一夜
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著者名:夏目漱石 

「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯(ひげ)ある人が二たび三たび微吟(びぎん)して、あとは思案の体(てい)である。灯(ひ)に写る床柱(とこばしら)にもたれたる直(なお)き背(せ)の、この時少しく前にかがんで、両手に抱(いだ)く膝頭(ひざがしら)に険(けわ)しき山が出来る。佳句(かく)を得て佳句を続(つ)ぎ能(あた)わざるを恨(うら)みてか、黒くゆるやかに引ける眉(まゆ)の下より安からぬ眼の色が光る。
「描(えが)けども成らず、描けども成らず」と椽(えん)に端居(はしい)して天下晴れて胡坐(あぐら)かけるが繰り返す。兼ねて覚えたる禅語(ぜんご)にて即興なれば間に合わすつもりか。剛(こわ)き髪を五分(ぶ)に刈りて髯貯(たくわ)えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦(じゅ)し了(おわ)って、からからと笑いながら、室(へや)の中なる女を顧(かえり)みる。
 竹籠(たけかご)に熱き光りを避けて、微(かす)かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り深き庭に向えるが女である。
「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠(わく)に張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣(ゆかた)に片足をそと崩(くず)せば、小豆皮(あずきがわ)の座布団(ざぶとん)を白き甲が滑(すべ)り落ちて、なまめかしからぬほどは艶(えん)なる居ずまいとなる。
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と膝(ひざ)抱(いだ)く男が再び吟じ出すあとにつけて「縫いにやとらん。縫いとらば誰に贈らん。贈らん誰に」と女は態(わざ)とらしからぬ様(さま)ながらちょと笑う。やがて朱塗の団扇(うちわ)の柄(え)にて、乱れかかる頬(ほお)の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄(え)の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫(かお)りの中に躍(おど)り入る。
「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦(うず)が浮き上って、瞼(まぶた)にはさっと薄き紅(くれない)を溶(と)く。
「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目(まじめ)にきく。
「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹(にじ)の糸、夜と昼との界(さかい)なる夕暮の糸、恋の色、恨(うら)みの色は無論ありましょ」と女は眼をあげて床柱(とこばしら)の方を見る。愁(うれい)を溶(と)いて錬(ね)り上げし珠(たま)の、烈(はげ)しき火には堪(た)えぬほどに涼しい。愁の色は昔(むか)しから黒である。
 隣へ通う路次(ろじ)を境に植え付けたる四五本の檜(ひのき)に雲を呼んで、今やんだ五月雨(さみだれ)がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団(ふとん)を捨てて椽(えん)より両足をぶら下げている。「あの木立(こだち)は枝を卸(おろ)した事がないと見える。梅雨(つゆ)もだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独(ひと)り言(ごと)のように言いながら、ふと思い出した体(てい)にて、吾(わ)が膝頭(ひざがしら)を丁々(ちょうちょう)と平手をたてに切って敲(たた)く。「脚気(かっけ)かな、脚気かな」
 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒(いとぐち)をたぐる。
「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚(けが)れたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と□扇(がんせん)に軽(かろ)く玉肌(ぎょっき)を吹く。「古き壺(つぼ)には古き酒があるはず、味(あじわ)いたまえ」と男も鵞鳥(がちょう)の翼(はね)を畳(たた)んで紫檀(したん)の柄(え)をつけたる羽団扇(はうちわ)で膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものなら嬉(うれ)しかろ」と女はどこまでもすねた体である。
 この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を玩(もてあそ)べる人、急に膝頭をうつ手を挙(あ)げて、叱(しっ)と二人を制する。三人の声が一度に途切れる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝(うわえだ)を掠(かす)めて裏の禅寺の方へ抜ける。ククー。
「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄(す)ててこれも椽側(えんがわ)へ這(は)い出す。見上げる軒端(のきば)を斜めに黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤(ひつじさる)の方(かた)をさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺(てつぎゅうじ)の本堂の上あたりでククー、ククー。
「一声(ひとこえ)でほととぎすだと覚(さと)る。二声で好い声だと思うた」と再び床柱に倚(よ)りながら嬉しそうに云う。この髯男は杜鵑(ほととぎす)を生れて初めて聞いたと見える。「ひと目見てすぐ惚(ほ)れるのも、そんな事でしょか」と女が問をかける。別に恥(は)ずかしと云う気色(けしき)も見えぬ。五分刈(ごぶがり)は向き直って「あの声は胸がすくよだが、惚れたら胸は痞(つか)えるだろ。惚れぬ事。惚れぬ事……。どうも脚気らしい」と拇指(おやゆび)で向脛(むこうずね)へ力穴(ちからあな)をあけて見る。「九仞(きゅうじん)の上に一簣(いっき)を加える。加えぬと足らぬ、加えると危(あや)うい。思う人には逢(あ)わぬがましだろ」と羽団扇(はうちわ)がまた動く。「しかし鉄片が磁石に逢(お)うたら?」「はじめて逢うても会釈(えしゃく)はなかろ」と拇指の穴を逆(さか)に撫(な)でて澄ましている。
「見た事も聞いた事もないに、これだなと認識するのが不思議だ」と仔細(しさい)らしく髯を撚(ひね)る。「わしは歌麻呂(うたまろ)のかいた美人を認識したが、なんと画(え)を活(い)かす工夫はなかろか」とまた女の方を向く。「私(わたし)には――認識した御本人でなくては」と団扇のふさを繊(ほそ)い指に巻きつける。「夢にすれば、すぐに活(い)きる」と例の髯が無造作(むぞうさ)に答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火(かやりび)が消えて、暗きに潜(ひそ)めるがつと出でて頸筋(くびすじ)にあたりをちくと刺す。
「灰が湿(しめ)っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋(ふた)をとると、赤い絹糸で括(くく)りつけた蚊遣灰が燻(いぶ)りながらふらふらと揺れる。東隣で琴(こと)と尺八を合せる音が紫陽花(あじさい)の茂みを洩(も)れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯(ひ)さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。
「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿(うが)てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋(ふた)の上に塊(かた)まって茶色の球(たま)が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯(さっ)と来て吹き散らす。塊まらぬ間(うち)に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描(えが)いて、黒塗に蒔絵(まきえ)を散らした筒の周囲(まわり)を遶(めぐ)る。あるものは緩(ゆる)く、あるものは疾(と)く遶る。またある時は輪さえ描く隙(ひま)なきに乱れてしまう。「荼毘(だび)だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊(か)の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾(と)うから知っている。
「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍(かたわ)らにある羊皮(ようひ)の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙(ぞうげ)を薄く削(けず)った紙(かみ)小刀(ナイフ)が挟(はさ)んである。巻(かん)に余って長く外へ食(は)み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖(さき)で触(さわ)ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気(しけ)てはたまらん」と眉(まゆ)をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂(たもと)の先を握って見て、「香(こう)でも焚(た)きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。
 宣徳(せんとく)の香炉(こうろ)に紫檀(したん)の蓋があって、紫檀の蓋の真中には猿を彫(きざ)んだ青玉(せいぎょく)のつまみ手がついている。女の手がこの蓋にかかったとき「あら蜘蛛(くも)が」と云うて長い袖(そで)が横に靡(なび)く、二人の男は共に床(とこ)の方を見る。香炉に隣る白磁(はくじ)の瓶(へい)には蓮(はす)の花がさしてある。昨日(きのう)の雨を蓑(みの)着て剪(き)りし人の情(なさ)けを床(とこ)に眺(なが)むる莟(つぼみ)は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金(しろがね)の糸を長く引いて一匹の蜘蛛(くも)が――すこぶる雅(が)だ。
「蓮の葉に蜘蛛下(くだ)りけり香を焚(た)く」と吟じながら女一度に数弁(すうべん)を攫(つか)んで香炉の裏(うち)になげ込む。「□蛸(しょうしょう)懸(かかって)不揺(うごかず)、篆煙(てんえん)遶竹梁(ちくりょうをめぐる)」と誦(じゅ)して髯(ひげ)ある男も、見ているままで払わんともせぬ。蜘蛛も動かぬ。ただ風吹く毎に少しくゆれるのみである。
「夢の話しを蜘蛛もききに来たのだろ」と丸い男が笑うと、「そうじゃ夢に画(え)を活(い)かす話しじゃ。ききたくば蜘蛛も聞け」と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。眼は文字(もじ)の上に落つれども瞳裏(とうり)に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。
「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠(とうろう)をつける。百二十間の廻廊に春の潮(うしお)が寄せて、百二十個の灯籠が春風(しゅんぷう)にまたたく、朧(おぼろ)の中、海の中には大きな華表(とりい)が浮かばれぬ巨人の化物(ばけもの)のごとくに立つ。……」
 折から烈(はげ)しき戸鈴(ベル)の響がして何者か門口(かどぐち)をあける。話し手ははたと話をやめる。残るはちょと居ずまいを直す。誰も這入(はい)って来た気色(けしき)はない。「隣だ」と髯(ひげ)なしが云う。やがて渋蛇(しぶじゃ)の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声がする。「必ず」と答えたのは男らしい。三人は無言のまま顔を見合せて微(かす)かに笑う。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面につづめればやはり画だ」「しかしあの声は?」「女は藤紫」「男は?」「そうさ」と判じかねて髯が女の方を向く。女は「緋(ひ)」と賤(いや)しむごとく答える。
「百二十間の廻廊に二百三十五枚の額が懸(かか)って、その二百三十二枚目の額に画(か)いてある美人の……」
「声は黄色ですか茶色ですか」と女がきく。
「そんな単調な声じゃない。色には直(なお)せぬ声じゃ。強(し)いて云えば、ま、あなたのような声かな」
「ありがとう」と云う女の眼の中(うち)には憂をこめて笑の光が漲(みな)ぎる。
 この時いずくよりか二疋(ひき)の蟻(あり)が這(は)い出して一疋は女の膝(ひざ)の上に攀(よ)じ上(のぼ)る。おそらくは戸迷(とまど)いをしたものであろう。上がり詰めた上には獲物(えもの)もなくて下(くだ)り路(みち)をすら失うた。女は驚ろいた様(さま)もなく、うろうろする黒きものを、そと白き指で軽く払い落す。落されたる拍子(ひょうし)に、はたと他の一疋と高麗縁(こうらいべり)の上で出逢(であ)う。しばらくは首と首を合せて何かささやき合えるようであったが、このたびは女の方へは向わず、古伊万里(こいまり)の菓子皿を端(はじ)まで同行して、ここで右と左へ分れる。三人の眼は期せずして二疋の蟻の上に落つる。髯なき男がやがて云う。
「八畳の座敷があって、三人の客が坐わる。一人の女の膝へ一疋の蟻が上る。一疋の蟻が上った美人の手は……」
「白い、蟻は黒い」と髯がつける。三人が斉(ひと)しく笑う。一疋の蟻は灰吹(はいふき)を上りつめて絶頂で何か思案している。残るは運よく菓子器の中で葛餅(くずもち)に邂逅(かいこう)して嬉しさの余りか、まごまごしている気合(けわい)だ。
「その画(え)にかいた美人が?」と女がまた話を戻す。
「波さえ音もなき朧月夜(おぼろづきよ)に、ふと影がさしたと思えばいつの間(ま)にか動き出す。長く連(つら)なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むにもあらず、ただ影のままにて動く」
「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾(と)くにやんで新たなる一曲を始めたと見える。あまり旨(うま)くはない。
「蜜を含んで針を吹く」と一人が評すると
「ビステキの化石を食わせるぞ」と一人が云う。
「造り花なら蘭麝(らんじゃ)でも焚(た)き込めばなるまい」これは女の申し分だ。三人が三様(さんよう)の解釈をしたが、三様共すこぶる解しにくい。
「珊瑚(さんご)の枝は海の底、薬を飲んで毒を吐く軽薄の児(じ)」と言いかけて吾に帰りたる髯が「それそれ。合奏より夢の続きが肝心(かんじん)じゃ。――画から抜けだした女の顔は……」とばかりで口ごもる。
「描(えが)けども成らず、描けども成らず」と丸き男は調子をとりて軽く銀椀(ぎんわん)を叩(たた)く。葛餅を獲(え)たる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左(みぎひだ)りへ馳(か)け廻る。
「蟻の夢が醒(さ)めました」と女は夢を語る人に向って云う。
「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。
「抜け出ぬか、抜け出ぬか」としきりに菓子器を叩くは丸い男である。
「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしゅう御座んしょ」と女はまた髯にきく。
「それは気がつかなんだ、今度からは、こちが画になりましょ」と男は平気で答える。
「蟻も葛餅にさえなれば、こんなに狼狽(うろた)えんでも済む事を」と丸い男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻を鷹揚(おうよう)にふかしている。
 五月雨(さみだれ)に四尺伸びたる女竹(めだけ)の、手水鉢(ちょうずばち)の上に蔽(おお)い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼(せま)れば、風誘うたびに戸袋をすって椽(えん)の上にもはらはらと所択(えら)ばず緑りを滴(したた)らす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。
 床柱(とこばしら)に懸(か)けたる払子(ほっす)の先には焚(た)き残る香(こう)の煙りが染(し)み込んで、軸は若冲(じゃくちゅう)の蘆雁(ろがん)と見える。雁(かり)の数は七十三羽、蘆(あし)は固(もと)より数えがたい。籠(かご)ランプの灯(ひ)を浅く受けて、深さ三尺の床(とこ)なれば、古き画のそれと見分けのつかぬところに、あからさまならぬ趣(おもむき)がある。「ここにも画が出来る」と柱に靠(よ)れる人が振り向きながら眺(なが)める。
 女は洗えるままの黒髪を肩に流して、丸張りの絹団扇(きぬうちわ)を軽(かろ)く揺(ゆる)がせば、折々は鬢(びん)のあたりに、そよと乱るる雲の影、収まれば淡き眉(まゆ)の常よりもなお晴れやかに見える。桜の花を砕いて織り込める頬の色に、春の夜の星を宿せる眼を涼しく見張りて「私(わたし)も画(え)になりましょか」と云う。はきと分らねど白地に葛(くず)の葉を一面に崩して染め抜きたる浴衣(ゆかた)の襟(えり)をここぞと正せば、暖かき大理石にて刻(きざ)めるごとき頸筋(くびすじ)が際立(きわだ)ちて男の心を惹(ひ)く。
「そのまま、そのまま、そのままが名画じゃ」と一人が云うと
「動くと画が崩れます」と一人が注意する。
「画になるのもやはり骨が折れます」と女は二人の眼を嬉しがらしょうともせず、膝に乗せた右手をいきなり後(うし)ろへ廻(ま)わして体をどうと斜めに反(そ)らす。丈(たけ)長き黒髪がきらりと灯(ひ)を受けて、さらさらと青畳に障(さわ)る音さえ聞える。
「南無三、好事(こうず)魔多し」と髯ある人が軽(かろ)く膝頭を打つ。「刹那(せつな)に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲(の)み殻(がら)を庭先へ抛(たた)きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋(ひ)を伝う雨点(うてん)の音のみが高く響く。蚊遣火(かやりび)はいつの間(ま)にやら消えた。
「夜もだいぶ更(ふ)けた」
「ほととぎすも鳴かぬ」
「寝ましょか」
 夢の話しはつい中途で流れた。三人は思い思いに臥床(ふしど)に入る。
 三十分の後(のち)彼らは美くしき多くの人の……と云う句も忘れた。ククーと云う声も忘れた。蜜を含んで針を吹く隣りの合奏も忘れた、蟻の灰吹(はいふき)を攀(よ)じ上(のぼ)った事も、蓮(はす)の葉に下りた蜘蛛(くも)の事も忘れた。彼らはようやく太平に入る。
 すべてを忘れ尽したる後女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪の主(ぬし)である事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。彼らはますます太平である。
 昔(むか)し阿修羅(あしゅら)が帝釈天(たいしゃくてん)と戦って敗れたときは、八万四千の眷属(けんぞく)を領して藕糸孔中(ぐうしこうちゅう)に入(い)って蔵(かく)れたとある。維摩(ゆいま)が方丈の室に法を聴ける大衆は千か万かその数を忘れた。胡桃(くるみ)の裏(うち)に潜(ひそ)んで、われを尽大千世界(じんだいせんせかい)の王とも思わんとはハムレットの述懐と記憶する。粟粒芥顆(ぞくりゅうかいか)のうちに蒼天(そうてん)もある、大地もある。一世(いっせい)師に問うて云う、分子(ぶんし)は箸(はし)でつまめるものですかと。分子はしばらく措(お)く。天下は箸の端(さき)にかかるのみならず、一たび掛け得れば、いつでも胃の中に収まるべきものである。
 また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人生を知る。日は東より出でて必ず西に入る。月は盈(み)つればかくる。いたずらに指を屈して白頭に到(いた)るものは、いたずらに茫々(ぼうぼう)たる時に身神を限らるるを恨(うら)むに過ぎぬ。日月は欺(あざむ)くとも己れを欺くは智者とは云われまい。一刻に一刻を加うれば二刻と殖(ふ)えるのみじゃ。蜀川(しょくせん)十様の錦、花を添えて、いくばくの色をか変ぜん。
 八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜(いちや)を過した。彼らの一夜を描(えが)いたのは彼らの生涯(しょうがい)を描いたのである。
 なぜ三人が落ち合った? それは知らぬ。三人はいかなる身分と素性(すじょう)と性格を有する? それも分らぬ。三人の言語動作を通じて一貫した事件が発展せぬ? 人生を書いたので小説をかいたのでないから仕方がない。なぜ三人とも一時に寝た? 三人とも一時に眠くなったからである。
(三十八年七月二十六日)



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