詩集の後に
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著者名:薄田泣菫 

 私が第一詩集暮笛集を出版したのは、明治三十二年でしたが、初めて自分の作品を世間に公表しましたのは、確か明治二十九年か三十年の春で、丁酉文社から出してゐた『新著月刊』といふ文藝雜誌に投稿したのだつたと思ひます。丁酉文社といふのは、島村抱月、後藤宙外その他二三氏の結社で、事務所は東京牛込神樂坂を少し揚塲町の方に□つた後藤宙外氏の家においてあつたやうに記憶して居ります。私の作が雜誌に出ると、丁酉文社から使の人が謝禮にまゐりました。その頃私は麹町區中六番町のある漢學先生の家に部屋借をして居りましたが、その使の人が來て私に會ひたいといふので、玄關に出て行きますと、叮重な挨拶で、是非先生にお目にかゝりたいといふのです。私はこれまでつひぞ先生と云はれたことが無かつたので、
『先生ですか?、先生は只今お留守のやうです。』
 とはにかみながら返事をいたしました。すると使の人は殘念さうに、それでは、これをお歸りになりましたらお禮にといつて差上げて呉れといつて大きなビスケツトの箱を置いて歸りました。すると恰度そこへ來合せたのが、私の親友で、後に辯護士になつて大阪の市政界に活躍した中井隼太氏でした。私が詩の謝禮にビスケツトをもらつたといふことを話しますと、氏は非常に憤慨して、あんな長い詩の謝禮にビスケツトとは怪しからぬ、是非突つ返せといふのです。私は折角使の方が持つて來たものを返すといふのは變だなといふと、中井氏は何も變なことはない、詩の謝禮にビスケツトを持つて來るといふのが變なのだ。すべて藝術家は初のお目見得が大事なのに、それにビスケツトをもらつたといふのは恥ぢやないか、是非突つ返せといふので、なるほどそんなものかなあ、それでは返へさうといふことになつて氣がつくと、中井氏はもうそのビスケツトの鑵をあけて、なかのお菓子を喰べかけてゐるのでした。
 この雜誌に出ました私の詩は、杜甫の『花密藏難見』といふ句を題に、長短各種の作を取り交ぜた十頁ほどの長さのものでした。その多くは七五調で、なかで八六調十四行を一つに取纏めた絶句といふのが五六篇ありました。この絶句は私が前からキイツや、ロゼチや、ワーヅワースや、古くはペトラルカなどの試みたソネツトの眞珠のやうな美しい光に耽醉して居りまして、どうかしてこの詩形をわが詩壇にも移してみたいものだと思つて試みたものでした。なぜ八六調を選んだかといふことについては、どう考へても、今思ひ當りません。詩は仕合せと好評でした。私の門出は、多くの詩人に較べて寧ろ幸先のよい方でした。私はどういふ性分か、今でも惡口を云はれるよりは、譽められる方が好きですが、この性分はその頃からあつたものと見えて、すつかりいゝ氣持になりました。そして引續きぐんぐん詩を作つて、殆んど毎號のやうに『新著月刊』に寄せました。その多くは暮笛集に輯めてあります。
 私は明治三十年の春、徴兵檢査を受けるために、東京を發つて故郷の備中に歸りましたが、暮笛集に輯められた『木曾川』『琵琶湖畔にたちて』『加古河をすぎて』『楫保川にて』『關山曲』などは、その途中の作でした。
 私は郷里に歸つてから、病氣で三年ほどぶら/\してゐました。三十二年の夏頃、大阪の書肆文淵堂の主人で、俳名春草といふ金尾種次郎氏が、その頃大阪で『造士新聞』といふ文藝新聞を編輯發行してゐた私の友人平尾不孤氏を通じて、私の詩集を發行させてくれといつて來ました。で、承諾して、その秋出版したのが暮笛集で、□畫は赤松麟作、丹羽默仙二氏が描いてくれました。二氏は文淵堂主人の友人で、その當時□畫界の流行であつた中村不折氏の畫風の影響をうけたやうな□畫でしたから、俳畫めいてゐて、私の詩の□畫としては呼吸が合はぬ憾があつたやうでした。集の體裁は、四六を横に綴ぢた、何となく尺八の譜でも見るやうな氣分が無いでもありませんでしたが、それでも中味は凝つた二度刷で、從來安物の講談本しか見られなかつた大阪の出版界では、どちらかといへば、出來のいい出版物でした。
 この詩集の出版元文淵堂は、その後東京に店を移しましたが、その頃は大阪心齋橋南本町の東北にあつた角店で、店の主人種次郎氏は當時二十一二才の美しい若者でした。四十二三才まで獨身でゐて、たゞもう出版事業に專念してゐた風變りの男で、先年與謝野晶子夫人が、
『何が悲しいといつて、戀もしないで、紅顏徒らに褪せてゆく文淵堂さんの姿を見るほど悲しいことはございませんね。』
 と、私に話されたことがありましたが、それは與謝野さんが事情をよく御存じなかつたから、かうした嘆息を洩らされましたので、文淵堂主人が四十を過ぎるまで獨身で、童貞を守つてゐましたのは、その初戀の人が、縁なくして他家へ嫁づかなければならなくなつた當時、同主人に對つて、『私の頼みですから、あなたは精出して立派に出版業に成功して下さい』と言ひ殘した、その一言を守袋に入れて、半生の間童貞を守つて、その事業に專念してゐたのでした。
 若い船塲商人の戀の一念の結晶である、その出版事業の第一着手として私の詩集が選ばれたのは、私を一方ならず喜ばせました。
 この集を出版するについては、文淵堂は無論損をするつもりで取懸つたのでしたが、書物は思つたよりはよく出て、瞬く間に版を重ねました。讀書界の評判も、私の豫期してゐた以上によく、中に二三の批評家が、作者に辛らかつたのがある位でした。
 その頃詩人として、私達の前に新しい道をきり拓いて進んでいつた人の中では、島崎藤村氏と土井晩翠氏とが最も光つて居りました。島崎氏は、その詩魂の持ち方において、情緒の動き方において、私達の脈搏に相通ずるものがあつて、氏の作品からは暗示を得る機會がたんとありました。實際若菜集を出した頃の島崎氏の感情の姿は、どんなにか華やかな踴躍に滿ちたものでありましたでせう。
 私が後年同氏にお目にかゝつた折は、氏は夫人を亡くせられて、幼い子供さん達と一緒に不自由な下宿住ひをしてゐられる頃でしたが、はじめて見る氏の頭髮は殆んど半白で、永い間の氏の勞作と、悲哀とをまざ/\と見るやうで、これが幾年前の若菜集の詩人だらうかと思はれる程でした。その折、島崎氏は几帳面に膝の上に手を置いて、
『その後暫くお目にかゝりませんでしたね。』
 といつて、私の顏をしげ/\と瞠められました。私はちよつと驚きました。氏にお目にかゝるのは、その日が初めてでしたのに、『その後暫く………』は何だか少し氣味が惡いやうな氣持がしない事もありませんでした。
『その後………といつて、お目にかゝるのは今日が初めてでせう。』
 と、私はいひました。
『いゝえ、二度目ですよ。この前、國木田君が生きてゐた頃、どこかでお目にかかつたぢやありませんか。』
 島崎氏は私が物忘れしてゐるのを訝しがるやうな口吻で云はれました。
『そんな筈はありません。こんどが初めてです。』
『なに、二度目ですよ。』
 と、私達は暫く言ひあらそひました。
 實際島崎氏が何といはれたつて、私達が會つたのは、その日が初めてゞした。氏は國木田氏が在世の頃といはれましたが、私が國木田氏に會つたのは、たつた二度で、それも二度とも大阪の土地ででありました。
 その日、島崎氏と何くれとなく話をしてゐますと、
『お父さん只今。』
 と、いつて氏の子供さんが二人連で學校から歸つて來られました。すると島崎氏は、ぶきつちよな手附で、本箱の抽斗から蜜柑を二つ取出して、
『さあ、これを上げますから、おとなしくしていらつしやいよ。今、お客さまですから。』
 と、いつて居られました。
『なか/\おたいていぢやありませんね。』
『なに、男の子はいゝんですが、女の子には弱らされます。この頃は髮結の稽古までさせられてゐるんですからね。』
 私は、そんな話を聞いて、暗然としたことがありました。
 土井晩翠氏はその頃、高山樗牛氏はじめ、赤門出の批評家から頻りに推讚の聲を寄せられてゐましたが、私は土井氏の詩風とはどうも呼吸がぴつたりと合はないものですから、失禮ですが、あまり注意して居りませんでした。その後、氏が世界漫遊の途に上られて、羅馬にキーツの墓を訪はれた時、私がこの詩人を好いてゐたことを思ひ出されて、その墓畔に咲いてゐた紫と紅の花を二三輪摘んで、それを手紙に封じ込めて、遙かに伊太利の旅先から寄越された時には、その友誼をしみじみ嬉しく思ふとともに、もつとよく氏の作を讀んでゐた方がよかつたのだと思ひました。
 私の第二の詩集『ゆく春』は、明治三十四年十月に、前のと同じ金尾文淵堂から出版しました。その頃私は大阪に出て、角田浩々歌客、平尾不孤氏達と一緒に、雜誌『小天地』の編輯をやつてゐました。この詩集は、その頃の出版界に流行した袖珍型の絹表紙で、本文はやはり二度刷でした。中味の二度刷といふことは、その頃の出版界では可なり贅澤と思はれてゐたと見えて、その後尾崎紅葉山人を訪ねました時、尾崎氏は書肆からお送りしたこの本を取出して、二度刷は贅澤だと二度ばかりも言つてゐられたのを聞きました。その癖内容の詩については何一つ言つてゐられなかつたのを思ふと、多分尾崎氏は、中の詩は一行も讀まれなかつたものと見えます。恰度その頃、私の親友高安月郊氏が、小説『金字塔』を出版されたことがありました。菊版で、ワツトマンの純白な紙に、富岡鐵齋翁の金字塔といふ字を金箔で捺した清雅な裝幀でしたが、高安氏に會ふと、尾崎氏は同じやうにこの本の裝幀をほめ、
『私もこんなにして本を出してみたい。』
 と、まで云つて居られたさうですが、その折も、肝腎な小説の出來榮えについては、何一つ批評がましい事を云はれなかつたので、よく見ると、『金字塔』のふちは少しも切つてなかつたさうです。私達はその當時、それを話し合つて、『多分紅葉山人には詩は解らないのだらう。』といつて笑つたことがありました。
『ゆく春』の□畫には、滿谷國四郎氏の作が四枚はいつてゐて、どれだけ本の美觀を添へたか知れません。滿谷氏は同じ中學の先輩で、代數の教科書の餘白といふ餘白を、すつかり受持教師の百面相で埋めてゐたほどの人でした。私が十八歳の春上京して暫く厄介になつてゐましたのは、牛込宮比町の聞鷄書院といつた漢學の私塾で、塾の先生は山田方谷の門弟宮内鹿川といつた王學の老先生でした。私は鹿子木孟郎氏などと一緒に、そこにおいて貰つて、夜は傳習録の講義などを聞いてゐましたが、その頃は漢學が一向振はなかつたものですから、聞鷄書院の門をくゞる若い學生はたまにしかありません。それには清雅な氣品を備へた宮内先生も、流石に弱られて、ある日のこと、
『どうも學生の足が遠くて困るから、一つ英漢數教授といふことに、看板を塗り替へようと思ふ。ついては英語と數學を教はりに來る學生があつたら、そこを君一つうまくやつてはくれまいか。』
 と、私に相談がありましたので、私も
『先生のお役に立つことなら、どうにかしてみませう。』
 とお引請して、その日からあわてゝ肩揚を下したことがありました。
 英漢數教授の利目は覿面で、その看板が揚がると、三四名の學生がどやどやとはいつて來ました。私はそれに英語と數學とを教へました。ある日のこと、その學生の一人が『若先生………』といつて、改まつて私を呼ぶのです。さうして『先生に訊いたら判るだらうが、今日神樂坂を通つたら、蒲生氏郷の「蒲」といふ字の下に「燒」といふ字を書いた家があつたが、あれは何をする家ですか』と訊くのです。この問題は英語でも數學でもありませんでしたが、私は『それを蒲燒とよむので、鰻の料理のことだ、それはうまいものだよ』と叮嚀に教へたことがありました。その當時蒲燒を知らなかつた若い學生は、その後役人になつて、鰻のぼりにだん/\出世して、そこらを泳ぎまはつてゐるのも思ひ出の一つです。
 その頃の或る夏の夕方、私が一人で塾の留守番をしてゐますと、そこへひよつこりはいつて來た男がありました。その男は、
『私は日暮里にゐるもので、毎日こちらに通ふわけには參りませんから、一週一日でも二日でも、參つた折にたて續けに三四時間、本の講義が聞かしていたゞけないでせうか。』
 といつて頼むのです。その顏をよく見ますと、忘れもしない、代數の教科書に教師の似顏を書き散らしてゐた滿谷國四郎氏でありました。
『なぜ漢學をおやりですか。』
 と訊くと、滿谷氏は、
『自分の師匠の小山正太郎氏が、畫を描く技術は自分が教へるが、それだけでは優れた畫家にはなれない、畫家には思想が要る、それを養ふには是非本を讀めと云はれるので、兎も角もこちらへうかゞつてみることにしました。』
 といふやうなことを話されました。私達はその日から仲の好い友達となりました。で、それから五、六年後の詩集『ゆく春』に同氏の□畫をおたのみすることになつたのです。
 卷頭の『牧笛』は、ずつと以前テオクリトスやヰルギルの牧歌を愛讀したことがありまして、あゝいつたやうな草の香と、野の悲みとを歌つてみたいと思つて試みた作品です。
『夕暮海邊に立ちて』、『夕の歌』、『暗夜樹蔭にたちて』、『郭公の賦』の四篇は同じやうな詩形ですが、この詩形は自分としては幾分の特徴を認めて居ります。
 ソネツトの形式を辿つた八六調十四行詩がこの集には幾篇かありますがそのうちで『あゝ杜國』九首は、當時の時事に憤つた詩でありますが、若い時によくある、物に激して拳骨をふり□す、まあ、あゝいつた格ですね。
『南畆の人』は、農夫の生活の平和と苦鬪と悲哀とを歌はうとした長篇の試みでしたが、この集には小引だけしか輯めてありません。確かその春の卷だけは、未成稿のまゝ筐底に殘つてゐたやうに思つて、今度そこらを探しましたが、どうしても見付かりませんでした。
『石彫獅子の賦』は、大阪横堀に近い、何とかいふ町の石彫工塲で落想を得た作品でした。滿谷氏の□畫が、立派な出來だつたので、お蔭で詩がどれだけ引立つたか知れません。氏はこの□畫を描くために、五六日東京市中の石切塲をたづね□つた末、やつと註文通りのものを見付けて、出來上つたのがこの作品だつたといふことです。
 この時代には、詩の朗吟といふことが、詩人の仲間に流行しまして、私も京都で一度、大阪で二度ほど公開の席で、朗吟を試みたことがありました。その時歌つた詩は、たしかこの集の『夕暮海邊に立ちて』、『夕の歌』、『破甕の賦』などであつたやうに記憶して居ります。自分の朗吟が滅茶苦茶だつたのに較べて、同じ席で試みられた與謝野寛氏の短歌朗吟が、聲といひ、節といひ、眞に氣の利いたものだつたことだけはいまだに覺えてゐます。
 たしか、翌三十五年の晩春の頃だつたと思ひます。私は『ゆく春』一卷を嵐峽の水神に捧げて、自分の少年の夢を葬むるべく、船を傭うて保津川の淵に浮べました。そして詩集を十文字にからんだ琴の絃に石の錘をつけて、水底深く沈めたことがありました。あとで誰かにその話をしましたところ、その人は皮肉な笑ひを浮べて、
『惜しいことをしたね、見返しに乞好評と書いて置けばよかつたのに。』
 と申しました。
『二十五絃』は明治三十八年五月、春陽堂から出版されました。私は『ゆく春』出版後、かれこれ二年ほど大阪に居ましたが、雜誌『小天地』の廢刊と同時に京都に移り、岡崎に住んでゐましたのを、日露戰爭がはじまると同時に引拂つて郷里の方に歸りました。ですから『二十五絃』には、大阪、京都、郷里の三地方に關聯した作物が輯められてゐます。□畫は岡田三郎助氏の油畫が三色版で七枚はいつてゐました。卷頭の『公孫樹下に立ちて』は三十四年十月、少年の頃世話になつた人をたづねて、作州津山に旅をしましたが、その折近郊に大銀杏の樹が風に吹かれて突つ立つてゐるのを見て出來たのがこの作でした。
『二月の一夜』、『五月の一夜』、『翡翠の賦』、『霜月の一日』、『霜月の一夕』、『神無月の一夜』、『神無月の一日』などは、『ゆく春』のうちの『夕の歌』と同じ詩形の試みで、『雷神の歌』は三十六年一月、私が大阪南本町の文淵堂の二階に病臥してゐますと、急に雪催ひの空が曇つて、激しい雷鳴がありました。それに詩情が動いて、京都加茂神社の傳説と結び合せて出來上つたのがこれで、與謝野氏が編輯してゐた『明星』の四月號に載つたやうに記憶してゐます。
『金剛山の歌』は大阪谷町のさる法華寺に住んでゐる頃、毎朝早く起きて郊外を散歩しましたが、華やかな朝日をうけて、葛城山の山巓が金色に輝いてゐるのをよく見受けましたところから、こんな作が出來ました。
『天馳使の歌』は、『葛城の神』とともに、私が試みました叙事詩の中でも一番長い作物です。伊弉諾、伊弉册の黄泉つ比良坂の傳説と、橋立傳説と、比治山の羽衣傳説とを結び合せて、永遠の女性の慈悲を歌つたのがこの一篇の作意ですが、その當時英國に遊學してゐた島村抱月氏が、彼地でこの作を讀んで『たゞ一つ、今も記憶に殘つて讀下の際少からず感興を殺がれ候句は、切めてもの償ひとこそいふべけれ云々のところに候、貴兄にして何故にかゝるコンヴエンシヨナリズムに陷り給ひしにや』といつて寄越されたことがありました。
『しら玉姫』は、明治三十八年六月に滿谷國四郎氏の□畫裝幀で、金尾文淵堂から出版した詩文集で、中に詩は七篇ほどありましたが、この集には三篇だけを輯めて、他の四篇は棄てゝしまひました。何れも民謠體のものです。
『白羊宮』は、明治三十九年五月、滿谷國四郎、鹿子木孟郎二氏の□畫を入れて、金尾文淵堂から出版しました。『白羊宮』といふのは、日が春の白羊宮に位する時、天地開闢したといふ言ひ傳へによつてなづけました。
『あゝ大和にしあらましかば』は、その當時上田敏氏が云はれましたやうに、ブラウニングの“Oh, to be in England”ではじまる例の絶唱を想ひ浮べながら生れた作品です。大和、とりわけ奈良の西の京や、法隆寺、龍田のあたりは、むかしも今も、私には已み難い憧憬があります。
『魂の常井』はその當時、早稻田文學を主宰してゐた島村抱月氏から、東儀鉄笛氏に作曲して貰ふからといふ頼みがあつたので書いた作ですが、作曲物にこんなのを書いたのは私の量見違ひでした。思へば東儀氏もよくかうした詩に作曲したものですね。
『零餘子』は、子供の時から私の好きな草の實で、故郷の私の家の垣根には、これがたんと植わつてゐて、秋になると、風もないのに、よく實がほろ/\とこぼれかゝりました。そんなことがこの詩を孕んだのです。
『鶲の歌』は、その獨りぼつちの淋しさにおいて、私の最も好きな鳥を歌つたものですが、あの淋しい鳥の姿と魂とを歌ふには、詩が少し饒舌に過ぎた嫌ひがあるやうです。
『望郷の歌』は、誰も知つてゐる通り、ゲエテのウヰルヘルム・マイステルにあるミニヨンの歌を想ひ浮べながら、京都の四季のうつり變りを歌つてみました。上田敏氏はこの詩の『第三節、第四節の沈靜なるは、新しき日本に生ひ出でし古き花なれ。』と云はれましたが、自分にも第三節第四節が、極く自然に出來たやうに記憶してゐます。
『二十五絃』から『白羊宮』にかけて、私の古語癖が、その頃の讀者や評家をかなり苦しめたやうに承はつてゐます。私もなるべくなら平易な、耳近い言葉で詩を作りたいと思つてゐましたが、何分日本語は、語彙が貧しく、言葉の音調が淺いものですから、私は適當な語を求めて、知らずしらず新しい造語も試みないことはありませんでした。しかし新造語を試みる前に、まづ同じ内容を含蓄する古語の復活すべきものはなからうかと詮議してみました。私は自分でもあまりに古語の復活沙汰に執着し過ぎたことを知らない譯でもなかつたのですが、やるからには徹底的にやり通すのが、私の性分だものですから………。
『十字街頭』は、『白羊宮』の出版後から明治四十一、二年へかけての作品で、その當時いろんな雜誌に公にはしましたが、單行本に取纏めたのは今度がはじめてゞす。
『街頭』は、京都四條寺町で見た小景です。
『をけら詣』は、極月大晦日の夜、京都八坂神社に、元朝の齋火を貰ひに參詣するものが、道の摺違ひに互ひに見ず知らずの男女に、口を極めて惡態を吐き合ふ事實を辨へた上でないと、何を歌つたのか一寸見當がつき兼ねませう。
『葛城の神』は、島村抱月氏が早稻田文學を主宰し出した明治三十九年七月頃の同誌に載せたものです。役の小角が葛城山へ石橋を架けようとして、海内山神の合力を求めた時、たつた一人、葛城の女神が容貌のみにくいのを他にみられるのを恥ぢて、晝間出合はなかつたので、結縛したといふ傳説に因いて、作意を構へたものです。これを作る時には、無論アイスヒユロスの『プロメシユウス結縛』を想ひ浮べずには居られませんでした。この一篇は、後篇『解脱葛城の神』を俟つて、初めて完成するものなのですが、『解脱葛城の神』は未だ腹案としてのみ殘つて居ります。
『子守唄』は、明治四十一年頃の作です。クリスチナ・ロゼチの『しんぐ・さんぐ』を讀んで、こんなのを作つてみたらと思つて試みたものです。その當時はまだ昨今大流行の童謠といふ言葉はなかつたやうです。一つ一つの唄に、中澤弘光氏の極彩色の木版畫を入れて出版する筈で、版が略ぼ出來上つた頃、出版元が失敗したため、その儘となつてしまひました。その後名越國三郎氏の□畫で、友人深江彦一氏の編輯してゐた『郊外生活』といふ雜誌に載せましたのを、短いお伽話と一緒に取纏めて、大正六年十二月冨山房から出版しました。
 顧れば、私は詩の國へ旅立ちのそも/\から一人ぼつちで、道連れといつては誰一人ありませんでした。道中も全く一人ぼつちでした。詩歌の國の仕事は、自分ひとりでなくてはいけないと思つたからです。
 私はこの間、自分で自分の魂をのみ見つめて暮しました。それがためには、仕事と名聞と生活とに便宜の多い帝都の生活から離れて、京都や、大阪や、また郷里やで、今日まで暮して來ました。お蔭で寂しくはあるが、自分自身の生活をたどることが出來たやうです。
 この詩集を出版するに當り、川田順、三木羅風、芥川龍之介の三氏は幾度か私を刺激して下すつた。名越國三郎氏は書物の裝幀□畫に骨を折つて下すつた。小平初子氏は一部原稿の寫しと口述速記とに力を藉して下さつた。
 以上の諸氏に對して心よりお禮を申述べ、併せてこれまでの詩集出版元が、この合集刊行について、快く同意せられたのに對し感謝いたします。




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