文芸の哲学的基礎
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著者名:夏目漱石 

 東京美術学校文学会の開会式に一場の講演を依頼された余は、朝日新聞社員として、同紙に自説を発表すべしと云う条件で引き受けた上、面倒ながらその速記を会長に依頼した。会長は快よく承諾されて、四五日の後丁寧(ていねい)なる口上を添えて、速記を余のもとに送付された。見ると腹案の不充分であったためか、あるいは言い廻し方の不適当であったためか、そのままではほとんど紙上に載せて読者の一覧を煩(わずら)わすに堪(た)えぬくらい混雑している。そこでやむをえず全部を書き改める事にして、さて速記を前へ置いてやり出して見ると、至る処に布衍(ふえん)の必要を生じて、ついには原稿の約二倍くらい長いものにしてしまった。
 題目の性質としては一気に読み下さないと、思索の縁を時々に切断せられて、理路の曲折、自然の興趣に伴わざるの憾(うらみ)はあるが、新聞の紙面には固(もと)より限りのある事だから、不都合(ふつごう)を忍んで、これを一二欄ずつ日ごとに分載するつもりである。
 この事情のもとに成れる左の長篇は、講演として速記の体裁を具うるにも関わらず、実は講演者たる余が特に余が社のために新(あらた)に起草したる論文と見て差支(さしつかえ)なかろうと思う。これより朝日新聞社員として、筆を執(と)って読者に見(まみ)えんとする余が入社の辞に次いで、余の文芸に関する所信の大要を述べて、余の立脚地と抱負とを明かにするは、社員たる余の天下公衆に対する義務だろうと信ずる。

 私はまだ演説ということをあまり――あまりではないほとんどやった事のない男で、頼まれた事は今まで大分ありましたけれどもみんな断ってしまいました。どうも嫌(いや)なんですな。それにできないのです。その代り講義の方はこの間まで毎日やって来ましたから、おそらく上手だろうと思うのですけれどもあいにく御頼みが演説でありますから定めて拙(まず)いだろうと存じます。
 実はせんだって大村さんがわざわざおいでになって何か演説を一つと云う御注文でありましたが、もともと拙いと知りながら御引受をするのも御気の毒の至りと心得てまずは御辞退に及びました。ところがなかなか御承知になりません。是非やれ、何でもいいからやれ、どうかやれ、としきりにやれやれと御勧(おすす)めになります。それでもと云って首を捻(ひね)っていると、しまいには演説はやらんでもいいと申されます。演説をやらんで何を致しますかと伺うと、ただ出席してみんなに顔さえ見せれば勘弁すると云う恩命であります。そこで私も大決心を起して、そのくらいの事なら恐るるに及ばんと快く御受合を致しました。――今日(こんにち)はそう云う条件の下にここに出現した訳であります。けれども不幸にしてあまり御覧に入れるほどな顔でもない。顔だけではあまり軽少と思いますからついでに何か御話を致しましょう。もとより演説と名のつく諸君よ諸君はとてもできませんから演説と云ってもその実は講義になるでしょう。講義になるとすると、私の講義は暗(そら)ではやらない、云う事はことごとく文章にして、教場でそれをのべつに話す方針であります。ところが今日はそれほどの閑暇(ひま)もなし、また考えも纏(まと)まっておりません。だから上手であるべき講義も今日に限って存外拙(まず)い訳であります。
 美術学校でこういう文学的の会を設立して、諸君の専門技芸以外に、一般文学の知識と趣味を養成せられるのは大変に面白い事と思います。ただいま正木校長の御話のように文学と美術は大変関係の深いものでありますから、その一方を代表なさる諸君が文学の方面にも一種の興味をもたれて、われわれのような不調法(ぶちょうほう)ものの講話を御参考に供して下さるのは、この両者の接触上から見て、諸君の前に卑見を開陳すべき第一の機会を捕(とら)えた私は多大の名誉と感ずる次第であります。できない演説を無理にやるのは全くこのためで、やりつけないものを受け合ったからと云って、けっして恩に着せる訳ではありません。全く大なる光栄と心得てここへ出て来たのである。が繰返(くりかえ)して云う通り、演説はできず講義としては纏(まと)まらず、定めて聞苦しい事もあるだろうと思います。その辺はあらかじめ御容赦(ごようしゃ)を願います。
 まずこれからそろそろやり始めます。やり始めますよと断ると何だかえらそうに聞えるが、その実は何でもない。ここに三四頁(ページ)ばかり書いたノートがあります。これから御話をする事はこの三四頁の内容に過ぎんのでありますからすらすらとやってしまうと十五分くらいですぐすんでしまう。いくらついでにする演説でもそれではあまり情ない。からこの三四頁を口から出まかせに敷衍(ふえん)して進行して行きます。敷衍しかたをあらかじめ考えていないから、どこをどっちへ敷衍するか分らない。時によると飛んだり寄り道をして、出る所へも出られず、帰る所へも帰れないかも知れないと云うすこぶる心細い敷衍法を用います。のみならず冒頭(はじめ)が何だか訳の分らない事から始まるかも知れないから、けっして驚いてはいけません。いずれ結末には美術とか文学とか御互に縁の深い方面へずり落ちて行く事と安心して聴いていただきたい。――ただいま正木会長の御演説中に市気匠気(いちきしょうき)と云う語がありましたが、私の御話も出立地こそぼうっとして何となく稀有(けう)の思はあるが、落ち行く先はと云うと、これでも会長といっしょに市気匠気まで行くつもりであります。
 まず――私はここに立っております。そうしてあなた方(がた)はそこに坐(すわ)っておられる。私は低い所に立っている、あなた方は高い所に坐っておられる、かように私が立っているという事と、あなた方が坐っておらるると云う事が――事実であります。この事実と云うのを他の言葉で現して見ようならば、私は我と云うもの、あなた方は私に対して私以外のものと云う意味であります。もっとむずかしい表現法を用いると物我対立と云う事実であります。すなわち世界は我と物との相待の関係で成立していると云う事になる。あなた方も定めてそう思われるでありましょう、私もそう思うております。誰しもそう心得ているのである。それから私が、こうやってここに立っており、あなた方が、そうして、そこに坐ってござると、その間に距離というものがある。一間の距離とか、二間の距離とかあるいは十間二十間――この講堂の大きさはどのくらいありますか――とにかく幾坪かの広がりがあって、その中に私が立っており、その中にあなた方が坐っていることになる。この広がりを空間と申します。(申さなくっても御承知である)つまりはスペースと云うものがあって、万物はその中に、各(おのおの)、ある席を占めている。次に今日の演説は一時から始まります。そうしていつ終るか分りませんが、まあいつか終るでしょう。大概は日が暮れる前に終る事と思います。私がこうやって好加減(いいかげん)な事をしゃべって、それが済むとあとから、上田さんが代ってまた面白い講話がある。それから散会となる。私の講話も、上田さんの演説も皆経過する事件でありまして、この経過は時間と云うものがなければ、どうしても起る訳に参りません。これも明暸(めいりょう)な事で別段改めて申上げる必要はない。最後に、なぜ私がここにこうやって出て来て、しきりに口を動かしているかと云えば、これは酔狂(すいきょう)や物数奇(ものずき)で飛出して来たと思われては少し迷惑であります。そこにはそれ相当な因縁(いんねん)、すなわち先刻申上げた大村君の鄭重(ていちょう)なる御依頼とか、私の安受合とか、受合ったあとの義務心とか、いろいろの因縁(いんねん)が和合したその結果かくのごとくフロックコートを着て参りました。この関係を(人事、自然に通じて)因果(いんが)の法則と称(とな)えております。
 すると、こうですな。この世界には私と云うものがありまして、あなた方(がた)と云うものがありまして、そうして広い空間の中におりまして、この空間の中で御互に芝居をしまして、この芝居が時間の経過で推移して、この推移が因果の法則で纏(まと)められている。と云うのでしょう。そこでそれにはまず私と云うものがあると見なければならぬ、あなた方があると見なければならぬ。空間というものがあると見なければならぬ。時間と云うものがあると見なければならぬ。また因果の法則と云うものがあって、吾人(ごじん)を支配していると見なければならん。これは誰も疑うものはあるまい。私もそう思う。
 ところがよくよく考えて見ると、それがはなはだ怪しい。よほど怪しい。通俗には誰もそう考えている。私も通俗にそう考えている。しかし退(しりぞ)いて不通俗に考えて見るとそれがすこぶるおかしい。どうもそうでないらしい。なぜかと云うと元来(がんらい)この私と云う――こうしてフロックコートを着て高襟(ハイカラ)をつけて、髭(ひげ)を生(は)やして厳然と存在しているかのごとくに見える、この私の正体がはなはだ怪しいものであります。フロックも高襟も目に見える、手に触れると云うまでで自分でないにはきまっている。この手、この足、痒(かゆ)いときには掻(か)き、痛いときには撫(な)でるこの身体(からだ)が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜(べんぎ)のために手と名づけ足と名づける意識現象と、痛い痒いと云う意識現象であります。要するに意識はある。また意識すると云う働きはある。これだけはたしかであります、これ以上は証明する事はできないが、これだけは証明する必要もないくらいに炳乎(へいこ)として争うべからざる事実であります。して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続して行くものに便宜上(べんぎじょう)私と云う名を与えたのであります。何が故(ゆえ)に平地に風波を起して、余計な私と云うものを建立(こんりゅう)するのが便宜かと申すと、「私」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、物我の区別がこれでつきます。そこがいらざる葛藤(かっとう)で、また必要な便宜なのであります。
 こう云うと、私は自分(普通に云う自分)の存在を否定するのみならず、かねてあなた方(がた)の存在をも否定する訳になって、かように大勢傍聴しておられるにもかかわらず、有れども無きがごとくではなはだ御気の毒の至りであります。御腹も御立ちになるでしょうが、根本的の議論なのだから、まず議論として御聴きを願いたい。根本的に云うと失礼な申条だがあなた方は私を離れて客観的に存在してはおられません。――私を離れてと申したが、その私さえいわゆる私としては存在しないのだから、いわんやあなた方においてをやであります。いくら怒られても駄目(だめ)であります。あなた方はそこにござる。ござると思ってござる。私もまあちょっとそう思っています。います事は、いますがただかりにそう思って差し上げるまでの事であります。と云うものは、いくらそれ以上に思って上げたくてもそれだけの証拠(しょうこ)がないのだから仕方がありません。普通に物の存在を確(たしか)めるにはまず眼で見ますかね。眼で見た上で手で触れて見る。手で触れたあとで、嗅(か)いでみる、あるいは舐(な)めてみる。――あなた方の存在を確めるにはそれほど手数はかからぬかも知れぬが。けれども前にも申した通り眼で見ようが、耳できこうが、根本的に云えば、ただ視覚と聴覚を意識するまでで、この意識が変じて独立した物とも、人ともなりよう訳がない。見るときに触るるときに、黒い制服を着た、金釦(きんボタン)の学生の、姿を、私の意識中に現象としてあらわし来(きた)ると云うまでに過ぎないのであります。これを外(ほか)にしてあなた方の存在と云う事実を認めることができようはずがない。すると煎(せん)じ詰めたところが私もなければ、あなた方もない。あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。金釦が眼に映ずる、金釦を意識する。講堂の天井(てんじょう)が黒くなっている、その黒い所を意識する。――これは悪口ではありません。美術学校の天井が黒いと云うのではない、ただ黒いと意識するので、客観的存在は認めておらん悪口だから構わないでしょう。
 まずこれだけの話であります。すると通俗の考えを離れて物我の世界を見たところでは、物が自分から独立して現存していると云う事も云えず、自分が物を離れて生存していると云う事も申されない。換言して見ると己(おのれ)を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、いわゆる物我なるものは契合一致(けいごういっち)しなければならん訳になります。物我の二字を用いるのはすでに分りやすいためにするのみで、根本義から云うと、実はこの両面を区別しようがない、区別する事ができぬものに一致などと云う言語も必要ではないのであります。だからただ明かに存在しているのは意識であります。そうしてこの意識の連続を称して俗に命(いのち)と云うのであります。
 連続と云う字を使用する以上は意識が推移して行くと云う意味を含んでおって、推移と云う意味がある以上は(一)意識に単位がなければならぬと云う事と(二)この単位が互に消長すると云う事と(三)は消長が分明であるくらいに単位意識が明暸(めいりょう)でなければならぬと云う事と(四)意識の推移がある法則に支配せらるるやと云う事になりますから、問題がよほど込入って来ますが、今はそんな面倒な事を御話する場合でないから、諸君の御研究に一任する事として講話を進めます。もっとも今申した四カ条のうち、意識推移の原則については私の「文学論」の第五篇に不完全ながら自分の考えだけは述べておきましたから、御参考を願いたいと思います。ついでに「文学論」も一部ずつ御求めを願いたいと思います。――とにかく意識がある。物もない、我もないかも知れないが意識だけはたしかにある。そうしてこの意識が連続する。なぜ連続するかは哲学的にまたは進化的に説明がつくにしても、つかぬにしても連続するのはたしかであるから、これを事実として歩を進めて行く。
 そこでちょっと留まって、この講話の冒頭を顧(かえり)みると少々妙であります。最初には私と云うものがあると申しました。あなた方(がた)もたしかにおいでになると申しました。そうして、御互に空間と云う怪しいものの中に這入(はい)り込んで、時間と云う分らぬものの流れに棹(さお)さして、因果(いんが)の法則と云う恐ろしいものに束縛せられて、ぐうぐう云っていると申しました。ところが不通俗に考えた結果によるとまるで反対になってしまいました。物我などと云う関門は最初からない事になりました。天地すなわち自己と云うえらい事になりました。いつの間にこう豹変(ひょうへん)したのか分らないが、全く矛盾してしまいました。(空間、時間、因果律もやはりこの豹変のうちに含んでいます。それは講話の都合で後廻しにしましたから、今にだんだんわかります)
 なぜこんな矛盾が起ったのだろうか。よく考えると何にもないのに、通俗では森羅万象(しんらばんしょう)いろいろなものが掃蕩(そうとう)しても掃蕩しきれぬほど雑然として宇宙に充□(じゅうじん)している。戸張君ではないが天地前にあり、竹風ここにありと云いたくなるくらいであります。――なぜこんな矛盾が起ったのであろうか。これはすこぶる大問題である。面倒にむずかしく論じて来たら大分暇がかかりましょう。私は必要上、ごく粗末なところを、はなはだ短い時間内に御話するのであるから、無論豪(えら)い哲学者などが聞いておられたら、不完全だと云って攻撃せられるだろうと思います。しかしこの短い時間内に、こんな大袈裟(おおげさ)な問題を片づけるのだから、無論完全な事を云うはずがない、不完全は無論不完全だが、あの度胸が感心だと賞(ほ)めていただきたい。もっとも時間は幾らでも与えるから、もっと立派に言えと注文されても私の手際(てぎわ)では覚束(おぼつか)ないかも知れない。まあちょうどよいのです。
 どうして、こんな矛盾が起るかと云う問題に対して、ただ一口に説明してしまえば訳はない。前に申す通り吾々(われわれ)の生命は――吾々と云うと自他を樹立する語弊はあるがしばらく便宜のために使用します――吾々の生命は意識の連続であります。そうしてどういうものかこの連続を切断する事を欲しないのであります。他の言葉で云うと死ぬ事を希望しないのであります。もう一つ他の言葉で云うとこの連続をつづけて行く事が大好きなのであります。なぜ好むかとなると説明はできない。誰が出て来ても説明はできない。ただそれが事実であると認めるよりほかに道はない。もちろん進化論者に云わせるとこの願望も長い間に馴致(じゅんち)発展し来ったのだと幾分かその発展の順序を示す事ができるかも知れない。と云うものはそんな傾向をもっておらないようなもの、その傾向に応じて世の中に処して来なかったものは皆死んでしまったので、今残っているやつは命の欲しい欲張りばかりになったのだと論ずる事もできるからであります。御互のように命については極(きわ)めて執着の多い、奇麗(きれい)でない、思い切りのわるい連中が、こうしてぴんぴんしているような訳かも知れません。これでも多少の説明にはなります。しかしもっと進んでこの傾向の大原因を極めようとすると駄目であります。万法一に帰す、一いずれの所にか帰すというような禅学の公案工夫に似たものを指定しなければならんようになります。ショペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわしております。まことに重宝な文句であります。私もちょっと拝借しようと思うのですが、前に述べた意識の連続以外にこんな変挺(へんてこ)なものを建立(こんりゅう)すると、意識の連続以外に何(なん)にもないと申した言質に対して申訳が立ちませんから、残念ながらやめに致して、この傾向は意識の内容を構成している一部分すなわち属性と見做(みな)してしまいます。そうして「この傾向」と云うような概念は抽象の結果、よほど発達した後に「この傾向」として放出したものと認めるのであります。それは、ともかくも「吾人は意識の連続を求める」と云う事だけを事実として受けとらねばならぬのであります。もっと明暸(めいりょう)に云うと「意識には連続的傾向がある」と云い切ってこれを事実として受けとるのであります。
 意識と云い、連続と云い、連続的傾向と云うとそのうちに意識の分化と云う事と統一と云う事は自然と含まっております。すでに連続とある以上は甲と乙と連続したと云う事実を意識せねばならぬ、すなわち甲と乙と差別がつくほどに両意識が明暸でなければなりません。差別がつくと云うのは、同時に同じ意識もしくは類似の意識を統一し得ると云う意味と同じ事になります。例(たと)えてみれば視覚となづける意識は、分化の結果、触覚や味覚と差別がつくと、同時にあらゆる視覚的意識を統一する事ができて始めてできる言語であります。意識にこれだけの分化作用ができて、その分化した意識と、眼球(めだま)と云う器械を結びつけて、この種の意識は眼球が司(つかさ)どるのだと思いつく。しばらく視覚の意識と眼球の作用を混同して云うと、昔し分化作用の行われぬうちは視力は必ずしも眼球に集中しておらなかったろう。私も遠い昔では、からだ全体で物を見ていたかも知れぬ、あるいは背中で物を舐(な)めていたかも知れぬ。眼(め)耳(みみ)鼻(はな)舌(した)と分業が行われ出したのは、つい近頃の事であると思います。こう分業が行われだすと融通が利(き)かなくなります。ちょっと舌癌(ぜつがん)にかかったからと云うて踵(かかと)で飯を食う訳には行かず、不幸にして痳疾(りんしつ)を患(うれ)いたからと申して臍(へそ)で用を弁ずる事ができなくなりました。はなはだ不都合(ふつごう)であります。しかし意識の連続と云う以上は、――連続の意義が明暸(めいりょう)になる以上は、――連続を形ちづくる意識の内容が明暸でなければならぬはずであります。明暸でない意識は連続しているか、連続していないか判然しない。つまり吾人の根本的傾向に反する。否(いな)意識そのものの根本的傾向に反するのであります。意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。向後どこまで分化と統一が行われるかほとんど想像がつかない。しかしてこれに応ずる官能もどのくらい複雑になるか分りません。今日では目に見えぬもの、手に触れる事のできぬもの、あるいは五感以上に超然たるものがしだいに意識の舞台に上る事であろうと思いますから、まず気を長くして待っていたらよかろうと思います。
 もう一遍繰返(くりかえ)して「意識の連続」と申します。この句を割って見ると意識と云う字と連続と云う字になります。こうして意識の内容のいかんと、この連続の順序のいかんと二つに分れて問題は提起される訳であります。これを合すれば、いかなる内容の意識をいかなる順序に連続させるかの問題に帰着します。吾人がこの問題に逢着(ほうちゃく)したとき――吾人は必ずこの問題に逢着するに相違ない。意識及その連続を事実と認める裏にはすでにこの問題が含まれております。そうしてこの問題の裏面には選択(せんたく)と云う事が含まれております。ある程度の自由がない以上は、また幾分か選択の余裕がないならばこの問題の出ようはずがない。この問題が出るのはこの問題が一通り以上に解決され得るからである。この解決の標準を理想というのであります。これを纏(まと)めて一口に云うと吾人は生きたいと云う傾向をもっている。(意識には連続的傾向があると云う方が明確かも知れぬが)この傾向からして選択が出る。この選択から理想が出る。すると今まではただ生きればいいと云う傾向が発展して、ある特別の意義を有する命が欲しくなる。すなわちいかなる順序に意識を連続させようか、またいかなる意識の内容を選ぼうか、理想はこの二つになって漸々(ぜんぜん)と発展する。後に御話をする文学者の理想もここから出て参るのであります。
 次に連続と云う字義をもう一遍吟味(ぎんみ)してみますと、前にも申す通り、ははあ連続している哩(わい)と相互の区別ができるくらいに、連続しつつある意識は明暸(めいりょう)でなければならぬはずであります。そうして、かように区別し得る程度において明暸なる意識が、新陳代謝すると見ると、甲が去って乙が来ると云う順序がなければならぬはずであります。順序があるからには甲乙が共に意識せられるのではない。甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときはすでに甲は意識しておらん訳です。それにもかかわらず甲と乙とを区別する事ができるならば、明暸なる乙の意識の下には、比較的不明暸かは知らぬが、やはり甲の意識が存在していると見做(みな)さなければなりません。俗にこの不明暸な意識を称して記憶と云うのであります。だからして記憶の最高度はもっとも明暸なる上層の意識で、その最低度はもっとも不明暸なる下層の意識に過ぎんのであります。
 すると意識の連続は是非共記憶を含んでおらねばならず、記憶というと是非共時間を含んで来なければならなくなります。からして時間と云うものは内容のある意識の連続を待って始めて云うべき事で、これと関係なく時間が独立して世の中に存在するものではない。換言すれば意識と意識の間に存する一種の関係であって、意識があってこそこの関係が出るのであります。だから意識を離れてこの関係のみを独立させると云う事は便宜上の抽象として差支(さしつかえ)ないが、それ自身に存在するものと見る訳には参りません。ちょうどここにある水指(みずさし)のなかから白い色だけをとって、そうして物質を離れて白い色が存在すると主張するようなものであります。ちょっと考えると時間と云うものが流れていて、その永劫(えいごう)の流れのなかに事件が発展推移するように見えますが、それは前に申した分化統一の力が、ここまで進んだ結果時間と云うものを抽象して便宜上(べんぎじょう)これに存在を許したとの意味にほかならんのであります。薔薇(ばら)の中から香水を取って、香水のうちに薔薇があると云ったような論鋒(ろんぽう)と思います。私の考えでは薔薇のなかに香水があると云った方が適当と思います。もっともこの時間及びあとから御話をする空間と云うのは大分むずかしい問題で、哲学者に云わせると大変やかましいものでありますから、私のような粗末な考えを好い加減に云う時は、あまり御信じにならん方がよいかも知れませんが、――しかしあまり信じなくってもいけません。まず演説の終るまで信じておって、御宅へ御帰りになる頃に信じなくなるのがちょうどいい加減であろうと思います。
 次に今云う意識の連続――すなわち甲が去って乙がくるときに、こう云う場合がある。まず甲を意識して、それから乙を意識する。今度はその順を逆にして、乙を意識してから甲に移る。そうしてこの両(ふた)つのものを意識する時間を延しても縮めても、両意識の関係が変らない。するとこの関係は比較的時間と独立した関係であって、しかもある一定の関係であるという事がわかる。その時に吾人はこれを時間の関係に帰着せしむる事ができない事を悟って、これに空間的関係の名を与えるのであります。だからしてこれも両意識の間に存する一種の関係であって、意識そのものを離れて空間なるものが存在しているはずがない。空間自存の概念が起るのはやはり発達した抽象を認めて実在と見做(みな)した結果にほかならぬ。文法と云うものは言葉の排列上における相互の関係を法則にまとめたものであるが、小児は文法があって、それから文章があるように考えている。文法は文章があって、言葉があって、その言葉の関係を示すものに過ぎんのだからして、文法こそ文章のうちに含まれていると云ってしかるべきであるごとく空間の概念も具体的なる両意識のうちに含まれていると云ってもよろしいと思う。それを便宜(べんぎ)のために抽象して離してしまって広い空間を勝手次第に抛(ほう)り出すと、無辺際のうちにぽつりぽつりと物が散点しているような心持ちになります。もっともこの空間論も大分難物のようで、ニュートンと云う人は空間は客観的に存在していると主張したそうですし、カントは直覚だとか云ったそうですから、私の云う事は、あまり当(あて)にはなりません。あなた方が当になさらんでも、私はたしかにそう思ってるんだから毫(ごう)も差支(さしつかえ)はありません。ただ自分だけで、そう思っていればすむ事を、かように何のかのと申し上げるのは、演説を御頼みになった因果(いんが)でやむをえず申し上げるので、もしこれを申し上げないと、いつまでたっても文学談に移る事はできないのであります。
 さて抽象の結果として、時間と空間に客観的存在を与えると、これを有意義ならしむるために数(すう)というものを製造して、この両つのものを測(はか)る便宜法を講ずるのであります。世の中に単に数というような間(ま)の抜けた実質のないものはかつて存在した試しがない。今でもありません。数と云うのは意識の内容に関係なく、ただその連続的関係を前後に左右にもっとも簡単に測(はか)る符牒(ふちょう)で、こんな正体のない符牒を製造するにはよほど骨が折れたろうと思われます。
 それから意識の連続のうちに、二つもしくは二つ以上、いつでも同じ順序につながって出て来るのがあります。甲の後には必ず乙が出る。いつでも出る。順序において毫(ごう)も変る事がない。するとこの一種の関係に対して吾人(ごじん)は因果(いんが)の名を与えるのみならず、この関係だけを切り離して因果の法則と云うものを捏造(ねつぞう)するのであります。捏造と云うと妙な言葉ですが、実際ありもせぬものをつくり出すのだから捏造に相違ない。意識現象に附着しない因果はからの因果であります。因果の法則などと云うものは全くからのもので、やはり便宜上の仮定に過ぎません。これを知らないで天地の大法に支配せられて……などと云ってすましているのは、自分で張子(はりこ)の虎を造ってその前で慄(ふる)えているようなものであります。いわゆる因果法と云うものはただ今までがこうであったと云う事を一目(いちもく)に見せるための索引に過ぎんので、便利ではあるが、未来にこの法を超越した連続が出て来ないなどと思うのは愚(ぐ)の極(きょく)であります。それだから、よく分った人は俗人の不思議に思うような事を毫(ごう)も不思議と思わない。今まで知れた因果(いんが)以外にいくらでも因果があり得るものだと承知しているからであります。ドンが鳴ると必ず昼飯(ひるめし)だと思う連中とは少々違っています。
 ここいらで前段に述べた事を総括(そうかつ)しておいて、それから先へ進行しようと思います。(一)吾々は生きたいと云う念々(ねんねん)に支配せられております。意識の方から云うと、意識には連続的傾向がある。(二)この傾向が選択(せんたく)を生ずる。(三)選択が理想を孕(はら)む。(四)次にこの理想を実現して意識が特殊なる連続的方向を取る。(五)その結果として意識が分化する、明暸(めいりょう)になる、統一せられる。(六)一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。(七)一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。(八)時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。(九)時間内に起る一定の連続を統一して因果(いんが)の名を附して、因果の法則を抽象する。
 まずざっと、こんなものであります。してみると空間というものも時間というものも因果の法則というものも皆便宜上(べんぎじょう)の仮定であって、真実に存在しているものではない。これは私がそう云うのです。諸君がそうでないと云えばそれでもよい。御随意である。とにかく今日だけはそう仮定したいものだと思います。それでないと話が進行しません。なぜこんな余計な仮定をして平気でいるかというと、そこが人間の下司(げす)な了簡(りょうけん)で、我々はただ生きたい生きたいとのみ考えている。生きさえすれば、どんな嘘(うそ)でも吐(つ)く、どんな間違でも構わず遂行する、真(まこと)にあさましいものどもでありますから、空間があるとしないと生活上不便だと思うと、すぐ空間を捏造(ねつぞう)してしまう。時間がないと不都合だと勘づくと、よろしい、それじゃ時間を製造してやろうと、すぐ時間を製造してしまいます。だからいろいろな抽象や種々な仮定は、みんな背に腹は代えられぬ切なさのあまりから割り出した嘘であります。そうして嘘から出た真実(まこと)であります。いかにこの嘘が便宜であるかは、何年となく嘘をつき習った、末世澆季(まつせぎょうき)の今日では、私もこの嘘を真実(しんじつ)と思い、あなた方もこの嘘を真実と思って、誰も怪しむものもなく、疑うものもなく、公々然憚(はばか)るところなく、仮定を実在と認識して嬉(うれ)しがっているのでも分ります。貧して鈍すとも、窮すれば濫(らん)すとも申して、生活難に追われるとみんなこう堕落して参ります。要するに生活上の利害から割り出した嘘だから、大晦日(おおみそか)に女郎のこぼす涙と同じくらいな実(まこと)は含んでおります。なぜと云って御覧なさい。もし時間があると思わなければ、また時間を計る数と云うものがなければ、土曜に演説を受け合って日曜に来るかも知れない。御互の損になります。空間があると心得なければ、また空間を計る数と云うものがなければ、電車を避ける事もできず、二階から下りる事もできず、交番へ突き当ったり、犬の尾を踏んだり、はなはだ嬉(うれ)しくない結果になります。普通に知れ渡った因果の法則もこの通りであります。だからすべてこれらに存在の権利を与えないと吾身(わがみ)が危ういのであります。わが身が危うければどんな無理な事でもしなければなりません。そんな無法があるものかと力味(りきん)でいる人は死ぬばかりであります。だから現今ぴんぴん生息している人間は皆不正直もので、律義(りちぎ)な連中はとくの昔に、汽車に引かれたり、川へ落ちたり、巡査につかまったりして、ことごとく死んでしまったと御承知になれば大した間違はありません。
 すでに空間ができ、時間ができれば意識を割(さ)いて我と物との二つにする事は容易であります。容易などころの騒ぎじゃない。実は我と物を区別してこれを手際(てぎわ)よく安置するために空間と時間の御堂(みどう)を建立(こんりゅう)したも同然である。御堂ができるや否や待ち構えていた我々は意識を攫(つか)んでは抛(な)げ、攫んでは抛げ、あたかも粟餅屋(あわもちや)が餅をちぎって黄(き)ナ粉(こ)の中へ放り込むような勢で抛げつけます。この黄ナ粉が時間だと、過去の餅、現在の餅、未来の餅になります。この黄ナ粉が空間だと、遠い餅、近い餅、ここの餅、あすこの餅になります。今でも私の前にあなた方が百五十人ばかりならんでおられる。これは失礼ながら私が便宜のため、そこへ抛げ出したのであります。すでに空間のできた今日であるから、嘘にもせよせっかく出来上ったものを使わないのも宝の持腐れであるから、都合により、ぴしゃぴしゃ投出すと約百余人ちゃんと、そこに行儀よく並んでおられて至極(しごく)便利であります。投げると申すと失敬に当りますが、粟餅(あわもち)とは認めていないのだから、大した非礼にはなるまいと思います。
 この放射作用と前に申した分化作用が合併(がっぺい)して我以外のものを、単に我以外のものとしておかないで、これにいろいろな名称を与えて互に区別するようになります。例えば感覚的なものと超感覚的なもの(あるかないか知らないが幽霊とか神とか云う正体の分らぬものを指すのです)に分類する。その感覚的なものをまた眼で見る色や形、耳で聴く音や響、鼻で嗅(か)ぐ香、舌でしる味などに区別する。かくのごとく区別されたものを、まただんだんに細かく割って行く。分化作用が行われて、感覚が鋭敏になればなるほどこの区別は微精になって来ます。のみならず同一に統一作用が行われるからして、一方では草となり、木となり、動物となり、人間となるのみならず。草は菫(すみれ)となり、蒲公英(たんぽぽ)となり、桜草となり、木は梅となり、桃となり、松となり、檜(ひのき)となり、動物は牛、馬、猿、犬、人間は士、農、工、商、あるいは老、若、男、女、もしくは貴、賤、長、幼、賢、愚、正、邪、いくらでも分岐して来ます。現に今日でも植物学者の見分け得る草や花の種類はほとんど吾人(ごじん)の幾百倍に上るであろうと思います。また諸君のような画家の鑑別する色合は普通人の何十倍に当るか分らんでしょう。それも何のためかと云えば、元に還って考えて見ると、つまりは、うまく生きて行こうの一念に、この分化を促(うなが)されたに過ぎないのであります。ある一種の意識連続を自由に得んがために(選択の区域に出来得るだけの余裕を与えんがために)あらかじめ意識の範囲を広くすると云う意味にほかならんのであります。私共はどの草を見ても皆一様に青く見える。青のうちでいろいろな種類を意識したいと思っても、いかんせん分化作用がそこまで達しておらんから皆無駄目である。少くとも色について変化に富んだ複雑の生活は送れない事に帰着する。盲眼(めくら)の毛の生(は)えたものであります。情ない次第だと思います。或る評家の語に吾人が一色を認むるところにおいてチチアンは五十色を認めるとあります。これは単に画家だから重宝だと云うばかりではありません。人間として比較的融通の利(き)く生活が遂げらるると云う意味になります。意識の材料が多ければ多いほど、選択の自由が利いて、ある意識の連続を容易に実行できる――即ち自己の理想を実行しやすい地位に立つ――人と云わなければならぬから、融通の利く人と申すのであります。単に色ばかりではありません。例えば思想の乏しい人の送る内生涯(しょうがい)と云うものも色における吾々と同じく、気の毒なほど憐(あわれ)なものです。いくら金銭に不自由がなくても、いくら地位門閥が高くても、意識の連続は単調で、平凡で、毫(ごう)も理想がなくて、高、下、雅、俗、正、邪、曲、直の区別さえ分らなくて昏々濛々(こんこんもうもう)としてアミーバのような生活を送ります。こんな連中は人間さえ見れば誰も彼もみな同じ物だと思って働きかけます。それは頭が不明暸(ふめいりょう)なんだからだと注意してやると、かえって吾々を軽蔑(けいべつ)したり、罵倒したりするから厄介です――しかしこれはここで云う事ではない。演説の足が滑(すべ)って泥溝(どぶ)の中へちょっと落ちたのです。すぐ這(は)い上(あが)って真直に進行します。
 吾人は今申す通り我に対する物を空間に放射して、分化作用でこれを精細に区別して行きます。同時に我に対してもまた同様の分化作用を発展させて、身体と精神とを区別する。その精神作用を知、情、意、の三に区別します。それからこの知を割り、情を割り、その作用の特性によってまたいろいろに識別して行きます。この方面は主として心理学者と云うものが専門として担任しているから、これらの人に聞くのが一番わかりやすい。もっとも心理学者のやる事は心の作用を分解して抽象してしまう弊(へい)がある。知情意は当を得た分類かも知れぬが、三つの作用が各独立して、他と交渉なく働いているものではありません。心の作用はどんなに立入って細かい点に至っても、これを全体として見るとやはり知情意の三つを含んでいる場合が多い。だからこの三作用を截然(せつぜん)と区別するのは全く便宜上(べんぎじょう)の抽象である。この抽象法を用いないで、しかも極度の分化作用による微細なる心の働き(全体として)を写して人に示すのはおもに文学者がやっている。だから文学者の仕事もこの分化発展につれてだんだんと、朦朧(もうろう)たるものを明暸に意識し、意識したるものを仔細(しさい)に区別して行きます。例えば昔の竹取物語とか、太平記とかを見ると、いろいろな人間が出て来るがみんな同じ人間のようであります。西鶴などに至ってもやはりそうであります。つまりああいう著者には人間がたいてい同様にぼうっと見えたのでありましょう。分化作用の発展した今日になると人間観がそう鷹揚(おうよう)ではいけない。彼らの精神作用について微妙な細(こまか)い割り方をして、しかもその割った部分を明細に描写する手際(てぎわ)がなければ時勢に釣り合わない。これだけの眼識のないものが人間を写そうと企てるのは、あたかも色盲が絵をかこうと発心するようなものでとうてい成功はしないのであります。画を専門になさる、あなた方(がた)の方から云うと、同じ白色を出すのに白紙の白さと、食卓布の白さを区別するくらいな視覚力がないと視覚の発達した今日において充分理想通りの色を表現する事ができないと同様の意義で、――文学者の方でも同性質、同傾向、同境遇、同年輩の男でも、その間に微妙な区別を認め得るくらいな眼光がないと、人を視る力の発達した今日においては、性格を描写したとは申されないのであります。したがって人間をかく文学者は、単に文学者ではならん、要するに人間を識別する能力が発達した人でなくてはならんのです。進んだる世の中に、もっとも進んだる眼識を具(そな)えた男――特に文学者としてではない、一般人間としてこの方面に立派な腕前のある男――でなければ手は出せぬはずであります。世の中はそう思っておりません。何(なん)の小説家がと、小説家をもってあたかも指物師(さしものし)とか経師屋(きょうじや)のごとく単に筆を舐(ねぶ)って衣食する人のように考えている。小説家よりも大学の先生の方が遥(はるか)にえらいと考えている。内務省の地方局長の方がなお遥にえらいと思っている。大臣や金持や華族様はなおなお遥にえらいと思っている。妙な事であります。もし我々が小説家から、人間と云うものは、こんなものであると云う新事実を教えられたならば、我々は我々の分化作用の径路において、この小説家のために一歩の発展を促(うなが)されて、開化の進路にあたる一叢(ひとむら)の荊棘(いばら)を切り開いて貰ったと云わねばならんだろうと思います。(小説家の功力(くりき)はこの一点に限ると云う意味ではない。この一点を挙(あ)げて考えても局長さんや博士さんに劣るものでないと云うのであります)もし諸君がそんな小説家は現今日本に一人もないではないかと云われるならば、私はこう答える。それは小説家の罪ではない。現今日本の小説家(私もその一人と御認めになってよろしい)の罪である。局長にでもがあるごとく、博士にでもがあるごとく、小説家にでもがあるのも御互様と申さねばならぬのであります。――また泥溝(どぶ)の中へ落ちました。
 実はまだ文学の御話をするほどに講演の歩を進めておらんのであります。分化作用を述べる際につい口が滑(すべ)って文学者ことに小説家の眼識に論及してしまったのであります。だからこれをもって彼らの使命の全般をつくしたとは申されない。前にも云う通りついでだから分化作用に即(そく)して彼らの使命の一端を挙(あ)げたのに過ぎんのである。したがって文学全体に渉(わた)っての御話をするときには今少し概括的(がいかつてき)に出て来なければならぬ訳です。これから追々そこまで漕ぎつけて行きます。
 かく分化作用で、吾々は物と我とを分ち、物を分って自然と人間(物として観たる人間)と超感覚的な神(我を離れて神の存在を認める場合に云うのであります)とし、我を分って知、情、意の三とします。この我なる三作用と我以外の物とを結びつけると、明かに三の場合が成立します。すなわち物に向って知を働かす人と、物に向って情を働かす人と、それから物に向って意を働かす人であります。無論この三作用は元来独立しておらんのだから、ここで知を働かし、情を働かし、意を働かすと云うのは重に働かすと云う意味で、全然他の作用を除却して、それのみを働かすと云うつもりではありません。そこでこのうちで知を働かす人は、物の関係を明(あきら)める人で俗にこれを哲学者もしくは科学者と云います。情を働かす人は、物の関係を味わう人で俗にこれを文学者もしくは芸術家と称(とな)えます。最後に意を働かす人は、物の関係を改造する人で俗にこれを軍人とか、政治家とか、豆腐屋(とうふや)とか、大工とか号しております。
 かように意識の内容が分化して来ると、内容の連続も多種多様になるから、前に申した理想、すなわちいかなる意識の連続をもって自己の生命を構成しようかと云う選択の区域も大分自由になります。ある人は比較的知の作用のみを働かす意識の連続を得て生存せんと冀(こいねが)い、ついに学者になります。またある人は比較的情を働かす意識の連続をもって生活の内容としたいと云う理想からとうとう文士とか、画家とか、音楽家になってしまいます。またある人は意志を多く働かし得る意識の連続を希望する結果百姓になったり、車引になったり――これはたんとないかも知れぬが、軍(いくさ)をしたり、冒険に出たり、革命を企てたりするのは大分あるでしょう。
 かく人間の理想を三大別したところで、我々、すなわち今日この席で講演の栄誉を有している私と、その講演を御聴き下さる諸君の理想は何であるかと云うと、云うまでもなく第二に属するものであります。情を働かして生活したい、知意を働かせたくないと云うのではないが、情を離れて活(い)きていたくないと云うのが我々の理想であります。しかしただ「情が理想」では合点(がてん)が行かない。御互になるほどと合点が参るためには、今少し詳細に「情を理想とする」とは、こんなものだと小(こま)かく割って御話しをしなければなるまいと思います。
 情を働かす人は物の関係を味わうんだと申しました。物の関係を味わう人は、物の関係を明(あきら)めなくてはならず、また場合によってはこの関係を改造しなくては味が出て来ないからして、情の人はかねて、知意の人でなくてはならず、文芸家は同時に哲学者で同時に実行的の人(創作家)であるのは無論であります。しかし関係を明める方を専(もっぱ)らにする人は、明めやすくするために、味わう事のできない程度までにこの関係を抽象してしまうかも知れません。林檎(りんご)が三つあると、三と云う関係を明かにさえすればよいと云うので、肝心(かんじん)の林檎は忘れて、ただ三の数(すう)だけに重きをおくようになります。文芸家にとっても関係を明かにする必要はあるが、これを明かにするのは従前よりよくこの関係を味わい得るために、明かにするのだからして、いくら明かになるからと云うて、この関係を味わい得ぬ程度までに明かにしては何にもならんのであります。だから三と云う関係を知るのは結構だが林檎(りんご)と云う果物を忘るる事はとうてい文芸家にはできんのであります。文芸家の意志を働かす場合もその通りであります。物の関係を改造するのが目的ではない、よりよく情を働かし得るために改造するのである。からして情の活動に反する程度までにこの関係を新(あらた)にしてしまうのは、文芸家の断じてやらぬ事であります。松の傍(かたわら)に石を添える事はあるでしょうが、松を切って湯屋に売払う事はよほど貧乏しないとできにくい。せっかくの松を一片の煙としてしまうともう、情を働かす余地がなくなるからであります。して見ると文芸家は「物の関係を味わうものだ」と云う句の意味がいささか明暸(めいりょう)になったようであります。すなわち物の関係を味わい得んがためには、その物がどこまでも具体的でなくてはならぬ、知意の働きで、具体的のものを打ち壊してしまうや否や、文芸家はこの関係を味わう事ができなくなる。したがってどこまでも具体的のものに即して、情を働かせる、具体の性質を破壊せぬ範囲内において知、意を働かせる。――まずこうなります。
 すると文芸家の理想はとうてい感覚的なものを離れては成立せんと云う事になります。(この事を詳(くわ)しく論ずるといろいろの疑問が起って来ますが、今は時間がありませんから述べません。まず大体の上においてこの命題は確然たる根拠(こんきょ)のあるものと御考えになっても差支(さしつかえ)はなかろうと思います)早い話しが無臭無形の神の事でもかこうとすると何か感覚的なものを借りて来ないと文章にも絵にもなりません。だから旧約全書の神様や希臘(ギリシャ)の神様はみんな声とか形とかあるいはその他の感覚的な力を有しています。それだから吾人文芸家の理想は感覚的なる或物を通じて一種の情をあらわすと云うても宜(よろ)しかろうと存じます。そこで問題は二つになります。一は感覚的なものとは何だと云う問題で二はいわゆる一種の情とは、感覚的なものの、どの部分によって、どんな具合にあらわされるかまた、「感覚的なものを通じて」と云うのは感覚的なものを使って、この道具の方便である情をあらわすと云うのか、しからずんば感覚的なもの、それ自身がこの情をあらわす目的物かという問題であります。この問題を解釈すると文芸家の理想の分化する模様が大体見当(けんとう)がつきます。第一問の解釈、第二問の解釈として順を追うては述べませんが、ただ秩序を立てて分りやすくするためにやはり一二の番号をふって説明して行きます。
(一)私は最前(さいぜん)空間、時間の建立(こんりゅう)からして、物我の二世界を作ると申しました。その物なるものは自然である、人間である、(単に物として見たる)神である(我以外に存在するとすれば)と申しました。このうちで神は感覚的なものでないから問題になりません。もし文芸に神が出現するときは感覚的な或物を通じてくるのだから、出現するとしても、他と同じ分類のなかに這入(はい)るからしてやはり問題にする必要はありません。すると残るものは自然と人間であります。そうして我々は自然とこの人間とに対して一種の情を有しております。換言すれば感覚的なる自然と感覚的なる人間そのものの色合やら、線の配合やら、大小やら、比例やら、質の軟硬やら、光線の反射具合やら、彼らの有する音声やら、すべてこれらの感覚的なるものに対して趣味、すなわち好悪(こうお)、すなわち情、を有しております。だからこれらの感覚的な物の関係を味わう事ができます。のみならずそのうちでもっとも優れたる関係を意識したくなります。その意識したい理想を実現する一方法として詩ができます、画ができます。この理想に対する情のもっとも著しきものを称して美的情操と云います。(実は美的理想以外にもいろいろな理想が起る訳であります。あるいは一種の関係に突兀(とっこつ)と云う名を与え、あるいは他種の関係に飄逸(ひょういつ)と云う名を与えて、突兀的情操、飄逸的情操と云うのを作っても差支(さしつかえ)ない。分化作用が発達すれば自然とここへ来るにきまっています。西洋人の唱(とな)え出した美とか美学とか云うもののために我々は大に迷惑します)かようにして美的理想を自然物の関係で実現しようとするものは山水専門の画家になったり、天地の景物を咏(えい)ずる事を好む支那詩人もしくは日本の俳句家のようなものになります。それからまた、この美的理想を人物の関係において実現しようとすると、美人を咏ずる事の好きな詩人ができたり、これを写す事の御得意な画家になります。現今西洋でも日本でもやかましく騒いでいる裸体画などと云うものは全くこの局部の理想を生涯(しょうがい)の目的として苦心しているのであります。技術としてはむずかしいかも知れぬが文芸家の理想としては、ほんの一部分に過ぎんのであります。人によると裸体画さえかけば、画の能事は尽きたように吹聴(ふいちょう)している。私は画の方は心得がないから、何(なん)とも申しかねるが、あれは仏国の現代の風潮が東漸(とうぜん)した結果ではないでしょうか。とにかく、画でも詩でも文でも構わない。感覚物として見たる人間がすでに感覚物の一部分に過ぎん上に、美的情操と云うのがまた、この感覚物として見たる人間に対する情操の一部に過ぎんと判然した以上は、裸体美と云うものは尊いものかは知れぬが、狭いものには相違ないでしょう。
 美的にせよ、突兀的にせよ、飄逸的にせよ、皆吾人の物の関係を味う時の味い方で、そのいずれを選ぶかは文芸家の理想できまるべき問題でありますから、分化の結果理想が殖(ふ)えれば、どこまで割れて行くか分りません。しかしいくら割れても、ここに云う理想は、感覚物を感覚物として見た時にその関係から生ずるのであります。すなわちこの際における情操は、感覚物そのものを目的物として見た時に起るので、これを道具に使って、その媒介(ばいかい)によって、感覚物以外の或るものに対して起す情操と混同してはならんのであります。
(二)物我のうち物に対する理想と情操とは以上で大抵御分りになったろうと思います。すると今度は我の番でありますから、こちらを少々説明します。
(い)我の作用を知情意に区別することは前に述べた通りで、この知の働きを主にして物の関係を明かにするものは哲学者もしくは科学者だと申しました。なるほど関係を明かにすると云う点より見れば哲学科学の領分に相違ないが、関係を明かにするために一種の情が起るならば、情が起ると云う点において、知の働きであるにもかかわらず文芸的作用と云わねばならんかと思います。ところが知を働かして情の満足を得るためには前に説明した通り感覚的なものを離れて、単に物の関係のみを抽象してあらわしてはならんのであります。換言すると文芸的に知を働かせるため感覚的の具体を藉(か)りて来なければ成立しない、具体を藉りてその媒介を待てば知の働きといえどもこれを文芸化するを得べしと云う事になります。そうすると、ここに新しい文芸上の理想が出来上ります。すなわち物を道具に使って、知を働かし、その関係を明かにして情の満足を得ると云う理想であります。この理想を真(しん)に対する理想と云います。だからして真に対する理想は哲学者及び科学者の理想であると同時に文芸家の理想にもなります。ただし後者は具体を通じて真をあらわすと云う条件に束縛されただけが、前者と異なるのであります。そうしてこの真のあらわし方、すなわち知を働かす具合も分化していろいろになりますが、おもに人間の精神作用が、(この場合には(一)におけるごとく人間を純感覚物と見做(みな)さないのである)あらかじめ吾人の予想した因果律(いんがりつ)と一致するか、またはこの因果律に一歩の分化を加えたる新意義に応じて発展する場合に多く用いられるのであります。たとえば父子(おやこ)が激論をしていると、急に火事が起って、家が煙につつまれる。その時今まで激論をしていた親子が、急に喧嘩(けんか)を忘れて、互に相援(あいたす)けて門外に逃げるところを小説にかく。すると書いた人は無論読む人もなるほどさもありそうだと思う。すなわちこの小説はある地位にある親子の関係を明かにしたと云う点において、作者及び読者の知を働かし得て、真に対する情の満足を得せしむるのであります。または反対に、大変中(なか)のよかった夫婦が飢饉(ききん)のときに、平生の愛を忘れて、妻の食うべき粥(かゆ)を夫が奪って食うと云う事を小説にかく。するとこれもある位地境遇にある夫婦の関係を明かにすると云う点で同様の満足を作者と読者に与えるかも知れない。(人間の精神作用から云うと真はいろいろである。時には相反しても依然として双方共真である)好んでこう言う事をかく文芸家を真を理想にする文芸家と云います。
(ろ)吾人の有する第二の精神作用は情であります。この情を理想として働かせる人を文芸家と云う事は前に述べた通りでありますが、説いてここに至ると混雑を生じやすいからして、少々弁じた上進行します。単に情と云うと曖昧(あいまい)であります。なぜなれば我々が情の活動を得んがために、文芸上の作物を仕上げたり、またはこれを味う時に働かしむる情は、作物中に材料として使用する情とは区別する必要があるからであります。我々は感覚物を感覚物として見るときに一種の情を起します、この情はすなわち文芸家の理想の一であります。我々はまた感覚物を通じて知を働かせるときに一種の情を起します。この情もまた文芸家の理想の一であります。次に我々は同じく感覚物を通じて情を働かせるときにまた一種の情を得ねばならぬ訳であります。この両(ふたつ)の情はたとえその内容において彼此(ひし)相一致するとしても、これを同体同物としては議論の上において混雑を生ずる訳であります。例えばある感覚物を通じて怒(いかり)と云う情をあらわすとすれば、この作物より得る吾人の情もまた同性質の怒かも知れぬけれども(時には異性質の情を起す事あるはもちろんである)両者同物ではない。前の怒りは原因で後の怒りは結果である。わかりやすく言い直すと、前の怒りは感覚物に附着した怒である。(たといその源は我の有する作用中の怒りを我以外に放射して創設せるものにもせよ)後の怒は我と云う自己中に起る怒りである。だから混同を防ぐためにこの二つを区別しておいて歩を進めます。しかしその論法は大体において(い)の場合、すなわち吾人は知の働きを愛して、これに一種の情を付与すと云う条(くだ)りに説明したものと変りはありません。吾人の心裏(しんり)に往来する喜怒哀楽は、それ自身において、吾人の意識の大部分を構成するのみならず、その発現を客観的にして、これをいわゆる物(多くの場合においては人間であります)において認めた時にもまた大に吾人の情を刺激するものであります。けれどもこの刺激は前に述べた条件に基(もとづ)いて、ある具体、ことに人間を通じて情があらわるるときに始めて享受(きょうじゅ)する事ができるのであります。情において興味を有するからと云うて心理学者のように情だけを抽象して、これを死物として取扱えば文芸的にはなり兼ねるのであります。もっとも当体が情であるだけに、知意に比すると比較的抽象化しても物にならんとは限りませんが、これを詳(くわ)しく説明する余裕がないから略します。
 そこでこの種の理想に在(あ)っても分化の結果いろいろになりますが、まず標準を云うと、物を通して――物と云うより人と云う方が分りやすいから人としましょう。――人を通じて愛の関係をあらわすもの、これは十中八九いわゆる小説家の理想になっております。その愛の関係も分化するといろいろになります。相愛(あいあい)して夫婦になったり、恋の病に罹(かか)ったり――もっとも近頃の小説にはそんな古風なのは滅多(めった)にないようですが、それからもっと皮肉なのになると、嫁に行きながら他の男を慕って見たり、ようやく思が遂げていっしょになる明くる日から喧嘩(けんか)を始めたり、いろいろな理想――理想と云うのもおかしいようだ――とにかくいろいろできます。次には忠、孝、義侠心(ぎきょうしん)、友情、おもな徳義的情操はその分化した変形と共に皆標準になります。この徳義的情操を標準にしたものを総称して善の理想と呼ぶ事ができます。この事はもっと委細に御話したいが時間がないから略して次に移ります。
(は)精神作用の第三は意志であります。この意志が文芸的にあらわれ得るためには、やはり前述の条件に従って、感覚的な物を通じて具体化されなくてはなりません。そうすると、感覚的な物は道具であって、この道具のために意志の働きが判然とあらわれてくる。しかし道具はどこまでも道具で、意志があらわれるから道具も尊くなる。例(たと)えば徳利(とくり)のようなものであります。徳利自身に貴重な陶器がないとは限らぬが、底が抜けて酒を盛るに堪(た)えなかったならば、杯盤の間に周旋して主人の御意に入る事はできんのであります。今かりに大弾丸の空裏(くうり)を飛ぶ様を写すとする。するとこれを見る方(ほう)に二通りある。一は単に感覚的で、第一に述べたような場合に属する。一はこの感覚的なるものを通して非常に猛烈な勢(いきおい)――ただの勢では写す事もどうする事もできんから――をあらわす。すると弾丸は客で、実の目的は弾丸のあらわす猛勢である。自然ながら、器械的ながら一種の意志の作用である。冬富士山へ登るものを見ると人は馬鹿と云います。なるほど馬鹿には相違ないが、この馬鹿を通して一種の意志が発現されるとすれば、馬鹿全体に眼をつける必要はない、ただその意志のあらわれるところ、文芸的なるところだけを見てやればよいかも知れません。貴重な生命を賭(と)して海峡を泳いで見たり、沙漠(さばく)を横ぎって見たりする馬鹿は、みんな意志を働かす意識の連続を得んがために他を犠牲に供するのであります。したがってこれを文芸的にあらわせばやはり文芸的にならんとは断言できません。いわんや国のためとか、道のためとか、人のためとか、(ろ)の場合に述べた徳義的理想と合するように意志が発現してくると非常な高尚な情操を引き起します。
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