雪女
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著者名:田中貢太郎 

 多摩川(たまがわ)縁(べり)になった調布(ちょうふ)の在に、巳之吉(みのきち)という若い木樵(きこり)がいた。その巳之吉は、毎日木樵頭(さきやま)の茂作(もさく)に伴(つ)れられて、多摩川の渡船(わたし)を渡り、二里ばかり離れた森へ仕事に通っていた。
 ある冬の日のことだった。平生(いつも)のように二人で森の中へ往って仕事をしていると、俄に雪が降りだして、それが大吹雪になった。二人はしかたなしに仕事を止(や)めて帰って来たが、渡頭(わたし)へ来てみると、渡船(わたし)はもう止まって、船は向う岸へつないであった。
 二人はどうにもならないので、河原の船頭小屋へ入った。船頭小屋には火もなく、二畳ほどの板敷があるばかりであった。
 二人はその板敷の上へ蓑(みの)を着て横になったが、昼間の疲れがあるのですぐ眠ってしまった。
 そのうち巳之吉は、寒いので目をさました。小屋の戸が開け放しになっていて雪がさかんに舞いこんでいた。
「茂作さんが外へ出たのか」
 巳之吉は茂作の方を見た。其処には真白い衣服(きもの)の女がいて、それが茂作の上へのしかかって、その顔へ呼吸(いき)を吐きかけていた。巳之吉は驚いて声を立てようとした。と、女は茂作を棄てて巳之吉の上へ来た。それは白い美しい顔であったが、眼が電(いなずま)のように鋭かった。
 巳之吉は衝(つ)き飛ばして逃げようとしたが、体も動かなければ声も出なかった。女はその時はじめて巳之吉の貌(かお)に気が注(つ)いたようにした。巳之吉は田舎に珍しい□童(びなん)であった。
「この事を何人(たれ)にも話しちゃいけないよ、もし話したら、お前さんの命はないよ、判ったね、忘れちゃいけないよ」
 女はそのまま巳之吉を放れて戸外(そと)へ出、降りしきる雪の中へ姿を消していった。
 巳之吉ははね起きた。そして、戸をぴしゃりと閉めて、背でそれを押えながら茂作の方を見た。
「も、も、茂作さん」
 茂作は返事をしなかった。巳之吉はおそるおそる茂作の傍へ往って、茂作を揺り起そうとしたが、茂作は氷のように冷く硬ばっていた。巳之吉はその場に倒れてしまった。
 翌朝(あくるあさ)になって、巳之吉は船頭に気つけの水を飲まされて我れに返った。船頭は村の者を呼んで来て、ともども巳之吉をその家へ運んで往って、事情を聞いたが、巳之吉は何も云わなかった。
 巳之吉はそれから永い間床についていたが、やっと体の具合がよくなったので、一人でまた森へ通うようになった。そして、渡頭(わたしば)の船頭小屋の傍を往復するたびに、白い衣服の女の事を思いだして恐れた。
 そのうちに一年ばかり経(た)った。それは木枯(こがらし)の寒い夕方であった。巳之吉は森からの帰りに渡船(わたし)に乗ったところで、風呂敷包を湯とんがけにした田舎娘が乗っていた。手足のきゃしゃな色の白い娘であった。
 渡船をあがった巳之吉は、その娘と後になり前(さき)になりして歩いていたが、そのうちに並んで歩くようになった。巳之吉は娘の素性が知りたかった。
「お前さんは、何処(どこ)だね」
 娘は武蔵(むさし)の奥の者で、両親に死に別れ、他に身寄もないので、わずかな知人をたよりに、江戸へ女中奉公の口を探しに往くと云った。
 巳之吉は女のたよりない身の上を聞くと気のどくになった。そこで自分の家の前まで来ると、
「今晩はわっしの家へ泊って、明日ゆっくり往きなすったら」
 娘はすぐ巳之吉の詞(ことば)に従った。娘はお雪(ゆき)と云う名であった。巳之吉の母親は、巳之吉からお雪の事を聞いてお雪を家へ置く事にした。
 お雪が家にいるようになってから巳之吉はしごく元気になった。
 やがて、巳之吉とお雪は夫婦になった。お雪は母親をひどく大事にした。
「ほんとに良い嫁が来てくれた、おまえたちは、いつまでも仲よく暮しておくれよ」
 お雪は次つぎに十人の子供を産んだ。子供たちはみんな色が白くて、木樵の子のようでなかった。そのうえ、お雪は十人も子供を産んだにもかかわらず、容貌(ようぼう)は巳之吉の所へ来た時と同じようにわかわかしかった。
「お雪さんは、わしらとは違ってる、あれは人間じゃないよ」
 村の女たちは陰口を利きあった。
 幸福な月日がまた何年か経って、木枯の吹く冬が来た。ある夜お雪は、いつものように子供たちを寝かせた後で、針仕事をはじめた。行燈(あんどん)の燈は浮きあがるようにお雪の綺麗な顔を見せていた。巳之吉はぼんやりと炉端に坐って、見るともなしにお雪の顔を見ているうちに、昔船頭小屋で見た奇怪な白い衣服(きもの)の女のことを思いだした。
「おい、お雪、お前がそうしているところは、昔、おれが会った女にそっくりだぜ。お前も白いが、その女の顔は、とっても白かったぜ」
「話しておくれよ、その女の事を」
「それがさ、ほんとに鬼魅(きみ)のわるい話だよおまえ。肝(きも)をつぶしちゃいかんぞ」
 巳之吉は大吹雪のこと、船頭小屋へ泊ったこと、茂作の奇怪な最期などを細(こま)ごまと話した。
「その女の顔の白さったら、なかったぜ。あんまり不思議なことだから、夢じゃなかったかと考えて見るがな、何にせい、ああして茂作どんが取り殺されたところを見ると、やっぱりあれが雪女ってものだろう、なあ」
 お雪はいきなり手にしていた縫物を投げすてるなり、つかつかと巳之吉の前へ来て凄(すご)い雷(いかずち)のような目をして巳之吉を見た。
「そりゃわたしだよ。あの時、あんなに約束してあるのに、お前さん、よくも約束を破ったね。だが、もうお前さんをどうもしないよ、そのかわり子供を可愛がっておくれ、いいかい。もしわたしの子だからって、ひどい目に会わしたら、その時こそ、判ったねお前さん」
 声の終りの方が風のようにかすれた。かと思うと、お雪の身体はぽうと白い霞のようになって、そのまま天窓から出て往った。




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