質屋の通帳
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著者名:薄田泣菫 

 京都に住んでゐた頃、たしか花時の事だつたと思ひます。私が縁端でぼんやり日向ぼつこをしてゐると、女中が来客の名刺を取次いで来ました。名刺にはK――とありました。K氏は私には初めての客でしたが、友人H氏の弟子筋にあたる人で、その頃新進作家として一寸売出してゐました。
 K氏は座敷に入つて来ました。細面の色の白い、言葉数の至つて少さうな人でした。初対面の挨拶をしました後は、暫くは接穂がなささうに黙つてもじもじしてゐましたが、やがて言ひにくさうにこんなことを言ひました。
「初めて伺つて、失礼な事を申すやうですが、お宅には質屋の通帳がおありでせうか。」
「質屋の通帳?」私は自分の耳を疑ふやうに客の顔を見ました。
「は、質屋の通帳を。」K氏はぽつりぽつりと言葉を切るやうに言ひました。「お持ちでしたら一寸拝借したいと思ひまして。」
「何にお使ひになるんですか。」
 たつた一つしかない、それも誰にでも判り切つてゐる質屋の通帳の使ひ途をさも知らないもののやうに訊きました。
「実はこの羽織をまげて幾らか融通したいと思ひましてね。」
 K氏は著てゐる羽織に一寸眼を落しました。それは真新しい黒羽二重で、しやれた縫紋の剣かたばみがしつとりと光つてゐました。
「旅に出て少し遊び過ぎたので、ふところが寂しくなつたものですから、どこでしたつけ、通りがかりに一軒あたつてみましたが、馴染がないので断られてしまひました。」
「ほう、それはお困りでせうね。」私は旅先でまだ一面識もない自分を訪ねて、こんな事を頼まなければならないK氏の当惑を察しました。で、出来ることなら質屋の通帳を、四通でも、五通でも、ありつたけ取り出して用立てしたくは思ひましたが、不都合な事には、その持合せがなかつたので、私はひどく恐縮してあやまるやうに、
「手元に持合せてゐましたら、喜んで御用立てするのですが、あいにく一通も……」
「お持ちになりませんか。」
「持ちません。本当の事を申すと、質屋に入れる程な金目のものがないんですね。」
「御戯談でせう。」
 K氏は失望したらしい眼で座敷のなかをあちこち見まはしました。その眼にはこんな見すぼらしい家に縮かまつてゐながら、質屋の通帳一つ持たないといふ不都合なことがあるものかと、いくらか疑ふやうな気振りさへ見えました。
 その家といふのは、幸野楳嶺の長男に当る或る日本画家の持物で、貫名海屋の高弟として聞えた谷口靄山が亡くなるまで長く住んでゐた、由緒つきの古い家でした。ある時大阪から上つて来て、此の家で初めて靄山に弟子入りをした男がありました。高名な画家の住居にしては、見すぼらし過ぎる家だなと思ひ乍ら、内心いくらか弟子入りしたのを後悔してゐるとそれに気のつかない靄山は、次の間の物音に耳を立てながら、
「今娘が外から帰つて来たやうぢや。一寸会ってやつて下さい。」
と言ひました。画よりも女が好きだつた大阪者は、急に生きかへつたやうな気持になつて居ずまひを直しながら、挨拶に出て来た婦人に叮嚀にお辞儀をしました。
 そして頭をもちあげた拍子にちらと見ると、相手は五十がらみの婆さんだつたので、七十過ぎの靄山にしてみれば、こんな婆さんの娘があつたところで少しも不思議はないと思ひながら、なんだかいやになつて、そこそこに暇をつげて帰つて来たといひます。
 靄山の生きてゐた頃から古びて見すぼらしかつた借家ですから、それから二十年も経つた今の穢らしさは想像が出来ませう。天井の節穴からは煤がぶら下つてをり、壁には鼠の小便の痕がついてゐました。そこらを見廻してゐたK氏は、最後に眼を私の顔に移して、
「いや、質屋の通帳などお持ちにならないに越したことはありません。初めて上つてとんだ失礼を申しました。」
と言つて叮嚀にお辞儀をしました.
 間もなくK氏は帰つて行きました。私は玄関に立つてその後姿を見送りました。その時ふと、
「旅先で金が無くなつたのでは、あの人も困るだらう。先刻は言ひそびれたが、少し位の金ならどうにかならない事もないんだから、呼び返して用立てようかしら。」
 こんな考が頭のなかを走りましたが、その次の瞬間にK氏の姿はもう見えなくなつてゐました。私は軽い悔恨の念を抱かされました。

 その晩友人のU博士が遊びに来たので、私はその日の出来事を話しました。
「それは極りが悪かつたでせう。質屋の通帳は芸術家にとつては、流行(はやり)すたりのない実用品の上に、また贅沢品でもあるのですからね。少くとも貧乏がみえになる当節では。」
 博士はいつものやうに口もとを上品にゆがめて言ひました。
「それぢや、お宅には無論おありでせうね。」
 私は戯談交りに訊きました。
 すると、博士は持前の学者の冷静な態度を失はず、静かに答へました。
「いや、まだ持つてはゐません。なに、持たうと思へば、今すぐにも持たれる代物なんですからね。」




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