恐怖城
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著者名:佐左木俊郎 

   第一章

       1

 森谷牧場(もりやぼくじょう)の無蓋(むがい)二輪の箱馬車は放牧場のコンクリートの門を出ると、高原地帯の新道路を一直線に走っていった。馬車には森谷家の令嬢の紀久子(きくこ)と、その婚約者の松田敬二郎(まつだけいじろう)とが乗っていた。松田敬二郎が牧場の用事で真駒内(まこまない)の種畜場へ出かけるのを、令嬢の紀久子が市街地まで送っていくのだった。
 空は孔雀青(くじゃくあお)の色を広げていた。陽(ひ)は激しくぎらぎらと照りつけていた。路傍の芒(すすき)が銀のように光っていた。
「眩(まぶ)しいわ」
 紀久子は馬車の上に薄紫色のパラソルを開いた。
「冬服じゃ暑かったかしら?」
「夜になると寒いんですもの」
「暑いのはもう日中だけですね」
 そして、二人はパラソルの下で身近く寄り添った。
「ほいやっ、しっ!」
 馭者(ぎょしゃ)は長い鞭(むち)を振り上げて馬を追った。馬車はごとごと揺れながら走った。敬二郎と紀久子とはそーっと手を握り合った。
「ほいやっ!」
 馭者は鞭を振り上げ振り上げては、その手を馭者台の横へ持っていった。そこには一梃(いっちょう)の猟銃がその銃口をパラソルの下の二人のほうへ向けて、横たえられてあった。猟銃は馬車の動揺につれてひどく躍っていた。
「あら! 奇麗に紅葉しているわ。楓(かえで)かしら!」
 紀久子はパラソルを窄(つぼ)めながら言った。
「あれは山毛欅(ぶな)じゃないかな? 山毛欅か楡(にれ)でしょう。楓ならもっと紅(あか)くなるから」
 馬車はそして、原生林帯の中へ入っていった。道はそこで一面の落ち葉にうずめられ、もはや一分の地肌をも見せてはいなかった。落ち葉の海! 火の海! 一面の落ち葉は陽に映えて火のように輝いていた。そして、湿っぽい林道の両側には熊笹(くまざさ)の藪(やぶ)が高くなり、熊笹の間からは闊葉樹(かつようじゅ)が群立して原生樹林帯はしだいに奥暗くなっていった。暗灰褐色の樹皮が鱗状(うろこじょう)に剥(む)き出しかけている春楡の幹、水楢(みずなら)、桂(かつら)の灰色の肌、鵜松明樺(さいはだかんば)、一面に刺(とげ)のある※木(たらのき)[#「木+忽」、4-1]、栓木(せんのき)、白樺(しらかば)の雪白の肌、馬車は原生闊葉樹の間を午後の陽に輝きながら、ばらばらと散る紅や黄の落ち葉を浴びて、落ち葉の道の上をぼこぼこと転がっていった。
「ほいやっ、しっ!」
 道はその右手に深い渓谷を持ち出して、谷底の椴松(とどまつ)林帯はアスファルトのように黒く、その梢(こずえ)の枯枝が白骨のように雨ざれていた。谷の上に伸びた樹木の渋色の幹には真っ赤な蔦(つた)が絡んでいたりした。馬車はぎしぎしと鳴り軋(きし)みながら、落ち葉の波の上をぼこぼこと沈んでは転がり、浮かんでは転がっていった。
「おいっ! 正勝(まさかつ)くん! 鉄砲を持ってきているんだね。危ないじゃないか。弾丸(たま)は入っていないのか?」
 馭者台の猟銃に気がついて、敬二郎はそう言いながら猟銃に手を出した。
 瞬間! 猟銃は轟然(ごうぜん)と鳴り響いた。
「あっ!」
 敬二郎は横に身を躱(かわ)した。紀久子がその横腹に抱きついた。馬が驚いて跳び上がった。正勝は怪訝(けげん)そうな顔をして、馭者台から振り返った。
「どどど、ど、どうしたんだ?」
 敬二郎は思うように口が利けなかった。彼は歯の根が合わなかった。真っ青な顔をして木の葉のように顫(ふる)えていた。
「引っ張ったんですか?」
 馭者の正勝は沼のような落ち着きをもって訊(き)いた。
「引っ張るも引っ張らないも、弾丸を込めた鉄砲を……」
「本当に危なかったわ。ほんの二、三分(ぶ)くらいだったわ。わたしの額のところを、弾丸がすっと通っていったの、はっきりと分かってよ」
 紀久子は溜息(ためいき)をつくようにして、敬二郎の脇(わき)から顔を出した。
「本当に危なかったよ。ほんのちょっとのところで、いまごろは二人とも死んでるところだった」
 敬二郎のうちには、まだ驚愕(きょうがく)の顫えが尾を引いていた。
「熊が出る季節なもんだから、鉄砲を持ってないといつどんなことが……」
「熊が出るからって、弾丸の詰まっている鉄砲をそんなところへ縛りつけて、引っ張れば発砲するようにしておくってことはないよ」
「そんなわけじゃなかったのですがね。弾丸を込めてからここへ置いたのが少し動くもんだから、なにげなく縄をかけてしまって」
「引金へ縄をかけるなんて……」
「正勝! おまえこれから無闇(むやみ)と鉄砲など持ち出しちゃ駄目よ」
 紀久子は命令的に言った。
「無闇と持ち出したわけじゃないんですがね。これからしばらくの間は鉄砲も持たずに、馬を連れて歩くってわけにはいきませんよ。なにしろこれからは熊の出る季節ですからね」
 馭者は反抗的に言った。
「とにかく、そこへ置くことは絶対にいかんね。こっちに寄越したまえ」
 敬二郎は叱(しか)りつけるように鋭く言った。
「弾丸はもう詰まってないのだから、どこへ置いたってもう危なくはないだか……」
 反抗的な語調で繰り返しながらも、正勝は猟銃を解かないわけにはいかなかった。
「それじゃ、これも一緒にそっちへ置いてください」
 馭者はそうして、猟銃と一緒に弾嚢帯(だんのうたい)をも敬二郎に渡した。
「本当に危なかったわ。正勝! これからは気をつけないと駄目よ」
 紀久子は女王の冷厳さをもって言った。
「ほいやっ、しっ!」
 正勝は鞭を振り上げて馬を追った。
 そして、馬車はまた、午後の陽に輝きながら散る紅や黄の落ち葉を浴びて、落ち葉の道をぼこぼこと沈んでは転がり、浮かんでは走った。

       2

 馭者の正勝は固く唇を噛(か)み締めながら馬を追った。彼の沼のような落ち着きのうちには、激しい敵愾心(てきがいしん)が嵐(あらし)のように乱れているのだった。彼はそれをじっと抑えつけていた。
(次の機会を待とう!)
 彼は心の中に呟(つぶや)いて、わずかに慰めた。
(いまの弾丸さえ逸(そ)れなかったら……)
 慰めの言葉のあとからすぐ別の想念が湧(わ)いてきて、正勝は容易に諦(あきら)め切れなかった。
(あの弾丸で男のほうだけでも倒れてしまえば、女のほうなんかどうにだってなったのだから……)
 彼のうちの復讐(ふくしゅう)の炎は、失敗の口惜(くや)しさを加えて、かえって激しく燃え立った。
(よし! 帰り道だ! 帰り道で女だけでも先に殺(や)ってしまおう!)
 彼は心のうちに叫んだ。
(女のほうを殺っておいて、男の苦しむのを見たほうがかえって面白い。あいつがあれを奪っておれに与えた苦しみを、おれはあれを殺っつけておれの背負わされた苦悶(くもん)の何倍かの苦悶を、何倍かの深刻さであいつに突っ返してやるんだ)
 正勝の思いはしだいに悪魔的になってきた。彼の敬二郎と紀久子とに対する遣(や)る瀬(せ)ないような復讐心は、復讐のことを考えるだけでも幾分は慰められるのだった。彼は馬の歩むに委(まか)せて、その考えのうちに没頭した。
(しかし、紀久子だってただ簡単に鉄砲で撃ち殺したのでは面白くない。敬二郎よりもだいいち、あの女を苦しめてやらなければならないのだ。何もかも、あの女から出発していることなのだから……)
 彼はそう考えて、その脳髄の隅に新たな積極的な復讐の手段を探った。
(そうだ! 谷底を目がけて馬車をひっくり返すことだ。そうだ! おれは馭者台から飛び降りておいて、馬車を谷底へ追い込んでやることだ。馬が谷を目がけて駆け下りなかったら、馬を押し落としてでもあいつらごと馬車をひっくり返してやるんだ。それだけでは万一に死ななかったにしても、谷から這(は)い上がってくるまでには熊のために食い殺されるに相違ないから……)
 しかし、馬車はもう谷の上を過ぎて、道の両側にはふたたび原生樹林が続いていた。
(なぜこの手段をもっと早く思いつかなかったのだろう?)
 彼はそう心のうちに呟いて、馬車がすでに谷の上を過ぎていることを残念がった。
(帰り道だ! 帰り道で女のほうだけでも……)
 彼はそう考えて、沼のような落ち着きを装いながら馬車を追い進めた。

       3

 原生闊葉樹林帯を抜けると、馬車は植林落葉松(からまつ)帯の中を通り、開墾地帯に出ていった。道はようやく平坦(へいたん)になってきた。馬車は軽やかに走った。
 午後の陽は畑地一面に玻璃色(はりいろ)の光を撒(ま)いていた。どこまでもどこまでも黄褐色の大豆畑が続き、その茎や莢(さや)についている微毛(のげ)が陰影につれてきらきらと畑一面に蜘蛛(くも)の巣が張っているように光っていた。そして、ところどころには玉蜀黍(とうもろこし)がその枯葉をがさがさと摺(す)り合わせていたりした。
 しばらくして、馬車の前方に一人の人影が見えだした。馬車の進むにつれしだいに大きく、しだいに形を整えて、その後姿が接近してきた。赤い帯、頭のてっぺんに載っている桃割れ。錆茶(さびちゃ)の塗下駄(ぬりげた)。十六、七の少女だった。少女はその小脇に風呂敷包(ふろしきづつ)みを抱えていた。そして、少女は何かに追い立てられているように、急いでいた。
「あら! 蔦(つた)やじゃないかしら?」
 紀久子は立ち上がるようにして言った。敬二郎も顔を上げた。しかし、正勝はなんらの感動をも受けてはいないもののようにして、馬を追い進めた。
「ほいやっ!」
 鞭が玻璃色の空気の中にぴゅっと鳴った。
「正勝! 蔦やじゃない?」
「さあ?」
 正勝は簡単に片づけた。彼は自分の妹について、ほとんど無関心のような態度を見せた。
「正勝! おまえは呑気(のんき)ね。自分の妹じゃないの? 正勝!」
「妹かしれませんが、しかしおれの知ったことじゃないです」
「正勝! おまえはこのごろ少し変ね?」
 そのとたんに、少女はくるりと背後を振り返った。
 敬二郎が言った。
「蔦代(つたよ)だ」
「蔦やだわ。どこへ行く気なのかしら? あの子は……」
 馬車はそのうちにもしだいに近く、蔦代の背後に接近していった。蔦代は狼狽(ろうばい)の物腰を見せて、後ろを振り返り振り返り早足に急いだ。
 しかし、馬車がいよいよ彼女の後ろに接近してその横を通り過ぎようとしても、正勝は馬車を停(と)めようとはしなかった。
「正勝! 馬車をお停めよ! おまえはずいぶんと薄情なのね、自分の妹が一人で歩いているのに……」
 紀久子は冷厳な態度で言った。正勝は無言だった。彼は黙々として馬車を停めただけだった。
「蔦や! おまえはどこへ行くの?」
 紀久子は馬車の上から声をかけた。
 しかし、蔦代は路傍に馬車を避け、顔を伏せたまま答えようとはしなかった。
「蔦や! どこへ行く気なのよ? え?」
 紀久子は繰り返した。しかし、蔦代は依然として顔を伏せたままだった。
「言わないんなら言わなくてもいいわ。おまえ、どこかへ逃げていくつもりなのね、蔦や!」
「とにかく、どこへ行くにしても馬車へ乗せたらどうです」
 敬二郎が傍(そば)から言った。
「蔦や? おまえ、どこかへ行く気なら行ってもいいわ。とにかく、わたしたち停車場まで行くんだから、一緒に馬車へお乗り。おまえ停車場へ行くんだろう? 蔦や!」
 しかし、蔦代は下駄で路面に落書きなどをしていて、顔を上げようとはしなかった。
「蔦や! 急いでいるんだから早くお乗り! 早く!」
 紀久子にそう促されて、蔦代は仕方なく馬車へ寄ってきた。そして、彼女は顔を伏せたままで隅のほうにそーっと腰を下ろした。その彼女の目には、涙がいっぱいに湧いていた。
 沈黙が続いた。だれも口を利こうとはしなかった。馬車も停まったままだった。馬だけがときどきぴしっぴしっと尾を振って、横腹に飛びつこうとする蠅(はえ)を叩(たた)き落としていた。
「正勝! 何をぼんやりしているの? 急いでいるのに」
 しばらくしてから、紀久子が言った。
「ほいやっ、しっ!」
 鞭がぴゅっと鳴った。馬は習慣的にどどっとふた足、三足を駆け出した。馬車はそして、ごとごとと平坦な道を走っていった。
「蔦や! おまえ、本当にどこへ行くつもりなの? え? 蔦や!」
 紀久子はしばらくしてから訊いた。しかし、蔦代は依然として答えなかった。紀久子は繰り返した。
「どこへ行くつもりなの? 蔦や! おまえはそれをわたしにも言えないの? 蔦や! おまえは、わたしがおまえをどんなに思っているかってこと、おまえには分からないんだね。ねえ? 蔦や!」
「いいえ! それは……それは……」
「いいえ! 蔦やには、わたしがおまえをどんなに思っているかってことが少しも分かっていないんだわ。わたしはおまえを、ただの女中だなんて思ってやしないのよ。自分の妹か何かのようにして、なんでもおまえには、特別にしているのに、それがおまえには分からないんだわ」
「いいえ! お嬢さま!」
 蔦代は唇を引き歪(ゆが)めながら、涙に濡(ぬ)れぎらぎらと光っている目を上げた。
「違って? もしわたしの気持ちが少しでも分かっていたら、わたしに何のひと言も言わずに黙って逃げていくってことはないはずじゃないの?」
「お嬢さま! お嬢さま!」
 蔦代はそう言って目を上げたが、言いたいことが言葉になってこないらしく、ハンカチで目を押さえて啜(すす)り泣きを始めてしまった。
「いいわ! 訊かないわ。蔦や! おまえ泣いたりなんかして、なんなの? おまえが言いたくなかったら無理に訊こうというんじゃないから、言わなくてもいいわ。ただ、おまえのことを心配してわたし言ってるのよ。おまえが言わなくても、わたしはだいたい分かっているんだけれど……」
「蔦代! おまえそんな黙ってなんか出ていかないで、何もかも打ち明けて相談して出ていったほうがいいぜ。蔦代!」
 敬二郎が横から言った。しかし、蔦代はもちろんそれに答えはしなかった。彼女はただ目を伏せて、啜り泣いていた。
「いったい、どこへ行く気なんだい? え? 蔦代!」
 それにも、蔦代はもちろん答えはしなかった。
 沈黙がふたたび馬車の上を襲った。馬車はごとごとと走った。鞭がときどきぴゅっと鳴った。

       4

 馭者台の正勝は鞭を振り上げては馬を追うだけで、ただのひと言も口を利こうとはしなかった。彼は単なる馭者としての役目を果たしているだけだった。そこに妹の蔦代がいて、その身の上についての詮議(せんぎ)が進められているのに、彼はそれに対しても耳さえ傾けてはいないような様子だった。少なくとも、正勝は馬車の上の三人の席と馭者台とを、全然別の世界にしているようだった。
 しかし、正勝は馬車の上の詰問に対して、なんらの関心をも持っていないのではなかった。妹の蔦代の啜り泣きに正勝の心は涙を流していた。紀久子の親切めく言葉を軽蔑(けいべつ)し踏みにじっていた。繰り返しての詰問に対しては抗議を叩きつけていた。
(蔦代がどこへ行こうと勝手じゃないか?)
 正勝は心のうちに叫んだ。
(他人の意志までも自由にすることができるもんか。蔦代には蔦代の意志があり、おれにはおれの生命(いのち)を懸けての意志があるのだ。あいつらのわがままが、おれたちの生命を懸けての意志までも押し曲げることができるものか)
 だいいち正勝にとって、帰り道での計画を果たすのにたとえ妹にもしろ、他人にいられては具合が悪かった。
(蔦代が森谷の家を出ていこうというのなら、おれの力で蔦代を逃がしてやろう。なにも、あいつらの思いどおりになっていなければならないということはないのだから)
 正勝は黙々として、妹の蔦代をいかにして逃がしてやるかについて考えつづけた。

       5

 馬車は間もなく市街地に入った。柾葺屋根(まさぶきやね)の家が虫食い歯のように空地を置いて、六間(約一〇・八メートル)道路の両側に十二、三軒ほど続くと、すぐにもう停車場だった。馬車は駅前の椴松のところで停まった。
 汽車はもう時間が迫っていた。
「正勝! 蔦やに逃げられちゃ駄目よ。わたしが戻ってくるまでちゃんと看視していてね。すぐだから」
 紀久子はそう言いながら、ひらりと馬車を降りた。そして、彼女は敬二郎を促し立てるようにして停車場の中へ入っていった。
「ちぇっ!」
 正勝はそっぽを向いた。紀久子と敬二郎との後姿をじっと見詰めていた目を逸らして。
 蔦代は兄の吐き出すようなその声に驚いて、顔を上げた。その頬(ほお)には蛞蝓(なめくじ)の這(は)い跡のように、涙の跡が鈍く光っていた。
「蔦! おまえは馬鹿(ばか)だなあ。馬車へなんか乗らなけりゃよかったじゃねえか」
「だって……」
「畑の中へでも、構わずどんどんと逃げていってしめえばよかったじゃねえか」
「そしたら、お嬢さまは兄さんに、捕まえておいで! っておっしゃるわ」
「馬鹿! おまえはおれのことを心配しているのか? おれのような馬鹿な兄貴のことなんか心配したって始まらねえぞ。おれのことなんか心配しねえで、おまえの思ったとおりなんでもどんどんやりゃあいいんだ。東京へ行きたいのなら、東京へでもどこへでもおまえの行きたいところへ行くさ。早く、さあ、いまのうちに逃げてしまえ」
 正勝はそう促すように言って、馭者台の上から周囲を見回した。
「でも、お嬢さまがわたしのことをあんなに思っていてくださるのだから、わたしもうどこへも行かないわ」
「おまえは馬鹿だなあ。おまえはあの女の言うことを信じているのか? 馬鹿だなあ。いったいあの女が、いつおまえを妹のようにしてくれたことがあるんだ? 考えてみなあ。おまえだってもう十八じゃないか? おまえをいつまでも子供にしておこうと思って、そんな子供のような身装(みなり)をさせているんだろうが。奴隷じゃあるまいし、十八にもなってあいつらが勝手な真似(まね)をするのをその前に立って……馬鹿なっ! そんな馬鹿なことってあるもんか。おまえの好きな人が東京にいるんなら、構わねえから東京へ行ってしまえ。おれもあとから行くし、早く、さあ、いまのうちに逃げてしまえ」
「だって、いま逃げたら、また兄さんが怒られるわ。逃げるにしても一度帰って、それからにするわ」
「おれのことなんか心配するなったら!」
「だって……」
「それじゃ、帰り道にあの原始林にかかったら、隙(すき)を見て馬車から飛び降りるといいや。そして引っ返せば、ちょうどこの次の汽車に間に合うから」
「いいかしら?」
「構うもんか。おまえが馬車から飛び降りてしまったら、おれは馬車をどんどん急がせるから」
「でも、お嬢さまが兄さんに、捕まえておいで! っておっしゃらないかしら?」
「言ったって、だれがおまえを捕まえてきて苦しめるようなことをするもんか。おまえはおれのなんだ? そしていったいあの女はおれのなんだ? 心配しなくたっていい、構わねえからどんどん逃げてしまえ」
「では、わたしそうするわ」
 蔦代は決心の表情を見せて、その小さな唇を固く引き結んだ。正勝は妹のその顔に見入りながら、長い鞭をしなしなと撓(たわ)めた。
 紀久子がそこへ戻ってきた。
「あら! よく逃がさなかったわね」
 紀久子は微笑をもって言いながら馬車に乗った。蔦代も正勝も黙りこくっていた。そして、蔦代はまた目を伏せた。正勝は馭者台に直った。
「正勝! では、急いで帰りましょうね」
「ほいやっ、しっ!」
 鞭が陽光の中にぴゅっと鳴った。馬車は煙のような土埃(つちぼこり)を上げて動きだした。そして、市街地から高原地帯の道へと、馬車は走っていった。

       6

 馬車が原始林帯に近づくにつれて、正勝は計画実現の手段について考えなければならなかった。
(馬車を谷底へひっくり返して紀久子と馬とを殺し、おれだけが生きて帰ったとしたら、すぐ疑(うたぐ)られるに相違ないのだが)
 それを考えると、正勝はどうしていいか分からなくなってくるのだった。
 正勝は最初のうちは、自分の生命を懸けてこの計画を果たそうと思っていたのだった。生命を懸けてなら、二人を殺しておいて自分も死んでしまえばいいのだから、機会はいくらでもあった。しかし、それは考えてみると馬鹿らしいことだった。彼はしだいに、敬二郎と紀久子とを殺してしまったあとも、自分だけは安楽のうちに生きていたかった。彼はそれからというもの、絶えずその手段について考え、またいろいろの機会を狙(ねら)った。しかし、正勝は容易にその適当な手段を思いつくことができなかった。そして、最後に思いついたのが、馭者台に熊の出る季節だからという口実で猟銃を横たえておき、敬二郎がそれに対する好奇心からその銃を取ろうとすると、引金に紐(ひも)がかかっているため敬二郎の腋(わき)の下を貫き、紀久子の胸を貫くことになる計画だったのだけれど、それも見事失敗に終わってしまった。そしてさらに、谷底へ馬車をひっくり返すことを思いついたのだが、これについても、彼の計画は相当細かく考えたにもかかわらず、またも支障を来しそうになってきたのだ。
(なんとかならないものかな? 紀久子と馬だけを谷底へ落として、おれは生きていて、そして疑われずに敬二郎の苦悶するのを傍から見ている。次に、敬二郎をやっつける機会を安全に持つことのできるような方法は……)
 正勝は考えるのだった。
(そうだ! そうすればいいんだ!)
 ある一つの想念が、彼の頭を掠(かす)め去っていった。
(おれは木の枝へ引っかかったことにすればいいんだ。紀久子を乗せたまま馬車は谷底へひっくり返しておいて、おれはあとから馬車が墜落していった跡の木の枝へ引っかかっていて、だれかの通りかかるのを待っていればいいのだ)
 彼はそう考えて、急に勇気づいてきた。同時に心臓の鼓動が激しくなってきた。全身の活動力がその考えに向かって集中してきた。

       7

 馬車はふたたび原生樹林の中に走り込んだ。
 突然に山時雨(やましぐれ)が襲ってきた。紀久子は狼狽しながらパラソルを広げて、その中に蔦代をも引き入れた。原生樹林の底は急に薄暗くなってきた。時雨は闊葉樹林の上に幽寂な音楽を掻(か)き立てながら渡り過ぎていった。馬車は雨に濡れ、雨に叩き落とされる紅や黄の濡れ葉を浴びながら、原生樹林の底を走った。
 やがて、幽寂な山時雨の音が遠退(とおの)くにつれて、原生樹林の底はふたたび明るくなってきた。孔雀青の高い空から陽が斜めに射(さ)し込んだ。玻璃色の陽縞(ひじま)の中にもやもやと水蒸気が縺(もつ)れた。樹木の葉間(はあい)にばたばたと山鳥が飛び回った。落ち葉の海が真っ赤に、ぎらぎらと火のように輝きだした。正勝の心臓はどきどきと激しく動悸(どうき)を打ってきた。
「あら! ずいぶんどっさりいるのね」
 紀久子は樹木の枝を見上げながら言った。蔦代もその言葉に釣り込まれて目を上げた。濡れ葉を叩きながら、山鳥は幾羽も枝から枝に移り飛んでいた。紅や黄の濡れ葉がぎらぎらと午後の陽に輝きながら散った。
「正勝! あれ山鳥なの?」
「さあ?」
 正勝は気のない返事をした。
「きっとあれは山鳥よ。わたしでも撃てそうね。撃ってみようかしら?」
 紀久子はそう言って横から猟銃を取った。そして、弾嚢帯から弾丸を銃に込めた。
「正勝! 馬車をちょっと停めてよ。わたしだって撃てると思うわ」
 馬車が停まると、紀久子は微笑(ほほえ)みながら立ち上がって樹上に狙いをつけた。紀久子の戯れだった。狙いは続いた。
 じっと紀久子の様子を窺(うかが)っていた蔦代は、その隙に乗じて包みを取って馬車から飛び降りていこうとした。
「蔦代! 駄目! 逃げちゃ!」
 紀久子はその銃身をもって蔦代を押さえつけた。
 瞬間! 銃は音を立てて発砲した。蔦代はがくりと倒れた。
「あらっ!」
 紀久子はがたんと銃を取り落とした。
「あらっ!」
 紀久子の顔は紙より白くなった。紀久子はもうどうしていいのか分からなかった。彼女は大声を上げて泣きたかった。しかし、泣けなかった。彼女は致死期の蔦代の身体(からだ)の上に身を投げかけて謝りたい気もした。しかし、彼女にはそれもできなかった。彼女はただわなわなと身を顫わした。
 自分の思いがけぬ罪に対する恐怖に噛み苛(さいな)まれながら、彼女は亡失状態の中で微(かす)かにひくひくと蠢(うごめ)いている蔦代の致死期の胴体を見詰めていた。
 発砲と同時に、馭者台から身を向け直して蔦代の上に目を落としていた正勝は、その目を上げて紀久子を見た。その目は爛々(らんらん)と火のように輝いていた。唇がわなわなと顫えていた。
「正勝(まっか)ちゃん! どうしましょう? どうしましょう?」
 紀久子は正勝を、彼の幼少時のまっかちゃんという呼び名で呼んで、ようやくそれだけを言った。
「正勝ちゃん」
 しかし、正勝もどうしていいのか分からなかった。彼はただその目を爛々と輝かしていた。その目にはなにかしら、許すまじきものがあった。
「正勝ちゃん! わたしも殺してちょうだい! この鉄砲でわたしも撃ってちょうだい!」
 紀久子はふらふらと倒れるようにして屈(かが)み、銃を取って正勝の手に渡そうとした。
「正勝ちゃん! わたしも殺してよ。ねえ! 正勝ちゃん!」
「紀久ちゃん!」
 正勝は言った。彼女の幼少のときに彼が呼んでいたと同じ呼び方で、正勝は紀久子を呼んだ。しかし、それだけで正勝はなにかしらひどく硬張(こわば)って、あとを続けることができなかった。
「正勝ちゃん! わたしを撃って。ねえ! わたしを撃って。痛くないように、ひと思いに死ねるようにわたしの心臓を撃ってよ」
 紀久子は少女のような態度で言うのだった。
「紀久ちゃん! 心配することはねえ」
 正勝は力強く言った。
「紀久ちゃんは昔の紀久ちゃんではなくなって、おれなんかのことはもう馬か牛のように思っているようだげっども、おれはいまだって……」
「そんなことないのよ。わたしだって、正勝ちゃんのこと兄さんか何かのように思っているのよ」
「そんなことは信じないけども、おれだけは、おれだけは紀久ちゃんのこと、昔と同じように思っているんだ。友達で一緒に遊んでいた時分のことなんか考えると、おれは紀久ちゃんを死なせたくなんかないんだ。でもなかったら、おれだってもうどこかへ行ってしまっていたかもしれないんだ。ただ、紀久ちゃんのいる近くにいて、いつまでもいつまでも紀久ちゃんを見ていたいからこそ、おれはこうしているんだ。たとえ紀久ちゃんが結婚をしてしまっても、おれはやはり紀久ちゃんの傍を離れられねえような気がするんだ。奴隷のようにされても、牛馬のように思われても、やはりおれは紀久ちゃんの傍にいたいんだ。おれはやっぱり、いつまでもいつまでも紀久ちゃんを生かしておきたいんだ。紀久ちゃんが死んだからって、蔦が生き返るわけでもあるまいし……」
「でも、わたし、人を殺したんだから、わたしも殺されるのが本当だと思うわ。殺されないまでも、わたし、何年も何年も監獄に繋(つな)がれることなんか考えると、かえって殺されたほうがいいわ。正勝ちゃん! わたしを殺してよ! ねえ!」
 紀久子は泣きだしそうにして言うのだった。
「大丈夫だ! 心配することなんかねえよ。蔦がいまいなくなったって、だれも蔦のことなんか気にかけやしねえ。蔦なんか、猫の子が一匹いなくなったよりももっと、なんでもない人間なんだから」
「そんなことないわ。すぐ知れるわ。そして、真っ先に調べられるのはわたしと正勝ちゃんだわ。そしたらわたし、すぐ顔色が変わってしまうわ。顔色ですぐ分かってしまうわ」
「大丈夫だ。都合のいいことに蔦の奴(やつ)がおれに書置きをしてあったんだよ。だれか、蔦のいなくなったのを不思議がる奴があったら、蔦の書置きを見せりゃあそれでいいんだ」
 正勝はそう言って、一本の手紙を懐から取り出した。
「こんな風に書いてあるんだから……」
 紀久子に示しながら、正勝はもう一度それを覗(のぞ)き込んだ。

 兄上さま。わたしのたった一人の兄さん。わたしは悲しくてなりません。今日かぎり、しばらくはお目にかかれないのだと思いますと、わたしは悲しくてなりません。それでも、わたしは悲しいのをこらえて、東京へ出ていく決心をいたしました。わたしのたった一人の兄さんを残して、自分だけ東京へ行くのだと思うと、わたしは悲しくてなりません。それでも、いまのうちに悲しいのをがまんして、東京へ出ていったほうがいいと思いますから、わたしは決心してしまいました。兄さんにだけは相談してからと思ったのですけど、兄さんはきっと止めると思いますし、止められては、わたしも兄さんもこのまま一生不幸に終わってしまうのですから、兄さんにも相談しないで、わたしは一人で決心しました。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ捜さないでください。そのうちわたしも兄さんも幸福に暮らしていけるようになったら、わたしはきっと手紙を出します。そして、兄さんを東京へ呼びます。そして、兄さんをきっと幸福に暮らさせてあげます。わたしも兄さんも、このままでいたのでは、一生たったって幸福にはなりません。兄さんは一生たったって下男でいなければなりませんし、わたしは女中奉公をしていなければならないのですもの。わたしはそれを考えると悲しいのです。兄さんと別れていくのも悲しいのです。けれど、それはほんのちょっとの間のことです。二年か三年のうちには、わたしはきっと、兄さんに手紙を出して東京に呼びます。それまでは捜さないでください。わたしはどこにいても、毎日毎日兄さんの幸福を祈っています。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ捜さないでください。そして、わたしが東京へ行ったことは、旦那(だんな)さまやお嬢さまに訊かれても、知らさないでください。兄さんだけ心のうちに思っていてください。お父さまやお母さまの生きていたときのことを思い出したり、これからは兄さんが洗濯などまで自分でしなければならないことを考えると、涙が出てなりません。お父さまやお母さまのお墓にも、一日も早く石を立てたいと思います。それには、このままでいたのでは駄目だと思いますから、わたしは思い切って東京へ行くのです。わたしのことは死んだものと思って、どうぞ諦めてください。涙が出て書けませんからこれでやめます。どうぞお身体を大切にしてください。兄さんに万一のことがあると、わたしは天にも地にも、ほんとうに一人きりになってしまうのですから。ではさよなら。愚かしき妹の蔦代から。

 正勝の目には、またも熱い涙が湧いた。しかし、彼はその悲しみのためにも、躊躇(ちゅうちょ)しているべきときではなかった。
「これを証拠として見せりゃあ、だれも疑いをかけやしませんよ」
「でも……でも……その死骸(しがい)を……」
「死骸なんか、この谷底へ投げ込んでしまえばすぐもう熊に食われてしまうだろうし、熊に食われなくたってすぐもう雪が積もるから、来年の四、五月ごろになって雪が消えてから発見されても、自分で谷へ落ちて死んだのか鉄砲で殺されたのか、そのころには全然分からなくなっていますよ」
「正勝ちゃん! では、わたしの罪を庇(かば)ってくれるの?」
「紀久ちゃんにはおれの気持ちが、おれが紀久ちゃんをどんなに想(おも)っていたかってこと、分からないのかい?」
「分かってよ。ご免なさいね、いままでのこと許してね」
 正勝はもうなにも言わなかった。彼は黙って馬車から飛び降りた。そして、すぐ妹の死体を抱き上げたかと思うと、それを崖際(がけぎわ)へ持っていって、谷底を目がけて投げ込んだ。そして、蔦代の死体は岩角に突き当たり突き当たり、深い谷底へと雑草の間を転がり落ちていった。どこかでふた声三声、高く鷹(たか)が鳴いた。
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   第二章

       1

 森谷牧場主の邸宅は、高原放牧場のほとんど中央の地点にあった。緩やかな起伏がひと渡り波を打って過ぎた高原地帯の波形の低い丘を背にして、なおその下の放牧場をひと目に見下ろせる中階段の位置に、土手で取り囲んだ屋敷を構えているのだった。その周囲には春楡(はるにれ)や山毛欅(ぶな)などの巨大な樹木が自然のままに伐(き)り残されていて、ひと棟の白壁の建物が樹木の間に見え隠れていた。そして、その屋敷の前から二間幅(約三・六メートル)の新道路が三、四町(約三三七〜四三六メートル)の間を、放牧地の草原を一直線に割って走っていた。
 白壁の建物は日本建築ながら洋風めいていて、南向きの広い露台を持っていた。木材の多い地方ではあるが雪に埋もれる期間が長いので、露台はコンクリートでできていた。コンクリートの階段と手摺(てす)りとがあり、階段の上がり口には蘇鉄(そてつ)や寒菊や葉蘭(はらん)などの鉢が四つ五つ置いてあった。
 露台の中央には籐(とう)の丸テーブルと籐椅子(とういす)とが置かれて、主人の森谷喜平(きへい)は南に向いて朝の陽光をぎらぎらと顔に浴び、令嬢の紀久子は北を向いて陽光を背に受け、向き合って腰を下ろしていた。丸テーブルの上には二つの紅茶茶碗(ぢゃわん)が白い湯気を立てていた。そして、喜平は紅茶には手を出さずに、林檎(りんご)の皮を剥(む)いていた。
「脚(きゃく)がよく締まらないのは、そりゃあ胴が太いからだろう?」
 喜平は林檎の皮を剥きながら、微笑をもっていつものように乗馬の話をしていた。
「なんか知らないけど、わたし駄目だわ」
 紀久子は父親の顔を見ないようにしながら、元気なく言った。彼女はいつになく元気がなかった。彼女は丸テーブルの上の紅茶にさえ手を出そうとはしなかった。彼女の純白の、天鵞絨(ビロード)の乗馬服の肩さえが、なんとなく寂しかった。
「駄目なことがあるもんか。馬を替えてみたらどうかな? 花房(はなぶさ)ならいいだろう?」
「わたしもう乗馬をやめるわ」
「なにもやめることなんかあるものか。初めはだれだってそう思うもんだ。しかし、そこを押し通さなくちゃ何事も上達はせんもんじゃからなあ」
「でも、わたしなんか駄目だわ」
「とにかく、花房で当分練習してみるといい。花房なら胴が細いから脚も締まるし□(だく)もよくやるし、きっとおまえの気に入ると思うから」
「わたしもう乗馬なんかあっさりやめてしまうわ」
「やめてしまわんでもいいじゃないか? 停車場へ敬二郎を送るときだって、これからは馬車などで送らないで馬で送っていくようにならないといかんよ」
 喜平はそう言って、大口に林檎を頬張(ほおば)った。紀久子は父親の言葉に衝(つ)かれたらしく、伏せていた目を上げて父親の顔を見た。紀久子のその顔は燐光(りんこう)を浴びてでもいるように病的なほど青く、窶(やつ)れてさえいた。
「馬で送っていって、そして帰りには敬二郎の馬も一緒に曳(ひ)いて帰れるようにならんとなあ」
 父親は微笑しながら、戯(ざ)れめく口調で言うのだった。
 そこへ、正勝がのっそりと歩み寄ってきた。喜平はすぐそれに気がついて目をやった。紀久子もそこに目を向けた。その瞬間に、紀久子は急に顔色を変えて恐怖の表情を湛(たた)えた。
「なんか用か?」
 喜平は突慳貪(つっけんどん)に言って、冷めかけた紅茶をいっきに飲み干した。
「少しお願いしたいことがあったものですから……」
「どんな話だ?」
 怒鳴るように言って、喜平はそっぽを向いた。そして、乗馬服の上着のポケットから葉巻を抜き取って、それに火を点(つ)けた。
「お金を少し借りてえのですけど……」
「金! 金を何にするんだ?」
「蔦の奴(やつ)が急にどこかへ行きやがったもんですから、捜しにいってこようかと思うんですけど……」
「本当に仕様のねえ奴だなあ、黙って逃げ出すなんて。黙って逃げていった奴なんか捜しに行ったところで仕方があるめえ。構わんでおきゃあいいじゃねえか?」
「それはそうですが、でも、自分の妹となってみると……」
「正勝! おまえはなんだってわしにひと言も挨拶(あいさつ)をしねえんだ! 自分の妹じゃねえか? 自分の妹を他人の家に預けておいて、妹がいくらかでも世話になっていると思ったら、黙って逃げていったというのに兄たるおまえが一言の挨拶もしないということはないじゃないか?」
「…………」
「済まないとか申し訳ないとか、なんとかひと言ぐらいは挨拶をするもんなんだぞ。それを一言の挨拶もしねえで、見えなくなったから捜しに行く旅費を貸せなんて、そんな言い方ってあるもんか? おまえはよくよく生まれたままの人間だなあ」
「…………」
「いったいどこへ行ったのか、見当がつくのか?」
「東京らしいんで……」
「東京らしい? たわけめ! 逃げていった者を東京くんだりまで捜しにいって、なんになるんだ? たわけめ!」
「いますぐなら、札幌(さっぽろ)の伯母のところに寄っていると思うもんですから」
「馬鹿(ばか)なっ! 逃げていったもんなんか捜しに行くことねえ! それより、正午(ひる)前にサラブレッド系の馬を全部捕まえておけ、買い手が来るのだから」
「…………」
 正勝はなにも言わずに上目遣いに喜平を見て、それからその目を紀久子のほうに移した。紀久子ははっと胸を衝かれた。憎悪! 怨恨(えんこん)! その目は爛々(らんらん)として憎悪と怨恨とに燃えていた。
「なんて目をしやがるんだ? たわけめ!」
 喜平は怒鳴りつけた。
「そんな目をしていねえで、早くあっちへ行け! そうして、すぐサラブレッド系の馬を三頭とも全部捕まえておけ! 買い手が来てから捕らえるなんて言ったって、そん時になってからじゃ容易なこっちゃねえから」
 正勝はもう一度、憎悪と怨恨とに燃える目を上げて、露台の上の父親と娘とをじっと睨(にら)むようにして見てから、静かにそこを離れていった。
「たわけめ!」
 葉巻の煙を空に向かって吐きながら、喜平はもう一度、正勝の後ろから怒鳴りつけた。
 項垂(うなだ)れて、静かにそこを歩み去っていく正勝の後姿はひどく寂しかった。

       2

 紀久子はわなわなと身を顫(ふる)わせながら席を立った。
(あんなに叱(しか)りつけて……あんなに怒鳴りつけて……あの人がもしあのことをだれかに言ったりしたら……)
 紀久子はそれを考えただけで全身が木の葉のようにわななくのだった。彼女は心配で胸が痛くなっていた。顔が蝋(ろう)のように白かった。
(あの人がもしわたしたち父娘(おやこ)を憎んで、あのことをだれかに言ったら、わたしはどうなるのだろう?)
 それを考えると、紀久子は一時(いっとき)もじっとしてはいられなかった。
(お父さまはなにも知らないで、あの人をあんなにひどく叱ったり、蔦代のことを悪く言ったりしたけど、何もかもみんなわたしが悪いのだから、それをあの人にだれかへ話されたら……)
 紀久子は夢遊病者のようにして、しかし、逃げていく者を追うような慌ただしさで自分の部屋へ入っていった。
(あの人が金が要るというのなら、わたしが出してあげよう。あの人は蔦代を捜しに行くから旅費を欲しいと言っているけど、本当はお金だけが必要なのに相違ない。お金ならわたしでできることなのだから、わたしがしてあげよう)
 紀久子はそう心の中に呟(つぶや)いて、手文庫の底からそこにありたけの紙幣(さつ)を掴(つか)むと、それをポケットに突っ込んで自分の部屋を出た。
(わたしがこうまでしたら、あの人はお父さまのことは許してくれるに相違ない。お父さまはなにも知らずにあんなことを言っているのだし、あの人は要するに金が必要なのだから……)
 紀久子はそう考えながら、帽子を目深に被(かぶ)って裏庭から厩舎(うまや)のほうへと走っていった。

       3

 厩舎の前には三頭の馬が引き出されて、三頭の馬にはそれぞれ鞍(くら)が置かれていた。そして、馬に鞍を置いてしまうと、正勝と平吾(へいご)と松吉(まつきち)の三人の牧夫は銘々に輪になっている細引を肩から袈裟(けさ)にかけた。そして、正勝は葦毛(あしげ)の花房に、平吾は黒馬(あお)に、松吉は栗毛(くりげ)にそれぞれ跨(またが)った。
「おい! 東からやるか?」
 正勝は同僚を見返りながら、朗らかに言った。
「西からのほうがいいじゃないか?」
「西から?」
 とたんに、正勝の拍車が花房の胴に入った。花房はとっとっと軽やかに□を踏んで放牧場のほうへ出ていった。続いて黒馬が走った。厩舎の前にぐるぐると円を描いて出足の鈍っていた最後の栗毛は、胴にぐっと拍車の強い一撃を食らって急にぴゅーっと駆けだした。そして、たちまちのうちに黒馬を抜き、葦毛の花房を抜いて走った。それを見て黒馬が走り葦毛が駆けだし、三頭の馬は土埃(つちぼこり)を掻(か)き立てながら、毬(まり)のようになって新道路を走った。
 やがて、毬のようになって土埃の中に掠(かす)れていた三頭の馬は、道路から草原の中へと逸(そ)れていった。
 春楡と山毛欅とが五、六本、草原に影を落として空高く立っていた。その下に小笹(こざさ)が密生していて、五、六頭の放牧馬が尾を振り振り笹を食っていた。栗毛と黒馬と葦毛の三頭の馬はV字形の三角形になって、その一団の放牧馬を襲った。人に慣れていない放牧馬はそれを見て、雲のように四散した。
「浪岡(なみおか)だぞ! 右へ逃げたその葦毛の……」
 正勝はそう叫びながら、首を上げて逃げていこうとする新馬の右手へと、半円を描くようにして走った。そして、三間(約五・四メートル)ばかりの距離にまで追い詰めると、肩にかけてある細引を取ってその右斜め後ろから投げかけた。手繰っては投げ手繰っては投げかけた。葦毛の新馬浪岡は驚いて逃げ回った。細引は容易にかからなかった。正勝は何度も投げかけた。そのうちに、細引がくるくるっとその新馬の肩から胴に入った。
「早く早く! 早く」
 正勝は叫びながら細引を引いた。その瞬間、巻き付いた細引の解かれるまでの間を、馬は縛られた形になって動くことができなかった。その機に乗じて平吾は黒馬を飛ばし、その新馬浪岡の左斜めから鬣(たてがみ)に飛びつき、首に綱をかけた。
「オーライ!」
 黒馬はそして、首に綱をつけられて逃げ回ろうとする馬を引き摺(ず)るようにして斜面を駆けだした。
 正勝は花房に□を踏ませながら、馬上で細引を輪に巻いた。そして、細引を手繰り終わると厩舎を目がけて正勝は、ぐっと拍車を入れた。栗毛がそれに続いた。栗毛は最初のうちは花房と五間(約九メートル)ばかりの距離を保っていたが、胴に拍車の一撃を受けると急に駆けだして、花房の右を抜こうとした。若い葦毛の花房は、それを見ると、急に一足跳びに移った。胴をぐっと伸ばして、放牧場の草原の中を一直線に走った。正勝は手綱を緩めて、花房の走るに委(まか)せた。花房は疾風のように飛んだ。正勝はまったく手綱を緩めて、若いしなやかな脚の走るに委せながら、反動も取らずに鐙(あぶみ)の上に突っ立っていた。
「おっと!」
 叫んだ瞬間に、正勝は草原の上へどっと投げ出されていた。しかし、どこにも怪我(けが)はなかった。すぐ起き上がって花房のほうを見ると、花房は足掻(あが)きをして起き上がろうとしながら起き上がれずにいた。
「どうしたんだ?」
 栗毛の松吉が駆け寄りながら言った。
「前脚を折ったらしい」
「折ったって?」
「折ったわけでもねえらしいが……」
 言いながら、正勝は、手綱をぐっと引いた。
「ほらっ! 畜生!」
 花房は起きようと努めながら、容易に起き上がれなかった。
「畜生! ほらっ! どうしたんだい?」
「手綱を放して、尻(しり)っぺたを食わしてみろ!」
 正勝は松吉の勧めるままに、手綱を放して尻に回った。そして鞭(むち)を振り上げると、花房はふた足三足ぐいぐいと足掻きをして、鞭を食う前に起き上がった。
「なんでもねえねえ」
「歩かしてみろ! 少しおかしいから」
 正勝は手綱を取り、鞭を振り上げて花房に半円を描かせた。すると花房は、右の前脚がだらりとして、それに力のないような歩き方をした。
「変だなあ?」
「筋が伸びたんだよ。膝(ひざ)を突いたときに筋が伸びたんだから、なんでもねえ。三、四日も休ませておきゃあ治るよ」
「なんでもねえかなあ?」
「なんでもねえとも。しかし、三、四日は乗れねえなあ。北斗(ほくと)かなんかに乗りゃあいいじゃねえか?」
「また親父(おやじ)に怒鳴られるなあ」
「隠しておきゃあいいじゃねえか。三、四日のことだもの」
 そして、松吉はややもすれば駆けだそうとする栗毛の手綱を引き締め、正勝は跛(びっこ)を引く葦毛を曳いて、放牧場の斜面を新道路のほうへと下りていった。
「どうかしたのか?」
 平吾が黒馬の上から声をかけた。平吾はそうしているうちにも、いま捕まえたばかりのサラブレッド系の新馬浪岡が思うように手綱につかないので、困り切っていた。
「なんでもねえ。前脚の筋が少し伸びたらしいんだ。ほんで乗れねえんだよ」
「おい! ほんじゃ、この浪岡をおまえが曳っ張っていけ。新馬も曳っ張らねえで歩いていくと、親父がまたなんかかんか言うから」
「それさなあ。ほんじゃ、その浪岡をおれさ寄越せや」
 そして、正勝は浪岡の首についている細引を平吾から受け取った。
 平吾は新馬を正勝に渡して手軽になると、松吉と並んで馬を駆けさせた。正勝はうるさくぐるぐると縺(もつ)れる精悍(せいかん)な新馬を縺れないように捌(さば)きさばき、草原の斜面を下りていった。

       4

 紀久子は厩舎の前に立って、じっと放牧場のほうを見ていた。
 秘(ひそ)かに部屋を出て厩舎へ来てみると、そこには三人の牧夫が馬に鞍を置いていて、正勝にだけ秘密の話をすることはできなかったからである。紀久子はそこに立っていて、機会の来るのを待っているより仕方がなかった。彼女はいつまでも放牧場のほうを見ていた。
 紀久子の心のうちはそうしているうちにも、決して平和ではなかった。
(あんな風にしているうちに、あの人はほかの人たちへあのことを話さないかしら?)
 紀久子は自分の胸に何匹かの蝮(まむし)がいるような気さえした。彼女は、正勝が早く厩舎へ帰ってくることを願っていた。
(蔦代を捜しに行くという口実であの人がどこかへ行ってしまったら、わたしはどんなにかほっとするのに……)
 紀久子はそう考えて、正勝がこの牧場から姿を消すというのならどんなことでもしてやりたかった。そして、彼女は正勝が早く厩舎へ帰ってくるのを待った。
(この金さえ渡せば、あの人はすぐもうこの牧場からいなくなるのだわ)
 やがて三頭の馬は一頭の新馬を拉(らっ)して、厩舎を目指して帰ってきた。紀久子は正勝の花房が真っ先に帰ってくることを願った。ところが、花房は途中で木の根に躓(つまず)いて跛を引きだした。
(あら! あの人はまたお父さまから叱られるのだわ)
 紀久子は自分のことのように心配になった。いまの彼女にとって、自分が叱られることよりも正勝が叱られるのはもっといやなことだった。恐ろしいことだった。
(わたしどうしようかしら?)
 紀久子は心臓の熱くなるのを感じながら、厩舎の前から放牧場のほうへ出ていった。
(わたしはあの人の身代わりになろう。花房の脚を折ったのは、正勝ではなく、わたしだということにしよう。わたしが花房に乗って駆けているうちに、花房が躓いて転んだのだと言えば、お父さまは叱らないに相違ないから。そして、ついでに金を渡してしまえば、あの人はこの牧場から姿を消してしまうに相違ないから)
 紀久子はそんなことを考えながら、放牧場のほうへ出ていった。

       5

 正勝は跛を引きながら歩いている花房の前へ躍り出ようとする浪岡を、花房の後ろに続くようにと右手で制しながら、厩舎への道を曲がった。
「正勝(まっか)ちゃん!」
 その瞬間に、白い天鵞絨の服が草原から出てぱっと陽(ひ)に輝いた。突然に激しい白光を感じて、神経の立っていた花房は狂奔的に首をぐんと上げて、五、六歩ほど後退(あとずさ)った。同時に、花房の後ろにいた浪岡は恐怖の発作で習慣的に前へ駆けだした。花房の尻と浪岡の頭部とが激しく突き当たった。身近くその尻っぺたへ一撃を受けて、花房は習慣的にぽんと蹴上(けあ)げた。その蹄鉄(ていてつ)が浪岡の膝に入った。浪岡は驚いて花房の周囲をぐるぐると駆け回った。
「どうした、どうした!」
 平吾が駆け寄ってきて、浪岡の首についている細引を取りながら言った。正勝は黙って紀久子のほうを見た。紀久子はそこに驚いていた。
「わたしが悪いんだわ。わたしが悪いのよ。わたしのこの服に驚いたのね」
 彼女は申し訳をするように言って、歩み寄った。
「紀久ちゃん! 出てきちゃ駄目だよ。隠れてください」
 正勝は叫んだ。紀久子は仕方なく土手の陰へ遠退(とおの)いた。そこへ松吉が走ってきた。
「怪我はねえか?」
 松吉はすぐ浪岡の身体(からだ)を調べた。
「あっ! 膝をやられてる」
 浪岡の膝からは赤黒い血がどくどくと湧(わ)いて、蹄(ひづめ)の上に流れていた。
「血管が切れたんだな?」
 その出血はだいぶひどかった。浪岡がぽこぽこと歩くにつれて、蹄の跡が幾つも幾つも赤黒く路面に残った。
「しかし、血管が切れただけで大したことはねえなあ」
「ないとも」
「しかし、あんまり出血させちゃ悪かんべなあ」
 松吉は首に巻いてある手拭(てぬぐ)いを取って、浪岡の膝を縛ろうとした。しかし、驚き切っている浪岡はその身近くに人を寄せようとはしなかった。
「畜生! 縛ってやろうというのに!」
「なんとかして、早く血を止めねえといけねえだろうがなあ」
「とにかく、ここじゃあ仕様がねえから、厩舎まで曳っ張っていこう」
 平吾は浪岡を曳き、正勝は花房を曳いて、厩舎のほうへ歩きだした。浪岡の膝からはひどく血が流れた。その足跡には赤黒く血が溜(た)まった。
「たわけめ! なんて間の抜けたことをしやがるんだ? たわけめ!」
 牧場主の森谷喜平が怒鳴り立てながらそこへ寄ってきた。
「なんだって怪我などさせやがったんだ?」
「お嬢さまが……」
 正勝は喜平の前へ出ると、思うように口の利けなくなるのが常だった。
「なにをっ! 紀久子が?」
「白い服を着て、あの土手のところから突然に……」
「正勝! てめえはまた嘘(うそ)をつくつもりか?」
 喜平はぴゅっと、手にしていた長い鞭を空間に打ち鳴らした。
「嘘なんか……」
「嘘でないっていうのか?」
「お嬢さまが……」
「なんでそんな嘘を言うんだ。わしはちゃんと見ていたんだぞ。見ていたから言うのだ。てめえが躓かせて、打ち転がしたんじゃねえか?」
「それは花房のほうで……」
「花房? それじゃあてめえは……あっ! 浪岡か? 浪岡に怪我をさせたのか? なんてことをしやがるんだ! たわけめ!」
 喜平はまたぴゅっと鞭を打ち鳴らした。
「正勝! てめえは大変なことをしたぞ。浪岡か? わしは見違えていた。花房と浪岡とを取り違えて見ていた。なんて馬鹿なことをするんだ。浪岡を捕まえたら、浪岡は新馬だから一頭だけ離して曳いてくりゃあいいじゃねえか。わしはまた、正勝が浪岡に乗って走らせているんだと思っていたんだ。それで、浪岡が躓いたと思ったから心配して出てきたんだ。ところが、なんという態(ざま)だ。躓いて転んだどころか、蹴らして大切な前脚へ怪我をさせるなんて、平吾! 早く手当てをしなくちゃ! 早く厩舎へ曳っ張っていって、脚へ重みがかからないように梁(はり)から吊(つ)って、そして岩戸(いわど)をすぐ呼んで手当てをさせろ!」
「ほらほら、ほらほらほら」
 平吾はすぐ浪岡を厩舎のほうへ曳いていった。松吉もそこに立っていても仕方がないので、浪岡についていこうとした。
「松吉! この花房を曳っ張っていけ!」
 喜平は怒鳴った。松吉は戻ってきて正勝から手綱を取った。正勝は寂しそうに項垂れた。
「正勝! てめえはこっちへ来い!」
 喜平はそう言って鞭をまたもぴゅっとひと振り振って、母屋のほうへ歩きだした。正勝は訝(いぶか)しそうにして躊躇(ちゅうちょ)していた。喜平は後ろを振り返って、またぴゅっぴゅっと鞭を振り鳴らした。
「来いっていったら来い!」
 正勝は仕方がなく歩きだした。

       6

 紀久子はどうしていいか分からなかった。
(困ったわ、困ったわ。あの人がお父さまの前に引っ張っていかれて、お父さまからひどく叱られたら、わたしのあのことを言ってしまいやしないかしら?)
 紀久子は恐怖に身を顫わした。いまの場合に正勝が父の部屋へ引っ張っていかれて叱られるということは、紀久子にとって、自分の犯罪の証人が裁判官の前へ引き出されていくのを見るよりももっと苦しかった。紀久子はできることなら、正勝をどうかして父の前へ出したくなかった。正勝の過失を引き受け、正勝の立場に代わり、なんとかして正勝を叱らせたくなかった。
(サラブレッドが怪我をしたのだって、あの人が悪いのじゃなくてわたしが悪いんだもの。わたしがあの時あそこへ出ていかなかったら、どの馬も狂奔なんかしなかったんだもの。結局、怪我をさせたのはわたしなのだわ)
 紀久子のそういう気持ちは、恋をしている少女が恋人の罪を引き受けようとする気持ちにさえ似ていた。紀久子は何物に代えても、正勝がその過失の責めから免れて父から叱られずに済むようにしてやりたかった。
(言ってやるわ。お父さまに言ってやるわ。サラブレッドに怪我をさせたのはあの人ではないんだもの。わたしなんだもの。それだのにあの人を叱るなんて、お父さまこそひどいわ。正勝さんのために言ってやるわ)
 紀久子はひどく昂奮(こうふん)しながら、母屋のほうへ駆けだした。

       7

 天井の高い四角な部屋だった。卵色の壁には大型のシェイフィルド銃と、古風な村田銃との二梃(ちょう)の猟銃が横に架けられてあった。その下前には弾嚢帯(だんのうたい)が折釘(おれくぎ)からだらりと吊(つ)るされていた。そして、部屋の隅には黒鞘(くろざや)の長身の日本刀が立てかけてあった。床には大きな熊(くま)の皮が敷いてあった。その熊の皮を踏みつけて大書卓がガラス窓の下に据えられ、中央には楢(なら)の丸卓と腕つきの椅子が四つ置かれてあった。
「そこへかけろ!」
 鞭でその楢材の腕つき椅子を示しながら、喜平は怒鳴るように言った。正勝は静かに腰を下ろした。そして、将棋の駒(こま)のように肩を角ばらせて顔を伏せた。
「正勝! てめえは浪岡を幾らぐらいする馬か、知っているか?」
 喜平は書卓の前の回転椅子にどっかりと腰を据えながら言った。
「…………」
 正勝は静かに首を振っただけで、なにも言わなかった。
「知らねえ? しかし、てめえだって何年となく牧場にいるんだから、安い馬か高い馬かぐらいは知っているだろう」
「それは……」
「それみろ! てめえは浪岡が高価な馬だってことを知っていて、わしへの腹癒(はらい)せにわざと怪我をさせたんだろう?」
「そんな……そんな……」
「とにかく、てめえは蔦が逃げていったのを、わしらが苛(いじ)めたからだとでも思っているんだろう! 正勝!」
 喜平は鞭をしなしなと撓(たわ)めながら言った。
「…………」
 正勝は顔を伏せたまま、答えなかった。
「てめえはそう思っているんだな? 思うなら勝手に思うがいいや。しかし、いくら腹癒せだからって程度があるぞ。浪岡は五百や六百の金じゃ買える馬じゃねえぞ。投げて千二、三百円、客次第で、三千円ぐらいにだって売れる馬なんだぞ。それを怪我させて……」
「でも、死んだというわけじゃねえんで、血管が切れただけなんですから」
「血管が切れただけだからいいというのか? たわけめ!」
 喜平はそう言って怒鳴りながら、怒ったときの癖で鞭をまたぴゅっと打ち鳴らした。
「それも今日、買手が見に来るっていうんだぞ。怪我をしている馬に、だれが買手がつくもんか。千円、二千円となりゃあてめえなんか、一生かかったってできるかできねえか分かりゃしめえ。それを……」
「馬鹿正直に働いていたんじゃとても……」
「なにを? 馬鹿正直に働いていたんじゃ? ちぇっ! 利巧に立ち回ればできるっていうのか?」
「利巧に立ち回って悪いことでもしねえかぎり、おれだけじゃなく、だれにだって!」
「何を言ってやがるんだ。屁理窟(へりくつ)ばかりつべこべと並べやがって。いったい、てめえらはだれのお陰で育ったと思っているんだ? それも忘れやがって、わしに腹癒せがましいことができると思うのか?」
「旦那(だんな)! 旦那は少し思い違いをしているようですけど……」
「思い違い? 何が思い違いだ? てめえ、とにかくそこへ手を突いて謝れ!」
 喜平は長靴の踵(かかと)で荒々しく床を蹴った。正勝は唇を噛(か)んで、じっと喜平の顔を見詰めたまま黙っていた。
「謝るのがいやなのか? 謝る理由がねえというのか? 正勝!」
 喜平はもう一度、荒々しく床を蹴った。
「謝るのがいやなら出ていけ! この牧場から出て、てめえの好きなところへどこへでも行け! すぐ、いますぐ出ていけ!」

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