草の親しみ
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著者名:薄田泣菫 

 一雨夕立が来さうな空模様でした。砂ぼこりの起つ野道を急いでゐると、一人の農夫が気忙はしさうに刈草を掻き集めてゐるのに出会ひました。高い草の匂ひがぷんぷん四辺に散らばつてゐました。それを嗅ぐと私のあゆみは自然に遅くなりました。私は牡牛のやうに大きく鼻の孔を開けて、胸一杯に空気を吸ひ込みました。
 言はうやうのないなつかしい草の匂ひ。その前に立つと、私は一瞬のうちに、蓬、萱、野菊、犬蓼、杉菜、露草、すいつぱ――といつたやうな、刈り倒された草の名を珠数つなぎに思ひ浮かべて、それぞれの草の持つてゐる思想を、踏まれても、引きちぎられても、伸びずにはおかないその生命の髄を嗅ぎ知るのみならず、どうかすると、これらの雑草の歯ざはりまで味はひ得たやうな気持がすることがあります。私は生れつき牛の愚鈍と正直と辛抱強さなどと一緒に、牛の嗅覚をも持つてゐるのかも知れません。今一つ牛の持つてゐる大きな胃の腑があつたなら、私は彼等と同じやうに、極端な菜食主義者となつたかも知れません。私は実際さう信じてゐます。
 草に対するかうした親みは、どこから来るものでせう。
 私にとつて、草はよしそれがどんなに小さい、果敢ないものであつても、それは地に潜んでゐる生命の眼であります。触覚であります。温覚であります。『生命』といふものは、それがどんなに気まぐれな、徒らな表現をとつても、そこには美があり、力があり、光輝があります。よろづの物のなかで、草に現れた生命ほど、謙遜で、素朴で、正直で、そして辛抱強いものはたんとありますまい。草こそは私にとつて『言葉』であります。暫くの間もぢつとしてゐられない不思議な存在であります。蹄がないばかりに、同じところに立ち停つてゐる小さな獣であります。声帯がないばかりに、沈黙を持ち続けてゐる小鳥であります。
 しかし、私の草に対する親しみは、それのみに因ることではありません。
 私は子供の頃草のなかで大きくなりました。もつと適切にいつたら、草と一緒に大きくなりました。田舎の寂しい村に生れて、友達といつても、僅しか持たなかつた私は、その僅な友達と遊ぶ折には、いつも草のなかを選びました。友達の居合はさない時は、一人ぽつちで兎のやうに草の上を転げまはつてゐました。草には花が咲き、実がなつてゐましたから、私はそれと一緒に遊ぶことが出来ました。指に吸ひ着く朝鮮朝顔の花や、ちよつと触はると、蟋蟀のやうにぴちぴち鳴いて、莢を飛び出す酸漿の実などは、子供の私にとつて心からの驚異で、私はどれだけの長い時間を、それによつて遊ばせて貰つたか知れません。
 草のなかには、またいろんな虫が隠れてゐます。機織、土蜘蛛、軍人のやうに尻に剣を持つてゐるきりぎりす、長い口鬚を生やしたやきもち焼の蟋蟀、気取り屋の蟷螂、剽軽者の屁つ放り虫、おけら、蚯蚓、――といつたやうな、お伽の国の王様や小姓達の気忙はしさうな、また悠長な生活がそこにあります。草の葉を掻き分け、茎を押曲げて、そのなかに隠されてゐるこの俳優達のお芝居を覗き見するほど、私にとつて制しきれない誘惑はありませんでした。虫のだんまり、虫の濡場、虫の荒事、虫の所作事、虫の敵討のおもしろさ。彼等は覗き見をする私に気がつくと、びつくりして動作も思ひ入れもそつちのけに慌てて逃げ出しました。気短な奴は、私の指に食ひついたり、細い毛脛でもつて私の額を蹴飛ばしたりしました。
 いつでしたか、京都御所の苑内を上田敏氏と連立つて散歩したことがありました。苑内の芝生には、萌え出たばかりの新芽が、美しく日に輝いてゐました。フランス好きの上田氏は、それを見るにつけて、直にあちらの事を思ひ出すらしくいひました。
『日本の草は、感じも手触りも硬いのが多いやうですが、フランスの原つぱに生えてる草は、みんな柔かで、それに虫なんか滅多に見つからないのが気持がよござんすね。』
 私はそれを聞いて、都会で育つたこの学者と、田舎で生れた私との間に、草や昆虫に対する感じの上に、大きな間隙があるのを気づかないではゐられませんでした。虫は時々私の指を噛み、肌を螫しました。しかし彼等はいつも私の遊び友達でした。
 虫ばかりか、草も偶には人間に向つて、白い歯を見せることがあります。萱は剃刀のやうな葉で、幾度か私の指を切りました。薊はその針で度々私の掌面を刺しました。しかし私は、いつ、どんな場合にも、これらの草を見ると、
『おい、兄弟……』
 と、いきなり呼びかけたい程の親しみを失つたことはありません。よしそれが砂ぼこりに汚れてゐようと、牛の小便に濡れてゐようと、それはほんの些細な事です。
 遊ぶものと、遊ばせてくれるものと、成長するものと、成長させてくれるものと。――私と草との関係は、かうした離れられない間柄だつただけに、今夕立前の野道で、思ひがけなく刈草の匂ひを嗅いで、暫くはそこに引留められたやうな訳でした。
 矢のやうな銀線を描いて、大粒な雨がばらばらと落ちて来ました。農夫はあわてて刈草を背負つて駆け出しました。私もその後を追ひました。




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