文芸委員は何をするか
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著者名:夏目漱石 

       上

 政府が官選文芸委員の名を発表するの日は近きにありと伝えられている。何人(なんぴと)が進んでその嘱(しょく)に応ずるかは余(よ)の知る限りでない。余はただ文壇のために一言して諸君子の一考(いっこう)を煩(わずら)わしたいと思うだけである。
 政府はある意味において国家を代表している。少くとも国家を代表するかの如き顔をして万事(ばんじ)を振舞(ふるま)うに足る位の権力家である。今政府の新設せんとする文芸院は、この点においてまさしく国家的機関である。従って文芸院の内容を構成する委員らは、普通文士の格を離れて、突然国家を代表すべき文芸家とならなければならない。しかも自家に固有なる作物(さくぶつ)と評論と見識との齎(もたら)した価値によって、国家を代表するのではない。実行上の権力において自己より遥(はるか)に偉大なる政府というものを背景に控(ひか)えた御蔭で、忽(たちま)ち魚が竜となるのである。自(みずか)ら任ずる文芸家及び文学者諸君に取っては、定(さだ)めて大いなる苦痛であろうと思われる。
 諸君がもし、国家のためだから、この苦痛を甘んじても遣(や)るといわれるなら、まことに敬服である。その代り何処(どこ)が国家のためだか、明(あきら)かに諸君の立脚地をわれらに誨(おし)えられる義務が出て来るだろうと考える。
 政府が国家的事業の一端(いったん)として、保護奨励を文芸の上に与えんとするのは、文明の当局者として固(もと)より当然の考えである。けれども一文芸院を設けて優(ゆう)にその目的が達せられるように思うならば、あたかも果樹の栽培者が、肝心の土壌(どじょう)を問題外に閑却(かんきゃく)しながら、自分の気に入った枝だけに袋を被(かぶ)せて大事を懸ける小刀細工(こがたなざいく)と一般である。文芸の発達は、その発達の対象として、文芸を歓迎し得る程度の社会の存在を仮定しなければならないのは無論の事で、その程度の社会を造り出す事が、即ち文芸を保護奨励しようという政府の第一目的でなければならない事もまた知れ切った話である。そうしてそれは根の深い国民教育の結果として、始めて一般世間の表面に浮遊して来るより外に途(みち)のないものである。既に根本が此処(ここ)で極(き)まりさえすれば、他の設備は殆んど装飾に過ぎない。(その弊害を勘定に入れない時ですら)。余は政府が文芸保護の最急政策として、何故(なにゆえ)にまず学校教育の遠き源から手を下さなかったかを怪むのである。それほど大仕掛(おおじかけ)の手数を厭う位なら、ついでに文芸院を建てる手数をも厭った方が経済であると考える。国家を代表するかの観を装う文芸委員なるものは、その性質上直接社会に向って、以上のような大勢力を振舞かねる団体だからである。
 もし文芸院がより多く卑近(ひきん)なる目的を以て、文芸の産出家に対して、個々別々の便宜を、その作物(さくぶつ)上の評価に応じて、零細(れいさい)にかつ随時に与えようとするならば、余はその効果の比較的少きに反して、その弊害の思ったよりも大いなる事を断言するに憚(はばか)らぬものである。
 我々は自(みずか)ら相応に鑑賞力のある文士と自任して、常住(じょうじゅう)他の作物に対して、自己の正当と信ずる評価を公けにして憚らないのみか、芸術上において相互発展進歩の余地はこれより外にないとまで考えている。けれども我々の批判はあくまでも我々一家の批判である。もしそれが一家の批判を超越する場合には、批判その物の性質として普遍ならざるべからざる権威を内に具えているがためで、いわば相手と熟議(じゅくぎ)の結果から得た自然の勢力に過ぎない。我々の背後にはただ他(ひと)より優秀なる鑑賞力と、他より超越せる判断力があるのみで、単(ひとえ)にこれがためにわが言辞にそれ相応の権威を生ずるのである。
 この権威を最後最上の権威であれかしと冀(こいねが)うのは、我々の欲望であって、一般に通ずる事実ではない。これを事実にしてくれるものは、相手と公平なる三者である。いやしくも二者の許諾(きょだく)を得ざるものは、どこまでも一家の批判に過ぎない。それが当然である。しかるに一家の批判を以て任ずべき文芸家もしくは文学家が、国家を代表する政府の威信の下に、突如として国家を代表する文芸家と化するの結果として、天下をして彼らの批判こそ最終最上の権威あるものとの誤解を抱かしむるのは、その起因する所が文芸その物と何らの交渉なき政府の威力に本(もと)づくだけに、猶更(なおさら)の悪影響を一般社会――ことに文芸に志(こころ)ざす青年――に与うるものである。これを文芸の堕落(だらく)というのは通じる。保護というに至ってはその意味を知るに苦しまざるを得ない。

       中

 一家の批判を、一家として最後最上の批判と信ずるのに、何人(なんぴと)も喙(くちばし)を容(い)れようがない。けれどもそれをして比較的普遍ならしめんがため、――それを世間に通用する事実と変化せしめんがために、文芸の鑑賞に縁もゆかりもない政府の力を藉(か)りるのは卑怯の振舞である。自己の所信を客観化して公衆にしか認めしむべき根拠を有せざる時においてすら、彼らは自由に天下を欺(あざむ)くの権利をあらかじめ占有(アッシューム)するからである。
 弊害はこればかりではない。既に文芸委員が政府の威力を背景に置いて、個人的ならざるべからざる文芸上の批判を国家的に膨脹(ぼうちょう)して、自己の勢力を張(は)るの具となすならば、政府はまた文芸委員を文芸に関する最終の審判者の如く見立てて、この機関を通して、尤(もっと)も不愉快なる方法によって、健全なる文芸の発達を計るとの漠然たる美名の下に、行政上に都合よき作物(さくぶつ)のみを奨励して、その他を圧迫するは見やすき道理である。公平なる文芸の鑑賞家は自己のいわゆる健全と政府のいわゆる健全と一致せざる多くの場合において、文芸院の設立を迷惑に思うだろう。
 これらの弊害を別にしても、文芸院の建設は依然として文芸の発達上効力がある、即ちある種類の好い作物は出るに違(ちがい)ないと主張する人があるかも知れない。余はそういう人に向って、たとい日本に文芸院がなくっても好い作物は出るのだといいたい。かつて文部省の展覧会の審査員の某氏に会った時、日本の絵画も近頃は大分上手になりましたといったら、その人は文部省の展覧会が出来てから大変好くなりましたと答えた。日本の絵画の年々進歩するのは争うべからざる事実ではあるが、その原因を某氏のように一概(いちがい)に文部省の展覧会に帰するのは間違っているように思われる。果して日本の画家があの位の刺激に挑撥されて人工的に向上したとすれば、彼らは文部省の御蔭で腕が上がると同時に、同じく文部省の御蔭で頭が下がったので、一方からいうと気の毒なほど不見識(ふけんしき)な集合体だと評しなければならない。
 余が某氏の言(げん)に疑を挟(さしはさ)むのは、自分に最も密接の関係のある文壇の近状に徴(ちょう)して、決してそうではあるまいとの自信があるからである。政府は今日までわが文芸に対して何らの保護を与えていない。むしろ干渉のみを事とした形迹(けいせき)がある。それにもかかわらず、わが文学は過去数年の間に著るしい発展をした。余の見る所を以てすると、現今毎月刊行の文学雑誌に載る幾多(いくた)の小説の大部分は、英国の『ウィンゾー』などに続々現れてくる愚劣な小説よりも、どの位芸術的に書き流されているか分らない。既にこの数年の間にかほど進歩の機運が熟するとしたなら、突然それを阻害する事情の起らない限りは、文芸院などという不自然な機関の助けを藉(か)りて無理に温室へ入れなくても、野生のままで放って置けば、この先順当に発展するだけである。我々文士からいっても、好い加減な選り好みをされた上に、生中(なまなか)もやし扱いにされるのはありがたいものではない。
 現代の文士が述作の上において要求する所のものは、国家を代表する文芸委員諸君の注意や批判や評価だと思うのは、政府の己惚(うぬぼれ)である。それらは皆各自(めいめい)に有(も)っているはずである。疑わしいときは、個人としての先輩やら朋友やら、信用のある外国人の著わした書物やらに聴いて、自分の考えを纏(まと)めれば沢山である。現代の文士が述作の上において最も要求する所のものはそれらではない。金である。比較的容易なる生活である。彼らは見苦しいほど金に困っている。いわゆる文壇の不振とは、文壇に提供せられたる作物の不振ではない。作物を買ってやる財嚢(ざいのう)の不振である。文士からいえば米櫃(こめびつ)の不振である。新設されべき文芸院が果してこの不振の救済を急務として適当の仕事を遣(や)り出すならば、よし永久の必要はなしとした所で、刻下の困難を救う一時の方便上、文壇に縁の深い我々は折れ合って無理にも賛成の意を表したいが、どうしてそれを仕終(しおお)せるかの実行問題になると、余には全然見込が立たないのである。

       下

 近時のわが文壇は殆んど小説の文壇である。脚本と批評はこれに次ぐべき重要の因数(ファクトー)に相違ないが、分量からいっても、一般の注意を惹(ひ)く点からいっても、遂に小説には及ばない。その小説について、斯道(しどう)に関係ある我々の見逃(みのが)し能(あた)わざる特殊の現象が毎月刊行の雑誌の上に著るしく現れて来た。それは全体の小説が芸術的作品として、或る水平に達しつつあるという事実である。またその水平が年々に高くなりつつあるという事実である。この二つの事実を左右の翼(つばさ)として、論理的に一段の交渉を前方に進めるならば、我々は局外者に向って興趣(きょうしゅ)ある一種の結論を提供する事が出来る。その結論とはこうである。――
 わが小説界は偉大なる一、二の天才を有する代りに、優劣のしかく懸隔(けんかく)せざる多数の天才(もしくは人才)の集合努力によって進歩しつつある。
 この傾向を首肯(うべな)いつつ、文芸委員のするという選抜賞与の実際問題に向うならば、公平にして真に文界の前途を思うものは、誰しもその事業に伴う危険と困難とを感ずべきはずである。さまで優劣の階段を設くる必要なき作品に対して、国家的代表者の権威と自信とを以て、敢て上下の等級を天下に宣告して憚らざるさえあるに、文明の趨勢と教化の均霑(きんてん)とより来(きた)る集合団体の努力を無視して、全部に与うべきはずの報酬を、強(し)いて個人の頭上(ずじょう)に落さんとするは、殆んど悪意ある取捨(しゅしゃ)と一般の行為だからである。
 好悪(こうお)は人々の随意である。好悪より生ずる物品金銭の贈与もまた人々の随意である。英国の王家が月桂詩人の称号をスウィンバーンに与えないで、オースチンに年々二、三百磅(ポンド)の恩給を贈るのは、単に王家がこの詩人に対する好悪の表現と見ればそれまでである。けれども国家の与うべき報酬は、一銭一厘たりとも好悪によって支配さるべきではない。必ず優劣によって決せらるべきである。しかもその優劣が判然(はっきり)と公衆の眼に映らなければならない。この必要条件を具備しない国家的保護と奨励とはなきに優(まさ)ると寛仮(かんか)するよりも、むしろあるに劣る(もしそういう言葉が意味をなすならば)と非難する方が当然である。
 作物(さくぶつ)の現状と文士の窮状とは既に上説の如くであって、ここに保護のために使用すべき金が若干でもあるとすれば、それを分配すべき比較的無難(ぶなん)な方法はただ一つあるだけである。余は毎月刊行の雑誌に掲載される凡(すべ)ての小説とはいわないつもりであるが、その大部分、即ち或る水平以上に達したる作物に対してはこの保護金なり奨励金なりを平等に割り宛て、当分原稿料の不足を補うようにしたら可(よ)かろうと思う。固(もと)より各人に割り宛てれば僅かなものに違ないけれども、一つの短篇について、三十円乃至(ないし)五十円位な賞与を受ける事が出来たなら、賞与に伴う名誉などはどうでも可いとして、実際の生活上に多少の便宜はある事と信ぜられるからである。こうすれば雑誌の編輯者とか購買者とかにはまるで影響を及ぼさずに、ただ雑誌を飾る作家だけが寛容(くつろ)ぐ利益のある事だから、一雑誌に載る小説の数がむやみに殖(ふ)える気遣(きづかい)はない。尤(もっと)も自分で書いて自分で雑誌を出す道楽な文士は多少増(ます)かも知れないが、それは実施の上になって見なければ分らない。
 余は以上の如く根本において文芸院の設置に反対を唱うるものであるが、もし保護金の使用法について、幸いにも文芸委員がこの公平なる手段を講ずるならば、その局部に対しては大(おおい)に賛成の意を表するに吝(やぶさ)かならざるつもりである。その他の企画についても悉(ことごと)く非難する必要は無論認めない。けれども大体の筋からいって、凡(すべ)てこれらは政府から独立した文芸組合または作家団というような組織の下に案出され、またその組織の下に行政者と協商されべきである。惜(おし)いかな今の日本の文芸家は、時間からいっても、金銭からいっても、また精神からいっても、同類保存の途を講ずる余裕さえ持ち得ぬほどに貧弱なる孤立者またはイゴイストの寄合(よりあい)である。自己の劃したる檻内(かんない)に咆哮(ほうこう)して、互に噛(か)み合う術は心得ている。一歩でも檻外に向って社会的に同類全体の地位を高めようとは考えていない。互を軽蔑した文字を恬(てん)として六号活字に並べ立てたりなどして、故(こと)さらに自分らが社会から軽蔑されるような地盤を固めつつ澄まし返っている有様(ありさま)である。日本の文芸家が作家(オーソース)倶楽部(クラブ)というほどの単純な組織すらも構成し得ない卑力(ひりょく)な徒(と)である事を思えば、政府の計画した文芸院の優(ゆう)に成立するのも無理はないかも知れぬ。
――明治四四、五、一八―二〇『東京朝日新聞』――



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