ)何ぞ能く言はざると嘲らんか。
 人間の為すところも亦斯(かく)の如し。極めて拙劣なる生涯の中に、尤も高大なる事業を含むことあり。極めて高大なる事業の中に、尤も拙劣なる生涯を抱くことあり。見ることを得る外部は、見ることを得ざる内部を語り難し。盲目なる世眼を盲目なる儘に睨(にら)ましめて、真贄(しんし)なる霊剣を空際(くうさい)に撃つ雄士(ますらを)は、人間が感謝を払はずして恩沢を蒙(かう)むる神の如し。天下斯の如き英雄あり、為す所なくして終り、事業らしき事業を遺すことなくして去り、而(しか)して自ら能く甘んじ、自ら能く信じて、他界に遷(うつ)るもの、吾人が尤も能く同情を表せざるを得ざるところなり。
 吾人は記憶す、人間は戦ふ為に生れたるを。戦ふは戦ふ為に戦ふにあらずして、戦ふべきものあるが故に戦ふものなるを。戦ふに剣を以てするあり、筆を以てするあり、戦ふ時は必らず敵を認めて戦ふなり、筆を以てすると剣を以てすると、戦ふに於ては相異なるところなし、然れども敵とするものゝ種類によつて、戦ふものゝ戦を異にするは其当なり。戦ふものゝ戦の異なるによつて、勝利の趣も亦た異ならざるを得ず。戦士陣に臨みて敵に勝ち、凱歌を唱へて家に帰る時、朋友は祝して勝利と言ひ、批評家は評して事業といふ、事業は尊ぶべし、勝利は尊ぶべし、然れども高大なる戦士は、斯の如く勝利を携へて帰らざることあるなり、彼の一生は勝利を目的として戦はず、別に大に企図するところあり、空を撃ち虚を狙ひ、空の空なる事業をなして、戦争の中途に何れへか去ることを常とするものあるなり。
 斯の如き戦は、文士の好んで戦ふところのものなり。斯の如き文士は斯の如き戦に運命を委(ゆだ)ねてあるなり。文士の前にある戦塲は、一局部の原野にあらず、広大なる原野なり、彼は事業を齎(もた)らし帰らんとして戦塲に赴かず、必死を期し、原頭の露となるを覚悟して家を出(いづ)るなり。斯の如き戦塲に出で、斯の如き戦争を為すは、文士をして兵馬の英雄に異ならしむる所以(ゆゑん)にして、事業の結果に於て、大に相異なりたる現象を表はすも之を以てなり。
 愛山生が、文章即ち事業なりと宣言したるは善し、然れども文章と事業とを都会の家屋の如く、相接近したるものゝ如く言ひたるは、不可なり。敢て不可といふ。何となれば、聖浄にして犯すべからざる文学の威厳は、「事業」といふ俗界の「神」に近づけられたるを以て損ずべければなり、八百万(やほよろ)づの神々の中に、事業といふ神の位地は甚だ高からず。文学といふ女神は、或は老嬢(ヲールド・ミツス)にて世を送ることあるも、卑野なる神に配することを肯(がへ)んぜざるべければなり。
 京山、種彦、馬琴の三文士を論(あげつら)ひて、京山を賞揚せられたるは愛山生なり。其故いかにといふに、馬琴は己れの理想を歌ひて馬琴の文学を衒(てら)ひたるに過ぎず、種彦は人品高尚にして俗情に疎(うと)きところあり、馬琴によりては当時の社会を知るには役に立たず、種彦は平民に縁遠きが故に不可なり、独り京山に到りては、番頭小僧までも写実して残すところなきが故に重んずべきなりと、斯く愛山生は説けり。天下の衆生をして悉(こと/″\)く愛山生の如き史論家ならしめば、当時の社会を知るの要を重んじて、京山をも、西鶴をも、最上乗の作家として畏敬するなるべし。天下の衆生をして悉く愛山生の如き平民論者ならしめば、山東家の小説は凡(すべ)ての他の小説を凌(しの)ぐことを得べきこと必せり。
 然れども文学は事業を目的とせざるなり、文学は人生に相渉ること、京山の写実主義ほどになるを必須とせざるなり、文学は敵を目掛けて撃ちかゝること、山陽の勤王論の如くなるを必須とせざるなり、最後に文学は必らずしも一人若しくは数百人の敵、見るべきの敵を目掛けて撃つを要せざるなり、撃といふ字は山陽一流の文士にこそ用あれ、愛山の所謂(いはゆる)空の空を目掛けて大(おほい)に撃つ文士に、何の用かあらむ。山陽も撃てり、山陽の撃ちたる戦は、今日に於て人に記憶せらるゝなり、然れども其の撃ちたるところは、愛山生の言ふ如く直接に人生に相渉れり、人生に相渉るが故に人生を離るゝ事も亦た速(すみやか)ならんとす。源頼朝は能く撃てり、然れども其の撃ちたるところは速かに去れり、彼は一個の大戦士なれども、彼の戦塲は実に限ある戦塲にてありし、西行も能く撃てり、シヱクスピーアも能く撃てり、ウオーヅオルスも能く撃てり、曲亭馬琴も能く撃てり、是等の諸輩も大戦士なり、而して前者と相異なる所以は前者の如く直接の敵を目掛けて限ある戦塲に戦はず、換言すれば天地の限なきミステリーを目掛けて撃ちたるが故に、愛山生には空の空を撃ちたりと言はれんも、空の空の空を撃ちて、星にまで達せんとせしにあるのみ。行(ゆ)いて頼朝の墓を鎌倉山に開きて見よ、彼が言はんと欲するところ何事ぞ。来りて西行の姿を「山家集(さんかしふ)」の上に見よ。孰(いづ)れか能く言ひ、執れか能く言はざる。
 然れども、文士は世を益せざるべからず、西行馬琴の徒が益したるところ何物ぞと、斯く愛山生は問はむか。
 文学のユチリチー論、今日に始まりたるにあらず、吾等の先祖に勧善懲悪説あり、吾等の同時代に平民的批評家としての活用論者を、愛山生に得たるも故なきにあらず、硝子(ガラス)は水晶に比して活用の便あり、以て□戸を装ふべし、以て洋燈のホヤとなすべし、天下普(あまね)く其の活用の便を認むるを得るなり。然れども天下の愚人が水晶といふ活用の便に乏しきものに向つて、高価を払ふは何ぞや。水晶を買ふものをして、数十金を出して露店の硝子玉を買はしめんとする神学を創見するものあらば、余は疑はず、水天宮に参詣する衆生は争ひ来りて其説法を聴聞するなるべし。京山をして、山陽をしてこのテンプルの偶像たらしめば、カーライルをして「英雄崇拝論」に一題を欠きたりしを、地下に後悔せしむることあるべし。
 吉野山に遊覧して、歎息するものあり、曰く、何ぞ桜樹を伐(き)りて梅樹を植ゑざる、花王樹は何の活用に適するところあらむ、梅樹の以て千金の利を果実によつて得るに如(し)かんやと、一人ありて傍より容喙(ようかい)して曰へらく、梅樹は得るところの利に於て甘藷(かんしよ)を作るに如かず、他の一人は又た曰く、甘藷は市場に出ての相塲極めて廉なり、亜米利加(アメリカ)種の林檎(りんご)を植ゆるに如かずと。われは是等の論者が利を算するの速なるを喜び、真理を認むるの確なるを謝するに吝(やぶさか)ならざらんと欲す、然れども吉野山を以て活用論者の手に委ぬるは、福沢先生を同志社の総理に推すことを好まざると同じく好まざるなり。
 肉の力は肉の力を撃つに足るべし、死したるものゝ死したるものを葬むるを得るといふ真理は、ナザレの人の子も之れを説けり。然れども死したるものゝ葬むることを得ざるものあるは、肉の力の撃砕することを得ざるものあると共に、他の一側に横はれる真理なり。一人の敵を学ぶの非なるは、万人の敵を学びても猶(な)ほ失敗したる項羽すら、之を発見せり。万人の敵を学ぶは百万人の敵を学ぶに如かざればならむ。百万人の敵を学びたる(仮定して)漢王も、亦た「死朽」といふ不可算の敵の前には、無言にして仆(たふ)れたり。「死朽」といふ敵に対して、吾人は吾人の刀剣を揮(ふる)ふこと、愛山生の所謂英雄剣を揮ふ如くするも、成敗の数は始めより定まりてある如く、吾人は自然(力としての)の前に立ちて脆弱(ぜいじやく)なる勇士にてあるなり。
「力(フオース)」としての自然は、眼に見えざる、他の言葉にて言へば空の空なる銃鎗を以て、時々刻々「肉」としての人間に迫り来るなり。草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)は能く見ゆる野火を薙ぎ尽したりと雖(いへども)、見えざる銃鎗は、よもや薙ぎ尽せまじ。英雄をして剣を揮はしむるは、見る可き敵に当ればなり、文章をして京山もしくは山陽の如く世を益するが為めと、人世に相渉らしむるが為に戦はしむるは、見るべき実(即ち敵)に当らしむるが為なり。然れども空の空なる銃鎗を迎へて戦ふには、空の空なる銃鎗を以てせざるべからず、茲(こゝ)に於て霊の剣を鋳るの必要あるなり。
 自然は吾人に服従を命ずるものなり、「力」としての自然は、吾人を暴圧することを憚(はゞか)らざるものなり、「誘惑」を向け、「慾情」を向け、「空想」を向け、吾人をして殆ど孤城落日の地位に立たしむるを好むものなり、而して吾人は或る度までは必らず服従せざるべからざる「運命」、然り、悲しき「運命」に包まれてあるなり。項羽は能く虞美人(ぐびじん)に別るゝことを得たれども、吾人は此の悲しき「運命」と一刻も相別るゝを得ざるものなり。然れども自然は吾人をして「失望落魄」の極、遂に甘んじて自然の力に服従し了するまでに、吾人を困窘(こんきん)せしめざるなり。爰(こゝ)に活路あり、活路は必らずしも活用と趣を一にせず、吾人をして空虚なる英雄を気取りて、力としての自然の前に、大言壮語せしむるものは我が言ふ活路にあらず、吾人は吾人の霊魂をして、肉として吾人の失ひたる自由を、他の大自在の霊世界に向つて縦(ほしいまゝ)に握らしむる事を得るなり。自然は暴虐を専一とする兵馬の英雄の如きにあらず、一方に於て風雨雷電を駆つて吾人を困(くる)しましむると同時に、他方に於ては、美妙なる絶対的のものをあらはして吾人を楽しましむるなり。風に対しては戸を造り、雨に対しては屋根を葺(ふ)き、雷に対しては避雷柱を造る、斯(か)くして人間は出来得る丈は物質的の権(ちから)を以て自然の力に当るべしと雖、かくするは限ある権をもて限なき力を撃つの業にして、到底限ある権を投げやりて、自然といふものゝ懐裡に躍り入るの妙なるには如かざるなり。爰に於て吉野山は、活用論者の睹易(みやす)からざる活機を吾人に教ふるなり。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と歌ひたる詩人が、活用論者の知ること能はざる大活機を看破したるは、即ち爰にあるなり。
 宗教なし、サブライムなしと嘲けられたる芭蕉は、振り向きて嘲りたる者を見もせまじ、然れども斯く嘲りたる平民的短歌の史論家(同じく愛山生)と時を同(おなじ)うして立つの悲しさは、無言勤行(ごんぎやう)の芭蕉より其詞句の一を仮り来つて、わが論陣を固むるの非礼を行はざるを得ず。古池の句は世に定説ありと聞けば之を引かず、一層簡明なる一句、余が浅学に該当するものあれば、暫らく之を論ぜんと欲す。其は、
明月や池をめぐりてよもすがら
の一句なり。
 池の岸に立ちたる一個人は肉をもて成りたる人間なることを記憶せよ。彼はすべての愛縛、すべての執着、すべての官能的感覚に囲まれてあることを記憶せよ。彼は限ある物質的の権(ちから)をもて争ひ得る丈は、是等無形の仇敵と搏闘(はくとう)したりといふことを記憶せよ。彼は功名と利達と事業とに手を出すべき多くの機会ありたることを記憶せよ。彼は人世に相渉るの事業に何事をも難しとするところなかりしことを記憶せよ。然るに彼は自ら満足することを得ざりしなり、自ら勝利を占めたりと信ずることを得ざりしなり、浅薄なる眼光を以てすれば勝利なりと見るべきものをも、彼は勝利と見る能はざりしなり。爰に於て彼は実を撃つの手を息(やす)めて、空を撃たんと悶(もが)きはじめたるなり。彼は池の一側に立ちて、池の一小部分を睨(にら)むに甘んぜず、徐々として歩みはじめたり。池の周辺を一めぐりせり。一めぐりにては池の全面を睨むに足らざるを知りて、再回せり。再回は池の全面を睨むに足りしかど、池の底までを睨らむことを得ざりしが故に、更に三回めぐりたり、四回めぐりたり、而して終(つひ)によもすがらめぐりたり。池は即ち実なり。而して彼が池を睨みたるは、暗中に水を打つ小児の業に同じからずして、何物をか池に写して睨みたるなり。何物をか池に打ち入れて睨みたるなり。何物にか池を照さしめて睨みたるなり。睨みたりとは、視(み)る仕方の当初を指して言ひ得る言葉なり。視る仕方の後を言ふ言葉は Annihilation の外なかるべし。彼は実を忘れたるなり、彼は人間を離れたるなり、彼は肉を脱したるなり。実を忘れ、肉を脱し、人間を離れて、何処にか去れる。杜鵑(とけん)の行衛(ゆくゑ)は、問ふことを止めよ、天涯高く飛び去りて、絶対的の物、即ち Idea にまで達したるなり。
 彼は事実の世界を忘れたるにあらず、池をめぐりて両三回するは実を見貫く心ありてなり、実は自然の一側なり、而して実を照らすものも亦た自然の他の一側なり、実は吾人の敵となりて、吾人に迫ることを為せども、他の一側なる虚は、吾人の好友となりて、吾人を導きて天涯にまで上らしむるなり、池面にうつり出たる団々たる明月は、彼をして力としての自然を後(しり)へに見て、一躍して美妙なる自然に進み入らしめたり。
 サブライムとは形の判断にあらずして、想の領分なり、即ち前に云ひたる池をめぐりてよもすがらせる如き人の、一躍して自然の懐裡に入りたる後に、彼処(かしこ)にて見出すべき朋友を言ふなり。この至真至誠なる朋友を得て、而して後、夜を徹するまで池をめぐるの味あるなり。池をめぐるは Nothingness をめぐるにあらず、この世ならぬ朋友と共に、逍遙遊するを楽しむ為にするなり。
 造化主は吾人に許すに意志の自由を以てす。現象世界に於て煩悶苦戦する間に、吾人は造化主の吾人に与へたる大活機を利用して、猛虎の牙を弱め、倒崖(たうがい)の根を堅うすることを得るなり。現象以外に超立して、最後の理想に到着するの道、吾人の前に開けてあり。大自在の風雅を伝道するは、此の大活機を伝道するなり、何ぞ英雄剣を揮ふと言はむ。何ぞ為すところあるが為と言はむ。何ぞ人世に相渉らざる可からずと言はむ。空(くう)の空の空を撃つて、星にまで達することを期すべし、俗世をして俗世の笑ふまゝに笑はしむべし、俗世を済度するは俗世に喜ばるゝが為ならず、肉の剣はいかほどに鋭くもあれ、肉を以て肉を撃たんは文士が最後の戦塲にあらず、眼を挙げて大、大、大の虚界を視よ、彼処に登攀して清涼宮を捕握せよ、清涼宮を捕握したらば携へ帰りて、俗界の衆生に其一滴の水を飲ましめよ、彼等は活(い)きむ、嗚呼(あゝ)、彼等庶幾(こひねがは)くは活きんか。
 自然の力をして縦(ほしいまゝ)に吾人の脛脚(けいきやく)を控縛せしめよ、然れども吾人の頭部は大勇猛の権(ちから)を以て、現象以外の別(べつ)乾坤(けんこん)にまで挺立(ていりふ)せしめて、其処に大自在の風雅と逍遙せしむべし。彼の物質的論家の如きは、世界を狭少なる家屋となして、其家屋の内部を整頓するの外には一世の能事なしとし、甘(あまん)じて爰に起臥せんとす、而して風雨の外より犯す時、雷電の上より襲ふ時、慄然として恐怖するを以て自らの運命とあきらめんとす。霊性的の道念に逍遙するものは、世界を世界大の物と認むることを知る、而して世界大の世界を以て、甘心自足すべき住宅とは認めざるなり、世界大の世界を離れて、大大大の実在(リアリチイ)を現象世界以外に求むるにあらずんば、止まざるなり。物質的英雄が明晃々(くわう/\)たる利剣を揮つて、狭少なる家屋の中に仇敵と接戦する間に、彼は大自在の妙機を懐にして無言坐するなり。
 悲しき Limit は人間の四面に鉄壁を設けて、人間をして、或る卑野なる生涯を脱すること能はざらしむ。鵬(おほとり)の大を以てしても蜩(せみ)の小を以てしても、同じくこの限を破ること能はざるなり。而して蜩の小を以て自らその小を知らず、鵬の大を以て自ら其の大を知らず、同じく限に縛せらるゝを知らず欣然として自足するは、憫(あは)れむべき自足なり。この憫れむべき自足を以て現象世界に処して、快楽と幸福とに欠然たるところなしと自信するものは、浅薄なる楽天家なり。彼は狭少なる家屋の中に物質的論客と共に坐を同くして、泰平を歌はんとす。歌へ、汝が泰平の歌を。
 然れども斯の如き狭屋の中には、味もなき「義務」双翼を張りて、極めて得意になるなり。剛健なる「意志」其の脚を失ひて、幽霊に化するなり。訳もなき「利他主義」は荘厳なる黄金仏となりて、礼拝せらるゝなり。「事業」といふ匠工(たくみ)は唯一の甚五郎になるなり、「快楽」といふ食卓は最良の哲学者になるなり。ペダントリーといふ巨人は、屋根裡(やねうら)に突き上るほどの英雄になるなり。凡(すべ)ての霊性的生命は此処を辞して去るべし。人間を悉く木石の偶像とならしむるに屈竟(くつきやう)の社殿は、この狭屋なるべし。この狭屋の内には、菅公は失敗せる経世家、桃青は意気地なき遁世家、馬琴は些々(さゝ)たる非写実文人、西行は無慾の閑人となりて、白石の如き、山陽の如き、足利尊氏の如き、仰向すべきは是等の事業家の外なきに至らんこと必せり。
 頭をもたげよ、而して視よ、而して求めよ、高遠なる虚想を以て、真に広濶なる家屋、真に快美なる境地、真に雄大なる事業を視よ、而して求めよ、爾(なんぢ)の Longing を空際に投げよ、空際より、爾が人間に為すべきの天職を捉(と)り来れ、嗚呼(あゝ)文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之れ求めむ。
(明治二十六年二月)



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