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著者名:田中貢太郎 

 幕末の話である。
 某(ある)商人(あきんど)が深更(よふけ)に赤坂(あかさか)の紀(き)の国(くに)坂を通りかかった。左は紀州邸(きしゅうてい)の築地(ついじ)塀、右は濠(ほり)。そして、濠の向うは彦根(ひこね)藩邸の森々(しんしん)たる木立で、深更と言い自分の影法師が怖(こわ)くなるくらいな物淋しさであった。ふと濠傍(ほりばた)の柳の木の下にうずくまっている人影に気づいた。
 どうやら若い女のようで、悄然(しょうぜん)と袂(たもと)に顔をうずめて泣いているのであった。商人はてっきり身投げ女だと思った。驚かさないようにして女の傍(そば)へ寄って往(い)った。
「どうかしたのかい、姉さん。狭い量見を起しちゃいけないよ」
 女は顔もあげないでしくしくと泣きつづけた。商人は寄り添って腰をかがめた。
「ね、どうしたんだい。姉さん思案にあまることがあるなら、いくらでも力になってやるよ、わけを言って見な」
 女はますます袂へ顔をうずめて泣き入るばかりであった。商人はじれったくなって女の肩へ手をかけた。
「どうしたのだ、姉さん、人が親切に言ってるのだ、わけを言ったらいいじゃないか」
 女はひょいと袂から顔をあげた。それは目も鼻も何もないのっぺら坊であった。
「わ」
 商人は一声叫ぶなり坂を四谷(よつや)の方へ逃げあがった。あがったところに夜鷹蕎麦(よたかそば)の灯があった。商人は鞴(ふいご)のような呼吸(いき)と同時にその屋台へ飛びこんだ。
「大変だ、大変だ」
「どうなすったかね」
 もやもやと立つ湯気の向うにいる親爺(おやじ)はつまらなさそうに言った。
「どうもこうもありゃしねえ、そこで大変な代物に衝(ぶ)っ突(つ)かったんだい」
「追剥(おいはぎ)にでもお会いなすったかね、当世珍らしくもねえ話だ」
「馬鹿にするな、追剥ぐらいで江戸っ児が騒ぐかい。妖怪(ばけもの)に会ったんだい、大変な顔をしてやがったのだ」
「へ、大変な顔、どんな大変な顔でござんした」
「それがおめえ、恐ろしいの何のって、とても一口にゃ言えやしない」
「こんな顔じゃなかったかね」
 親爺はぴしゃりと額(ひたい)を一つ打つなり湯気の間から顔を出した。目も鼻も何もないのっぺら坊だった。
 商人は気を失った。その頃紀の国坂一帯には狢が数多(たくさん)棲(す)んでいて、よく悪戯(いたずら)をしたと言われている。




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