寒山拾得
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著者名:森鴎外 

 唐(たう)の貞觀(ぢやうくわん)の頃(ころ)だと云(い)ふから、西洋(せいやう)は七世紀(せいき)の初(はじめ)日本(にほん)は年號(ねんがう)と云(い)ふもののやつと出來掛(できか)かつた時(とき)である。閭丘胤(りよきういん)と云(い)ふ官吏(くわんり)がゐたさうである。尤(もつと)もそんな人(ひと)はゐなかつたらしいと云(い)ふ人(ひと)もある。なぜかと云(い)ふと、閭(りよ)は台州(たいしう)の主簿(しゆぼ)になつてゐたと言(い)ひ傳(つた)へられてゐるのに、新舊(しんきう)の唐書(たうしよ)に傳(でん)が見(み)えない。主簿(しゆぼ)と云(い)へば、刺史(しし)とか太守(たいしゆ)とか云(い)ふと同(おな)じ官(くわん)である。支那(しな)全國(ぜんこく)が道(だう)に分(わか)れ、道(だう)が州(しう)又(また)は郡(ぐん)に分(わか)れ、それが縣(けん)に分(わか)れ、縣(けん)の下(した)に郷(がう)があり郷(がう)の下(した)に里(り)がある。州(しう)には刺史(しし)と云(い)ひ、郡(ぐん)には太守(たいしゆ)と云(い)ふ。一體(たい)日本(にほん)で縣(けん)より小(ちひ)さいものに郡(ぐん)の名(な)を附(つ)けてゐるのは不都合(ふつがふ)だと、吉田東伍(よしだとうご)さんなんぞは不服(ふふく)を唱(とな)へてゐる。閭(りよ)が果(はた)して台州(たいしう)の主簿(しゆぼ)であつたとすると日本(にほん)の府縣知事(ふけんちじ)位(くらゐ)の官吏(くわんり)である。さうして見(み)ると、唐書(たうしよ)の列傳(れつでん)に出(で)てゐる筈(はず)だと云(い)ふのである。しかし閭(りよ)がゐなくては話(はなし)が成(な)り立(た)たぬから、兎(と)も角(かく)もゐたことにして置(お)くのである。
 さて閭(りよ)が台州(たいしう)に著任(ちやくにん)してから三日目(かめ)になつた。長安(ちやうあん)で北支那(きたしな)の土埃(つちほこり)を被(かぶ)つて、濁(にご)つた水(みづ)を飮(の)んでゐた男(をとこ)が台州(たいしう)に來(き)て中央支那(ちゆうあうしな)の肥(こ)えた土(つち)を踏(ふ)み、澄(す)んだ水(みづ)を飮(の)むことになつたので、上機嫌(じやうきげん)である。それに此(この)三日(か)の間(あひだ)に、多人數(たにんず)の下役(したやく)が來(き)て謁見(えつけん)をする。受持々々(うけもち/\)の事務(じむ)を形式的(けいしきてき)に報告(はうこく)する。その慌(あわ)ただしい中(なか)に、地方長官(ちはうちやうくわん)の威勢(ゐせい)の大(おほ)きいことを味(あじは)つて、意氣揚々(いきやう/\)としてゐるのである。
 閭(りよ)は前日(ぜんじつ)に下役(したやく)のものに言(い)つて置(お)いて、今朝(けさ)は早(はや)く起(お)きて、天台縣(てんだいけん)の國清寺(こくせいじ)をさして出掛(でか)けることにした。これは長安(ちやうあん)にゐた時(とき)から、台州(たいしう)に著(つ)いたら早速(さつそく)往(ゆ)かうと極(き)めてゐたのである。
 何(なん)の用事(ようじ)があつて國清寺(こくせいじ)へ往(ゆ)くかと云(い)ふと、それには因縁(いんねん)がある。閭(りよ)が長安(ちやうあん)で主簿(しゆぼ)の任命(にんめい)を受(う)けて、これから任地(にんち)へ旅立(たびだ)たうとした時(とき)、生憎(あいにく)こらへられぬ程(ほど)の頭痛(づつう)が起(おこ)つた。單純(たんじゆん)なレウマチス性(せい)の頭痛(づつう)ではあつたが、閭(りよ)は平生(へいぜい)から少(すこ)し神經質(しんけいしつ)であつたので、掛(か)かり附(つけ)の醫者(いしや)の藥(くすり)を飮(の)んでもなか/\なほらない。これでは旅立(たびだち)の日(ひ)を延(の)ばさなくてはなるまいかと云(い)つて、女房(にようばう)と相談(さうだん)してゐると、そこへ小女(こをんな)が來(き)て、「只今(たゞいま)御門(ごもん)の前(まへ)へ乞食坊主(こじきばうず)がまゐりまして、御主人(ごしゆじん)にお目(め)に掛(か)かりたいと申(まを)しますがいかがいたしませう」と云(い)つた。
「ふん、坊主(ばうず)か」と云(い)つて閭(りよ)は暫(しばら)く考(かんが)へたが、「兎(と)に角(かく)逢(あ)つて見(み)るから、こゝへ通(とほ)せ」と言(い)ひ附(つ)けた。そして女房(にようばう)を奧(おく)へ引(ひ)つ込(こ)ませた。
 元來(ぐわんらい)閭(りよ)は科擧(くわきよ)に應(おう)ずるために、經書(けいしよ)を讀(よ)んで、五言(ごん)の詩(し)を作(つく)ることを習(なら)つたばかりで、佛典(ぶつてん)を讀(よ)んだこともなく、老子(らうし)を研究(けんきう)したこともない。しかし僧侶(そうりよ)や道士(だうし)と云(い)ふものに對(たい)しては、何故(なぜ)と云(い)ふこともなく尊敬(そんけい)の念(ねん)を持(も)つてゐる。自分(じぶん)の會得(ゑとく)せぬものに對(たい)する、盲目(まうもく)の尊敬(そんけい)とでも云(い)はうか。そこで坊主(ばうず)と聞(き)いて逢(あ)はうと云(い)つたのである。
 間(ま)もなく這入(はひ)つて來(き)たのは、一人(にん)の背(せ)の高(たか)い僧(そう)であつた。垢(あか)つき弊(やぶ)れた法衣(ほふえ)を着(き)て、長(なが)く伸(の)びた髮(かみ)を、眉(まゆ)の上(うへ)で切(き)つてゐる。目(め)に被(かぶ)さつてうるさくなるまで打(う)ち遣(や)つて置(お)いたものと見(み)える。手(て)には鐵鉢(てつぱつ)を持(も)つてゐる。
 僧(そう)は默(だま)つて立(た)つてゐるので閭(りよ)が問(と)うて見た。「わたしに逢(あ)ひたいと云(い)はれたさうだが、なんの御用(ごよう)かな。」
 僧(そう)は云(い)つた。「あなたは台州(たいしう)へお出(いで)なさることにおなりなすつたさうでございますね。それに頭痛(づつう)に惱(なや)んでお出(いで)なさると申(まを)すことでございます。わたくしはそれを直(なほ)して進(しん)ぜようと思(おも)つて參(まゐ)りました。」
「いかにも言(い)はれる通(とほり)で、其(その)頭痛(づつう)のために出立(しゆつたつ)の日(ひ)を延(の)ばさうかと思(おも)つてゐますが、どうして直(なほ)してくれられる積(つもり)か。何(なに)か藥方(やくはう)でも御存(ごぞん)じか。」
「いや。四大(だい)の身(み)を惱(なや)ます病(やまひ)は幻(まぼろし)でございます。只(たゞ)清淨(しやうじやう)な水(みづ)が此(この)受糧器(じゆりやうき)に一ぱいあれば宜(よろ)しい。呪(まじなひ)で直(なほ)して進(しん)ぜます。」
「はあ呪(まじなひ)をなさるのか。」かう云(い)つて少(すこ)し考(かんが)へたが「仔細(しさい)あるまい、一つまじなつて下(くだ)さい」と云(い)つた。これは醫道(いだう)の事(こと)などは平生(へいぜい)深(ふか)く考(かんが)へてもをらぬので、どう云(い)ふ治療(ちれう)ならさせる、どう云(い)ふ治療(ちれう)ならさせぬと云(い)ふ定見(ていけん)がないから、只(たゞ)自分(じぶん)の悟性(ごせい)に依頼(いらい)して、其(その)折々(をり/\)に判斷(はんだん)するのであつた。勿論(もちろん)さう云(い)ふ人(ひと)だから、掛(か)かり附(つけ)の醫者(いしや)と云(い)ふのも善(よ)く人選(にんせん)をしたわけではなかつた。素問(そもん)や靈樞(れいすう)でも讀(よ)むやうな醫者(いしや)を搜(さが)して極(き)めてゐたのではなく、近所(きんじよ)に住(す)んでゐて呼(よ)ぶのに面倒(めんだう)のない醫者(いしや)に懸(か)かつてゐたのだから、ろくな藥(くすり)は飮(の)ませて貰(もら)ふことが出來(でき)なかつたのである。今(いま)乞食坊主(こじきばうず)に頼(たの)む氣(き)になつたのは、なんとなくえらさうに見(み)える坊主(ばうず)の態度(たいど)に信(しん)を起(おこ)したのと、水(みず)一ぱいでする呪(まじなひ)なら間違(まちが)つた處(ところ)で危險(きけん)な事(こと)もあるまいと思(おも)つたのとのためである。丁度(ちやうど)東京(とうきやう)で高等官(かうとうくわん)連中(れんちゆう)が紅療治(べにれうぢ)や氣合術(きあひじゆつ)に依頼(いらい)するのと同(おな)じ事(こと)である。
 閭(りよ)は小女(こをんな)を呼(よ)んで、汲立(くみたて)の水(みづ)を鉢(はち)に入(い)れて來(こ)いと命(めい)じた。水(みづ)が來(き)た。僧(そう)はそれを受(う)け取(と)つて、胸(むね)に捧(さゝ)げて、ぢつと閭(りよ)を見詰(みつ)めた。清淨(しやうじやう)な水(みづ)でも好(よ)ければ、不潔(ふけつ)な水(みづ)でも好(い)い、湯(ゆ)でも茶(ちや)でも好(い)いのである。不潔(ふけつ)な水(みづ)でなかつたのは、閭(りよ)がためには勿怪(もつけ)の幸(さいはひ)であつた。暫(しばら)く見詰(みつ)めてゐるうちに、閭(りよ)は覺(おぼ)えず精神(せいしん)を僧(そう)の捧(さゝ)げてゐる水(みづ)に集注(しふちゆう)した。
 此(この)時(とき)僧(そう)は鐵鉢(てつぱつ)の水(みづ)を口(くち)に銜(ふく)んで、突然(とつぜん)ふつと閭(りよ)の頭(あたま)に吹(ふ)き懸(か)けた。
 閭(りよ)はびつくりして、背中(せなか)に冷汗(ひやあせ)が出(で)た。
「お頭痛(づつう)は」と僧(そう)が問(と)うた。
「あ。癒(なほ)りました。」實際(じつさい)閭(りよ)はこれまで頭痛(づつう)がする、頭痛(づつう)がすると氣(き)にしてゐて、どうしても癒(なほ)らせずにゐた頭痛(づつう)を、坊主(ばうず)の水(みづ)に氣(き)を取(と)られて、取(と)り逃(に)がしてしまつたのである。
 僧(そう)は徐(しづ)かに鉢(はち)に殘(のこ)つた水(みづ)を床(ゆか)に傾(かたむ)けた。そして「そんならこれでお暇(いとま)をいたします」と云(い)ふや否(いな)や、くるりと閭(りよ)に背中(せなか)を向(む)けて、戸口(とぐち)の方(はう)へ歩(ある)き出(だ)した。
「まあ、一寸(ちよつと)」と閭(りよ)が呼(よ)び留(と)めた。
 僧(そう)は振(ふ)り返(かへ)つた。「何(なに)か御用(ごよう)で。」
「寸志(すんし)のお禮(れい)がいたしたいのですが。」
「いや。わたくしは群生(ぐんしやう)を福利(ふくり)し、□慢(けうまん)を折伏(しやくぶく)するために、乞食(こつじき)はいたしますが、療治代(れうぢだい)は戴(いたゞ)きませぬ。」
「なる程(ほど)。それでは強(し)ひては申(まを)しますまい。あなたはどちらのお方(かた)か、それを伺(うかゞ)つて置(お)きたいのですが。」
「これまでをつた處(ところ)でございますか。それは天台(てんだい)の國清寺(こくせいじ)で。」
「はあ。天台(てんだい)にをられたのですな。お名(な)は。」
「豐干(ぶかん)と申(まを)します。」
「天台(てんだい)國清寺(こくせいじ)の豐干(ぶかん)と仰(おつ)しやる。」閭(りよ)はしつかりおぼえて置(お)かうと努力(どりよく)するやうに、眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。「わたしもこれから台州(たいしう)へ往(ゆ)くものであつて見(み)れば、殊(こと)さらお懷(なつ)かしい。序(ついで)だから伺(うかゞ)ひたいが、台州(たいしう)には逢(あ)ひに往(い)つて爲(た)めになるやうな、えらい人(ひと)はをられませんかな。」
「さやうでございます。國清寺(こくせいじ)に拾得(じつとく)と申(まを)すものがをります。實(じつ)は普賢(ふげん)でございます。それから寺(てら)の西(にし)の方(はう)に、寒巖(かんがん)と云(い)ふ石窟(せきくつ)があつて、そこに寒山(かんざん)と申(まを)すものがをります。實(じつ)は文殊(もんじゆ)でございます。さやうならお暇(いとま)をいたします。」かう言(い)つてしまつて、ついと出(で)て行(い)つた。
 かう云(い)ふ因縁(いんねん)があるので、閭(りよ)は天台(てんだい)の國清寺(こくせいじ)をさして出懸(でか)けるのである。

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 全體(ぜんたい)世(よ)の中(なか)の人(ひと)の、道(みち)とか宗教(しうけう)とか云(い)ふものに對(たい)する態度(たいど)に三通(みとほ)りある。自分(じぶん)の職業(しよくげふ)に氣(き)を取(と)られて、唯(たゞ)營々役々(えい/\えき/\)と年月(としつき)を送(おく)つてゐる人(ひと)は、道(みち)と云(い)ふものを顧(かへり)みない。これは讀書人(どくしよじん)でも同(おな)じ事(こと)である。勿論(もちろん)書(しよ)を讀(よ)んで深(ふか)く考(かんが)へたら、道(みち)に到達(たうたつ)せずにはゐられまい。しかしさうまで考(かんが)へないでも、日々(ひゞ)の務(つとめ)だけは辨(べん)じて行(ゆ)かれよう。これは全(まつた)く無頓著(むとんちやく)な人(ひと)である。
 次(つぎ)に著意(ちやくい)して道(みち)を求(もと)める人(ひと)がある。專念(せんねん)に道(みち)を求(もと)めて、萬事(ばんじ)を抛(なげう)つこともあれば、日々(ひゞ)の務(つとめ)は怠(おこた)らずに、斷(た)えず道(みち)に志(こゝろざ)してゐることもある。儒學(じゆがく)に入(い)つても、道教(だうけう)に入(い)つても、佛法(ぶつぱふ)に入(い)つても基督教(クリストけう)に入(い)つても同(おな)じ事(こと)である。かう云(い)ふ人(ひと)が深(ふか)く這入(はひ)り込(こ)むと日々(ひゞ)の務(つとめ)が即(すなは)ち道(みち)そのものになつてしまふ。約(つゞ)めて言(い)へばこれは皆(みな)道(みち)を求(もと)める人(ひと)である。
 この無頓著(むとんちやく)な人(ひと)と、道(みち)を求(もと)める人(ひと)との中間(ちゆうかん)に、道(みち)と云(い)ふものゝ存在(そんざい)を客觀的(かくくわんてき)に認(みと)めてゐて、それに對(たい)して全(まつた)く無頓著(むとんちやく)だと云(い)ふわけでもなく、さればと云(い)つて自(みづか)ら進(すゝ)んで道(みち)を求(もと)めるでもなく、自分(じぶん)をば道(みち)に疎遠(そゑん)な人(ひと)だと諦念(あきら)め、別(べつ)に道(みち)に親密(しんみつ)な人(ひと)がゐるやうに思(おも)つて、それを尊敬(そんけい)する人(ひと)がある。尊敬(そんけい)はどの種類(しゆるゐ)の人(ひと)にもあるが、單(たん)に同(おな)じ對象(たいしやう)を尊敬(そんけい)する場合(ばあひ)を顧慮(こりよ)して云(い)つて見(み)ると、道(みち)を求(もと)める人(ひと)なら遲(おく)れてゐるものが進(すゝ)んでゐるものを尊敬(そんけい)することになり、こゝに言(い)ふ中間人物(ちゆうかんじんぶつ)なら、自分(じぶん)のわからぬもの、會得(ゑとく)することの出來(でき)ぬものを尊敬(そんけい)することになる。そこに盲目(まうもく)の尊敬(そんけい)が生(しやう)ずる。盲目(まうもく)の尊敬(そんけい)では、偶(たま/\)それをさし向(む)ける對象(たいしやう)が正鵠(せいこく)を得(え)てゐても、なんにもならぬのである。

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 閭(りよ)は衣服(いふく)を改(あらた)め輿(よ)に乘(の)つて、台州(たいしう)の官舍(くわんしや)を出(で)た。從者(じゆうしや)が數(すう)十人(にん)ある。
 時(とき)は冬(ふゆ)の初(はじめ)で、霜(しも)が少(すこ)し降(ふ)つてゐる。椒江(せうこう)の支流(しりう)で、始豐溪(しほうけい)と云(い)ふ川(かは)の左岸(さがん)を迂囘(うくわい)しつつ北(きた)へ進(すゝ)んで行(ゆ)く。初(はじ)め陰(くも)つてゐた空(そら)がやうやう晴(は)れて、蒼白(あをじろ)い日(ひ)が岸(きし)の紅葉(もみぢ)を照(てら)してゐる。路(みち)で出合(であ)ふ老幼(らうえう)は、皆(みな)輿(よ)を避(さ)けて跪(ひざまづ)く。輿(よ)の中(なか)では閭(りよ)がひどく好(い)い心持(こゝろもち)になつてゐる。牧民(ぼくみん)の職(しよく)にゐて賢者(けんしや)を禮(れい)すると云(い)ふのが、手柄(てがら)のやうに思(おも)はれて、閭(りよ)に滿足(まんぞく)を與(あた)へるのである。
 台州(たいしう)から天台縣(てんだいけん)までは六十里(り)半(はん)程(ほど)である。日本(にほん)の六里(り)半(はん)程(ほど)である。ゆる/\輿(よ)を舁(か)かせて來(き)たので、縣(けん)から役人(やくにん)の迎(むか)へに出(で)たのに逢(あ)つた時(とき)、もう午(ひる)を過(す)ぎてゐた。知縣(ちけん)の官舍(くわんしや)で休(やす)んで、馳走(ちそう)になりつゝ聞(き)いて見(み)ると、こゝから國清寺(こくせいじ)までは、爪先上(つまさきあが)りの道(みち)が又(また)六十里(り)ある。往(ゆ)き著(つ)くまでには夜(よ)に入(い)りさうである。そこで閭(りよ)は知縣(ちけん)の官舍(くわんしや)に泊(とま)ることにした。
 翌朝(よくてう)知縣(ちけん)に送(おく)られて出(で)た。けふもきのふに變(かは)らぬ天氣(てんき)である。一體(たい)天台(てんだい)一萬(まん)八千丈(ぢやう)とは、いつ誰(たれ)が測量(そくりやう)したにしても、所詮(しよせん)高過(たかす)ぎるやうだが、兎(と)に角(かく)虎(とら)のゐる山(やま)である。道(みち)はなか/\きのふのやうには捗(はかど)らない。途中(とちゆう)で午飯(ひるめし)を食(く)つて、日(ひ)が西(にし)に傾(かたむ)き掛(か)かつた頃(ころ)、國清寺(こくせいじ)の三門(もん)に著(つ)いた。智者大師(ちしやだいし)の滅後(めつご)に、隋(ずゐ)の煬帝(やうだい)が立(た)てたと云(い)ふ寺(てら)である。
 寺(てら)でも主簿(しゆぼ)の御參詣(ごさんけい)だと云(い)ふので、おろそかにはしない。道翹(だうげう)と云(い)ふ僧(そう)が出迎(でむか)へて、閭(りよ)を客間(きやくま)に案内(あんない)した。さて茶菓(ちやくわ)の饗應(きやうおう)が濟(す)むと、閭(りよ)が問(と)うた。「當寺(たうじ)に豐干(ぶかん)と云(い)ふ僧(そう)がをられましたか。」
 道翹(だうげう)が答(こた)へた。「豐干(ぶかん)と仰(おつし)やいますか。それは先頃(さきころ)まで、本堂(ほんだう)の背後(うしろ)の僧院(そうゐん)にをられましたが、行脚(あんぎや)に出(で)られた切(きり)、歸(かへ)られませぬ。」
「當寺(たうじ)ではどう云(い)ふ事(こと)をしてをられましたか。」
「さやうでございます。僧共(そうども)の食(た)べる米(こめ)を舂(つ)いてをられました。」
「はあ。そして何(なに)か外(ほか)の僧達(そうたち)と變(かは)つたことはなかつたのですか。」
「いえ。それがございましたので、初(はじ)め只(たゞ)骨惜(ほねをし)みをしない、親切(しんせつ)な同宿(どうしゆく)だと存(ぞん)じてゐました豐干(ぶかん)さんを、わたくし共(ども)が大切(たいせつ)にいたすやうになりました。すると或(あ)る日(ひ)ふいと出(で)て行(い)つてしまはれました。」
「それはどう云(い)ふ事(こと)があつたのですか。」
「全(まつた)く不思議(ふしぎ)な事(こと)でございました。或(あ)る日(ひ)山(やま)から虎(とら)に騎(の)つて歸(かへ)つて參(まゐ)られたのでございます。そして其(その)儘(まゝ)廊下(らうか)へ這入(はひ)つて、虎(とら)の背(せ)で詩(し)を吟(ぎん)じて歩(ある)かれました。一體(たい)詩(し)を吟(ぎん)ずることの好(すき)な人(ひと)で、裏(うら)の僧院(そうゐん)でも、夜(よる)になると詩(し)を吟(ぎん)ぜられました。」
「はあ。活(い)きた阿羅漢(あらかん)ですな。其(その)僧院(そうゐん)の址(あと)はどうなつてゐますか。」
「只今(たゞいま)も明家(あきや)になつてをりますが、折々(おり/\)夜(よる)になると、虎(とら)が參(まゐ)つて吼(ほ)えてをります。」
「そんなら御苦勞(ごくらう)ながら、そこへ御案内(ごあんない)を願(ねが)ひませう。」かう云(い)つて、閭(りよ)は座(ざ)を起(た)つた。
 道翹(だうげう)は蛛(くも)の網(い)を拂(はら)ひつゝ先(さき)に立(た)つて、閭(りよ)を豐干(ぶかん)のゐた明家(あきや)に連(つ)れて行(い)つた。日(ひ)がもう暮(く)れ掛(か)かつたので、薄暗(うすくら)い屋内(をくない)を見□(みまは)すに、がらんとして何(なに)一つ無(な)い。道翹(だうげう)は身(み)を屈(かゞ)めて石疊(いしだゝみ)の上(うへ)の虎(とら)の足跡(あしあと)を指(ゆび)さした。偶(たま/\)山風(やまかぜ)が窓(まど)の外(そと)を吹(ふ)いて通(とほ)つて、堆(うづたか)い庭(には)の落葉(おちば)を捲(ま)き上(あ)げた。其(その)音(おと)が寂寞(せきばく)を破(やぶ)つてざわ/\と鳴(な)ると、閭(りよ)は髮(かみ)の毛(け)の根(ね)を締(し)め附(つ)けられるやうに感(かん)じて、全身(ぜんしん)の肌(はだ)に粟(あは)を生(しやう)じた。
 閭(りよ)は忙(せは)しげに明家(あきや)を出(で)た。そして跡(あと)から附(つ)いて來(く)る道翹(だうげう)に言(い)つた。「拾得(じつとく)と云(い)ふ僧(そう)は、まだ當寺(たうじ)にをられますか。」
 道翹(だうげう)は不審(ふしん)らしく閭(りよ)の顏(かほ)を見(み)た。「好(よ)く御存(ごぞん)じでございます。先刻(せんこく)あちらの厨(くりや)で、寒山(かんざん)と申(まを)すものと火(ひ)に當(あた)つてをりましたから、御用(ごよう)がおありなさるなら、呼(よ)び寄(よ)せませうか。」
「はゝあ。寒山(かんざん)も來(き)てをられますか。それは願(ねが)つても無(な)い事(こと)です。どうぞ御苦勞(ごくらう)序(ついで)に厨(くりや)に御案内(ごあんない)を願(ねが)ひませう。」
「承知(しようち)いたしました」と云(い)つて、道翹(だうげう)は本堂(ほんだう)に附(つ)いて西(にし)へ歩(ある)いて行(ゆ)く。
 閭(りよ)が背後(うしろ)から問(と)うた。「拾得(じつとく)さんはいつ頃(ごろ)から當寺(たうじ)にをられますか。」
「もう餘程(よほど)久(ひさ)しい事(こと)でございます。あれは豐干(ぶかん)さんが松林(まつばやし)の中(なか)から拾(ひろ)つて歸(かへ)られた捨子(すてご)でございます。」
「はあ。そして當寺(たうじ)では何(なに)をしてをられますか。」
「拾(ひろ)はれて參(まゐ)つてから三年(ねん)程(ほど)立(た)ちました時(とき)、食堂(しよくだう)で上座(じやうざ)の像(ざう)に香(かう)を上(あ)げたり、燈明(とうみやう)を上(あ)げたり、其(その)外(ほか)供(そな)へものをさせたりいたしましたさうでございます。そのうち或(あ)る日(ひ)上座(じやうざ)の像(ざう)に食事(しよくじ)を供(そな)へて置(お)いて、自分(じぶん)が向(む)き合(あ)つて一しよに食(た)べてゐるのを見付(みつ)けられましたさうでございます。賓頭盧尊者(びんづるそんじや)の像(ざう)がどれだけ尊(たつと)いものか存(ぞん)ぜずにいたしたことゝ見(み)えます。唯今(たゞいま)では厨(くりや)で僧共(そうども)の食器(しよくき)を洗(あら)はせてをります。」
「はあ」と言(い)つて、閭(りよ)は二足(ふたあし)三足(みあし)歩(ある)いてから問(と)うた。「それから唯今(たゞいま)寒山(かんざん)と仰(おつ)しやつたが、それはどう云(い)ふ方(かた)ですか。」
「寒山(かんざん)でございますか。これは當寺(たうじ)から西(にし)の方(はう)の寒巖(かんがん)と申(まを)す石窟(せきくつ)に住(す)んでをりますものでございます。拾得(じつとく)が食器(しよくき)を滌(あら)ひます時(とき)、殘(のこ)つてゐる飯(めし)や菜(さい)を竹(たけ)の筒(つゝ)に入(い)れて取(と)つて置(お)きますと、寒山(かんざん)はそれを貰(もら)ひに參(まゐ)るのでございます。」
「なる程(ほど)」と云(い)つて、閭(りよ)は附(つ)いて行(ゆ)く。心(こゝろ)の中(うち)では、そんな事(こと)をしてゐる寒山(かんざん)、拾得(じつとく)が文殊(もんじゆ)、普賢(ふげん)なら、虎(とら)に騎(の)つた豐干(ぶかん)はなんだらうなどと、田舍者(いなかもの)が芝居(しばゐ)を見(み)て、どの役(やく)がどの俳優(はいいう)かと思(おも)ひ惑(まど)ふ時(とき)のやうな氣分(きぶん)になつてゐるのである。

         ――――――――――――――――――――――――

「甚(はなは)だむさくるしい所(ところ)で」と云(い)ひつゝ、道翹(だうげう)は閭(りよ)を厨(くりや)の中(うち)に連(つ)れ込(こ)んだ。
 こゝは湯気(ゆげ)が一ぱい籠(こ)もつてゐて、遽(にはか)に這入(はひ)つて見(み)ると、しかと物(もの)を見定(みさだ)めることも出來(でき)ぬ位(くらゐ)である。その灰色(はひいろ)の中(なか)に大(おほ)きい竈(かまど)が三つあつて、どれにも殘(のこ)つた薪(まき)が眞赤(まつか)に燃(も)えてゐる。暫(しばら)く立(た)ち止(と)まつて見(み)てゐるうちに、石(いし)の壁(かべ)に沿(そ)うて造(つく)り附(つ)けてある卓(つくゑ)の上(うへ)で大勢(おほぜい)の僧(そう)が飯(めし)や菜(さい)や汁(しる)を鍋釜(なべかま)から移(うつ)してゐるのが見(み)えて來(き)た。
 この時(とき)道翹(だうげう)が奧(おく)の方(はう)へ向(む)いて、「おい、拾得(じつとく)」と呼(よ)び掛(か)けた。
 閭(りよ)が其(その)視線(しせん)を辿(たど)つて、入口(いりくち)から一番(ばん)遠(とほ)い竈(かまど)の前(まへ)を見(み)ると、そこに二人(ふたり)の僧(そう)の蹲(うづくま)つて火(ひ)に當(あた)つてゐるのが見(み)えた。
 一人(ひとり)は髮(かみ)の二三寸(ずん)伸(の)びた頭(あたま)を剥(む)き出(だ)して、足(あし)には草履(ざうり)を穿(は)いてゐる。今(いま)一人(ひとり)は木(き)の皮(かは)で編(あ)んだ帽(ばう)を被(かぶ)つて、足(あし)には木履(ぽくり)を穿(は)いてゐる。どちらも痩(や)せて身(み)すぼらしい小男(こをとこ)で、豐干(ぶかん)のやうな大男(おほをとこ)ではない。
 道翹(だうげう)が呼(よ)び掛(か)けた時(とき)、頭(あたま)を剥(む)き出(だ)した方(はう)は振(ふ)り向(む)ひてにやりと笑(わら)つたが、返事(へんじ)はしなかつた。これが拾得(じつとく)だと見(み)える。帽(ばう)を被(かぶ)つた方(はう)は身動(みうご)きもしない。これが寒山(かんざん)なのであらう。
 閭(りよ)はかう見當(けんたう)を附(つ)けて二人(ふたり)の傍(そば)へ進(すゝ)み寄(よ)つた。そして袖(そで)を掻(か)き合(あは)せて恭(うや/\)しく禮(れい)をして、「朝儀大夫(てうぎたいふ)、使持節(しぢせつ)、台州(たいしう)の主簿(しゆぼ)、上柱國(じやうちゆうこく)、賜緋魚袋(しひぎよたい)、閭丘胤(りよきういん)と申(まを)すものでございます」と名告(なの)つた。
 二人(ふたり)は同時(どうじ)に閭(りよ)を一目(ひとめ)見(み)た。それから二人(ふたり)で顏(かほ)を見合(みあは)せて腹(はら)の底(そこ)から籠(こ)み上(あ)げて來(く)るやうな笑聲(わらひごゑ)を出(だ)したかと思(おも)ふと、一しよに立(た)ち上(あ)がつて、厨(くりや)を驅(か)け出(だ)して逃(に)げた。逃(に)げしなに寒山(かんざん)が「豐干(ぶかん)がしやべつたな」と云(い)つたのが聞(きこ)えた。
 驚(おどろ)いて跡(あと)を見送(みおく)つてゐる閭(りよ)が周圍(しうゐ)には、飯(めし)や菜(さい)や汁(しる)を盛(も)つてゐた僧(そう)等(ら)が、ぞろ/\と來(き)てたかつた。道翹(だうげう)は眞蒼(まつさを)な顏(かほ)をして立(た)ち竦(すく)んでゐた。




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