満韓ところどころ
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:夏目漱石 

        一

 南満鉄道会社(なんまんてつどうかいしゃ)っていったい何をするんだいと真面目(まじめ)に聞いたら、満鉄(まんてつ)の総裁も少し呆(あき)れた顔をして、御前(おまえ)もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公(ぜこう)から馬鹿と云われたって怖(こわ)くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度(こんだ)いっしょに連れてってやろうかと云い出した。是公の連れて行ってやろうかは久しいもので、二十四五年前(ぜん)、神田の小川亭(おがわてい)の前にあった怪しげな天麩羅屋(てんぷらや)へ連れて行ってくれた以来時々連れてってやろうかを余に向って繰返す癖がある。そのくせいまだ大した所へ連れて行ってくれた試(ためし)がない。「今度(こんだ)いっしょに連れてってやろうか」もおおかたその格(かく)だろうと思ってただうんと答えておいた。この気のない返事を聞いた総裁は、まあ海外における日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るがいい。御前みたように何にも知らないで高慢な顔をしていられては傍(はた)が迷惑するからとすこぶる適切めいた事を云う。何でも是公に聞いて見ると馬関(ばかん)や何かで我々の不必要と認めるほどの御茶代などを宿屋へ置くんだそうだから、是公といっしょに歩いて、この尨大(ぼうだい)な御茶代が宿屋の主人下女下男にどんな影響を生ずるかちょっと見たくなった。そこで、じゃ君の供をしてへいへい云って歩いて見たいなと注文をつけたら、そりゃどうでも構わない、いっしょが厭(いや)なら別でも差支(さしつか)えないと云う返事であった。
 それから御供をするのはいつだろうかと思って、面白半分に待っていると、八月半(なか)ばに使が来ていつでも立てる用意ができてるかと念を押した。立てると云えば立てるような身上(しんじょう)だから立てると答えた。するとまた十日ほどしていつ何日(いつか)の船で馬関から乗るが、好いかと云う手紙が来た。それも、ちゃんと心得た。次には用事ができたから一船(ひとふね)延ばすがどうだと云う便(たよ)りがあった。これも訳なく承知した。しかし承知している最中に、突然急性胃カタールでどっとやられてしまった。こうなるといかに約束を重んずる余も、出発までに全快するかしないか自分で保証し悪(にく)くなって来た。胸へ差し込みが来ると、約束どころじゃない。馬関も御茶代も、是公も大連もめちゃめちゃになってしまう。世界がただ真黒な塊(かたまり)に見えた。それでも御供旅行の好奇心はどこかに潜(ひそ)んでいたと見えて、先へ行ってくれと云う事は一口も是公に云わなかった。
 そのうち胃のところがガスか何かでいっぱいになった。茶碗の音などを聞くと腹が立った。人間は何の必要があって飯などを食うのか気の知れない動物だ、こうして氷さえ噛(かじ)っていれば清浄潔白(しょうじょうけっぱく)で何も不足はないじゃないかと云う気になった。枕元(まくらもと)で人が何か云うと、話をしなくっちあ生きていられないおしゃべりほど情ない下賤(げせん)なものはあるまいと思った。眼を開いて本棚(ほんだな)を見渡すと書物がぎっしり詰っている。その書物が一々違った色をしてそうしてことごとく別々な名を持っている。煩(わずら)わしい事夥(おびただ)しい。何の酔興(すいきょう)でこんな差別をつけたものだろう、また何の因果(いんが)でそれを大事そうに列(なら)べ立てたものだろう。実にしち面倒臭い世の中だ。早く死んじまえと云う気になった。
 禎二(ていじ)さんが蒲団(ふとん)の横へ来て、どうですと尋ねたが、返事をするのが馬鹿気(ばかげ)ていて何とも云う了見(りょうけん)にならない。代診が来て、これじゃ旅行は無理ですよ、医者として是非止(と)めなくっちゃならないと説諭したが、御尤(ごもっと)もだとも不尤(ふもっと)もだとも答えるのが厭(いや)だった。
 そのうち日は容赦なく経(た)った。病気は依然として元のところに逗留(とうりゅう)していた。とうとう出発の前日になって、電話で中村へ断った。中村は御大事になさいと云って先へ立ってしまった。

        二

 小蒸気(こじょうき)を出て鉄嶺丸(てつれいまる)の舷側(げんそく)を上(のぼ)るや否や、商船会社の大河平(おおかわひら)さんが、どうか総裁とごいっしょのように伺いましたがと云われる。船が動き出すと、事務長の佐治君(さじくん)が総裁と同じ船でおいでになると聞いていましたがと聞かれる。船長さんにサルーンの出口で出逢(であ)うと総裁と御同行のはずだと誰か云ってたようでしたがと質問を受ける。こうみんなが総裁総裁と云うと是公(ぜこう)と呼ぶのが急に恐ろしくなる。仕方がないから、ええ総裁といっしょのはずでしたが、ええ総裁と同じ船に乗る約束でしたがと、たちまち二十五年来用い慣れた是公を倹約し始めた。この倹約は鉄嶺丸に始まって、大連から満洲一面に広がって、とうとう安東県(あんとうけん)を経(へ)て、韓国(かんこく)にまで及んだのだから少からず恐縮した。総裁という言葉は、世間にはどう通用するか知らないが、余が旧友中村是公(なかむらぜこう)を代表する名詞としては、あまりにえら過ぎて、あまりに大袈裟(おおげさ)で、あまりに親しみがなくって、あまりに角(かど)が出過ぎている。いっこう味(あじわい)がない。たとい世間がどう云おうと、余一人はやはり昔の通り是公是公と呼(よ)び棄(す)てにしたかったんだが、衆寡敵(しゅうかてき)せず、やむをえず、せっかくの友達を、他人扱いにして五十日間通して来たのは遺憾(いかん)である。
 船の中は比較的楽だった。二百十日(にひゃくとおか)の明(あく)る日に神戸を立ったのだから、多少の波風は無論おいでなさるんだろうと思ってちゃんと覚悟をきめていたところが、天気が存外呑気(のんき)にできたもので、神戸から大連に着くまでたいていは鈍(にぶ)り返っていた。甲板(かんぱん)の上に若い英吉利(イギリス)の男が犬を抱いて穏かに寝ていたと云ったら、海のようすもたいていは想像されるだろうと思う。
 ありゃ何ですかと事務長の佐治(さじ)さんに聞くと、え、あれは英国の副領事(ふくりょうじ)だそうですと、佐治さんが答えた。副領事かも知れないが余には美しい二十一二の青年としか思われなかった、これに反して犬はすこぶる妙な顔をしていた。もっともブルドッグだから両親からしてすでに普通の顔とは縁の遠い方に違いない。したがって特にこいつだけを責めるのは残酷だが、一方から云うと、また不思議に妙な顔をしているんだからやむをえない。この犬はその後(ご)大連に渡って大和(やまと)ホテルに投宿した。そうとはちっとも知らずに、食堂に入って飯を食っていると、突然この顔に出食(でっく)わして一驚(いっきょう)を喫(きっ)した。固(もと)より犬の食堂じゃないんだけれども、犬の方で間違えて這入(はい)って来たものと見える。もっとも彼の主人もその時食堂にいた。主人は多数の人間のいるところで、犬と高声に談判するのを非紳士的と考えたと見えて、いきなりかの妙な顔を胴ぐるみ脇(わき)の下に抱(かか)えて食堂の外に出て行った。その退却の模様はすこぶる優美であった。彼は重い犬をあたかも風呂敷包(ふろしきづつみ)のごとく安々と小脇に抱えて、多くの人の並んでいる食卓の間を、足音も立てず大股(おおまた)に歩んで戸の外に身体(からだ)を隠した。その時犬はわんとも云わなかった。ぐうとも云わなかった。あたかも弾力ある暖かい器械の、素直(すなお)に自然の力に従うように、おとなしく抱かれて行った。顔はたびたび云う通りはなはだ妙だが、行状(ぎょうじょう)に至ってはすこぶる気高いものであった。余はその後(ご)ついにこの犬に逢う機会を得なかった。

        三

 退屈だから甲板(かんぱん)に出て向うを見ると、晴れたとも曇ったとも方(かた)のつかない天気の中(うち)に、黒い影が煙を吐いて、静かな空を濁しながら動いて行く。しばらくその痕(あと)を眺めていたが、やがてまた籐椅子(といす)の上に腰をおろした。例の英吉利(イギリス)の男が、今日は犬を椅子(いす)の足に鎖で縛りつけて、長い脛(すね)をその上に延ばして書物を読んでいる。もう一人の異人はサルーンで何かしきりに認(したた)め物(もの)をしている。その妻君はどこへ行ったか見えない。亜米利加(アメリカ)の宣教師夫婦は席を船長室の傍(わき)へ移した。甲板の上はいつもの通り無事であった。ただ機関の音だけが足の裏へ響けるほど猛烈に鳴り渡った。その響の中でいつの間にかうとうとした。
 眼が覚(さ)めてから、サルーンに入って亜米利加の絵入りの雑誌を引(ひ)っ剥(ぺ)がして見た。傍(そば)には日本の雑誌も五六冊片寄せてあった。いずれも佐治文庫(さじぶんこ)と云う判が押してある。これは事務長の佐治さんが、自分で読むために上陸の際に買入れて、読んでしまうと船の図書館に寄附するのだと佐治さん自身から聞いた。佐治さんは文学好と見えて、余の著書なども読んでいる。友人の畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう)と同郷だと云うから、差し向いで芥舟の評判を少しやった。
 また室(へや)を出て海を眺めた。すると先刻(さっき)黒い影を波の上に残して、遠くの向うを動いていた船が、すぐ眼の前に見える。大きさは鉄嶺丸(てつれいまる)とほぼ同じぐらいに思われるが、船足(ふなあし)がだいぶ遅(のろ)いと見えて、しばらくの間(ま)にもうこれほど追(おっ)つかれたのである。欄干(らんかん)に頬杖(ほおづえ)を突いて、見ていると鉄嶺丸が刻一刻と後(うしろ)から逼(せま)って行くのがよく分る。しまいには黄色い文字で書いた営口丸(えいこうまる)の三字さえ明(あきら)かに読めるようになった。やがて余の船の頭が営口丸の尻より先へ出た。そうして、尻から胴の方へじりじりと競(せ)り上(あ)げて行った。船は約一丁を隔ててほとんど並行(へいこう)の姿勢で進行している。もう七八分すると、余の船は全く営口丸を乗り切る事ができそうに思われた。時に約一丁もあろうと云う船と船の間隔が妙に逼(せま)って来た。向うの甲板にいる乗客(じょうかく)の影が確(たしか)に勘定(かんじょう)ができるようになった。見るとことごとく西洋人である。中には眼鏡(めがね)を出してこっちを眺めているのもあった。けれども見るうちに眼鏡は不必要になった。髪の色も眼鼻立(めはなだち)も甲板に立っている人は御互に鮮(あざや)かな顔を見合せるほど船は近くなった。その時は全く美しかった。と思うと、船は今までよりも倍以上の速力を鼓(こ)して刹那(せつな)に近寄り始めた。海の水を細い谷川のように仕切って、営口丸の船体が、六尺ほどの眼の前に黒く切っ立った時は、ああ打(ぶ)つかるなと思った。途端(とたん)に向うの舳(へさき)は余の眼を掠(かす)めて過ぎ去りつつ、逼(せま)りつつ、とうとう中等甲板の角(かど)の所まで行ってどさりと当った。同時に甲板の上に釣るしてあった端艇(ボート)が二艘(そう)ほどでんぐり返った。端艇を繋(つな)いであった鉄の棒は無雑作(むぞうさ)に曲った。営口丸の船員は手を拍(う)ってわあと囃(はや)し立(た)てた。余と並んで立っていた異人が、妙な声を出してダム何とか云った。
 一時間の後(のち)佐治さんがやって来て、夏目さん身をかわすのかわすと云う字はどう書いたら好いでしょうと聞くから、そうですねと云って見たが、実は余も知らなかった。為替(かわせ)の替(かわ)せると云う字じゃいけませんかとはなはだ文学者らしからぬ事を答えると、佐治さんは承知できない顔をして、だってあれは物を取り替える時に使うんでしょうとやり込めるから、やむをえず、じゃ仮名(かな)が好いでしょうと忠告した。佐治さんは呆(あき)れて出て行った。後で聞くと、衝突の始末を書くので、その中に、本船は身をかわしと云う文句を入れたかったのだそうである。

        四

 船が飯田河岸(いいだがし)のような石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚(きた)ならしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん塊(かたま)るとさらに不体裁(ふていさい)である。余は甲板の上に立って、遠くからこの群集を見下(みおろ)しながら、腹の中で、へえー、こいつは妙な所へ着いたねと思った。そのうち船がだんだん河岸に近づいてくるに従って、陸(おか)の方で帽子を振って知人に挨拶(あいさつ)をするものなどができて来た。宣教師のウィンという人の妻君が、中村さんが多分迎えに来ておいででしょうと、笑いながら御世辞(おせじ)を云ったが、電報も打たず、いつ着くとも知らせなかった余の到着を、いくら権威赫々(けんいかくかく)たる総裁だって予知し得る道理がない。余は欄干(らんかん)に頬杖(ほおづえ)を突きながら、なるほどこいつはどうしたものかな、ひとまず是公の家(うち)へ行って宿を聞いて、それからその宿へ移る事にでもするかなと思ってるうちに、船は鷹揚(おうよう)にかの汚ならしいクーリー団の前に横づけになって止まった。止まるや否や、クーリー団は、怒(おこ)った蜂(はち)の巣のように、急に鳴動(めいどう)し始めた。その鳴動の突然なのには、ちょっと胆力を奪われたが、何しろ早晩地面の上へ下りるべき運命を持った身体(からだ)なんだから、しまいにはどうかしてくれるだろうと思って、やっぱり頬杖を突いて河岸の上の混戦を眺めていた。すると佐治さんが来て、夏目さんどこへおいでになりますと聞いてくれた。まあひとまず総裁の家(うち)へでも行って見ましょうと答えていると、そこへ背の高い、紺色(こんいろ)の夏服を着た立派な紳士が出て来て、懐中から名刺を出して叮嚀(ていねい)に挨拶をされた。それが秘書の沼田(ぬまた)さんだったので、頬杖を突いて、いつまでも鳴動を眺めている余には、大変な好都合になった。沼田さんは今度郷里から呼び迎えられた老人を、自宅へ案内されるために、船まで来られたのだそうだが、同じ鉄嶺丸に余の乗っている事を聞いて、わざわざ刺(し)を通じられたのである。
 じゃホテルの馬車でと沼田さんが佐治さんに話している。河岸(かし)の上を見ると、なるほど馬車が並んでいた。力車(りきしゃ)もたくさんある、ところが力車はみんな鳴動連(めいどうれん)が引くので、内地のに比べるとはなはだ景気が好くない。馬車の大部分もまた鳴動連によって、御(ぎょ)せられている様子である。したがっていずれも鳴動流に汚(きた)ないものばかりであった。ことに馬車に至っては、その昔日露戦争の当時、露助(ろすけ)が大連を引上げる際に、このまま日本人に引渡すのは残念だと云うので、御叮嚀(ごていねい)に穴を掘って、土の中に埋(う)めて行ったのを、チャンが土の臭(におい)を嗅(か)いで歩いて、とうとう嗅ぎあてて、一つ掘っては鳴動させ、二つ掘っては鳴動させ、とうとう大連を縦横(たてよこ)十文字に鳴動させるまでに掘り尽くしたと云う評判のある、――評判だから、本当の事は分らないが、この評判があらゆる評判のうちでもっとも巧妙なものと、誰しも認めざるを得ないほどの泥だらけの馬車である。
 その中に東京の真中でも容易に見る事のできないくらい、新しい奇麗(きれい)なのが二台あった。御者(ぎょしゃ)が立派なリヴェリーを着て、光った長靴を穿(は)いて、哈爾賓(ハルピン)産の肥えた馬の手綱(たづな)を取って控えていた。佐治さんは、船から河岸へ掛けた橋を渡って、鳴動の中を突き切って、わざわざ余をその奇麗な馬車の傍(そば)まで連れて行った。さあ御乗んなさいと勧めながら、すぐ御者台の方へ向いて、総裁の御宅までと注意を与えた。御者はすぐ鞭(むち)を執(と)った。車は鳴動の中(うち)を揺(ゆる)ぎ出(だ)した。

        五

 門を這入(はい)って馬車の輪が砂利の上を二三間軋(きし)ったかと思うと、馬は大きな玄関の前へ来て静かに留まった。石段を上(あが)って、入口の所に立つや否や、色の白い十四五の給仕が、頑丈(がんじょう)な樫(かし)の戸を内から開いて、余の顔を見ながら挨拶(あいさつ)をした。もう御帰りかと尋ねると、まだでございますと云う。留守(るす)では仕方がない。どうしたものだろうと思って、石の上に佇(たた)ずんで首を傾(かたぶ)けているところへ、後(うしろ)に足音がするようだからふり向くと、先刻(さっき)鉄嶺丸で知己(ちかづき)になった沼田さんである。さあ、どうぞと云われるので、中(うち)に入った。沼田さんは先へ立って、ホールの突き当りにある厚い戸を開いた。その戸の中へ首を突っ込んで、室(へや)の奥を見渡した時に、こりゃ滅法広いなと思った。数字の観念に乏しい性質(たち)だから何畳敷だかとんと要領を得ないが、何でも細長い御寺の本堂のような心持がした。その広い座敷がただ一枚の絨毯(じゅうたん)で敷きつめられて、四角(よすみ)だけがわずかばかり華(はな)やかな織物の色と映(て)り合(あ)うために、薄暗く光っている。この大きな絨毯(じゅうたん)の上に、応接用の椅子(いす)と卓(テーブル)がちょんぼり二所(ふたところ)に並べてある。一方の卓と一方の卓とは、まるで隣家(りんか)の座敷ぐらい離れている。沼田さんは余をその一方に導いて席を与えられた。仰向(あおむ)いて見ると天井(てんじょう)がむやみに高い。高いはずである。室(へや)の入口には二階がついていて、その二階の手摺(てすり)から、余の坐っている所が一目に見下(みおろ)されるような構造なんだから、つまるところは、余の頭の上が、一階の天井兼(けん)二階の天井である。後(のち)に人の説明を聞いて始めて知ったのだが、このだだっ広い応接間は、実は舞踏室で、それを見下(みくだ)している手摺付の二階は、楽隊の楽を奏する所にできているのだそうだ。そんなら、そうと早くから教えてくれれば、安心するものを、断りなしに急に仏様のない本堂へ案内されたものだからまず一番に吃驚(びっくり)した。余は大連滞在中何度となくこの部屋を横切って、是公(ぜこう)の書斎へ通ったので、喫驚(びっくり)する事は、最初の一度だけですんだが、通るたんびに、おりもせぬ阿弥陀様(あみださま)を思い出さない事はなかった。
 室を這入(はい)って右は、往来を向いた窓で、左の中央から長い幕が次の部屋の仕切りに垂れている。正面に五尺ほどの盆栽を二鉢(はち)置いて、横に奇麗(きれい)な象の置物が据(す)えてある。大きさは豚の子ほどある。これは狸穴(まみあな)の支社の客間で見たものと同じだから、一対(いっつい)を二つに分けたものだろうと思った。そのほかには長い幕の上に、大(おおき)な額がかかっていた。その左りの端に、小さく南満鉄道会社総裁後藤新平と書いてある。書体から云うと、上海辺(シャンハイへん)で見る看板のような字で、筆画(ひっかく)がすこぶる整っている。後藤さんも満洲へ来ていただけに、字が旨(うま)くなったものだと感心したが、その実(じつ)感心したのは、後藤さんの揮毫(きごう)ではなくって、清国皇帝の御筆(おふで)であった。右の肩に賜うと云う字があるのを見落した上に後藤さんの名前が小(ち)さ過(す)ぎるのでつい失礼をしたのである。後藤さんも清国皇帝に逢(あ)って、こう小さく呼(よ)び棄(ずて)に書かれちゃたまらない。えらい人からは、滅多(めった)に賜わったり何(なん)かされない方がいいと思った。
 沼田さんは給仕を呼んで、処々方々(しょしょほうぼう)へ電話をかけさして、是公の行方(ゆくえ)を聞き合せてくれたが全く分らない。米国の艦隊が港内に碇泊(ていはく)しているので、驩迎(かんげい)のため、今日はベースボールがあるはずだから、あるいはそれを観(み)に行ってるかも知れないと云う話であった。
 そのうち広い部屋がようやく暗くなりかけた。じゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり大和(やまと)ホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。

        六

 湯を立ててもらって、久しぶりに塩気(しおけ)のない真水(まみず)の中に長くなって寝ている最中に、湯殿の戸をこつこつ叩(たた)くものがある。風呂場で訪問を受けた試(ため)しはいまだかつてないんだから、湯槽(ゆぶね)の中で身を浮かしながら少々逡巡(しゅんじゅん)していると、叩く方ではどうあっても訪問の礼を尽くさねばやまぬという決心と見えて、なおのこと、こつこつやる。いくらこつこつやったって、まさか赤裸(はだか)で飛び出して、室(へや)の錠(じょう)を明ける訳にも行かないから、風呂の中から大きな声で、おい何だと用事を聞いて見た。すると摺硝子(すりガラス)の向側(むこうがわ)で、ちょっと明けなさいと云う声がする。この声なら明けても差支(さしつか)えないと思って、身体(からだ)全体から雫(しずく)を垂らしながら、素裸(すっぱだか)でボールトを外(はず)すと、はたして是公(ぜこう)が杖(つえ)を突いて戸口に立っていた。来るなら電報でもちょっとかければ好いものをと云う。どこへ行っていたんだと聞くと、ベースボールを観(み)て、それから舟を漕(こ)いでいたと云う挨拶(あいさつ)である。飯を食ったら遊びに来なさいと案内をするから、よろしいと答えてまた戸を締(し)めた。締めながら、おいこの宿は少し窮屈だね、浴衣(ゆかた)でぶらぶらする事は禁制なんだろうと聞いたら、ここが厭(いや)なら遼東(りょうとう)ホテルへでも行けと云って帰って行った。
 例刻に食堂へ下りて飯を食ったら、知らない西洋人といっしょの卓(テーブル)へ坐らせられた。その男が御免(ごめん)なさい、どうも嚏(くしゃみ)が出てと、手帛(ハンケチ)を鼻へ当てたが、嚏の音はちっともしなかったから、余はさあさあと、暗(あん)に嚏を奨励(しょうれい)しておいた。この男は自分で英人だと名乗った。そうして御前は旅順(りょじゅん)を見たかと余に尋ねた。旅順を見ないなら教えるが、いつの汽車で行って、どことどこを見て、それからいつの汽車で帰るが好いと、自分のやった通りを委(くわ)しく語って聞かせた。余はなるほどなるほどと聞いていた。次に御前は門司(もじ)を見たかと聞いた。次にあすこの石炭はもう沢山(たんと)は出まいと聞いた。沢山は出まいと答えた。実は沢山出るか出ないか知らなかったのである。
 しばらくして、君は旅順に行った事があるかとまた同じ事を尋ね出した。少々変だが面倒だから、いやまだだと、こっちも前(ぜん)同様な返事をしておいた。すると旅順に行くには朝八時と十一時の汽車があって……とまた先刻(さっき)と寸分(すんぶん)違わないような案内者めいた事を云って聞かせた。先が先だから余も依然としてなるほどなるほどを繰り返した。最後に突然御前は日本人かと尋ねた。余はそうだと正直なところを答えたようなものの、今までは何国人(どこじん)と思われていたんだろうかと考えると、多少心細かった。
 余は日本人なりの答を得るや否や、この男が、おれも四十年前横浜に行った事があるが、どうも日本人は叮嚀(ていねい)で親切で慇懃(いんぎん)で実に模範的国民だなどとしきりに御世辞(おせじ)を振り廻し始めた。せっかくだとは思ったが、是公との約束もある事だから、好い加減なところで談話を切り上げて、この老人と別れた。
 表へ出るとアカシヤの葉が朗(ほが)らかな夜の空気の中にしんと落ちついて、人道を行く靴の音が向うから響いて来る。暗い所から白服を着けた西洋人が馬車で現れた。ホテルへ帰って行くのだろう。馬の蹄(ひづめ)は玄関の前で留まったらしい。是公の家の屋根から突出(つきだ)した細長い塔が、瑠璃色(るりいろ)の大空の一部分を黒く染抜いて、大連の初秋(はつあき)が、内地では見る事のできない深い色の奥に、数えるほどの星を輝(きら)つかせていた。

        七

 この間から米国の艦隊が四艘(そう)来ているんで、毎日いろいろな事をして遊ばせるのだが、翌日(あす)の晩は舞踏会をやるはずになっているから出て見ろと是公(ぜこう)が勧めた。出て見ろったって、燕尾服(えんびふく)も何も持って来やしないから駄目(だめ)だよと断ると、是公が希知(けち)な奴(やつ)だなと云った。燕尾服は其上倫敦(ロンドン)留学中トテナムコートロードの怪しげな洋服屋で、もっとも安い奴を拵(こしら)えた覚(おぼえ)があるが、爾来(じらい)箪笥(たんす)の底に深く蔵しているのみで、親友といえども、持ってるか持ってないか知らないくらいである。いくら大連がハイカラだって、東京を立つ時に、この古燕尾服が役に立とうとは思いがけないから、やっぱり箪笥の底にしまったなりで出て来た。じゃ、おれの袴(はかま)羽織(はおり)を貸してやるから、日本服で出ろ、出て、まあ、どんな容子(ようす)だか見るが好いと、是公は何でも引(ひ)き摺(ず)り出そうとする。いっそ出るくらいなら踊らなくっちゃつまらないから、日本服ならまあ止(よ)そうと云いたかったが、是公は正直だから本当にすると好くないと思って、ただ羽織袴はいけないよと断った。是公はそれでも舞踏会を見せる気と見えて、翌日(あくるひ)の午(ひる)、社の二階で上田君を捕(つらま)えて、君の燕尾服をこいつに貸してやらないか、君のならちょうど合いそうだと云っていた。上田君もこの突然な相談には辟易(へきえき)したに違ない。笑いながら、いえ私のは誰にも合いませんと謙遜(けんそん)された。
 舞踏会はそれですんだが、しばらくすると、今度はこれから倶楽部(クラブ)に連れて行ってやろうと、例のごとく連れて行ってやろうを出し始めた。だいぶ遅いようだとは思ったが、座にある国沢君も、行こうと云われるので、三人で涼しい夜の電灯の下(もと)に出た。広い通りを一二丁来ると日本橋(にほんばし)である。名は日本橋だけれどもその実は純然たる洋式で、しかも欧洲の中心でなければ見られそうもないほどに、雅(が)にも丈夫(じょうぶ)にもできている。三人は橋の手前にある一棟(ひとむね)の煉瓦造(れんがづく)りに這入(はい)った。誰かいるかなと、玉突場を覗(のぞ)いたが、ただ電灯が明るく点(つ)いているだけで玉の鳴る音はしなかった。読書室へ這入ったが、西洋の雑誌が、秩序よく列(なら)べてあるばかりで、ページを繰る手の影はどこにも見えなかった。将棋歌留多(かるた)をやる所へ這入って腰をかけて見たが、三人の尻をおろしたほかは、椅子(いす)も洋卓(テーブル)もことごとく空(あ)いていた。今日は遅いので西洋人がいないからつまらないと是公が云う。是公の会話の下手な事は天品(てんぴん)と云うくらいなものだから、不思議に思って、御前は平生ここに出入(でいり)して赤髯(あかひげ)と交際するのかと聞いたら、まあ来た事はないなと澄ましている。それじゃ西洋人がいなくってつまらないどころか、いなくって仕合せなくらいなものだろうと聞いて見ると、それでもおれはこの倶楽部(クラブ)の会長だよ、出席しないでも好いと云う条件で会長になったんだと呑気(のんき)な説明をした。
 会員の名札はなるほど外国流の綴(つづり)が多い。国沢君は大きな本を拡(ひろ)げて、余の姓名を書き込ました上、是公に君ここへと催促した。是公はよろしいと答えて、自分の名の前に proposed by と付けた。それへ国沢君が、同(おなじ)く seconded by と加えてくれたので、大連滞在中はいつでも、倶楽部(クラブ)に出入(しゅつにゅう)する資格ができた。
 それから三人でバーへ行った。バーは支那人がやっている。英語だか支那語だか日本語だか分らない言葉で注文を通して、妙に赤い酒を飲みながら話をした。酔って外へ出ると濃い空がますます濃く澄み渡って、見た事のない深い高さの裡(うち)に星の光を認めた。国沢君がわざわざホテルの玄関まで送られた。玄関を入ると、正面の時計がちょうど十二時を打った。国沢君はこの十二時を聞きながら、では御休みなさいと云って、戻られた。

        八

 ホテルの玄関で、是公(ぜこう)が馬車をと云うと、ブローアムに致しますかと給仕が聞いた。いや開(ひら)いた奴が好いと命じている。余は石段の上に立って、玄関から一直線に日本橋まで続いている、広い往来を眺めた。大連の日は日本の日よりもたしかに明るく眼の前を照らした。日は遠くに見える、けれども光は近くにある、とでも評したらよかろうと思うほど空気が透(す)き徹(とお)って、路(みち)も樹(き)も屋根も煉瓦(れんが)も、それぞれ鮮(あざ)やかに眸(ひとみ)の中に浮き出した。
 やがて蹄(ひづめ)の音がして、是公の馬車は二人の前に留まった。二人はこの麗(うらら)かな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った。橋向うは市街である。それを通り越すと満鉄の本社になる。馬車は市街の中へ這入(はい)らずに、すぐ右へ切れた。気がついて見ると、遥向(はるかむこ)うの岡(おか)の上に高いオベリスクが、白い剣(つるぎ)のように切っ立って、青空に聳(そび)えている。その奥に同じく白い色の大きな棟(むね)が見える。屋根は鈍(にぶ)い赤で塗ってあった。オベリスクの手前には奇麗(きれい)な橋がかかっていた。家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。余は遠くからこの三つの建築の位地(いち)と関係と恰好(かっこう)とを眺めて、その釣合のうまく取れているのに感心した。
 あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵(こしら)えてるんだと云う説明である。電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍らしいに違ないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々危(あや)しくなって来た。よくよく糺明(きゅうめい)して見ると、実は今月末(こんげつすえ)とかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分らないのだそうである。
 そのうち馬車が、電車の軌道(レール)を敷いている所へ出た。電車も電気公園と同じく、今月末に開業するんだとか云って、会社では今支那人の車掌運転手を雇って、訓練のために、ある局部だけの試運転をやらしている。御忘れものはありませんか、ちんちん動きますを支那の口で稽古(けいこ)している最中なのだから、軌道(レール)がここまで延長して来るのは、別段怪しい事もないが、気がついて見ると、鉄軌(レール)の据(す)え方(かた)が少々違うようである。第一内地のように石を敷かない計画らしい。御影石(みかげいし)が払底(ふってい)なのかいと質問して見たら、すぐ、冗談云っちゃいけないとやられてしまった。これが最新式の敷方(しきかた)なんで、土台をどうとかして、どうとかして、鉄軌と鉄軌の間を混合金属で塗り固めて全線をたった一本の長い棒にしてしまって……とあたかも自分が技師であるかのごとき自慢である。内地から来たものはなるほど田舎(いなか)もの取扱にされても仕方がない。そいつは感心だと、全く感心すると、技師を信任して、少しも口を出さずに、どうでも自分の思った通りをやらせるから、そんな仕事もできるのさと云った。内地では何でもやかましく干渉する奴がたくさん出て来るものと見える。
 馬車が岡の上へ出た。そこはまだ道路が完成していないので、満洲特有の黄土(こうど)が、見るうちに靴の先から洋袴(ズボン)の膝(ひざ)の上まで細かに積もった。この辺ももう少しすると、ホテルの前のように、カンカンした路に変化する事だろうが、そんな事を口外すれば、是公がますます得意になるばかりだから、わざと黙っていた。

        九

 これが豆油(まめあぶら)の精製しない方で、こっちが精製した方です。色が違うばかりじゃない、香(におい)も少し変っています。嗅(か)いで御覧なさいと技師が注意するので嗅いで見た。
 用いる途(みち)ですか、まあ料理用ですね。外国では動物性の油が高価ですから、こう云うのができたら便利でしょう。第一大変安いのです。これでオリーブ油の何分の一にしか当らないんだから。そうして効用は両方共ほぼ同じです。その点から見てもはなはだ重宝(ちょうほう)です。それにこの油の特色は他の植物性のもののように不消化でないです。動物性と同じくらいに消化(こな)れますと云われたので急に豆油がありがたくなった。やはり天麩羅(てんぷら)などにできますかと聞くと、無論できますと答えたので、近き将来において一つ豆油の天麩羅を食ってみようと思ってその室を出た。
 出がけに御邪魔でもこれをお持ちなさいと云って細長い箱をくれたから、何だろうと思って、即座に開けて見ると、石鹸(シャボン)が三つ並んでいた。これがやっぱり同じ材料から製造した石鹸ですと説明されたが、普通の石鹸と別に変ったところもないようだから、ただなるほどと云ったなり眺めていた。すると、この石鹸に面白いところは、塩水に溶解するから奇体ですよとの追加があったので、急に貰って行く気になって葢(ふた)をした。
 柞蚕(さくさん)から取った糸を並べて、これが従来の奴ですと云うのを見ると、なるほど色が黒い。こっちは精製した方でと、傍(そば)に出されると全く白い。かつ節(ふし)なしにでき上っている。これで織ったのがありますかと聞いて見ると、あいにく有りませんと云う答である。しかしもし織ったらどんなものができるでしょうと聞くと、羽二重(はぶたえ)のようなものができるつもりですと云う。その上価段(ねだん)が半分だと云う。柞蚕(さくさん)から羽二重(はぶたえ)が織れて、それが内地の半額で買えたらさぞ善(よ)かろう。
 高粱酒(こうりょうしゅ)を出して洋盃(コップ)に注(つ)ぎながら、こっちが普通の方で、こっちが精製した方でと、またやりだしたから、いや御酒はたくさんですと断った。さすが酒好きの是公も高粱酒の比較飲みは、思わしくないと見えて、並製も上製も同じく謝絶した。是公の話によると、この間高峯譲吉(たかみねじょうきち)さんが来て、高粱からウィスキーを採(と)るとか採らないとかしきりに研究していたそうである。ウィスキーがこの試験場でできるようになったら是公がさぞ喜んで飲む事だろう。
 陶器を作っている部屋もあったようだが、これはほんの試験中で、並製も上製もないようであった。
 中央試験所を出て、五六町来ると、馬車を下りて草の中に迷い込んだ。路のない谷へ下りたり、足場のない岡へ上(のぼ)ったりするので、汗が出て、顔の皮がひりひりして来た。その上胃がしきりに痛む。是公に聞いて見ると、射撃場へ連れて行ってやるんだと云うから、例の連れて行ってやると云う厚意に免(めん)じて、腹の痛いのを我慢して目的の家まで行ってすぐ椅子(いす)の上へ腰をかけてしまった。是公がしきりに鉄砲の話をするようであったが、とんと頭に響かない。何でもこの家だけは会社から寄附してやった。これでも二千円とか三千円とかかかったという事だけがようやく耳に這入(はい)った。
 そこへ汚(きた)ない支那人が二三人、奇麗(きれい)な鳥籠(とりかご)を提(さ)げてやって来た。支那人て奴(やつ)は風雅(ふうが)なものだよ。着るものもない貧乏人のくせに、ああやって、鳥をぶら下げて、山の中をまごついて、鳥籠を樹(き)の枝に釣るして、その下に坐って、食うものも食わずにおとなしく聞いているんだよ。それがもし二人集まれば鳴(な)き競(くらべ)をするからね。ああ実に風雅なものだよ。としきりに支那人を賞(ほ)めている。余はポッケットからゼムを出して呑(の)んだ。

        十

 政樹公(まさきこう)が大連の税関長になっていると聞いてちょっと驚いた。政樹公には十年前(ぜん)上海(シャンハイ)で出逢(であ)ったきりである。その時政樹公は、サー・ロバート・ハートの子分になって、やはりそこの税関に勤務していた。政樹公の大学を卒業したのは余より二年前で、二人共同じ英文科の出身だから、職業違いであるにかかわらず、比較的縁が近いのである。
 政樹公の姓は立花(たちばな)と云って柳川藩(やながわはん)だから、立派な御侍(おさむらい)に違ない。それをなぜ立花さんと云わないで、政樹公と呼ぶかと云うに、同じ頃同じ文科に同藩から出た同姓の男がいた。しかも双方共寄宿舎に這入(はい)っていたものだから、立花君や立花さんでは紛(まぎ)れやすくていけない。で一方は政樹という名だから政樹公と呼び、一方は銑三郎(せんざぶろう)という俗称だから銑(せん)さん銑さんと云った。なぜ片っ方が公(こう)なのに、片っ方はさんづけにされてしまったのか、ちょっと分らない。銑さんの方は、余と前後して洋行したが、不幸にして肺病に罹(かか)って、帰り路に香港(ホンコン)で死んでしまった。そこで残るは政樹公ばかりになった。したがって政樹公をやめて立花君と云ったって、少しも混雑はしないのだが、つい立花よりは政樹公の方が先へ出る。やっぱり中村とも総裁とも云わないで是公(ぜこう)と云(い)い馴(な)れたようなものだろう。
 ここだと云うので、二人馬車を下りて税関に這入って見ると、あいにく政樹公は先刻(さっき)具合が悪いとかで家(うち)へ帰った後であった。こっちの都合もあるし、所労(しょろう)の人に迷惑をかけるのも本意でないから、他日を期して税関を出た。すると今度は馬車が満鉄の本社へ横づけになった。広い階子段(はしごだん)を二階へ上がって、右へ折れて、突き当りをまた左へ行くと、取付(とっつき)が重役の部屋である。重役は東京に行ってるもののほかは皆出ていた。それに一々紹介された。その中(うち)で昔見た田中君の顔を覚えていた。どうです始めて大連に御着きになった時の感想はと聞かれるから、そうです船から上がってこっちへ来る所は、まるで焼迹(やけあと)のようじゃありませんかと、正直な事を答えると、あすこはね、軍用地だものだから建物を拵(こしら)える訳に行かないんで、誰もそう云う感じがするんですと教えられた。
 しばらく椅子に腰を掛けて、おとなしく執務の様子を見ていると、じき午(ひる)になった。さあ飯を食おうと、食堂へ案内された。ここへと云う席へ坐って、サーヴィエットを取り上げると、給仕が来て、それは国沢さんのですから、ただいま新しいのを持って参りますと云った。食堂は社の表二階にあたる大広間で、晩になれば、それが舞踏室に変化するほどの大きなものであった。これは社員全体に向って公開してあるのだそうだが、同じ食卓に着いた人の数を云うと、約三十人に過ぎなかった。この人数(にんず)から推して、あるいは制限でもありはせぬのかと思ったのは余の想像に過ぎなかった。
 料理は大和(やまと)ホテルから持って来るのだそうで、同席の三十余人が、みな一様の皿を平らげていた。胃が痛いので肉刀(ナイフ)と肉匙(フォーク)は人並(ひとなみ)に動かしたようなものの、その実(じつ)は肉も野菜も咽喉(のど)の奥へ詰め込んだ姿である。一つどうですと向う側の田中君から瓢箪形(ひょうたんがた)の西洋梨(せいようなし)を勧(すすめ)られた時は、手を出す勇気すらなかった。

        十一

 河村調査課長の前へ行って挨拶(あいさつ)をすると、河村さんは、まあおかけなさいと椅子を勧めながら、何を御調べになりますかと叮嚀(ていねい)に聞かれる。何を調べるほどの人間でもないんだから、この問に逢(あ)った時は実は弱った。先刻(さっき)重役室へ河村さんが這入(はい)って来たとき、是公(ぜこう)が余を紹介して、河村さん満鉄の事業の種類その他について、あとでこの男にすっかり説明してやって下さいと云ったのが本(もと)で、とうとう余は調査課へ来るような訳になったものの、その実(じつ)世間の知るごとき人間なんだから、こう真面目(まじめ)に、どう云う方面の研究をやる気かと尋ねられるとはなはだ迷(まご)ついてしまう。そうかと云って、けっして悪気があって冷かしに来た次第でない事もまた、世間の知る通りなんだから、河村さんに対して敬意を失するような冗談は云えた義理のものでない。やむをえず、しかつめらしい顔をして、満鉄のやっているいろいろな事業一般について知識を得たいと述べた。――何でも述べたつもりである。固(もと)より内心に確乎(かっこ)たる覚悟があって述べる事でないんだから、顔だけはしかつめらしいが、述べる事の内容は、すこぶる赤毛布式(あかげっとしき)に縹緲(ひょうびょう)とふわついていたに違ない。ただ今から顧みても、少し得意なのは、その時余の態度挙動は非常に落ちついて、魂がさも丹田(たんでん)に膠着(こうちゃく)しているかのごとく河村さんには見えたろうという自覚である。人を欺(だま)し終(おお)せて知らん顔をしているのは善(よ)くない事だから、ここで全く懺悔(ざんげ)してしまうが、実を云うと、その時は胃がしくしく痛んで、言葉に抑揚をつけようにも、声に張りを見せようにも、身体(からだ)に活気を漲(みな)ぎらせようにも、とうてい自己が自己以上に沈着してしまって、一寸(いっすん)もあがきが取れなかったのである。
 そこへ大きな印刷ものが五六冊出て来た。一番上には第一回営業報告とある。二冊目は第二回で、三冊目は第三回で、四冊目は第四回の営業報告に違ない。この大冊子を机の上に置いて、たいていこれで分りますがねと河村さんが云い出した時は、さあ大変だと思った。今この胃の痛い最中にこの大部の営業報告を研究しなければすまない事になっては、とうてい持ち切れる訳のものではない。余はまだ営業報告を開(あ)けないうちに、早速一工夫(ひとくふう)してこう云った。――私は専門家でないんですから、そう詳(くわし)い事を調査しても、とても分りますまいと思いますので、ただ諸君がいろいろな方面でどんな風に働いていられるか、ざあっとその状況を目撃さしていただけばたくさんですから、縦覧(じゅうらん)すべき箇所を御面倒でもちょっと書いて下さいませんか。
 河村さんははあそうですかと、気軽にすぐ筆を執(と)ってくれた。ところへどこからか突然妙な小さな男があらわれて、やあと声をかけた。見ると股野義郎(またのよしろう)である。昔「猫」を書いた時、その中に筑後(ちくご)の国は久留米(くるめ)の住人に、多々羅三平(たたらさんぺい)という畸人(きじん)がいると吹聴(ふいちょう)した事がある。当時股野は三池(みいけ)の炭坑に在勤していたが、どう云う間違か、多々羅三平はすなわち股野義郎であると云う評判がぱっと立って、しまいには股野を捕(つか)まえて、おい多々羅君などと云うものがたくさん出て来たそうである。そこで股野は大いに憤慨して、至急親展の書面を余に寄せて、是非取り消してくれと請求に及んだ。余も気の毒に思ったが、多々羅三平の件をことごとく削除(さくじょ)しては、全巻を改板(かいはん)する事になるから、簡潔明瞭(めいりょう)に多々羅三平は股野義郎にあらずと新聞に広告しちゃいけないかと照会したら、いけないと云って来た。それから三度も四度も猛烈な手紙を寄こしたあとで、とうとうこう云う条件を出した。自分が三平と誤られるのは、双方とも筑後(ちくご)久留米(くるめ)の住人だからである。幸い、肥前(ひぜん)唐津(からつ)に多々羅(たたら)の浜(はま)と云う名所があるから、せめて三平の戸籍だけでもそっちへ移してくれ。これだけは是非御願するとあったんで、余はとうとう三平の方を肥前唐津の住人に改めてしまった。今でも「猫」を御読みになれば分る。肥前の国は唐津の住人多々羅三平とちゃんと訂正してある。
 こう云う訳で余と因縁(いんねん)の浅からざる股野に、ここでひょっくり出逢(であ)うとは全く思いがけなかった。しかも、その家へ呼ばれて御馳走(ごちそう)になったり、二三日間朝から晩まで懇切に連れて歩いて貰ったり、昔日(せきじつ)の紛議(ふんぎ)を忘れて、旧歓(きゅうかん)を暖める事ができたのは望外(ぼうがい)の仕合(しあわせ)である。実を云うと、余は股野がまだ撫順(ぶじゅん)にいる事とばかり思っていた。
 余は大連で見物すべき満鉄の事業その他を、ここで河村さんと股野に、表(ひょう)のような形に拵(こしら)えて貰(もら)った。

        十二

 腹がしきりに痛むので、寝室へ退いて、長椅子の上に横になっていると、窓を撲(う)つ雨の音がしだいに繁(しげ)くなった。これじゃ舞踏会に行く連中も、だいぶ御苦労様な事になったものだと思って、ポッケットから招待状を出して寝ながら、また眺めて見た。絵葉書ぐらいの大きさの厚紙の一面には、歌麿(うたまろ)の美人が好い色に印刷されている。一面には中村是公同夫人連名で、夏目金之助を招待している。よくこんなものを拵える時間があったなと感心して、うとうとしかけたところへ、ボーイ頭(がしら)が来て、ただいま総裁からの電話で、今夜舞踏会へおいでになるか伺(うかが)えと云う事でございますがと云うから、行かないと返事をしてくれと頼んで、本当に寝てしまった。眼が覚(さ)めたら雨はいつの間にか歇(や)んで、奇麗(きれい)な空が磨き上げたように一色(ひといろ)に広く見える中に、明かな月が出ていた。余は硝子越(ガラスごし)にこの大きな色を覗(のぞ)いて、思わず是公のために、舞踏会の成功を祝した。
 後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の亜米利加士官(アメリカしかん)と共に倶楽部(クラブ)のバーに繰り込んだのだそうだ。そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に盛(さかん)であったとか、口々に賛辞を呈(てい)したものだから、是公はやむをえず、大声(たいせい)を振り絞(しぼ)って gentlemen(ゼントルメン)! と叫んだ。すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を閉(と)じて、満場は水を打ったように静かになった。是公は固(もと)よりゼントルメンの後(あと)を何とかつけなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言(ひとこと)も出て来なかった。英語と云う英語は頭の底からことごとく酒で洗い去られてしまっているので、仕方なしに、急に日本語に鞍換(くらがえ)をして、ゼントルメンの次へもってきて、すぐ大いに飲みましょうと怒鳴(どな)った。ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人(アメリカじん)に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょうとやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上(どうあげ)にしたそうである。
 明治二十年の頃だったと思う。同じ下宿にごろごろしていた連中が七人ほど、江の島まで日着(ひづき)日帰(ひがえ)りの遠足をやった事がある。赤毛布(あかげっと)を背負(しょ)って弁当をぶら下げて、懐中にはおのおの二十銭ずつ持って、そうして夜の十時頃までかかって、ようやく江の島のこっち側(がわ)まで着いた事は着いたが、思い切って海を渡るものは誰もなかった。申し合せたように毛布(けっと)に包(くる)まって砂浜の上に寝た。夜中に眼が覚(さ)めると、ぽつりぽつりと雨が顔へあたっていた。その上犬が来て真水英夫(まみずひでお)の脚絆(きゃはん)を啣(くわ)えて行った。夜が白んで物の色が仄(ほのか)に明るくなった頃、御互の顔を見渡すと、誰も彼も奇麗(きれい)に砂だらけになっている。眼を擦(こす)ると砂が出る。耳を掘(ほじ)くると砂が出る。頭を掻(か)いても砂が出る。七人はそれで江の島へ渡った。その時夜明けの風が島を繞(めぐ)って、山にはびこる樹(き)がさあと靡(なび)いた。すると余の傍(そば)に立っていた是公が何と思ったものか、急にどうだ、あの樹を見ろ、戦々兢々(せんせんきょうきょう)としているじゃないかと云った。
 草木の風に靡(なび)く様を戦々兢々と真面目(まじめ)に形容したのは是公が嚆矢(はじめ)なので、それから当分の間は是公の事を、みんなが戦々兢々と号していた。当人だけは、いまだに戦々兢々で差支(さしつか)えないと信じているかも知れないんだから、ゼントルメン大いに飲みましょうも、この際亜米利加語として士官側に通用したと心得ているんだろう。通じた証拠(しょうこ)には胴上にしたじゃないかくらい、酔(よ)うと云いかねない男である。

        十三

 昨夕は川崎造船所の須田君(すだくん)からいっしょに晩食(ばんめし)でも食おうと云う案内があったが、例のごとく腹が痛むので、残念ながら辞退して、寝室で肉汁(ソップ)を飲んで寝てしまった。朝起きるや否や、もう好かろうと思って、腹の近所へ神経をやって、探(さぐ)りを入れて見ると、やッぱり変だ。何だか自分の胃が朝から自分を裏切ろうと工(たく)んでいるような不安がある。さてどこが不安だろうと、局所を押えにかかると、どこも応じない。ただ曇った空のように、鈍痛(どんつう)が薄く一面に広がっている。苦(にが)い顔をして食堂へ下りて飯をすましてまた室(へや)へ帰ってぼんやりしていると、河村さんが戸口まで来て、今夜満鉄のものが主人役になってあなたがた二三名を扇芳亭(せんぼうてい)へ招待したいからと云う叮嚀(ていねい)な御挨拶(ごあいさつ)である。どうもせっかくですが、実はこれこれでと断ると、そうですか、実は総裁も今夜は所労で出られませんと答えて帰られた。
 河村君が帰るや否や股野が案内もなくやって来た。今日は襟(えり)の開(あ)いた着物を着て、ちゃんと白い襯衣(シャツ)と白い襟(えり)をかけているから感心した。股野と少し話しているところへ、また御客があらわれた。ボイの持って来た名刺には東北大学教授橋本左五郎(はしもとさごろう)とあったので、おやと思った。
 橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水(ごくらくみず)の傍(そば)で御寺の二階を借りていっしょに自炊(じすい)をしていた事がある。その時は間代(まだい)を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚(た)いて、それで月々二円ですんだ。もっとも牛肉は大きな鍋(なべ)へ汁をいっぱい拵(こしら)えて、その中に浮かして食った。十銭の牛(ぎゅう)を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は釜(かま)から杓(しゃく)って食った。高い二階へ大きな釜を揚(あ)げるのは難義であった。余はここで橋本といっしょに予備門へ這入(はい)る準備をした。橋本は余よりも英語や数字において先輩であった。入学試験のとき代数がむずかしくって途方に暮れたから、そっと隣席の橋本から教えて貰って、その御蔭(おかげ)でやっと入学した。ところが教えた方の橋本は見事に落第した。入学をした余もすぐ盲腸炎に罹(かか)った。これは毎晩寺の門前へ売りに来る汁粉(しるこ)を、規則のごとく毎晩食ったからである。汁粉屋は門前まで来た合図に、きっと団扇(うちわ)をばたばたと鳴らした。そのばたばた云う音を聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった。したがって、余はこの汁粉屋の爺(おやじ)のために盲腸炎にされたと同然である。
 その後(のち)左五(さご)は――当時余等は橋本を呼んで、左五左五と云っていた。実際彼は岡山の農家の生れであった。――左五はその後追試験に及第したにはしたが、するかと思うとまた落第した。そうして、何だ下らないと云って北海道へ行って農学校へ這入(はい)ってしまった。それから独逸(ドイツ)へ行った。独逸へ行って、いつまで経(た)っても帰らない。とうとう五年か六年かいた。つまり留学期限の倍か倍以上も向うで暮した事になる、その費用はどうして拵えたものかとんと分らない。
 この橋本が不思議にも余より二三月前に満鉄の依頼に応じて、蒙古(もうこ)の畜産事状を調査に来て、その調査が済んで今大連に帰ったばかりのところへ出っ食わしたのである。顔を見ると、昔から慓悍(ひょうかん)の相(そう)があったのだが、その慓悍が今蒙古と新しい関係がついたため、すこぶる活躍している。闥(ドーア)を排(はい)して這入って来るや否や、どうだ相変らず頑健(がんけん)かねと聞かざるを得なかったくらいである。

        十四

 ええまあ相変らずでと、橋本は案に相違した落ちつき方である。昔予備門に這入って及第だとか落第だとか騒いでいた時分にはけっしてこう穏かじゃなかった。彼の鼻の先が反返(そりかえ)っているごとく、彼は剽軽(ひょうきん)でかつ苛辣(からつ)であった。余はこの鼻のためによく凹(へこ)まされた事を記憶している。
 その頃は大勢で猿楽町(さるがくちょう)の末富屋(すえとみや)という下宿に陣取っていた。この同勢は前後を通じると約十人近くあったが、みんな揃(そろ)いも揃った馬鹿の腕白で、勉強を軽蔑(けいべつ)するのが自己の天職であるかのごとくに心得ていた。下読などはほとんどやらずに、一学期から一学期へ辛(かろ)うじて綱渡りをしていた。英語は教場であてられた時に、分らない訳(やく)を好い加減につけるだけであった。数学はできるまで塗板(ボールド)の前に立っているのを常としていた。余のごときは毎々一時間ぶっ通しに立往生をしたものだ。みんなが代数書を抱えて今日も脚気(かっけ)になるかなど云っては出かけた。
 こう云う連中だから、大概は級の尻(しり)の方に塊(かた)まって、いつでも雑然と陳列(ちんれつ)されていた。余のごときは、入学の当時こそ芳賀矢一(はがやいち)の隣に坐っていたが、試験のあるたんびに下落して、しまいには土俵際(どひょうぎわ)からあまり遠くない所でやっと踏(ふ)み応(こた)えていた。それでも、みんな得意であった。級の上にいるものを見て、なんだ点取がと云って威張っていたくらいである。そうして、稍(やや)ともすると、我々はポテンシャル・エナージーを養うんだと云って、むやみに牛肉を喰って端艇(ボート)を漕(こ)いだ。試験が済むとその晩から机を重ねて縁側(えんがわ)の隅(すみ)へ積み上げて、誰も勉強のできないような工夫をして、比較的広くなった座敷へ集って腕押(うでおし)をやった。岡野という男はどこからか、玩具(おもちゃ)の大砲を買って来て、それをポンポン座敷の壁へ向って発射した。壁には穴がたくさん開(あ)いた。試験の成績が出ると、一人では恐(こわ)いからみんなを駆(か)り催(もよお)して揃って見に行った。するとことごとく六十代で際(きわ)どく引っ掛っている。橋本は威勢の好い男だから、ある時詩を作って連中一同に示した。韻(いん)も平仄(ひょうそく)もない長い詩であったが、その中に、何ぞ憂(うれ)えん席序下算(せきじょかさん)の便(べん)と云う句が出て来たので、誰にも分らなくなった。だんだん聞いて見ると席序下算の便とは、席順を上から勘定(かんじょう)しないで、下から計算する方が早分りだと云う意味であった。まるで御籤(おみくじ)みたような文句である。我々はみんなこの御籤にあたってひやひやしていた。
 そのうち下算(かさん)にも上算(じょうさん)にもまるで勘定に這入らないものが、ぽつぽつできて来た。一人消え、二人消えるうちに橋本がいた。是公(ぜこう)がいた。こう云う自分もいた。大連で是公に逢(あ)って、この落第の話が出た時、是公は、やあ、あの時貴様も落第したのかな。そいつは頼母(たのも)しいやと大いに嬉(うれ)しがるから、落第だって、落第の質(たち)が違わあ。おれのは名誉の負傷だと答えておいた。
 是公だの、余だの、今の旅順の警視総長(けいしそうちょう)だのが落ちながら、ぶら下がっている間に、左五だけは決然として北海道へ落ち延びたのである。その落第の張本(ちょうほん)とも云うべき彼が、いくら年を取ったって、かほどに慇懃(いんぎん)になろうとは思いも寄らぬ事であった。今日は午後から満鉄の社へ行って、蒙古旅行に関する話をするんだと云っている。

        十五

 河村さんの書いてくれた表(ひょう)を見ると、娯楽機関という題目のもとに、倶楽部(クラブ)とか会とか名のつくものが十ばかり並べてある。中にはゴルフ会だの、ヨット倶楽部だのと、名前からして洒落(しゃれ)たのさえ、ちらほら見える。ヨット倶楽部の下に(ただし一艘(そう))と括弧(かっこ)で註がついているのは、新設だからまだ一艘しかないという意味なんだろう。
 参観すべき場所と云う標題(みだし)のもとには、山城町(やまぎちょう)の大連医院だの、児玉町(こだまちょう)の従業員養成所だの近江町(おうみちょう)の合宿所だの、浜町(はまちょう)の発電所だの、何だのかだのみんなで十五六ほどある。なるほどこれでは大連に一週間ぐらいいなければ、満鉄の事業も一通り観(み)る訳に行かないと云われるはずだ。しかも是公(ぜこう)は是非共万遍(まんべん)なくよく観て行かなくっちゃいけないよと命令的に注意するんだから、容易じゃない。その上よく観て、何でも気がついた事があるなら、そう云いなさいと、あたかも余を視察家扱にするんだからなおさら痛み入る。余は手に持った表に一通り眼を通しながら、傍(そば)にいる股野に、おい少し出て見るかなと云った。股野は固(もと)より余を連れて、大連中ぐるぐる引き廻す気で来ている。もっとも別段社からつけてくれたという訳じゃないんだが、本人の特志で社の用事をすっぽかす了見(りょうけん)らしい。そうしていつの間にか、ホテルへ馬車を云いつけている。
 余は股野と相乗りで立派な馬車を走らして北公園に行った。と云うと大層だが、車の輪が五六度回転すると、もう公園で、公園に這入(はい)ったかと思うと、もう突き抜けてしまった。それから社員倶楽部と云うのに連れて行かれて、謡(うたい)の先生の月給が百五十円だと云う事を聞いて、また馬車へ乗って、今度は川崎造船所の須田君の所の工場を外から覗(のぞ)き込んで、すぐ隣の事務所に這入って、須田君に昨日(きのう)の御礼を述べた。事務所の前がすぐ海で、船渠(ドック)の中が蒼(あお)く澄んでいる。あれで何噸(なんトン)ぐらいの船が這入りますかと聞いたら、三千噸ぐらいまでは入れる事ができますという須田君の答であった。船渠の入口は四十二尺だとか云った。余は高い日がまともに水の中に差し込んで、動きたがる波を、じっと締めつけているように静かな船渠の中を、窓から見下(みおろ)しながら、夏の盛りに、この大きな石で畳んだ風呂へ這入って泳ぎ回ったらさぞ結構だろうと思った。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:173 KB

担当:undef