岡本一平著並画『探訪画趣』序
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著者名:夏目漱石 

 私は朝日新聞に出るあなたの描いた漫画に多大な興味を有(も)っている一人であります。いつか社の鎌田君に其話をして、あれなりにして捨ててしまうのは惜しいものだ、今のうちに纏(まと)めて出版したら可(よ)かろうにと云った事があります。其後あなた自身が見えた時、私はあなたに自分の描いたものはみんな保存してあるでしょうねと聞いたら、あなたは大抵散逸してしまったように答えられたので私は驚ろきました。尤(もっと)もそういう私も随分無頓着(むとんじゃく)な方で、俳句などになると、作れば作ったなりで、手帳にも何にも書き留めて置かないために、一寸(ちょっと)短冊などを突きつけられて、忘れたものを思い出すのに骨の折れる場合もありますが、それは私がその道に重きを置いていない結果だから、仕方がありませんが、貴方(あなた)の画は私の俳句よりも大事にして然るべきだと私はかねてから思っていたのだから、それを揃(そろ)えて置かない貴方の料簡(りょうけん)が私には解らなかったのです。
 あなたは私に云われて始めて気が付いたように工場の中を探し廻ったというじゃありませんか。そうして漸(ようや)くそれを出版する丈(だけ)に纏(まと)めたのだそうですね。左右(そう)なればあなたの労力が単独に世間に紹介されるという点に於(おい)て、あなたも満足でしょう、最初勧誘した責任のある私も喜ばしく思います。私ばかりではありません、世の中には私と同感のものがまだ沢山(たくさん)あるに違ないのです。
 普通漫画というものには二た通りあるようです。一つは世間の事相に頓着(とんじゃく)しない芸術家自身の趣味なり嗜好(しこう)なりを表現するもので、一つは時事につれて其日々々の出来事を、ある意味の記事同様に描き去るのです。時と推し移る新聞には、無論後者の方が大切でしょうが、あなたはその方面に於ての成功者じゃなかろうかと私は考えるのです。私が最初あなたに勧めて、年中行事というようなものを順次にならべて一巻にしたら何(ど)うだろうと云ったのは、是(これ)がためなのです。見る人は無論あなたの画から、何時(いつ)何(ど)んな事があったかの記憶を心のうちに呼び起すでしょう、しかも貴方の表現したような特別な観察点に立って、自分がいまだかつて経験しなかったような記憶を新らしくするでしょう。此二つの記憶が経となり緯となって、ただでは得られない愉快が頭の中に満ちて来るかも知れません。忙がしい我々は毎日々々蛇(へび)が衣を脱ぐように、我々の過去を未練なく脱いで、ひたすら先へ先へと進むようですが、たまには落ち付いて今迄通って来た途(みち)を振り向きたくなるものです。其時茫然(ぼうぜん)と考えている丈(だけ)では、眼に映る過去は、映らない時と大差なき位に、貧弱なものであります。あなたの太い線、大きな手、変な顔、すべてあなたに特有な形で描かれた簡単な画は、其時我々に過去は斯(こ)んなものだと教えて呉(く)れるのです。過去はこれ程馬鹿気て、愉快で、変てこに滑稽(こっけい)に通過されたのだと教えて呉(く)れるのです。我々は落付いた眼に笑を湛(たた)えて又齷齪(あくせく)と先へ進む事が出来ます。あなたの観察に皮肉はありますが、苦々(にがにが)しい所はないのですから。
 もう一つあなたの特色を挙(あ)げて見ると、普通の画家は画になる所さえ見付ければ、それですぐ筆を執(と)ります。あなたは左右(そう)でないようです。あなたの画には必ず解題が付いています。そうして其解題の文章が大変器用で面白く書けています。あるものになると、画よりも文章の方が優(まさ)っているように思われるのさえあります。あなたは東京の下町で育ったから、斯(こ)ういう風に文章が軽く書きこなされるのかも知れませんが、いくら文章を書く腕があっても、画が其腕を抑(おさ)えて働らかせないような性質のものならそれ迄(まで)です。面白い絵説の書ける筈(はず)はありません。だから貴方は画題を選ぶ眼で、同時に文章になる画を描いたと云わなければなりません。その点になると、今の日本の漫画家にあなたのようなものは一人もないと云っても誇張ではありますまい。私は此絵と文とをうまく調和させる力を一層拡大して、大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いて頂きたいような気がするのです。
  六月十五日
夏目金之助   岡本一平様




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