実行的道徳
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著者名:北村透谷 

 人は地に生れたるものにして、天を家とするものならず、人生は社会周辺の事実に囲まれてあるものなれば、性行を経綸すべき倫理なるもの一日も無かるべからざるなり。社会は時辰機(とけい)の如し、一部分の破損は以て全躰の破損となり、遂には運行を止(とゞ)むるに至るべし。之を以て孰(いづ)れの邦国にも孰れの社会にも必らず何等かの倫理あるなり。近頃実際的道徳の要を知りはじめたる、我日本は、此際深く自ら省みざるべからず。
 然(しか)れども世間往々にして実際的道徳を誤解するものあり、唯だ其行ひにのみ重きを置きて其の心を問はざるが如き傾きあり。客観的人生にのみ心酔して主観的人生を顧みざるが如き趣きあり。イヱスの道徳は其平々坦々たるところに無量の深味あるが故に尊きなれ。彼は偽学偽弁に長じたるパリサイ人を罵(のゝし)れり、彼は罪に充(み)ち汚れに満てるサマリヤの女を救ひに入らしめたり、彼は生命(いのち)を人間に備へたり、彼は死を人間より絶たんとせり、凡(およ)そ斯(かく)の如きことは極めて平々坦々たるが如しと雖(いへども)、其実は無量の深味あるなり。人生は吾等が生存する儘の人生にて止(や)むべきにあらず、上よりの生命あり、下よりの死あり、人生といふものは其まゝなれど、生命の奥義、死の深淵は容易(たやす)く知り得べきところにあらず。容易く知り得べからざるものを容易く人間に施したるは、イヱスのイヱスたる所以(ゆゑん)なりと云ふべし。
 人生に満足するの道二つあり、其一は何事にも頓着せずして世を渡ること是(これ)なり。其二は知識を以て人生を知覚したる上にて世を渡ること是なり。頓着なきものは福(さいはひ)なり、知識あるものも亦た福なり、然れども之は世界的に福なるものにして、真に福なるものならず。イヱスは敢て人間をして悉(こと/″\)く人生(ライフ)を観察せしむることを命ぜず。むしろ人生に就きての深き研究を退けたまへり。頓着なきものも知識あるものも主の前に立ちては同じく頓着なきものなり。同じく愚鈍なるものなり、斯くてこそ平等均一の大経済は行はるゝなれ、斯くてこそ貧しきものをして富みたるものと共に、学あるものをして学なきものと共に、智慧あるものをして智慧なきものと共に、甲乙(たれかれ)なくして天国の門に入ることを得るなり。イヱスの奥義は幼児の如くになることにあり。イヱスにありて福(さいはひ)なるものは、有(も)つところ多きものより、有つところ少なきものにあり。雲の中(なか)に彼あり、風の中に彼あり、心の中に彼あり、尤も彼に近きものは尤も無心なるものにあり。学者をして無心ならしめよ、無学者をして無心ならしめよ、心の聖(きよ)きものは福なり、其人は天国を見ることを得べければなり、斯(かく)の如くして始めて真正の実行生ず。実行は必らずしも偉大なる事業を期すべきにあらず、人々其の分を守りて出来得る丈の善を成すべし、悪人も一転して善を行ふを得(え)、罪人(つみびと)も一変して義を行ふを得(う)、これぞ基督教(くりすとけう)が教ふる実行的道徳なる。
(明治二十六年四月)



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