種梨
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著者名:田中貢太郎 

 村に一人の男があって梨を市(まち)に売りに往ったが、すこぶる甘いうえに芳(におい)もいいので貴(たか)い値で売れた。破れた頭巾をかむり、破れた綿入をきた一人の道士が有(あ)って、その梨を積んでいる車の前へ来て、
「一つおくれ」
 と言った。村の男は、
「だめだよ」
 と言って叱ったが道士は動かなかった。村の男は怒って、
「この乞食坊主、とっとと往かないと、ひどい目に逢わすぞ」
 と言って罵った。
 すると道士は言った。
「この車には何百も積んであるじゃないか、わしがくれというのは、ただその中の一つだよ、一つ位くれたところで、あんたにそうたいした損はないじゃないか、なぜそんなに怒りなさる」
 側(そば)に立って見ていた人たちも道士に同情して、村の男に、
「一つわるいのをあげたらどうだ」
 と言ったが、村の男は頑として肯(き)かなかった。肆(みせ)の中にいた奉公人がやかましくてたまらないので、とうとう銭を出して一つだけ買って道士にあたえた。道士はそれをいただいた後で側の人たちに向って言った。
「出家には、ものおしみをする人の心がどうしても解りません、わしに佳(よ)い梨がある、それを出して、皆さんに御馳走をしよう」
 すると一人が言った。
「持ってるなら、それを食えばいいじゃないか」
 そこで道士が言った。
「わしが食わないのは、佳い梨だから、この核(たね)をとって種にしたいと思ってたからだよ」
 道士はそこで一つの梨をとって啗(く)ってしまって、その核を手に把(にぎ)り、肩にかけていた鋤(すき)をおろして、地べたを二三寸の深さに掘り、それを蒔(ま)いて土をきせ、市の人たちに向って、
「これに灌(か)ける湯がほしい」
 と言った。好事者(ものずき)が路ばたの店へ往って、沸きたった湯をもらってきて与えた。道士はそれを受けとって種を蒔いた所にかけた。皆がふしぎに思って見つめていると、そこから曲った芽が出てきて、しだいに大きくなり、やがて樹になり、枝葉が茂り、みるみる花が咲き、実になったが、その実は大きく芳がよく、それが累々として枝もたわわになったのであった。
 道士はそこでその梨を摘(つま)みとりながら、側に観ている人たちに与えたので、実はみるみるなくなってしまった。すると道士は鋤をもって樹を伐りはじめ、しばらく丁々とやっていたが、やがて断(き)れたので葉のついたままの樹を肩にしてしずかに往ってしまった。
 初め道士があやしい法術をおこないかけた時、村の男も皆の中に交って頸をながくして見ていたので、あきないに往くことも忘れていた。そして、道士が往ってしまったので、気がついてこれからあきないに往こうと思って、はじめて梨を積んであった車をふりかえった。車の中の梨は空になっていた。そこで村の男は道士が皆にわけてやったのは皆己(おのれ)の物であったということを知った。また仔細に見ると車の手綱が一つ亡(な)くなっていた。それは新たに断りとったものであった。村の男は大いに恨み憤って急に道士の跡を追って往こうとした。牆(かき)の隅をまがるとき、断りとられた手綱が垣の下に棄ててあった。村の男ははじめて道士の伐り倒した梨の木が、即ちその手綱であったということを知った。そして道士の所在を尋ねたがわからなかった。そこで市の人たちは白い歯をだして笑いあった。




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