風呂供養の話
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著者名:田中貢太郎 

 中国山脈といっても、播磨(はりま)と但馬(たじま)の国境になった谷あいの地に、世間から忘れられたような僅か十数戸の部落があったが、生業は云うまでもなく炭焼と猟師であった。
 それは明治十五六年比(ごろ)の秋のことであった。ある日、一人の旅僧が飄然(ひょうぜん)とやって来て、勘右衛門(かんえもん)という部落でも一番奥にある猟師の家の門口に立って、一夜の宿を乞(こ)うた。
 その日、亭主(あるじ)の勘右衛門は留守であったが、女房と娘が出て見ると、二十六七の如何(いか)にも温厚そうな眉目清秀の青年僧で、べつに怪しいところもないので、むさくるしい処でもお厭(いと)いなくばと云って泊めた。
 やがて、帰宅した亭主も旅僧を疑わず、其の夜は、旅僧から旅の話を聞いて珍らしがった。そして、翌日(あくるひ)になったところで、生憎(あいにく)とどしゃぶりの雨になって、それがその翌日も続いたので、旅僧はしかたなく逗留(とうりゅう)することになったが、娘の千代(ちよ)は、日一日と旅僧になじんで往(い)った。また一方、旅僧の方でも、千代の美しい姿にひきつけられているようであった。
 千代はまだ十六の少女であったが、その美貌(びぼう)と気だてのよさに、近在の青年たちの注視の的となっていた。
 そのうちに旅僧は、べつに先を急ぐ旅でもないから、どこか山の中に良い場所があるなら、庵(いおり)を結んで、心静(しずか)に修行したいといい出した。そして、毎日のように朝早くから家を出て夕方になって帰って来た。時として千代がその伴をして往くことがあった。
 ところで、いつの間にか勘右衛門の女房は、旅僧が数多(あまた)の金を持っていることを知ったので、千代を利用してそれをまきあげようと思って、それを千代にいい含めたが、千代はてんで受けつけなかった。
 一方、勘右衛門は旅僧の素性や、所業(おこない)に不審を抱くようになった。と云うのは、僧でありながらろくにお経を知らないのみか、身分不相応な金を持っていることであった。勘右衛門はそうした不審を抱くとともに、そんな男に、千代を慰み物にせられては大変だと云う懸念で、頭の中が一ぱいになった。
 その勘右衛門が某日、山をおりて村の居酒屋へ往ったところで、居酒屋へ来あわせていた知り合いから妙なことを聞かされた。それは、お前の家(うち)に逗留している旅僧は、お尋ねものであるまいか。何でも政治向のことで上方では騒動があって、謀叛(むほん)を企(くわだ)てた一味の中には、殺人(ひとごろし)までしながら網をくぐって、西国へ逃げた者があるそうだ。もし、其の旅僧がそのうちの一人だとすると、早く警察へ突き出さなくてはならないと云うような事であった。
 勘右衛門はその時、女房が旅僧から金を貰い、そのうえ、千代を嫁にしたいと申し込まれていると云うことを聞かされた。勘右衛門の苦悶は絶頂に達したが、頭を痛めるのみでどうすることもできなかった。
 旅僧は潔癖で、風呂が好きであった。千代はいつも湯殿へいって背中を流したり、肩を揉んでやったりした。其の夜も旅僧は湯槽(ゆぶね)につかって、気もちよさそうに手拭で肩から胸のあたりを流していた。
 外には月の光が漂よっていた。と、不意に風呂場へ忍び寄った覆面があった。覆面の手には種ヶ島(たねがしま)が握られ、火縄の端が蛍火のように光っていた。
 千代が銃声に驚いて駈けつけた時には、旅僧は胸に弾丸(たま)をうち込まれて、その血で湯を赤く染めている処であった。千代はきっと云って其処へ倒れてしまった。
 殺された旅僧は、政治犯人ではなく、諸方を荒した強盗であるとのことであったが、はっきりしたことは判らなかった。
 そこで、警察の方では、旅僧の死体を葬るとともに、旅僧を惨殺した犯人を捜査したが、それも手がかりがなかった。
 それがために、旅僧の処置に困っていた勘右衛門に嫌疑がかかり拘引(こういん)せられることになった。哀れな千代は、そんなこんなで気が狂った。
 そして、彼方此方(あっちこっち)へ往って、何処の家の風呂でもおかまいなしに覗(のぞ)き込んで泣いていたが、終(しま)いには空の浴槽(ゆぶね)の中へ裸体(はだか)で入っていたり、万一これをさまたげる者でもあると、火をつけようとするのに手がつけられなかった。
 そこで勘右衛門の家では、千代を座敷牢へ入れたが、何時(いつ)の間にか脱け出して、自分の家へ火をつけて、浴槽の中へ入って焼死した。
 それと前後して、旅僧を惨殺した真犯人が縊死(いし)したので、勘右衛門は未決から釈放(しゃくほう)せられた。犯人は千代に失恋した村の若者であった。
 千代の怨霊(おんりょう)が夜な夜な風呂場に現れると云う噂がたったのは、それから間もなくであった。そのために其の部落では、各戸にあった風呂を廃して共同風呂を設け、そこで入浴することになった。
 共同風呂を設けた処は、酒や雑貨を商(あきな)うかたわら、旅籠(はたご)を兼ねている家であった。そこは裏の小川から水車で水を汲みあげるので、共同風呂の中には平生(いつも)木の葉や芥虫(ごみむし)の死骸などが浮いていた。時には小魚が泳いでいることもあった。
 部落の人は共同風呂を作ったばかりでなく、千代の命日には、風呂供養とも云うべき一種の行事を営んで千代の霊を慰めたが、その日は部落の人たちは、一日じゅう行水(ぎょうずい)もしないで、風呂桶を浄め、そして、それに供えものをし、燈明をあげるのであった。それはちょうど、盆(ぼん)の精霊迎(しょうりょうむかえ)のような行事であった。長年行商をして、諸国を歩いていたKが、某時(あるとき)私に此の話をした。私は好奇心を動かして、
「その部落には、今でも其の習慣が残っているだろうか」
 と云って聞くと、Kは、
「さあ、もう三十年も昔のことだから、どうですかねえ」
 と云ったが、ついすると、今でもそれが行われているかも知れない。




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