無学なお月様
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著者名:薄田泣菫 

 野尻精一氏は奈良女子高等師範の校長である。東京にゐる頃にはさうも思はなかつたが、住むでみると奈良は景色(けいしよく)がよく、景色(けいしよく)がよくないところには定(きま)つて古蹟があつて、遊ぶには恰好な土地だなと野尻氏は思つた。それにつけて、かういふ結構な土地に来て、鹿のやうに柔和で、鹿のやうに尻(し)つ尾(ぽ)の短い女学生を預つてゐる自分の身の幸福さを思ふらしかつた。
 野尻氏は晩餐(ばんめし)がすむと、毎晩のやうに奈良公園へ散歩に出た。ある晩の事、いつものやうに女子教育の事を考へながら(ニイチエだつたか、女をしつけるには鞭を忘れるなと言つたが、野尻氏は鞭らしいものを持つてゐなかつた。多分忘れてゐたのに相違ない)公園のなかをぶらぶらしてゐた。すると、いつの間にか黛(くろ)ずんだ春日の杜(もり)にのつそりと大きな月があがつてゐた。
「や、月が出てゐる。ちやうど十五夜だな。」
 と、立ちとまつて珈琲(コーヒー)皿のやうにまん円く、おまけに珈琲皿のやうに冷たいお月様を見てゐるうち、野尻氏は何だか歌よみらしい気になつた。
 野尻氏はチウイング・ガムを噛(しが)むだ折のやうに、口のなかから変な三十一文字を吐き出した。

「天(あま)の原ふりさけ見れば
春日なる
三笠の山に
出でし月かも」

 いい歌だ、いい歌が出来たものだと思つて、今一度よみかへしてみると、それは自分の歌ではなく、百人一首に出てゐる名高い安部仲麿の作だつた。
 野尻氏はその歌を繰りかへしながら、じつと空を見てゐると、肝腎の珈琲皿のやうなお月様が三笠の山の上に出てゐない事に気がついた。
「をかしいね。三笠の山に出でし月かもといふからには、ちやんと三笠山のてつぺんに出なければならぬ筈ぢやないか。それにあんな方角から出るなんて。」
 実際野尻氏の立つてゐる所から見ると、月は飛んでもない方角から出てゐた。三笠山は何か後暗(うしろくら)い事でもしたやうに黛(くろ)ずんだ春日の杜影(もりかげ)に円い頭を窄(すぼ)めて引つ込んでゐた。
 それから後(のち)といふもの、野尻氏は公園をぶらつく度に、方々から頻りと月の出を調べてみたが、無学なお月様は、仲麿の歌なぞに頓着なく、いつも外(そ)つ方(ぽう)から珈琲皿のやうな円い顔をによつきりと覗(のぞ)けた。
「やつぱり間違だ。仲麿め、いい加減な茶羅(ちやら)つぽこを言つたのだな。」
 野尻氏は自分のやうな眼はしの利く批評家に出会つたら、仲麿もみじめなものだと思つて得意さうに微笑した。そして会ふ人ごとにそれを話した。すると大抵の人は、
「なる程な。」
と言つて感心したやうに首を傾(かし)げた。
 野尻氏に教へる。それは月が年が寄つたので、月も年がよると変な事になるものなのだ。ちやうど人のやうに……。




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